内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」
父は先月亡くなったばかり、生きていたらどんなに喜んだだろう
――西松建設中国人強制連行・強制労働事件和解、青島で報告集会――
1.2009年10月23日、西松建設中国人強制連行・強制労働事件の和解の成立を受けて、11月1日、2日と中国青島市内のホテルで説明会を開いた。
急な連絡であったにもかかわらず、当事者81人(うち生存者5名)、付添いの人も入れて約100名が参加した。中には遠く山西省や南京から駆けつけた人もいた。
日本からは筆者と広島から中国人強制連行・西松裁判を支援する会の川原洋子氏が参加した。
1日目は、午後3時から6時30分まで筆者が和解成立の経緯、内容その意義等について説明し、
次に川原氏が1992年から和解成立に至るまでの長年にわたる活動の経緯を説明し、和解への参加を呼びかけた。
次いで、強制連行当時の受難者である聯誼会会長の邵義誠氏が挨拶をし和解への参加を呼びかけた。
そして2日目午前8時30分〜11時半まで参加者による質疑応答、意見表明があり、会場から16名もの人々が立ち上がって以下のように意見を述べた。
「他の被害者と同じ気持ちだ。心残りの問題を解決してくれた。劉宝辰先生や弁護士や日本の友人に感謝する」(甘明友54歳/甘文瑞の遺族・息子)、
「93年から16年間、積極的な努力によって獲得した。私の予想より満足できる結果である。民族のために恨みをはらすことができた」
(淑恵76歳・南京/述寛の遺族・姪)、「日本の友人や劉宝辰先生の努力によって和解ができた。だから満足している。謝罪もあるし、碑も建立できる。
母といっしょに来た」(成文学56歳・山西省/成殿元の遺族・息子)、「劉宝辰先生、王彦玲さんに感謝する。日本の弁護士、友人に感謝する。
父の要求は全部実現できた。(自作の詩を朗読)」(呂志英/呂学文の遺族・娘)、「(父親から聞いた安野での体験を話してから)想像を絶する苦難で、
よく命を拾って帰ってきたと思った。和解のことを家に帰って、父に伝えたい。感謝する。」(楊/楊済雷の家族・娘)、「今日の成果に満足している。
父は先月亡くなったばかり。生きていたらどんなに喜んだことだろう。感謝する。
頭を下げていないので、金額の多少にかかわらず、民族の尊厳が守れた」(孟現憲39歳/孟昭恩の遺族・息子)、
「非人間的な扱いを受けたことを考えると、和解には賛成できない。しかし、93年から努力をしてきたのだし、現在、生存者が19人だと聞いたので、
老人たちが残念な気持ちで死んでいくのを見たくない」(石世鋒/石道海の遺族・孫)、「父はとても喜んでいる。死んだ人も多く、複雑な気持ちだ。
謝罪と碑を認めさせ、補償金も支払われるので、尊厳を取り戻すことができた。4万人の解決にも役立つ」(于啓 44歳/于清杰の息子)、「知らせを受けて感動した。
祖父は帰国後2年で亡くなった。和解が実現できてうれしい。実現できなかったとしても感謝する。要求は金額の多少ではない。
謝罪させ碑ができることが重要である」(王煥廷/王民立の遺族・孫)、「母は83歳である。生きているうちにいい結果を見せることができてうれしい」(女性)。
その後、司会者が和解に賛成の人に挙手を求めたところ、参加者全員が手を挙げて和解に賛成した。
そして、休憩時間を使って参加者らに対し、青島テレビ、天津テレビ、半島都市報、済魯晩報のほかラジオ局2社よりインタビューがなされ、
中国駐在の共同通信と朝日新聞の記者らも取材した。
筆者も中国側メディアから取材を受けたが、若い記者らが一様に尋ねたことは、何故日本人が中国人の問題にこのように関わってくれるのかという疑問であった。
この疑問に対して筆者は、これは歴史の問題であり、中国人受難者のためだけでなく、この問題を解決することによって、日本社会が変わることになり、
筆者ら自身のためでもある。したがって、この件に関しては、弁護士費用はもちろんのこと、これまで費やした実費分も受取らないと述べた。
