音楽・女性・ジェンダー ―─クラシック音楽界は超男性世界!?
第28回
オーストリア国歌の歌詞改定をめぐって
69も馬齢を重ねてしまった私にとっても、疑いなく、
世界史上最悪の天災と人災に見舞われたと実感するこの2011年…とりわけいまだ行方不明の方が3500人近くもいらっしゃること、
そして今やあらゆる食物に汚染が広がっているという恐るべき事実を前にしながら、惰性で相変わらずの暮らしを続けているわが身を恥じるほかない。
一体新しい年をどう迎えたらよいのか、うろたえるばかりだ…
反・脱原発を機軸に、基地、平和、環境、人権、人種・女性差別などをテーマとするさまざまな集会やデモにはできるだけ参加してきた。
だが、しかしそれが 「変革」 につながるほどの大きなうねりになり得ないこの国の限界を毎回のように思い知らされ、本当に落ち込んでしまう。
同席した志を同じくする彼女・彼らが、それぞれ涙ぐましいまでに日夜奮闘している姿を見届けているだけになおのこと、
「原発なくちゃ困るジャン…」 式のノリで全く反応せず、傍観している人々の圧倒的多数には、正直打ちのめされる。
私の手帳は、来年も特に 3・11前後まで、その種のスケジュールで一杯にしてあるのだが…
とはいえ、音楽関係者として自分がすべきこと、否むしろ最低限できることは? と問い直した結果、やはり女性の音楽家・作曲家の実力と実績を世に広め、
それにより既得権益にしがみつくこの国の支配構造を、いくばくかでも切り崩すことなのだ…そう自らに言い聞かせ納得させて、授業に臨み、
また女性作曲家をフィーチャーしたコンサートも準備中である。だがとりあえず今回は、ジェンダースタディーズのMLを介して入手した、
まことに興味深い 「うた」 にかかわるニュースについて、書かせていただきたい。
その 「うた」 とは、オーストリア国歌のこと。まずはMLの記事全文をご紹介しよう:
【ウィーン共同】 国歌歌詞も男女同権に―。オーストリア国民議会(下院)は7日、
「偉大な息子たちの故郷」 との一節がある同国国歌に 「娘たち」 を加える改正に正式合意した。
来年一月一日から 「偉大な娘たち、息子たちの故郷」 との新たな歌詞が歌われる。地元メディアが伝えた。
同国ではこれまで複数の女性担当相が 「女性も等しく讃えられるべきだ」 と改正を求めており、
連立与党を組む中道左派の社会民主党と保守の国民党が賛成した。
一方、極右の自由党の女性議員は7日、「非文化的な行為だ」 と改正反対を主張。
他の極右政党の議員も 「われわれは国歌を歌いたいように歌う」 と反発した。
数時間後、宅配の夕刊にも全く同じ記事が…ただしMLでは触れていない、とても重要な以下の一文を付け加えて締めくくっている:
現在の国歌は女性作家が作詞し、第二次大戦後に制定された。昨年には女性歌手が政府の教育改革キャンペーンの一環で 「偉大な娘たち、
息子たち」 との替え歌を歌って話題となり、議論が活発化した。
この記事を掲載した我が家の購読紙は東京新聞(201年12月8日、第2面)。他の大手全国紙はどう扱ったのか、
どうにも気になって近くの区立図書館でざっと点検してみたところ、どうやらみな黙過した模様…ただ、
「週間金曜日」 no.876(2011/ 12/16)の 「ジェンダー情報」 欄が簡略化した形ながら、しっかり伝えていたのは、さすが!
私がこの件にかくまで拘るわけは、ほかでもない、オーストリアという国と、その首都ウィーンが、クラシック音楽の権威の牙城であり、
とりわけ日本人が崇拝してやまない対象だからである。
何しろこの歌を作曲したのがかのモーツァルト。自らも一員だった秘密結社フリーメースンのためのカンタータとして書いたものだが、
しかし現在は、結社の盟友だったヨハン=バプティスト・ホルツァーが作曲者であるとするのが定説のようだ。
このニュースでもう一つ、ショックだったのは、改訂に反対した女性議員がいたということだが、
その女性が極右政党に属しているからには当然か…だからそれよりも驚かされたのは、
問題の歌詞の作者がパウラ・フォン・プレラドヴィッチという女性だったことだ。
1946年の公募で多くの詩人が提出したなかから選ばれたのだが、彼女が一体どのようなわけで 「息子たち」 だけを称揚し、
「娘たち」 は排除したのか…本音をぜひ聞き出してみたかった!
音楽にまつわる問題として、しかしはるかに重要なのは、1797年に制定された最初の国歌が、
“パパ・ハイドン” とも綽名されるハイドンの作曲した 「皇帝賛歌」 だったことである。
第一次大戦後の共和国成立に伴い、一時別の曲に差し替えられたものの、そのゆったりと格調高い旋律の人気は根強く、程なく別の歌詞とともに復活。
ところが同じハイドンのこの曲を1922年来ドイツも国歌として採用、とりわけヒトラー時代以降はナチ党歌とつなげて歌われたため、
1938年のナチス・ドイツによる併合を経た第二次大戦後、オーストリアはナチのイメージを払拭すべくハイドンのこの歌を諦め、
完全に新しい歌詞と旋律に切り替えたのだった。
一方、ドイツ国歌はいまなお件のハイドンの旋律がそのまま使われていることは、
ご存知のとおり(以上、概略は21世紀研究会編 『国旗・国歌の世界地図』 2008年、文芸春秋社による)。
ハイドン、モーツァルトとくれば、次に自然に思い浮かべるのはベートーヴェンの名前だろう。
なにしろこの3人はウィーン古典派という音楽史上最強? のトリオだからだ。
そのベートーヴェンの最大の人気曲である 『第九』 ―いまやこの国の年末ともなれば数知れぬ合唱団が絶叫する?
