2010.11.4

追悼 柳沼八郎弁護士
若き法曹に語り伝えたい接見交通権確立の闘い

2010年9月13日 弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール

  柳沼八郎先生が亡くなられた。享年89歳。   今年の初め頃まで先生は時折、早朝私の自宅に電話をかけて来、「内田君起きてるか。ちょっと相談があるのだが……」 等々といささかやっかいな用事(?)を言いつけられたりしていたし、また私が書いたものなどを送ると必ず電話や手紙でエールを送って下さったりしていた。

  4年ほど前85歳で、所属しておられた最高裁判事を輩出した名門事務所 「虎の門法律事務所」 から引退されたときも、 「内田君、わしは90歳までやるつもりだが、君の処に名前だけ置かせてくれないか」 と頼まれたこともあったほどで本当にお元気であった。

  それが今年の夏前頃から先生からの音沙汰がなくなった。さしもの元気な先生も体調を崩されたのか、何しろこの暑さだから無理もない、 涼しくなったら一度ご自宅に伺おうと思っていたところの突然の訃報であった。

  先生には弁護士活動以外にも、軍隊経験、日本の敗戦後のインドネシア独立運動への協力などいろいろお聞きしておきたいことが沢山あった。

  弁護士活動としても、日教組弁護団(とりわけ岩教組)での活動、スモン薬害訴訟の代理人団長、日弁連人権委員長としての活動など多々あった。 しかし、先生のそれらの活動については、私は関わりを持ってはいない。

  私が語ろうと思うのは、1983年、全国で闘う捜査弁護活動をしていた多くの仲間とともに、 先生をリーダーとして日本弁護士連合会内に設置された接見交通権確立実行委員会の活動とその到達点についてである。

  被疑者と接見し、話を聞き、そして法的アドバイスをする、これが刑事弁護活動の基本であることに異論を差しはさむ人はいないであろう。
  刑事訴訟法39条1項は、弁護人と被疑者の自由な接見の原則を定めている。そして同条3項は、1項の自由な接見の例外として、 検察官、司法警察職員らは 「捜査のため必要があるとき」 この接見の日時を他に変更指定できるとしている。 今日、この原則としての自由な接見と、例外として接見の日時の変更指定は、 一部の例外的ケースは別としてほぼ字義どおり運用されていると解してよいと思われる。

  接見時間帯及び接見時間についても同様である。今日代用監獄としての警察の留置場での接見は、夕刻5時を過ぎても9時、10時過ぎでも可能である。 また接見時間も基本的に制限はない扱いとなっている。

  だが、かつては違った。上記自由な接見の原則と例外としての接見日時の変更が逆転した扱い、 しかも例外としての39条3項の文意はあくまでも接見の日時の変更指定をなし得るに過ぎない規定であるにもかかわらず、 「捜査の必要があるとき」 として数日にわたって接見が事実上拒否される事態が続出した。

  さらに問題があった。検察官らは弁護人の接見に際して、後述する具体的指定書を発行し、弁護人にその受領のために検察庁まで出向き、 その交付を受けてから接見場所に出向くことを強要した。

  愛知弁護士会所属の浅井正弁護士のケースでは、富山県の魚津警察での接見に際して富山地検の検察官の処に出向き、 この具体的指定書を受領してからでないと接見を許さないとする接見妨害が行われた。

  弁護人と被疑者の接見を嫌った検察官らは夕刻5時以降の接見を認めず、接見時間も15分程度(ひどいケースでは、10分、5分というのもあった)であった。 今、ほぼ刑訴法の規定どおりに自由に被疑者と接見できている若き法曹の諸君には信じ難いことであろう。そんなに昔の話をしているわけではない。 1988年の法務大臣訓令に基づく事件事務規程の改廃によって、いわゆる 「一般的指定書」 が廃止されるまで、このような憲法、 刑事訴訟法を無視した違憲・違法な事態が横行していたのであった。

  そして、残念なことに多くの弁護士がこの違憲・違法な状態と闘うことをせずに、検察官らの行為に唯々諾々と従ってきたという歴史があった。 もちろんこのような違憲・違法な接見妨害に対して刑訴法の規定に基づき準抗告で闘った弁護士達がいた。この点については後述する。

