2010.5.22

内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」

弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール
出自を乗り越えることは容易ではない
―浅沼稲次郎狂刃に斃れて半世紀、
鈴木邦男著 『右翼は言論の敵か』 を読む―

  映画 「靖国」 の評価で一致
  今年は浅沼稲次郎が右翼の狂刃に斃れて50年、そんな時、鈴木邦男氏から新著 『右翼は言論の敵か』 (ちくま新書)が贈られてきた。 氏とは、ここ3〜4年いろいろな会合でしばしば同席するようになったが、積極的に氏と話そうと思うことはなかった。 いや、むしろなるべく関わりを持つまいと意識的に努めてきた。

  それは鈴木氏が新右翼 「一水会」 創始者を看板として他陣営(?)に入り込んで来、少しばかり気のきいたこと――私達が言えば極く当り前のことだが、 それを新右翼 「一水会」 の鈴木邦男が言うということで評価される。家業に励んでいた長男よりも改心して戻った放蕩の次男の方が誉めそやされるのは昔からよくあることだ。 ――を言っている人物という印象があったからだ。そんな印象が若干変わったのは、2008年夏、 平和学専攻の前田朗東京造形大学教授が八王子で開催した会合に鈴木氏とともに招かれたことがきっかけであった。 前田、鈴木両氏と私とでの鼎談というか、前田氏の質問に鈴木、内田が答えるという形式での対談であった。 私と鈴木氏とはほぼ同世代で同じ早大、といっても左派と右派、当然のことながら接点があったわけでもない。

  だから前田氏が学生時代の出来事に水を向けてきても、私はおざなりの発言に終始した。 ただ話がこの年の4月、中国人李監督の映画 『靖国』 上映中止騒ぎに及んだとき、 鈴木氏が靖国劇場ともいうべき8月15日の靖国神社境内における狂騒――旧日本軍の服装をし、 ラッパを吹きながら行進するオッサン達など――について靖国神社はどうしてあのような事態を放置しているのか、取り締まるべきだと述べたことから、 <おや?>と思うに至った。また、氏は前記映画 『靖国』 上映中止騒ぎについて、いろいろ書かれたものの中で、 拙文 「映画 『靖国』 の上映中止問題と表現の自由――醜悪な日本の姿を見せつけた映像に違和感もあるが……」 (本誌2008年7月号)が一番面白かったとも述べた。

  拙文は、前記映画 『靖国』 が、賛成派、反対派の言い分を丹念に描いている作風には好感が持て、ドキュメント作品としても完成度は高いとしながらも、
   「冒頭、8月15日の異様な光景が長々と映し出される。8月15日、靖国神社に参集した 『右翼』 (?)といわれる人々の異様な姿だ。 大きな日の丸を掲げ、日の丸の鉢巻をし、『大東亜戦争の英霊達に心より哀悼の誠を捧げる』 と大音声を張り上げるおっさん。 旧軍の軍服姿で整列し、ラッパを吹きながら行進する男達。戦争体験者と思われる年配者だけでなく、明らかに戦後世代と思われる中年のおっさんもいる。 集団で参拝する 『皆で靖国神社に参拝する』 国会議員団等々、あたかも靖国劇場だ。
   『英霊』 の追悼に事寄せて自分のパフォーマンス、ナルシズムに浸っている異様なおっさん達の姿は醜悪だ。 一体、ここは何処なんだ。1945年8月15日以前の日本かと一瞬戸惑ってしまう。
  静かに追悼したいと思って参拝している遺族らも決して少なくはないと思われる。そんな遺族にとってこのようなパフォーマンスは大迷惑であり、 こんな様子を見たら世界の人々はびっくりしてしまうであろう。日本は60余年前、1945年8月15日以前のままであろうかと。 そして、そんな日本に嫌悪感を催すであろう。戦前、戦後の連続性を断っていない 『靖国』 という醜悪な存在が 『嫌日』、『反日』 を導き出しているのである。
  (中略)
  日本の 『恥部』 を世界に発信した映画 『靖国』 は、その意味でまごうことなき 『嫌日』、『反日』 映画となってしまっていると思う。」


