中国残留日本人孤児訴訟 判決全文

平成18年12月1日判決言渡
平成18年12月1日原本交付
裁判所書記官

平成16年(ワ)第8 3 5号損害賠償請求事件(甲事件)
平成16年(ワ)第1485号損害賠償請求事件(乙事件)
平成17年(ワ)第1026号損害賠償請求事件(丙事件)
(口頭弁論終結日:平成18年7月14日)

判    決
(目 次)
主      文
略語及び用語
事      実
【原告らの請求】
【事案の要旨】
【争いのない事実】
【争点及び争点に関する当事者の主張】
理      由
【認定事実】
第1  満州への移民政策について
  1  満州への進出
  2  満州国の建国及び日中戦争への突入
  3  移民政策
  4  大量移民政策の実現
第2  残留孤児の発生について
  1  戦況の悪化
  2  開拓民に対する対策の欠如
  3  ソ連の対日参戦
  4  大量難民の発生とその状況
第3  日中国交正常化までの引揚状況及び引揚援護政策等について
  1  終戦直後の状況
  2  前期集団引揚げ
  3  前期集団引揚げ後
  4  後期集団引揚げ
  5  政府間交渉等
第4  未帰還者に対する対応(昭和20年代,30年代)について
  1  占領されていた時代
  2  援護法の制定
  3  厚生省による未帰還者の調査
  4  昭和30年代における政府(厚生省)の認識
  5  特別措置法の成立とその後の調査等
第5  訪日調査に至る経緯等について
  1  中国残留邦人の立場,出国方法
  2  日中国交正常化
  3  日中友好手をつなぐ会の要請等
  4  訪日調査の実施
  5  訪日調査と並行してされた調査
第6  残留孤児の帰国手続等について
  1  日中国交正常化前
  2  日中国交正常化後−身元保証の要求
  3  旅費の国庫負担制度等について
  4  身元引受人制度の導入
  5  平成6年以降の取扱いの変更
  6  一時帰国援護
第7  永住帰国した中国残留邦人に対する自立支援策等について
  1  従来の方策
  2  自立指導員制度
  3  自立支度金の支給
  4  語学教材の支給   5  オリエンテーションの実施
  6  有識者懇談会(中国残留日本人孤児問題懇談会)の提言
  7  養父母に対する扶養費支給
  8  施設の設置
  9  各種支援策の実施
第8  自立支援法の制定について
  1  各種団体の働きかけ
  2  自立支援法の制定
  3  国民年金に関する支援策
第9  拉致被害者に対する支援策について
  1  拉致被害者支援法の制定
  2  給付金制度
  3  国民年金制度の特例措置
  4  拉致被害者支援法が定める支援策とその実施
第10  残留孤児の置かれた状況等について
  1  生活実態調査の結果
  2  別件訴訟の原告らに対するアンケート調査の結果
  3  生活保護制度の運用状況
第11  原告らの個別の事情について
【被告の責任】
第1  帰国遅延に関する責任について
  1  帰国の妨げとなる行政行為の違法性
  2  入国の際に留守家族の身元保証を要求する措置
  3  帰国旅費の支給申請手続
  4  身元判明者に対する昭和61年10月以降の措置
  5  被告の国家賠償責任の発生と除斥期間経過による消滅
  6  特別措置法による戦時死亡宣告
第2  原告ら主張の早期帰国支援義務について
第3  自立支援懈怠に関する責任について
  1  帰国孤児の自立支援に関する政府関係者の法的義務
  2  自立支援義務の具体的な内容
  3  日本語習得に向けた自立支援策の乏しさ
  4  就労・職業訓練に向けた自立支援策の乏しさ
  5  5年間の生活保持に向けた支援がなかったこと
  6  被告の国家賠償責任の発生と除斥期間経過による消滅
第4  国会議員の自立支援立法の不作為について
第5  除斥期間以外の被告の主張について
  1  戦争責任論
  2  消滅時効
第6  結論
表1 (損害認定一覧表)
表2 (帰国経過等の一覧表)
表3 (帰国後の日本語教育等の一覧表)
別紙1(当事者目録)
別紙2(原告らの主張の要旨)
別紙3(被告の主張の要旨)
別紙1記載の当事者間の頭書事件につき,当裁判所は,次のとおり判決する。

主    文

1 被告は,原告番号19,43,44及び65の原告4名を除く原告らに対し,それぞれの原告らに対応する表1「損害総額」欄記載の金員及びこれに対する同「附帯請求起算日」欄記載の日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。

2 原告番号19・原告○○,原告番号43・原告○○,原告番号44・原告○○,原告番号65・原告○○の請求をいずれも棄却する。

3 前項の原告4名を除く原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

4 訴訟費用は,これを4分し,その1を被告の負担とし,その余を原告らの負担とする。

略語及び用語

本判決では,次の右欄の概念,法令等を左欄の略語又は用語をもっていう。
満州
GHQ
政府
厚生省・厚生大臣
憲法
援護法
特別措置法
自立支援法

入管法
国賠法
国家賠償責任(債権)
拉致被害者支援法

有識者懇談会

全国協議会
永住帰国
かつて満州国の国土とされた中国東北部
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
戦前及び戦後の日本国政府(内閣及び行政機構)
旧厚生省・旧厚生大臣
日本国憲法
未帰還者留守家族等援護法(昭和28年法律第161号)
未帰還者に関する特別措置
中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6年法律第30号)法(昭和34年法律第7号)
出入国管理及び難民認定法
国家賠償法
国賠法1条1項に基づく賠償責任(債権)
北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律(平成14年法律第143号)
中国残留日本人孤児問題懇談会(昭和57年に設置された厚生省の諮問機関)
中国残留孤児問題全国協議会(民間団体)
中国残留邦人が,我が国への入国後に(就籍手続などを経て)日本人と認められ,日本人として我が国に永住することになった際の帰国

事    実

【原告らの請求】
1 被告は,甲事件の原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対する平成16年4月22日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。

2 被告は,乙事件の原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対する平成16年7月9日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。

3 被告は,丙事件の原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対する平成17年6月7日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。

【事案の要旨】
1 原告らは,いずれも,かつての満州(現在の中国東北部)で肉親と暮らしていたが,昭和20年8月9日にソ連軍が満州に侵攻した結果引き起こされた極度の混乱状態において,肉親と死別又は離別して孤児となり,中国人に養育され,その後日本に帰国した者である。原告らの終戦時(我が国が降伏文書に調印した昭和20年9月2日を指す。以下も同じ。の年齢は13歳までである。

2 原告らは,被告の公務員が,早期に原告らの帰国を実現させる義務(早期帰国支援義務)の履行を怠り,かつ,帰国後に自立した生活を営むことができるよう原告らを支援する義務(自立支援義務)の履行を怠ったと主張し,これら違法な不作為によって損害を被ったとして,国賠法1条1項に基づき,被告である国に対し,一律に,損害賠償金3300万円(内訳は慰藉料分が3000万円及び弁護士費用の賠償分が300万円である。)の支払を求めた。
  なお,附帯請求は,甲事件ないし丙事件それぞれの訴状送達の日の翌日以降の民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払請求である。

【争いのない事実】
1 我が国は,戦前,中国大陸に軍隊(関東軍)を駐留させていたが,関東軍は,昭和6年9月,軍事行動を起こして満州全土を支配し,その後,昭和7年3月1日,関東軍の後押しを受けて「満州国」の建国が宣言され,政府は,9月15日,満州国を承認した。

2 政府は,昭和11年8月25日,七大国策14項目を決定し,その一つとして「対満重要策の確立―移民政策および投資の助長策等」を決定した。
  この国策に基づき,満州へ開拓移民を20年間に100万戸500万人を送出するという満州開拓政策の大綱が決定され,昭和12年以降20年間で100万戸500万人の開拓民を満州に入植させる計画が立案された(ただし,昭和20年8月までに実際に入植した開拓民は32万人余りである。)。
  国策としての満州への開拓民の入植は,満州国内に大量の日本人を植民し,農業その他の事業に当たらせて「国」の基礎を固めるとともに,ソ満国境の守りにも当たらせることにあった。

3 関東軍は,昭和18年以降,戦局悪化に伴い,その大部分が南方又は内地に転用され,その戦力を著しく減衰させた。
  ソ連は,昭和20年4月5日,日ソ中立条約の不延長を通告し,ソ連の満州への侵攻が危惧される状態となったが,関東軍は,その侵攻を迎え撃って撃退するだけの戦力を明らかに欠いていた。そこで,我が国は,朝鮮半島及びこれに近接した満州地域を絶対的防衛地域とするとともに,満州の4分の3を持久戦のための戦場とする方針をとったが,そのことは,満州の開拓民には知らされていなかった。
  関東軍は,昭和20年7月,対ソ戦に備え防衛力の強化のため,在満邦人のうち18歳以上45歳以下の男性全員を召集し(いわゆる「根こそぎ動員」),国境付近に配置した。
  その結果,満州開拓団には,ほとんど高齢者・女性・子供しか残らず,その後の逃避行の過程で多くの犠牲者を生むとともに残留孤児が生まれることになった。

4 ソ連は,昭和20年8月8日,対日参戦通告をし,ソ連軍は,翌8月9日午前零時を期して満州への侵攻を開始したが,大本営は,我が国の国土であった朝鮮半島を確保することを第一義とし,満州を防衛の対象としておらず,関東軍は,軍人・軍属とともに朝鮮半島方面に後退したため,ソ連軍の侵攻は極めて速かった。
  そして,戦況について何も知らされていなかった開拓団民らは,突然のソ連軍の侵攻にさらされ,混乱し,多数の犠牲者を出しながら避難を開始し,避難民となった。
  原告らを含む一般開拓民の逃避行は困難を極め,ソ連軍の襲撃による殺戮,強姦,強奪,集団自決等により多大の犠牲者を生み出した。また,無防備な逃避行に対しては中国人からの襲撃もまれではなかった。

5 ソ連軍の満州侵攻開始後間もなく,我が国は,ポツダム宣言を受諾し,昭和20年9月2日,降伏文書に調印して戦争を終え,我が国は,米国軍に占領された。
  終戦時,満州及び朝鮮半島に国家は存在せず,満州と朝鮮半島北部をソ連軍が実効支配し,朝鮮半島南部を米軍が実効支配し,中国共産党と国民党が中国統一政府の樹立に向けて勢力を競っている状態であった。

6 満州を実効支配するソ連軍が,一般邦人の保護や帰還に無関心あるいは非協力的であったため,満州からの邦人引揚げは非常に遅れ,昭和21年5月にようやく開始された。
  そのため,満州の各所の避難場所に避難していた多数の邦人避難民(ほとんどが高齢者又は婦女子)は,満州の極寒の冬を暖房も食料も乏しい状態で耐え忍ぶこととなり,その越冬の間,餓死者・凍死者・病死者が大量に発生した。また,飢えや寒さを凌いで命をつなぐため,多くの女子は中国人の妻となり(いわゆる残留婦人),多くの幼児は中国人の養子となり(いわゆる残留孤児),中国人の家庭に入って生活を始めた。原告らは,このようにして,中国人の養子となり,終戦後ほどなくして中国人家庭で養育されるようになり,中国人社会で成長したものであり,終戦時における原告らの年齢は13歳までである。

  残留孤児のうち終戦時既に日本語を話す年齢に達していた子でも,中国人家庭,中国人社会に埋没して生活するうち日本語を忘れており,終戦時に日本語を話す年齢に達していない子は,当然のことながら,中国語を母国語として成長した。
  GHQが主導で行った大陸からの邦人の集団引揚げにより,昭和21年5月から昭和23年8月まで104万人余りの日本人が本土に帰還したが(いわゆる前期集団引揚げ),中国人に引き取られた幼い残留孤児がこの引揚げに加わることは不可能であった。

7 我が国は,昭和27年4月,いわゆるサンフランシスコ平和条約発行によって主権を回復したが,昭和24年10月に成立した中華人民共和国政府を承認しなかったため,日中間に国交がなく,政府間での邦人引揚げが開始されるということはなかったが,日中の赤十字社(中国紅十字会及び日本赤十字社)を通じて民間協力による邦人引揚げの動きはあり,昭和28年3月から昭和33年7月までの間,3万2500人余りの日本人が本土に帰還したが(いわゆる後期集団引揚げ),やはり,残留孤児がこの引揚げに加わることは不可能であった。
  その後,日中間の民間交流の動きも冷え込み,昭和33年7月をもって,残留邦人の引揚げが中断した。

8 昭和47年9月29日,日中共同宣言によって日中の国交が正常化した。その時点で,中国からの未帰還者(残留孤児・残留婦人を含む。)の大部分は,中国の黒竜江省,吉林省,遼寧省の東北3省に居住していた。
  もともと,政府(厚生省)は,昭和33年ないし34年にかけて行った調査により,中国からの未帰還者が2万人以上いるものと認識しており,国交正常化の時点でも中国に多数の未帰還者がいることを理解していたが,国交正常化と同時に,政府間で未帰還者の帰還に向けた動きが急速に活発化した,というわけではない。
  厚生労働省の調べでは,国交正常化後に永住帰国した残留孤児・残留婦人の世帯数,人員数を戦後ごとに整理すると下表のとおりとなっている(自費帰国しているなどの事情で厚生労働省が把握していない残留孤児・残留婦人は含まれない。)。原告ら残留孤児に関する限り,国交正常化後の数年間の帰還の動きは極めて緩慢であった。なお,残留孤児世帯の中には孤児夫婦が4組あるため,永住帰国した残留孤児の総数は2503人である。

         残留孤児       残留婦人
        世帯  人員     世帯  人員
昭和47年   0    0       19    57
昭和48年   0    0       70    143
昭和49年   1    5      181    378
昭和50年   9   30       170   485
昭和51年   12   43      100   316
昭和52年   13   56      60   199
昭和53年   20   74      80   206
昭和54年   24   80      118   390
昭和55年   26   110      147   486
昭和56年   37   172      156   509
昭和57年   30   120      126   434
昭和58年   36   154      132   472
昭和59年   35   155      98    320
昭和60年   56   258      113   368
昭和61年  159   645     122   369
昭和62年  272  1094     105   330
昭和63年  267  1097      98   256
平成元年   218   831     125   343
平成2年   181   604     145   325
平成3年   145   463     133   287
平成4年   120   353     163   297
平成5年   115   285     203   353
平成6年   100   245     222   625
平成7年    91   259     308   970
平成8年   110   325     239   811
平成9年   108   407     132   507
平成10年   94   380      66   242
平成11年   65   266      43   174
平成12年   53   216      33   106
平成13年   38   164      30   108
平成14年   22   90      15    51
平成15年   14   54      23    45
平成16年   15   64      22    41
平成17年   13   63      16    37
   合計  2499  9162    3813  11040

9 昭和56年から平成11年にかけて残留孤児の永住帰国が多いのは,この間,残留孤児と目される人々を国費で一時的を訪問させ肉親捜しをするという形での身元調査(訪日調査)が行われたことに関連している。
  訪日調査は,昭和56年3月から平成11年まで合計30回,2116人の残留孤児を日本に招いて行われた。そのうち身元が判明したのは670人であったが,身元が判明しなかった孤児も,全員が日本人であると認められた。

10 残留孤児は,日本国内に生活基盤がなく,日本語を理解することができない状態で,かなりの年齢になってから帰国することになったため,日常生活を送る上でも就労する上でも多大な障害に直面することになり,日本社会に適応することが困難な者が多かった。
  そのため,平成6年4月6日,日本語教育,就職,日常生活などの様々な面で残留孤児等を援助するため,自立支援法が交付され,同年10月1日に施行された。しかし,自立支援法は,一時金支給に関する規定はあるが,生活保持のための金銭給付に関する規定を欠いており,残留孤児たちは,日本社会に適応できず,生活に行き詰まった場合,生活保護を受けることになる。
  残留孤児は,そのほとんどが現在でも日本語でのコミュニケーションに大きな問題をかかえており,かつ,帰国後に年齢を重ねていて就職が困難となっているため,生活困窮者が多い。残留孤児世帯の生活保護受給率は,日本人世帯のそれと比較して非常に高い。
  原告らも,日常生活に支障がない程度に日本語を駆使できる者はごく僅かであり,原告ら世帯の多くは生活保護を受給している。

【争点及び争点に関する当事者の主張】
1 本件の争点は,まず第1に,被告の公務員が,原告ら個々人に対して法的義務として行うべきことを行わなかったという違法な職務行為(公権力の不行使)があったかどうかである。原告らは,被告の公務員が早期帰国実現義務あるいは自立支援義務を負っていたと主張しており,被告はこれを否定している。

2 次に,被告の公務員の違法な職務行為があると認められた場合,これにより原告らにどのような損害が生じたと認められるか,原告らが被告に対し損害賠償債権を取得したとして,これが除斥期間の満了又は消滅時効によって消滅したかどうかが争点となる。

3 上記争点に関する原告らの主張の要旨は別紙2のとおりであり,被告の主張の要旨は別紙3のとおりである。

理    由

【認定事実】
  甲総第1ないし第51号証,第53ないし第110号証,第112ないし第117号証,第119号証ないし122号証,第125号証,第127号証,第128号証,第132号証,第133号証,甲総A第1ないし第26号証,甲総B第1ないし第44号証,第46ないし第51号証,甲総C第3ないし第6号証,甲総D第1ないし第14号証,甲総E第1ないし23号証,甲総F第1ないし第21号証,第23ないし30号証,第32号証,第34ないし第65号証,第67ないし第73号証,第75ないし第110号証,甲総G第1ないし第13号証,甲総H第1ないし第5号証,甲総I第1ないし第13号証,甲総J第1ないし第67号証,甲総K第1ないし第3号証,甲個第1ないし第65号証,乙第1ないし第59号証,第61ないし第165号証,第167号証ないし第171号証,第173ないし第181号証,第185ないし第214号証,第216ないし第227号証(いずれも,枝番があるものは,枝番を含む。),証人井出孫六の証言,原告○○,同○○,同出○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○及び同○○の各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。

第1 満州への移民政策について

1 満州への進出
  我が国は,明治38年,日露戦争後に締結された講和条約(ポーツマス条約)により,ロシアが満州に保持していた権益のうち,遼東半島南部の租借権と満州南部(長春以南)の鉄道及び附属権益である炭坑の経営権を獲得した。日本は,租借地を関東州と名づけて統治し,半官半民の南満州鉄道株式会社を設立して,鉄道とその附属権益の経営に当たらせた。そして,租借地及び鉄道警備のため軍隊(関東軍)を駐屯し,満州での植民地経営を開始した。
  大正3年,第一次世界大戦が勃発し,欧米諸国の目が一時的に中国からそれると,日本は,中国に対し,権益の大幅な拡大を要求し,大正4年,21か条の要求を承諾させ,大正8年には,山東省の旧ドイツ権益を継承するなどして中国における権益を拡大させていった。

2 満州国の建国及び日中戦争への突入
  関東軍は,昭和6年9月,南満州鉄道の線路を自ら爆破した上,これが中国軍による攻撃であると称して軍事行動に出,満州を軍事的に支配した。その後,昭和7年には,満州国が建国され,政府は,日満議定書の調印により満州国を承認した。我が国は,満州国から,国防・治安維持,鉄道・港湾・水路・航空路などの管理と新設の委託を受け,満州を実質的に支配することとなった。
  もっとも,昭和8年2月,国際連盟総会において,日本を除くすべての連盟加盟国が満州国は日本の傀儡国家であるとしてこれを承認せず,満州国の建国は国際法上違法な侵略行為とされ,日本は国際的非難を浴びることになった。
  昭和12年7月7日,北京郊外の盧溝橋で日中両国軍が衝突する事件(盧溝橋事件)が発生し,これに端を発して戦線が中国各地に拡大した。その後,中国で抗日運動が起こり,国民党政府が中国共産党と統一戦線を成立させ抗戦を続けたため,日本は,中国との間で,全面的な戦争に突入した。

3 移民政策
  政府は,昭和7年から満州への移民募集業務を開始した。当時の我が国では,農村を中心に過剰人口を抱えており,その解決のため海外移民が必要であり,そのころまで北米地域やブラジルを中心とした中南米地域に移民が行われていたが,それら地域への日本人の流入が制限されるようになったため,移民先として満州が適当と考えられるようになった。
  また,軍部・関東軍にとっても,満州における日本人の人口を増加させることは都合が良く,国策として移民を取り上げる一因となった。すなわち,日本人を満州北部に配置することで,対ソ戦の兵員を現地で確保することや,軍の食料や軍需品の供給源とすることが期待されたのである。関東軍統治本部が昭和7年2月に作成した「日本人移民案要綱説明書」においても「邦人を満蒙に移植することの必要なる所以は…満蒙に於ける帝国の権益伸張上,将来帝国国防第一線確保上絶対に喫緊集眉の急務に属するが故なり」「一朝有事の際は鋤を棄てて敢然干戈を採って起つべき同胞に俟の外なしとす」と記載されている。
  一般には,府県・郡・町村などの地域を単位として,開拓団(100から300人程度の武装集団)が編成され,毎年計画的に渡満・入植した。特に,村の人口を組織的に2分して一方を送出し,残る母村の一戸当たりの耕地を拡大する分村方式が,模範的な方法として推進された。そして,開拓団の入植先は,満ソ国境に近い満州の北部,北東部が選ばれた。
  移民用地の買収は,当初,関東軍により,強引に,買収価格も著しく低額で行われたため,現地住民の激しい反感を買った。昭和9年3月には,永豊鎮東方の土竜山に住む謝文東らが反乱を起こし,移民を襲撃して関東軍の連隊長以下17人を射殺する事件が起きた(土竜山事件)。
  関東軍は,同事件を手痛い教訓とし,土地買収業務を満州国政府に引き継ぎ,満州拓殖会社及び開拓総局が移民用地の買収を担当することになった。そして,土竜山事件後,買収価格は引き上げられたとされるが,根本的に改善されたとはいえず,昭和11年3月に康安省密山県九洲屯で既耕地1万5000 (1は約0.72町歩。合計約1万800町歩。)を買収したときは,時価1?当たり120元の土地を1 当たり8.2元と計算して支払われたにすぎなかった。
  開拓総局と満州開拓会社が取得・整備した移民用地は,昭和14年末で約1067万9000ヘクタールに達し,その19パーセントである約203万8000ヘクタールが既耕地であった。
  このように,時価を下回る価格で収用された土地所有者は,同等の単価の価値を有する土地を購入するなら,以前より狭い耕地しか入手できないこととなって収穫量は減少するし,等級が下がるか,未墾地に入植することとなった場合にも,当然収穫率が低下することになる。また,収容された土地所有者が,自作から小作に転落するなど階層が下降することが一般的にみられた。土地所有者ではなく,耕作権・被傭権もない小作農や雇農は金銭の補償も得られず,開拓団の小作人や雇農になるほかなかったし,開拓団にその需要がなければ流民化せざるを得なかった。このように,移民用地の大規模買収は,先住中国人農民を必然的により条件の悪い状況に追いやるものであり,中国人にとっては多くの場合,不本意な強制移住を意味した。
  以上のように,日本人農業移民施策実現のため,既耕地を含む農地を安価に収奪し,中国人農民を強制的に移住させ,又は小作人や雇農にしたため,開拓団は中国民衆の反感を買い,反満抗日軍の襲撃を受けやすく,ソ連の参戦以前にも少なからぬ犠牲者を出す原因となった。

