2011.3.31

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 14

前澤 猛
目次 プロフィール

「アカウンタビリティ」 (説明責任)の倫理と法理

  [はじめに]

  東北関東大地震は、膨大な人命と地域社会を奪いました。そして、同時に、日本のみならず、世界中に、原発暴走の恐怖を撒き散らしています。 しかし、そうした未曾有の惨事の進行中、東京地裁は、「表現の自由」 を巡る名誉毀損訴訟(原告・前澤猛、被告・渡邉恒雄)の第二回弁論を、 予定通り3月30日に開きました。

  小生は、40年前、原子力利用問題担当の科学記者として、欧州各国を取材しました。 以来、原発の危険性と恐怖を実感し続けてきた小生にとっては、東京・霞ヶ関の裁判所内外の冷静な雰囲気は信じがたいことでした。 裁判所の独立性は大切です。しかし、同時に、その 「静寂」 は、裁判所が社会から隔絶しているという実感も否めませんでした。 小生の心情は複雑でした。とはいえ、日程通りに進んだ訴訟の中で、何とか平静を保ちつつ、出廷し、また主張すべきことを整理しています。

  この訴訟は、メディア倫理とジャーナリズムの面で、次の3つの重要な問題を含んでいます。
@ 社論とは何か。とくに渡邉恒雄氏が自讃する 「社論の確立」 の実体。
A 読売新聞社内における 「表現の自由」 の実体。
B メディアにおける 「アカウンタビリティ」 の必要性。

  今回は、これまで小生が力説し、この裁判でも強調している B の 「メディアのアカウンタビリティ」 について、新たに小論をまとめましたので、 以下に掲載します。この小論をもとに準備書面を作成、近く東京地裁に提出する予定です。 裁判所が、この裁判で 「アカウンタビリティ」 の重要性を認めれば、それは日本の裁判史上、画期的な判例となるでしょうか。

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  1.メディアの不法行為とアカウンタビリティ

  近年、社会的に影響力を持つ団体あるいは個人が自覚すべき社会的責任として、 「コンプライアンス」 および 「アカウンタビリティ」 の履行が強く求められています。コンプライアンスは 「法令順守」 と訳されていますが、 要するに 「順法精神」 という既成概念の言い換えに外なりません。 一方、アカウンタビリティは、新しい概念ですが、「説明責任」 と同義語といって良く、その重要性は、近年、コンプライアンスと比肩されるようになりました。 むしろ、福島原発事故における詳細な情報提供や、昨年のアメリカにおける日本車リコール問題などを通して、アカウンタビリティの重要性は、 コンプライアンスを超えるものとして認識されつつあります。

  現代社会において、「アカウンタビリティ」 を無視、あるいは拒否すれば、厳しい社会的批判の的になります。 同時に、アカウンタビリティは法的概念としても認知されるようになってきました。すなわち、故意または過失による不法行為の行為者が、 被害者及び社会に対して、誠実にその原因結果を説明し、その再発を防止する適切な手段を講じることは、民事上の法的責任と理解されるようにもなり、 そうした事後行為の無視と怠慢は、不法行為の違法性を加重させると認識されます。

  例えば、早く、1996年11月、政府の改革委員会行政情報公開部会が 「情報公開法要綱案」 を作成した際に、 同法に 「政府の諸活動を国民に説明する責務」 を盛り込むよう求め、それを 「説明責任=アカウンタビリティ」 と定義しました。 そして、「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」 すなわち情報公開法(1999年5月施行)は、 同法の目的(第1条)を 「政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、 国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」 と規定しました。

  もちろん、メディアは政府から独立しています。しかし、メディアは、公権力および企業や社会的組織に対して、 そのアカウンタビリティ無視を強く批判してきただけに、みずからのアカウンタビリティを無視することは許されるべきこととはいえません。 しかも、メディア及びメディアにかかわる人々(メディア人)は、情報の媒体および発信者としての優越的地位を享受しているゆえに、 アカウンタビリティ責任の重さは一般の団体や個人の比ではありません。 社会に提供する情報の 「正確さ」 と 「公正さ」 の保持と、また誤りを速やかに正す、という重い社会的責任を負っています。

  メディア及びメディア人は、そうした情報発信の占有的地位に加え、憲法によって 「表現の自由」 の優越性が保障されています。 一方、「書かれる立場」、すなわち、報道される側にある被取材者や被報道者が、報道されることによって受けた被害に対して、 対等に、あるいは強制的に 「反論権」 を主張する権利は、法的に否定されています。 そうした現状においてこそ、メディアによる不法行為の実行及びその継続、並びにその救済に際して、 メディア及びメディア人のアカウンタビリティに対する自覚とその履行は、重大な倫理的責務であり、かつ法的責任を負っているといえるでしょう。

  例えば、イギリスのBBC放送は、「編集ガイドライン」(2010年10月改訂)で、「アカウンタビリティ」 と 「反論権」 をメディアの社会的な義務として、 次のように規定しています。