と書いた。理由は違うが、左の側(?)から 「反日映画」 と言っているのが面白かったようだ。 期せずして新右翼 『一水会』 の創始者、鈴木邦男とリベラル(?)内田雅敏の見解が一致した。

  鈴木邦男の 「わが解体」
  その後、鈴木氏から 『失敗の愛国心』、『愛国の昭和』 の2冊が贈られて来た。 両書の読後感として 「一水会・鈴木邦男の 『わが解体』―『失敗の愛国心』 『愛国の昭和』 を読んで」 と題して、本誌2008年10月号に以下のように書いた。
  「拝啓 鈴木邦男 様   「40年来の呪縛に向おうとした」 自己切開の書 『愛国の昭和』 (講談社)、 先にいただいた 『失敗の愛国心』 (理論社 「よりみちパン!セ」)に継いで大変興味深く拝見しました。鈴木さんが 「あとがき、玉砕を辞さず」 で、
  「これまでの本は、書きたいことがあり、結論が初めから分っていて書いた。はじめに結論があり、その結論を主張するために書いた。 ……しかしこの本は違う。スタート地点があった。しかもどこに行くか分からない。書きながら考え、悩み葛藤した。自分でも新たな発見や驚きがあった。 それ以上に大きな不安もあった。これはとんでもないところに向っているぞ……」 と書いておられるように正直に自分と向き合う姿勢には好感が持てました。
  鈴木邦男のこれまでの生き方をかなりの部分において否定する結果となっていると思います。
  「悪魔の言葉 『玉砕』」 (1章)、「『神になった三島』 と死の文化」 (3章)、『果して特攻は〈神〉だったのか』 (7章)等々の記述は、内容はもちろんのこと、 タイトルからしても新右翼 『一水会』 の創始者、代表そして現顧問のものとは到底思えないものです。まさに鈴木邦男の 『わが解体』 です。」


  しかし、それでも鈴木氏の 「特攻」 の呪縛からの解放はまだまだ不十分、ましてや天皇制については相変わらず無批判、 とりわけ 「日本人は天皇に不忠でなかったか」 (5章)など天皇に対する心酔ぶりは全く変わりないという感は否めなかった。
  それにしても新右翼 「一水会」 創始者、鈴木邦男がここまで書いてしまって大丈夫だろうか。きっと身内から厳しい批判がなされるだろう。 はたして殴られる程度で済むであろうかと、他人事ながら気になった。

  右翼は言論の敵か
  その鈴木邦男氏から今度は、『右翼は言論の敵か』 というそのものずばりのタイトルの本が贈られてきた。すぐに読みたかったが、 丁度その頃10年ほど前に古本屋で買った、鈴木氏もその人物をほめている右派の論客村松剛の大著 『醒めた炎―木戸孝允』 (中央公論社、上・下1987年刊)を読んでおり、これが結構面白かった――村松剛の思い入れは割り引くとしても桂小五郎、 すなわち木戸孝允はバランス感覚に富んだ開明派の政治家であったようだ。 ――ので鈴木氏の著書 『右翼は言論の敵か』 に取りかかるまでに若干の時間を要した。

  しかし、同書は新書版なので読み始めたら三島由紀夫に関することなど、前2冊とかなり重なる部分などもあり、通勤途上での読書2日程で読了した。 第7章 「右翼運動のカネと暴力」 など〈さもありなん〉と興味深く読んだ。が、戦後、自由党結党に際しての資金は、 児玉誉士夫が戦時中、海軍航空本部の手先として児玉機関を設立し、中国で資源調達して得た金を提供したものだと書くならば、 その “資源調達” の実態について、もう少し正確に書いて欲しかった。つまり後に55年体制を作り上げ、 事実上一党支配し続けた日本の保守政党自由民主党は、 中国民衆の財産の掠奪の上に成立したものであったという事実についてまで踏み込んで書いて欲しかった。

