2013.10.16

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 30

前澤 猛
目次 プロフィール

再検証:捏造された証拠
―「白鳥事件」 の有罪確定から50年
  新聞記者としての私の初任地は札幌だった。忘れもしない1956年5月19日―石狩原野はまだ雪に覆われていた。 北海道総局で、暖かく迎えてくれた先輩の一人が、後に推理作家として名を馳せた佐野洋こと本名・丸山一郎さんだった。 個人的には優しかったが、取材は鋭かった。とくに、司法記者のあり方を厳しく教えられた。

  私が裁判に 「関心」 と 「疑問」 とを併せて抱くことになったのは、この札幌でだが、当時から特に注目し、 長い間、取材を続けることになった事件に 「梅田事件」(1951年の強盗殺人、死体遺棄事件)と 「白鳥事件」(1952年の白鳥警部射殺事件)がある。 両方とも供述調書や物証の証拠能力が法廷で激しく争われた難事件で、再審が請求された。 後年、梅田事件の被告梅田義光さんは再審裁判で無罪となり(1986年8月、釧路地裁)、 白鳥事件の村上国治・元被告は再審請求が退けられた(1975年5月、最高裁)。

  村上元被告に対する控訴審の有罪判決(殺人罪で懲役20年)が最高裁で支持され、上告棄却の決定が出たのは、ちょうど50年前(1963年)の10月17日だ。
  しかし、この事件では、捜査当局による証拠の捏造が強く疑われている。事件直後に配られた 「天誅ビラ」 の一部はどこで作られたのか。 そして何よりも、事件前に試射されたという唯一の物証・2個の銃弾の信憑性だ。

  最近、白鳥事件の真相に迫る注目すべき単行本が、相次いで出版された。 渡部富哉著 「白鳥事件 偽りの冤罪」(2012年12月、同時代社)と、後藤篤志著 「亡命者 白鳥警部射殺事件の闇」(2013年9月、筑摩書房)だ。 渡部氏は日本共産党の内部を知る人として、また後藤氏は放送ジャーナリストとして、ともに深く長く関係人物や資料を追い求めてきた。 精緻を極めたドキュメントだ。両書ともに 「冤罪」 説を取っていないが、捜査当局による証拠捏造やスパイ利用を厳しく指摘している。 (札幌で、私たち記者は、スパイにさせられそうになった北大生を、捜査当局から救出したことがある)

  1975年5月、再審請求の特別抗告を退けた最高裁の 「白鳥決定」 は、再審請求における証拠の評価を緩めはしたものの、村上被告の有罪を支持し、 再審請求を退けた。しかし、矛盾するのは、唯一の物証とされた2個の弾丸の価値判断だ。証拠能力をはねつけながら、なお有罪は揺るがないとした。

  弾丸は、2年前後の日数と述べ1万余人の警察官を投入して、札幌郊外の山中で発見されたとされた。 そして、捜査段階から有罪判決確定に至るまで、ゆるぎない物証とされた。 だが、再審請求に至って、最高裁は、 この弾丸について 「第三者の作為、ひいては不公正な捜査の介在に対する疑念が生じうることも否定しがたいといわなければならない」 という判断を下した。 要するに、「被告を有罪にするために、捜査当局が物的証拠をでっち上げた≠フだろう」 と断定したといってよい。 もし再審以前の原審の段階で、弾丸が捜査当局の捏造だと判定されていたら、原審は同じように有罪判決を下せたであろうか。

  白鳥決定が出たとき、私は次のような社説(1975年5月23日)を書いた。
  「これで、有名な公安事件のほとんどに、捜査当局の不公正な行為がまつわりついていることになる…仮に真犯人を逃すとしても、真実を隠したり、 虚偽を作りあげることは許されることではない」

  佐野洋さんの慧眼

  ここで、横道に逸れるが・・・。昨年、佐野洋さんから 「会いたい」 という電話をいただいた。 「布川事件」 など、主に冤罪事件について、しばしば電話や手紙のやり取りはあったが、お会いするのは久し振りだった。 顔を合わせると、いきなり 「僕はアルツハイマーにかかってね」 と言われた。「もう、推理小説が書けないんだ」 と笑った。そして、今年の4月、急逝した。

  私にとって佐野さんは、作家というより、事件記者であり司法記者だった。しかし、亡くなられてから、改めて佐野さんの創作作品を読み始めた。 そしてその一つ 「雪とヘドロ」 に驚いた。

  作品は、1967年6月、愛知県半田警察署で巡査が刃物で刺し殺された半田署事件を基にしている。 半田署は、暴力団風天会の犯行と見て、メンバーを次々と逮捕した。そして、その容疑者の一人の 「凶器を捨てた」 という自供に基づいて、 近くの港の底を3か月にわたって徹底的に浚渫し、ヘドロの山を築いた。しかし、凶器が見つかるはずはなかった。 後日、凶器を持って自首してきた真犯人は風天会とは無関係だった。 小説では、その間に、風天会に恨みを持つ女が、刃物を港に捨てて凶器を捏造しようとする。 そしてストーリーは、白鳥事件の銃弾と重ね合わせて、「もし、白鳥事件が半田署事件と同じように、砂上の楼閣であったなら…」 と結んでいる。

  この作品は、1968年初めに 「小説宝石」 に掲載された。それは、最高裁が 「白鳥決定」 の中で弾丸の証拠捏造を指摘する7年前のことだ。 佐野さんの生の事件に対する推理力、洞察力は、裁判所をはるかに凌駕していた。
(2013年10月16日記)