音楽・女性・ジェンダー ―─クラシック音楽界は超男性世界!?
第31回
見えない半分/聴けない半分
いきなり妙なタイトルで、驚かれる方も多いのでは…
今に限ったことではないが、色々な場面で人類の半分を占める女性の実績が無視され、忘れ去られる要因に遭遇することがある。
3月24日のポリーヌ・ヴィアルドのコンサートを無事終え、いくらか燃え尽き症候群に襲われた?感も手伝って、音楽関係の活動にはほとんど携わらないまま、
代わりに女性・ジェンダー問題を対象とする仲間たちのさまざまなイヴェントにせっせと参加していた。
福島の被災地を訪れるという念願を果せたのもこうした事情によるが、そこではじめて知った一つのモニュメント…「智恵子記念館」 が、
上記タイトルのような問題設定を思い浮かばせてくれたのである。
福島行きが実現したのは、大学の同級生が立ち上げたアジアの女性・子供の支援を目的とするヴォランティア・グループに引率されてのこと。
近隣の家庭から衣料や雑貨、食器の無料提供を受け、ごく安価で販売して得た売り上げをアジア各地域に送金する活動を続けているその小さな団体に、
私もメンバーの一員に加えていただき、月1、2回のペースで売り子〈売り婆?〉としてお手伝いしている。
件の同級生はピアノも巧みで、地元の合唱団の伴奏なども積極的にこなす傍ら、こうした社会奉仕もごく自然にやり遂げてしまう力量の持ち主。
その代表が初めて福島行きの企画を提言してくれたので、一も二もなく 「行きまーす!」 と名乗り出た次第だ。
現地で何ができるかは全く不明ながら、お金を落とすだけならできるじゃん、とばかり割り切って出発した総勢6人の高齢女性グループ。
岳温泉でゆったり一泊、お土産もしっかり買い込み、しかし、花見山被災者コミュニティでの支援物資の仕分け、
浪江町仮設住宅に設けられたケア・センターでの合唱指導、同町借り上げ住宅住まいの居住者訪問など、
最低限に抑えた当初のプログラムはなんとか終えることができた。
そして帰路の時間にやや余裕が出たために、
現地支援グループの方から教えて頂いた二本松の 「智恵子の生家」 と隣接する 「智恵子記念館」 も観て仕舞おう! となったのである。
高村智恵子
高村智恵子(旧姓長沼 1886-1938)…正直言って私には 「智恵子抄」 のごく断片と、原節子の主演映画ぐらいしか、
この女性に関する記憶がなかったし、関心もほとんどなかった。この訪問にもどちらかといえば気乗り薄で、たいした期待もなく、あくまでお付き合い、
というつもりだったのが…いわば初めて女性作曲家という問題の所在に行き着いた際に襲われたのと並ぶほど、それは衝撃的な経験となった。
智恵子の創作の見事さは言うに及ばず、生涯愛して止まなかったという生家造り酒屋〔図版2〕の家屋の合理的で無駄のない美しさに、
この国の、しかもあの被災地に、ご当地の女性を顕彰するこんな遺跡があったこと、しかもそれを自分が今に至るまで全く知らずに過ごしてきたこと、
その二重のショックは言葉にならぬほど強かったのだ。
高村智恵子の生家(内部)
時間が迫り、展示作品を一つひとつじっくり見ることは叶わなかったので、再度ヴォランティアとして福島行きが実現できれば、
その折こそ、しっかり時間を確保して見直さねば、と心に期している。何しろ私には、お恥ずかしいことに、智恵子といえば、高太郎との結婚後、
募り行く精神の病の間隙にいくばくかの紙絵を遺した薄倖の女性というイメージしかなかった。
だから、彼女が1914年の結婚前、つまり20世紀初頭という早い時期に本格的な彫刻や力感あふれる油絵も残しており、その現物をこの目で確認し得たことは、
私にすれば、
ルイーズ・ファランクやエイミー・ビーチなどの女性作曲家が交響曲というクラシック音楽における最重要ジャンルとされる作品を遺していたことを知り、
かつそれをCDで確認できたときと同質の衝撃だったのだ。
雑誌 「青鞜」
加えてもうひとつ… 「元祖女性は太陽だった」 と高らかに女性解放を宣した日本初の女性誌 「青鞜」 が、
昨年発刊100年目〔1916年52号を持って廃刊 〕を迎え、さまざまなイヴェントが行なわれたことは、女性学関係者ならずともご存知と思う。
その創刊号の表紙絵を担当したのが、ほかならぬこの高村智恵子だった…私はこの事実をかすかなうろ覚えで認識していたが、
今回、生家に隣接する記念館で実物に接し、言いようのない感慨に捕らわれた。
ギリシャ彫刻を思わせるような横顔で、理と智の化身としてすくっと立つこの新しい女性像こそ、
まごうことなきフェミニストとしての智恵子を世人にしっかり伝えてくれるのではないか。
それにしても、智恵子について一般的な情報はどの程度伝わっているのか、どうにも気になって、最も標準的な百科事典に当たってみたが、
「高村智恵子」 の項目はない。ならば高太郎の項目で二人まとめられているのかしら、と思いきや、
そこでは芸術家・創作者としての智恵子については 『青鞜』 の表紙絵に言及があるのみ。
あとは高太郎が放蕩な生活から真実と美に根ざす藝術に覚醒したのは、ひとえに智恵子の純愛を得たからだ…と、
聖化され賛美された伴侶としての記述があるばかりなのだ。とりあえず彫刻や絵画、そして詩文には目を閉じるとしよう。
だが一点一点、草木、花々、食べ物、小物など日常接する身近な対象物から見事な造形美と色彩感を引き出した珠玉のあの紙絵作品、
数千点にも及ぶとされる膨大な創作を、丸ごと無視し去るなど、智の源とされる事典の記述としては、許されないのではないか…?
