音楽・女性・ジェンダー ―─クラシック音楽界は超男性世界!?
第33回
クラシック音楽の問題点(8)
本当にお客様は神様か?
谷戸基岩
このところ日隅一雄著 『マスコミはなぜ 「マスゴミ」 と呼ばれるのか?』 をはじめとして、
政治マスコミの今日における在り方をテーマにした本を何冊か読んでいる。
ニューヨーク・タイムズの東京支局長マーティン・ファクラー著 『「本当のこと」 を伝えない日本の新聞』、堤未果著 『政府は必ず嘘をつく』 などなど…。
多くの視聴者・読者は消費税の増税、オスプレイの配備、原発の再稼動および新設など、
望んでいないのにそうした動きを擁護するようなマスコミ報道がなされる。
積極的に擁護しないとしても、「世の中はこうなっているのだから諦めなさい」 と言わんばかりの無責任さで客観報道が続く。
その決定の背景にある裏事情を説明することによって自分たちはキチンと取材し、マスコミとしての職務を全うしていると思い込んでいる。
とにかく 「経済」、「日米同盟」 という言葉を出せば、どんな理不尽な政府決定であっても正当化し支援するかのような姿勢が、
最近のマスコミの政治報道からは強く感じられる。
福島および沖縄の人々がいま何を望み、何を考えているのかは熱心に報道されず、アメリカ、官僚、大企業の既得権益を擁護するための政府、
官僚、財界人、御用有識者・学者などの発言が最も重要で正しいかのように伝えられている。
「社会の木鐸」 などという機能はとうの昔に多くのマスメディアからは無くなっているのだろう。
好むと好まざるとにかかわらず、ネットの情報に頼らなくては望むような言論、正確な情報は得られない時代になってしまっているのかもしれない。
けれどもここにもまた 「規制」 がかけられようとしているというのだから本当に怖ろしい世の中になったものだ。
先述の日隅さんの本を読んでいてもうひとつ強く思ったのは、マスコミ業界にとって読者・視聴者への責任感がどんどん薄れていること。
あるマスコミ媒体にとって情報提供源、広告出稿主などの意に沿うことが、購読料や受信料を払う読者、視聴者よりも重要と考えられているのかもしれない。
それなら多くのマスコミが競い合うように 「経済」 や 「日米同盟」 を声高に叫ぶ姿勢にも合点が行く。
たしかに最近の政治報道などを見ていて問題に思うのは、読者、視聴者の利益のための報道や主張がマスコミ媒体によって余りにもなおざりにされている点だ。
ジャーナリズムに関わる人間が入手した情報を、消費者(つまり読者、視聴者)として個人的に咀嚼し納得してから報道することが必要なのではないか?
振り返ってクラシック音楽業界を考えてみても消費者主権、「お客様は神様」 という考え方はかなり希薄のように感じられる。
よくクラシック音楽界の評論家、ジャーナリスト、
学者などの中には 「音楽評論とは純粋に音楽それ自体と演奏について語るべきもの」 という風に捉える向きも少なくない。
しかしコンサートの場合には @ その取り仕切り、A プログラム解説の質、B 聴衆の質、C 会場の特性、D 入場料金の設定と販売方法など、
音楽ソフトの場合なら @ その価格設定、A ライナーノートおよび編集業務の質、B 全体のアートワーク、C 入手の難易度なども全てが批評の対象となる。
なぜならばそうした諸々の要素もコンサートや音楽ソフトの一部だからだ。今回はコンサートに付随する問題点のうちのいくつかに触れてみたい。
まずは聴衆の問題。このところクラシックのコンサートに行って不快な気分になることが少なくない。
すなわち、「本当にこの人たちは聴きたくて来ているのだろうか?」 と疑問に思ってしまうようなお客さんが、
コンサートの鑑賞を妨害するような事態が起こるのだ。
演奏中に、携帯電話のスイッチを切り忘れて鳴り出したり、喉がいがらっぽくなったので飴を舐めようとなかなか開かない袋から取り出そうとして音を立てたり、
近くの知り合いとお喋りを始めたり、つまらなくなって入場時に配布されたチラシの束を大きな音を立てながら見始めたり、
買って来たものの入ったレジ袋をごそごそ探って音を立てたり、子供が退屈して物音を立てたり親に話しかけたり…