報酬だけでなく、実費分についてもとしたのは、この種の問題は、弁護士以外に熱心な支援者の存在が不可欠であり、
本件に関しても日・中両国の支援者らが長年にわたって運動を支えて来ており、その過程で相当額の実費を支出している。
したがって、弁護士の実費分だけを特別扱いすることはできないのである。これらの説明は中国メディアの若い記者らを必ずしも納得させるものではなかったようだ。
翌11月3日、半島都市報は、この集会の内容を写真入りで1頁を使って報道したが、
その記事中に 「律師費一分銭也不収 訴訟案背后有群黙黙奉献的志愿者」 の小見出しもあった。
休憩後、DVD 「50年目の叫び」 を上映した。参加者は現在の安野発電所の様子や95年の聯誼会結成時の様子などの映像に食い入るように見入っていた。
その後、和解内容の履行に関し、参加者からなされた具体的な質問に対して、筆者が答えた。
年内に生存者から1人60万円を渡すこと、死んだ人もケガをした人も平等一律に60万円を支給すること、現金で渡すか小切手で渡すかは今後検討して決めること、
お金は運営委員会で管理し、残ったお金は再配分の可能性もあること、
行方がわからない人の調査は5年も10年も長い時間をかけて行うことではなく来年1年が勝負であること、
未確定なことも多いが運営委員会で決めることなどを説明して、了解を得た。
このようにして青島での報告集会は大成功をおさめた。
今後は、和解条項で決められた事業を早く着実に実現していくことが求められている。
2.花岡和解の延長上の西松和解
ところで西松中国人強制連行・労働事件和解は、同種事案で9年前の2000年11月29日東京高裁(新村正人裁判長)で成立した鹿島建設花岡事件と
同じ枠組みでどう和解の延長上でなされたものとみることができる。
花岡事件和解が成立してから9年後の2009年10月23日、
西松建設中国人強制連行・労働事件の和解が花岡和解と同じ枠組みで成立したことについては感慨深いものがある。
先の大戦の末期なされた中国人強制連行・強制労働は、花岡和解でも述べられているように東條内閣の閣議決定を経て、
国家の戦争遂行策の一貫としてなされたものであり、その主要な責任は日本国家にある。
その点前記花岡和解は企業だけとの和解であり、日本国家との関係ではまだ未解決であり、この問題の最終的解決ではなかった。
また和解内容についても、当の中国人被害者・遺族の思いからすれば、不十分な点がなかったわけではなかった。
しかし、こうした不十分性は、最初この問題についての解決を切り開いた者が負う宿命でもあった。
花岡和解は次の解決の段階――前述した 『記憶・責任・未来』 財団を作りあげたドイツの例など――に向けてのステップとして、
中国の被害者・遺族や関係者から歓迎された。
3.失われた9年間
このように9年前、花岡和解が契機となって、今後の戦後補償請求裁判に大きな進展を見ることが期待された。
事実、この和解を受けて、他の類似の戦後補償裁判において、原告勝訴の判決――東京地裁劉連仁事件判決、
福岡地裁中国人強制連行・労働事件判決、新潟地裁同判決、広島高裁西松建設事件判決と原告勝訴の判決が相次いだ。
もっともこれらの判決はいずれもその後上級審で破棄された。その後は、2004年9月29日に成立した日本冶金鉱業、いわゆる大江山訴訟の和解を除いては、
期待された進展を見ることができなかった。その理由の一つに花岡和解に対する批判があった。
2000年11月29日花岡和解当日、和解において、鹿島建設は、同社が1990年7月5日中国人受難者遺族らとの共同発表で述べた
「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、
鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する。」
ことを再確認しながら、同社のホームページにおいてこれを否定するような発表をなした。
