2012.4.11

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第30回
コンサート 「ポリーヌ・ヴィアルドと “うた”」 を終えて

  先回の連載担当の谷戸から予告のあった上記コンサートが無事終了した。 今回は企画・構成に当たった私から、アンケート回答を中心に、事後に考えさせられた事柄を縷々記させて頂くこととしよう。

  何はさておき、3月24日当日、午前中の陰気な雨模様が午後には解消、企画責任者として何より心配した地震も起きることなく、 490席の客席がほぼ埋まったなかで、無事終了できたことを、まずは記したい。 天変地異はもちろん、どのような人災・事故の類が起きるやも知れないこのご時世、「予定通り」 がどれほど実現困難な、大変な事柄であるか、 準備を進めながら痛いほど感じていたからである。
  まずはプログラムの概要を再掲する。3部構成の最初と最後が “うた” で、フランス語を中心とした独唱曲10 (イタリア語とドイツ語も1曲ずつ。 ピアノにチェロとヴァイオリンの助奏が伴奏に加わる歌曲2つも含む)と二重唱3つ。 この 「うた」 の部では、最も重要な音楽仲間であったショパンのマズルカの編曲も3つ組み入れた。 中間の第二部は器楽編。ヴァイオリンの小品と息子ポールのチェロ・ソナタ、そしてピアノ連弾で締めくくる。 ヴィアルド一族に縁の深いフォーレ 「夢の後に」 (ヴァイオリン版)、サン=サーンス 「白鳥」、グノー 「お昼寝」(スペイン語の二重唱曲)なども挿入、 ポリーヌを取り巻く著名な音楽人脈を浮き彫りにできたかと思う。

  アンケート回答に加え、事後にファクスやメールも多数頂いた。うち否定的・批判的な内容は以下の二点。
  一つは 「プログラムの曲目解説を演奏順にして欲しかった」。これについてはまったく弁解の余地はなく、こちらのミス。 紙面の節約を考え、曲種順に配列してしまったので、ご不便をおかけしたに違いなく、心よりお詫びしたい。

  もう一つは 「レクチャー冊子を充実して欲しい。知られざる作品であればこそ」 と言うご意見。 当日無料配布した冊子は、表紙の裏に企画の趣旨と演奏曲一覧、続いてポリーヌの家系図と交流関係を示した図版と詳しい年賦、主要作品表、 作曲者としてポリーヌと息子ポールの略伝、演奏曲の解説、その演奏曲の日本における演奏暦リスト、全13曲の歌詞対訳、主要参考文献、 主要ディスコグラフィ、演奏者プロフィル、 そして裏表紙には主催者 「知られざる作品を広める会」 の設立趣旨とこれまでの演奏会記録を収めた全16ページから成るもの。 加えて当日のアンコール曲目 『どこへ行くの、あの綺麗な娘さんたち3人は?』(女性三重唱の原曲をピアノの山田武彦さんが二重唱とヴァイオリン、 チェロ、ピアノ連弾の伴奏、つまり出演者全員が登場できるように編曲)の歌詞対訳と説明を、演奏暦リストの修正版コピーの裏面を活用して掲げ、 挟み込んでおいた。このアンコールが一番楽しかったという回答も複数あったから、 普通は記録されないアンコールを何とか文字で残したいと考えた苦肉の策は、二重の意味で有効だったと思う。

  当事者としては、使用楽譜情報を載せなかった一点に悔いは残ったものの、「知られざる・・・」 が主催するコンサートの常として、 他では見られないほど情報盛り沢山のプログラム冊子であると自負していたので、上記のご批判には、正直、面食らった。 事実、当日は他用と重なり参加できないが、プログラムは有料で分けて欲しい、 と事前に申し出てくださった方もいたほどなのだが…