  鈴木氏が本書 「あとがき」 で 「どうしたら右翼のテロを防げるか、どうしたら右翼を言論という舞台に上げられるか、 どうしたら右翼と話し合いのルールを待てるか考えてみたかった」 と述べているように、 本書全体を通じて流れているのは<テロはいけない><言論戦をやるべきだ>ということであり、この点については、私としても全く異論はない。

  ところが、<言論戦>を主張する当の鈴木氏が、テロを否定しきれていない箇所が本書中に数箇所ある。 例えば終章の 「<言葉>を伝えるたたかい、野村秋介の思想戦争」 など大甘だ。 朝日新聞社長室で副社長等を前にして隠し持っていた二丁の拳銃で自殺したことがどうして言論戦なのか、冗談も程ほどにして欲しい。 この拳銃の入手経路はブラックではないのか。

  鈴木氏はこの日、出版された野村秋介著 『さらば群青』 の帯に大きく 「遺書」 と書かれていたことに野村の覚悟を見、感激しているが、 私などは芥川龍之介が乃木希典が 「殉死」 する直前に夫妻で写真を撮った事実を知って 「まさかその写真が、 日本国中に張り出されるということを考えたわけではないのでしょうね。……」 と書いたのを思い起こすだけだ。三島由紀夫の自殺についても同様だ。

  1970年11月25日、三島由紀夫は 「楯の会」 4人と市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乱入し、総監を監禁し、バルコニーから自衛隊員に向って演説し、 以下のようなアジビラ 「檄文」 を撒いて、楯の会学生長森田必勝とともに自殺した。
  「われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。……
  四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、 名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあった。憲法改正がもはや議会制度化ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、 われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。 政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり軍は建軍の本義を回復するであろう。 日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」 ことにしか存在しないのである。 国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。……
  われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」 という屈辱的な命令に対する、 男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、 自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
  われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。 しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。……
  この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。 魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。……
  われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。 共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。 生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。 日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。 もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、 この挙に出たのである。
                                      三島由紀夫」


  独りよがりの極みだ。そんなに死にたければ1人で死ねばいいのであって、何故森田必勝も道連れにしたのかと思ったが、 どうも三島が森田に 「いつ決行するのか」 と迫られたというのが真相のようだ。
  三島は同世代の者の多くが戦争で若い命を散らされたのに対し、彼自身は徴兵検査不合格で命拾いをした 【注1】 のだから、 その分よけいに命を大事にすべきであったはずだ。藤沢周平が清河八郎について書いた 『回天の門』 に以下のような一節がある。
  「――男たちは……とお蓮は思う。なぜ天下国家だの、時勢だのということに、まるでのぼせ上ったように夢中になれるのだろうか。 いまにも刀を抜きかねない顔色で激論したり、詩を吟じて泣いたり出来るのだろうか。
  あるとき酒を運んで行ったお蓮は奇妙な光景を見ている。山岡を先頭に一列につながって輪を作った男たちが、奴凧のように肩をいからし、 唄にあわせて、一歩踏みしめるたびに突っぱった肩を前につき出して、土蔵の中を歩きまわっていたのである。 八郎もその中にいて、ものに憑かれた顔で口を一杯に開き、肩をいからして床を踏みしめていた。お蓮を見ようともしなかった。
  あとで八郎に聞くと、それは山岡が考え出した踊りというもので、伊牟田や樋渡らがあまりに血気にはやることを言うので、 気を紛らわすために踊らせたということだった。
  そう聞いて、お蓮は思わず口を覆って笑ったが、それで安心したわけではなかった。酔って、鬼のように顔を赤くした男たちが、 唄声だけは外をはばかって低声に、床を踏み鳴らし、酒臭い息を吐いて部屋の中を踊り回っていた光景は、物に憑かれたとしか見えなかったのである。 ……男というものは、なんと奇妙なことに熱中できるものだろう」