特に怖ろしいのはトラブル源が出演者の家族、親類縁者、友人、親の会社の社員であったりするケース。
新人演奏会や若手のソロ・リサイタルなどでしばしば目にする光景だ。
娘や息子の晴れ舞台を見せたいとか、客席が寂しいから何とか埋めなくてはとか、
そういった純粋にコンサートを楽しみたいのではなく、動員をかけられた人々が来るような時はトラブルが起こりやすい。
またマスメディアの様々な読者サービスなどによる 「無料招待」 というのも要注意だ。
タダだし、暇だから教養を深めるために行ってみようかということなのだろう。けれどもこれは別な意味で 「タダほど怖いものはない」 なのである。
こうした聴衆のトラブルは、クラシック音楽が一般教養として考えられていることに起因するケースが多いように思える。
すなわち、「教養を深めるためにクラシック音楽でも聴いておくか」 とか 「子供の情操教育にクラシック音楽が良いそうなので、聴かせなくてはと…」
といった安易な発想で、特に聴きたくもないのに来てしまうのではないか。
私もそうなのだが、自分にとって興味や関心の無いものを聴くのは多くの場合において退屈で忍耐力を必要とする。
それは当然のことながら苦痛だ。ただクラシック・コンサートに通い慣れているので、たとえ聴きながら曲目や演奏者が期待はずれだったりして退屈していても、
他の聴衆に配慮して可能な限り物音を立てないように努力している。
けれどもそんなことを、ほとんどクラシックのコンサートに来たことのない人や、しつけもしっかり出来ていない子供に強要するのはどう考えても無理がある。
そうした人々はコンサートを選んで行くべきだ。
例えば、先日行った 「0歳からのコンサート」 では聴衆の大半が幼児とその母親という状況で、のべつまくなしに子供は泣き、お喋りし、
歩き回りという状況でガサガサしていた。しかしこれは元よりそうした環境を前提としているコンサートであり、
演奏者も聴衆も納得ずくのことなので特に問題は無い。これは極端な例かもしれない。
しかし私はマナーをある程度厳格に守ることが必要な一方で、こういう静かでない客席が前提のコンサートももっとあるべきではないかと考えるものだ。
ただしこのようなコンサートに関しては演奏環境の特殊性はチラシなどにハッキリと記されるべきだろう。
よく演奏者に対して失礼ということで 「居眠り」 を問題にする人もいるが、私は特に問題にはしない。それは止むを得ないことだからだ。
それに鼾をかいたりする場合には近くの人が軽く肩を叩くなりして起こしてあげれば良いだけのこと。
起きていて変に物音を立てるくらいならまだ寝ているほうがましなのだ。私にも何度となく経験があるが、時としてコンサート中に酷い睡魔に襲われることがある。
よく 「酷い演奏なので眠くなるのだ」 という風に説明したがる人たちいるが、少なくとも私にとっては違う。
最も眠くなるのは、世間的な価値観から言えば立派なのだけれども、自分の趣味には合致しない演奏の場合だ。
メカニックが明らかに不十分だったりするいわゆる 「下手な演奏」 は聴いていて心地良くないから却って眠れないものである。
最近のコンサートで特に腹が立つのは 「ブラヴォー屋さん」。曲が終わると間髪入れずに 「ブラヴォー」 を叫ぶ。
十分に余韻を楽しみたい静かに終わる曲でも、そんなに傑出した演奏でなくても、お構いなしに演奏者が最後の音を奏し終えた瞬間に叫ぶ。
オペラならいざしらずオーケストラの演奏会、室内楽や器楽のリサイタルでこれをされると本当に興醒めだ。
基本的に 「ブラヴォー」 は万雷の拍手を突き破って叫ぶからカッコいいし、さまになるのである。
もう少し 「サクラ」 のことなど歴史的な背景を勉強してから 「ブラヴォー」 は叫びなさいと言いたくなる。
一度主催側の担当者に文句を言ったら、「アーティストの中にはこうしたブラヴォーを好む方もいらっしゃいますから…」 と答えられ唖然としたことがあった。
ひょっとしてあれは主催者が雇ったサクラだったのか? ならもっと質の良いサクラを選んで欲しいものだ。
いっそのこと業界主催でブラヴォー屋さんの品評会という企画はいかがだろうか?