  逮捕勾留された被疑者は、密室の中で捜査官だけに取り囲まれ、厳しい取調べを受ける。それは時に連日深夜にまで及び、精神的にはもちろんのこと、 肉体的にも拷問となることも少なくない。そんななかで被疑者が唯一頼りにするのが弁護人との接見である、 捜査当局は被疑者と弁護人との接見交通を妨害して被疑者を孤立感に陥れ、被疑者を絶望させ、ついには虚偽の自白をさせることによって松川事件、 八海事件、松山事件、免田事件、財田川事件、甲山事件、土田・日石事件等これまでに数々の冤罪事件を作り出してきた。 最近でも、DNA鑑定の誤りが明らかになり、冤罪が晴らされた足利事件の菅家さんのケース、 服役後に真犯人が現われ冤罪であったことが明らかになった富山県の氷見事件、つい先日無罪判決が言渡された、 厚労省村木局長の事件など違法な取調べによる虚偽の自白調書が強要される事態は後を絶たない。

  やや古い話になるが、接見交通権に関して裁判官がどのように理解していたかを示す例として、 1987(昭和62)年12月16日東京地裁で無罪判決がなされたお茶の水女子大寮侵入事件について語ろうと思う。 無罪判決は捜査当局の苛酷な取調べを厳しく批判している。現場に残された足跡と被疑者の足型が違っているのは一目瞭然であった。

  この事件の捜査過程においても接見妨害等違法捜査がなされた。勾留延長がなされた後しばらくして、弁護人が被疑者との接見を申入れたところ、 捜査の都合ということで接見が3日後に指定された。このような違法な接見妨害に対して弁護人は当然に準抗告の申立をした。 ところが、東京地裁令状部の仁田裁判官(当時)は、この申立を、これまで2回接見しているし、検察官の取調べの予定もあることだから、 弁護人の面会は3日後に指定したとしても違法ではないと、およそ被疑者の 「弁護を受ける権利」 についての理解を全く欠いた態度で簡単に申立を棄却した。

  被疑者は外界といっさい遮断されたこの3日間(たんに3日間ということだけでなく、長い勾留期間中のもっとも厳しい時期の3日間) 深夜におよぶ苛酷な取調べに耐えきれず、また、弁護人が会いに来てくれないことに絶望して、ついにやってもいないことをやったと述べてしまった。 そして虚偽の自白をさせた警察官は被疑者を検察官の前に連れて行くにあたって 「お前は今までやっていないと嘘を言っていて検事さんの印象が悪い。 だから、これから行ったら 『検事さん今まで嘘をついていて申し訳ありませんでした』 と土下座して謝れ、 そうすれば検事さんの印象がよくなる」 と被疑者に言い聞かせ、実際にそうさせたという。 この場合でも、責められるべきは真実を言い通せなかった弱い被疑者であり、弁護権を十分行使しえなかった弁護人というのであろうか。

  仁田裁判官は、このような冤罪事件ついて責任を感じないのだろうか。 被疑者と弁護人の接見交通権が憲法に由来するきわめて重要な権利であることを考えれば、 弁護人より接見申入れがなされた場合には原則として直ちに接見が認められなければならないのであり、 仮に取調べ中であって若干待たされることがあったとしても少なくとも申し入れのあったその日のうちに接見が認められなければならない。 3日後でもいいなどとはおよそ接見交通権のなんたるかをまったく理解しないものである。 彼は弁明するかもしれない、冤罪事件の責任は強引な取調べをして虚偽の自白をさせた捜査当局にあると。 しかし裁判所に期待されているのは、このような捜査当局の暴走をチェックするところにこそあるのだ。それが司法的抑制機能というものである。

  被疑者と弁護人(弁護人になろうとする者を含む)の接見交通権をめぐる弁護人と捜査当局との攻防には長い歴史があった。

  接見妨害の装置とされたのが、いわゆる一般的指定書制度である。検察官が被疑者の身体管理者(拘置所長、警察署長)宛 「一般的指定書」 を発すると、 被疑者と弁護人との接見は一般的に封鎖され、弁護人が検察官の発する 「具体的指定書」 を持参した場合にのみ例外的に接見の封鎖が解除され、 短時間(15分程度)の接見が可能とされた。検察官の発する具体的指定書は 「面会切符」 と俗称された。