4 大量移民政策の実現
  広田弘毅内閣は,昭和11年8月25日,七大国策14項目を決定し,その中で「対満の移民政策および投資の助長策等」を挙げ,開拓移民として20年間で100万戸500万人を送出するという大綱を決定した(甲総5・181頁)。この大綱は,昭和12年以降の20年間を4期に分け,第1期の5年間に10万戸を居住させ,以後毎期ごとに10万戸増やすというもので,20年後の計画完了時には,100万戸が移住するというものであった。
  この大綱に従い,翌昭和12年から,国を挙げての移民政策が遂行され,大量の開拓移民が満州国へ移住した。満州への移民戸数は,昭和8年には372戸,昭和11年には1383戸にすぎなかったが,昭和15年には1万9908戸まで一挙に増加した。
  昭和12年7月7日,盧溝橋事件に端を発する支那事変が勃発し,その後戦局が拡大し,農村からの軍隊・軍需産業への徴用が急増したことから,第1次近衛内閣は,同年11月30日,一般開拓民のほかに,「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出を閣議決定した(甲総6・246頁)。これは,高等小学校を卒業した14,15歳の少年を一定期間特訓した後満州に送り出すというものである。
  また,政府は,昭和14年12月,「満洲開拓政策基本要綱」を決定し,昭和15年,この要項を実施に移した(甲総7・352頁)。この要綱の中で「日本内地人開拓民を中核として,各種開拓民並びに原住民等の調和を図り,日満不可分の強化,民族協和の達成,国防力の増強及び産業の振興を期し,農村の更生発展に資すること」とされ,移民が重要な国策と位置付けられている。
  政府は,さらにその2年後,太平洋戦争開始直後の昭和16年12月,「満州開拓第二期五か年計画要綱」を策定し,移民政策の継続を表明した(甲総8・431頁)。これは昭和17年以降の5年間で開拓民22万戸110万人を入植させるという計画であったが,当時農村の過剰人口が激減していたため,計画人数を満たすことは困難になりつつあった。そこで,拓務省は,昭和17年,未婚男子で編成された義勇軍開拓団に家庭を持たせ,将来的に満州国で農業を営んでいく条件を整えるため,「女子拓殖事業対策要綱」を策定し,日本国内の未婚女性を義勇軍開拓団へ送ることを試みた。
  こうして政府は,一連の国策として,終戦直前の昭和20年8月8日まで開拓団を送出した。終戦前の同年5月における開拓民は,一般開拓民が22万0257人(団員5万2428人,その家族16万7829人),青少年義勇軍の隊員とその家族が7万9879人(隊員6万9457人,家族1万0422人),訓練中の青少年義勇軍の隊員が2万1738人であり,これらの合計は,32万1874人であった(甲総2・899頁)。なお,戦前,関東州及び満州に居住する一般の日本人の総数は150万人以上であったとされている。

第2 残留孤児の発生について

1 戦況の悪化
(1)昭和14年,ヨーロッパを主戦場とする第二次世界大戦が始まり,日本は,昭和16年12月8日,米国に宣戦布告し,太平洋戦争が開始された。
  我が国は,太平洋戦争開始に先立つ昭和16年2月,ソ連との間でいわゆる日ソ中立条約を締結し,相互に他方の領土の保全,不可侵を尊重することが定められた。その有効期間は5年とし,5年の期間満了の1年前に廃棄通告をしないときはさらに自動的に5年間延長されるものとされた。また,条約締結と同時に発せられた日ソ両国の声明において,ソ連が満州国の領土保全及び不可侵を尊重することが宣言された。

(2)我が国は,昭和18年後半ころ以降の太平洋戦争の戦局悪化に伴い,満州防衛の戦力を相次いで太平洋戦線(グアム,レイテ,ルソン,沖縄等)に送り込むことを余儀なくされた。その結果,昭和19年夏までに,関東軍は,その2分の1に達する戦力を転用してしまい,著しく弱体化した(乙46の849頁)。
  この結果,関東軍は,火力・機動力に関する装備はわずかで,訓練が未熟な者が大部分となり,兵力は,戦闘が予想されるソ連軍と比べ,極めて劣勢であった。そして,戦略上にみても,利用できる地形・築城施設はソ連軍が有利で,関東軍は新陣地構築の余裕さえないと分析される状況であったから,戦闘開始となれば関東軍の不利は明らかであった(乙47・347頁,351頁)。

(3)このような状況下であったから,大本営は,昭和19年9月18日,それまでの対ソ作戦を,攻勢から持久守勢に切り替えた。ソ連に対しては「静謐確保」を基本方針とし,表面強大を装いつつ,兵力が不足して弱体化していることを悟られないようにして静けさを保ち,ソ連が侵攻した場合には,まず満州国境方面の前方要域においてソ連を撃破するとともに,満州の広域を利用してソ連の侵入を阻止妨害して持久を策し,最終的には満州東南部から北鮮にわたる地域を確保して長期持久を図ることとを基本構想としたのである(乙46・850頁)。

(4)昭和19年11月7日には,スターリンが革命記念日の演説で,日本を侵略国と誹謗し,同年12月には傍受電報によってソ連が「敵国日本」なる語を使用していることが明らかとなり,昭和20年2月には欧州から極東へ向けてソ連軍の兵力増強が確認されるに至り,ソ連の対日参戦を暗示する動向が続いた。
  そして,ソ連は,昭和20年4月5日,我が国に対し,日ソ中立条約の不延長を通告した。ソ連は,日独伊三国同盟と対立する連合国側にあり,かつ,日露戦争で奪われた領土と権益を奪還する機会を逃すはずがないのであって,ソ連の対日参戦の意図,すなわちソ連軍の満州侵攻の意図は明白な状況となった(乙47・349頁)。そして,昭和20年5月8日ドイツが全面降伏して欧州方面における戦闘が終局したことにより,ソ連の対日参戦は時間の問題となり,欧州方面から満州方面への兵力の移動が完了した時点で,ソ連軍の満州侵攻開始が予想される状況となった。

(5)大本営及び関東軍も,ソ連の対日参戦を十分予期しており,昭和20年春ころには,早ければ同年夏期に侵攻の可能性があると正確な見通しを持っていた。しかしながら,時の経過とともにその見通しは希望的観測に傾いていき,ソ連軍の対日参戦は,昭和21年の解氷期を待ってからではないかとの判断を行うようになった(甲総13,乙47の350頁)。

2 開拓民に対する対策の欠如
  戦局が煮詰まりつつあった昭和20年5月30日,「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」が策定され,これにより,対ソ対戦の際には,本土防衛を目的として,朝鮮半島及びこれに近接した満州地域を絶対的防衛地域とするとともに,その他満州地域を持久戦のための戦場とすることが決定された(乙46・853頁)。大陸における一般の日本人の多くは,関東州や満州南部の都市周辺に居住していたが,開拓民の多くは,満州の北部や北東部に居住していたのであって,この要綱は,多くの開拓民らの居住地域を戦場とすることを意味し,開拓民から多数の犠牲を伴うことを前提とするものであった。ところが,日本は,対ソ作戦として「静謐確保」の方針をとっており,開拓民らを満州国境付近から待避させることは,ソ連に後退守勢の動きが悟られると考えていたため,開拓民らに対し,何ら事前の措置を講じなかったばかりか,軍の後退守勢の動きを秘匿し続けた。婦女子だけでも疎開させるという措置さえもとられず,開拓民らがソ連軍侵攻に備えて避難する機会が失われた。それどころか,政府は,ソ連軍侵攻が予想される状況になっているにもかかわらず移民政策を維持し,危険な情報を伝えぬまま,昭和20年8月になっても,なお,新たな移民を送り出した(乙47の390頁,354頁,甲総101・15〜16頁,甲総H1・27頁,乙47・346頁)。
  また,関東軍は,昭和20年7月10日,弱体化した関東軍の人員補填のため,在満邦人のうち18歳以上45歳以下の男性全員約20万人を一斉に召集し,これらをソ満国境付近に配置した(いわゆる「根こそぎ動員」)。この結果,開拓団の青壮年男子の人口は極端に減少し,開拓団の構成員は,そのほとんどが高齢者・女性・子供となった(甲総12・178〜183頁,甲総101・16頁,甲総H1・21頁,乙1・196頁)。
  以上のとおり,政府・軍部は,ソ連参戦の可能性を十分認識し,ソ連が現実に侵攻した場合には,国境地帯に多く居住し,婦女子を主な構成員とする日本人移民に大きな犠牲が出ることを十分予想していたが,そのための方策をとることなく,成り行きに任せ,そればかりか,なおも移民を送出し,後の被害を拡大させることとなった。

3 ソ連の対日参戦
(1)ソ連は,昭和20年8月8日,我が国に宣戦布告し,ソ連軍は,翌9日午前零時に満州への侵攻を開始した。このとき,関東軍の主力は,既に満ソ国境線から内部に後退していた(乙47・367頁)。
  大本営は,昭和20年8月9日,ソ連軍の侵攻に対し,大陸命(第1374号)を下達し,その中で「関東軍は主作戦を対『ソ』作戦に指向し皇土朝鮮を保衛する如く作戦す」として「本土決戦の主義に即し,確保地域を『皇土』に限定し」,「満州領域は放棄するも可」という命令を発した(乙47・397〜398頁)。すなわち,満州国を関東軍の防衛すべき対象から外し,放棄することを決定したのである。
  関東軍の主力は,上記大陸命に従い撤退することとなったが,その際,ソ連軍の後方からの侵攻を阻止するため,川に架けられた橋を爆破したため,後に避難のため橋を渡ろうとした開拓団に足止めを食らわせる結果を生じさせた例もあった。

(2)ところで,大本営は,昭和20年8月9日,大陸命において「戦後将来の帝国の復興再建を考慮して,関東軍総司令官は,なるべく多くの日本人を,大陸の一角に残置することを図るべし。之が為,残置する軍,民日本人の国籍は,如何様にも変更するも可なり」との方針を関東軍に命令し(甲総21〜22,甲総H1・27頁等),外務省は,同月14日,満州を含むアジア諸国における在外機関に対し,「ポツダム宣言受諾に関する在外現地機関に対する訓令」を発し,居留民はできる限り現地に定着せしめる方針をとることを打ち出した(甲総19,乙48・53頁)。また,大本営朝枝繁春参謀は,同月26日,「一般方針」として「内地における食糧事情及思想経済事情より考うるに既定方針通り,大陸方面においては在留邦人及び武装解除後の軍人は,ソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とする」,「満鮮に土着せる者は,日本国籍を離るるも支障なきものとす」(甲総22・377〜379頁)と報告し,これに対し,大本営総参謀長は,同月29日,「全般的に同意なり」とした。さらに,同年9月24日の次官会議においても同様の方針が確認された。

(3)このように,日本は,ソ連参戦後の一時期,在満邦人に対して現地土着政策ともいうべき政策を取ろうとしていた。この政策は,終戦後に我が国が占領され,GHQの占領政策により政府の防衛・外交機能が全面停止させられたことから,結果的に実行に移されることはなかったが,政府から政策方針が発せられたために南下が遅れた開拓民の集団もおり,一部において引揚げを遅延させる原因となった(甲総E2,3)。

4 大量難民の発生とその状況
(1)開拓民らは,関東軍による保護や情報提供が全くない状態で,突然ソ連軍の侵攻を受け,極度の混乱状態に陥り,居場所を失った。彼らは,根こそぎ動員により高齢者・婦女子しかいない状態で,戦場に投げ出されるかたちになったのである。
  開拓民らは,財産を捨て,鉄道沿線や南方に向けて避難することとなった。その間,ソ連軍の攻撃や中国人による略奪襲撃に遭い,防戦して戦死したり,自決するものが相次いで生じ,ほぼ全滅した開拓団も数多くあった。また,避難途中,力尽きて倒れ,足手まといとなった瀕死の幼児を捨てた者もいたし,ソ連兵等によって虐げられた婦女子も多数いた。また,難を逃れ,略奪襲撃が治まった後も,食糧不足による栄養失調,悪疫などにより,死亡者が相次いで出た。
  九死に一生を得て,ハルビン,新京,奉天等にたどり着いた者たちも,収容所とは名ばかりの倉庫や学校において,麻袋を着て土間やコンクリートの上にわずかにむしろを敷き,零下30度から40度の寒気の中で越冬することとなった。この越冬中,極めて多数の日本人難民が死亡した。

(2)日本は,昭和20年8月15日,ポツダム宣言を受諾する意思を内外に明らかにしたが,ソ連は,宣言後も日本の軍事行動に何ら変化がないとの見解を表明し,攻撃を続行した。そのため,直ちに戦闘状態がやむことはなく,現地で停戦協定が結ばれるなどした後,同年8月末ころまでにようやく戦闘状態が終結した。
  難民となった開拓民らは,戦闘状態終結後,収容所等において,食糧,衣服,燃料,医薬品が不足する中での越冬生活に入った。このような状況の中で,栄養失調症や伝染病などによる死亡者が続出した。開拓民の多くを占める婦女子は,このような状況の下,現地住民に救いを求め,やむなくそれらの妻となったり,乳幼児を託したりせざるを得ない場合も多かった。また,両親の死に伴い孤児となり,現地住民に預けられる乳幼児も発生した。このようにして,残留孤児が生じることになった。原告らも,このようにして発生した残留孤児の一人である。

第3 日中国交正常化までの引揚状況及び引揚援護政策等について

1 終戦直後の状況
  政府は,軍人軍属の帰還とともに一般邦人が引き揚げてきたことから,その受入れに対処するため,昭和20年8月30日,「外地及び外国在留一般邦人引揚者応急措置要項」を,同年9月7日には「外征部隊及び居留民機関輸送等に関する実施要領」を定め,海外の残留一般邦人の保護及び引揚者の受入援護等に関する措置について基本的事項を示した。さらに,次官会議において,引揚者の受入機関や上陸地の収容施設,食糧,衣料等の調達準備等について具体的施策を定め,独自の立場で引揚援護を実施した。しかし,占領軍が終戦後間もなく進駐し,同年10月25日,GHQの指令により政府の外交機能が全面的に停止され,外国との交渉はGHQを通じて行うか又はGHQが政府に代わって行うこととされた。したがって,引揚援護業務も,GHQの計画に従って実施されることとなった。このような状態は,昭和27年4月28日,政府が連合国との間で調印した平和条約(昭和27年条約第5号。いわゆるサンフランシスコ平和条約)の発効により日本が主権を回復するまで続いた。
  GHQは,昭和20年10月18日,厚生省を引揚げに関する中央責任官庁に指定し,政府に対し,引揚者の受入れのためにとるべき措置について,個別に指令し,昭和21年3月16日,引揚げに関する基本的大綱(引揚げに関する基本指令)を策定した後は,これにより包括的に指令した。
  GHQは,各国からの輸送に当たり,各地の連合国軍及び各国政府と連絡を取り,軍人軍属の復員と緊急を要する地域の邦人の引揚げを優先し,一般邦人については,各国との協定によって順次帰還させる方針を採った。この間,政府は,GHQに対して引揚げに必要な船舶の貸与を要請し,輸送船100隻,LST輸送船85隻,病院船6隻の貸与を受けた(乙1・82頁)。
  満州地域は,終戦後,連合軍から発せられた一般命令第1号によりソ連軍の管理地域となっていたが(乙1・80頁),ソ連軍はGHQの上記方針を受諾せず,また,在満邦人の本国送還について何ら措置を執らなかったため,この地域の引揚げ開始は他の地域に比べ大幅に遅れることとなった。

2 前期集団引揚げ
  ソ連軍は,昭和21年4月,在満邦人引揚げについて措置を執らないまま満州から撤退した。
  当時,中国国内は,国民党政府軍(国府軍)と中国共産党軍(中共軍)の内戦状態にあり,旧満州地域も同様であった。米軍は,昭和21年5月,国府軍の中国東北保安司令官との間で在満邦人の本国送還に関する協定に合意し,昭和21年8月,中共軍との間においても送還協定に合意した。これら協定に基づき,昭和21年5月から同年10月までに約100万人の引揚げが実施された。
  集団引揚げは,残留邦人が満州各地にある日本人民会の主導の下,居留地からコロ島まで移動し,そこで米軍によって集結させられた引揚船に乗船し,日本に入港する方法で行われた。中共軍支配地域における残留邦人については,中共軍から国府軍に引き渡された後,日本人民会の統轄の下で,引揚げが実施された。
  その後も昭和21年11月から昭和23年8月まで,大規模な集団引揚げが順次実施され,合計約4万人の在満邦人が引き揚げることができた。
  もっとも,これら集団引揚げで引き揚げることができたのは,自力でコロ島まで移動することができた者であり,中国人に引き取られた残留孤児が引揚げに参加することは不可能であった。

3 前期集団引揚げ後
  その後,国共内戦が激化し,中共軍が優勢となって両軍の均衡が破れ,輸送ルートが遮断されるなどし,引揚げの条件が悪化した。また,中共軍が満州地域,次いで華北以南を手中に収め,昭和24年10月,中華人民共和国が樹立されると,共産党支配下の中国政府とGHQ管理下の政府の交流も途絶えた。そのため,昭和23年8月以降長らく,統治機構を通じての集団引揚げは実施されなくなり,その後の引揚げは,個別に中国政府の特別帰国許可を得るなどして行われたにすぎなかった(乙1・80〜93頁)。
  昭和23年11月9日,参議院本会議において,「日系の大陸残留孤児救済に関する請願」が採択された。この採択の際,参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会の元委員長から,終戦後,多くの残留孤児が満州各地にいるが,これに対し何ら今日まで対策がとられていないこと,一日も早く救済しなければならない旨の報告がされた(甲総120の1)。
  また,昭和24年ころ,孤児を含む残留邦人が満州地方に取り残されている状況についてしばしば新聞報道がされていた。さらに,昭和24年9月に満州地区から1127名が帰国し,それら帰国者から,東北各地の主要都市はもとより僻村地域において,日本婦人や孤児の姿を見ないところはないといってよく,それらの者は,本人が希望しても引揚げは困難で,救出以外に道がないと報告された(甲総120の2,甲総A4の17,18及び20,乙41・57,58頁)。
  政府は,集団引揚げが困難な事情にかんがみ,個別に引き揚げる者の経済的負担を軽減するため,昭和27年3月から帰国に要する船運賃を国が負担することにした(個別引揚者の船運賃国庫負担制度。乙1・122頁)。しかし,この制度を利用するには日本にいる留守家族の申請が必要とされており,留守家族と連絡を取ることができる者のみを対象とするものであった(乙83,102)。
  我が国は,昭和27年4月28日,サンフランシスコ平和条約の発効により主権を回復し,海外の残留邦人の引揚げを自らの手で行うことができるようになったが,中国と国交を樹立していなかったため,中国支配下にある満州地域からの引揚げについて外交ルートを通じての交渉は困難であったことから,直ちに特段の方策を執ることはなかった。
  このような状況下で,満州地域からの引揚げは中断されたままとなったが,引揚げ再開を望む声もあり,衆議院は,昭和27年6月17日,ソ連及び中共等の地域における未帰還者問題の早急なる解決にまい進すること,留守家族に対しては万全の対策を樹立し,援護の実を挙げることを決議し,政府に対し,積極的な対策を講ずべきとする決議案(海外同胞引揚促進並びに留守家族援護に関する決議案)を採択した(甲総117の2)。また,在外同胞帰還促進全国協議会は,同年7月に,引揚者の証言を取りまとめた海外在留邦人の近況調査書を引揚援護庁に提出した(甲総A4の28)。

