2010.12.12

内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」

弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール

真の和解に近づくために
――加害者と被害者そして企業と行政の協力を得て
建立された 「中国人受難之碑」――

  第二次世界大戦末期、日本は労働力不足を補うため、1942年の閣議決定により約4万人の中国人を日本の各地に強制連行し苦役を強いた。 広島県北部では、西松組(現・西松建設)が行った安野発電所建設工事で360人の中国人が苛酷な労役に従事させられ、原爆による被爆死も含め、 29人が異郷で生命を失った。
  1993年以降、中国人受難者は被害の回復と人間の尊厳の復権を求め、日本の市民運動の協力を得て、西松建設に対して、事実認定と謝罪、 後世の教育に資する記念碑の建立、しかるべき補償の三項目を要求した。以後、長期にわたる交渉と裁判を経て、 2009年10月23日に、360人について和解が成立し、双方は新しい地歩を踏み出した。 西松建設は、最高裁判決(2007年)の付言をふまえて、中国人受難者の要求と向き合い、企業としての歴史的責任を認識し、 新生西松として生まれ変わる姿勢を明確にしたのである。
  太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。 こうした歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する。
     2010年10月23日
                    安野・中国人受難者及び遺族
                    西松建設株式会社


  アジア・太平洋戦争(15年戦争)が長期化する中で、日本国内では青年男子が次々と出征させられ深刻な労働力不足を招来した。 政府は国家総動員法を制定して、学生ら国内の若年労働力を動員し、 さらには朝鮮から朝鮮人を日本国内に強制連行(総計で約100万人と言われている)するなどしてこれに対処しようとした。 しかし、戦局の逼迫はますますの労働力不足をもたらした。そこで42年、時の東條内閣は中国大陸から中国人を日本国内に連行し、 鉱山、ダム建設現場などで強制労働に就かせることを企て、「華人労務者移入に関する件」 を閣議決定し、同44年の次官会議を経て同年8月から、 翌45年5月までの間に約4万人の中国人を日本国内に強制連行した。

  強制連行された中国人は全国135事業所に配置されたが、そのうち360人が西松建設の広島県安野中国電力発電所導水トンネル工事現場に配置され、 昼夜二交代の苛酷な労働によって29人がこの地で亡くなった。 わずか1年未満の期間に約1割が亡くなったことに過酷な実態が窺われる(全国では約7000人が亡くなった)。 今回来日した遺族の1人、楊世斗氏の父楊希恩氏は、建設現場での抵抗行為により広島市に連行され、取調中に被爆死している。

  昨2009年10月23日、中国人受難者遺族と西松建設との間で西松建設が加害の歴史的事実を認め、謝罪をするとした和解が成立した。 和解成立1周年を迎えた本年10月23日、中国人受難者・遺族、そして中国大使館ら、国内外から多くの関係者の参列を得て、広島県西北部の山あいの地、 安芸太田町、中国電力安野発電所の一隅において二胡の音色が静かに流れる中、慰霊式と記念碑の除幕式が行われた。

  冒頭に記載したのが除幕された 「中国人受難之碑」 の裏面に中文、日文二つの言語で刻まれた碑文である。加害と受難の歴史を記憶するためのものだ。
  この記念碑は、前記和解に基づき、安野・中国人受難者及び遺族と西松建設株式会社との連名によって建立された。 被害者と加害者が 「日中両国の子々孫々の友好を願って」 と共同で建立した記念碑は、まさに和解を象徴するものである。 その碑文も加害者たる西松建設が中国人強制連行・強制労働という過酷な事実を踏まえた上で、その歴史的責任を認識し、 将来に向って責任をもった行動をするということを謳う前向きなものとなっている。

