2012.2.28

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 19

前澤 猛
目次 プロフィール

誰が見たのか? 誰から聞いたのか?
    ―報道の原点は 「情報の出所の明示」

  半世紀以上前、新米記者のとき、先輩から口をすっぱくして説教されたのは 「新聞記者は足で稼げ」 だった。「見たようなウソは書くな」 とも言われた。 「自分で取材しないで書く記事はウソと同じだ」 というのだ。
  要するに、現場第一主義、伝聞排除だ。言い換えれば、「提稿するニュースや情報の出所に、記者は責任を持つ」 のがジャーナリズムの根幹だということだ。
  記者が事件現場に足を運ばない、あるいは記事に含まれる情報の出典を明らかに出来ないで、どうして読者・視聴者の信頼を得られるだろうか。
  90年も前、ウオルター・リップマンはこう書いている―「編集者の最も重要な責任は、ニュースの出所の信頼性を判断することだ」。 そして、「特別な能力や訓練無しで処理できる確かな情報などあまりない。ほとんどの情報は、 事実かどうかの判断が編集者の裁量に委ねられる」 (「Public Opinion(世論)」 1922年。前澤訳)と言っている。
  ニュースや情報の確実性の保証については、第一義的には記者が責任を負うが、同時に編集者の介在や眼力も要求される。

  古い話だが、1983年に 「刑務所内での性的暴力」 に関する調査報道でピュリツァー賞を受けたワシントン・ポスト紙(当時)のロレッタ・トファニ記者は、 記事に被害者(複数)の実名を掲載した。当時、日本ではニュース当事者の匿名が増えていた。 人権に関する報道基準 「書かれる立場 書く立場」 (読売新聞1982年刊)の作成に当たっていた私は、「なぜ被害者の身元を明かしたのか」 と彼女に聞いた。 答えは 「記事の信頼性を保証するためです」 だった。
  実は、その2年前には、同紙の記者ジャネット・クックが 「8歳の少年のヘロイン常用」 報道で同賞を得ていた。 しかし、それは捏造記事だった。その時、同紙のオンブズマン、ボブ・グリーンは、膨大な検証記事を同紙に載せたが、 その中で、情報源の確認を怠ったポスト紙編集者の責任を厳しく指摘した。

  もちろん、情報源に関するジャーナリズム倫理には 「秘匿」 という厳しい義務がある。 最近、とくに二つの出来事から 「取材源の秘匿」 が社会の注目を浴びた。
  その一つは、2006年、母子3人を死亡させた 「奈良放火殺人事件」 の加害少年の供述調書内容をフリー・ジャーナリストに見せた精神科医師に対する秘密漏示容疑事件だ。 最高裁第2小法廷が2月13日、被告の上告棄却を決定し、1、2審の有罪判決{懲役4月、執行猶予3年)が確定した。

  もう一つは、外務省秘密漏洩事件をテーマとした山崎豊子原作の連続ドラマ 「運命の人」 だ。TBSテレビの放映が高視聴率を得ている(2月末現在)。
  この二つとも、情報提供者の身元が露見し、いわゆる 「取材源の秘匿」 が守れなかったジャーナリストの責任が問われた事件だ。
  それらがきっかけで、メディアは一斉に 「取材源秘匿徹底を」 (2月16日、読売新聞)と強調した。 しかし、「取材源秘匿」 は 「Confidential news source」 と訳されるが、Confidential には 「秘密」 と 「信頼」 との二つの意味が含まれている。 つまり、信頼で結ばれたジャーナリストと情報提供者との間で、ひとたび 「情報源秘匿」 が約束された場合には、という前提がある。
  その倫理が拡大解釈されたり、あるいはそれに便乗してだろうか。 このところ、不必要に、あるいは無責任に 「情報の出所」 を明示しない記事やコラムが目立つようになった。
  たまたまだが、外務省秘密漏洩事件で社会の批判を浴びた毎日新聞にそうして傾向がみられはしないだろうか。 そうだとしたら、同紙の自由な論調が広く評価されているだけに、惜しまれる。 とくに大記者のものする記事に対して、「信頼性のチェック」 という編集者の責任が十分に果たされていないように思われる。 それがうがち過ぎかどうか、同紙のコラムをいくつか見てみよう。

  2月17日のコラム 「金言」 で、西川恵・専門編集委員は、こう書いている。
  「2月11日はイラン革命33周年だったが、前々日の9日、 イラン政府は各国の大使をテヘランの外務省迎賓館に招いてナショナルデーの式典と夕食会を催した… 日本の駒野欽一大使は…ペルシャ語で革命記念日の祝意を伝え、『日本は問題解決のために協力する用意がある』 との日本政府の立場を伝えた」
  「大使の多くは単身赴任だが、奥さん連れの大使約20人がカップルで出席した。 夫人たちは大きなスカーフで髪を隠し、体の線が出ないゆったりとしたひざ下まである長い丈のドレスだったが、夕食会に華やかさを加えた」

