2008.4.1

【マスメディアをどう読むか】

関東学院大学教授・日本ジャーナリスト会議
 丸山 重威
目次 連載に当たって

◎メディアの姿勢と「集団自決」
問題にすべきことは何だったのか?

  ▼際だつ読売、産経の主張

  こんなことまで問題にするメディアは、本当にそれでいいと思っているのだろうか。
  「『軍命令』 は認定されなかった」 と書く読売の社説、「論点ぼかした問題判決だ」 と書く、産経の 「主張」 だ。
  沖縄戦での 「集団自決」 について、軍の関与があることを明らかにした大江健三郎氏の 「沖縄ノート」、家永三郎氏の 「太平洋戦争」 に対して、 その当事者とされた元軍人らが名誉棄損だ、と訴えた裁判の判決に対する考え方だ。
  各社のタイトルでわかるように、この判決を妥当とするものが多いのだが、この2紙だけは違っている。
  例えば読売は、判決が 「旧日本軍が集団自決に 『深く関与』 していた」 と認定した部分より、 「自決命令それ自体まで認定することには躊躇 (ちゅうちょ) を禁じ得ない」 とした部分を評価し、その 「命令」 がわからないことを、 「軍の 『強制』 の有無については必ずしも明らかではない」 と読んで、「(教科書の) 『日本軍による集団自決の強制』 の記述は認めないという検定意見の立場は、 妥当なものということになるだろう」 と結論づける。
  ※ 参照

  まるで安倍首相の 「間接的な強制はあったかもしれないが、直接的な強制はなかった」 と言ってのけた慰安婦問題での答弁を聞くようだ。
  また産経は、「教科書などで誤り伝えられている “日本軍強制” 説を追認しかねない残念な判決である」 とし、 「最大の論点は、沖縄県の渡嘉敷・座間味両島に駐屯した日本軍の隊長が住民に集団自決を命じたか否かだった。 だが、判決はその点をあいまいにしたまま、『集団自決に日本軍が深くかかわったと認められる』 『隊長が関与したことは十分に推認できる』 などとした」 と述べ、 「日本軍の関与の有無は、訴訟の大きな争点ではない。軍命令の有無という肝心な論点をぼかした分かりにくい判決といえる」 と書いている。

  読売も 「集団自決の背景に多かれ少なかれ軍の 『関与』 があったということ自体を否定する議論は、これまでもない。 この裁判でも原告が争っている核心は 『命令』 の有無である」 としているが、「軍の関与は否定できない」 としながらの議論は奇妙である。

  ▼判断の起訴は名誉棄損の要件

  しかし、そもそもこの判決で明快に言い切っているのは、この2つの著書がともに、「公共の利害に関する事実に係り、 もっぱら公益を図る目的で出版された」 と認められるものであり、原告らが 「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても、 その事実については合理的資料もしくは根拠がある」 と評価し、著者らが 「真実であるとと信じるについて相当の理由があった」 と認めた、ということである。
  すでに判例で確定されているように、メディアが名誉棄損に問われるのは、公共性や公益性を欠くような恣意的な論調や報道をされ、 それが事実に基づいておらず、しかも真実と信じる 「相当の理由」 が欠けているような場合である。
  その意味で、資料調査と聞き取りに十分な時間と労力をかけて書かれ、既に歴史的文献となっている大江さんや家永さんの著書を、 名誉棄損で訴えることなど、相当の無理がある。裁判の中で原告はふたりとも、裁判になって初めて 「沖縄ノート」 を読んだことや、 他人に勧められて訴えたことを告白せざるをえなかった。むしろ彼らを使って政治キャンペーンしようと考えた人たちに責任があることは明らかだろう。

