2011.10.13

内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」

弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール

歴史に向き合わず、最高裁判例にしがみついた手軽な判決
──加害者が被害者に 「寛容」 を説く靖国合祀取消訴訟判決──

2011年8月6日

第1 歴史に向き合うことを拒否した判決
  2011年7月21日、東京地裁民事第14部高橋譲裁判長は韓国人遺族らが靖国神社が同神社に彼らの夫や父を彼ら遺族に断りなく、 合祀していることにつき、合祀の取り下げ、勝手に合祀したことに対する謝罪広告の掲載等を求めていた裁判につき、原告らの請求をすべて棄却した。

  判決は、交通事故死したクリスチャンの夫の山口県護国神社への合祀に対し、 同じくクリスチャンの妻がその取り下げを求めた裁判で最高裁が護国神社への合祀は妻がクリスチャンとして夫を追悼し、祀る権利を何ら妨げるものではなく、 したがって、護国神社の行為は違法なものではない―他者の宗教的行為に寛容になりなさい―と、 いわゆる 「寛容論」 によって妻の訴えを棄却した1988(昭和63)年最高裁判決を本件にそのまま引用し、被告靖国神社の行為には何ら違法な点はなく、 合祀の取り下げ請求等は認められないとした。

  判決は云う。「韓国国籍を有する原告らが、植民地時代に日本国に徴兵、徴用されて第二次世界大戦の戦場に赴き、 死亡した者の遺族であることを踏まえると、 被告靖国神社による本件合祀行為等に対して強い拒絶の意思を示していること自体については原告らの歴史認識等を前提にすれば理解し得ないわけではない。 しかしながら、原告らの主張する利益は、他人が家族を自己の意思に反する宗教的方法で慰霊すること、 または英霊ないし祭神として祀ることを拒否するというものであると解され、その内容は、結局のところ、 他者の宗教的行為により自己の感情を害されることを拒否するというものである。そうであるとすると、上記利益は、 原告らが被告靖国神社の教義や宗教的行為に対して内心的な不快感や嫌悪感を抱くことのない利益を言い換えたものに過ぎず、 最高裁昭和63年判決の判断の対象となった宗教上の人格権又は利益と本質的に異なるところはないというべきである。」

  しかし、この引用はあまりにも安易であり、本件の問題点がどこにあるかを見ない(目を閉ざす)ものである。
  最高裁昭和63年判決の事例では原告の夫の死と山口県護国神社との間に因果関係はない。 ところが、本件の場合、原告らの夫や父の死と被告靖国神社との間には因果関係がある。この点が決定的に違う。 しかも前者では遺族の全てが護国神社へ合祀に反対していたわけでなく原告となった妻以外の親族の中にはむしろ合祀を望んでいた者もいた。

  戦前、靖国神社は日本軍国主義と一体となって、日本国民だけでなく、植民地下にあった韓国、台湾の人々をも戦地に狩りたて、その命を失わせた。 すなわち、原告らの夫や父は日本国家と一体となった靖国神社によって殺されたのである。 この死との因果関係の有無、これが本件の核心である。 何故 「原告らが・・・被告靖国神社による本件合祀行為等に対して強い拒絶の意思を示す」 のかということこそが解明されなければならない。 前記最高裁63年判決、山口県護国神社の事例は他者 「宗教的行為」 が遺族の宗教的行為の妨げになるか否かという点で 「信教の自由」 の問題と解する事が出来るかも知れない。 しかし、本件韓国人原告らの事例は 「信教の自由」 の問題でなく、まさに加害者としての靖国問題なのである。 前記最高裁63年判決の云う 「寛容論」 はここでは通用しない。かって、近隣アジア諸国からの批判を無視し、靖国神社に参拝して、 「外国の干渉に屈しない強い指導者」 を演出し、求心力を高めようとして近隣アジア諸国との関係をガタガタにしてしまったバカな首相がいた。 A級戦犯を 「護国の英霊」 として合祀している靖国神社に参拝したことを批判された彼は 「罪を憎んで人を憎まず。これは中国の孔子の言ったことだ。」 と嘯き、それは被害者が加害者に言うことであって、加害者が被害者に言うことではない、と失笑を買った。 最高裁昭和63年判決を引用して、被害者たる原告らに 「寛容論」 を説く本判決は前記首相と同じ思考に立つものである。

