2008.4.29

【マスメディアをどう読むか】

関東学院大学教授・日本ジャーナリスト会議
 丸山 重威
目次 連載に当たって

◎なぜ、「原告敗訴」「裁判長退官」なのか
イラク派遣違憲判決に問われる立憲政治とメディア(下)

  それにしても、イラクの実態を審理し、政府の9条解釈と法律を点検した判決が、「伊達、福島判決以来の九条判断」 といわれたが、 原告をほんの一部でも勝たせるのではなく、全面的に請求を退けて国に控訴させないようにしてしか、 憲法違反の判断を示すことができなくなっている 「憲法のいま」 を考えざるを得ない。
  そして、その判決がこんなに無視され、ないがしろにされて平気な政治状況…。これで 「日本は立憲主義国家」 だ、と言えるのだろうか。

  ▼「違憲」判断の「難しさ」
  伊達秋雄裁判長も福島重雄裁判長も、その時代、違憲判断とともに、原告を勝たせることで 「勇気」 を示した。しかし、いまはどうも事情が違っている。
  「良心」 に基づいて独立して判断するはずの裁判官だ。まっすぐ考えれば、こうならざるを得なかったのだ、と信じたいし、 そう受け取らなければならないのだが、「傍論批判」 の一方には、今回も、岩手靖国訴訟、福岡靖国訴訟などと同様、 裁判官が違憲の判断を残すためには、結論は請求を棄却しなければならなかったのではないか、という推測が付いて離れない。 しかも、退官の直前の判決である。判決については 「勇気ある判決」 だったという評価の一方で、そうした判決のあり方を批判する声も後を絶たない。

  今回の判決は、 @ 「自衛のため必要最小限の武力行使は許され」、 A 自衛隊の海外での行動も、輸送や補給などの協力は、 他国による武力行使と一体とならないものは許されている、とする政府の九条解釈を基に、 B その法律に基づいて作られた特措法では、 武力による威嚇または武力の行使ではなく、戦闘行為が行われることがない地域で活動することになっているが、 C 「認定できる事実」 によると、 「多国籍軍の活動は単なる治安活動の域を越え」、イラクはいまも 「国際的な武力紛争」 が行われており、 D 安全確保支援活動を名目とした空自の活動も 「現代戦では輸送なども戦闘行為の重要な要素」 で、 「多国籍軍の戦闘行為にとって必要不可欠な軍事上の後方支援」 となっており、 E 「少なくとも多国籍軍の武装兵員を、 戦闘地域のバグダッドへ空輸するもの」 は 「他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」 −という論理構成になっている。つまり、現在のイラクと空自の活動の事実認定を詳細にした上での判決である。

  従って、例えば、自衛官自身が訴えていたら、「平和的生存権」 から賠償を認めることが可能だったかもしれない、ともいえるのだが、 それにしても、最高裁に行けばまず無理だろう、というのはかなり常識的な判断になってしまっている。

  朝日の社説の最後に、次のような一節がある。
  「日本の裁判所は憲法判断を避ける傾向が強く、行政追認との批判がある。それだけにこの判決に新鮮な驚きを感じた人も少なくあるまい。 本来、政府や国会をチェックするのは裁判所の仕事だ。 その役割を果たそうとした高裁判決が国民の驚きを呼ぶという現実を、憲法の番人であるはずの最高裁は重く受け止めるべきだ」 ―。
  私の理解によれば、朝日は 「この判決も、もし原告を勝たせてしまえば、政府側が最高裁に上告し、最高裁では違憲判決は出なかった可能性が強い。 最高裁がいま、結局、政府の行為を司法的に追認するだけの機関になってしまっている状況は、それでいいのか、反省しなければならないのではないか」 と、 言いたかったのではないかと思う。

  本当にこんな状況でいいのだろうか? 司法が三権分立の一権力として、十分な機能を発揮していないことが、政治家が憲法をバカにし、 自衛隊幹部に、司法判断を 「そんなの関係ねえ」 と言わせてしまう原因の一つにもなっているように思えるのだが、どうだろうか。 そして、その司法の機能を果たさせるために、憲法学や公法学、政治学に責任はないのか、と思うのは、私だけではないだろう。