  もちろん、事後2週間を経て、不備な点、反省すべき内容も多々思い浮かぶ。 特に、参考資料にも記したポリーヌの最新作品カタログ電子版(2010)を充分に咀嚼しないまま、作品解説を仕上げてしまったことは、 研究者として誠に不甲斐なく、反省しきりである。だが、このポリーヌ・ヴィアルドについては、今回のコンサート実施を介して得たさまざまな情報、 彼女の作曲家/音楽家としての在りよう、そしてなにより当時の社会的コンテクストの拡がりをカヴァーしつつ、 一書にまとめあげる必要性を改めて強く感じたので、そこでできる限り論を尽してみたい…ポリーヌ・ヴィアルドとは、そこまで思わせるほど、 途轍もない巨きな存在であったのだ。


ジョルジュ・サンドの息子でポリーヌを一時恋い慕ったとされる
モーリスが描いたポリーヌ23歳の肖像


ポリーヌ自身によるクールタヴネルのヴィアルド家山荘のデッサン。
この館でツルゲーネフやグノー、そしてベルリオーズなどとの深い交流が織り成された

  続いて肯定的内容の回答から、まずはNPJの皆様にはお馴染みの永田浩三さんの “極私的” ブログ 「隙だらけ・好きだらけ日記=小林緑さん渾身の企画」 をご参照いただければありがたいが、以下、個人的に存じ上げている方がたのそれも含め、 とりわけ興味深い文言をいくつかご紹介させていただこう。

  「6人の出演者が皆、見事な表現力…この深々と優しいコンサートからいのちの力を頂き、走り回れる喜寿を幸せに思う」= 主催者 「知られざる作品を広める会」 常連の女性から。

  「会場に座りながら、心身の開放されてゆくのを感じた…ポリーヌは音楽史の上でも、女性史の上でも、人間史の上でも、特筆すべき女性の一人、 といっても良いのでは?」=フランスに留学後、詩的・自伝的短編を出版された女性から。

  「すべての魅力が存分に引き出されたプログラム。フォーレとサン=サーンスが入ったのもよかった」= 基本的人権でありながら等閑視されている “居住権” を提唱、ホームレス問題と研究を両立されている大学教授から。

  「たった6人の “人” と3つの楽器だけで、豊かな音の充満した空間と場が創られることに感嘆と驚きを覚えた。 それこそが音楽?」=フランスの人権思想に詳しい女性史研究者から。

  「女性の音楽家がいかに歴史的に不当な扱いを受けてきたかが良くわかった。 映画にしたらどれほど魅力的なドラマが繰り広げられることか!」=音楽研究から転身、今は主に女性誌で活躍する女性記者から。

  「ポリーヌの魂が出演者の頭上に飛翔している様子が、はっきり見えた」=活発な創作を続けられている作曲家の女性から。

  「作品が受容されていく理由として、これを何とか伝えたい、という強い意思のある人間の働きも重要と認識できた…ポリーヌの没後100年以上を経て、 日本でこのような演奏を聴けるという事実に感動した」=同じく中堅の女性作曲家から。

  「口数の少ない息子が本心で呟いたらしい “とても良い内容のコンサートだった” との一言…誘ってよかったと思う」 =日仏女性史の比較・研究に関心をお持ちの女性から。

  「大仰でもない、威圧的でもない、ふくよかで豊かな響きの音楽…価値観の転換が、殊に3・11以後求められていると思うが、 クラシックの世界にも時代と人々の必要に応える動きがあることに、とても勇気つけられる」= ジェンダーや女性を主題にパフォーマンスと企画・編集をこなす女性から。

  さらに、全く面識のない方々からの回答をいくつか;
  「シャンソンとも歌曲とも違う… “フランス歌謡” というべきか?」
  「3・11後の、日本の恥ずかしい状況の中で、このコンサートは救いだった」
  「世間の商業主義をものともしないコンサートに居合わせることは、稀なる幸せ」
  「3時間が全く長く感じられなかった」 「全曲の再演を熱望する」 「全部のライヴCDが欲しい」 「企画が長続きするよう、 チケット代 〔3000円〕 を5000円に値上げすることを提案したい」 など…。 〔蛇足ながら、収支は大赤字。だが3・11に関してもまとまった支援など何もしてこなかった埋め合わせ? として、自腹で賄ったことを付け加えておきたい。〕

