小さき人々にとっての20世紀
第三回 プラハ、1989年12月31日
一九八九年一二月三一日夜、チェコスロバキア (当時) の首都プラハ、その中心部にあるバーツラフ広場は人々の波の中だった。
何十万人と推測される人々が押し寄せる中で、録音機を手にした私は身動きするのが精一杯だった。
特設の舞台では、ロック奏者のステージが行われていた。歌声も広場にあふれていた。頻繁にわき起こる 「ハベル、ハベル」 の大歓声は歌声も凌ぐ勢いだ。
抱き合い、語りあう人々のなかで、花火が振られ、国旗が夜空に揺れた。
広場の一角に光を放つ空間があった。無数の蝋燭が囲む直径十メートルの円の中心には、デコレーションをまとった木が国旗とともに立てられ、
花束や小旗が蝋燭とともに地面を覆っていた。一九六八年 「プラハの春」 が圧殺され、その翌年に抗議の自死をしたヤン・パラハ。
その命が燃え尽きた場所が、二十年の歳月を経て人々が携えた蝋燭で照らしだされているのだった。
時が零時に近づくにつれて、広場の興奮と熱狂が頂点に向かったことは言うまでもない。ただ、馬鹿騒ぎをしているという印象ではない。
ワインやビールを手にしつつ語りあう人たちの表情が晴れやかで、清々しいことは明らかだった。
わずか一か月前の 「ビロード革命 (静かな革命)」 はこれらの人たちによって成し遂げられたのだろうか。
そして零時。無数の人々が抱擁し、弾け飛ぶ花火、それを上回る歓声と歌声の中でプラハは一九九○年を迎えた。
この時点での私の語学能力で、人々から精緻な話を引き出せるはずもなかった。ただ次第に家路に人々が向かう中で、私は二時半近くまで広場にとどまった。
録音機を片手に何人もの人に話しかける努力だけはしてみた。相手に若者が多かったこともあって、一九六八年の記憶や、
民主化の萌芽として (当時、大学生の私が意識していた) 「憲章77」 などと全く関わりを持たない若い世代が参加者の多くを占めていたことは想像できた。
私が意思疎通を試みた人たちは、憧れの国としてアメリカを挙げた。これは特別な新年であること、これからは市民が社会の担い手になっていくこと、
そんな断片的なやりとりだけは確認できた。
それから約六時間後、元旦のバーツラフ広場は空き瓶に占領され閑散としていた。掃除に精を出す市民フォーラムの青年がいた。
私たち、日本からの旅行ツアー (東ドイツ→チェコスロバキア→ハンガリーの旅) の一行は睡眠不足で朝を迎え、次の訪問地、ブタペストに向かった。
いま二十年前の旅で出会ったバーツラフ広場での一夜を思い起こすとき、何よりも心に残るのは、巨大な社会的変革をなし遂げた人々の酔いしれた美しい表情である。
それは、もう二度と出逢うことができないものかもしれない。それにしても、人間の自由を抑圧してきた社会主義政権が終止符を打ったことの喜びが、
あれほどまでに人々の表情を輝かせるものだろうか。それは当時の私の想定をこえていた。
後述するように、十一月のビロード革命の時点では、旧政権と歴史的に断絶するというチェコスロバキアの選択について、私の感度はまだまだ鈍かったように思う。
ごく短時間のプラハ滞在でも私はそのギャップを意識することになったのだった。
ビロード革命が成し遂げられたときに、私が感慨とともに再読した本が、Z.ムリナーシ 『夜寒─プラハの春の悲劇』 (新地書房、原著は1978年) であった。
ズデネク・ムリナーシは一九三○年生まれで 「プラハの春」 当時のチェコスロバキア共産党中央委員会書記であり、改革を担った。
同年八月のソ連及びワルシャワ条約機構加盟国の軍隊による軍事干渉で 「プラハの春」 が圧殺されたことに対して、
同党第一書記ドブチェクとともに強く抵抗した人物として知られている。
その後は党の要職を退き、後に党からも除名、七七年人権運動 「憲章77」 の発起人になったために職場からも追われ、ウィーンに亡命した。
何よりも同書は、「プラハの春」 が圧殺されていく過程を当事者として記録し、「人間の顔をした社会主義」 を志向した人々の姿も活写している。
同書に魅了されていた私は、ビロード革命によってムリナーシやドブチェクに代表されるような人々が復権していくことに過剰な期待を寄せていた。
社会主義の民主的再生という主題に、あまりにも肩入れが過ぎていたのだと思う。たった一夜出会ったプラハの庶民の感触は、
そんな私の期待とは違うベクトルで歴史が煮詰められていることを私に感じさせた。
もちろん私は、当時の日本でも急速に注目を集めたハベル大統領に心引かれていた。何よりも指導者として傑出した言葉の力を持ち、
長年不屈の抵抗を続けてきたことに対して敬服していた。
その一方で、新政権でクラウス (当時は財務相、現在の大統領) という気鋭のマネタリストが経済政策を担い始めたことについても、
その前途が果たしてどうなるかを注目しつつチェコに関心を持っていたという当時の記憶が残っている。
残念なことにチェコスロバキアへの同時代的関心はそれ以上さして深めることができなかった。
最近 (6月27日)、NHK衛星放送で放映された 「ビロード革命20年」 の番組を見ることによって、
久しぶりにビロード革命のその後について考えさせられたというのが実情である。
私たちがプラハを出発した一九九○年の元日にハベルは重要な演説をしていた。
社会主義の下で、ヨーロッパ主要国では最低の経済水準に落ち込んでしまった現状を急速に改革しなければならないという演説であった。
それゆえクラウスが新生チェコスロバキアの指導者としてさらに重要な位置を占めていくことも必然であったろう。アメリカに憧憬を感じる若者たちも、
少なくとも当初においてはその改革路線の支持者であったにちがいない。
しかしビロード革命からさして遠くない時期に、チェコとスロバキアの緊張関係が強まり、結果として 「ビロード離婚」 に至らざるをえなかった。
一九九三年一月からの両国の分離独立はもちろん知っていたものの、今回この番組の映像で改めてその過程を知ることになった。
番組は、スロバキアの困窮地帯は現在のEUの中でも極めて困難な地域であることを伝えて番組を締めくくった。
九九年にプラハを再訪した際には、その十年前のビロード革命の熱気などほとんど感じ取ることはできなかった。
ただ、十年が経過して著しく物質的豊かさがあふれた街になったということは実感できた。もし、この先に機会があれば、プラハはもちろんのこと、
一九八九年に垣間見た (現在のスロバキアの首都) ブラチスラヴァも再訪してみたいものだ。
その前に、両国にとってのこの二十年を考察した日本語の文献を読むことが、まずは先決かもしれない。
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