  三島も 「決起」 などせず、「楯の会」 でオモチャの兵隊ごっこをやっていればよかった。 【注2】 大体彼は、「皇軍」 がアジアで何をし、 そしてどのように斃れていったかについて学んだことがないのであろうか。
  戦争の実相、国内外における戦争の悲惨さを描いたものは数多くある。例えば発禁となった石川達三著 『生きている兵隊』 は、 中国大陸における日本兵の所業につき中国人の死体を積み上げて風をさえぎり暖をとる兵隊、その他婦女子に対する蛮行など描いて凄まじい。 また大岡昇平 『レイテ戦記』 は、餓死した 「皇軍」 について以下のように書く。
  「見捨てられた戦場レイテの兵は、この間に潰乱状態に陥っていた。
  …………
  ブラウエン、アルブエラ方面に取り残された第十六師団、二十六師団の状態は一層悲惨であった。オルモック街道は米軍に遮断されているから、 これらの部隊は以来二ヶ月、雨と霧に閉ざされた脊梁山脈から出られなかった。……
  幕僚、中隊長も殆ど戦死し、師団長牧野四郎中将以下みなマラリア、熱帯性潰瘍、下痢、栄養失調に悩んでいた。 十六師団には正規の転進命令は出ず、各自ばらばらに転進に移ったので、その状況は一層悲惨であった。 兵の大部分は小銃を持たず、米哨戒隊とゲリラに脅かされつつ、ダナオ湖の水と魚を求めて、脊梁山脈中の道のない叢林中を北上したのである。
  敗走の模様は数少ない生還者の断片な記億にしか残っていない。山中の至る所に白骨化した日本兵の死体があった。 それを通路であることを示す道標として進んだという。靴も地下足袋も破れ、大抵の兵は裸足であった。小銃を持っている者も棄て、 生きるための唯一の道具、飯盒だけ腰にぶら下げた姿になった。
  病み疲れて、道端にうずくまっている兵がいる。彼等は通りかかる兵に向って、黙って飯盒を差し出す。まったくの乞食の動作であった。
  歩く力を残した兵士も飢え疲れていて、人に与えるものは持っていない。何もくれはしないのを、乞食の方でも知っている。 従って彼らはひと言も口をきかず、その眼にも光はない。ただ飢えが取らせる機械的な動作を繰り返すにすぎないのである。 彼らは次第に死んで行った。……
  脊梁山脈中の谷間には、戦線離脱兵が到る所にいた。彼等は通りかかる輜重兵に頼んでも、部隊の形を取っていないから米を渡して貰えない。 そこで強奪し、あとで罪が発覚しないように殺してしまった。……
  兵士はあらゆるものを食べた、蛇、とかげ、蛙、御玉杓子、みみずなどである。……」


  1995年8月15日、戦後50年の節目に際し、村山首相(当時)は閣議決定を経て以下のような談話を述べた。
  「先の大戦が終わりを告げてから50年の歳月が流れました。 今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき万感胸に迫るものがあります。……
  平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。 私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。……
  わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、 とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からんしめんとするが故に、 疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。……」