  つまり、ひとたび 「一般的指定書」 が発せられるや被疑者と弁護人の接見は刑訴法39条1項の自由な接見の原則と同条3項の例外としての制限が逆転し、 原則禁止、例外解除となった。 しかも、この 「一般的指定書」 が被疑者と弁護人以外の者との接見を禁じた刑訴法81条の接見禁止決定とほぼ連動して機械的に発せられていた。

  当時、拘置場所の留置主任官(係員)の中には一般的指定を刑訴法81条の接見禁止決定と勘違いし、接見の申入れをした弁護人に対し、 「先生、接見禁止ですから接見できません。検事さんから具体的指定書をもらってきて下さい」 と言うような者すらいたほどである。 このようにして刑訴法39条1項の自由な接見の原則と同条3項の例外としての制限を逆転させた実務の扱いについては、 学会などからも厳しい批判がなされた。裁判所も1950年代から1960年代にかけては、 弁護人よりした準抗告においてこの悪名高き 「一般的指定書」 を違法とした。 しかし、検察庁は 「一般的指定書」 は具体的処分でないと準抗告決定に異議を唱え、なかなかこれに従わなかった。

  このような流れの中で逆に裁判所が法務省・検察庁に屈服し、一般的指定書をめぐる準抗告申立をことごとく棄却するようになった。 その結果、接見交通権をめぐる閉塞状況が続いた。このような閉塞状況を打破すべく、 まず日弁連内の先進的な会員達が個人として国家賠償請求訴訟を提起するにいたった。

  そのような先駆的闘いをしたのが、大阪弁護士会所属の杉山彬弁護士、京都弁護士会の若松芳也弁護士、 そして前述した愛知弁護士会の浅井正弁護士らである。

  その成果が1978年7月10日の最高裁第1小法廷・杉山国賠判決であり、1979年9月28日、富山地裁・浅井国賠判決であった。 1983年、日弁連は接見交通権確立実行委員会を設け、これら先進的会員による接見交通権の確立を求める個別的な闘いを、 日弁連の活動として支援するとともに日弁連自身の闘いとすることとした。

  1985(昭和60)年6月まず札幌の太田勝久弁護士が国賠訴訟を提起し、翌1986(昭和61)年3月、福岡上田国廣弁護士が提訴、 さらに京都の若松芳也弁護士、岡山の佐々木斉弁護士、名古屋の伊神喜弘弁護士、福島郡山の安藤和平弁護士、 そして1987(昭和62)年東京で私他3名が提訴。

  このように全国各地において、国賠訴訟が提起されることによって、接見交通をめぐっての法務省・検察庁対日弁連という構図が出来上がっていった。 日弁連接見交通権確立実行委員会は、これらの国賠訴訟を支援し、委員は各事件の代理人として名を連ね、各代理人団は互いに支援し、協力し、 各法廷に参加した。その結果、国賠訴訟はさらに全国的に拡がった。

  国賠訴訟は、単に机上で起案して起こされたものではない。まず被疑者の身柄の拘束されている警察署代用監獄あるいは拘置所に出向き、 接見の申し出をなす。そして検察官ら捜査官による接見妨害があったときには直ちに、そこで検察官らと論争し、接見を認めさす。 そしてどうしても接見を認めない場合に、やむを得ず国賠訴訟を提起する。この現場での攻防、これが大切であった。 この攻防によって接見を認めさせたケースもかなりあり、また仮に国賠訴訟となった際にも、この現場でのこの攻防がものをいった。

  これらの国賠訴訟を支えたのが、当時委員長であった柳沼八郎弁護士を先頭にして、福岡の上田国廣、美奈川成章、福島康夫、広島の武井康年、 定者吉人、大迫唯志、岡山の佐々木斉、大石和昭、姫路の赤松範夫、大阪の杉山彬、上野勝、小坂井久、京都の若松芳也、名古屋の浅井正、伊神喜弘、 藏冨恒彦、東京の故岩田廣一、故八塩弘二、杉野修平、小泉征一郎、五十嵐二葉、梶山公勇、内田雅敏、竹之内明、後藤富士子、幣原廣、小林美智子、 林敏彦、遠藤憲一、福山洋子、埼玉の故大久保和明、木村壯、郡山の故安藤和平、斉藤利幸、札幌の浅野元広、村岡啓一らの弁護士、 小田中聰樹東北大教授、三井誠神戸大教授(当時)、渡辺修神戸学院大教授、後藤昭一橋大教授ら刑訴法学者、そして資料整理、 「国賠ニュース」 の発行など裏方の仕事をしてくれた委員会担当の日弁連職員達であった。その後も全国から中堅・若手の多くの弁護士が馳せ参じた。