  ▼憲法解釈と歴史的責任
  今回の判決は、前述したように、基本的に 「自衛隊の海外活動に関する憲法9条の政府解釈は、自衛のため必要最小限の武力行使は許されるとし、 武力の行使とは、わが国の物的 ・ 人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為をいうことを前提としている」 と、政府の解釈をそのまま使った。
  これは、裁判所自身がそう解釈しているということではないようだし、政府解釈に乗ることで、それを 「歯止め」 にしようと考えるのはひとつの選択であり、 「それにもかかわらず、実態は違憲だ」 という言い方には説得力があり、日本を戦争の道に引き入れさせないための最も現実的な方策だと思う。

  しかし、憲法九条の解釈がそれでいいかどうか、という点では、やはり違和感を感じる人が多いことも事実だろう。 「自衛隊違憲論」 がその一つだし、逆に 「自衛隊はこのままでは違憲だから、改憲が必要だ」 という論拠は、 肥大化する自衛隊の状況を何とか合憲化したいという改憲論の論拠のひとつにもなっている。 そして、内閣法制局が、自衛隊の現状と憲法の矛盾を埋めるために、「専守防衛」 や 「集団的自衛権の否定」 で論理を構成し、 それがいまの憲法9条を支えていることも事実だろう。
  私自身、憲法学的な理論展開と、政治学的な論理とをどう噛み合わせていくべきかについて、そんなに確信があるわけではない。
  しかし、学問というものが、常に 「時代」 と切り結んで、新たな真理と人類の未来に向けての展望を示すものだとするならば、 かつてなく悲惨な戦争を経験し、地球を全滅させかねない兵器を手にした人類が、再び戦争をしないと誓って、戦争違法化への道に歩み出し、 その成果として生まれた日本国憲法9条を、定着させ、力にしていくための理論構成と実践は、むしろこの時代に生きるわれわれの任務であり、責任と言うべきだろう。

  いまの自衛隊は、政府が言う 「必要最小限の戦力」 からいっても、限りなく違憲に近い状況だ、と私は思う。 政治的には、地雷だのクラスター爆弾はもちろん、攻撃的兵器を順次廃棄し、名実ともに憲法9条を持つ国の実力部隊にする程度まで縮小すべきだと思う。 そうした中でこそ、現在の政府解釈も、国民の多くの支持を得るだろうし、アジアをはじめ世界の人々の共感を得て、日本が評価され、理解されるのだと思う。

  18世紀の終わりに 「永遠平和のために」 で 「常備軍はときとともに全廃させなければならない」 と書いたイマニュエル・カントや、 1927年のパリ不戦条約を持ち出すまでもなく、また、1999年のハーグ世界平和市民会議や、 最近の GPPAC (Global Partnership for the Prevention of Armed Conflict =武力紛争予防のためのグローバルパートナーシップ) の決議を持ち出すまでもなく、 憲法9条の国際的実現は、いまの時代に生きるわれわれの課題であり、次代への責任である。 5月4日、5日の 「9条世界会議」 もそんな自覚の上に立って開かれるはずである。

  裁判官は歴史に残る判決をひとつぐらい書きたいと考えているものだ、と聞いたことがある。 しかし、その機会は求めて得られるものではないし、今回も選んでそうしたわけはなかろう。新聞記者も同じで、大きな舞台でいい仕事をしたいと考える。 しかし、どこでどんな事件にぶつかるかわからないし、逆に、重要な事件にぶつかっていながら見過ごしたり、手が回らなかったりして終わってしまう場合も少なくない。

  今回の判決は、「確定」 を導いたことで、裁判長本人に対する誹謗、中傷に近い批判が聞かれる。 読売、産経だけでなく、北國新聞も 「イラク派遣差し止めや慰謝料請求など原告の訴えを退け、控訴を棄却しながら、 あえて憲法判断に踏み込む必要があったのかどうか」 「バグダッドへの輸送活動は、憲法と特措法上のいわば 『グレーゾーン』 にあって、 それを実行するかどうかは最高度の政治判断にゆだねるほかない」 などと言っている。

  しかし、果たしてそういう問題なのだろうか?
  退官しても 「裁判官は弁明せず」 かもしれない。しかし、青山裁判官は、歴史の中に生きる法律家として何を考えたか、 そのことと、政府解釈の採用とどう関わりがあったのか。私は、裁判長の胸の内をいつかじっくり聞いてみたい気がしている。                                 
(了) 2008.4.29