  この村山談話は、その後の歴代政権――小泉、安倍、麻生内閣も含めて――によって踏襲されており、日本国家が内外に向けて発したマニフェストである。

  山口二矢の批判はタブーか
  第2章 「17歳の愛国心、山口二矢という神話」 との箇所には看過できないものがある。安保闘争終焉後の1960年10月12日、 日比谷公会堂で行われた各党立会演説会で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が、山口二矢という17歳の少年の狂刃に斃れた。
  事件を起こした山口二矢は、練馬鑑別所において歯磨粉を溶いて、壁に 「七生報告」 「天皇陛下万才」 と書いて自殺してしまった。 鈴木氏は、山口の同世代の者として、この事件に大きなショックを受けたという。そのことを記したのが 「17歳の愛国心、山口二矢という神話」 である。 「神話」 と書いているのだから、鈴木氏がこのテロに必ずしも賛同しているとは思えない節もないわけではない。しかし、
  「日本の巨悪を斃して自決する。それによって日本と一体となり、日本とともに生きる。 山口二矢は十七歳でそんな右翼の究極の夢を体現してしまう。まるで完全な芸術作品のような生に思える。残された右翼には賞賛だけが渦巻いた。 しかし、それだけだったのか。山口の 『死』 は戦後の右翼をどう変え、何を残したのか。いまでも僕は考え続けている。
  もう、あのような完璧なテロは起こりえない。起こす必要もない。ただ、あえて誤解を恐れずに言えば、一九六〇年代は幸せだったともいえる。 『命を投げ出しても斃すに値する人物が』 が政治家にまだいたからだ。『こいつを斃せば日本は変わる』 と思い詰めるのは相手を評価することだ。 尊敬かもしれない。愛情にも似ている。山口は神話となり、浅沼の名も山口によって伝説となった。
  二〇〇八年(平成二〇年)に憲政記念館で浅沼の追悼集会が開かれたとき、早大雄弁会の後輩にあたる民主党の渡部恒三の挨拶が印象に残る。 『日比谷公会堂の三党首立会演説会に国民の前で大演説をして、そこで斃れた。政治家としては本望ではないか』
  一方の山口も右翼のなかで、北極星のように輝ける星となった。」
(『右翼は言論の敵か』 41頁〜42頁)

というような記述に出会うと、<おい、おい、鈴木さん、あんたは何のために 『右翼は言論の敵か』 などという本を書いたのか>ということになる。 危うく<×××死ななきゃ×××××>という差別用語が飛び出すところであった。

  誤解を恐れずに言えば、私も政治的テロを絶対的に否定するものではない。独裁者、例えばヒトラーのような政治家が登場し他の手段がない場合には、 最後の選択としてテロもあり得る。だから1938年、 ミュンヘンのビアホールで1923年のミュンヘン一揆を記念して演説するヒトラーを爆殺しようと演説台に爆弾を仕掛けたが、 この日に限りヒトラーがいつもより早く演説を切り上げたため、爆殺に失敗――ヴァチカンはヒトラー無事を祝福した――し、 処刑された家具職人ゲオルク・エルザーや、1944年ドイツ軍司令部に爆弾を仕掛けたが、司令部の建物が堅固でなく、 爆発の威力が小さくなってしまったこと、爆発時の位置関係等からヒトラーを爆殺することに失敗し、 処刑されたドイツ国防軍のシュタウヘンベルグ大佐――先頃映画 「ワルキューレ」 として話題を呼んだ――1909年、 ハルピン駅頭で伊藤博文を暗殺した安重根氏らには敬意を惜しむものではない。

  しかし、それは権力を持った独裁者に対してだ。浅沼稲次郎は権力を持った独裁者ではなかった。逆に権力に対して闘っていた政治家だ。 それを斃すとはまさに権力の走狗に他ならない。
  私と同様鈴木さんも、もう60半ばなのだから 「一九六〇年代は幸せだった」 「命を投げ出しても斃すに値する人物」 が政治家にまだいたからだ。 「こいつを斃せば日本は変わると思い詰めるのは、相手を評価することだ。尊敬かもしれない。愛情にも似ている。」 などと世迷いごとを言っていてはいけない。

  斃された側に対する目線はないのか。浅沼委員長がテロの凶刃に倒れたのは、日本の政治にとって大きな損失であり、 浅沼氏自身も無念の思いであっただろう。そして 「七生報告」 「天皇陛下万才」 など書きなぐって、17歳で、 今後春秋に富んだであろう人生に幕を降ろしてしまった山口少年にもあわれさを感じ、彼をしてこのような行動に走らせた人物達に怒りを覚える。 生きていれば山口少年も 「マッチ擦る つかのま海に霧深し 身捨つるほどの祖国ありや」 と詠った北国生れの反権力歌人に出会うようなことがあったかもしれない。 手塩にかけて育てた、愛する子供を失った親の悲しみにも思いを馳せるべきではないか。
  「戦後の長い間、マスコミ、論壇、教育界などにおいては左翼が強かった、しかし、今はその影もない。 その反動として、日本のことを(現在も戦争中も戦前も含めて) 『全て』 を正義として認め、評価する傾向が出てきた。それはおかしいと思う。 あの戦争は自衛の戦争だった。アジア解放のための正義の戦争だった。朝鮮・台湾を植民地にしたが、日本は 『持ち出し』 だけで、収奪は一切やっていない。 むしろ、いいことをしたのだ。そういって、戦争の 『全て』 を是認する。夜郎自大的な 『愛国者』 たちだ。
  南京大虐殺はなかった。強制連行も従軍慰安婦もなかった。創氏改名も神社を作ったのも住民の熱望でやっただけで日本の強制は全くない。 満州も素晴らしい理想の国だった。そう主張する人たちも最近は多い。
  あの戦争への突入経過に対して、『他に道がなかった』 『やむをえなかった』 といって弁護する保守派の人も多い。 しかし、それでは同じような危機に直面したら、また、戦争をやるということだ。あの悲惨な戦争から何も学んでいないことになる。」 (本書161頁〜162頁)