  国賠訴訟の法廷では、いかに法の建前と実務の現場に乖離があるかを徹底的に明らかにしていった。その結果、これらの国賠訴訟の多くで勝訴した。 私について言えば、2件の国賠訴訟の原告となったが、1件は一部勝訴、 もう1件の逮捕直後の接見申し出が拒否されたケース──即位大嘗祭反対のデモ行進中逮捕された学生に接見すべく、 留置先築地警察署に急行(夕刻3時半頃)、翌朝の接見と言われ、直ちの接見を求め2時間に亘って攻防するも、結局接見を拒否された。 ──では、一審勝訴、二審で逆転敗訴、そして2000(平成12)年6月13日、最高裁で再逆転勝訴(第三小法廷・平成7年(オ)第105号事件)となり、 初回接見の重要性を認めた判例として、その後の接見実務に多くの影響を与えることになった。

  このような勝訴判決が相次いだ結果、法務省・検察庁も接見実務の見直しをせざるを得なくなった。1988年2月から日弁連と法務省との間で、 「接見交通に関する協議会」 が持たれることになった。この協議会において日弁連側の代表格として活躍したのが柳沼八郎先生であった。 1988年4月1日の法務大臣訓令に基づく事件事務規程の改廃は、前記協議会の大きな成果の一つであった。 この改廃によって法務省は従来の 「一般的指定書」 を廃止した。具体的指定書(面会切符)の発行・受領・持参の必要という接見妨害の仕組が崩れ始めた。

  捜査と留置の分離を徹底させたことも大きかった。後に福山国賠和解でも 「福山ルール」 (東京地裁2000.10.10)として確認された。

  その結果、接見交通権をめぐる原始的な紛争(接見そのものを妨害)は大幅に減少し、以降、委員会の活動は接見室のない場合の接見場所の確保、 接見時間等、接見の具体的内容に関する改善へとその軸足を動かすことになり、今日に至っている。 このような成果を踏まえ、柳沼八郎、若松芳也編著で日本評論社より 『接見交通権の現代的課題』 (1992年)、 『新接見交通権の現代的課題』 (2001年)を刊行した。

  今、これらの活動を振り返ってみるとき、憲法12条が 「この憲法が国民に補償する自由及び権利は国民の不断の努力によって、 これを保持しなければならない。」 と謳っていることの意味を思う。

  戦後の司法改革、新刑事訴訟法の39条によって、弁護人と被疑者の接見交通が認められた。 しかし、権利は法典に書き込まれれば自動的に実現するものではない。憲法97条が基本的人権の本質について、 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に耐え、 現在及び将来の国民に対して犯すことのできない永久の権利として信託されたものである。」 と規定しているように権利は権利の実現のための闘争があって初めて実現するものであることを理解すべきである。

  現在(いま)、接見交通権の行使にさほど不都合を感じたことはないであろう若き法曹達に、接見交通権の確立のために闘い、 大きな成果を収めた柳沼八郎弁護士を中心とした日弁連接見交通権確立実行委員会の活動があったことを語り伝えたい。

  そして、今なおその闘いが新たなメンバーを迎えて継続されていることも。

  それにしても柳沼先生は最後まで本当にお元気であった。

  日弁連接見交通権確立実行委員会にもつい最近まで出席されていた。もっとも年齢とともにやや怒りっぽく、話が長くなる傾向がなかったわけではない。 そんな時、私はそれが自分の任務だと勝手に思い、しばしば先生の話の腰を折ることもした。 先生も時には、「内田君、君はいつからそんなに偉くなったのだ」 と腹立たしい思いをされたことがあったかも知れない。

  若き日に先生と出会い、そして全国の信頼できる仲間と共に接見交通権確立の闘いに参加したことを誇りに思う。
(2010.10.7 法律新聞)