2010.7.6

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 9

前澤 猛
目次 プロフィール

ニュースの信頼性の保証
―情報の 「出所 (取材源)」 と 「アイデンティティ」 の明示

  NPJ通信への寄稿 「メディア傍見」 を初め、私はこれまで、しばしば、ニュースや情報の信頼性の確保の核となる情報源(取材源)や、 情報に含まれる当事者のアイデンティティ(身元)の扱いを論じ、それらの明示の必要性を要望してきた。 日本のメディアは、長い間、そして現在ですら、それらを 「明示」 するより 「秘匿」 することをジャーナリズムの鉄則とし、なかなかその桎梏から逃れられない。 日本のジャーナリズム倫理の大きな陥穽といえるだろう。
  最近刊行された 「どうする情報源―報道改革の分水嶺」 (リベルタ出版)の著者藤田博司氏は、小生のもっとも尊敬するジャーナリスト、 かつ研究者のひとりである。同書を読んで、その論旨にはまったく異論が無く、説得力ある内容に強い感銘を受けた。
  たまたま、かつて小生が定期コラムを寄稿していた月刊誌 「メディア展望」 (旧 「新聞通信調査会報」)から、同書の書評執筆を依頼され、 それが2010年7月発行号に掲載されたので、一部補正して以下に寄稿させていただく。

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藤田博司氏著 『どうする情報源―報道改革の分水嶺』 を読んで

  藤田博司氏は、まず 「まえがき」 で、いきなり 「あなたはメディアが伝えるニュースをどこまで信用していますか?」 と設問している。 そして、「より正確で公正な報道を実現するために、現在の報道に何が欠けているのか、何が問題なのか」 と続ける。
  そして自ら、「日本のメディアの現場で正面から議論されることのなかった、情報源の扱いがそれである」 と答えている。 そのうえで、同書は、一貫して 「情報源明示」 の必要性の論証に努めている。

  情報源問題の核心を衝く具体的な事例の一つとしては、小沢一郎民主党幹事長をめぐる政治資金報道(二〇一〇年一月)に焦点を当てている。 「突如政治問題化したのがこの情報源の扱い」 であり、「これまで何十年も続けてきた報道現場の慣行が、 この報道をきっかけにやり玉に挙げられたに過ぎない…ようやく無視できないところまで顕在化しつつあることを裏付けている」 と、考察している。

  著者は、共同通信の国際記者としてアメリカを中心に活躍した後、上智大学教授などとして若い人々にジャーナリズムを講義してきた。 「メディア展望」 に長く寄稿しているが、同誌581号(2010年6月号)掲載の 「なぜ伝えぬ 『市民団体』」 も、情報源に関係する直近の問題を取り上げ、 情報に含まれる枢要な事実および情報源をあいまいにしているメディアの 「怠慢」 か 「臆病」 かを、鋭く衝いている。
  藤田氏が、主張するように、検察審査会に小沢氏関連事件の審査を申し立てた市民団体が何か、は重要な情報の中身であり、 その名称や実体は、明らかに、メディアが国民に伝えるべき事実に他ならないだろう。なぜ、メディアはその報道に二の足を踏むのか。

  いまの日本で、藤田氏ほど情報源の問題を正確に語ることの出来るメディア人はいないだろう。 同氏は、アメリカのジャーナリズムに関して、「情報源の扱いについてきわめて厳しい指針を持っている」 「誤報や盗用・捏造といった不祥事が繰り返し起きている」 が、「いいかげんな報道に走らないための有力な 『歯止め』 になっている」 と評価している。 それを立証するために、情報源に関するアメリカの基本ルールを初めとする種々のデータを紹介し、また内外の報道事例を豊富に挙げている。

  一方、日本のジャーナリズムについては、「そうした 『歯止め』 がない」 とみている。 そして、「読売新聞の新指針」 など、情報の扱いに関するメディア各社の最近の動向を詳しく紹介しつつも、日本における情報源明示は、なお不徹底だと、 厳しく批判する。

  そういえば、読売新聞の論説委員が執筆したコラムは、同紙の 「新指針」 に触れて、 「取材源を秘匿するのは記者の鉄則だ」 と強調している(2010年1月23日 「とれんど」)。 このように、日本のメディア人の多くは、いまでも、情報源の 「秘匿」 を鉄則視し、そして、それを 「明示」 より優先させている。

  藤田氏の著書に戻る―。前記小沢一郎関連報道では、情報源と 「リーク」 (意図的な情報漏洩)の関係を詳細に論じ、 そこで、リークを否定するメディアの大合唱の一つとして、次のように朝日新聞・社会エディター(編集局社会部長にあたる)が述べた説明を引用している。
  「今回の報道では、10年以上もゼネコンの取材を続けている記者が丹念に集めた資料を基に出来上がった記事がいくつもある。 人や資料から得た情報を重ね合わせて、特捜部の狙いを薄皮を一枚一枚はがすように明らかにする作業を毎日繰り返している」 (朝日新聞・2010年1月22日朝刊)

  しかし、著者は 「記者が大変な努力をしていることはわかる」 と、現場に理解を示しつつも、 「この説明が建前に終始し」 「取材の実態について具体的に何も明らかにしていない」 と受け止め、リークを真っ向から否定するメディアへの反論として、 検察による情報管理の実態を明らかにしている。

  因みに、司法記者だった小生も、検察事件の報道では、格別に厳密な 「裏づけ取材」 が不可欠とされ、 責任ある検察幹部のなんらかの 「OKサイン」 が無ければ、ほとんど何も書けなかった。 また、書けば報復を覚悟し、事実、いくつかの報道機関は、そうした報復(捜査手順の変更、取材の禁止=登院停止=など)を受けた。

  善悪の価値判断は別にして、朝日新聞と検察との密着については、拙文(「メディア傍見」 5の 「情報の 『リーク』 (漏示)と 『ディスクロージャー』 (開示)」)でも言及している。

  さて、また藤田氏の著書に戻る―。
  同書は、各章で、問題の核心として、情報源とメディアの相互依存関係へと論を深めている。 そして、「60年安保の政府声明を代筆した」 と自慢するメディア・トップ、外国報道に遅れをとった 「もうろう会見」、などを例証として挙げ、 情報源問題が、実は、記者クラブ制度や政治家同行取材など日本独特の報道慣行と結びついていて、 究極的には、公権力とメディアとの癒着につながっている構造的危険性に警告を発している。

  終章は 「報道の改革に向けて」 と題し、情報源の明示が徹底されてこそ、「記者の取材対象に対する意識も変わる」 だろうし、 「情報源を介していわば従属を強いられてきた記者が…多少とも対等な関係に近づけられるなら…ニュース報道に新しい地平が開かれる可能性もあるだろう」 と結んでいる。
  それは、まさに、著者の藤田氏のみならず、心あるジャーナリストや読者・視聴者に共通する熱い願いでもあろう。
(本稿は、新聞通信調査会発行 「メディア展望」=第582号、2010年7月1日=掲載の拙文を加筆補正した)