2009.1.23

大学生70日間世界旅日記
〜パレスチナ〜
相川 和真
目次


  2008年の12月27日から始まったイスラエルによるパレスチナのガザ地区への攻撃は、イスラエルの一方的な停戦でようやく沈静化してきた。 これまでパレスチナ人の死者は1300人を超えるといわれている。
  このような攻撃が始まる約一ヶ月前、僕はパレスチナのヨルダン川西岸地区のビリーン村という場所にいた。 イスラエルとパレスチナとの国境に接する村で、村のはずれには分離壁 (フェンス) が敷かれており、領土ははっきりと別れていた。
  この壁の建設は不当だということで村人が集団で訴訟を起こし、2007年、国際司法裁判所で違法との判決が下されているが、 イスラエルは未だにこの壁を撤去していない。そこで村人たちは毎週金曜日の正午から約1時間程、非暴力デモを行っている。 僕がビリーン村にいたのはこのデモに参加するためだった。

  2008年11月28日の朝8時頃、エルサレムにある安宿を出発し、その宿で知り合った日本人10人と一緒にパレスチナのビリーン村へ向かった。 バスを乗り継ぎ、約2時間で僕らはビリーン村に到着した。村の雰囲気はいたって平和で、これからデモが始まるとは思えない雰囲気だった。
  朝から何も食べていなかったので、僕らは近くの店に入ることにした。店内には15歳くらいの少年が1人いて、彼からパンを買った。 ぼることもなく、ちゃんとおつりも返してくれた。次に近くにあった別の店に入った。そこはいわゆる駄菓子屋で、その店にも少年が1で店番をしていた。 いくつか菓子を買おうとするが、値札がないのでいくらかわからない。おおよその額をおいて出ようとすると、多すぎるといってわざわざおつりを返してくれた。 そのおつりの額は現地の人からしてもたいしたことのない額だったが、ちゃんと返してくれた。
  日本人からしたら当たり前のように思えるが、海外の個人経営の店では余計に取ろうとするのは日常茶飯事で、おつりはちゃんと自分で計算しなければならない。 ぼられるのも自己責任というわけだ。自分よりも圧倒的に貧しい若者が、日本円に換算しても1円2円のお金までちゃんと返すという行為を目の当たりにして、 僕はパレスチナ人の心の豊かさを実感した。それはイスラエルに対して共に闘ってくれる同志という意識もあったのかもしれない。

  腹も満たされ、村を歩いているとデモのリーダーらしき人に出会った。彼はついてこいといい、僕らは彼の後をついていった。 すると、とある一軒の家に到着した。そこに入ると、これまでデモをしてきた中で、イスラエル軍の攻撃によって負傷した村人たちの写真がたくさん飾ってあった。 中には見るに耐えない程ひどいものもあったが、一枚一枚丁寧に説明してくれた。 説明が終わり外に出ると、だんだん村人たちが集まってきた。どうやら、その家が集合場所だったらしい。

  正午までまだ少し時間があったので、近くの民家にお邪魔することにした。10人もいるので悪いからいいと言ったが、いいから入れと言って庭に案内され色々と話をした。 どこからきたのか、何をしているのか、何でここにきたのかなど、あれこれ話しているうちに、僕も彼らについて色々と知ることができた。 その家はデモでいつも中心となっている人の家で、彼の着ているTシャツの柄はチェ・ゲバラだった。 これはあとから知ったのだが、かれはデモの度いつも目隠しをして、両手を縄で結び、無抵抗のシンボルとしてデモをしていた。 彼らは徹底して非暴力、無抵抗としてのデモを目指していた。


  いよいよ正午になり村の中心にあるモスクに集まって、村人、外国人のデモ参加者、ジャーナリストなど約100人くらいが 「イスラエル・ノー・モア」 と叫びながら行進した。 僕らもとりあえずその流れについていった。15分位歩くと、広い開けた場所へついた。 そこはオリーブ畑で、壁ができる前までは村人たちはそこで収穫されたオリーブで生計を立てていたのだが、イスラエルが一方的に壁を建設してしまったので、 今はもうとれなくなってしまった。