という歴史観を有し、
  「(テロを)起こす必要もない」 と言い、どうしたら 「右翼を言論という舞台に上げられるか」 と考えているという鈴木氏は、 どうして浅沼委員長を狂刃にて斃した山口二矢少年の死に正面から向き合い、それを批判し、怒り、そして同世代の若者の死として悲しまないのだろうか。

  ここに鈴木邦男の 「わが解体」 の限界がある。おそらくそれを否定することは鈴木邦男の出自を否定することになるのであり、不可なのであろう。 鈴木氏が 『失敗の愛国心』 や 『愛国の昭和』 で自己解体をしている限りでは、陣営からの批判はあっても、それは批判の域に止まるのであろう。 しかし、右翼の中の輝ける 「北極星」 山口二矢を否定するとき、 それは新右翼 「一水会」 創始者という出自を持つ氏にとっては越えてはならない一線――越えたら鈴木邦男は 「ただの人」 となる――を越えることになるのであろう。出自を乗り越えることは容易ではない。

  しかし、それを行わなければ、鈴木邦男の 「わが解体」 は完結することにはならず、氏の言う 「言論戦」 は、虚しいものになる。 浅沼稲次郎に対するテロを批判しきれない以上、<右翼は言論の敵か>と問われれば、<そうだ>と言うしかない。鈴木氏の踏み出す勇気に期待したい。

  <仲良きことは美しき哉>だけでよいのか
  本書読了後、佐高信氏より贈られてきた同氏と鈴木邦男氏の対談 『左翼・右翼がわかる!』 (金曜日)を通読した。 天皇制、西郷隆盛、三島由紀夫等々について論じ合っている。それはそれとして、結構なことであるが、 しかし、以下のようなやりとりには一言物申さざるを得ない。
  「佐高 2006年自民党の加藤紘一さんの実家が放火されるという事件がありました。こういうテロ行為をどう見ますか?
  鈴木 あの事件を聞いたとき、僕自身も自宅を放火されたことがあるので、まず 「怖いなあ」 と思いましたね。
  同じ右翼のテロでも、1960年の山口二矢の浅沼稲次郎暗殺とかと全然違うんですよ。あの頃は、圧倒的に世の中が左傾化しており、 共産革命が迫っている。そういう危機感の中で 「テロで政治家を倒して日本を救うんだ」 という想い、いわば 「追いつめられたテロ」 だったんです。
  いまはそういう意味での危機感はないですね。日本全体が右へ流れている中で、自分たちの存在確認みたいなものをしている。 右派的な流れに反対する加藤紘一さんが 「許せない」 ということになったんでしょうね。
  (中略)
  2002年とその翌年にかけて、建国義勇軍事件というのがありましたよね? あのときも、加藤さんのところに銃弾が送りつけられ、 外務省の田中均さん宅には爆弾が仕掛けられました。そのとき、石原慎太郎知事が 「仕掛けられても当然だ」 と言っていましたけど、ひどいなと思いました。 普通は罷免になる発言ですよ。でもみんな 「よく言った。都知事が言っているなら我々だっていいだろう」 と。
  こういう雰囲気が漂っているのは怖いです。
  佐高 そもそも石原慎太郎という人は、作家でありながら、言葉をまったく粗雑に扱っているからね。 言葉を信じていないというか、信じる能力がないというか、作家を失格したから政治家になったという見方もある(笑)。……」
(同書168〜169頁)

