2011.4.30

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 15

前澤 猛
目次 プロフィール

敗訴の記

  4月27日、東京地裁で 「渡邉恒雄氏を名誉毀損で提訴した訴訟」 の第三回弁論が開かれ、原告小生の陳述のあと、突然弁論終結となり、 7月はじめに判決と決定しました。

  経過からみて、提訴の理由である被告渡邉氏の発言 「社論に反した社説を執筆した論説委員」 の論説委員が、原告であるとは 「特定されない」 として、 入り口での請求棄却となるでしょう。

  本件で、この 「本人の特定」 の壁を越えるのが困難であることは、多くの法律家が予想した通りですから、この結果はやむを得ません。 元司法記者が、あらためて、「認識論」 と 「法律論」 とが別の世界であることを再確認させられました。

  「表現の自由」 に安住している日本の裁判で、メディアとメディア人の責任を追及するのは至難のわざと痛感しつつも、 弁論ではメディアの倫理について十分発言したので、「もって瞑すべし」 と満足すべきでしょう。

  同時に、相手の弁論を聞いて、「正義の実現」 を目的とする弁護士が、人の文章を、文脈も時制も無視して、 よくも都合よく引用するものだと感嘆させられました。
  予想される敗訴について、昔の司法記者仲間(他社)の、次の慰藉の言葉が嬉しいです。

  「敗訴となったとしても、貴兄の提訴は渡邉ワンマン時代の読売新聞社の歴史に打ち込んだ 『直撃弾』 として、後世に残ることでしょう」

  はたしてどうか分かりませんが、以下、最後の弁論となった27日の本人陳述を再録します。

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      本人陳述  (2011年4月27日)

  読売新聞法務部と被告側代理人とは、原告の提訴目的が 「渡邉氏を証人申請し、法廷で論争すること」 にあると認識されているようですが、 それは見当違いですし、それゆえに弁論を複雑化し、訴訟を長期化させようとしているとしたら、誠に遺憾です。 被告、原告ともに平均寿命を越えた後期高齢者であることは争えません。できる限り早期の段階での結審をお願いします。

  原告は、65年間にわたって、日本語による文章作成を生業とし、また10数年間、大学でコミュニケーションを講義してきました。 ところが、被告側のこれまでの弁論を読むと、日本語の文脈も時制も無視し、裁判用語としての日本語をいたずらに混乱させていると痛感します。 例えば、「(社論に反した社説を)執筆した」 という過去形、完了形が、「・・・しようとした」 という推量形と同意であるなどという解釈が、 日本語や法律用語として通用するでしょうか。そうであれば、「盗もうとした」 という窃盗未遂に、 「盗んだ」 という窃盗既遂罪を適用して差し支えないことになります。

  原告は、本訴訟の争点は以下のように、極めて明確だと思量します。それを中心に、本裁判所が適切な判断を下されるよう切望いたします。

@ 問題の被告発言で 「社論に反した社説を執筆した論説委員」 とされた論説委員の該当者は、原告以外にいないこと。 因みに、被告は、原告以外の人物の立証を放棄しています。
A 論説委員が 「社論に反した社説を執筆した」 は事実に反し、不誠実な論説委員およびジャーナリストとして指弾され、社会的評価を失墜させたこと。
B アカウンタビリティの不履行が、名誉毀損の不法行為を継続、加重させたこと、あるいは情状に加味されること。

  なお、司法に関して原告が執筆した社論は、「違憲法令審査権の尊重」 です。自衛隊の憲法判断についても同様です。 自衛隊は違憲であるとか、あるいは合憲であるとかは、社論として主張していませんでした。 したがって、「違憲法令審査権の発動」 なら 「自衛隊違憲」 であり、「統治行為論採用」 なら 「自衛隊合憲」 である、 というような前提に立って弁論を展開しているのは、筋違いです。 まして、問題の 「社説の執筆を禁じた」 時、即ち1981年7月7日の正午時点以降の社論、 すなわち 「渡邉持論」 によって確立された読売新聞の社論がいかなるものであったか、それを縷々説明されても、まったく無意味です。

