2009.6.11

小さき人々にとっての20世紀

中野 慶 (編集者)
目次

第二回 回想のベトナム反戦運動

  ベトナム最大の都市ホーチミン、イナゴの大群のようなバイクの波が大通りを埋め尽くす街を三回訪れたことがある。 それぞれのバイクに目をやればマスクをつけた女たち、親の背中にしがみつく子どもたちの表情がまぶしかった。

  この街を訪れるたびに戦争証跡博物館に足を運ぶ。戦争の連続であったベトナムの20世紀を、貴重な写真やパネルが伝える。 アメリカのベトナム侵略の実態とベトナム人民がいかに抵抗し勝利したかが描かれている。 各種の兵器、虐殺の記録、政治犯の虐待などベトナム人民の苦難と抵抗をモノ語る展示品に息を呑む。 過去三回の見学を通じて、この博物館がどう変化していくのかも見逃せないと思った。

  ベトナム反戦運動に関わった世代は、この博物館の片隅での世界のベトナム反戦運動の紹介に感慨を覚えるのではないか。 日本での運動が詳しく展示され、(現在は展示が変化してベ平連関係の資料も展示しているらしい。 ただ、少なくとも21世紀初めまで) その内容がベトナム共産党と長年の強い絆を持つ日本共産党系の運動を前面に押し出したものであったことについて、 違和感を持った人がいるかもしれない。

  日本でのベトナム反戦運動は (単一ではなく多様な) 政党・労働組合主導の運動だけでなく、ベ平連に象徴されるような個人参加型の市民運動が大きな役割を果たした。 そのこと自体は改めて確認するまでもない。べトナム反戦運動に関わった40年前の小学生である私としては、 戦争証跡博物館のある一角の展示が適切か否かという (ある意味ではわかりやすい) 論点よりは、もう少し異なる角度からベトナム反戦運動について考察してみたい。

  一昨年刊行された、高橋武智 『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた……』 (作品社) は、べ平連の非公然部隊ジャテックによる脱走米兵を匿う運動について、 従来秘匿されてきた運動の全容を明らかにした。旅券偽造などの犯罪にもコミットし国際的なネットワークの力で脱走米兵の出国に成功したことを初めて描いている。 敢えて法律に抵触した人たちを含めて、日本でのベトナム反戦運動が存在していたことを私は痛感することになった。

  ベトナム反戦運動は、運動のスタイルはその運動体の性格を反映して様々であり、反戦意識と戦争認識の内実も決して一枚岩ではなかったのではないだろうか。 今になって私はそのことが気にかかる。

  1969年当時の私は、ベトナム反戦と沖縄返還を求める渦の中にいた。ただその当時の私は、戦争それ自体が悪であるという問題意識を持っていただろうか。 私は過去の十五年戦争を憎み始めていた。児童文学の幾多の作品との出会いがあり、身内にも戦死者がいた。 自国の兵士を無惨な死に追いやり、アジアの民衆に多大な犠牲と屈辱を強いた戦争に負けて、日本が戦争放棄の憲法第九条を持ったのは正しいことだと思っていた。

  しかし私は、ベトナム戦争に関して次のように考えていた。アメリカの侵略戦争は非人道的で不正義の戦争であり、 侵略者に対して民族の独立と自由を求めるベトナム人民の戦いは正義の戦争である。北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線は必ず勝利する。 限られた映像、新聞や雑誌の報道を通じてそのことを心から願っていた。そして私は米爆撃機を撃墜する北ベトナム側の映像に拍手喝采を送り、 米機の残骸でつくったベトナム人民支援のバッジを喜んでつけ、ベトナム反戦を求める集会にもしばしば参加した。

  今思えば、赤面せざるを得ない。しかし過去を偽ることもできない。当時はこの種の 「正義の戦争対不正義の戦争」 という見方が戦争観として影響力を持っていた。 私の場合は新聞や山本薩夫監督の映画 「ベトナム」 の影響も大きかった。 とはいえ、12歳の子どもが自らの精神を一色に染め上げていたひたむきさと危うさとが甦ってくる。それは異国の民への尊敬抜きにはありえず、 同時に戦争の悲しみを知らず、「ベトナムから遠く離れて」 いたからこそ可能であったともいえる。

