2010.3.1

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 6

前澤 猛
目次 プロフィール

リトアニア、杉原千畝、そして多くのシンドラーたち

  独立20周年
  今回は、日本人にはあまり知られていないが、最近何かと話題になっているリトアニアについてお話してみよう。 第2次大戦中にソ連に併合され、この3月11日に独立20周年を迎える。首都ビリニュスにある杉原記念碑については、 すでに、この 「メディア傍見」 1 「ナチス発言に見る政治家とメディアの歴史認識」 で紹介している。写真は、昨春、小生が撮影したもので、<>内は小生の愚句だ。

  リトアニアは、バルト海に面したバルト3国のひとつで、人口(三百数十万人)、面積(6万5000平方キロ)は、ともにほぼ静岡県に等しい。 小国と言ってよいだろう。昨年10月には、NHK総合の 「世界遺産への招待状」 で取り上げられた。今年6月にリトアニア国立交響楽団が来日、 国際的に活躍している女性指揮者、西本智実の指揮棒で全国縦断演奏会を開く。

  リトアニア国内で、もっとも有名な日本人は、日本総領事館領事代理だった故杉原千畝氏だろう。 1940年7月、ポーランドからユダヤ難民が逃れてきた際、本国の訓令に背いて数千人の通過ビザを発行した。 昨年5月には横浜で、杉原夫妻をモデルとしたオペラ 「愛の白夜」 が公演された。

  十字架の丘
  リトアニアの北部シャウレイの郊外の小さな丘に、数十万とも言われる十字架が立てられている。 ロシア帝国の圧制に抵抗した1831年の11月蜂起の後、犠牲者を弔ったのが初めといわれる。ソ連やナチスに虐殺された市民を弔った十字架も多く、 独立まで何度も破壊されたが、一般庶民が聖地として守ってきた。厚い雪雲の下では陰鬱な雰囲気だが、青空がのぞくと、丘全体が光り輝く。

<十字架の丘に小さな春の空>
  人間の鎖
  1989年8月23日、独ソ不可侵条約締結50周年記念日に、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト3国を縦断して200万人の人々が600キロにわたって手をつないだ。 同条約でソ連に併合された3国の市民による、平和で強固な独立要求の意思表示だった。下の写真は、首都ビリニュスの大聖堂広場にある鎖の起点。 ここで手を結んでお祈りをすると願いがかなうと言われる。

  鎖には多くの女性が加わった。現大統領は女性のダリア・グリバウスカイテさん。この国では、女性が颯爽と街を闊歩している。


<凍てし街大またで蹴る北の女(ひと)>

  杉原記念館
  旧首都カウナスの日本総領事館あとが杉原記念館になっている。リトアニアを訪れる日本人は年間数千人で、記念館に足を運ぶ日本人はさらに少なく、 維持のための資金難に陥っている。昨年3月には、国立音楽大付属高校(東京都国立市)合唱部が、都内と現地で募金のための演奏会を開いた。


<ビザ、ビザの叫び聞くらむ雪の窓>

  杉原千畝氏(1900〜1986)は、生前、自己の行為についてほとんど語ることがなかった。 救われたユダヤ人の調査や幸子夫人(2008年10月死去。94歳)の熱心な顕彰活動もあって、「日本のシンドラー」 「命のビザ」 と賞賛されるようになったが、 ビザ発行の背景や外務省との確執については、多くの説が生まれた。「本国外務省の命令に背いた英雄」 から 「外務省の意図を汲んでいた」 まで、様々だ。 幸子夫人は、米ボストン大ヒレル・レビン教授著 「千畝― 一万人の命を救った外交官杉原千畝の謎」 が事実に基づいていない、 として出版社の清水書院を訴えた(2005年、東京高裁で和解)。

  しかし、記念館に展示されている当時の外務省の電文は、明確にユダヤ難民に対する厳格な対応を求めており、 杉原領事代理が、訓令に反して人道的な行為に出た事実は否定できない。 下に添付した写真は、1940年8月16日付けの亜米利加局長経由松岡外務大臣から杉原代理領事に当てた訓電で、こう命じている。

  「行先国ノ入国手続ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滞在費等ノ相当の携帯金ヲ有スルニアラザレバ通過査証ヲ与ヘザル様御取計アリタシ」


  「日本とユダヤ その友好の歴史」(ミルトス刊。2007年)の共著者、河合一充氏は 「氏の沈黙に大きな意味を見いだしたい…杉原は、サムライであったと思う。 それでいいではないか」と書いている。

  追記:多くのシンドラーたち
  杉原氏夫妻は、リトアニア退去までの1か月余、日夜必死に日本通過ビザを発行したが、そうしたビザ所持のユダヤ難民数千人は、その後どうなったのだろうか。

  小生のバルト3国訪問中、JTBの中西貴子さんは、当時のJTB(1912年設立)の職員を含む多くの日本人の献身的な救援活動について、熱を込めて語った。 その後小生が調べた内容を機会があれば詳述したいのだが、ここでは、シベリア鉄道経由で入った満州、そして日本上陸地の敦賀、舞鶴、居留地の神戸などの各地で、 多くの市民や地方自治体による人道的な援助があったことを付記したい。

  そうした事実については、幸子夫人の著書 「六千人の命のビザ」(大正出版)や上記 「日本とユダヤ…」 のほか、いくつかの本や雑誌で明らかにされているが、 特異な資料にJTBの隔月刊誌 「観光文化」 150号(2001年11月号)、151号(2002年1月号)がある。 元在職者による貴重な記録や回想録を掲載したもので、その後、「観光文化」 の別冊 「記録 ユダヤ難民に “自由への道” をひらいた人々」 として編集・ 発行(2006年7月)された(注:日本交通公社観光文化事業部)。