こうした聴衆側のトラブル、主催者側としては 「お金を払って入場したお客さんだから多少のことは大目に見て…」
「ただでさえクラシック音楽業界は集客に苦労しているのだから来て下さるだけでありがたい」 という意識があるのかもしれない。
しかしながら迷惑を受ける側のお客さんもお金を払い来場しているのだ。
こうしたトラブルに目をつぶることは、コアなクラシック音楽ファン層が持つコンサートに行きたいという意欲を削ぐ結果になってしまわないだろうか?
私は音楽評論家なので、こうしたトラブルも含めてコンサートを論ずる立場にある、と考えている。
本当ならば、こうしたトラブルについてはコンサート・ゴーアー向けの雑誌などでもっと積極的に問題が語られ、
注意が喚起されてしかるべきものではないか? しかしこうしたメディアにとって何よりも大切な 「集客」 に悪影響が出ることを恐れてか、
あるいは主催者側の管理責任の負担増や客同士のトラブルに配慮してか、特集を組んで熱心に取り扱われてはいないように私には思える。
たしかに 「お客様に出来るだけ多く集まって欲しい」 という発想は当然のこと。
しかし集めたお客さんをしっかり管理することもまたお客さんのためではないのか?
先日、東京シティ・フィルのコンサートに行ったらプログラムに挟まれた紙に拍手のタイミングについての注意書きがあった。
また別のオーケストラでは 「拍手などは指揮者が指揮棒を下ろしてからお願いします」 というアナウンスがあった。
さらに子供もしくは初心者を想定した、コンサートでのマナーについて注意を喚起する解説の紙がプログラムに挟まれているケースも最近いくつかあった。
こうした努力も勿論大切だが、業界としての抜本的な対策が望まれる。
次にホール自体の問題をいくつか。まず背もたれの傾きが大きい座席の問題。これは座り心地が良いので、良さそうに思える。
ところが椅子の背が大きく傾いていると足を自然に前に伸ばさざるをえなくなる。
そのため座席の背の傾斜と伸びた足の複合効果で、前後の客席間の幅がとても狭くなってしまう。
人が座っている状態でその前を通って列の内側の席に入ろうとすると大変な苦労をすることになる。
だからこうした座席の場合には前後の列の間隔を十分に広く取らなくてはいけないのだけれども、
そうすると客席数が減ってしまうので十分に広くないことが多い。
時々疑問に思うのは、ホールを設計する人はコンサートに遅れて来て、列の内側の座席に座る人が必ずいるのだということを理解しているのかどうかということ。
こういう議論をすると業界関係者の中には 「海外の由緒あるホールにはもっと客席の前後の幅が狭い会場もあります」
といった精神論で反論して来る人もいるだろう。
けれども自分がお客さんの立場になってみれば、席へのアクセスが容易で、なおかつゆったりと座れるに越したことはないのはすぐに判りそうなものだが…
こうした理由からホールで中央付近の座席のチケットを買うなら最前列を選択するのがいい。
そこなら一部の例外を除きこうした入退場の煩わしさとは無縁だからだ。
ビルの高い階にありエレベーターでしか行けないホールというのも問題が多い。一時に聴衆がエレベーターホールに殺到する終演後の混雑が問題になる。
後に用事が控えている場合など階段で降りてでも急いで地上に降りたいのだが、階段は使用禁止という場合が少なくない。
日常使用していない非常階段しかなかったり、ビルの中に他の会社が入っていて防犯上の理由から使えなかったり、