  1月27日の 「金言」 では次のように書いている。
  「中国の胡錦濤国家主席が国賓で米ワシントンに迎えられたのは1年前である…ホワイトハウスで200人以上を招いた歓迎晩餐会が開かれた。 両国にかかわる面々に交じって人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチのケネス・ロス代表がいた…会場に足を踏み入れて驚いた。張大使と隣同士だった」
  そして、人権に関する二人の多くの会話が記述され、最後に 「ロス代表は 『…大きな成果だった』 と振り返る」と書いている。
  これでは、西川氏は東奔西走、多くのパーティ外交に出席していると受け止められるだろう。

  それに先立つ1月7日、同紙の 「近聞遠見」 で、岩見隆夫・客員編集委員は、次のように書いている。
  「1972年9月、北京での日中正常化交渉。初めて周恩来・中国首相と人民大会堂で向かい合った時、 田中はまず、『蒋介石をどう思うか』 と聞いた…周は言下に、意外な答えをした。 『彼は中国人の代表だ』。…『死刑の判決をやり合ったりしてきたではないか』 と田中はたたみかけたが、 『蒋介石は世界に誇る中国人の代表の一人だ』 と周は再びきっぱり言う」
  「翌73年10月の訪ソ。クレムリンでブレジネフ書記長、コスイギン首相に田中はのっけから切り込んだ。 『…日本があっさり無条件降伏した時に、中国政府は大陸にいた数百万人の日本軍兵士や在留邦人を〈母のもとに帰れ〉と送り返した。 ところがソ連は何十万という関東軍の兵士をシベリアに連れていったじゃないか』。 ブレジネフが即座に反論した。『中国は飯を食わせられないから、口減らしのために早く返したんだ』。 『何を言うか。多くのわが同胞に酷寒のシベリアで飯もろくろく食わせず、(同胞は)無念の思いで死んでいったんだ』 …」
  こうした内幕は、岩見氏が直接田中元首相から聞いた話かもしれない。しかし、これらの外交上の重要な言動は、その出典が明らかにされないまま、 後年、歴史的事実として確定するのだろうか。

  ここで、逆に、「情報源が明示された」 重要な記事に触れて置きたい。それは、原発事故に関する朝日の長期連載 「プロメテウスの罠」 のうちの、 とくに35回にわたる 「官邸の5日間」 (1月3日〜2月6日)だ。
  菅首相を初めとする官邸周辺の、事故発生(2011年3月11日)から数日間の動きは、これまでメディアで勝手に様々に報道されてきた。 一体事実はどうだったのか、媒体によってまちまちだった。例えば、その間、東電は福島原発からの 「全面撤退」 の方針を政府に伝えたのか。 いや、官邸側が、勝手にそう解釈したのか。連載(シリーズ 「官邸の5日間」 最終の35回。2012年2月6日)はこう書いている。

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  東電社長の清水正孝に会おうと広報部課長の長谷川和弘に取材を申し入れたが、応じてもらえなかった。
  清水に尋ねたかったのは、東電が何を官邸に要請していたかの問題だ。 官邸のいう 「全面撤退」 だったのか 「作業に直接関係のない一部の社員の一時的退避」 だったのか。 清水は周囲に 「俺は二度と過去のことを語ることはない」 といっている。
  清水は経済産業相の海江田万里らに撤退問題で頻繁に電話をしてきていた。15日午前3時すぎ、内閣危機管理監の伊藤哲朗は執務室で菅にいった。 「決死隊のようなものをつくってでも頑張ってもらうべきだ」。菅も 「撤退はあり得ない」 といった。経緯はこのシリーズの前半で報じた通りだ。
  その後、清水は官邸に呼ばれ、撤退しないことを即座に了承した。伊藤は 「東電はあれだけ強く撤退といっていたのに」 と不審に思う。
  そう思ったのは午前3時前、総理応接室にいた東電幹部が 「放棄」 「撤退」 を伊藤に明言したからだ。
  元警視総監の伊藤はそのやりとりを鮮明に記憶している。
  伊藤 「第一原発から退避するというが、そんなことをしたら1号機から4号機はどうなるのか」
  東電 「放棄せざるを得ません」
  伊藤 「5号機と6号機は?」
  東電 「同じです。いずれコントロールできなくなりますから」
  伊藤 「第二原発はどうか」
  東電 「そちらもいずれ撤退ということになります」
  政府の事故調査・検証委員会の中間報告は撤退問題を、官邸側の勘違いとの調子で片付けている。(木村英昭)

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  最近、緊迫したこの当時の記録を政府が残していなかったか、あるいは実際に取っていなかったのか、そうした信じられない事実が判明した。 「撤退」 をめぐる真実も永遠に闇の中かもしれない。
  しかし、この連載のように、発言者など情報の出所・出典が明らかにされた記事が、リップマンも言っている 「編集者の最も重要な責任は、 ニュースの出所の信頼性を判断することだ」 という古典的ジャーナリズムに、真摯に向き合っていることは疑いがないだろう。
(2012年2月27日記)