4 後期集団引揚げ
  中国政府は,昭和27年12月1日,ラジオ放送(北京放送)により,帰国を希望する残留邦人の帰国の援助を表明した。これを契機として,中国側の中国紅十字会と,日本側の日本赤十字社,日中友好協会及び日本平和連絡会(以下,これらを併せて「引揚三団体」という。)との間で,引揚げに関する会談が重ねられ,昭和28年3月5日,「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」(いわゆる北京協定)に調印した。これに基づき,中国地域からの集団引揚げが再開されることになり,第1次引揚げが昭和28年3月に開始され,同年10月の第7次引揚げまで,合計約2万6000人が帰国した。
  中国紅十字会は,昭和28年11月,引揚三団体に対し,いったん集団引揚げの打切りを通告したが,昭和29年8月,中国紅十字会から引揚三団体に連絡があり,第8次引揚げとして520人が帰国した。
  その後,昭和29年11月3日,中国紅十字会会長李徳全等の来日に伴い,中国紅十字会訪日代表団と引揚三団体との間で覚書が交わされ,これに基づき同年9月から昭和30年2月まで,集団引揚げが実施され,2292人が帰国した(第9次から第11次)。さらに,同年12月,第12次集団引揚げとして141人が帰国した。
  昭和31年6月28日,中国紅十字会代表と引揚三団体との間で「共同コミュニケ」(いわゆる天津協定)が調印され,これに基づき,昭和29年9月27日から,昭和32年5月まで集団引揚げが実施され,1368人が帰国した(第13次から第16次)。その後,昭和33年4月から同年7月まで集団引揚げが実施され,2153人が帰国した(第17次から第21次)。
  ところが,昭和33年5月,長崎の中国切手展会場において,一人の日本人青年が中国国旗を引きずりおろした事件(長崎国旗事件)に関し,岸信介首相がした発言が中国敵視とみられたことを背景に,中国紅十字会が引揚三団体に対し,策21次の引揚げをもって集団引揚げを終了する旨伝え,以後集団引揚げが行われなくなった。
  これら後期集団引揚げで帰国した者は,当初は(第1次から第12次)中国で留用されていた者が多く(国府軍及び中共軍は,終戦後,戦闘,後方勤務,技術,職域等の要員として多数の日本人を留め置いた。),その後,戦犯者や現地で中国の妻となった里帰り婦人が中心となった(第13次から第16次)。そして,第17次から第21次の集団引揚げでは,中国で思想教育を受けるなどした学習組と呼ばれる者の引揚げが主体であった(乙42・58〜60頁)。したがって,原告らのように,中国人の養子として中国人家庭で暮らす者は,後期集団引揚げで帰国した者の中には余り含まれていなかった。
  中国残留邦人は,後期集団引揚げが終了した後,個別に帰国するしか方途がない状況となったが,政府は,引揚げを希望しながら居住地から出港地までの旅費を支弁することが困難な者を援助するため,昭和37年6月から,日本赤十字社を通じて旅費を援助することとした。もっとも,この制度についても,従前実施されていた個別引揚者の船運賃国庫負担制度と同様,日本在住の親族の申請が必要とされていたから,親族と連絡が取れない者にとっては意味がなかった(乙1・122頁,乙103)。

5 政府間交渉等
  政府は,昭和30年7月,在ジュネーブ日本総領事に対し訓令を発し,同総領事は,この訓令に基づき,在ジュネーブ中国総領事に対し,中国残留日本人の引揚問題について,人道上の問題として,できる限りのことを要望する旨の覚書を手交した。これに対し,中国総領事は,同年8月,日本総領事に声明を伝えたが,その内容は,国交正常化交渉について提案するにとどまり,引揚交渉を進展させるものではなかった(第1次交渉。乙1・111,112頁,乙42・38頁)。
  また,昭和30年9月,ジュネーブにおいて開催された国際赤十字連盟執行委員会の会合において,中国紅十字会代表から約200人の日本人の帰国について準備をしている旨の発言があり,政府は,同年10月,在ジュネーブ中国総領事に対し,上記発言等の事実関係の確認と,事実であれば帰国者を受け入れる用意のあることを申し入れたが,その回答は,国交正常化に言及するにとどまり,引揚げを進展させるような内容ではなかった(第2次交渉。乙1・112,113頁,乙42・41ないし43頁)。
  また,在ジュネーブ日本総領事は,昭和32年5月,在ジュネーブ中国総領事に対し,中国地域の未帰還者3万5671人の名簿を手交し,現在生存している者については現状を明らかにし,既に死亡している者についても,できる限り調査してほしいことを申し入れた。これに対し,在ジュネーブ中国総領事は,同年7月,現在中国には行方不明というような日本人は存在しない,中国の侵略戦争に参加して行方不明となった日本人の問題は,中国政府として何ら責任を負うものではない,日中国交正常化をそらす企てには同意できない,岸首相が中国を誹謗する発言を行ったのと時を同じくされた行方不明の日本人の調査に関する要求は受け入れることができない旨の厳しい回答をし,やはり交渉は進展しなかった(第3次交渉)。また,衆議院海外同胞引揚特別委員会の広瀬正雄委員長は,上記第3次交渉と並行して,政府代表の資格ではなく,中国残留の日本人の引揚問題を解決するため,国民の代表として中国訪問計画を立案し,中国側に訪問を受け入れるよう申し入れたが,拒否の回答が寄せられた(乙1・112,113頁,乙42・46ないし50頁)。
  このように,昭和30年代以降,日中間において,政府レベルでの交渉は,当時の日中の外交関係上の問題もあって,進展がみられなかった。このような状態は,民間レベルでの交渉でも同様であった。すなわち,我が国の留守家族団体全国協議会会長は,昭和32年8月,中国人民外交学会会長から招待を受けて中国を訪問し,政府首脳と会談するなどし,昭和32年12月から昭和33年9月までの間に5回,中国側に生存残留の見込みが高い約1900名のカードを送り,消息調査を依頼したが,昭和36年,そのうち極めて一部について回答されたにすぎなかった(乙42・192頁)。

第4 未帰還者に対する対応(昭和20年代,30年代)について

1 占領されていた時代
  終戦後,未復員者(旧軍人軍属の未帰還者)については旧陸海軍の復員官署が,一般邦人未帰還者については外務省が,それぞれ調査を行うこととされていたが,現地からの情報によって,一般邦人の引揚げが必ずしも順調に行われていないこと等が明らかになり,内閣に設置された引揚同胞対策審議会は,昭和23年10月9日,「未引揚邦人の氏名,所在,生死の別等を調査することは,極めて緊要なるにつき,政府はみぎ調査を実施するに必要なる措置を至急講ずること」を決議し,政府に要請した。また,昭和23年12月に特別未帰還者給与法が公布されるなどし,ソ連邦の地域内の未復員者と同様の実情にある一般邦人は「特別未帰還者」としての処遇を受けることになり,これによって特別未帰還者の名簿を作成するため,未引揚邦人の調査究明をする必要に迫られた。そこで,これら目的を達成するため,昭和23年11月,外務省内に引揚調査室が創設され,そこで一般邦人未帰還者の調査究明が組織的に行われることになった(乙1・180頁,乙41・108頁)。
  ここでの調査は,特別未帰還者の名簿作成等のための資料整備に主眼がおかれ,@未引揚邦人届の収集,A帰還者から覚書を徴収して行う消息不明者の個人究明,B現地からの通信の収集,C死亡現認書の認証及び死亡証明書の発給,D各地域における終戦以降引揚げまでの状況資料の整備,E残留者の状況に関する各種の調査,F満州開拓団における調査,G未帰還者に関する各種集計表の作成等が行われた。
  外務省引揚課と厚生省が協議して作成した未帰還者統計資料によれば,昭和25年5月1日の時点で,「満州及び関東州」における未帰還者は,生存資料のある者が5万3948人,死亡者が15万8099人,生死不明の者が2万6492人とされていた(乙2・77頁)。

2 援護法の制定
  昭和27年に日本が主権を回復すると,未帰還者問題は国民の強い関心を呼ぶに至り,昭和28年8月1日,援護法が公布,施行された。援護法は,未帰還者及び留守家族に対する援護を目的とし(1条),未復員者及び一般邦人未帰還者のうち自己の意思により帰還しないと認められる者の留守家族に対し,留守家族手当を支給すること(5条)を定めていたが,施行後3年を経過した日(昭和31年8月1日)以後においては,過去7年以内に生存していたと認めるに足りる資料がない未帰還者の留守家族には,留守家族手当を支給しないこととされていた(13条)。もっとも,この規定は支給期間を延長するべく順次改正され,昭和31年には「同法施行後6年を経過した日(昭和34年8月1日)以後」,昭和34年には「同法施行後9年を経過した日(昭和37年8月1日)以後」において,「過去7年以内に生存していたと認める資料がない未帰還者の留守家族には手当てを支給しない」ものとされた(乙42・120頁)。
  また,援護法29条は,「国は未帰還者の調査究明をするとともに,その帰還の促進に努めなければならない」旨を定めており,この規定に基づき,昭和29年4月,厚生省内に未帰還調査部が新設され,そこで未復員者の調査と一般邦人の未帰還者の調査が一元的に行われることになった(乙1・172頁)。未帰還調査部は,当初6課で組織され,そのうち5課が旧軍人軍属の状況不明者の調査,他の1課が未引揚邦人の状況調査を担当することとなった。その後,機構改革により構成が変わるなどした後,昭和37年7月に,援護局調査課に改編された。

3 厚生省による未帰還者の調査
(1)厚生省(未帰還調査部及び援護局調査課)は,次のとおり,一般邦人未帰還者の調査を実施した。
  満州地域の一般邦人及び開拓民の調査は,日ソ開戦前における職域,隣組及び開拓団等ごとにその人員,人名を把握し,行動群調査によりその足取りを追い,この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし,個人ごとの最終消息を基にして個人究明を行い,生死の判定のよりどころを求めることを重視して調査を行った。そして,中国から帰還した者に対し,日本上陸時に聴取調査をし,帰郷した後は,通信調査を実施し,個別に招致したり,訪問して事情聴取し,情報を得るよう努めた(招致調査,探訪調査)。
  昭和32年ころからは,現地に残留している者や一時帰国し再渡航した者で居所が明らかな者に対し,通信調査を実施することとし,昭和33年及び昭和35年には,中国地域に残留しその居所が明らかな者の名簿を作成し,それらに対し留守家族を通じて通信調査を行った(乙1・196〜198頁)。

(2)また,昭和33年12月には,未帰還者の一斉特別調査が実施され,未帰還者の名簿を帰還者に送付し,回答を収集して消息資料とするなどの調査を行った。これにより,未帰還者1475名の消息に関する資料を更新することができた(乙42・208〜210頁)。もっとも,当時の外交状況にかんがみ,ソ連地域や南方諸地域に対し行われた在外公館等を通じての国外調査は,中国残留邦人に関して行われることはなかった。

(3)以上の調査によって得られた情報は,個人ごとに編綴して整理するものとされ,まず,留守家族からの届出等により未帰還者ごとに究明用のカード(究明カード)を作成し,新たな情報や資料を入手したときに,それら情報を追加する作業を行っていた。

(4)ただ,上記の厚生省の調査は,援護法に基づく留守家族手当の支給要件の有無の調査,すなわち,生存が確認されている者については帰国の意思の有無を判定し,状況不明者については生死の確認及び死亡処理の可否を判定するというところに主眼が置かれていた。したがって,残留孤児の人数や居住場所を把握することや,生存が確認された者の早期帰国を援助しようというところに大きな関心を向けて調査が行われたというわけではない。
  このことは,厚生省引揚援護局が毎年度作成していた「未帰還者等に関する調査整理業務実施計画」において,状況不明者の減少を図ることが目標とされ,戸籍法89条による処理や戦時死亡宣告による死亡認定がその重要な手段とされていたこと,未帰還者に関する特別措置法施行後は戦時死亡宣告の申立てが処理の重要な目標とされたことに現れている(乙42・125,126,168〜172頁)。

4 昭和30年年代における政府(厚生省)の認識
(1)前記のとおり,政府は,昭和32年5月,ジュネーブにおいて未帰還者3万5767人の名簿を手交し,生存している者の現状を明らかにしてほしいことと,死亡している者についてできるかぎり調査してほしいことを申し入れたが,このとき政府が手交した名簿には,留守家族から未帰還である旨の届出がされており,帰国及び死亡したことの確認がされていない者が登載されていた。そのうち,「昭和24年以降のある時期に最終の消息のある者」として5689名(第1類),「昭和23年以前のある時期に生存資料のある者1万8315名のうち,中国人等と結婚したか,中国人等に養育されていた消息のある者」として2705名(第2類)が挙げられていた。
  政府は,昭和32年4月当時,第1類の5689名と第2類の2705名の大部は生存していると考えられ,その他の者も含めて7000名を超える未帰還者が生存していると推定できるとしていた。その中には「中国人等に養育されている孤児」が2053名含まれていた(甲総78,79)。すなわち,政府は,その当時,中国国内に取り残されて生存する日本人孤児が多数いるとの認識を有していた。

(2)昭和32年の厚生白書では,生存者の状況について,現在,中共地域に生存している者の総数は7000名を上回るものと判断されるが,これら生存者の大部分は国際結婚の婦人であるので,いわゆる里帰りによる帰国は別として,真に帰国を希望する者は少ないと記載されている(甲総121の1)。

(3)昭和33年7月4日,衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会において,当時の厚生省引揚援護局長は,中国国内にいる未帰還者について,大体6000人位いると考えてよいが,その内訳は,国際結婚した者や中国人にもらわれていった子供など,実質的に中国人になった者が大部分で5000人位を占めると考えており,残りの1000名程度についても差し当たり帰国の希望をもっている者は非常に少数であると考えている旨の発言をしている(甲総34)。

(4)昭和35年の厚生白書では,中共地域において,未帰還者のうち推定生存者6000人のうち,帰国希望者は200人ないし300人と思われると記載されている(甲総121の2)。

(5)昭和37年4月17日,衆議院社会労働委員会において,当時の厚生省引揚援護局長は,中国地域の残留者約300人が,その家族又は日本赤十字社あてに帰国を希望する手紙を送付していることを認識していると発言していた(甲総117の20)。

5 特別措置法の成立とその後の調査等
(1)政府(厚生省)は,上記のとおり,未帰還者の調査業務に当たっていたが,昭和30年代には,未帰還者数が急速に減少したとはいえ,なお消息が判明しない者が多数おり,それらの大部分は生存の望みが薄いのに,これをいつまでも放置しておくことは留守家族の意にも沿わないと考え,消息不明者に対する最終処理をする必要があると判断するようになった(乙1・169頁,乙42・203〜205頁)。
  また,援護法に基づいて支給される留守家族手当は,昭和34年8月1日以降,生存が確認できない未帰還者の留守家族に対する支給を打ち切ることとされていたから,それまで(昭和34年7月末まで)に未帰還者の状況を把握し,調査究明を完結させる必要があった(乙42・99頁,乙42・125,126頁)。
  しかしながら,昭和34年7月末までに未帰還者に対する調査究明を終えることは事実上不可能であったため,未帰還者の最終戸籍処理について特別な措置を講じ,これを未帰還者の最終処理に結びつける方針が立てられた。
  それまで,未帰還者の死亡処理は,生存の疑いがない者については事変による死亡報告(戸籍法89条),生存不明者については失踪宣告制度(民法30条)によって処理が行われていたが,これら制度を利用しても未帰還者全部を処理することは期待できなかったので,特別な死亡宣告制度を新設して戸籍上の最終処理を図ることとされたのである(乙1・224頁)。

(2)政府は,昭和32年12月,死亡推定措置等を盛り込んだ厚生省試案を公表したが,留守家族団体代表から反対意見が出されるなどしたため立法化に至らなかった。
  昭和33年3月,未帰還問題解決促進全国留守家族大会が開かれ,@未帰還者の調査に全力を尽くし,引揚を促進すること,A留守家族の心情に即して未帰還者の最終処理を急ぐこと,B留守家族の援護をよくし,死亡処理した未帰還者の家族に,特別な弔慰と慰霊の措置を執ること,が決議された。この決議は,留守家族の間において,調査を尽くすことを要求する声がある一方で,最終処理を求める声があることに配慮したものである(乙42・207頁)。
  厚生省は,未帰還者に関する特別措置の法律案についてさらに検討を進め,昭和33年12月,要綱案を引揚同胞対策審議会に諮問して同審議会の賛意を得,その要綱案に基づいて法律案を起草し,国会審議を経て,特別措置法が制定され,昭和34年4月1日に施行された(乙1・229頁)。

(3)特別措置法は,「未帰還者のうち,国がその状況に関し調査究明した結果,なおこれを明らかにすることができない者について,特別の措置を講ずることを目的」とし(1条),未帰還者に係る戦時死亡宣告の請求は,厚生大臣が当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行うことができることとなった(2条)。そして,未帰還者が戦時死亡宣告を受けたとき,遺族に対して弔慰料を支給することとされ(3条),弔慰料の額は,戦時死亡宣告を受けた者一人につき3万円又は2万円とされた(6条)。また,戦時死亡宣告の請求を行う厚生大臣の権限は,未帰還者の本籍地の都道府県知事に委任することとされている(14条,特別措置法施行令1条の2)。
  なお,昭和34年当時,中卒者の初任給が1万円を超えたということが話題となる時代であったから,上記弔慰料は,決して低額ではない(甲総A106)。

(4)特別措置法施行後,厚生省による未帰還者に対する調査業務は,同法に基づく戦時死亡宣告による処理を中心とするものに移行した(乙42・168〜172頁)。
  厚生省は,調査業務の実施計画を立案し,都道府県に通知していたが,これによると,生存の可能性が高い者については,生存の事実及び帰国意思の有無に関する資料を収集すること,生存の可能性の少ない者については,死亡を確認しうる資料又は戦時死亡宣告該当者と認められる資料を収集すること,戦時死亡宣告の該当予定者とされた者については,留守家族の意向を調査することとされていた(乙61,62)。
  一方で,生存が確認された者については,残留事情を追求調査し,帰国意思がないと認められた者については,未帰還者の対象外とする処理がされていたが,昭和37年ころからは,その調査は積極的に行うこととされた。帰国意思の有無の調査においては,その意思がないとされれば,未帰還者の対象から外され,調査に区切りをつけることができたから,そのような結果を求めるあまり帰国意思がないとの認定に傾きがちであり,恣意的ともいえる認定もされていた(甲個65の1ないし9,乙62,乙61)。
  そして,厚生省は,約1000人を「自己の意思により帰還しないと認められる者」と認定した(乙1・198頁)。

(5)戦時死亡宣告の審判申立ては,厚生省が,まず保有の資料(最終消息資料等)により該当予定者を決定して都道府県に通知し,都道府県を通じて留守家族の意向調査を行った上,その同意を得て,都道府県知事名で行うこととされていた(乙42・215,216頁,乙63)。
  昭和34年当時,未帰還者として調査対象とされていた者は約3万1000人であったが,特別措置法施行後昭和39年までに戦時死亡宣告による処理が進み,昭和39年度末には,未帰還者として調査の対象とされていた者は6145人になり,日中国交正常化後の昭和47年11月には3543人にまで減少した(乙1・173,233頁)。
  中国地域に限ると,未帰還者として調査対象であった者は2万0798人とされていたが,昭和51年までに約1万4000人が戦時死亡宣告による処理がされ,未帰還者としての調査対象から除かれた(乙1・198,233頁)。
  本件の原告ら65名についてみると,戸籍上の身元が判明している者が32名いるが,そのうち実に22名について戦時死亡宣告がされ,戸籍上死亡したものと取り扱われていた。

(6)厚生省は,特別措置法成立以後,日中国交正常化に至るまで,戦時死亡宣告による処理や帰国意思不存在の認定による処理に主眼を置いており,未帰還者の調査究明は,あまり進展しなかった(乙2・257頁)。
  また,厚生省は,戦時死亡宣告によって未帰還者としての調査対象から外れた者について,直ちにそれらの資料を処分することはせず,他の諸資料と区分して整理保管することとしていたが,そのような者については,死亡処理がされ一応の区切りがついたことから,その生存の事実が判明し,戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じるまで,ほとんど調査を行わなかった(甲総117の19,乙61ないし64,甲総G1ないし11)。

(7)政府は,昭和35年10月25日付けの通知をもって,未帰還者が帰国する際,戸籍謄本の提出を義務づけた(乙42・348頁)。これにより,戸籍を持たない者のほか,戸籍があってもそれを取得する手段をもたない未帰還者の帰国の道が事実上閉ざされることになった。そして,残留孤児の多くは,戸籍を持っていなかったり,自己の身元を知らなかった者であるから,戸籍謄本を取得する手段を持ちえず,この通知に基づく運用により,多くの残留孤児が,帰国したくても帰国できない状態に置かれたことになった(乙126の2,4,5)。

第5 訪日調査に至る経緯等について

1 中国残留邦人の立場,出国方法
(1)終戦の時点で中国に統一政府はなかったが,中国共産党は,その支配下地域に地方政府を設置しており,外国人(中国では「外僑」と呼ばれる。の調査・登録作業も行っていた。地方政府は,例えば,昭和21年には,チチハル市に居住する外国人が3万6363人であること,その大部分である3万5993人が日本人であること,ハルビン市に居住する外国人が13万6616人であり,そのうち8万4986人が日本人であることを把握していた。
  昭和24年10月に中華人民共和国が建国された後も,中国政府は,国家の危機管理という観点から日本人の調査・管理を強化しており,中国公安当局は,誰が日本人でその住所がどこかを把握し,登録しており,日本人を日本に送還する(特に生活苦に陥っている日本人は早急に送還する。との基本方針を早い段階で決めており,国交のない政府にラジオを通じて呼びかけ,後期集団引揚げ(昭和28年3月から昭和33年7月まで)につなげたのである。
  中国の公安当局が日本人を調査・管理していたから,後期集団引揚げの際,個々の日本人に帰国の意思の有無を確認することができたのである。

(2)原告らのように幼くして中国人家庭に入った残留孤児についても同様である。ある中国人が日本人の孤児を養育している事実は,周辺の地域住民に隠し通せることではないから,公安当局は,早い段階から当該事実を把握し,当該孤児を日本人として登録していた。
  そのため,当該孤児自身が自分が日本人だと気付いていない場合でも,公安当局と周辺社会はその子が日本人であることを知っていたのであり,文化大革命の時期(昭和40年11月〜昭和51年10月),日本人であるとの自覚のなかった残留孤児でさえ,日本人であるとして差別や虐待の対象とされたのである。
  このように,原告らを含む日本人残留孤児のほとんどの住所,氏名は,中国政府によって正確に把握されていたのである。ただし,後期集団引揚げの際,残留孤児は幼く,自らの意思で帰国を決意し,中国人養親の保護下から離脱することなど不可能であった。