階段にアクセスする途中に楽屋があったり…何らかの理由で使えないのだ。
時間的にゆとりが無い場合、こういうホールではアンコールの拍手もそこそこに退散するのがベスト。
そして一目散にエレベーターホールへと向かうのだ。このようなホールは地震や火災の場合に果たして大丈夫なのかしらと心配になる。
ホールの 「喫茶コーナー」 の問題にも注目してほしい。私などはコンサートをハシゴすることもしょっちゅうなので、
ホールの喫茶コーナーで軽食や喫茶することが少なくない。ところがそれを当てにして行くと営業していないことがしばしばある。
特に郊外の公共ホールでこうした喫茶コーナーが営業していたりいなかったりということが多い。
こうしたホールではホール主催公演と貸し館としての公演とで差別化しているのだろう。
すなわち主催公演ではお客さんの便宜を考えて喫茶コーナーを開くが、貸し館の場合にはそのサービスは受けられないのだ。
けれども考えてみればお客さんにとってはその公演がホールの主催であるかどうかということは関係ないこと。
少なくともお客さんにそうした方針を明確に示すためにも、「ホール主催公演以外では閉鎖」 と喫茶コーナーには常に掲示しておくべきではないか。
何日も連続する 「音楽祭」 のように、コンサート間にどうやって時間を潰すかをしばしば悩むような催し物では、
お客さん向けのホール周辺の食べ物屋さんガイドは必須だ。私も2007年8月に杉並公会堂の小ホールとグランドサロンを使い、
5日間にわたって昼夜12公演から成る 「女性作曲家音楽祭2007」 を行った時に、食べ物屋さんガイドを作った。
それを作るためにホール近くの飲食店に足繁く通い、定休日、営業時間、禁煙席の有無、店のBGMは何かなどを調べた上でガイドに記したものだった。
こうした努力も自分ならこうしたものがあると便利だろうというコンサート・ゴーアーとしての経験則に基いてのことだ。
そうそうこの 「女性作曲家音楽祭2007」 の時には、杉並公会堂小ホールの座席がやや硬いので、
京都の田中屋(現在は水口弥)から予備の分も含めて小座布団を240個取り寄せて194の座席の上に並べたものだった。
ホール側に 「終わったら寄贈します」 と提案したのだが拒否されたので、最後のコンサートに来られたお客さんにお持ち帰りいただくことにした。
最初はお客さんが持ち帰らなかったらどうしようかと考え、知り合いのデイケア・センターに残った分を全て引き取って貰うように話をつけておいた。
幸いなことに小座布団は大変好評で、人によってはそれを尻に敷くのではなく腰や背に当てて使う人もいた。
そして私の心配は杞憂に終わった。最後のコンサートが終わった時に全ての座席の小座布団がきれいに無くなっていた。
人によっては3つ4つ持てるだけかかえて帰った人もいた。
今でも時々コンサートでその時のお客さんから 「あの小座布団を未だに愛用しています」 と声をかけられる。
硬い椅子で長時間座っているのはしんどい、という過去の経験をもとにそれらを準備して本当に良かったと思っている。
つくづく思う。「己の欲せざること他人に施すなかれ」。消費者の心を理解するには自らが消費者としての行動を重ね、
どうしたらもっと心地良いかを考察すればいいだけのことなのである。
勿論、コンサートでよく顔を合わせ信頼できる人と同じコンサート・ゴーアーとして本音の部分で話せるなら、
自分が見落としている問題点にも気付くのでもっと良いのだが…続きはまた次回。