2009.6.23更新

【マスメディアをどう読むか】

関東学院大学教授・日本ジャーナリスト会議
 丸山 重威
目次 連載に当たって

◎足利事件のDNA鑑定を勘ぐってみる…
栃木県警はなぜ間違ったのか、メディアはどうだったのか?


  足利事件の菅家利和さんが釈放され、再審が始まろうという時期になって、どうにも不可解なのは、 警察当局が問題のDNA鑑定についての科学的事実を明らかにしようとしないことだ。 当時、DNA鑑定が始めて使われ、真実発見に威力を発揮する、と持ち上げたマスコミも、千人に一人ちょっとだったのが、四兆何千億人に一人の確率に高まった、 といった抽象的な説明だけだ。
  記者根性そのままの全くの勘ぐりだが、当時、DNA鑑定は本当に、正しく行われたのだろうか、という疑問が消えないのだがどうだろうか? まさか警察のねつ造ではない、と思いたいが、今後のDNA鑑定を考えると、菅家さんのケースは、なぜ間違ったかについて、疑いがないまでに検証され、 明らかにされなければならないと思う。
  つまり、(1) むしろ菅家さんの残したティッシュか何か知らないが、それを見つけて証拠の被害者の衣服のどこかに付け 「偽造」 するとか、 うっかり両方の体液を混同してしまった可能性はないのか? (2) そもそもDNA鑑定の資料となるべき菅家さんの体液は、 尾行を続けていた捜査班がティッシュを捨てるのを見て採取した、と報じられているが、正確には、いつ何を、どうやって取って、いつ鑑定したのか?  これは違法な証拠収集ではなかったのか? (3) DNAと「自白」の関係だが、菅家さんは、事件後、一年半経って、自宅から、知り合いの結婚式の当日連行されている。 このとき、DNA鑑定はどうなっていたのか。警察はこのとき逮捕状を取っていたのか、いなかったのか。 DNA鑑定は、自白の前提だったのか、それとも 「自白」 後の裏付けだったのか?

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  あの事件が起きたとき、というより正確には菅家さんが逮捕されたとき、私は共同通信の整理部長だった。 正確には調べないとわからないが、「初のDNA鑑定で判明」 みたいな原稿があったと思う。出稿してきたのは、社会部だっただろう。 「おい、本当に大丈夫なのか?」 とデスクに声をかけたことを記憶している。
  相手が誰だったか、内容がどうだったかの記憶はないが、もう一件、関東近県でDNA鑑定を使った事件があった気がするが、 「科学捜査」 ともてはやす向きもあっただけに、「あまのじゃく精神」 がそう言わせた。
  警察も弱かったかと思うが、メディアも 「科学」 には弱い。「DNAが一致してるんだってさ!」 と言われると、それだけでごまかされ、 その 「証拠」 がどうやって取られたか、といった検証は抜けがちになる。 恐らく、そのときの報道を調べても、証拠の採取についての詳細は報道されてはいないのではないか。裁判でどういう立証がされたか、それは知らない。 一審では弁護士までも、一旦否認に転じた菅家さんを説得して、自白を維持させ、上申書を書かせているというのだから始末に悪い。
  最近になって、「わたしはたまたまその公判を傍聴していた。菅家さんは、絞り出すような声で 『やってはいないんです…』 と言った」 という話も聞いた。 報道はどうだったのだろうか? 弁護士が認めているんだから…、という安易な黙殺がなかったかどうか?

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  菅家さんが釈放されて、メディアの責任に気が付き、すぐそれを字にしたのは毎日新聞だった。
  毎日6月11日付は 「事件報道重い課題 『犯人』 前提の表現も」 との見出しで、「毎日新聞も 『真犯人は菅家容疑者』 を前提に報道を続け、 疑問をはさむ記事はなかった」 「県警取材に基づく記事とは別に、犯人であることを前提にしたような報道があった。 逮捕を報じた12月2日朝刊の紙面で、菅家さんの以前の勤務先の幼稚園関係者の話として 『事件のことが話題になっていたのに、 (菅家さんは) 無関心だった』 との談話を載せた。また女児が通っていた保育園の話として 『これで成仏できるだろう』 との一文を入れた」 「(12月) 29日朝刊の 『取材帳から』 と題したコラムでは 『いたいけな幼女の命を次々に奪った疑いの菅家被告。 あまりにもケロッとしているその素顔を、どう理解すればよいのか』 という表現があった」 などと指摘、反省している。
  この記事ではDNA鑑定についても、「個人を識別する際、別人のDNA型でも一致してしまう確率は、当時、血液型と併用して 『1000人に1・2人』 だった。 現在の 『4兆7000億人に1人』 と比べると相当低いが、当時は画期的とみられていた。 取材班は、当時のDNA鑑定の証拠能力を過信し、容疑者特定の決め手ととらえていた。精度を巡る議論は十分ではなかった」 と書く。
  しかし、それなら一層、今後、こうした問題を起こさないために、証拠採取の問題は重要になってくる。「データ」 は人間を誤信させる。 「データが引き起こす誤り」 を防ぐための手だてが求められてくるのだと思う。

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  そんな中で、再審開始に当たって、弁護団は 「事件の検証」 を求め、鑑定をした科捜研の係官の証人尋問などを求めている。 当然のことだし、誤りがあったなら、「なぜか」 を率直に明らかにする。当然のことである。
  裁判所はそういう要求をも 「裁判引き延ばし」 として一蹴した。なぜ、隠すのだろう。やっぱり鑑定の過程にも具合が悪いことがあったのだろうか?  一審の弁護士も率直に発言してほしい、刑事も、検察官も、裁判官も発言してほしい。
  テレビ朝日のシリーズ 「科捜研の女」 は、見込み捜査の誤りを見つけ、科学の目で真犯人に向かっていく。 科捜研への期待を含めた、そんなイメージを傷つけないためにも、科学者は率先して、証言台に立つべきだ。
  それができなかったら、警察はやっぱり、証拠を「ねつ造」しかねないし、データもどこまで信用できるか分からない、という疑惑は晴れない。
  疑い深い昔の記者の勘ぐりである。
2009/6/23