内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」
「日米同盟」の“呪縛”から解き放たれ、裁判官が“正気”に戻るとき
──名古屋高裁自衛隊イラク派遣違憲判決──
2008年4月17日、名古屋高等裁判所第3民事部 (青山邦夫裁判長) は、自衛隊イラク派遣違憲訴訟において、損害賠償等、原告らの請求は棄却したものの、
航空自衛隊によるバグダッド空港への空輸は戦闘地域における米軍との一体行動に当たり、憲法第9条の禁ずるところであり違憲であると判示した。
この判決が優れているのは、憲法前文中の 「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」 と謳った、
いわゆる平和的生存権について他の立法がなされていなくても、この権利そのものから裁判上の救済を受けることができるとした点にある。
この判決を聞いたとき、裁判官が “正気” に戻ったと思った。憲法9条をめぐるこれまでの政府見解──9条は我国固有の自衛権は否定していない。
しかし我国に対する急迫不正の侵害がない場合に、自衛隊が他国の軍隊と一体となって活動するいわゆる集団的自衛権の行使は許されない──。
戦闘地域への派遣は許されないというイラク復興支援特別措置法の定め。そして、2003年3月20日、
自衛権の行使による先制予防攻撃としてブッシュ米大統領がイラク攻撃をして以降、すでに5年余、米兵の死者だけでも、
2001年9月11日の米国同時多発テロによる市民の死者2973名をはるかに上回る4000名近くになっており、これに数十倍するイラクの民衆が殺され、
今なお戦闘・テロ等の絶えないイラクの現状。これらのことを考慮するならば、イラクへの自衛隊の派遣は、「一見極めて明白に違憲」 なことであった。
裁判所はこれまで半世紀にわたって法廷における9条論議を回避して来た。諸悪の根源は、1959年12月16日、
砂川事件──東京立川の米軍基地 (当時) の砂川地区の拡張に反対する過程で生じた刑事事件に関し、
日米安保条約による在日米軍の存在が憲法上許されるか否かが争われた──最高裁大法廷判決にある。
同判決は、
「(日米) 安全保障条約は、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、
その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。
それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、
従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであ(中略)ると解するを相当とする」
と、悪名高い 「統治行為論」 を述べ、憲法判断を回避した。
以降、1973年札幌長沼ナイキ判決を唯一の例外──但し、札幌高裁で破棄──として、この国の裁判所は9条問題に関し判断回避をし続けて来た。
裁判所は憲法第81条によって国民により裁判所に違憲立法審査権が負託されている趣旨を十分に理解できないで来た。
その結果、裁判所が行政、立法の違憲な行為を制御できず、立憲主義を危くさせて来た。
今、学生時代に見た奇妙な光景が思い出される。
1967年3月29日、札幌地裁恵庭事件判決、無罪判決がなされたにもかかわらず、検察官が抱き合って喜び、反対に喜んでしかるべき被告側が怒っている。
恵庭事件とは、自衛隊の演習騒音に悩まされた牧場主らが自衛隊の通信線を切断したことが自衛隊法違反として起訴されたもので、
裁判では、自衛隊の存在が合憲か違憲かが争われた。
審理の経過からして、憲法判断、それも違憲判決がかなりの確度で期待されていた。
ところが、裁判所は切断された通信線は自衛隊法に云う 「防衛の用に供する物」 に当たらず、構成要件該当性なしとして無罪であるとする肩透かし判決をなして、
憲法判断を回避した。だから無罪判決であったにもかかわらず、訴追した検察官が抱き合って喜び、本来喜ぶべき被告側が怒ったのである。
裁判官が “正気” を失って憲法判断回避をした結果である。
もちろん、すべての面において裁判所が憲法判断を回避して来たわけではない。2008年6月5日、最高裁大法廷が、
日本人の男性と外国人女性との間に生れた婚外子の日本国籍取得について、胎児の段階で認知があった場合は可だが、
出生後の認知は不可とする国籍法の規定は憲法第14条 「法の下の平等」 に反し、無効とする判決をなしたことに見られるように、