第2 靖国神社の歴史認識
  判決は原告らが本件合祀を苦痛に思うことについて 「原告らの歴史認識等」 を前提にすれば、理解し得ないわけではないとも述べる。
  後述するように、日本が起こした先の戦争が侵略戦争であることを認め、また植民地支配を謝罪したことは日本政府の公式見解であり、 かつまた、今日における国際社会の常識である。「原告らの歴史認識等」 はまさにこの国際社会の常識に合致するものであって、 原告らに特有なものではない。

  「理解し得」 えるとは、裁判所は一体何について理解し得るというのか。理解したならばそれが判決文の中にどのように反映されているのか。
  本件原告らの合祀取下げ要求等について考える際に留意すべきことは、靖国神社とは何かということである。 その際、戦前の靖国神社の実態を検証することは当然であるが、同時に現在の靖国神社をも検証しなければならない。

  戦前、靖国神社は国家神道として、日本のアジア侵略、植民地支配に伴走し、これを精神的に支えて来た。 しかし日本国家は1945年8月15日の敗戦を経て、「政府の行為によって、再び戦争の惨禍を起こすことのないようにすることを決意し・・・」 (憲法前文)とアジアに対する侵略戦争と、植民地支配を反省し戦後の再出発をした。 このように伴走して来た日本国家が公式的には(対外的にはというのが正確かもしれないが)その歴史認識を改めたにもかかわらず、 靖国神社はそのような反省をすることなく、戦前の歴史認識をそのまま維持している。

  靖国神社社務所発行の 『私達の靖国神社』 は日本の近.現代史について以下のように述べている。
  「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには、悲しいことですが外国との戦いも何度か起ったのです。 明治時代には 『日清戦争』 『日露戦争』、大正時代には 『第一時世界大戦』、 昭和になっては 『満州事変』 『支那事変』 そして 『大東亜戦争(第二次世界大戦)』 が起りました。 ・・・戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、 戦わなければならなかったのです。こういう事変や戦争に尊い命をささげられた、たくさんの方々が靖国神社の神さまとして祀られています。 ・・・又、大東亜戦争が終わった時、戦争の責任を一身に背負って自ら命をたった方々もいます。 さらに戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかり裁判によって一方的に戦争犯罪人という、ぬれぎぬを着せられ、 無残にも生命をたたれた千六十八人の方々、靖国神社ではこれらの方々を 『昭和受難者』 とお呼びしていますが、すべて神様としてお祀りされています。」

  もう一つ例を挙げよう。
  靖国神社の歴史認識を具体的に表現しているのが同神社の遊就館の展示である。展示室15、(大東亜戦争)の壁に、 「第二次世界大戦後の各国独立」 と題したアジア、アフリカの大きな地図が掲げられ、以下のような説明がなされている。

  「日露戦争の勝利は、世界、特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。 しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。 アジアの独立が現実になったのは大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で、一度燃え上がった炎は、 日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。」

  「大東亜戦争」 は侵略戦争でなく、植民地解放のための戦い、聖戦だったというのだ。そして戦後独立したアジアの各国について、 独立を勝ち取った年代別に色分けし、彼の国の指導者、例えば、インドのガンジ一氏などの写真が展示されている。 ところが日本の植民地であった台湾、韓国、朝鮮 「民主主義共和」 国については色が塗られてなく彼の国の指導者の写真も展示されていない。 ただ、朝鮮半島については南北朝鮮につき小さな字で、1948年成立と書かれているだけである。

  靖国神社のこのような見解は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、 この憲法を確定する」 (憲法前文)として再出発した日本の戦後を否定し、1945年8月15日以前の日本に戻ろうとするものである。
  日本の近.現代史を無条件に肯定し、反省するところのない靖国神社のこのような歴史認識が国際社会で通用しないことはすでに述べたところである。