あの 「歓喜の歌」 も、実は国歌ときわめて関連が深い。2003年にヨーロッパ連合〔EU〕の国歌と正式に定められたのを筆頭に、遡る1964年、
東京オリンピックに際しては当時なお分裂状態にあった東西ドイツの合同選手団の “国歌” となり、それを下敷きに? 1989年、
“ベルリンの壁” 崩壊を記念する式典でも大編成のオーケストラ伴奏で歌われているのだから。
ところで今回、オーストリアとドイツ両国の現在の国歌、そして 『第九』 の歌詞をよくよく見直し、面白い共通点があることに初めて気が付いた。
いずれも国および国民全体を対象に語りかけているはずの言葉が、父とか息子とか兄弟とか、みな男性によって表されているのだ。
該当箇所のみ、引用してみる。
オーストリアの場合は、冒頭に記したように第1節の 「汝〔オーストリアのこと〕 は偉大なる息子たち 〔 Söhne〕 の故郷」。
第3節では 「心ひとつに声をそろえて 〔Brüderchören〕」 とも歌われる。
ドイツのそれは 「統一と正義と自由を祖国ドイツ 〔 Vaterland〕 に!」。これに 「友よ、求めて進まん/心あわせ手を結び!
Danach lasst uns alle streben/Brüderlich mit Herz und Hand!」 が続く。
『第九』 では終わり近くに 「兄弟たち 〔 Brüder〕」 よ、星空の上には愛する父 〔Vater〕 が住んでいるに違いない」 とあり、
その前にも 「兄弟たちよ、君たちの道を進め」 と励ます。ついでながら、作詞者シラーは、女性を一箇所のみ登場させている。
「やさしい女 〔ein holdes Weib〕 を得た者は/こぞって歓声に唱和するがよい」 というわけだが、
これはまさに、男性が所有する対象としての女性を讃えているだけではないか…?
以上みてきたように、人間を男女のジェンダー別で明示するのは、両性を一遍に示すのは面倒、だから男性形で代表させよう、
というドイツ=ゲルマン語圏の事情ゆえかもしれない。だが男女別の言葉を使うのはラテン語圏も同じ。
代表例としてフランスの国歌を取上げてみよう。あの有名な 「ラ・マルセイエーズ」 は1795年、
フランス革命直後に制定されたまま国歌として今なお保持されており、その余りにも血なまぐさい歌詞には、無関係の他国の人が聞いても辟易してしまう。
ここでも、「銃を取って進め!」 とリフレインで繰り返し励まされ語りかけられる市民は 「citoyens」 であって、
女性を示す 「citoyennes」 はついに一度も出てこない。
けれども冒頭、「立ち上がれ、祖国 〔la patrie〕 の子供たちよ」 とあるように、フランス語の 「祖国」 は女性形である。
国を体現するのは男か女か…ジェンダー問題の根幹とされる言葉のもつ重大さを、改めて考えさせる具体的なポイントであろう。
さてこのフランス国歌をあらためようという動きがまるでなかったわけではない。
私が唯一知りえた該当例に、昨年コンサートで取上げ、本連載でもたびたび話題にしたポリーヌ・ヴィアルド作曲の 『新しい共和国
La jeune république』 がある。
テノール独唱に女声3部(4部に分かれる部分あり)合唱が重なるこの作品は、1848年に書かれ、4月6日、
現在はコメディ・フランセーズとして有名な当時の共和国劇場で初演された。作曲の動機は、同年2月に勃発したいわゆる 「2月革命」、
つまり新しい共和国の誕生を祝うために、当時の共和主義陣営をリードしたジョルジュ・サンドから強い要請を受けたこと。
作詞は労働者詩人として人気を集めていたピエール・デュポン。
このように、作詞者は男性ながら、あのフランス革命の人権宣言が不当にも無視/排除した 「女性」 を讃えるために第3節を宛て、
以下のように作られている。さらには 「共和国」 をはっきり 「母」 と言い換えているあたりも、オーストリア国歌とは鮮やかな対比をなす:
貶められた哀れな娘たち/氷に閉じ込められた薔薇さながら/共和国はあなたたちを救い出す/おお、踏みつけられていたすべての者たちよ
/息子たちは羨ましかろう/おお、共和国、われらが母よ/私達に与えられるごとく/その輝きを国民みなに与えられよ
同志サンドの意向も踏まえてのことであろうが、この詞には初期フランス・フェミニズムの具体的結晶が見て取れよう。
しかもこの合唱曲、「空想的」 として歴史研究からは傍流に追いやられているサン・シモン派の社会主義者たちが、初演の翌日、
4月9日に布告した、新しい国歌すなわち 『第二のマルセイエーズ』 を制定するコンクールへの応募作品ともなったという。
結果は33人が受章したブロンズ賞のひとりで、文句なく傑出した3人には選ばれなかった。
ただし応募数は800を超えたというから、新しい国歌を求める熱気の高まりがいかほどであったか、
うかがわれよう(概略はThérêse Marix=Spire:Lettres inédites de George Sand et de Pauline Viardot 1839-1849による)。
いずれにせよ、全90小節の簡潔な造り、男女双方を讃えた歌詞の内容…もちろん録音源はないけれど、演奏時間は3分ほどのこの曲は、
21世紀の国歌としてどんな国にもふさわしいのでは、と考えるのだが、いかがであろう…?
本稿始めに記した目下準備中のコンサートとは、実はこのあたりも踏まえて構成した 『ポリーヌ・ヴィアルドと “うた”』
(2012年3月24日15時開演、津田ホール)である。詳しい内容について、次回紹介させて頂くことを御了解ください。
|