  「BBCは視聴者に説明責任を負う」
  「われわれは、率直に間違いを認め、それから学ぶ意志を文化として督励する」
  「われわれの制作物が犯罪や不正やあるいは不適正だと主張されたり、個人や組織から深刻な被害を受けたと批判された場合、 そうした非難には『反論権』が与えられ、そうした主張には公正に答える機会が提供されなければならない」

  現実に、BBCは去る1月、「原爆の二重被爆者」 について笑いを誘ったテレビ番組を放映した際には、日本からの抗議に対して、ただちに謝罪を表明しました。 それは、このアカウンタビリティの実践であり、それがコンプライアンス、すなわち法的責任に関連する、 あるいはそれと同等の重みを持つという自覚に基づいていることの証左ではないでしょうか。

  アカウンタビリティ履行に関しての法的側面も、最近ますます無視できなくなってきました。 本訴訟の第1回口頭弁論の前日、すなわち1月25日、「選挙無効訴訟」 において、高松高裁は、「参院の定数」 に関する違憲判決を下しましたが、 その判決の中で、国会が 「説明責任」 を履行していないとして、その責任を厳しく指摘しました。 また、国会においても、3月には、外国人の政治献金問題に関連して、政治家の説明責任が強く問われ、メディアもまた、それに同調しました。

  このように、メディアの 「説明責任」 に関しては、「書かれる立場」 の重視から、 被報道者の 「反論権」 の一環として法的に認知すべきだという主張も強くなっています。 現に、欧州評議会は、2007年に 「反論権」 の法制を各国に勧告し、すでに法的権利として法定した国もあります。

  裁判の分野では、米国フロリダ州の反論権法規(1913年制定)が、連邦最高裁によって、 連邦憲法修正第1条(表現の自由)に反すると判決されています(Miami Herald 新聞社 対 Tornillo 事件。1974年)。 しかし、それは、あくまでも州の法的強制が否定されたのであって、反論権の法的概念そのものが否定されたわけではありません。 日本においては、最高裁が 「反論文を無修正かつ無料で掲載することを求めることは出来ない」 とその存在を否定しました (昭和62年4月24日、最高裁第二小法廷)。 しかし、注目すべきことは、同時に、「(記事による)不法行為が成立する場合にその者の保護を図ることは別論」 と摘示されていることです。

  確かに、「反論権」 の行使を、法的に規定し強制することは 「表現の自由」 に抵触するでしょう。 しかし、それゆえにこそ、メディア自身による虚報に対して、被報道者の 「保護を図る」 ために、 メディア及びメディア人自身がアカウンタビリティの責任を自覚し、具体的にその責任を果たすことが強く求められているのです。 すなわち、「これまで、多くのジャーナリストやジャーナリズム・グループは、メディアの社会的信頼を高めるために、 率先してメディアのアカウンタビリティや応答責任を向上させてきた」 (ジョージタウン大ドナ・デマック教授 「修正第1条の現状」 1997年)のです。

  メディア人によって運営されるアカウンタビリティの諸制度はMAS(Media Accountability System=メディア・アカウンタビリティ制度)といわれ、 欧米では、メディア業界全体を対象とする 「プレス評議会」、「プレス・オンブズマン」、 あるいは各メディア企業内の 「(社内)オンブズマン」 などが効果を挙げています。 日本では、メディアの倫理問題を討議する 「日本マス・コミュニケーション倫理懇談会全国協議会」 内に設けられた 「苦情処理のための機構等研究部会」 が、 1990年に 「企業内審査の公開性」 の拡大を提言しました。

  放送界は、放送法のいわゆる 「公正条項」 (第一条(法の目的)の二 「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、 放送による表現の自由を確保すること」)と、政府の 「免許権」、という両面の実質的な圧力によってアカウンタビリティの実施が迫られ、 1997年にNHKと民放各社による 「人権等権利に関する委員会」 (BRC)が設立され、2003年の改組後は、 現行の 「放送倫理・番組向上機構」 (BPO)がアカウンタビリティ機能を果たしています。 しかし、新聞を含む活字媒体には、前記の 「プレス評議会」 など業界を網羅するMASがなく、 また、各社内の審査・諮問の諸制度は、アクセスや公開性や中立性などの保証に欠け、アカウンタビリティが十分に機能していないのが実情です。

  法的概念は時代とともに進歩します。アカウンタビリティは、たとえ、それ自体が法的に強制されないとしても、 メディア及びメディア人による不法行為の存否を公平に認定するさいの、重要な要因として考慮されるべきです。 情報発信者の法的責任として 「プライバシーの権利」 が初めて裁判で認知されたのは、1964年です。 当時、それが法的権利として認められることは至難と思われていましたが、この新しい、しかもカタカナ英語の法的概念が、 この東京地裁において認められたのです。現在では、その法的権利を否定することは出来ません。 同じように、現代社会の枢要な要請となっている 「アカウンタビリティ」 の重さが、東京地裁によって法的に認知されることが切望されます。

  なお、「アカウンタビリティの怠慢」 は、アメリカにおいては、名誉毀損の成立要件である 「現実の悪意」 (Actual malice)と無関係ではありません。 それは、作為、不作為による 「未必的故意」 に相応します。アメリカにおいては、それが認定されれば、請求賠償額に関係なく、 数百万ドルという膨大な懲罰賠償が認められることも稀ではありません。