  私は西松安野友好基金運営委員会委員長として主催者を代表して 「この記念碑が安野で起きた歴史を思い起こし、 平和への希望を語る場になることを願います。かつてこの地で亡くなった中国の方々、帰国後に苦難の中で亡くなった方々、 また問題解決のために心血を注ぎながらもこの日を共に迎えることができなかった日中両国の方々に対し、 和解によって記念碑が建立されたことをご報告いたします。中国人受難者と西松建設との和解は、記念碑建立へと歩みを進めてきました。 今後さらに和解事業を推進することを通して、日中間の交流がいっそう深まり、子々孫々にわたる日中友好に寄与することを希望します。」 と挨拶した。

  「和解」という語を広辞苑で引くとつぎのように解説されている。
@ 相互の意思がやわらいで、とけあうこと、なかなおり。
A 〔法〕 争いをしている当事者が互いに譲歩しあって、その間の争いを止めることを約する契約。示談。
  本来和解というからには、@ の意味が望ましいことはもちろんである。しかし、裁判上の和解というのは A の意味である。本西松和解もそうであった。 中国人強制連行・強制労働問題は、一般の民事事件と異なる歴史の清算の問題であり、 その意味ではかぎりなく広辞苑にいう @ に近づくものでなければならないことはもちろんである。

  記念碑の除幕式で、当時の生存者邵義誠氏は受難者・遺族を代表して 「故郷を遠く離れ、祖国を遠く離れた異国の地に、 かつて強制連行され非人間的な労働を強いられた地に、ついに真実の歴史を刻んだ記念碑が建立されました。 ……敢然と歴史的責任を認めて実際の行動で謝罪した新生西松建設に敬意を表します。……私はここで、生きている安野の受難者と遺族を代表して、 亡くなった労工たちの天国の魂に報告したいと思います。あなたたちがかつて非人間的な労働をした地に記念碑が建立され、 あなた達の名前も碑に刻まれて、この緑の山、青い水と共に永遠に存在し続けます。」 と述べた。

  西松建設も 「『安野 中国人受難の碑』 除幕式が執り行われるに当り、 西松建設を代理いたしまして広島の地で亡くなられた方々に心より追悼の意を表します。 同時に、昨年10月に成立の和解に基づき、碑の建立にご尽力された自由人権協会、建立にご理解、ご協力を頂いた中国電力株式会社、 安芸太田町を始め関係各位の皆様に深甚なる敬意と感謝の意を表します。当社は、ここに改めてその歴史的責任を認識し、 安野における360名の受難者およびその遺族に対して深甚なる謝罪の意を表明致しますとともに、 和解に基づき建立されました 『安野 中国人受難之碑』 が日中友好協力関係のさらなる発展に寄与せんことを祈念致します。」 と挨拶した。

  和解成立1年後、加害者と被害者の連名によって、このような記念碑が建立されたことは和解の内容を一歩進めた、 すなわち言葉の正しい意味での和解に近づけたことを意味する。
  強制連行・強制労働という中国人受難の歴史を刻んだこの記念碑の建立に際しては、そのための敷地を無償で提供してくれた中国電力株式会社、 そしてその敷地の引受人となってくれた地元安芸太田町、及び坪野部落の人々、 そして善福寺(安野で亡くなった中国人の遺骨を日本の敗戦後預っていた)らの大きな協力があった。

  除幕式に出席した安芸太田町町長は、「戦争という誠に不幸な事態の中で、異郷の地にて多数の尊い命が失われました。心からご冥福をお祈りいたします。 ……この記念碑が、歴史を後世に伝え、日中両国の今後の友好の礎となることを期待してやみません。 戦後、我が国は、世界の恒久平和を深く念願し、国際平和の確立に努めてきました。 現在の日中関係の出発点となった1972年の日中共同声明の前文において、『日中両国は、一衣帯水(いちいたいすい)の間にある隣国であり、 長い伝統的友好の歴史を有する』と日中関係を表現しています。それから30年余り、両国の関係は、歴史、文化等幅広い分野等で交流が深まっています。 私たちは、今、あらためて受難者の皆様に思いを致し、その尊い教訓を深く心に刻み、不幸な歴史を再び繰り課すことのないよう、より一層、 日中両国の平和友好に努力してまいります。」 と 「追悼のことば」 を述べた。