  反戦意識と戦争認識について、もう少し年長ならば、アメリカ側の主張の当否も見極め、この戦争の意味を冷静に考察した人がいただろう。 また、アメリカの侵略戦争を糾弾し、ベトナム人民は勝利すると主張した人々は多かったが、先の 「正義の戦争」 という論点については当時も分岐する意見があっただろう。 著名な童画家であるいわさきちひろの絵本 『戦火のなかの子どもたち』 (岩崎書店) も想起される。 ベトナムの母と子の命を奪う戦争を一刻も早く終わらせたいという思いのみで描かれた本であり、 管見の限りではこの童画家が 「正義の戦争」 という主張を口にしていた形跡はない。

  40年の歳月が経過する中で、私たちはベトナム戦争をどう捉え直してきただろうか。ベトナム反戦運動という主題を離れて、 戦後史の中でベトナム戦争の意味をトータルに考えるならば、基地の島沖縄の存在なくしてベトナム戦争はありえなかった。 また、ベトナム特需に示されるように、この戦争を契機にして日本が高度成長を更に推進させていったことも確かである。 それ故に、ベトナム反戦運動が存在したとはいえ、日本にとってベトナム戦争は 「対岸の火事」 に過ぎなかったのではないかという問いが、 私たちに突きつけられていることを忘れることはできない (トーマス・R.H.ヘイブンズ 『海の向こうの火事』 筑摩書房)。

  冒頭に記したように、私は平和になったベトナムを三回訪れた。にわか仕込みのベトナム語は使い物にならず、三度とも下痢と腹痛に見舞われた。 その昔に夢見たベトナム人民との連帯など、いかに難物であるかが皮膚感覚でわかる。 変わったのは自分だけではない。書店に足を運べば、英語とコンピュータの本ばかりが溢れる国へとベトナムは変貌していた。 そんな中で、ベトナム戦争の戦死者の墓地である烈士墓地を何度か訪れたときの印象は強いものがあった。 墓前に佇み、墓碑銘を見ると抗仏戦争から第三次インドシナ戦争に至る長期間の戦死者が祀られている。若者があまりにも多い。 40年前の自分が誤っていたとか、正しかったとか考える余裕もなく、ただ死者に黙祷を捧げるのみであった。

  ごく私的な経験から出発した本稿は、「葦の髄から天井のぞく」 ものである。自明のことであるが、ベトナム反戦運動の回想よりさらに重要なのは戦争当事国、 とりわけべトナム側の回想である。ただ、映画に象徴されるように、アメリカ側に比すれば、ベトナム戦争を主題にしたベトナム側の作品は限られている。 今も、枯葉剤の被害者と膨大な行方不明者が存在するという現実がある。南北統一後の政治的な激変から、ドイモイ開始後の豊かさへの疾走のなかで、 過去の戦争を庶民レベルで回想し記録することは極めて困難であった。日本と同等のレベルで、現代史研究とジャーナリズムが発達した国ではない。

  ただ最近刊行された一冊の本が、ベトナム側の歴史認識の深まりの一端を象徴しているように思える。深い感動を味わった一冊の本を紹介しておきたい。 レ・カオ・ダイ 『ホーチミン・ルート従軍記』 (岩波書店) は、北ベトナムの医師が1966年にホーチミン・ルートを行軍して南に入り、 73年に帰還するまでの8年間の歳月を驚嘆すべき描写力で描いている。 ラオス、南ベトナム、カンボジア国境にまたがる中部高原の密林に潜む野戦病院で医療活動を始めた著者は、食糧と物資の欠乏、膨大なる病死者と戦死者、 敵の猛襲の中での頻繁な病院移転という困難な現実に直面する。医師でありながら、シャベルで塹壕を掘り、鍬で食糧を確保し、銃で敵と戦う日々であった。

  本書で心に残るのは、北ベトナム・解放民族戦線側の弱点や恥部にも正対して克明に事実を描いていることである。 そして幹部医師であった著者は、党や軍の官僚的な指導に肯うことなく、粘り強くそれに対して闘う。 そもそもホーチミン・ルートにおけるベトナム戦争の実態は、戦争中にはアメリカ側によって北ベトナム側から南ベトナムへの侵攻として宣伝されていた。 戦後も、隣国との関係もあり、ベトナム政府筋によってその実相が積極的に解明されることは少なかったのではないか。 その意味からも、一人の従軍医師による傑出したドキュメントが投げかけた意味は小さくないと思われる。