2 日中国交正常化
  昭和47年9月29日の日中共同宣言により,我が国と中国の国交が正常化し,これを契機として在北京日本大使館が開設された。これにより,中国残留邦人の帰国を期待する者が増加し,帰国を願う手紙が在北京日本大使館,厚生省,都道府県などに殺到し,また,直接日本の留守家族のもとへ帰国を願う手紙ももたらされた。この背景には,中国残留邦人の多くが,いわゆる文化大革命の時期(昭和40年11月〜昭和51年10月)に,敵国人の子,異分子・反革命分子あるいはスパイとして様々な差別,嫌がらせ,暴力にさらされ,中国人社会での生活に絶望したことも関係している(乙2・397頁)。
  廖承志中日友好協会会長は,昭和48年5月31日,中国訪問中の日本人代表団に対し「中国残留の日本人のうち,里帰りや帰国したい者の希望に沿う努力をしている」と述べ,周恩来中国首相は,同年6月3日,中国訪問中の川崎秀二衆議院議員に対し「中国にいる日本人で中国人の妻や家族となっている人々の里帰りを全面的に支援したい」と述べた。
  在中国日本大使が,昭和48年8月,中国政府に対し,中国残留邦人に関する資料の提供,速やかな出入国許可証の発給,日本大使館に自由に出入りできるよう配慮することなどを申し出たところ,中国政府は,理解を示し,解決を要する関連問題(中国人養親への補償問題等)もあるとしながらも,協力する基本方針をとっている旨回答した(乙181)。
  ところが,政府(厚生省)は,中国残留邦人の帰還に向けて何らかの特別な措置を執ることはせず,当初は,寄せられた手紙と国内における資料とを照合し,家族に確認するといった国交正常化以前と同様の調査をするにとどまった。このような消極的な姿勢がとられる理由の一つとして,予算措置を伴う積極的な施策を講じることが困難な事情もあった。すなわち,中国残留邦人の多くは,戦時死亡宣告によって死亡したことになっており,大蔵省が死者とした者の帰還に向けた施策に予算を付けることに消極的であったという事情があった。

3 日中友好手をつなぐ会の要請等(甲総A5の19,43)
  このような状況下において,日本の留守家族等の民間ボランティアの帰国活動が活発化し,昭和48年,留守家族らが「日中友好手をつなぐ会」を結成し,同会を中心とした肉親捜しの活動が展開した。そして,マスコミ各社が,このような民間団体の活動を広く報道するようになって,日本国民の関心を呼ぶようになった。また,昭和49年には,朝日新聞がボランティアによる残留孤児の肉親捜しに連動して,残留孤児から寄せられた中国からの便りを報道したことが反響を呼んでいた。
  一方,残留孤児の多くが自分や両親の氏名,居住地や離別状況等の手掛かりを覚えていなかったり,記憶が曖昧であったし,養父母も残留孤児の身元資料を有していない場合が多かったから,従来どおりの保有資料を基にした調査では身元調査が困難な事例が多く生じていた。
  そこで,日中友好手をつなぐ会は,昭和51年8月,孤児を帰国させて身元調査(訪日調査)をすべきであり,そのため政府は予算を組むべきである旨の決議をし,まずは250人の訪日調査費用として1億8000万円余りの予算措置を講じることを求めた。しかし,政府は,訪日調査を行うことに前向きではなく,予算措置を講じて訪日調査を実施しようとはしなかった。
  なお,旧日本軍少尉である小野田寛郎は,昭和49年2月,30年近く身を隠していたフィリピン・ルバング島から帰還したが,政府は,小野田元少尉の生存情報を把握してから,約1億4000万円もの費用を投じて調査を行い小野田元少尉を生還させたものであり,旧軍人の帰還と満州開拓民の帰還とでは,政府の対応は著しく違っていた。

4 訪日調査の実施
(1)政府は,訪日調査の実施に消極的であったが,残留孤児の問題に関する世間の関心は高まっており,昭和50年3月からは,国内での公開調査を実施したところ,最終的に437名中166名の身元の確認することができた。
  このようなこともあり,訪日調査の実施を求めるマスコミや世論の声が次第に大きくなったことから,マスコミや世論に後押しされるようにして,昭和54年9月ころから,身元が確認できない残留孤児について,一定期間日本に招き,報道機関の協力を得て肉親捜しを行うという形での訪日調査の実施に向けて検討を開始し,昭和56年3月からこれを実施した(乙2・403頁)。

(2)訪日調査は,@政府が作成した訪日調査名簿を中国政府に送付し,中国政府が残留孤児であると確認した者を訪日調査対象者として政府に通知することとされたから,日中両国政府で孤児と確認された者だけが,訪日調査に参加することとなり,A訪日が確定された孤児について,各種資料を照合しながら肉親関係者の抽出を行うとともに,報道機関の協力により孤児の手掛かりを公表して,訪日期間中の調査効果を高めるための準備をした上で,B孤児が訪日すると,厚生省係官が本人から聞き取り調査(面接調査)を行い,C肉親関係者が名乗り出た場合には,孤児と対面させ確認を行い(対面調査),D場合によっては血液鑑定(平成2年以降はDNA鑑定)を行うというものであった。

(3)訪日調査は,昭和56年3月から平成11年まで計30回実施された。1回あたりの訪日人数は,おおむね50名から100名程度で,多いときで200名が参加した。身元の判明率は,昭和58年までは50パーセントを超えていたが,徐々に低下し,平成2年以降は10パーセント程度に落ち込んだ。合計で2116名が参加し,うち670名の身元が判明した(乙74)。

5 訪日調査と並行してされた調査
(1)厚生省は,昭和58年3月,「肉親探しの手掛りを求めている中国残留日本人孤児」(3分冊)を作成し,各都道府県及び市町村等に配付し,一般に孤児に関する情報の提供を求めた。その後も適宜情報を更新し,情報の提供を求めた(乙2・412頁)。

(2)また,厚生省は,昭和62年8月24日,元開拓団等の代表者からなる「身元未判明孤児肉親調査委員会」を開催し,3年計画で各都道府県に「肉親捜し調査班(同調査員及び厚生省職員)」を派遣し,ブロック別単位で肉親関係者や開拓団関係者等の協力を得て,国内における未帰還者及び孤児に関する情報の収集等を行うこととし,昭和62年度から平成元年度の間に,いわゆるキャラバン調査を延べ25回(各10日間)行い15人の孤児について有力情報を得た。このうち12人について,再度訪日調査に参加させたところ,9人の身元が確認された(乙79,80)。
  そして,キャラバン調査の結果を踏まえ,国内における肉親調査のため,平成2年度以降,元開拓団関係者等当時の事情に精通した者を身元未判明孤児肉親調査員として都道府県に配置し,肉親関係者等からの情報収集などを行うこととした(乙2・413頁)。

(3)平成6年以降,厚生省職員が訪中し,日中両国政府のいずれかが残留孤児と確認できない者について,中国政府の協力の下,中国現地での残留孤児等との面接調査や手掛かり資料の収集等を実施し,残留孤児である蓋然性が高いと判断した者について訪日調査に参加させた(乙2・411頁)。

(4)また,平成12年度以降,訪日調査に代えて,調査担当官を中国に派遣し,日中政府共同で面接調査を行い(共同調査),日中両国政府で残留孤児と確認された者について,日本で顔写真,身体的特徴,肉親との離別の状況等の情報を「孤児名簿」として公開し肉親情報を収集し(情報公開調査),肉親情報のあった者について訪日させ,肉親と思われる者との対面調査(訪日対面調査)を行った(乙3)。

第6 残留孤児の帰国手続等について

1 日中国交正常化前
(1)もともと,日本の国籍を有する中国残留邦人が,戦後,我が国に引き揚げるという場合,政府の帰国許可を得なければ帰国ができないということはありえない(日本人の帰国の権利は憲法上保障されているものと解される。)。

(2)中国に在留する外国人が中国から出国しようとする場合,外国人の管理を行う公安当局に申請して,中国政府発行の出国許可証を得なければならなかったが,中国政府は,後期集団引揚げ(昭和33年7月まで)が終了した後も,日本人又は元日本人(中国政府が中国の国籍を取得したとする者である。ただし,政府は,中国政府を承認していない国交正常化前の時点で,その者の中国籍取得・日本国籍離脱を認めていたのかどうかは,必ずしも判然としない。乙135からすれば,そのような元日本人も日本の国籍を有する者として入国していたのではないかとも思われる。が我が国に帰国するため,家族とともに出国することを基本的に許可していた。
  中国政府は,在留日本人又は元日本人が帰国を希望して出国許可証の下附を申請した場合,政府が発行する日本人又は元日本人であることの証明書(戸籍に関する証明書ともいうべきものである。)を要求することが多かった。
  そのため,政府は,帰国希望者の留守家族又は日本赤十字社(留守家族がない場合)の申請を通じて,帰国希望者に戸籍に関する証明書を発行していた。帰国希望者及びその家族は,中国政府発行の出国許可証と政府発行の戸籍に関する証明書によって帰国していたのである(乙188)。

(3)この取扱いは,日本人にとって,帰国のため余分な手続が課されたことになるが,元日本人あるいは帰国に同伴する中国人家族にとっては,外国人として必要な旅券や査証さえ不要ということになり,便宜的な取扱いとなる。ただ,日中国交正常化前,政府は,中国旅券の効力を認めなかったし(中国旅券は無意味),中国内に領事館を置いて我が国への入国査証を発給するということもあり得なかったから,元日本人について,外国人としての入国手続を要求することなど,そもそも不可能であった。

2 日中国交正常化後−身元保証の要求
(1)政府は,日中国交正常化後,それ以前に中国の国籍を取得した日本人は,日中国交正常化の日(昭和47年9月29日)に日本の国籍を喪失したとの見解に立ち,以後,そのような者を外国人として取り扱うことにし,中国旅券と査証による入国を求めることになった(甲総123,乙185)。
  中国旅券を所持する者は,(中国政府がその者を残留孤児と認めていようがいまいがともかく)中国人であるとして入国手続を実施すべきであるとされ,帰国の際,他の共産圏諸国から我が国に入国する外国人と同じ入国手続が求められることになった(乙189)。

(2)外国人が上陸(入国)するには,原則として有効な旅券で日本国領事官等の査証を受けたものを所持し,かつ,その者が上陸しようとする出入国港において,法務省令で定める手続により,入国審査官による上陸のための審査を受けることが要件とされており(入管法6条),査証を受けるためには,申請に当たり,身元保証書の提出が必要とされている(平成2年法務省令第15号改正前の入管法施行規則6条9号)。
  したがって,日中国交正常化前は身元保証がなくても入国が認められていた,元日本人及び同伴の中国人家族については,身元保証がなければ帰国できないこととなった。そして,この身元保証は,留守家族によるものとされた(乙133)。

(3)残留孤児にとって,帰国手続の際,日本人として扱われるのか,外国人として扱われるかは重大な問題となる。
  政府は,日中国交正常化の当初,日本の国籍を有しながら中国旅券の発給を受けた者(中国政府が中国人と扱っている者)について,日本の国籍を失っているか否かの判断が困難であるとの考えに基づき,日本人としての手続による帰国を認めていた(乙135)。
  しかし,政府は,昭和49年10月ころまでには,残留孤児を含めたすべての中国旅券所持者に対し,一律に外国人としての帰国手続を要求するようになった。政府は,中国政府から旅券の発給を受けているという事実から,旧国籍法下(昭和25年6月30日以前)で婚姻,認知等により中国国籍を取得したことにより日本国籍を喪失したか(旧国籍法18条,23条),あるいは自己の志望によって中国国籍を取得したことにより日本国籍を喪失している可能性が高いと判断したことによる(国籍法11条1項,昭和59年法律第45号による改正前の同法8条,旧国籍法20条)。
  さらに,政府は,中国旅券を所持する残留孤児について,入国後も外国人として取り扱うことにし,外国人登録をするよう指導しており,残留孤児については,戸籍が判明していようといまいと,ともかく外国人として扱う方針を徹底していた。

(4)結局,身元保証なしに帰国できるとされたのは,日本国籍を有することが確認できる者で,かつ,中国政府からも日本人として扱われた者だけとなった。しかし,中国人の養父母に育てられた残留孤児は中国旅券の発給を受けることになるから,残留孤児の中でそのような条件を満たす者はほとんど想定できず,残留孤児は,事実上,外国人としての入国手続が要求されることになった。
  政府(法務省)がこのような帰国手続をとっていたため,身元が判明している孤児であっても,留守家族の身元保証を得て外国人として我が国に入国することにしなければ帰国ができないこととなり,身元が判明していない孤児については,そもそも我が国に入国することが極めて困難となった。

(5)なお,法務省入国管理局長が外務大臣官房領事移住部長あてに発した昭和61年7月19日付け照会文書(乙173)には,「終戦前に我が国から中国本土に渡航し,その後も引き続き同地に居住している者(いわゆる残留孤児を含む。)の中には,日本戸籍の存在が確認され,又は新たに日本戸籍への就籍が許可されているにもかかわらず,中国出国に当たり,日本旅券によることができず,事実上中国旅券に日本の入国査証を必要とされているものがありますが,これらの者は,実質的には日本人であり」「日本旅券または帰国のための渡航書の発給を受けて帰国すべきものである」との記載があり,法務省は,残留邦人のうち日本戸籍を有する者は日本人として扱うべきであるとの認識を有していたことがうかがえるが,それでも,そのころ,行政上の措置を改め,入国手続において残留孤児を日本人と同様に取り扱うようにしようとはされなかったのである。

3 旅費の国庫負担制度等について

(1)前記のとおり,我が国は,中国から日本へ引き揚げる者等に対し,昭和27年3月から帰国に要する船運賃を負担し,昭和37年6月から日本赤十字社に委託した上で,中国国内の居住地から出港地までの旅費を負担していたが,昭和48年4月から,いずれの旅費も国が負担することとなった(甲総44,乙104)。
  そして,昭和48年10月16日付け法務省援第1052号通知により,中国からの引揚者らに対し,中国国内の旅費及び中国の出境地から日本までの船又は航空機の運賃を国庫負担とすることにした(甲総45,乙84)。
  この制度は,日本の国籍を有し,終戦前から引き続き外地に居住していた者(これらの者を両親として終戦地外地において出生した者を含む。)及びその家族並びに終戦前から引き続き外地に在住し,外国人と結婚したことによって日本の国籍を失った元日本婦人及びその未成年の子等を対象としており,その申請手続には戸籍の提出が必要とされていた。
  そして,これら帰国旅費の申請手続は,いずれも引揚希望者の在日留守家族によって行われるものとされ,その周知方法も,留守家族を経由した通信による方法によるのみであって,日本が中国在留者に対し,直接知らしめるなどの方法がとられることはなかった。
  国がこのような方法をとったのは,それまで,都道府県,留守家族を経由して,未帰還者等と連絡を取ることとしていたし,帰国希望者が本人であるかを判断するには留守家族によって申請することが確実であると考えてのことであったが,その結果,身元が判明しない者や日本在住の留守家族等の協力が得られない未帰還者等は,これら国庫負担制度を利用することができないこととなった。

(2)昭和60年に,身元引受人制度の創設に伴って身元未判明孤児の帰国が開始された以後は,身元未判明孤児やその家族についても,帰国旅費の国庫負担が行われるようになった(乙86)。

(3)なお,帰国旅費国庫負担制度の対象となったのは,上記のとおり,中国残留邦人本人とその家族であり,その家族の範囲は妻及び未成年の子に限られていたが,平成4年度以降,身体等に障害を有する残留邦人については,扶養するため同行する成年の子1世帯を,平成6年度以降は,高齢(65歳以上。平成7年度以降は60歳以上とされた。)の残留邦人を扶養するため同行する成年の子1世帯について対象とされた(乙2・418,419頁)。

4 身元引受人制度の導入
(1)訪日調査を実施すると,身元が判明しない孤児(留守家族の身元保証があり得ないから,政府の取扱いでは外国人扱いがされる)から,日本への永住帰国の希望が寄せられるようになった。
  また,日中両政府は,昭和58年1月から,中国残留日本人孤児問題に関して協議を行い,その協議の結果,昭和59年3月17日,両政府間で口上書が取り交わされ,これにより,「政府は,孤児が自ら日本国に永住することを希望する場合には,その在日親族の有無にかかわらず,これを受け入れ」,「(日中)双方は,すでに訪日親族捜しをしたが親族が判明しなかった孤児を優先させることに同意する」こと,「政府は,孤児の養父母,配偶者,子女及びその他孤児の扶養を受ける者が,孤児と共に日本国に永住することを希望する場合には,その希望を受入れ,孤児と共に訪日できるための査証を発給する」ことが確認された(乙85,190)。

(2)そこで,政府は,この口上書に従って身元未判明孤児及びその家族の帰国を受け入れる必要が生じ,帰国の際に身元保証書を要求していた運用を通達により改め,昭和60年度以降,帰国旅費国庫負担承認通知書及び定着促進センター(当初の正式名称は「中国帰国孤児定着促進センター」,平成6年4月以降の正式名称は「中国帰国者定着促進センター」である。)への入所通知をもって,身元保証人の身元保証がなくても査証を発給することとした。そして,帰国後,定着促進センターに入所中に身元保証人に代わる身元引受人をあっせんすることとし,身元引受人において身元未判明孤児の身元を引き受け,その世帯の身近にあって,自立に必要な助言・指導を行わせることとした(乙2・422,423頁,乙13,乙186)。

(3)一方,身元が判明している孤児については,そのような制度が適用されなかったから,従前どおり,帰国するためには,身元保証人(留守家族)の身元保証書が必要とされていた。
  政府は,昭和61年10月15日から,運用を通達により改め,日本戸籍の存在が確認され又は新たに日本戸籍への就籍が許可されている者及びその家族のうち一定の者について,査証の際に身元保証書の提出を要求しないこととした。もっとも,査証申請において,@在日関係者からの招へい理由書,A戸籍謄(抄)本又は就籍許可を証する公的文書の写し,B親族関係を証する公的資料等の提出を要求し,@の招へい理由書には,招へい経緯,入国後の落ち着き先の住所・連絡先等の記載が必要とされ,これは,落ち着き先未定のまま帰国しトラブルを起こすことのないよう,連絡・世話をしてくれる人物がいることを確認する意味で求められたものであったから,身元判明孤児が帰国するためには,身元保証までは必要ないにしても,親族等在日関係者の協力を得なければ帰国できない運用は維持されたことになる(乙173,187)。

(4)このように,身元判明孤児が帰国するには,留守家族等の協力が不可欠であった。
  しかしながら,身元が判明しても,必ずしも留守家族の協力が得られるわけではないし,それまで一時帰国の際に身元引受けを行ってきた親族が死亡して在日親族そのものがいなくなったり,在日親族が世代交代し,関係が薄まるなど,様々な事情から,留守家族の協力を受けられない者が多数生じていた。そこで,身元未判明孤児については,身元引受人制度によって永住帰国が可能であるのに,身元が判明しているためその制度の恩恵を受けられず,永住帰国ができないという現象が生じ,身元判明孤児から,国や民間団体に援助の手を求める手紙が寄せられるようにもなった。
  そこで,政府は,新たに特別身元引受人制度を創設し,帰国を希望している身元判明孤児につき,留守家族による協力が得られない場合に,身元引受人のあっせんを行うなどして,その身元保証を得ることとして永住帰国できるようにした。特別身元引受人制度は,身元判明孤児については平成元年7月から,中国残留婦人等について平成3年度から実施された(乙2・399,400,423,424頁,乙14)。

(5)身元判明孤児が特別身元引受人制度の適用を受けるためには,@肉親が死亡している場合又は不明である場合,A肉親が孤児の受入れを拒否し,長期にわたり説得したにもかかわらず納得が得られない場合,Bその他肉親が家庭の事情等により孤児を受け入れることができないなど,肉親以外の者が帰国受入れを行うことがやむを得ないと判断されることが必要とされた。そして,上記Aの要件のうち,「長期にわたる説得」とは,おおむね6か月間にわたり定期的に説得を行うことで,説得方法は,親族の受入れ拒否の原因が経済的な理由や長期間中国に居住していた判明孤児を受け入れることに対する不安である場合に,その誤解や不安を解消する方法ですべきであるとされた(乙191)。
  また,政府は,平成3年に運用を改めるまで,身元判明孤児について特別身元引受人の決定がされた場合には,身元判明孤児の親族から身元判明孤児が特別身元引受人の行う帰国手続により,永住帰国することに異存がない旨の確認書を提出することとしていた(乙14)。これは,身元判明孤児の親族に上記A及びBの事情がある場合に必要とされる要件であり,身元判明孤児が永住帰国した場合に身元判明孤児と親族との関係に生じ得る摩擦を未然に防止するという観点から設けられたものである(乙14,192)。
  このように,政府は,身元が判明している孤児の帰国や帰国後の生活について,できる限り,親族の関与を求めていた。

5 平成6年以降の取扱いの変更
(1)政府は,平成6年1月以降は特別身元引受人が行うこととされていた帰国手続を直接政府が行うこととした。その結果,身元引受人と特別身元引受人に大きな違いがなくなったので,平成7年2月以降両制度を一本化した身元引受人制度を実施した(乙15)。

(2)平成6年6月10日開催の衆議院法務委員会において,法務省入国管理局長は,「中国残留邦人が日本へお帰りになるときは,日本人でございますので,入管法上は特別保証人とか身元を保証する人とか,そういうたぐいの者は一切必要ございません。帰国いただいて入国手続を済ます上では何ら問題はございません」「これらの方々が日本へお帰りいただく上では入国管理法上必要なものは何もないわけでございます」「我々から見れば,この身元引受人云々というのは入国の問題ではなくむしろ入国後…円滑な生活をしただく上で大事な制度ではなかろうか,入国上は必要はない…と理解しております」と発言し,入国手続の際に中国残留邦人を日本人として扱うことを明言しており(甲総188号証),残留孤児が帰国する際,外国人としての入国手続を求める取扱いは,そのころまでに改められた。

(3)政府は,平成12年度以降,上記のとおり,肉親調査の方法を集団訪日調査から訪日対面調査に改めたが,事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については,肉親情報がない等により訪日対面調査に至らない場合でも,残留孤児として日本に帰国できることとした。

6 一時帰国援護
  政府は,中国残留婦人等を中心とした一時帰国を希望する者の要望に応え,昭和48年度以降,親族訪問,墓参等を目的として一時帰国を希望する者に対し,中国の居住地から日本の落着先までの往復の旅費を支給することとした。この一時帰国旅費の支給は,当初一度限りであることを想定していたが,昭和62年度以降,随時その要件を緩和し,平成7年度以降,前回帰国から1年経過すれば受給できることとした。
  また,身元未判明孤児について,祖国訪問との位置付けにより,平成6年度以降,一時帰国旅費を支給している。