第3 国際社会の常識
  「1945年6月26日、サンフランシスコで国連憲章が署名されたとき、日本はただ一国で、40以上の国を相手に絶望的な戦争を戦っていました。 戦争終結後われわれ日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にも、 また自国民にも多大な惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました。日本国民は祖国再建に取り組むに際して、我が国固有の伝統と文化を尊重しつつ、 人類にとって普遍的な基本価値、すなわち、平和と自由、民主主義と人道主義を至高の価値とする国是を定め、そのための憲法を制定しました。」 (1985年10月28日、中曽根首相の国連総会演説 【注】 1)、戦後50年国会決議・同じく、 「今、戦後50年の節目に当たり、我われが銘記すべきことは来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、 未来を望んで人類社会の平和と繁栄の途を誤らないことであります。我が国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への途を歩み、 国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました。 私は未来に過ちなからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて、痛切な反省の意を表し、 心からのお詫び気持ちを表明いたします。」 と反省を述べた村山首相談話、 「3.1独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的、軍事的背景の下、 当時の韓国の人々はその意に反して行われた植民地支配によって国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。」 (2010年8月10日、「韓国併合100年」 を迎え、管直人首相談話)、これが戦後日本政府の公式見解であり、国際社会の常識である。

第4 建国の礎、韓国憲法前文を否定する靖国神社
  さらに問題がある。靖国神社の前記歴史認識は原告らの祖国、大韓民国の建国の礎を否定するものであることに留意すべきである。 大韓民国憲法前文は 「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は3.1運動により建立された大韓民国臨時政府の法統及び不義に抗拒した4.19 民主理念を継承し・・・」 と謳っている。

  これは前記日本国憲法の前文 「政府の行為によって再び、戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」 に対応するものである。 3.1運動とは1919年3月1日、日本の植民地下、ソウルで学生らが中心となって起こした独立運動の事である。 つまり韓国の建国の礎は日本の植民地支配からの独立運動にあることを私たち日本人はしっかりと理解すべきである。 なお 「4.19 民主理念」 とは1960年、李承晩独裁政権に抗した学生革命のことである。

  現在もなお韓国に対する植民地支配を肯定し、韓国の人々が屈辱と考える創氏改名による日本名のままで原告らの夫、 父らを日本のための 「護国の英霊」 として勝手に合祀している靖国神社は原告らの祖国の礎を否定しているのだということを理解すべきである。

  2011年8月16日、韓国の 「中央日報」 〈時視各角〉は 「日本、皇国臣民DNAを捨てろ」 と題し,以下のように述べている。
  「教科書歪曲,独島(ドクト、日本名.竹島)問題、靖国神社参拝、韓国との関係を悪化させる日本の慢性的な3大風土病だ。 教科書と独島問題はまた発病している状態だ。まだ靖国が静かなおかげで最悪にはなっていない。,,,,,靖国はどういうところか。 軍国主義日本に戦争のヱネルギーを吹き込んだ国家機関だった。「天皇 国家 神」 という世界で類例がない超国家主義信仰の聖殿だ。 「天皇のために戦死するのは栄誉」 という意識を植え付けるところだ。これによって数多の皇国少年が喜んで命を捨てた。 靖国は彼らの霊魂を慰労したり、遺族の悲しみをなだめる追悼施設ではない。 皇国臣民ならこうして死ぬべきであり戦死を模範として称える国家的顕彰施設だ。ここを参拝することと先祖の墓で法事をするのとは本質的に違う。 靖国の展示館 『遊就館』 に行ってみれば分かる。侵略戦争を正当化しながら士気を鼓吹する展示物でいっぱいだ。 ....私達はよくA級戦犯の合祀を批判するが、これは本質ではない。A級戦犯を靖国から移せば何の問題もないのか。決してそうではない。 靖国はそれと関係なく皇国思想の象徴であり、侵略戦争の道具だった。ここを参拝する国家指導者がどうやって平和を語ることが出来るのか。」

第5 何故、靖国神社は戦前の歴史認識を変えられないか
  靖国神社の体する歴史認識はこのような日本政府の公式見解、国際社会の常識に真逆する。 そんな歴史認識を公然と表明している靖国神社が何故存在しうるのか。それが可能となったのは日本国憲法下、靖国神社が日本国家から離れ、 一宗教法人となった(それはあくまでも、法的にという意味であるが)からであった。つまり、靖国神社は一宗教法人という隠れ蓑を使い、 そして、憲法第20条 「信教の自由」 に依拠することによって戦前からの歴史認識をそのまま維持することが出来たのである。 逆に言えば、靖国神社は戦前からの歴史認識を維持したが故に靖国神社として存続し得たともいえる。 靖国神社で祀っているのは 「護国の英霊」 としての 「神」 である。 (神は悪を為さない)、侵略戦争で死んだ兵士― 「皇軍」 でなく 「蝗軍」 (【注】 2)では神になれない。神になれるのは 「聖戦」 で死んだ兵士だけだ。