裁判所は人権論の面では憲法第13条 「幸福追求の権利」 等を根拠に、判例理論をそれなりに発展させて来た。
その意味では裁判所は “正気” を失ってはいなかった。しかし、9条問題に関しては、裁判官が “正気” を失っていたとしか言いようがない実情があった。
この “正気” を失って来た根底には、司法の分野だけでなく、外交、その他、戦後の日本社会のすべてに通底する 「日米同盟」 の “呪縛” があるように思われる。
2008年4月30日付東京新聞朝刊は、「砂川事件 『米軍違憲』 判決破棄へ米露骨介入」 という大きな見出しで、
日米安保条約による在日米軍を憲法違反と断じた砂川事件東京地裁判決 (伊達判決) に衝撃を受けたマッカーサー駐日大使 (当時) が、
同判決の速やかな破棄を狙って藤山愛一郎外相 (当時) に、東京高裁の判断を経ずに最高裁への 「跳躍上告」 を促す外交圧力をかけたことを報じている。
日米関係史の専門家、新原昭治氏の研究により、田中耕太郎最高裁長官 (当時) がマッカーサー駐日大使と密かに面談し、
この事件を優先的に審理すると述べたという驚くべき事実も明るみに出された。
「日本政府は社会党が新たに司法を尊重せよと騒ぎたてていることを必ずしも不快に思っていない。
というのは日本政府は 『社会党の司法尊重』 が最高裁の段階になったときブーメラン効果をあげることを期待しているからだ」 とマッカーサー駐日大使は本国宛打電している。
米国からの圧力に裁判官が “正気” を失っていたとしか言いようがない。
裁判所が9条問題に関して判断回避をするといった “正気” を失った状態が続いたことから、遂に自衛隊が海外に出て行くという事態となった。
1992年カンボジアPKOである。この背景には、自衛隊とりわけ海上自衛隊を米海軍機動部隊の補助艦船として使いたいという米国の強い意向があった。
その後は一瀉千里であった。その結果が戦地イラクへの自衛隊の派遣であった。もはや、止まることを知らない。
9条論議に封印をし、判断回避をした砂川事件大法廷の15人の裁判官達は、半世紀後のこのような、
すなわち戦地イラクへの自衛隊の派遣という事態を予想し得ただろうか。
このような流れに 「待った」 をかけたのが、4.17名古屋高裁自衛隊イラク派遣違憲判決であった。
この判決については、原告らの請求を棄却したのだから、裁判所はそれ以上の判断をすべきでなかったと述べる見解もあった。
2004年4月、福岡地裁 (亀川清長裁判長) が、小泉首相の靖国参拝は憲法第20条の政教分離原則に違反し違憲であると判示したが、その際判決文末尾において、
「当裁判所は参拝の違憲性を判断しながらも不法行為は成立しないと請求は棄却した。
あえて参拝の違憲性について判断したことに関しても異論もあり得るとも考えられる。
しかし、現行法では憲法第20条3項に反する行為があっても、その違憲性のみを訴訟で確認し、または行政訴訟で是正する方法もない。
原告らも違憲性の確認を求めるための手段として、損害賠償請求訴訟の形を借りるほかなかった」 とした上で、
「本件参拝は、靖国神社参拝の合憲性について十分な論議も経ないままなされ、その後も参拝が繰り返されてきたものである。
こうした事情に鑑みるとき、裁判所が違憲性について判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高いと言うべきであり、
当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え、前記の通り判示する」
と述べた。
自衛隊イラク派遣を違憲と断じた名古屋高裁の裁判官達も同じような気持ちであったと思う。
違憲立法審査権を主権者たる国民から負託された裁判所が、その行使をためらい、行政、立法の違憲な行為を見過ごすことが立憲主義の破壊をもたらすことは、
“正気” になって考えれば分かることである。
自衛隊の戦地イラクへの派遣については、これを憲法違反だとして、北は北海道から南は九州まで全国各地の裁判所において100件以上の違憲訴訟が提起された。
だが、違憲判断は前記名古屋高裁1件だけであった。この問題に関して “正気” であったのは全国でわずか3名の裁判官でしかなかったことになる。
裁判官を “正気” に戻すために、名古屋違憲訴訟の原告、代理人弁護士、支援者らが費やした労力は大変なものであった。
とりわけ、イラクの実状について裁判所に理解させるために、現地を訪れたジャーナリストらの協力も得て、相当緻密に立証したとのことである。
このような地道な努力が裁判官を “正気” に戻したのだと思う。
2008.6.23
|