第7 永住帰国した中国残留邦人に対する自立支援策等について

1 従来の方策
  従来は,昭和21年4月25日次官会議で決定した「定着地に於ける海外引揚者援護要綱」(乙2・492頁)に基づき,戦後海外に残留する者に対し,政府は引揚援護を,地方自治体は帰国した後の定着地での定着自立支援をそれぞれ担当することとされ,各地方自治体が,定着自立支援政策として,帰国者向け一時宿泊施設を設置し,日本語教育を行うなどする役割を担うこととされていた。

2 自立指導員制度
  政府は,昭和52年度以降,定着自立支援策として,引揚者生活指導員(昭和62年度より「自立指導員」に改称。以下,引揚者生活指導員及び自立指導員を併せて「自立指導員」という。)による支援を行っていた。これは,中国をはじめとする海外からの引揚者に対し,言葉,生活習慣等の相違から,定着先の地域社会で定着し自立していく上で種々の困難を来している状況にかんがみ,
  生活等を指導する者を派遣し,引揚者の生活に関する諸問題に応じ,必要な助言,指導等を行うというものである。
  自立指導員は,残留孤児に対し,相談や助言を行うとともに,市区町村,福祉事務所,公共職業安定所等の公的機関と緊密な連携を保ち,必要に応じて帰国者をこれらの機関の窓口に同行して仲介をするなどの役割が期待された。また,昭和62年度から,日本語の指導,日本語教室等日本語補講についての相談及び手続の介助を行うこと,職業訓練が行われるよう援護措置を講ずることとされた。
  自立指導員の派遣期間,派遣日数等については,制限が設けられており,創設当初は,派遣期間は帰国後1年間,派遣回数は24日とされていた。それらは,順次拡大され,派遣期間は昭和62年度に定着後2年間,昭和63年度に定着後3年間とされ,派遣回数も順次拡大された。平成15年度についてみると,派遣期間は,定着後3年間,派遣回数は,1年目は84日以内(同伴帰国した子世帯等と同居している場合等は120日以内),2年目は12日以内(都道府県知事が必要と認める場合は72日以内),3年目は12日以内とされている(乙22〜24,乙2・427〜429頁)。

3 自立支度金の支給
  政府は,昭和28年3月以降,引揚援護政策の一つとして,残留孤児に対し,帰国後の当面の生活資金等に充てるものとして,帰還手当を支給してきた(乙4)。
  制度発足当時,支給額は原則として一人当たり1万円(18歳未満は半額)とされたが,昭和48年度から毎年1万円ずつ増額され,昭和51年度は一人当たり5万円とされ,昭和53年度には一人当たり10万円,昭和54年度には10万7000円と順次増額され,以後消費者物価上昇分が反映されることとなった(乙2・419頁)。
  昭和62年度には,名称を「自立支度金」に改めるとともに,少人数の世帯について一定の金額を加算して支給することとなった(乙5)。
  その後も順次増額され,平成15年度における自立支度金の額は,大人一人につき16万0400円で,例えば,大人四人,小人一人世帯の場合,72万1800円となる(乙6)。

4 語学教材の支給
  政府は,昭和52年度以降,中国からの引揚者に対し,日本語習得のための語学教材として,カセットレコーダー,カセットテープ及びテキストを帰国直後に支給してきた(乙37,38)。

5 オリエンテーションの実施
  政府は,昭和54年4月以降,残留邦人及び同伴帰国者(以下「中国帰国者」という。)に対し,中国から帰国した直後,帰国後の援護の内容,各種行政機関窓口,生活習慣の相違等帰国後直ちに必要となる事項についてのオリエンテーションを実施している(乙7)。

6 有識者懇談会の提言
(1)厚生省は,昭和57年3月,広く有識者の意見を聞いて具体的な施策を検討する必要があるという認識の下に,厚生大臣の私的諮問機関として,日本経済新聞社顧問圓城寺次郎を座長とし,日本孤児問題連合会顧問,日中友好手をつなぐ会会長等18名で構成する有識者懇談会を設けた。
  有識者懇談会は,昭和57年8月26日,「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書を厚生大臣に提出した(乙88)。

(2)上記報告書は,まず「孤児問題についての基本的な考え方」として,次のとおり意見をまとめた。
  「孤児問題を考えるに当たっては,孤児がこのように過去の不幸な戦争のなかで肉親と離別し,昭和47年の日中国交正常化までの長い間,自分の身元を明らかにしたいと思いながらその方法さえないまま,中国で暮らしてきたということを忘れてはならない」
  「孤児が自分の身元を明らかにしたいと願うことは,人間の本性に立った自然な気持ちであり,彼らが孤児となった事情を考えれば,身元調査の依頼を受けた政府が全力を挙げて肉親捜しを行うべきことは当然である。また,孤児がその家族とともに日本に帰国することを望む場合には,政府,国民が一体となって,その受入れ,日本社会への定着のための援助を行う必要があることはいうまでもない」
  「肉親捜しを通じて,日中両国間の交流が深まっているが,社会体制が異なっていることもあり,中国にいる孤児たちの間に,日本社会がバラ色で,日本に帰ってさえくれば幸せになれるかのような,事実と相違した情報も流布されているようである。日本は自由経済体制のもとで経済発展をしてきたが,それだけに,自分の生活は自分の手で築いていかなければならず,既に中年に達している孤児が,言葉や社会習慣の異る日本で職を得て自立していくことは決して容易ではない。政府が帰国した孤児の定着のために根幹的な対策を進め,地方公共団体やボランティア団体が新たに地域住民となった孤児たちのためにあたたかい援助を行うことが必要なことはいうまでもないが,それはあくまでも側面的な援助であって,最終的には,孤児自らが努力して困難を克服していかなければならない。日本に帰国したほうが幸せか,中国に留まったほうが幸せかは,そのような日本社会の実情をよく知ったうえで,孤児自身がよく考えて判断することであるが,日本国民も孤児の判断を誤らせないように,日本社会の実情を孤児に正しく理解させるように努力しなければならない。孤児も,帰国を決意する以上は,多くの困難を乗り越えていくだけの覚悟が必要であろう」

(3)また,有識者懇談会は,上記報告書において,次のとおり具体的な方策について提言した。
@ 肉親捜しの計画的推進を図るものとし,当面,一回の訪日調査対象孤児は60人程度,訪日調査の回数も年3回が限度であると考えられる点を踏まえ,昭和58年度以降60年度までの3か年計画で肉親捜しを完了させるべきである。
A 養父母等の扶養のため,孤児が自立できるまでの間,養父母等に必要な資金を公的資金により低利で貸し付けるとともに,確実に中国の養父母等に送金するため,送金の代行を行う制度を設けることが適当である。
B 長きにわたり孤児を育ててくれた養父母や中国社会に対し,政府が具体的な形で感謝の気持ちを表明することが必要である。
C 帰国後の定着化を図るため,帰国者センターを設け,孤児等の引揚者を帰国後直ちに一定期間入所させ,日本語教育を含めた生活指導を行い,退所後も自立できるよう生活指導員を派遣したり就職をあっせんするなどの援護施策を講じていく必要がある。
D 身元の判明しない孤児の永住帰国を受け入れるため,身元引受人制度を発足させる必要がある。
E 民間援護活動の推進を図る必要がある。

(4)次いで,有識者懇談会は,昭和60年4月以降4回にわたり帰国後の定着自立促進対策を中心に討議を行った上,同年7月22日,厚生大臣に対し,「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書を提出した(乙2・668〜672頁)。
  上記報告書は,「孤児問題についての基本的な考え方」として,「肉親捜しの依頼があった孤児については,政府が全力を挙げて肉親捜しを行うとともに,日本への帰国を望む孤児については政府及び国民が一体となって受け入れ,日本社会への定着のための援助を行う必要があること」,「帰国した孤児が定着し,自立するためには,孤児自らが努力して困難を克服していかねばならないことはもちろんであるが,政府,地方公共団体は言葉と文化の異なる日本に帰国した彼らの直面する様々の困難を少しでも軽減するために,物心両面にわたる施策を積極的に推進する必要があること。また,孤児の肉親も,言葉と文化の違いに起因する様々の摩擦を忍耐強く克服して,孤児と共に問題を乗り越えていくことが必要であること」などと意見をまとめ,次のとおり提言した。
@ 肉親捜しの早期完了のため,日本にいる肉親等からの情報提供の促進,情報システムの整備,再訪日調査を講ずる必要がある。
A 中国政府と協議をまとめ,養父母等に対し早期に扶養費の支払を開始するよう求めたい。また,養父母や中国に対し,国民全体として感謝の意を表明する必要がある。
B 定着自立促進対策の総合的推進として,定着促進センターの拡充及び指導内容の充実を図る必要があり,落ち着き先における日本語指導及び生活指導の強化,住宅対策,子弟等の就学対策,就労対策,民間援護活動を図る必要がある。

7 養父母に対する扶養費支給
  昭和56年3月に始まった訪日調査により,肉親判明後,日本に永住帰国する孤児が増加したが,このことにより,中国に残された養父母の生活の保障をどのようにするのかの問題が生じた。
  政府は,現実に永住帰国した孤児が中国に残る養父母を扶養することは極めて困難であることを考慮し,「中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について」(昭和58年4月8日閣議了解)等を定め,残留孤児の養父母の扶養費として,中国側と取り決めた一定金額を援助することとされた。
  また,前記のとおり,昭和59年3月17日,日中両政府間で口上書が取り交わされたが,そこで「日本国に永住帰国した孤児が,中国に残る養父母に対し,負担すべき扶養費の2分の1は,政府が援助する。扶養費の標準額,支払方法等については,日中双方が別途協議する」こととされた。
  その後,細部について事務レベル協議が行われ,昭和61年5月,具体的な内容について意見が一致し,口上書が交換された。これにより,養父母に対する扶養費は,日本国と財団法人中国残留孤児援護基金が2分の1ずつ負担することとなった(乙2・437,438,672頁)。

8 施設の設置
(1)定着促進センター
  日中国交正常化以後,永住する中国帰国者が増加するに従って,彼らが定着していく過程で様々な問題が生じていることが指摘されるようになった。有識者懇談会が昭和57年8月に提出した報告書の中で,中国帰国者の定着を図るためのセンターを設けることを提言したことは上記6 で述べたとおりである。
  そこで,政府は,昭和59年2月,埼玉県所沢市に定着促進センターを開設し,中国帰国者に対し,帰国後の一定期間,入所形式による日本語教育・生活指導等の援護を行うこととした。
  その後,昭和62年度に,北海道,福島県,愛知県,大阪府及び福岡県の5か所に定着促進センターを開設し,平成3年度には,帰国者数が漸次減少したことにより,北海道,福島県及び愛知県の3か所を閉所した。そして,援護対象者の拡大(高齢の中国残留邦人を扶養するため同伴帰国する子1世帯への援護)による帰国者数の増加が見込まれたことに伴い,平成6年度には,所沢センターの分室を山形県及び長野県に開設し,さらに,平成7年度には,新たに宮城県,岐阜県及び広島県の3か所に開設した。その後帰国者数の減少に伴い,これらを順次閉所し,現在は,埼玉県,大阪府及び福岡県の3か所において運営している。
  定着促進センターの入所期間は帰国後4か月程度とされ,この間,帰国者は,宿泊施設の提供を受け,生活援助費の支給を受けながら指導を受ける。入所期間は,有識者懇談会がセンターでの入所は4か月程度にとどめるのが適当であると提言したことを参考に決められた。定着促進センターでは,学習適性,日本語能力等によりクラス編成をした上,月曜日から金曜日までの週5日間,各5時限(1時限=50分)の研修と各1時限の個別指導等補講や定着指導を行うこととされ,基礎的な日本語の研修,基本的生活習慣の指導,個別の就職相談・指導をはじめ,職業についての講話,公共職業安定所や職業訓練校の見学,職場体験実習,地域体験実習等が実施されている。
  また,身元未判明孤児に対し,就籍手続の説明や指導が行われている(乙2・420〜421頁,乙8ないし12)。

(2)自立研修センター
  全国協議会などボランティア団体は,定着促進センター退所後の中国帰国者を対象に,地域社会における定着自立を促進するための自立支援施設を開設するよう政府に要望していた(甲総A7の60,9の1)。
  政府は,これら要望に応える形で,昭和63年度以降,中国帰国者自立研修センターを全国各地に設置し,都道府県に委託して,定着促進センター退所後の中国帰国者に対し,通所形式による日本語研修,生活相談・指導,就労相談・指導等を行うことにした(乙16)。
  自立研修センターは,昭和63年度に15の都府県に設置され,平成7年度に5か所増設された(乙18)。
  自立研修センターでは,中国帰国者を対象として,原則8か月程度,通所形式により,日本語研修,地域の実情を踏まえた生活相談・指導,就労相談員による就労相談・指導,大学進学準備過程,地域住民との交流事業等が行われる。
  日本語研修は,日本語習得の状況に応じてクラス分けを行い,1日2.5時間,1週12.5時間を基準として,8か月412時間のカリキュラムを組み実施することとされた。また,就労を促進するため,専門的な知識を有する就労相談員が通所者の就労に関する相談に応じ,個々の実情を踏まえて就労へ向けた計画的な指導を行い,公共職業安定所,公共職業訓練施設,企業等への集団見学や個別の引率等を行っている。また,平成4年度以降,早期離職を防止し,安定した就労を促すことを目的として,自立研修センター通所中あるいは修了後1年以内に就労した中国帰国者を対象に職場を訪問して,事業主に中国帰国者の職業意識・慣習等を説明し,認識を深めてもらうとともに,中国帰国者の勤務状況を把握し,指導を行うことにより,中国帰国者と事業主との相互の調整を行う就労安定化事業を実施している。平成9年度以降,講演,体験発表等の交流会等を行う就職促進オリエンテーション事業を実施している(乙19ないし21)。
  研修期間は,当初,原則8か月とされていたが,平成8年度から改められ,帰国後5年以内の者で,日本語の習得が不十分である者,又はより高度な日本語の習得を希望する者を対象に,自立研修センター退所後,1週7時間を基準として,2年以内に限り日本語の再指導を行うとされた。再指導の時間帯は,通所者の就労等の妨げとならないよう夜間及び土日に行うこととされ,その指導時間は週7時間を基準とすることとされた(乙20,21)。

(3)支援・交流センター
  政府は,中国帰国者の地域社会における定着・自立を中長期的,継続的に支援していくため,平成13年11月,東京都及び大阪府の2か所に,中国帰国者支援・交流センターを開設した。
  支援・交流センターにおいては,自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象とし,地方公共団体との連携の下,民間ボランティアや地域住民の協力を得ながら,日本語学習支援,相談窓口を設置し,中国語での電話事業,中国帰国者相互及び地域住民との交流事業,ボランティアの活動情報の収集と提供,中国残留邦人問題の普及啓発事業等を行っている。
  日本語学習支援事業としては,進度別,目的別の日本語学習コースを開講し,通所形式による日本語教育のほか,通信教育を行い,平成14年度からは,その補完授業としてのスクーリングとして,月1回の対面方式による学習の機会の付与を与えるなどしている(乙25〜27)。

9 各種支援策の実施
(1)自立支援通訳派遣事業
  政府は,平成元年6月から,日本語の会話が不自由な中国帰国者について,医療機関における適切な受診を確保するとともに,関係行政機関等での助言,指導及び援助を受けやすくするため,定着促進センター退所後(入所しない者については帰国後)3年以内の者に対し,一定の派遣要件の下,日中両国の通訳の能力を有し,中国帰国者の援護に理解と熱意を有する自立支援通訳の派遣を行うこととした(乙30,31)。

(2)巡回健康相談事業
  政府は,平成元年6月から,中国帰国者に対し,日本と中国との間にある医療事情や食生活等の相違等により,医療・保健衛生面における生活指導を行う必要があるとして,定着促進センター退所後,1年以内の中国帰国者世帯に対し,医師を派遣し,健康相談を実施するとともに,必要な助言・指導を行うこととした(乙2・432,433頁,乙32,33)。

(3)就籍に関する支援
  政府は,身元未判明孤児に対し,戸籍を得させるため,家庭裁判所に就籍の申立てを行うための支援を行った。
  定着促進センターにおいて,該当者に対し,最高裁判所による説明会を開催するとともに,就籍申立手続開始後は,家庭裁判所へ孤児調査関係資料や帰国旅費申請に係る資料等を提供した。
  そして,昭和61年から,厚生省が協力を依頼するなどし,財団法人法律扶助協会が財団法人日本船舶振興会の補助を受け,審判費用を負担することとなった。また,厚生省は,その補助金申請に際し,確実に交付されるよう副申していた。その結果,残留孤児本人には経済的負担が及ばないこととされていた。
  平成7年度からは,就籍審判費用を国庫で負担することになった(乙99,100)。

(4)住居に関する支援
  政府は,地方自治体と協力し,住宅に困窮する低額所得者を対象に低廉な家賃の住宅を供給する制度の運用に際し,中国帰国者をその対象者とするとともに,優先的な取扱いを講じるようにした。
  そして,平成7年度以降,中国帰国者が,帰国後(定着促進センター退所後)最初に居住するときに,公営住宅に入居できず,やむを得ず民間住宅に入居する場合には,当該中国帰国者に対し,礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給することとした(乙2・435頁,乙35,36)。

(5)就労に関する支援
  政府は,昭和57年度から,中国帰国者に対し,職業転換金給付制度を適用するとともに,昭和59年度から特定求職者雇用開発助成金を適用した。また,昭和62年度からは,雇用促進事業団による就職時の身元保証が行われるようになった(乙2・435頁)。

(6)その他の施策
  政府は,昭和58年以降,中国帰国者世帯の定着地における生活の実態を把握し,今後の自立促進対策の充実を図るための基礎資料とするため,不定期的に中国帰国者の帰国後の生活状態実態調査を実施した。
  また,自立研修センターや支援・交流センターを拠点として中国残留邦人問題の普及啓発を図っている。平成7年には,厚生省及び援護基金の主催により,「中国残留邦人問題への理解を深める中央大会」を開催し,広く国民に対して中国残留邦人問題について普及啓発を行った(乙2・433,434頁)。

第8 自立支援法の制定について

1 各種団体の働きかけ
(1)政府は,前記第7のとおり,特別な立法措置を講じることまではせず,行政の施策として,永住帰国した中国残留邦人に対する自立支援策を講じていたが,全国協議会等の民間団体等は,次のとおり,政府が行っていた残留孤児に対する自立支援策は不十分であるとして,各種機関に訴えた。
  全国協議会は,昭和59年8月5日,衆議院及び参議院議長に対し,特別法を制定し,残留孤児が帰国した後,自立に必要な措置(日本語学校,職業訓練,生活指導)をきめ細かく特別な配慮で行うこと,年金の実効が確保されるよう措置することなどを請願した(甲総62)。
  全国協議会は,昭和60年2月8日,中国残留孤児問題国会議員懇談会に対し,孤児問題の解決方策を要望し,その中で具体的施策を挙げ,日本語教育については,定着センター終了後も地方公共団体により教育を継続すること,既に帰国している者の学習が可能な方途を講ずることを要求し,職業については,定着センター修了後も職業訓練受講可能な方途を講じ適職あっせんに努め,資格や技能について特別措置を講じることを訴え,生活保護法の適用については,孤児等にはなじまないから,自立までの一定期間別途援護の方途を講じること,年金については,「から期間」設定によって解決しない実額の確保の方途を講じることを求めた(甲総B22)。
  全国協議会は,昭和60年7月29日,厚生省援護局長に対し,生活保障,年金を含む援護法制定を申し入れた(甲総87)。
  また,全国協議会は,昭和62年7月,文部大臣及び内閣総理大臣に対し,孤児問題についての陳情を行い,「定着促進センターにおける4か月の教育では,日本語はもちろん,日本の社会で就職し,自立するには十分ではないこと,政府の受け入れ態勢が整っていないため,生活困窮者として乞食寸前の生活に追い込まれている」との事情を訴え,就職のあっせんや中国における技能資格の活用を求めた(甲総100,101)。
  また,全国協議会は,昭和63年2月9日,法務省人権擁護局長に対し,中国帰国者人権救済申立に関する件と題する書面において,各申立てをするとともに,帰国者のほとんどが生活保護を受けるが脱却が容易でないことが社会問題となってきている問題を伝えた。

(3)日本弁護士連合会は,昭和59年10月20日,「中国残留邦人の帰還に関する決議」を行い,そこで,「日本語教育については,わずか4か月程の教育を受けられるのみで,その他はボランティア等が建設した少数の日本語学校が存在するのみである。したがって,帰還した者らは地理的理由等からほとんど大多数の者がこれを利用できない状態であって,就職のための技能取得にも支障を生じている。更に,就職については,医師,教師等の資格についても何ら特例が認められないため,中国におけるこれらの有資格者も帰還後は肉体的労働によって生活せざるを得ない状況にある」とし,「現行の措置としては,帰国後の生活維持は,本人または近親者による援助を原則としつつ,それが不可能な場合には生活保護法の適用によるものとされている」「帰還者においては,40年にもわたる異郷での生活を余儀なくされたために,『活用すべき』資産,能力において著しく不利な条件下におかれており・・・,多くの場合帰還者の『困窮』状況は生活保護法の予測するレベルを遙かに超えたところにある。本人の意思にかかわらず余儀なくされたこのような特別事情を考慮するならば,その受給要件,受給額の両面において帰還直後の不適応状態に即した特別立法による生活保障を実現する必要がある」と指摘した(甲総95)。