  靖国神社が日本の近.現代における戦争と植民地支配を全て肯定している理由はここにある。靖国神社が日本の近.現代史を反省したならば、 その瞬間に同~社に祀られている 「英霊」 は 「英霊」 でなくなり、同~社は 「靖国神社」 でなくなる。 このことは他の宗教団体と比較してみるとよく分かる。戦前、仏教,キリスト教などの宗教団体も日本の侵略戦争に加担した。 戦後、これらの宗教団体はそのことについて一応の反省をした。教義の上で反省することは可能であった。 ところが前述したように 「護国の英霊」 を祀っている靖国神社はその教義からして反省することができない。

  靖国神社は戦没者の追悼の施設でなく顕彰の施設、 すなわち、戦没者を追悼ではなく英霊として顕彰することによって遺族の悲しみを誇りと喜び(対世間的に)に変え、英霊の再生産を行う施設なのである。 A級戦犯合祀も同じだ。合祀したA級戦犯を分離することなど出来ない。東條英機らA級戦犯は靖国神社にこそふさわしい。

  日本国家も靖国神社がこのように戦前からの歴史認識をそのまま維持していることについて、「信教の自由」 だからとしてこれを放置し、 その責任を免れて来た。そんな靖国神社に日本の首相が参拝すれば、国際社会から日本は本当に反省しているのかと批判されるのはあたりまえである。

第6 傷口に塩を塗る靖国神社
  「傷口に塩を塗る」 という言葉がある。日本の植民地支配下、アジアに対する日本の侵略戦争に狩り出され、 命を落とさせられた人々を靖国神社が何ら反省することなく護国の英霊とし合祀していることがそれだ。 前述したように1945年8月15日の日本の敗戦によって、何らの影響を受けることなく、現在なお、日本の侵略戦争を聖戦だと主張し、植民地支配を肯定する、 ナルシズム史観、──それは国際社会の常識に反し、 日本国内の一部でしか通用しない──に立脚する靖国神社は前記侵略戦争に狩り出され命を落とさせられた人々からすれば敵であり加害者である。 そんな加害者が悔い改めることなく被害者をその死後において、しかも戦後14年を経た1959年になって、 なお日本を守る 「護国の英霊」 として顕彰するために合祀する。それは自己の抱く歴史観を正当化するために、被害者たる死者を再び利用するものであり、 これこそまさに、死者の 「傷口に塩を塗る」 行為であろう。

  国際社会において通用しない無茶苦茶なことをしている靖国神社、 そんな靖国神社に原告らの夫や父が勝手に合祀されていることによる原告らの苦痛は本判決の云う 「内心的な不快感や嫌悪感」 といった程度のものでは到底ないことは容易に理解できるはずである。原告らは同胞から 「夫や父がそのようなところに合祀されていることを知りながら、 それを放置していることが妻として、子として許されるのか。恥ずかしくないのか。」 と批判されることはで必定である。

  ≪靖国神社に合祀されているからといって原告らがその宗教、 習俗に基づいてそれぞれの仕方で死者を祀ることは妨げられないのであるからいいではないか。他者の宗教的な行為に寛容になりなさい。≫ というのは原告らには通用しない。原告らが死者をどのように祀ることが出来るかは関係がない。靖国神社が原告らの夫、父を原告らの意思を無視して、 かってに合祀していること自体が許せないのである。