このホームページの記載は、中国人関係者らの抗議によって後に削除されたが、確かに中国人関係者の気持を逆なでするものであった。
鹿島建設がホームページにこのような和解の趣旨に反するかのような記載をなしたのは社内における和解反対派、業界他社に対する配慮があったと推測される。
和解はあくまでも和解文書によって完結しているのであり、「鹿島建設株式会社はこれ(強制連行・強制労働。筆者 【注】)を事実として認め、
当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」 という同社の事実認識・責任表明は、
前記のホームページの記載によって何ら変るものではなかった。
しかしながら、中国側、日本側の一部の人々が鹿島建設の前記ホームページの一文をもって、
鹿島建設は中国人受難者・遺族を欺したと花岡和解を全面的に否定する論を声高に主張した。
そしてこれに煽られて中国人受難者・遺族の中にも一部ではあったが、この声に同調する人達も現われた。
誠に残念なことであった。確かに鹿島建設のホームページの記載は批判されるべきであった。
しかし、それを直ちに花岡和解の全否定――鹿島建設は中国人を欺した――としてしまうのは、余りにも短絡的発想であった。
あらゆる運動に付きものの原理主義の弊を思わざるを得ない。
前述したように、鹿島建設がホームページに和解の文言に反するような記述をなしたのは、社内における和解批判派、
業界他社に配慮したものであると推測されるが、それは突き詰めれば戦後補償問題をめぐる日本の闇の深さであった。
現に、今日に至るまで日本国家はこの問題について解決しようとはしていない。
したがって花岡和解に際しては、鹿島建設に対しては中国人を欺したと責め立てることでなく、ホームページ記載に抗議しつつも、
同社に花岡和解の本旨に沿う行動を取るべく求め、更には業界に対する働きかけをなすよう求めるべきであった。
そうすることによって、花岡和解がこの問題をめぐるドイツ型財団――記憶・責任・未来財団――による解決へのステップとなり得る可能性があった。
しかしそうはならなかった。漏れ聞くところによると、本件西松建設も広島高裁で和解解決を勧められた際に、密かに鹿島建設に問い合わせたところ、
鹿島建設の回答は、和解はしたが事態は変らなかったとのことであったという。筆者はこのような事態の発生は大変不幸なことであったと思う。
9年前の2000年11月29日、鹿島建設は社内に反対がありながらも一応の決断し、他社に先駆けて企業としても強制連行・労働の事実を認め、責任を認識し、
深甚な謝罪をなした。戦後補償に取り組む関係者らがこれを正当に評価し、前記ホームページの記載に必要以上に過敏にならない態度を取っていれば、
事態は少しは変っていたのではないかと考えるのは、筆者の思い込みに過ぎないであろうか。
今、戦後60余年を経て、補償請求における生存当事者がほとんど亡くなってしまっていることを思うとき、失われた9年の持つ意味は大きい。
今度こそこの西松建設和解を契機として、中国人強制連行・労働問題のドイツ型財団による全面的な解決に向けた努力がなされなければならない。
本和解成立の翌日の2009年10月24日、秋田県大館市でNPO花岡記念会によって建設が進められてきた花岡平和記念館の竣工式が行われた。
2009年11月20日仙台高裁は本件と同様の中国人強制連行・強制労働酒田事件について、中国人受難者らの請求を棄却したが、
判決末尾において、被害の重大さを考えると当事者間の協議で解決するのが望ましいと 「付言」 をなした。
2007年4月27日、最高裁第二小法廷判決が中国人受難者らの請求を棄却しながらも被害の重大さ鑑み、
西松建設を含む関係者間の協議によって解決することが期待されると付言をなしたことに基づいて、
現実に西松建設、中国人強制連行・強制労働問題の和解が成立したという事実を考慮したものと考えられる。
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