(4)東京弁護士会は,昭和61年10月,国に対し,残留孤児の就職確保のため,「職業訓練,中国残留期間の職能の活用,公的機関への就職等による就職を確保すること」などを要望し,「何らの生活基盤を有せず,言語を異にし,日本語を学習して定職を得るまで,少なくとも3年乃至5年程度を要する。この間精神的に多くの困難と苦痛に耐えなければならず,また仮に就労しても職場に安定することは極めて少ない実情にある。生活保護法によると,収入があればこれと同一の額が支給額から減額されるのであるから,文言通り適用されればほとんどの場合減額と回復が繰り返されることになり,この間言語に不自由な状態でその手続きをなし,精神的苦痛を受け,結果として常に生活に不安を来して自立を妨げる結果となっている」ことを指摘し,生活保護法によらない「特別の生活保障給付金を支給」すべきこと,「国民年金法施行後の中国残留期間をすべて掛金支払済期間とみなし,国民年金を支給すべき」ことなどを要望した(甲総99)。

(5)日本弁護士連合会人権擁護委員会は,平成3年5月,中国残留邦人対策問題第1次調査報告書として調査事項をまとめた。これによると,残留孤児とその家族の帰国定着についての問題点として,定着促進センター退所後,定着するための所在地を一方的に指定してあっせんすること,生活保護の運用上日本語と職業教育を受ける期間を認めず,6か月から1年で打切りを警告し,就労を間接強制しているため事実上肉体労務者とならざるをえないこと,残留孤児の子女の教育にも配慮がないことを指摘している。

2 自立支援法の制定
  前記のとおり,中国残留邦人の自立支援に関する特別立法の必要が長年にわたり訴えられていたところ,平成6年に自立支援法が制定され,同年10月1日から施行された。
  自立支援法は,終戦前後の満州での「混乱等により,本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情にかんがみ,これらの者の円滑な帰国を促進するとともに,永住帰国した者の自立の支援を行うこと」を目的とする(1条)。
  その上で,自立支援法は,「国は,本邦への帰国を希望する中国残留邦人等の円滑な帰国を促進するため,必要な施策を講ずる」(3条),「国及び地方公共団体は,永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため,必要な施策を講ずる」(4条1項),「国及び地方公共団体は,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援のための施策を有機的連携の下に総合的に,策定し,及び実施する」(5条)としている。
  具体的な施策として,自立支援法が規定するものは,次のとおりである。生活保障に関する特別の施策は規定されていない。
(1)中国残留邦人等が永住帰国する場合に帰国旅費の支給すること(6条)
(2)永住帰国した場合に必要な資金を一時金として支給すること(7条)
(3)日本語の習得を援助すること等必要な施策(8条)
(4)公営住宅の供給の促進(9条)
(5)雇用の機会の確保を図るため,職業訓練の実施,就職のあっせん等必要な施策(10条)
(6)教育の機会の確保(11条)
(7)就籍等の手続に係る便宜の供与(12条)
(8)国民年金の特例を政令で定めること(13条)
(9)一時帰国旅費の支給(14条)

3 国民年金に関する支援策
(1)残留孤児は,帰国時には高齢を迎えているため年金への加入期間が短く,中国に居住していた期間が年金額に反映されないため,受給額が低額か又は受給できない事態が生じていた。

(2)平成6年11月9日,国民年金法等の一部を改正する法律(平成6年法律第95号)が成立し,これにより自立支援法が改正され,平成8年4月1日から,中国帰国者等に国民年金の特例措置が講じられることとなった。
  この特例措置は,@中国居住期間のうち,20歳以上60歳未満の期間で,国民年金制度が創設された昭和36年4月1日から永住帰国する前日までの期間は保険料免除期間とみなされ,この期間については保険料を納付した場合の3分の1相当額(国民年金の国庫負担相当額)が年金額に反映され,A保険料免除期間とみなされた期間について保険料を追納することができ,追納すれば,その分が年金額に反映されることとなった(乙2・434,695頁)。
  これにより,残留孤児に対し,国庫負担相当額,すなわち保険料を納付し続けた場合の3分の1(月額2万2000円程度)が支給されることとなった。

(3)なお,保険料を追納する場合,その追納保険料は,既に保険料を納付していた者との均衡を図り,過去の保険料を現在の価値に換算して支払うべきであるとの建前がとられ,仮に保険料が納付され積立金として運用されていたとした場合の予定運用利回りで設定した一定の加算率を乗じて追納する必要がある。例えば,平成8年4月より前に永住帰国して日本に1年以上住んでいる者は,平成13年3月31日までに追納することができるとされ,その額は,1か月につき6000円とされた(乙179の3)。
  これによると,例えば20年間(240か月)の追納をするためには144万円もの大金が必要となるため,追納ができる者はさほど多くはなかった。
  また,後記のとおり,生活保護を受給すると,年金受給額は生活扶助費から控除されるため,生活保護を受給している残留孤児ととって年金を受給することの利点はないに等しい。

(4)二十二都道府県中国帰国者対策協議会は,平成12年4月,国に対し,「中国帰国者の定年後の生活の安定を図るため,国民年金保険料の追納分の国費負担化や援護手当の支給などの措置を講ずること」を要望した(甲総A7の105)。

第9 拉致被害者に対する支援策について

1 拉致被害者支援法の制定
  北朝鮮当局により不法に拉致された日本人被害者及びその家族が帰国したことを契機として,それらの者の我が国での生活を支援するために必要な立法措置として拉致被害者支援法が制定され,平成14年12月11日に公布,平成15年1月1日に施行された。
  拉致被害者支援法は,「拉致された被害者が,本邦に帰国することができずに北朝鮮に居住することを余儀なくされるとともに,本邦における生活基盤を失ったこと等その置かれている特殊な諸事情にかんがみ,被害者及び被害者家族の支援に関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに,帰国した被害者及び帰国し,又は入国した被害者の配偶者等の自立を促進し,被害者の拉致によって失われた生活基盤の再建等に資するため,拉致被害者等給付金の支給その他の必要な施策を講ずること」を目的とする(1条)。

2 給付金制度
  拉致被害者支援法は,帰国した被害者及び帰国し,又は入国した被害者の配偶者等(以下「帰国被害者等」という。)が永住帰国する場合には,自立を促進し,生活基盤の再建等に資するため,拉致被害者等給付金を5年を限度として毎月支給することとしている(5条)。
  拉致被害者給付金は,世帯ごとに月を単位として支給するものとし,その月額は次のとおりとされた(同法施行規則4条)。
     一人世帯    17万円
     二人世帯    24万円
     二人を超える世帯超える数一人ごとに3万円を24万円に加算した額この金額は,生活保護の水準よりも高くすべきであるということを前提に,厚生年金の標準的な年金額を参考にして定められた(甲総125の4)。
  そして,帰国当初は出費がかさむことを考慮して,初回の支給額は上記月額の4倍の金額が支給されることとされている(同法施行規則5条)。
  残留孤児には,このような給付金制度はなく,上記のとおり,帰国時に自立支度金が支給されるにとどまる。

3 国民年金制度の特例措置
  拉致被害者については,国民年金制度の特例的措置として,拉致された日以降の期間であって政令で定めるものを国民年金の被保険者期間とみなし,国がその期間に係る保険料に相当する費用を負担することとされている(拉致被害者支援法11条)。

4 拉致被害者支援法が定める支援策とその実施
(1)拉致被害者支援法は,「国及び地方公共団体は,帰国被害者等を支援するため,有機的連携の下に必要な施策を講ずるものとすること」(3条2項),「国は,必要があると認めるときは,地方公共団体が講ずる前項の施策について,援助を行うものとする」こと(3条3項),具体的施策として,次のものを規定している。
@ 日本語の習得を援助すること等必要な施策(6条)
A 公営住宅の供給の促進(7条)
B 雇用の機会の確保を図るため,職業訓練の実施,就職のあっせん等必要な施策(8条)
C 教育の機会の確保(9条)

(2)支援策の具体的な実施
  政府は,都道府県及び市町村に委託して,帰国被害者等に対する自立・社会適応促進事業を実施した(甲総125の3,甲総D10)。
  この事業の実施に当たっては,帰国被害者等に対し,社会適応指導,日本語指導,帰国被害者等の自立を促進するために必要な指導・生活相談等及び社会体験研修を行うとともに,地域の行事等への参加等を通じた地域との交流を行うことにより,帰国被害者等の自立・社会適応の促進を図る方針のもと,具体的要領を作成し,平成15年4月1日から実施するものとされた。その内容は,次のとおりである。
  @ 都道府県は,有識者等で構成される策定会議を設置して,地域の実情及び帰国被害者等の生活実態等を勘案の上,自立・社会適応事業を適正かつ効果的に実施するための指針(自立支援プログラム)を策定するものとする。
  A 市町村は,有識者等で構成される作成会議を設置して,都道府県が策定した自立支援プログラムに基づき,帰国被害者等の自立・社会適応状況等を総合的に検討し,社会適応指導等,社会体験研修及び地域交流事業等に関する事業計画(自立支援カリキュラム)を作成するものとする。
  B 市町村は,自立を促進するために必要な指導及び生活相談等を行う者を帰国被害者等の属する世帯や帰国被害者等が日本語指導や職業訓練を受けている施設に派遣することにより,社会適応指導等を実施するものとする。
  C 市町村は,社会適応指導等の実行を高めるため,社会体験研修を実施するものとする。
  D 市町村は,帰国被害者等の社会参加を促し,地域社会への円滑な適応を図るため,地域の行事を活用したり,新たな交流事業を実施するものとする。

(3)政府は,拉致被害者家族に対し,就労に関する施策として,地元公共職業安定所に所長を長とした支援チームを設置し,帰国被害者等の希望に応じ,求人情報の収集・提供,求人開拓,職業相談,職業紹介等を通じて確実な就職に結びつけること,公共職業安定所において求職登録,受講あっせんにより,無料で公共職業訓練を提供するとともに,訓練受講中の生活の安定を図る等のため雇用対策法に基づく職業転換給付金制度の適用により訓練手当等を支給することとした(甲総125の2)。

第10 残留孤児の置かれた状況等について

1 生活実態調査の結果
  厚生省は,昭和59年から平成11年までの間,8回にわたり中国帰国者に対する生活実態調査を行った。この調査結果の概要は,次のとおりである(調査時期に従い「昭和59年調査」「平成元年調査」などという。甲総71,91〜93,甲総E22,乙101,116の1〜8)。

(1)昭和59年調査の概要
  昭和59年調査は,日中国交正常化以降昭和59年3月末までに永住帰国した187世帯を対象に調査を実施した。調査対象の残留孤児の年齢は,38歳から52歳で,40歳代が90パーセントであった。
  日本語の習得状況として,簡単な日常会話ができないと答えた者は8パーセントであった。
  残留孤児世帯のうち48パーセントが生活保護を受給していると答えた。
  就労している者の割合は,62パーセントで,その職業は,工員が最も多く,51パーセントであった。

(2)昭和61年調査の概要
  昭和61年調査は,日中国交正常化以降昭和60年12月末までに永住帰国した260世帯を対象とした。調査対象の残留孤児の平均年齢は44.9歳であった。
  日本語の理解度として,「職場の人と仕事の話ができる」と答えた者が19.2パーセント,「買い物に不自由しない程度の会話ができる」と答えた者が25.6パーセント,「片言のあいさつ程度」と答えた者が18.4パーセントであった。
  生活保護を受給している世帯の割合は43.2パーセント,以前受給していたが現在受給していない世帯の割合は50.8パーセントであった。
  就労している者の割合は59.8パーセント,以前就労したことがあるが現在就労していない者の割合が9.0パーセント,就労したことがない者が31.2パーセントであった。就労している者の職業は,工員が最も多く41.4パーセントであり,就労による月収は,15万円未満が全体の50パーセントであり,就労3年以上の者に限れば27.7パーセントであった。就労したことがない者は,その理由として,日本語が十分にできないと答えた者が最も多く41.1パーセント,次いで病気のためと答えた者が19.2パーセントであった。

(3)昭和62年調査の概要
  昭和62年調査は,日中国交正常化以降昭和62年11月末までに永住帰国した617世帯のうち,定着促進センター入所中の世帯を除いた515世帯を対象に調査を実施した。残留孤児の平均年齢は45.6歳で,40歳代が84.5パーセントであった。
  日本語の理解度についてみると,「会話に何の不便も感じない」と答えた者が10.1パーセント,「テレビニュースで話している内容がわかる」と答えた者が8.2パーセント,「職場の人と仕事の話ができる」と答えた者が15.6パーセントで,これらを合計すると33.9パーセントであるが,「買い物に不自由しない程度の会話ができる」と答えた者が28.7パーセント,「片言でのあいさつ程度」と答えた者が35.2パーセント,「全くできない」と答えた者が2.2パーセントであった。
  生活保護の状況として,帰国後3ないし4年で半数以上の世帯が生活保護から脱却したと報告されている。
  就労したことがない者のうち,不就労の理由として「日本語が十分にできない」と答えた者が54.9パーセント,「病気のため」と答えた者が19.3パーセント,「できる仕事がない」と答えた者が8.2パーセントであった。

(4)平成元年調査の概要
  平成元年調査は,日中国交正常化以降平成元年11月末までに永住帰国した1145世帯のうち,定着促進センター入所中の世帯を除いた1061世帯を対象に調査を実施した。残留孤児の平均年齢は48.7歳である。
  日本語の理解度として,「会話に何の不便も感じない」と答えた者が11.7パーセント,「テレビニュースで話している内容がわかる」と答えた者が7.7パーセント,「職場の人と仕事の話ができる」と答えた者が19.0パーセントで,これらを合計すると38.4パーセントとなる。「買い物に不自由しない程度の会話ができる」と答えた者が29.9パーセント,「片言でのあいさつ程度」と答えた者が28.1パーセント,「全くできない」と答えた者が3.6パーセントであった。
  生活保護を受給している世帯の割合は49.4パーセント,以前は受給していたが現在受給していない世帯の割合は45.3パーセントであった。

(5)平成5年調査の概要
  平成5年調査は,日中国交正常化以降平成5年1月1日までに永住帰国した1635世帯のうち,定着促進センター入所中の世帯を除いた1423世帯を対象に調査を実施した。
  日本語の理解度として,「会話に何の不便も感じない」と答えた者が7.5パーセント,「テレビニュースで話している内容がわかる」と答えた者が4.2パーセント,「職場の人と仕事の話ができる」と答えた者が23.9パーセントで,「買い物に不自由しない程度の会話ができる」と答えた者が24.0パーセント,「片言でのあいさつ程度」と答えた者が34.0パーセント,「全くできない」と答えた者が6.4パーセントであった。
  生活保護を受給している世帯の割合は34.6パーセント,以前は受給していたが現在受給していない世帯の割合は58.8パーセントであった。

(6)平成7年調査の概要
  平成7年調査は,昭和36年4月1日以降平成7年3月1日までに永住帰国した世帯のうち,定着促進センター入所者及び死亡した者等を除いた4532世帯を対象とし,そのうち,昭和59年3月1日以降に永住帰国した世帯についてのみ,生活実態を把握するための調査を実施した。回答者のうち,昭和59年3月1日以降に永住帰国した世帯は2469世帯である。調査対象の残留孤児の平均年齢は53.1歳であった。
  日本語の理解度として,「会話に何の不便も感じない」と答えた者が8.8パーセント,「テレビニュースが理解できる」と答えた者が6.7パーセント,「職場で仕事の会話ができる」と答えた者が18.5パーセントで,これらの合計は,34.0パーセントとなる。「買い物に不自由しないと答えた者」が26.2パーセント,「片言のあいさつ程度」と答えた者が33.7パーセント,「全くできない」と答えた者が6.0パーセントであった。
  生活保護を受給している世帯が38.5パーセント,以前は受給していたが現在受給していない世帯が52.3パーセントであった。
  残留孤児のうち,就労している者の割合は51.2パーセントで,その職業は,「技能工,製造・建設・労務作業者」の区分が圧倒的に多く,80パーセントを占めている。

(7)平成11年調査の概要
  平成11年調査は,平成元年12月1日から平成11年11月30日までに永住帰国した中国残留邦人のうち,定着促進センター入所中の者及び死亡した者等を除いた2562人を対象に調査を実施した。そのうち,残留孤児の平均年齢は58.3歳であった。
  日本語の理解度をみると,生活保護を受給していない者を対象にした集計結果によると,「会話に不便感じない」と答えた者が4.9パーセント,「テレビニュースが理解できる」と答えた者が6.1パーセント,「職場で仕事の会話ができる」と答えた者が30.3パーセント,「買い物に不自由しない」と答えた者が26.5パーセント,「片言のあいさつ程度」と答えた者が29.5パーセント,「全くできない」と答えた者が2.7パーセントであった。
  生活保護受給者を対象にした調査結果によると,「会話に不便感じない」と答えた者が3.3パーセント,「テレビニュースが理解できる」と答えた者が1.7パーセント,「職場で仕事の会話ができる」と答えた者が2.0パーセント,「買い物に不自由しない」と答えた者が37.9パーセント,「片言のあいさつ程度」と答えた者が48.7パーセント,「全くできない」と答えた者が6.3パーセントである。
  生活保護受給世帯の割合は,実に65.5パーセントであった。平成11年度の全国の生活保護受給率(人員)は0.79パーセントであり,永住帰国した中国残留邦人の世帯の生活保護受給率は余りにも高い。
  残留孤児のうち,60歳未満の就労率は,29.2パーセントで,世帯の中に就労者がいる割合は,60.6パーセントである。また,就労者がいる世帯の収入月額の平均は22万円となっており,残留孤児本人のみが就労している世帯の収入月額は,15万1000円である。平成11年における総務庁の家計調査の結果によると,一般世帯の就労収入の平均月額は,50万5000円であるから,これを大きく下回る結果となっている。
  就労している帰国者本人の職業は,「技能工,製造・建設・労務作業者」が最も多く87.4パーセントを占める一方で,「専門的・技術的従事者」が3.3パーセント,「事務従事者」が0.4パーセントにとどまっている。平成11年の総務庁の調査によると,日本人一般においては,「技能工,製造・建設・労務作業者」が30.6パーセント,「専門的・技術的従業者」が13.3パーセント,「事務従事者」が19.5パーセントであるから,中国帰国者が就いている職業は,現業労働の割合が高いことが分かる。

(8)上記調査結果を概括すると,残留孤児の日本語能力については,職場の人と仕事の会話ができる程度にも至らない者が常に6割以上を占め,時を経てもほとんど改善がみられないし,平成11年においては,高齢化の影響もあり,残留孤児世帯の半数以上が生活保護を受給している。また,残留孤児のうち就労している者の割合をみると,やはり5割程度で推移していたが,平成11年調査においては,高齢化の影響もあり,25.5パーセントにまで落ち込んだ。

2 別件訴訟の原告らに対するアンケート調査の結果
  平成16年9月,東京地方裁判所に本件同様の訴訟を提訴した残留孤児が主体となり,その訴訟の原告ら(1079人)に対して行ったアンケート調査の結果によると,「日本語で不自由がない」と答えた者の割合は3パーセントにすぎず,「日本語を話せない」と答えた者の割合は90パーセント弱であった。
  また,生活保護を受給している者の割合は,58パーセントであった(甲総D12)。

3 生活保護制度の運用状況
(1)生活保護制度は,生活困窮者が,その利用し得る資産,能力その他あらゆるものを生活の維持のために活用しても,なお最低限の生活を維持できない場合に,不足分を支給する建前がとられ(補足性の原則。生活保護法4条),年金等の公的給付を受けた場合にも,その受給額が収入認定され,生活保護費から控除されるものとされている。
  貯金があることが発覚すると,それを使い果たさなければ支給を受けられないし,働いて少しでも収入があると,その分支給額から差し引かれることになる。また,前記のとおりの年金の特例制度により,年金を受給することになっても,その分も差し引かれることになる。そのため,生活保護を受給している残留孤児にとって(前記のとおり,残留孤児世帯の過半は生活保護を受給している。),年金の特例制度は全く意味がないことになってしまうのである。その結果,過去分の年金保険料の一括追納が全く無駄となってしまう例も生じている(甲総132の1)。

(2)また,現在の生活保護制度では,ごく限定された場合にしか移送費の支給が許容されていないから,中国への里帰り費用の支給は認められない。したがって,里帰りするためには,その費用の捻出が大変である。そればかりか,里帰りしている間は生活保護の支給が停止される運用が行われているから,中国へ里帰りすることは,相当な覚悟が必要とされるのである。

(3)政府は,当初,残留孤児に対し,帰国後1年間は生活保護を支給し,定着促進センターや自立研修センターに通学させ,日本語の学習をするよう指導するが,その後は,生活保護を打ち切り自立を促す方針をもっており,この方針に基づき,帰国後1年が経つと,就労するよう迫る運用を実施していた。ところが,政府は,後に,国民年金だけでは生活ができない者に対し,無条件で生活保護を支給する方針に切り替えた。平成12年12月ころ,当時の厚生省中国孤児等対策室長は,「生活保護は恥ではないから,意識改革をして生活保護を受ければよい」と発言している(甲総73,甲総A9の1)。

第11 原告らの個別事情について

  原告らが残留孤児となった状況,帰国に至る経緯,帰国後の生活状況は,下記1ないし65のとおりである。なお,以下において「一時帰国」というのは,原告らが,中国旅券によって入国し,外国人として我が国に短期間滞在することを意味する(前記のとおり,政府は,日中国交正常化後,中国旅券を所持する残留孤児に対し外国人としての入国手続を要求していた。)。
  以下の認定事実のうち,原告らの終戦時(昭和20年9月2日),日中国交正常化時(昭和47年9月29日)及び永住帰国時の各年齢等を整理すれば表2のとおりとなり,帰国後に受けた日本語教育の概要等を整理すれば表3のとおりとなる。
  表2の「(終)」とは終戦時の年齢を,「(正)」とは日中国交正常化時の年齢を,「帰国決意時」とは永住帰国を決意した時期を(同欄の空欄はその時期が不明である。),「(永)」とは永住帰国終戦時の年齢である。
  表3の「(定)」とは定着促進センターへの入所の有無を,「(保)」とは現在の生活保護受給の有無である。原告ら65名のうち,現に生活保護を受給しているのは48名(約74パーセント)である。


1 原告番号1・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和17年12月6日に生まれ,終戦当時,2歳であった。終戦後の昭和20年10月ころ,瀋陽において,伊達鉄次という人物が原告○○を張徳海(以下「張」という。)に預け,張がその腹違いの兄弟である養父母に原告○○を預けた。