  事は 「信教の自由」 の問題でなく、「人間の尊厳」 の問題である。

第7 国家と靖国神社の共同行為
  靖国神社のこうした不法行為は靖国神社単独では出来ないものであることに留意すべきである。 靖国神社は独自に戦没者の情報を得る能力を有していない。従って日本国家から情報の提供がなければ合祀をなすことは出来ない。 日本国家はこの情報の提供は行政としてのサービスの提供であると弁明する。 しかし合祀のための資料の提供は単なるサービスといった消極的なものではない。合祀の決定自体は靖国神社がするとしても、 資料の提供がなされなければ靖国神社は合祀をすることができない。 そして、日本国家は提供された資料に基づいて靖国神社が合祀することを知ったうえで資料の提供をなしている。 このように合祀は日本国家と靖国神社の共同によってなされているのであり、どちらかひとつ欠けてもできない。 その意味では日本国家による靖国神社への資料提供は憲法20条 「政教分離原則」 に違反するのみならず、 原告らに対しては靖国神社と一体となっての合祀という共同不法行為を構成するものである。

  さらに留意すべきことがある。原告らにとって、靖国神社を単に一宗教法人と視ることが困難だということについてである。 確かに日本国憲法上、靖国神社は戦前と異なり、国家とは離れた一宗教法人である。 しかし、前述したように、国家から 「情報提供」 の名のもとに過剰な 「サ―ビス」 を受けており、しばしば政権党により靖国神社国家護持法案が上程され、 首相の靖国参拝の是非が論じられ、首相の参拝がなくても多くの国会議員らが集団で参拝し、A級戦犯の合祀以来、天皇の参拝はないものの、 天皇の勅使の参拝は途切れることなく行われ、 また靖国神社の宮司も 「(~社を)国家にお返ししたい」 というようなことを堂々と述べたりしているという事実を見逃すわけにはいけない。 つまり日本国家と靖国神社の被害者である韓国人の原告らからしてみれば 靖国神社を日本国家と全く無関係な一宗教法人として視ることは日本における法的な点はともかくとして社会的事象としては困難なのである。 私達日本人はこのことを理解しなければならない。

第8 「北東アジア共同の家」 の実現を阻む靖国問題
  2001年、ドイツ国防軍改革委員会報告書は 「ドイツは歴史上初めて隣国すべてが友人となった」 と、その冒頭で述べている。 「隣国すべてが友人」、究極の安全保障ではないか。様々紆余曲折はありながらも戦後ドイツは真摯に自国の現代史と向き合い、 近隣諸国からの信頼を得て来た。1970年12月、ポ一ランドのワルシャワ訪れた西ドイツ(当時)のブラント首相がナチスの犠牲者の追悼碑に跪いて謝罪し、 ポ一ランドの人々の心を揺さぶったことはよく知られている。 灰燼に帰したドレスデン空爆何周年かの記念式典の演説でドイツ大統領が被害だけでなくドイツの加害責任にも言及していた(せざるを得ない) ことが印象に残っている。今日、欧州において、戦争の可能性はない。 EUは経済的な格差などその内部に様々な問題を抱えてはいるが安全保障の面では完全に成功しており、「欧州共同の家」 が成立している。

  アジア太平洋戦争をアジア解放の戦いなどと、世界で決して通用しない世迷言を述べている靖国神社に首相が参拝していて、 「隣国すべてが友人」 という関係を作ることはできない。戦後の再出発に際し、「戦争神社」 として、本来解体されるべき運命にあったにもかかわらず、 日本国憲法の定める 「信教の自由」 の保障によってかろうじて存続しえた靖国神社が 「北東アジア共同の家」 の実現を阻む大きな要因の一つとなっている。

  国問題は、初め、日本の首相が靖国神社に参拝することが政教分離原則を定めた憲法20条に違反するかどうかという形で論じられた。 そこでは首相の参拝が公人としてのものか、それとも個人としてのものかと、参拝の形式が問題とされた。 東條英機らA級戦犯を合祀していることなども問題とされた。しかし、靖国問題の本質はそこにあるのではなく、靖国神社の体する歴史認識にこそある。 靖国神社の歴史認識からすればA級戦犯の合祀は当然であり、合祀をやめた瞬間に同神社は靖国神社でなくなる。