  はるか向こうには、イスラエル軍が戦車と共に待機していた。細い道沿いを壁に向かって歩いていくにつれ緊張感は高まってきた。 村の子どもたちは壁の向こうにイスラエル軍を見つけるや否や、手製の投石器で戦車に向かって攻撃していた。 子どもたちは感情をコントロールできないためか、何人かは攻撃していたが、所詮は子どもの武器であり石はまったく届いていなかった。


イスラエル兵

  壁まで100メートル位まで近づいたところで突然イスラエル軍は催涙弾を撃ってきた。 もちろんこちら側には何の武器もないので、手を上げながら壁に近づくのだが、イスラエル軍の攻撃はさらに強くなってきた。 催涙弾は2種類あり、放物線を描いて撃ってくるのものと、直線的に撃ってくるものがあった。 そのどちらにあたっても大怪我は免れないが、村人たちは恐れることなくどんどんと壁に近づいていく。
  催涙弾の煙が目に入るとそれはもう大変だった。運悪く風下にいると、催涙弾の白煙を全身で浴びてしまう。 こうなるともう、目はあけていられないし、鼻水はとまらず、吸い込むと喉が痛くなってくる。それが5分程続くのだが、 何よりも危険なのは、その目が開かない状況でもイスラエル軍はどんどんと催涙弾を撃ってくることである。 必死に目を開けて上を見ながら弾をよけるが、白煙もあたり一体に広がるので後退せざるをえなくなる。身を隠す場所もないので、必死にかわすしかない。 そんな状況が10分程続く中、僕が村で出会ったリーダーらしき人はどんどんと前へ進んでいた。 毎週やっているせいか、うまいこと前へ前へと進み、既に壁の近くまで到達していた。 僕は残念ながら催涙弾にやられ、後退を余儀なくさせられたが、最前線までいった日本人もいた。


ストレートに飛んでくる催涙弾

  僕が後ろへ下がり目が回復するのを待っていると、前から一人、何人かの人に抱えられながらやってきた人がいた。 よく見ると、顔から流血しており、どうやら催涙弾に当たってしまったらしい。しかも、その人は僕が同じ宿で出会った日本人だった。 同じ大学4年生で、年齢も近いことからけっこう親しくなっていた。すぐに病院へ連れて行かれ、僕らも同じ日本人ということで村人からどの病院にいったか教えてもらい、 タクシーで後を追った。病院に着いたが、すぐまた別の病院に搬送されたらしく既にそこにはいなかった。 パレスチナの病院では技術的に扱えないらしくすぐイスラエルの病院に搬送されたと聞き、僕らはイスラエルへ戻った。 イスラエルのどこの病院かがわからなかったので、結局その日は会うことができなかった。

  後日、お見舞いに行ったが、どうやら左目の下に当たったらしく、最悪失明するかもしれないということだった。 僕らはその日にイスラエルを出なければならず、すぐに別れたのでその後どうなったかはわからない。

  怪我をしたのがたまたま彼であって、僕が怪我をしていたことも十分にありえる。そんな時に言われるのが自己責任という言葉だ。 確かに自らが危険な場所に行って、勝手に怪我をしたのだから自己責任だといわれれば否定はできないと思う。ただ、僕には何か違和感が残る。

  村人だけでデモに参加した場合、イスラエル軍は容赦なく攻撃してくるらしい。催涙弾だけではなく、もっと大きなダメージを与える武器も使ってくるという。 僕らのような外国人がデモに参加することで、イスラエルも国際問題に発展することを嫌い、攻撃も比較的緩やかになる。 このことはデモの前にゲバラのTシャツをきた人から教えてもらった。 そういう意味では怪我をしてしまった彼にも存在意義はあり、彼の信念がどのようなものであったかはわからないが、ビリーン村の人々の役にはたっているといえる。 そして、何よりも重要なのは、このデモを続けていくことだと思う。 沈黙が同意を表すように、ここでデモをやめてしまうと、それはイスラエルの作った壁の正当性を村の人々が認めてしまうことになる。 どんなにつらくても、やり続けなければならない。

  これが本当の闘いであるのだと今回の経験から感じた。たった一回の経験ではほとんど何もわからないが、 今現実に起きている物理的暴力の問題の渦中に自らを投げ込んだという経験は、僕の考えに大きな影響を与え、僕の人生を揺さぶる重要なものになった。