(2)養父母は,原告○○が日本人であることを周囲の人から隠すため,瀋陽からハルビンに引っ越し,原告○○を9歳まで育てた。
  原告○○は,中学校でもトップクラスの成績であり,当時,成績優秀者ならば通常加入していた組織で,共産党へと続くエリート養成のステップに位置づけられる「共青団」に入るつもりでいたが,中学校の先生から「お前は日本人だから,共青団には入れない」と言われた。
  原告○○は,日本人であったため,紅衛兵にもなれず,文化大革命の際には,過酷な差別を受け,追放され,農村での生活を15年間強いられた。
  原告○○は,昭和54年ころ,病気になった張を見舞いに訪れたときに,自分が日本人であることや養父母に引き渡された経緯を打ち明けられ,ここで初めて,自分が日本人であることを確信した。原告○○は,そのときは,日本に帰る手段があることなど考えも及ばなかったが,文化大革命のときのような差別を受けることが今後起こってはいけないと思い,間もなく公安局に陳情に行った。これが幸いして,原告○○は,被告に肉親調査の受付をしてもらうことができた。  原告○○は,昭和57年1月2日,伊達鉄次の息子である伊達三演から手紙と写真を受け取り,昭和59年11月には訪日調査に参加することができた。伊達三演は,訪日調査のとき駆けつけてくれたが,原告○○の肉親はあらわれず,身元は判明しなかった。
  原告○○は,身元が明らかにならなかったものの,日本人であるから日本に帰りたいと考え,昭和62年,妻,長男及び次男とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,埼玉県所沢市にある定着促進センターにおいて日本語教育を受けた後,兵庫県伊丹市に移り住み,4,5か月ほど経ってから,大阪帰国者センターで,日本語の教育を受けることになった。しかしながら,原告○○は,自宅から大阪帰国者センターに通うために往復3時間かかったところ,農村に追放されていた間に腰を痛めていたため,通うには負担が重く,ほとんど通わなかった。そして,これら教育を受けても,日本語を満足に習得することはできなかった。
  そのうち,原告○○は,自立指導員から就職を迫られ,昭和63年には,牛革加工の職につき,同時に大阪の日本語教室は卒業するものとされた。
  原告○○は,平成5年まで牛革加工の仕事を続けた後,交通事故に遭い,親指が動かなくなるなどして転職し,平成14年に定年を迎えるまで働いた。平成8年には,国から国民年金の追納の通知を受け,やっとの思いで分割で全額を納付した。
  原告○○は,定年後,厚生年金を2か月で約5万円を受給し,妻とともに空き缶拾いをして,月額3万円ほどの収入を得て生活している。このような現状にあるために,養母が亡くなったときも中国に行くことができず,養母の墓代も支払うことができなかった。
  原告○○は,日本語ができないため,地域に溶け込むどころか,地域住民と会話を交わすこともためらうような状況であり,また,生活保障も十分でないことから惨めな気持ちで日々を過ごしている。

2 原告番号2・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○の実父は,満州で建築関係の仕事についており,原告○○は,昭和13年9月24日,満州の新京特別市において生まれ,2,3歳のときに,家族とともに満州北部の嫩江県へ転居し,そこで終戦を迎えた。原告○○の実父は,終戦前に動員され,後にシベリアに抑留され,原告○○の実母は,終戦後,嫩江の収容所において死亡した。
  原告○○は,収容所において,食べるものに事欠く生活をした末,命をつなぐため,中国人家庭に引き取られた。

(2)原告○○の実父は,昭和23年ころシベリアから日本に帰国し,原告○○が嫩江で養家に引き取られたことは,嫩江から引き揚げた帰国者らによって,間もなく伝えられていた。
  原告○○は,2,3歳のころから後に永住帰国するまで,ずっと嫩江で暮らしていたが,小学校に入ってからは,「小日本鬼子」などと言われ,いじめられた。
  昭和32年ころ,原告○○の実父名義で嫩江県政府あてに手紙が届き,それが原告○○のもとに届いたが,その手紙は,実父と再婚した女性が書いたもので,そこには,原告○○が期待していた「帰ってこい」という言葉はなかった。そして,原告○○は,実父が再婚したことを知り複雑な気持ちになった。
  原告○○は,日中国交正常化後,日本へ帰国できる道があるということを知らなかったが,昭和53年ころになって,たまたま近隣に居住する日本人及び公安局に勤める知人から一時帰国することが可能であることを教えてもらい,喜び勇んで実父に手紙を書き,一時帰国の手続を進めた。そして,昭和54年5月,一時帰国を果たし,3か月余り日本で生活した後,中国に戻った。
  原告○○は,日本で滞在している間に永住帰国したい気持ちが高まったが,年老いた姑を中国に置いていくことはできないと考え,すぐには永住帰国するつもりはなかったが,帰国の準備を進めることにし,まずは身元保証人を確保するべく,実父に頼んだ。ところが,実父には,身元保証人となることに応じてもらえず,叔母にも頼んでみたが断られた。
  そうしたところ,原告○○は,昭和60年ころになって,永住帰国した知り合いの孤児のつてで,第三者の身元保証人を確保することができた。そして,昭和61年4月に姑が亡くなり,その葬儀を終えて生活が落ち着いた後,具体的な永住帰国の手続を進め,昭和62年1月23日,夫と子供3人とともに永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて4か月の教育を受けたが,日本語を十分習得することができなかった。その後,三重県に居住することになったので,自立研修センターに通うこともできず,日本語が不自由なまま,昭和63年4月ころから肉体労働に従事したが,3年ほどで身体を壊して稼働不可能となった。
  職を辞めてからは,わずかな貯金を取り崩して生活した後,生活保護を受給せざるを得ない状況となり,平成5年ころから現在に至るまで生活保護を受給している。
  原告○○は,日本語が不自由であるために,近隣の日本人とも打ち解けることができず,中国人扱いされ,毎日家に閉じこもってテレビを眺めるばかりの生活をしている。

3 原告番号3・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和19年2月2日に日本で生まれた。その実父が終戦直前に実母とともに北方の前線へ出征することとなっため,姉とともに錦洲市白雲街朝日公園前にあった祖父宅に預けられた。祖父らは,終戦後の昭和23年ころ,日本に引き揚げることにしたが,原告○○とその姉を連れていくのは困難であると判断し,原告○○は,中国人である養父母に預けられ,中国に残された。

(2)原告有馬は,中国において,子供のころ,「小日本鬼子」と言われ,いじめられたことがあり,5,6歳のころから自分が日本人であることを薄々感じるようになっており,10歳のころ,養父から自分の生い立ちを聞き,自分が日本人であることをはっきりと知るに至った。それ以後,日本にいる実の家族の下で生活できれば幸せだろうと思い,漠然と日本に帰国したい気持ちを持っていた。
  原告○○は,昭和48年,中国政府主催の少数民族の会議に招待され,日本人は帰国できるということを知って喜び,すぐにでも帰国したい気持ちになったが,妻や子供に相談すると,日本での生活が保障されていない以上,帰国すべきないと反対されたため,まずは肉親を捜すことにし,厚生省に,手紙を出したが,出生前後の事情について詳しい情報を求める返事が返ってきただけであった。
  原告○○は,その後も厚生省や日本領事館と手紙でのやり取りを続けたところ,昭和60年になって,厚生省から,訪日調査に関する知らせが届き,同年,訪日調査に参加したが,肉親は判明しなかった。
  原告○○は,訪日調査で日本に一時帰国した際,永住帰国の意思の有無を尋ねられ,帰国の意思を明らかにしたものの,帰国後,どこに住み,就職すればよいのか,子供の教育をどうすればよいのかが分からず,不安があった。そして,中国に戻ってから,厚生省から定期的に永住帰国の申込用紙が送られてきたが,日本での生活が不安だったため,すぐには永住帰国には踏み切らなかった。
  原告○○は,昭和63年になって,長女が高校卒業を前に日本での生活を希望したことを契機に,子供たちが大きくなっていたことから何とかなるだろうと考え,不安ながらも永住帰国することを決意し,永住帰国したいこと旨を申込用紙に記載して提出し,昭和63年10月,妻と3人の娘と共に永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,永住帰国後,定着促進センターで4か月間の日本語教育を受けた後,兵庫県明石市に居住し,海外同友会開講の日本語教室(自立研修センター)が用意され,そこに通った。その通学費は,明石市から支給を受けることができた。原告○○は,通学して8か月経つと,市の職員や自立指導員から卒業を求められたが,ほとんど日本語を習得していなかったため,希望して通学を継続させてもらった。しかし,それも平成3年2月には,通学費の援助を打ち切られたため,日本語を十分に話せないまま,通うことを断念し,自主的にボランティアが教えてくれる日本語教室に1年ほど通ったが,日本語を習得するには至らなかった。
  原告○○は,日本語を十分に話すことができなかったから,なかなか就職することもできず,職業安定所に行っても,満足に意思疎通をすることもできず,仕事の紹介を受けることはできなかった。自立指導員からは,いつも自立を求められたが,就職活動の支援もなくどうしようもなかったため,市の職員や自立指導員から,「ふまじめだ」と責められるばかりであった。そして,平成3年12月には,市の職員から,平成4年1月には生活保護を打ち切るから職を探すよう宣告された。
  原告○○は,苦労の末,ようやく肉体労働のアルバイトを見つけたが,時給800円と低賃金であり,建築現場の清掃という重労働であったが,他の選択肢がなく病を押して懸命に働いた。その後,平成4年2月に,同様の仕事を探すことができ,正社員となって,いったんは生活保護を脱却することができたが,平成5年には,体調を崩し,再び生活保護を受給せざるを得ない状態になり,現在まで生活保護を受給している。
  その間,生活保護を受給している状態では,子供たちの学費を捻出することは困難で,借金をするか隠れて働くしかなかったが,隠れて仕事をしていたことが発覚し,毎月の生活保護費から差し引かれている。

4 原告番号4・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和16年3月13日に生まれた後,家族とともに牡丹江開拓団の一員として満州に移住した。その後,実父が現地で出征して戦死した。原告○○は,終戦前後に実母とともに汽車で逃げ,たどり着いたハルビンにおいて,実母は中国人と結婚し,原告○○はその養子となった。しかしながら,それから1年経過したころ,実母が死亡し,その夫であった中国人も死亡したために,原告○○は,別の養父母の下に引き取られた。

(2)原告○○は,養父母に預けられた後,ずっとハルビンで生活し,幼いころから自分が日本人であることを認識していたし,周囲の中国人にも日本人であることを知られており,「小日本」等といじめられることもあった。
  原告○○は,昭和39年ころ,残留孤児である原告○○(原告番号65。以下「原告○○」という。)及び「趙」と名乗る2名の日本人女性と知り合い,その話を聞くなどして,日本に行ってみたいという気持ちが芽生えた。そして,原告○○は,原告○○が昭和55年に永住帰国した際,自らの情報を伝え身元調査を頼んだところ,朝日新聞の記者を通じ,厚生省に原告○○の情報が伝わった。その後,原告○○の下に厚生省から調査票が送付され,原告○○は,返信の手紙を送った。
  それから昭和60年になって,中国公安局から連絡があり,原告○○は,訪日調査に参加した。原告○○は,訪日調査参加後,永住帰国を希望していたものの,夫の兄弟の反対もあって,なかなか踏み切れなかったが,後に決断するに至り,平成4年12月11日,永住帰国した。そのとき,国費で帰国できたのは,原告○○とその夫,未成年であった長男と五女だけであったので,その4人だけがまず帰国をし,平成6年に長女,次女,三女及び四女の自費での帰国が実現した。

(3)原告○○は,帰国後,大阪の定着促進センターにおいて4か月,伊丹市内のユネスコ日本語教室(自立研修センター)において8か月,日本語教育を受けたが,日本語を習得することはできず,現在でも全くできないままである。
  原告○○は,日本語ができないため,近隣住民との付き合いもできず,衣料品店で「中国人」として店員に見張られる思いをするなど,屈辱的に感じることもあった。
  原告○○もその夫も日本語ができず,病弱でもあることから就労することができず,帰国当初から,夫とともに生活保護を受けて生活している。

5 原告番号5・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和12年9月25日,香川県高松市で生まれ,昭和13年ころ,家族とともに,四国開拓団の一員として満州北安省綾稜県に移住した。原告○○の家族は,昭和20年5月ころ,実父が根こそぎ動員により兵隊にとられ,残った実母と兄弟6人が終戦後逃避行を続けた。原告○○は,その逃避行の途中,弟3人と妹を亡くし,生き残った実母と実弟とともに,撫順まで逃げることができたが,実弟と実母は,その後撫順の難民施設において死亡したため,一人取り残され,やがて孤児を売ってお金をもらっている日本人女性により,養父母に売られた。

(2)原告○○は,中国において,永住帰国するまでずっと撫順で暮らしたが,周囲に,日本人であると認識されていたし,自分でも日本人であることを知っていた。そして,幼いころから日本に帰りたいという思いを持っており,実父や親族が生きていれば会いたいと考えていたが,どのようにすれば帰国できるのかは分からないままでいた。
  養父母宅の近くに住んでいたことがあったが既に帰国していた日本人2名が昭和54年ころ,原告○○を訪れ,日本に帰国することを勧め,帰国したければ厚生省に手紙を書くよう促した。その日本人2名は,残留孤児のリストを持っており,ボランティアとして残留孤児を訪ね歩いていたのである。原告○○は,そのとき,日本人2名に肉親捜しのため自分の写真を託し,昭和54年から,日本領事館や厚生省に対し,肉親の調査を依頼する手紙を何通も書いて送った。
  そうしたところ,原告○○は,昭和59年12月,訪日調査に参加することになったが,参加する直前に,養母から,実父の氏名が記載されたメモを受け取り,それを持って訪日調査に参加したところ,身元が明らかになり,実父○○と会うことができた。原告○○は,実父とともに一週間過ごした後,中国に戻った。
  実父は,昭和60年,中国にいた原告○○を訪れ,原告○○は,昭和61年9月には,日本に一時帰国した。その後,原告○○は,養父の看病のため中国に戻り,養父が昭和62年2月に死亡した後,一家全員で永住帰国することにした。原告○○は,昭和62年6月から手続を始め,中国を出国するための手続は,同年9月に完了した。残るは日本国内での手続だけであったが,身元保証人となって日本国内での手続を頼まれていた実父は,手続の仕方が分からないため,第三者に身元保証人になってもらい,手続をし直してもらうことにした(甲個5の24の2)。こうした手続のため帰国が遅れ,昭和63年4月8日,夫,養母及び息子の家族3人とともに永住帰国を果たした。すなわち,原告○○は,身元保証人が必要とされなければ昭和62年9月中には永住帰国できたものである。

(3)原告○○は,帰国後4か月,定着促進センターにおいて生活した後,兵庫県伊丹市に移住し,そこから同市内の自立研修センターに通い,8か月間日本語教育を受けたが,日本語を身につけることはできなかった。
  原告○○は,帰国後2年ほどしたとき,夫が仕事中の事故で働けなくなったことから,工場の肉体労働のパートを始めたが,平成9年には60歳となり,定年退職せざるを得なかった。
  原告○○は,その後も生活をするために仕事を探したが,日本語ができないため就職先が見つからず,平成11年以降生活保護を受給しており,現在は,年金月額約4万2000円と生活保護費月額約5万円を受給して生活している。

6 原告番号6・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和16年1月3日,香川県で生まれ,昭和17年,軍人であった実父が満州で生活していたことから,実母,姉及び妹とともに満州に渡り,東安省西東安において,実父と別に,農工開拓団の一員として生活していた。
  原告○○は,昭和20年8月,ソ連参戦後,自宅を出て,実母,姉及び妹とともに4人で逃避行を開始した。実父は,ソ連軍との戦闘に参加し,同年9月ころ死亡した。
  原告○○は,40人くらいの集団となって逃避行を続けた。その途中,食料がなかったため雪を食べて飢えをしのいだり,中国人から食べ物を恵んでもらうなどし,寒さのために牛の糞で足を温めたりするなどして必死に逃げた。集団の多数の者が餓死・病死し,逃避行は壮絶なものであった。妹及び逃避行中に生まれた弟が亡くなったが,原告○○は,実母及び姉とともに生き延び,大石頭鎮という村で中国人の経営する工場で働いて生活するようになった。
  原告○○の実母は,昭和21年ころ,日本に引き揚げようとしたが,当時の極めて混乱した状況において,幼い子供2名を連れて帰ることは無理であると考え,やむを得ず,原告○○を中国人に預け,姉だけを連れて先に引き揚げることになった。

(2)原告○○は,預けられたとき5歳になっており,自分が日本人であることを自覚していたし,周囲の中国人に日本人であると知られていた。原告○○は,昭和42年ころ,養母から,実母が養母に預けたメモ書きを見せられ,そこで初めて実父母の氏名を知り,感激し,実父母に連絡を取りたいと思ったが,どのようにすればよいか分からないままであった。原告○○は,昭和52年ころ,終戦前後に敦化県で離散した日本人の名簿を入手し,そこに実母の氏名を見つけ,その住所を知ることができ,手紙を送って実母と別れた状況などを詳細に伝えたところ,実母から返事が届き,その後手紙のやり取りをすることになった。
  原告○○は,こうして実母と連絡を取っているうち,日本へ帰国したいと思うようになり,そのことを実母に伝えると,好意的な返事をもらうことができ,昭和54年3月,実母に身元保証人となってもらって一時帰国し,5か月間,実母とともに生活をした(甲個6の4)。ところが,実際に生活を共にすると,言葉が通じなかったため,勘違いやすれ違いでけんかをすることが何度もあり,永住帰国に向けた話を具体的にすることはできなかった。
  原告○○は,実母とのトラブルはあったものの,日本に対して良い印象をもち,中国に戻った後,永住帰国したいと考え,昭和55年ころには,養父母,夫の親族らから永住帰国の了解を得ることができたから,永住帰国の手続を進めることにした。そして,すぐに実母に手紙を送り,永住帰国の意思を伝え,そのために身元保証人になってもらうことを頼んだが,反対され,身元保証人になってもらうこともできなかった。原告○○は,その後4,5年ほど,実母に対し,手紙を送り,同じことを頼み続けたが,実母は,身元保証人になることを拒み続けた。
  原告○○は,昭和60年には,北京の日本大使館に行き,日本人であるのに身元保証がなければ帰国できないのはおかしいのではないかと尋ねたことがあったが,はぐらかしたような答えしかもらえなかった。また,尼崎市か厚生省に対し,永住帰国したいが実母が協力してくれないから実現できないことを訴えたこともあったが,返事はなかった。
  原告○○は,昭和60年ころから,親族以外の者に身元保証してもらうしかないと考え,養母の姉の子の知人に身元保証になってくれるよう頼んだところ,了承を得ることができ,そのことを実母に伝えたところ,実母は,他人に身元保証人となってもらうのでは,身内として格好がつかないからといって,自身が身元保証人となってくれることになった。
  原告○○は,このような経緯を経て,実母に帰国のための手続をしてもらい,昭和62年2月10日,夫と子供とともに永住帰国したが,身元保証人なしに帰国できる取扱いがされていれば,遅くても昭和56年ころには永住帰国できていたはずであった。なお,昭和61年11月28日,原告○○のために帰国のための渡航書が発行され,それが原告○○の下に送られてきたため,原告○○は,日本人として帰国することができた(甲個6の8)。
  (3)原告○○は,永住帰国後2か月程度,民間の文化住宅に暮らした後,大阪市内の定着促進センターに4か月入所して教育を受け,その後尼崎市内に居住して中国帰国者センターに通って6か月程度教育を受けたが,十分な日本語を身につけるには至らず,日本語が話せないことで,実母や親族らと十分なコミュニケーションを図ることもできなかった。
  原告○○とその夫は,帰国後,なかなか就職することができず,2年間は生活保護を受給していたが,夫が平成元年に溶接関係の仕事に就くことができてからは,生活保護を受給しなくなった。原告○○は,平成2年,部品組立ての仕事に就いたが,平成11年に会社の経営不振により解雇されてしまい,それ以降仕事をしていない。
  原告○○は,夫が退職した平成13年から,再び生活保護を受給して生活している。

7 原告番号7・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和19年5月17日,満州で生まれた。原告○○の両親は,徳島県の出身であったが,実父が満州電信電話公社に技師として勤務することになり,黒竜江省(現在の三江省)佳木斯に渡っていた。
  原告○○の家族は,ソ連参戦後,ハルビンに逃げ,そこで終戦を迎えたが,実父はソ連軍に拘束された後シベリアに抑留され,家族4人が残された。原告○○は,昭和21年夏,実母が原告○○ら子供3人を連れ,集団帰国をしようとした直前に迷子となっていたところ,中国人の養父母に拾われ,養育されることとなった。