  もとより記念碑の建立は、建立によって完結するものでなく、和解条項第3条に 「後世の教育に資するために」 とあるように、 その維持管理を通じて若い世代に受難と加害の歴史を伝えて行く作業が不可欠である。西松建設もこの作業に関与することによって、 真の和解に近づくことができる。ビラ配り、要請行動はもちろんのこと、自ら株主となって株主総会でもこの問題の解決を訴えるなど、 10数年に亘って中国人受難者・遺族らの西松建設に対する賠償請求を支えて来た 「中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会」 は、 和解成立を契機として解散し、新たに 「広島安野・中国人被害者を追悼し、歴史事実を継承する会」 を立ち上げた。

  中国人受難者らの掘った導水トンネルが現在も使われ、安野発電所が 「今も静かに電気を送り続けている」 ように、 碑文の末尾にいう 「歴史をこころに刻み、日中両国の子々孫々の友好を願」 う活動は、終わりのない永久革命である。
  また、導水トンネル現場での交流の際、かつてこの地に住んでいたが、現在は隣の山口県に住む年配の女性が語った以下のような話しも興味深かった。

  「敗戦当時私は4歳でした。中国人が隊列を組んで、家の前の道を広島方面に歩いて行くのを見たことがあります。こんなこともありました。 中国人3名が家に来て、母に 『落花生をくれ』 と言いました。母は落花生はないから、この豆をあげると、何か豆を探してきて渡していました。 そうしたらその中国人があのニワトリをくれと言って、生きているニワトリを一羽持って行きました。 さらに庭の梨の実も――まだ熟してはいなかったのですが――取って行ってしまいました。幼心にちょっとショックを受けました。 おかげでその年は梨を食べることはできませんでした。……でも中国人が好きで現在も中国からの留学生のお世話をしています。」

  ニワトリは母が中国人にあげたと、彼女は中国人らに気を使いながら語ったが、真相は梨と同様、持って行かれてしまったのであろう。 敗戦直後の中国人と日本人の力関係の微妙な変化を示すエピソードである。このような事実を知ることもまた草の根の交流に必要なことだと思う。

  発電所で中国人受難者・遺族らを案内した中国電力の現場責任者は、遺族の一人から 「父達の作った発電所を末長く使って下さい」 と話しかけられ、 「はい、大事に使わせてもらいます。」 と答えたという。こういう顔と顔、 手と手のやりとりの積み重ねによって 「受難之碑」 を同時に 「友好之碑」 とすることが可能となる。

  尖閣諸島問題を契機として日中双方の若者の間に 「愛国」 という 「正義」 のぶつけ合いによる憎しみが醸し出されようとしている現在、 草の根交流の大切なことを痛感する。
  今、中国の哲人魯迅が語った言葉をかみしめている。
  希望とは本来 「ある」 ものとも言えなければ、「ない」 とも言えないものだ。それは、地上の道のようなものなのだ。見よ、地上にはもともと道などなかった、 歩く人が多くなればそれが道になる。(「故郷」)
2010年10月24日 記

(追記)
  本件西松建設広島安野和解が契機となって、2010年4月26日、同社信濃川ケースでも和解が成立した。 そして、10年前の2000年11月29日、和解が成立した鹿島建設中国人強制連行・強制労働、いわゆる花岡事件に関しても、本2010年4月、 花岡現地に 「花岡平和記念館」 が開館した。 地元を中心としたNPO法人 「花岡平和記念会」 の呼びかけにより全国からの浄財によって設立された加害と受難の歴史を記憶する記念館だ。
  現代(いま)、三菱重工業名古屋挺身隊(韓国・朝鮮人強制労働)事件について和解交渉が始まり、 また三菱マテリアル社についても和解交渉が始まろうとしている。
  このような個別交渉の延長上に、企業と国家が半分ずつ資金を出し合って作ったドイツの 「記憶・責任・未来」 財団のような、 強制連行・強制労働問題の全体解決が展望できる。