  被告側の弁論によれは、裁判所は、「自衛隊合憲判断」 を下すなら 「統治行為論」 を採用し、もし 「違憲法令審査権」 を発動するならば、 即 「自衛隊違憲判決」 であるかのように帰結されますが、それは司法にとって迷惑な誤解に違いありません。

  なによりも、自衛隊問題に限らず、「違憲法令審査権」 の無視や軽視が不当であり非現実的でもあることは、 相次ぐ 「国会議員定数違憲判決」 によって裏付けられています。 いま、有権者はもちろん、国会議員でも、「違憲法令審査権」 を無視、あるいは軽視したら、大いに見識を疑われるでしょう。 幸いに、1981年7月7日正午以前の、読売新聞の社論は 「違憲法令審査権」 の 「尊重」 でした。 ところが、被告が流布したように、もし原告が当時、そうした 「社論に反する社説を執筆した」 としたら、元司法担当論説委員として誠に恥ずべきことであり、 現にジャーナリストである原告の識見が大いに疑われ、社会的評価が失墜するのは、明白です。

付言
  被告が確立した読売新聞の現社論は、三権分立を否定する時代錯誤の憲法改正を主張しています。 立法府に 「憲法裁判所」 を設け、現司法から 「違憲法令審査権」 を剥奪するものです (注)。

  渡邉氏は、26年間、読売新聞(または読売新聞グループ本社)の主筆であり、さらに終生主筆の座に留まると明言し、「社論に反する社員は去れ」、 と公言しています。そして、30年前までの 「表現の自由が呼吸していた時代」 に社論の決定に参画し、それを社説で表明していた論説委員会は、 渡邉氏によれば 「いいかげんなものだった」 とされ、「社論に反した社説を執筆した」 と誹謗されたのです。

  原告は、論説委員会を去るとき、一線記者を保護するために、法務部の設置を提案しました。 本件の被告は渡邉氏個人であり、読売新聞ではありません。論説委員会や論説委員が誹謗された読売新聞は、この原告の側に立つべきでしょう。 ところが、社の法務部は、利害相反するはずの渡邉氏個人のために貴重な労力と知力と費用とを注いでいます。 そして、あまつさえ、法務部と被告代理人は、相協議して、原告の提訴目的を 「渡邉氏の証人申請」 にあるなどと曲解しています。

  原告は、表現の自由にかかわる事実を明らかにしたいだけです。そして、その反射的利益として、違憲法令審査権と司法の独立が、 まさにこの東京地裁の、この法廷を含む日本の司法から剥奪されないことを願っているのです。

(注) 読売新聞の憲法改正第一次試案(1994年11月)、同第二次試案(2000年5月)。

  「本人陳述」 は以上。

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  なお、被告代理人は、第三回弁論の前夜、膨大な弁論書面を送付してきました。そのなかで、被告は、以下のように述べています。

  「(原告は著書 「表現の自由が呼吸していた時代」)で)事実に反する事柄を述べ、さらに 『あとがき』 でも、 『理解に苦しむのは、渡邉氏がそうした言動を過去の 「若気の至り」 とせず、むしろ現在でも自画自賛し、さらにそれを承知の上で、 日本新聞協会が同氏を会長に選んでいるという日本ジャーナリズムの現状である。』 (612頁)などと述べ、自己のジャーナリズム観に基づき、 被告に対する全く謂れの無い批判を繰り返している」

  実は、この引用部分は、以下の部分についての批判なのです。このように、被告弁論は終始、片言隻句を勝手に引用したり文脈を歪曲したりしています。 以下の事実を 「全く謂れの無い批判」 といえるでしょうか。ジャーナリストなら到底首肯し得ない事実を、最後に紹介して、「敗訴の記」 を結びます。

  「渡邉恒雄氏は、上記六・一五事件(注・1960年6月15日)の際、現役記者でありながら、 『官房長官の官舎に行って政府声明を書いた』 と近著(「天運天職」 光文社刊)で公表している。 しかもこの政府声明は、デモを 『国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動にほかならない』 と一方的に断定したものだった。 その一方で、渡邉氏は、上記新聞七社の 『共同宣言』 を 『これは実にいい加減なものだ』 と侮蔑している」
(2011年4月30日記)