  靖国問題の本質は政教分離原則にあるのでなく歴史認識にこそあることを理解すべきである。

  本件裁判の審理の中で原告、そして私たち代理人弁護士らはこの点を繰り返し強調した。 裁判所も証拠調べの中で韓国近現代史専攻の朴漢龍大韓民国民族問題研究所研究室長、 平和学専攻で在日韓国人の徐勝立命館大学教授の二人を証人として採用した。 法廷で両先生は韓国人にとって靖国神社とは何かということを鑑定証言的に証言した。 とりわけ徐勝先生は韓国憲法の前文から説き起こし、そして自分が靖国神社に反対するのは日本が憎いからでなく、日本で生活する外国人として日本を愛し、 日本に変わってほしいからだと述べた。裁判所は一体何を聞いて居たのだろうか。 日本の近.現代史に向き合わず、四半世紀も前の、しかも事例の違う昭和63年最高裁判決にしがみつき何とか判決の体裁を繕ったに過ぎない。 高橋裁譲判長以下3名の裁判官達に忸怩たる思いがあったはずだ。

第9 結語 死者を取り込み延命を図る靖国神社、、、
死者に対する思いが歴史に向き合う目を曇らせる
  何故、高橋譲裁判長ら3名の裁判官達は靖国神社の実態に迫ろうとせず、明らかに事例の異なるに最高裁昭和63年判決にしがみついたのであろうか。
  それは一言でいえば靖国の 「英霊」 に拘りを持ちたくなかったからであろう。 靖国神社には幕末以来の天皇の軍隊の死者246万6千余名が 「英霊」 として祀られている。 その多くは日本の庶民たちである。戦死者の遺族にしてみれば、〈国家が夫、父、子、兄、弟を戦争に狩り出し、その命を失わせた以上、 国家は面倒を見て欲しい、祀って欲しい〉、〈国民としての義務を果たしたではないか〉と考えるのは無理もない。

  ところが国にはそのような施設がない。結局、戦死者を祀ってくれているのは靖国神社だということになる。
  遺族会の活動もあり戦死者の遺族らに対する 「戦傷病者.戦没者遺族等援護法」 による年金等の支給と靖国~社への合祀がほぼ連動して行われてきたという経過がある。国は支給を決定すると、自動的にその情報を靖国神社に伝える。 靖国神社はその情報に基づいて合祀をして来た。

  歴史認識についても同じような問題が起こる。戦死者の遺族にとって自分の夫、父、子、兄弟等、 愛する者の死が不義の戦争による犬死であったというのは耐えがたい。その死に何らかの意味付与をしたいという遺族の思いは理解できないものではない。 死者に対する思いが歴史に向き合う目を曇らせる (【注】 3)。
  《国家は〈アジア解放の聖戦〉だと言って彼らを戦争に狩り出したのではないか。その戦争が仮に間違っていたとしても、それを企画、 立案し遂行したのは彼らではない。彼らは祖国を、家族を、守るために斃れたのだ。》 遺族のそんな思いに、 靖国神社は〈あの戦争は侵略戦争ではない〉 〈植民地支配は間違っていない〉 〈あなたの夫、父、子,兄弟の死は犬死ではない〉と囁きかけ、 遺族を取り込み、延命を図る (【注】 4)。そして、愛する人が何故死んだのか、その原因、責任がどこにあるかを追及しようとする遺族らの気持ちに蓋をする。

  残念ながら私達日本人の多くはこのような靖国神社の実態を知らない。
  靖国神社に関する2005年10月25日、政府答弁書に 「国民や遺族の多くが、靖国神社を我が国における戦没者追悼の中心的施設であるとし、 靖国神社において国を代表する立場にある者が追悼を行うことを望んでいるという事情を踏まえて」 とあるように、戦後66年を経た現在もなお、 国民の多くは靖国神社を戦死者を祀っている特別な~社だと思っている。 かっての天皇の参拝、そして首相や国会議員ら国の要人たちの参拝などがこの考えを助長している。 日本社会が靖国イデオロギ−から抜け出せていない。靖国神社に参拝はしないまでも同神社の 「英霊」 には触れないでおこう。 靖国神社を批判し、「英霊」 に触れることは中国大陸、 南海の島々で斃れた日本の戦死者達(そのうちの圧倒的な多数は国家によって犠牲を強いられた名もなき庶民であった) を冒涜することになりはしないかという危惧の念を払拭できないでいる。ここでの戦死者たちは日本の侵略戦争での死者でなく、祖国の防衛、 さらに言えば、愛する父母、妻、子供たちを守るための戦いの中で斃れた死者にすり替えられる (【注】 5)。