智恵子の紙絵に私が感動するもう一つの理由は、紙というさりげない、どこでも手に入る素材によっている点だ。
さらに、身近な対象によるこうした小品の素晴らしさと重要性は、女性作曲家にも共通する。
彼女たちの創作の大方は具体的な標題を持つ短いもので、
「ソナタ」 のような抽象的で複数の楽章構成を必要とする楽曲はごく例外的だ(上述したビーチやファランクの交響曲の例は、
女性には小品しか書く能力がない、という誤解を払拭するために、敢えて持ち出したのだった)。
「藝術」 と大仰に振りかざすこともなく、ごく自然に人と人とが心を通わせるのを助ける、音楽がそうした手段となり得ていることが、なんとも貴く思われるのだ。
翻って、しかし智恵子の場合は、44歳当時、実家長沼家の倒産、一家離散という悲劇から精神分裂を来たしたとされるものの、
生家は当時の面影そのままに再建された。この意義は誠に大きい。おかげで私のような門外漢でさえ、このたび、智恵子の人となり、
そして奇跡的な紙絵世界を始めて実感することができたからだ。
引き換えに思わざるを得ないのが前回と前々回に取上げたポリーヌ・ヴィアルドのケース。
彼女が当時の最も名望ある音楽サロンをいくたびも開催した現場である住居跡は、そのどれもが、跡形も無くなってしまったか、
別人の住まいとなってアクセス不能か、都市計画次第で存続の先行き不透明か、
よくてせいぜい小さな銘板一枚の説明で片づけられているか…と言った具合なのだ。
この違い、日本とヨーロッパの差などと単純なものではありえない。同時代の日本女性でも、第12回の主題にした柳兼子のケースは、
むしろポリーヌとよほど似ていたことを思い出していただきたい。
だから、おそらく最も納得できる要因は、視覚に訴える芸術と、聴覚を介する芸術との違いではなかろうか。
百聞は一見に如かず。なんといっても作品をこの目で直接見て確かめられる美術と、耳にする音は一瞬で消え去り、
その質量を測ることもできない音楽との差は、途轍もなく大きいのだ。智恵子の紙絵は、見ればすぐにもその素晴らしさを誰でも感じ取ることができる。
だから生家も再建され、記念館併設も無理なく実現できたのだろう。
だがポリーヌの歌やヴァイオリン曲の場合、楽譜や作品の特徴を詳細に解説したとて、それが演奏という営みを経て生きた音楽として聴けぬ限り、
その見事さは理解されるには至らず、無視されるか、放置されるままになってしまう…彼女の至芸に魅了されて生涯その痕を追ったツルゲーネフが、
ポリーヌに比して圧倒的に著名な存在たり得ているのも、読めばすぐわかり、しかも何時までも残る文字・言葉を操る文学者であったから…とはいえまいか。
とにもかくにも、音楽という再現芸術が否応無くかかえる困難とデメリットは、どこまでも厄介なのだ。
…というわけで、「見えない半分」 は、女性という人類の半分に属するゆえに余りにも扱いが小さい智恵子の画業を、
そして、「聴けない半分」 は、同じく人類の半分に属するポリーヌのような女性の音楽を、それぞれ暗示したつもりである…だがしかし、
見えない音を相手にする限り、有名男性作曲家の傑作・名作とされるものとの優劣は見て確かめられるものではないので、
女性作曲家の認知のハードルは半分どころか、さらに高くなるという現実を、智恵子体験を機に改めて強調しておきたかったのです…このしつこさ、
どうぞお許し下さい。
本稿をようやく書き終え、いざ送信…と言うタイミングで、日隅一雄編集長の訃報がとどきました…言葉になりません…ただただ、
ご冥福を心よりお祈りいたします。
小林 緑
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