  以上、臆面もなく、手前味噌をよくもここまでご披露できたもの…我ながら呆れてしまうが、 取り上げる曲が大部分日本初演・世界初演という珍しい女性作曲家のコンサートであることに免じて、ご容赦願いたい。 しかし、奇妙なことに上に紹介させて頂いたコメントには、私と同業の音楽研究者や評論家、音大教員からのものはひとつもない。 そもそも 「女性作曲家を聴く」 各種コンサートを実施して10年以上の経験から、そうした音楽同業者の反応が一番鈍いことを察知していたので、 今回もほとんどお誘いしなかったという事情もある。「なんでこれほど冷淡なの?」 「どうしてこの意義をわかってくれないんだろう?」…けれどもいまや、 私の中でははっきり見えてきた。音楽大学、音楽事務所/マネージャー、音楽評論、音楽雑誌、放送関係、楽譜出版など、いわゆる業界人にとって、 未知の、自分たちの領界にない事柄に手出しされることは、困惑のたねであり迷惑でしかない…それは営々と築いてきた正典たる? 作品群による自らの牙城を脅かし、実績を否定されることでもあるからだ。

  裏返してみると、今回、津田ホールの座席を埋めてくださったのは、そうした音楽業界とは無縁の、いわば素人の方々、 あるいは純粋な愛好家がほとんどだったのでは、と思われる。 実は私自身、女性・平和・環境・人権といったグループのイヴェントや会合に参加するたびにチラシとチケットを持参、 興味を持ってくれそうな相手にはすかさずPR、かなりの枚数をいわゆる 「手売り」 で買っていただいた。 「ええっ、そういうことって全然知らなかった!…おもしろそう」 「ほんとに目からウロコとはこのことよ」 「美術だっていっつも決まりきった画家のことしか展覧会に出てこないけど…」 「どうもおかしいと思ってた、 音楽にどうして女が見えないのか」…まことに率直で実感のこもったこうした反応は、音楽学者や音楽大学の教員・学生からはまず聞かれない。 なんとも残念だが、音大の先生にしてみれば、自分が知らない、弾いたこともない曲を教えられはずもないし、楽譜の手持ちもなく、入手も難しいとなれば、 「女性の曲なんて、つまらないから知られてこなかったのよ、そんなの勉強する意味ないでしょ」 で片付けてしまいたいのだろう。

  となると、女性作曲家を認めたがらないこの音楽業界と、脱原発に転換できない今の世の動きとは、同じ愚を犯しているとはいえまいか…? つまり:19世紀ヨーロッパで大活躍、名だたる評価を得た女性作曲家が多数実在した= 原発などなくても19世紀以前から江戸やパリでは素晴らしい文化が生み出されていた⇒ だが近代化つまり男性中心の音楽業界の成立とともにそうした女性が否定され、 無視されてしまった=電力やエネルギーに頼る産業化・大量消費社会が自給自足に根ざす手仕事や一次産業を衰退させてしまった⇒ 現在の男性作曲家崇拝一辺倒の音楽状況を古来の普遍的真実と信じ込み、 音楽史の見直しなど考えもしない=原発などの新しい巨大テクノロジーを自明の前提として確保しなければ、 人間らしい快適な生活を送ることができないと思い込む…既成概念を刷り込まれ、既得権益から離れられないという構図は、 両者にぴったり符合するように見えてならないのだが…。

  救いは現代日本を代表する演奏家の姿を何人もコンサート当日にお見受けしたこと。 そして、今回の選りすぐりの出演者たちが頼もしい感想を届けてくれたこと。いわく 「これからヴィアルドのことを弟子たちに広めて行こうと思う」 「フランス音楽演奏史に刻まれた企画に参加できて誇らしい」…そう、例の頑なな業界人たちも、このコンサートの現場に居合わせ、 実際の音楽を聴きさえすれば、きっとクラシックの新たな視界を広げることができたであろうに…本当に残念でした、 と再度申しあげ、とりあえず今回の結びとしたい。