  ▼沖縄2紙が訴えていること

  「史実に沿う穏当な判断」 と書く沖縄タイムスは、同様に沖縄で起きた日本軍の住民殺害に触れ、「『集団自決』 と 『日本軍による住民殺害』 は、 実は、同じ一つの根から出たものだ」 と指摘し、最後に 「ところで、名誉回復を求めて提訴した元戦隊長や遺族は、 黙して語らない 『集団自決』 の犠牲者にどのように向き合おうとしているのだろうか。今回の訴訟で気になるのはその点である」 と問いかけている。
  また、「体験者の証言は重い 教科書検定意見も撤回を」 と主張した琉球新報は、「ここで問題にすべきは、大江さんの言うように 『個人の犯罪』 ではなく、 『太平洋戦争下の日本国、日本軍、現地の第32軍、島の守備隊をつらぬくタテの構造の力』 による強制であろう」 と書き、 「この裁判によって、沖縄戦史実継承の重要性がいっそう増した。生き残った体験者の証言は何物にも替え難い。 生の声として録音し、さらに文字として記録することがいかに重要であるか。つらい体験であろう。しかし、語ってもらわねばならない。 『人が人でなくなる』 むごたらしい戦争を二度と起こさないために」 と、沖縄のジャーナリズムらしい決意を述べている。

  一方、読売新聞は、「原告は控訴する構えだ。上級審での審理を見守りたい」 と書く。メディアの役割は、現場に行って証言を集め、事実を解明することではないのか?

  ▼「集団自決」ということば

  私は実は、ちょうど大江・岩波裁判の判決が出る日、沖縄にいた。沖縄で憲法を考えるツアーに参加し、高江、辺野古といった基地闘争の現場や、 嘉手納、普天間の現場、そして沖縄戦の 「ガマ」 などをめぐっていたためだ。

     ハワイ帰りの男性が米軍と交渉し、
全員を納得させて約1000人の人が助かったという 「シムクガマ」(読谷村)

  旅行最終日の28日、「ひめゆりの塔」 を訪ね、那覇に戻る途中のバスの中で、携帯のネットで速報を見た仲間が 「大江・岩波裁判は、 原告の請求を棄却」 と大声を上げた。最後の予定していた訪問先は琉球新報社だったため、琉球新報の夕刊の刷り出しを現場で見学し、 同社の新聞博物館で、沖縄の新聞の歴史を改めて学んだ。
  今回の裁判でも、沖縄2紙の用語は、本土の新聞と違っている。琉球新報は、「沖縄戦中、座間味・渡嘉敷両島で起きた 『集団自決』 (強制集団死) をめぐり…」 と書き、 沖縄タイムスは、「沖縄戦時に座間味、渡嘉敷島で起きた 『集団自決 (強制集団死)』 は…」 と書く。 つまり、沖縄戦の中で、ガマで手榴弾や毒物、あるいは鎌で傷つけあって多くの犠牲者を出した事件は、「生きて虜囚の辱めを受けるな」 と教え、 「軍民共生共死」 と言って 「軍民は一体だ」 と教えた結果の集団死は、「強制集団死」 であり、「自決」 とは明らかに違う、という表現だ。


自決を主張する男性と、それを逡巡する住民と2派に分かれて議論したあげく、
決行者が出て、140人中、83人が集団死した 「チビチリガマ」 の碑。 集団自決とは、
「皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことである」 と書かれている。

  琉球新報の新聞博物館には、サンフランシスコ講和条約の発効で 「うるま新報」 から 「琉球新報」 に戻った日の新聞が展示されていた。 「沖縄は沖縄で着実なあゆみを続けなければならない」 という趣旨の社説しか書かれていないところに、そこで闘ったジャーナリストの無念さを改めて思った。 沖縄はこの日、本土と切り離されたのである。
  その後、闘いの結果、本土復帰は果たしたが、復帰後も基地は残り、いま 「一部返還」 という名の機能強化が進んでいる。
  高江でも辺野古でも、「沖縄基地が強化されていくことは、われわれが加害者になること。ファルージャには沖縄の海兵隊部隊が行った」 と聞いた。 死者が出ると、基地には半旗が翻るという。
  沖縄のことを書けばいいのではない。メディアはもっと 「原点」 にかえらなければいけないのではないか。そんなことを改めて考えている。

2008.4.1