  こうして靖国神社の 「英霊」 はアンタッチャブルな存在となる。
  日本の闇は深い。
  靖国神社は死者の追悼、慰霊でなく、「護国の英霊」 として顕彰していることに留意すべきである。追悼、慰霊と顕彰は全く別だ。 このことは毎年8月15日に行われる 「全国戦没者追悼式」 と比較してみればよく分かる。ここでは戦没者を追悼するだけであって、 「神」 として顕彰をしてはいない。また、日本の近.現代史の賛美もない。最近ではアジアに対する加害責任についても語られる。 この 「戦没者追悼式」 について近隣諸国からの批判はない (【注】 6)。それはどこの国でもやっていることだからである。 靖国神社合祀と「全国戦没者追悼式」と違いをしっかりと認識しておかなければならない。
  既に戦後66年。1868年、この国の近代が始まり、1945年破綻するまでに70余年、もうすぐそれに近い年数にならんとしている。 日本の侵略戦争に狩り出され斃れ、靖国神社に取り込まれている内外の多くの死者達を同~社から取り戻さなければならない。

【注】 1 演説2ヶ月前の8月15日、靖国神社を参拝して、アジア諸国から批判を受けた中曽根首相は特別国会において、 「日本は近隣諸国との友好協力を増進しないと生きていけない。国際関係において、我が国だけの考え方が通用すると考えるのは危険だ。 アジアから孤立したら、果たして英霊が喜ぶだろうか」と述べ、以後参拝を取りやめた。
【注】 2 中国大陸における日本軍の暴行、略奪、放火、殺人に怒った陸軍在籍の天皇の直宮が言ったという。
【注】 3 1946年3月、南原繁東大総長主催で 「戦没者並び殉職者慰霊祭」 が行われたが、その告文には 「一たび、、、、戦いに召さるるや、 諸君はペンを剣に代えて粛然として壮途にのぼった。その際あまたの学生のうちだれ一人、 かって、諸国に見られたごとき命を拒んで国民としての義務を免れんとするものはなかった。、、、」 と述たという(南原繁著作集7巻)。 死者に対する思いがリベラリスト南原繁をして歴史に向き合う目を曇らせる.
  大岡昇平 『レイテ戦記』 も 「勝利が考えられない状況で面子の意識に動かされ、若者に無益な死を強いたところに神風特攻の最も醜悪な部分がある。」 と書きながら、他方で、「しかしこれらの障害にも拘らず、出撃数フィリピン4000以上、沖縄1900以上の中で、命中フィリピンで111、沖縄で133、 ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。 想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目的を達した人間がわれわれの中にいたのである。 これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。 今日では全く消滅してしまった強い意思があの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。」 と書いてしまっている。
  多くの学徒が戦場に送られるのを阻止得なかった南原繁、多くの戦友が餓死する中で生き残ってしまった大岡昇平、 ともに死者に対する思いが前記のように書かせた。
【注】 4 靖国神社を支える遺族会が各遺族のために 「戦傷病者、戦没者、遺族等援護法」 の適用を受けられるよう様々な手助けをし、 あるいは遺族年金の増額ために活動するなどして来たことも大きい。
【注】 5 敗戦後の1945年11月28日の臨時国会で最後の陸軍大臣下村定は陸軍が政治を壟断し、 今日の事態をもたらしたことを陸軍を代表して国民謝罪演説を為したが、 その末尾において 「私は国民諸君の従来からなるご同情に訴えまして純真忠誠な軍人軍属の功績を抹殺しないこと、 なかんずく戦没の英霊に対して篤き御同情を賜らんことを切にお願いいたします。」 と涙ながらに訴えた。 この訴えに対して、議場では拍手が鳴り響き、多くの議員がハンカチで涙を拭ったという。
【注】 6 全国戦没者追悼式では墨で 「全国戦没者の霊」 と書かれた白木が建てられるが、 この 「戦没者の霊」 の中にいわゆるA級戦犯らが含まれているかという問題がある。この点について政府の見解が示されたことはない。 正面切ってこのような質問をした者はいない。多分、政府は 「戦没者のすべて」 と答えると思う。 しかしその回答に対して中国、韓国ら周辺アジア諸国がクレームをつけてくることはないと思われる。 何故か、全国戦没者追悼式では戦没者をひたすら追悼しているだけで 「英霊」 としてたたえているのではないからである。