  「アカウンタビリティの怠慢」 は名誉毀損という不法行為を、意図的に継続、増幅させるものであり、その責任は、既遂の不法行為同様に重く、 ひいては不法行為の構成要件の一部と判断されて然るべきしょう。

  2.「アカウンタビリティ怠慢」 と、
             不法行為における違法性の加重


  渡邉恒雄氏を提訴した訴訟においては、原告・前澤は、提訴に至る前に、被告・渡邉氏の虚偽の流布による不法行為に対して、 手を尽くして、被告のアカウンタビリティ履行を期待し、かつ具体的に要請してきました。 すなわち、被告の発言の訂正およびその公表を求めて、発言掲載紙発行者の日本新聞協会および被告本人に書状を送り、かつ公開質問を公刊しました。

  日本新聞協会は、日本のメディア界でもっとも権威ある機関であり、渡邉氏は、メディア人のトップにあるとされています。 ともに、日本のメディアの代表として、メディアにとってもっとも重要な職業倫理であるアカウンタビリティの重要性を十分に認識し、 かつ模範的にアカウンタビリティを実践することが期待されます。

  しかし、そうした期待と要請は、原告の誠意を尽くした忍耐強い対応にもかかわらず、完全に無視されました。 以下は、当該新聞の 「新聞協会報」 2007年10月16日号刊行以来、民事提訴の時効3年の期限ぎりぎりまで、原告が、日本新聞協会と渡邉氏に、 アカウンタビリティの実践を要請した努力と、その努力が不毛に終った結果の経緯です。

  なお、以下の @ より以前に、電話及びEメールによって、原告が被告や日本新聞協会や読売新聞社に問い合わせたり要請したりした事実は割愛しています。

@ 日本新聞協会 「新聞協会報」 編集部責任者である出版広報部主管、長谷川恵一氏宛、「適切な対応」 を要請(2007年11月7日付、内容証明郵便)。 応答なし。
A 日本新聞協会事務局長、鳥居元吉氏宛、同様再要請(2007年12月13日付、内容証明郵便)。
B 前記に対して、新聞協会報編集長、長谷川恵一氏より返信(2007年12月21日付書簡)。「渡邉さんご自身が語った発言をそのまま掲載」 として、 いわゆる 「客観報道」 に基づく発言掲載の忠実再現性を認めるとともに、「記事においても重要な部分」 と、発言の重要性と掲載の必要性を強調した上で、 事実の調査及び訂正を拒否。
C 日本新聞協会会長、北村正任氏宛、「客観報道による免責と編集権の不存在の主張に対する再検討を要請」 する書簡送付(2008年1月25日付)。 応答なし。
D 以上の経緯の後、月刊誌 「世界」 (岩波書店) 2008年7月号に、公開質問の形の論文、「『渡邉恒雄氏の社論確立』 再考」 を掲載。
E 渡邉恒雄氏に、2009年9月1日付、内容証明郵便を送付。「新聞文化賞にふさわしい指導的メディア人として、 メディア・アカウンタビリティを尽くした回答をされることを期待し」 「公開可の回答」 を要請。応答なし。
F 以上のように訴訟外の釈明と問題解決を求めていたが、その配慮が完全に無視され、一方、提訴に至る場合の時効が迫ったため、 渡邉恒雄氏宛、「訴えの予告通知書」 (2010年8月17日付、内容証明郵便)を送付。 読売新聞社法務部が、原告周辺の関係者の聴取を始めるが、渡邉恒雄氏自身の応答なし。
G 渡邉恒雄氏の代理人として、升本喜郎氏ら3弁護士から、「発言対象者の特定不明」 などを理由として、 名誉毀損は不存在とする回答書(2010年9月21日付、内容証明郵便)を受領。
H 提訴を回避し、アカウンタビリティを要請する最終手段として、提訴時効(2010年10月16日)を中断する 「催告書」 (2010年9月24日付)を被通知人渡邉恒雄氏宛送達。応答なく、2010年11月25日、東京地裁に提訴。

  因みに、原告は、ジャーナリストとしてアカウンタビリティの実践に努め、また 「かかれる立場 書く立場」 (読売新聞、1982年7月)」 「マスコミ報道の責任」 (三省堂、1985年9月)、「世界のメディア・アカウンタビリティ制度」 (明石書店、2003年5月)、 「メディアの倫理と説明責任制度」 (明石書店、2005年9月)など、多くの著書、翻訳書を通じてアカウンタビリティ理念の普及に努めてきました。 それだけに、原告は、条理を尽くして、被告にアカウンタビリティの履行を要請してきた積もりです。 にもかかわらず、メディア人トップである被告が、アカウンタビリティの実践を一顧だにしなかった姿勢は、まことに残念であり、 それ故に、そうしたアカウンタビリティ無視の不法性、不当性が、名誉毀損法において、裁判所によって厳しく公正に判断されることが切望されます。
(2011年3月31日記)