  笑っている場合ではないだろう。佐高氏はどうして山口二矢について現在の鈴木氏がどう考えているのか突っ込んで聞かないのだろうか。 他の処で批判していると佐高氏は言うかもしれない。しかし、他のところではだめなんだ。 今、目の前で山口二矢を肯定する論がなされているのだからそこで反論しなければだめなんだ。 “闇夜の辻斬り” でなく面と向って批判する正眼の構えが必要なんだ。私と同時期学生時代を過ごした氏が 「ここがロードス島だ。さあここで跳べ!」 【注3】 という引用句を知らないはずはない 【注4】

  野村秋介についてのやりとりも同じだ。
  「佐高 でも、加藤宅放火事件に戻ると、新右翼の野村秋介さんも火をつけたりしたけれど、最後は朝日新聞に乗り込んで、 誰も傷つけずに自決したでしょう。
  鈴木 それは三島由紀夫もそうですよ。野村さんも、三島さんもテロは肯定していたんです。『テロがあるから政治家も身を正すんだ。 緊張感を持って政治をやるんだ』 と。
  僕がテロを否定したら、野村さんに叱られたことがありました。でも野村さんも最終的にテロはしなかった。 朝日新聞社の社長を目の前にしながら傷つけようとしなかった。それをしたら、単なる殺人者だということで終わってしまうのが、わかっていたんだと思う。
  佐高 野村さんは言葉を信じていたと思うね。あの人の書くものを読めばわかるけど、訴えようとする意志があるでしょう。 だから自分が訴えて、受け入れられなかったら、自分の敗北ということになる。相手が理解しないのが悪いんだ、ということにはならないじゃないですか。 少なくとも、慎太郎みたいに 『自業自得だ』 ということにはならないでしょう。……」
(同書186〜187頁)

  運動の世界では、<小異を残して大同につく>、いや時には<大異を残して小同につく>ことすらも必要な場合もある。 しかし、対談は真剣勝負としての言論の世界なのだから、<仲良きことは美しき哉>だけであってはならないのではないか。

【注1】 猪瀬直樹著 『ピカレスク』 は、兵隊検査不合格を通告された平岡公威(三島の本名)父子は、 それが間違いであったと取り消されるのを恐れるかのように後ろを振り向くこともなく慌てて逃げ帰って来たと、いかにもこの作家らしく意地悪く描いている。
【注2】 陸上自衛隊は三島由紀夫や [楯の会] のメンバーなどの体験入隊に破格の厚遇で応じ、 体験入隊中の三島の執筆活動の便宜を図るため中隊長室を明渡すなどした。 また、三島も自作・自演の映画 『憂国』 を持ち込み幹部自衛官らに観賞させている。
【注3】 出典はイソップ童話 「ホラ吹き男」。ヘーゲルやマルクスがその著作で引用した。
【注4】 私にも忸怩たる思いがないわけではない。弁護士登録した間もない頃のことだ。 先輩、同輩弁護士らと評論家の竹中労氏らと一緒に表現行為についてのシンポジウムをしたときのことだ。竹中氏が民族派として 「右」 の人達も連れて来た。 その中に鈴木邦男氏もいた。いろいろな人達が各自5分程度で発言し私も発言した。 その際、「右」 の人達の一人(鈴木氏ではない)が浅沼暗殺について “さわやかな行為だ” と述べた。 すでに発言を終えて壇下にいた私は、直ちに<バカなことを言うな>と大声で抗議したが、他には私の友人達を含め、誰も抗議の声を挙げなかった。 私はあの時、単に抗議の声を挙げるだけでなく、 発言者を壇上から引きずり降ろすことまではともかく “ど突く” くらいのことはすべきであったと今でも恥じている。
2010.3.13