(2)原告○○は,自分を中国人であると思っていたが,小学生のころには「小日本」と言われてからかわれるなど,周囲には日本人であることが知られていた。原告○○自身も,漠然と日本人の子であるかもしれないと考えていた。そして,原告○○は,昭和36年ころには共青団に加入しており,昭和41年ころ,当然のように共産党に入党できるものだと考えて入党を申し込んだが,中国当局には日本人であることが知られており,入党できなかった。
  原告○○は,幼いころから,日本に両親がいるのなら,帰国したいなどと空想することはあったが,現実的に考えることはなかった。ところが,昭和51年,知人から,日中の国交が正常化しており,日本人であるならば日本に帰国できるのではないか,と言われたことを契機に,具体的に帰国を考え始めた。そして,昭和52年ころ,意を決して養母に出自を尋ねてみたところ,原告○○を引き取った状況について教えてもらい,日本人の子であることを確信し,昭和53年に,北京の日本大使館に手紙を送付した。
  昭和56年ころになって,原告○○の下に日本大使館からアンケートのようなものが届き,それに書き込みをし写真を同封して送付した。
  一方,原告○○の実父も原告○○を捜しており,昭和56年から訪日調査が始まると,必死に調査に注意を払っていたが,そのうちしびれを切らし,厚生省まで行き問い合わせたところ,原告○○の写真を見つけ,我が子かもしれないと思って,中国にいた原告○○に手紙を出したところ,それがきっかけとなって原告○○の身元が判明した。そして,原告○○は,昭和58年12月,訪日調査に参加して一時帰国を果たし,実父母と再会し,いったん中国に戻った後,実父に身元保証人となってもらい,昭和61年8月22日,妻とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターには入所せずに,実家のあった宝塚市において,生活保護を受給しながら親子4人で生活を始めた。そして,当初,日曜の午後2時間だけの日本語教室に通った後,昭和63年3月までボランティアによって運営されている日本語学校に週3回通い,日本語を学んだ。
  原告○○は,いつまでも生活保護に頼るわけにはいかないと考え,昭和61年11月ころから,建設業のアルバイトをしたが,同僚から「中国人」と呼ばれたり,日本語が分からないためトラブルとなり,職場で殴られるなどつらい思いをした。その後,正式な職人として雇用してもらうようになり,現在は,朝5時15分に家を出て電車を乗り継いで現場に向かう生活をし,月額20万円弱の収入を得ている。もっとも自営業として税務申告をしているため,社会保険には加入していない。
  原告○○は,国民年金の保険料追納のため160万円を分割で完納したが,65歳になってからも月額7万円程度しか年金を受給できない見込みであり,将来の生活に不安を抱えている。

8 原告番号8・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和17年12月21日,瀋陽市で生まれた。実父は,満鉄の職員として,実母とともに満州に渡っていた。終戦後,原告○○とその弟は,それぞれの写真と生年月日をメモした紙と一緒に木箱に入れられ,通化省臨江県臨江街の川辺に捨てられていたところを養父母に拾われ,引き取られることとなった。

(2)原告○○は,養父母から実の子として育てられ,周囲にも中国人と認識されたまま中国人として育ったが,昭和41年に養母が死亡した後,昭和47年,養父から,引き取られるに至った事情を聞かされるとともに,木箱に入っていた写真を手渡された。原告○○は,そこで初めて自分が日本人であることを知り,中国における日本人への迫害や差別をかいま見てきたことからなかなか気持ちの整理がつかなかったが,その後,日中国交正常化を知り,その数年後には,帰国を実現した残留孤児のことを報道で知るようになり,帰国したい気持ちが芽生えた。そして,昭和56年,日本大使館に手紙を書き,帰国する意思があることを伝えたところ,同年8月3日,外務省経由で
  厚生省にその手紙が送付された。厚生省は,原告○○に調査票を送付するなどして調査を進め,同年10月,原告○○を訪日調査対象者とし,中国政府に名簿を送付したところ,昭和60年7月,中国政府から原告○○が残留孤児であることを否定する回答が届いたため,訪日調査対象者から外した。
  原告○○は,その後,中国政府から孤児認定を受けることができ,平成元年11月に厚生省にそのことを伝え,平成2年撫順市公安局の残留孤児であることの証明書の写しを同封し,手紙を送るなどしたところ,平成2年11月,訪日調査に参加することができた(乙202の1ないし3)。そして,平成3年12月9日,夫と3人の子供とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後大阪の定着促進センターで4か月生活し,その後,伊丹小学校で4か月の日本語教育を受けたが,日本語は身につかず,現在まで日本語は話せないままである。
  原告○○は,病身のため,働くことはできず,帰国後現在まで,生活保護を受けて生活している。日本語ができないため地域に溶け込むことができない。また,中国に何度か帰ったところ,それが市役所の生活保護担当者に発覚し,中国への渡航費用と中国滞在中の扶助費の合計156万円の償還を迫られ,毎月生活保護費から2万円ずつ差し引かれている。

9 原告番号9・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和20年10月30日,満州で生まれた。実父は,満州で鉄道関係の仕事をし,実母は日本人学校の先生をしていた。
  原告○○の両親は,昭和21年秋ころ,日本へ帰国することになったが,原告○○が幼く病弱でやせ細っていたことから,連れて帰ると死亡する可能性が高いと考え,養父母に預けた。

(2)原告○○は,幼少のころから帰国するまでの間,安東市に居住し,幼少期には,近所の子供たちから「小日本人」とか「日本の鬼」といじめられることがあり,その周囲の者から日本人であると認識されていた。原告○○は,7歳のころ,養母の弟である叔父から,日本人であると聞かされたとき,自分が日本人であることを自覚しており,昭和30年ころ,養母が死亡し,昭和33年に養父が死亡し,一人暮らしとなってからは,日本に帰国したいとの強い思いを抱くようになった。
  原告○○は,日中国交正常化後,日本に帰国したいと考え,自分の実父母と養父母との間を仲介した傅道成に実父母のことを聞くなどして自分の身元判明の手掛かりを捜し求めたり,安東市在住の残留孤児の集いに参加して情報交換を行うなどしていたが,手掛かりをつかめなかった。
  昭和55年ころになって,ようやく残留婦人等から肉親捜しのための手続を教えてもらい,手続を進めることにし,昭和55年12月,中国政府から残留孤児であるとの公証書を取得し,昭和57年2月には訪日調査団の一員として日本に一時帰国することができた。原告○○の実母は,存命しており,原告○○が訪日したことも知っていたが,原告○○の実父が既に死亡しており,名乗り出ると同居している長男の嫁に迷惑がかかるので名乗り出ず,そのため,原告○○の身元は判明しなかった。
  原告○○は,一時帰国したときから日本に永住帰国したいとの気持ちをもっており,中国に戻ってすぐに夫に相談したところ,夫が賛成してくれたため,永住帰国しようとしたが,身元が判明せず,身元保証人もいなかったためすぐには永住帰国の手続をとることができなかった。
  原告○○は,昭和61年4月4日に至り,身元未判明孤児でも帰国できるということを知り,身元引受人制度を利用して夫と息子二人とともに永住帰国したが,身元保証人なしに帰国ができる取扱いさえされていれば,遅くとも昭和57年中には永住帰国できていたはずであった。

(3)原告○○は,帰国した後,所沢市の定着促進センターにおいて4か月間,日本語の教育を受けたが,あいさつと簡単な日常会話程度しか学べず,その後伊丹市に居住するようになった後は,大阪帰国者センター日本語教室及び伊丹市ユネスコ日本語教室で8か月の教育を受けたが,そこでも満足に日本語を習得することはできなかった。家庭では,中国語で会話をするし,日本語のテレビを見ても,半分くらいしか理解ができない。原告○○は,半年間職業訓練校に通った後,平成元年から平成6年まで,自ら探した電機部品組立ての会社で正社員として勤務した後,平成7年から
  平成10年まで,牛革製品加工の会社で正社員として勤務した。いずれも月収は12万円程度であった。その後,交通事故で足を骨折したことが原因で,作業員としての仕事ができなくなり,日本語ができないため事務の仕事を見つけることもできず,無職のまま現在に至っている。平成8年には,国民年金の保険料追納制度を利用して,苦労して工面した147万6000円を納めた。
  原告○○は,昭和62年から平成元年ころまで,生活保護を受給していたが,その後は,夫の給料などで生活を維持している。

10 原告番号10・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和20年8月,牡丹江市から寧安県鉄嶺河へと向かう鉄橋の下の草地で,軍人のコートの上に一人座り込んで泣いているところを拾われ,養父母に引き取られた。原告○○は,拾われたとき,日本語で「3歳」と答えるなどしていたから,日本人の子供であったことが分かる。そして,正確な生年月日は分からないが,拾われたときの年格好などから,推定で昭和17年3月16日とされた。

(2)原告○○は,幼いころから近隣住民から「小日本鬼子」と言っていじめを受けることがあり,周囲に日本人の子であると認識されていた。もっとも,原告○○は,そのことを知らされず,日本人であるかもしれないとも思いながら育った。そして,養母は,原告○○が17,8歳のころ,原告○○に黙ったまま中国籍へ入籍させる手続をした。
  原告○○は,国交正常化後,親戚がいる日本人は日本に帰ることができ,日本に帰った残留孤児がいるとの情報を耳にしたが,自分の日本名も知らず,全く身元の手掛かりがなかったため帰国する術はなく,自分を大切に育ててくれた養母を残して日本に帰ることなどできないと考えていた。
  ところが,原告○○は,昭和63年になって,公安局から,日本政府から調査依頼があり,訪日調査の案内が届いたとの連絡を受け,是非参加したいと思い,高齢の養母に「出張へ行く」と嘘をついて,同年6月,訪日調査に参加し,一時帰国した。
  原告○○は,身元は判明しなかったものの,日本に帰って肉親を見つけ出したいとの気持ちが膨らみ,中国に戻った後,家族に帰国することについて相談した。そして,その後養母が死亡したこともあって,養母に対する気遣いが不要となり,家族の賛成を得て,永住帰国を決意した。そして,平成3年8月9日,妻と次男とともに永住帰国を実現させた。長男夫婦とその子供,長女夫婦とその子供,次女夫婦とその子供は国費での帰国ができなかったことから,中国に置いていくことになった。

(3)原告○○は,帰国後,大阪の定着促進センターへ入所し,4か月を過ごし,その後,宝塚市の県営住宅に入居し,伊丹市のユネスコ日本語教室(自立研修センター)に2か月ほど通ったところで,知り合いの中国帰国者の紹介で就職することになった。中国に残してきた子供たちを呼び寄せるためには早く「自立」しなければならないと言われ,就職を決意したのである。そして,平成5年に,長男夫婦らを呼び寄せた。
  原告○○は,日本語が不自由であったため,職場で怒鳴られたり,馬鹿にされることばかりであったが,勉強する機会もないまま,働き続け,平成14年5月,定年退職することになった。しかし,退職後に得られる年金は,夫婦あわせても月額6万円にすぎず,職を得ることもできなかったため,生活保護を受給して生活している。原告○○は,長女が平成13年7月に中国に戻っており,その長女に会いに行くため,平成17年5月から数か月中国に行って暮らしたことがあったが,その間の生活保護費の支給が止められ,その間の家賃も負担しなければならないことになった。
  原告○○は,いまだに必要最低限の日本語の会話もできず,日本人と付き合うことができず,残留孤児ら中国帰国者とばかり交流する日々を送っている。

11 原告番号11・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和17年12月26日に生まれた。原告○○の実父母は,開拓団の一員として満州に渡っていた。原告○○は,終戦前後の混乱の中で,多くの日本人の子供とともに線路脇の空き地に捨てられた後,中国人に拾われ,養育されることとなった。

(2)原告○○は,昭和24年,8歳のときに小学校に入学したが,そこでは同級生や教師らに日本人であることを知られていた。そして,原告○○は,周囲の者の言動から,自分が日本人であることを理解するようになった。養父は昭和33年に死亡し,養母は昭和47年に死亡した。

(3)原告○○は,小学校教師となり,優秀であるとの評価を受けていたが,日本人であることから,共産党に入党することはできず,昭和41年から始まった文化大革命のときには,激しい迫害を受けた。
  原告○○は,日本人であることでつらい思いをしてきたため,日本に帰りたいとの気持ちを持っており,実父母にも会いたいと思っていたが,どうすればよいかも分からず,何らかの行動に出ることはなかったが,日中の国交が正常化した後は,日本にいる実父母や日本政府が自分を捜しに来てくれると期待していた。
  平成2年ころ,原告○○が勤務していた小学校に,山口光美という日本人が偶然訪れ,原告○○に対し,日本へ帰国する方法があることを教えた。原告○○は,それを聞いて驚くとともに,帰国したい気持ちになり,北京にある日本大使館に手紙を出すなどした。そうしたところ,平成3年に日本政府から連絡が来て,訪日調査に参加することになった。そして,本来なら,平成3年の訪日調査に参加できるはずであったが,北京に行く列車が遅れたため,参加できず,平成4年11月,訪日調査に参加し一時帰国した。しかしながら,身元は判明することはなく,中国に戻った。訪日調査の際には,永住帰国の希望を聞かれ,希望すると答えていた。その後,中国での安定した生活もあったため,迷ったが,永住帰国することを決断し,平成6年8月12日,夫,長男及び四女とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,大阪の定着促進センターにおいて4か月過ごした後,芦屋市に移り住み,平成6年12月から神戸市にあった海外同友会の日本語教室(自立支援センター)において日本語を学ぶことになったが,平成7年1月には阪神大震災が起こり,日本語の勉強どころではなくなった。その後,交通機関が復旧し,通うようになったが,平成7年の夏ころには体調を崩すこともあり,ほとんど勉強することができなかった。そういうこともあって,自立支援センターでの学習期間は1年間あったがほとんど日本語を話すこともできないままに,学習を終えることになった。
  原告○○は,帰国後,日本語ができないために,コミュニケーションを図ることもできず,中国人であると見られ,周辺住民との付き合いも全くない。そして,日本語を話すことができず,心臓などに病気を有していることから仕事をすることもできず,帰国直後から現在まで生活保護を受給して生活している。
  夫婦で,生活保護費として月額12万円程度を受給しているが,物価の高い芦屋市内での買物はほとんどできず,安い地域まで自転車で通っている。そして,生活保護を受けていることにより,市役所の職員から日常生活についての聴取を受けているし,養父母の墓参りにも行くことができない。

12 原告番号12・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和13年8月27日,香川県三豊郡二宮村(現高瀬町)で生まれ,昭和20年の初めころ,実父が満州国東安省勃利の訓練所で勤務することになったため,姉二人を除いた家族とともに満州に移住した。原告○○は,終戦前後の混乱の中,実父が行方不明となり,残された家族とともに逃亡し収容所にたどり着いたが,そこで実妹と実母が衰弱死した。残された原告○○と実弟は,籠一つの饅頭と引換えに中国人に引き取られた。原告○○は,終戦時7歳で,そのときは日本語を話していた。
  原告○○は,最初の養父母である郭全勝宅に預けられた。実弟は,違う養家に預けられたが,すぐに死亡した。

(2)原告○○は,預けられた先で養母に暴力を振るわれるなどした後,新たな養家に預けられた。原告○○は,周囲の者に日本人であることを認識されており,けんかしたときなどに「日本鬼子」とののしられることがあった。
  原告○○は,幼いころから日本人であることを自覚し,漠然と日本に帰りたいとの思いを抱いていたが,中国で生活するうち,自分の日本名や日本語も忘れていった。
  原告○○は,昭和61年春ころ,中国の公安局外務課を通じ,朝日新聞社から手紙を受け取った。その内容は,朝日新聞社は,公安局の情報により,原告○○が日本人孤児であることを知ったということと,終戦前後の逃避行の内容を書いてほしいというものであった。これに対し,原告○○が返事を送ったことがきっかけとなって,原告○○は,昭和61年9月,訪日調査に参加することになった。
  原告○○は,訪日調査において,姉二人と面会することができ,身元が明らかになった。そして,終戦時行方不明となりその後帰国していた実父と再会し,永住帰国したいという気持ちになった。原告○○は,いったん中国に戻り,中国にいる家族にその意思を伝えたところ,誰も反対する者はおらず,そこで永住帰国を決心した。その後,永住帰国のための手続を進めることにし,親族の身元保証を得るため,実姉に手紙を出して何度も協力を求めたが断られ続け,そうしているうち,昭和62年5月に実父が死亡した。
  原告○○は,昭和63年1月に一時帰国し,実姉に対し,永住帰国のための身元保証人となるよう説得しようと試みたが,やはり応じてもらえなかった。そこで,親族ではない町会議員の○○○○に身元保証人になってもらうよう頼んだところ,応じてくれたので,いよいよ永住帰国ができると考え,いったん中国に戻り,仕事を辞め,家を売るなどして準備をしていたところ,同人から,親族しか身元保証人になれないと国から言われたので身元保証人となることはできない,ということを知らされ,永住帰国ができなくなった。
  原告○○が帰国を願う気持ちは,○○○○をはじめとする日本人に伝わり,同人を中心として帰国のための支援活動が行われ,約1400名の署名が集まるなどしたが,事態は変わらないままであった(甲個12の5)。
  その後,原告○○は,実姉と交渉し,遺産相続を放棄することを条件に身元保証をするよう頼んだところ,ようやく応じてくれることになり,ここで永住帰国が実現することになった。
  原告○○は,平成元年11月(51歳時),家族とともにようやく永住帰国したが,仮に,原告○○が永住帰国を決心した昭和61年9月の時点で,政府が身元保証などを求めずに帰国を認める取扱いをしていれば,帰国手続にかかる期間を考慮しても,遅くとも昭和62年3月には永住帰国できていたはずであった。

(3)原告○○は,帰国後,福岡の定着促進センターにおいて4か月の日本語教育を受けたが,日本語を十分習得するには至らなかった。
  定着促進センター出所後,家族とともに故郷の香川県三豊郡高瀬町で生活することにし,そこで次男は職を見つけることができたが,それだけで生活するには足りず,生活保護を受給した。原告○○自身も,仕事を探すため,職業安定所にも通うなどしたが,日本語が話せなかったこともあって,見つけることができず,生活指導員から週に何度も「働きなさい」と指導されたが,どうすることもできなかった。
  原告○○は,平成3年から,実姉の紹介で,西宮市で仕事をすることになり,同市に移り住み,月収約16万円を得ることができたが,職場では,日本語が分からないため同僚から馬鹿にされることもあった。平成6年に55歳で定年退職となり,しばらくは嘱託社員として仕事を続けたが,やがて嘱託期間が満了し,その後,2度ほどアルバイトとして就職したが,いずれも日本語ができないため一週間ほどで辞めることになった。
  原告○○は,現在,年金月額約3万5000円と生活保護費月額約11万7000円を受給して生活しているが,高齢で日本語もできず,就職先を見つけることが非常に困難で,生活保護を脱することはほぼ不可能な状況にある。

13 原告番号13・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和13年11月26日,鹿児島県で生まれ,家族とともに黒竜江省の開拓団の一員として,中国へ渡った。原告○○の実父は,その後出征して死亡し,実母は,病気のために死亡した。
  原告○○は,終戦時,叔父と兄とともに逃げたが,その逃避行の際,大羅密という町で,叔父から中国人に預けられた。叔父は,その後日本へ帰国する前に,預けた中国人の下に原告○○を捜しに来たが,原告○○は,既に別の養父母に預けられ,大羅密を離れていたことから,捜し出すことができないまま帰国した。

(2)原告○○は,預けられた当初は日本語しか話せなかったが,中国で生活するにつれ中国語を話すようになり,次第に日本語は忘れていった。
  原告○○は,9歳のころから小学校に通うようになったが,周りの者に日本人であることを理由に馬鹿にされることがあった。また,近所の者にも,日本人であることで陰口をたたかれることもあり,つらい思いをした。また,公安局の職員が,昭和23年ころ,原告○○を訪れ,日本人の子供を対象にした調査を実施した。
  原告○○は,終戦時から自分が日本人であるとの自覚があったので,常に日本に帰りたいとの気持ちを持っており,叔父や兄がどうしているかも気になっていたが,日中国交正常化後,日本に帰国できるとの期待を持ち,同じ村に住んでいた残留婦人に自分の写真を渡すなどして肉親捜しを依頼したが,連絡はなかった。
  その後,原告○○は,知り合いの残留孤児の助言を受け,昭和58年,北京の日本大使館に手紙を書いて送った。日本大使館は,翌昭和59年2月になって,外務省にその手紙をもとに調査依頼をし,外務省は,同月,厚生省に連絡をした。
  原告○○は,日本大使館に手紙を送ることと並行して,昭和58年後半ころ,知り合いの残留孤児の兄を通じて叔父とみられる男性と連絡を取り,その後,手紙や写真のやり取りをするうち,徐々にその男性が叔父であることが明らかになったことから,昭和59年3月20日,厚生省に手紙を出し,叔父とみられる男性と直接会って確かめたいとの意向を伝えた。
  原告○○は,昭和59年11月,訪日調査に参加することができ,叔父及び実兄と会って身元が判明した。原告○○は,中国に戻った後,夫に日本へ帰国することを相談したところ,当初は反対されたが,後に納得を得ることができた。そして,原告○○は,実兄に身元保証をしてもらった上で,昭和61年2月,夫と3人の子供とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて4か月間の日本語教育を受けた後,大阪及び神戸にあった日本語教室において日本語教育を受けたが,いずれも十分なものではなく,今でもほとんど日本語を話すことはできない。
  そのために,周囲の日本人からは外国人扱いされ,近隣住民との交流も全くない。病院に行っても,自らの病状を説明できないために,病院へ行くのもはばかられる状態である。阪神大震災時には,周囲の状況も分からず,恐怖と不安で中国にいったん戻らざるを得ないことともなった。
  また,原告○○は,日本語が話せないことや体調不安のこともあり,帰国後仕事に就くことはできなかった。夫は仕事には就いたが,日本語が話せないために現場の肉体労働しかできず,腰を痛めるなどし,また,職場ではいじめに遭うこともあって,辞めざるを得なくなった。夫が仕事を辞めた後は,生活保護を受給して生活するようになり,現在に至っている。
  原告○○は,阪神大震災のとき,神戸での生活が不安だったので,中国に戻って2か月ほど生活したが,そのことが発覚し,その間の生活保護受給費を返すよう言われ,2万円ずつ返済している。このように,生活保護を受給している身では,中国へ戻ることが困難であるから,中国での養母の葬式にも行くことができず,墓参りにも行けないままである。

14 原告番号14・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和14年5月20日,日本で生まれ,昭和20年の春ころ,実父が満鉄社員であったことから,家族とともに,ハルビンに渡った。そして,満鉄の職員住宅で生活し,終戦後,家族で撫順の南台難民収容所に行き,そこで生活することになった。その収容所での生活は寒さと飢えによる過酷なもので,二人の弟,父が相次いで死亡した。原告○○の実母は,そのような状態の中で,原告○○を生き延びさせるために中国人に預けた。

(2)原告○○は,預けられた後,養父から日本語を使うことを禁止されていたが,周りの者には,日本人であると認識されていた。
  原告○○の実母は,終戦後日本に帰国していたが,実母は,昭和32年ころ,中国の公安局に原告○○あての手紙を送り,公安局に届いた。原告○○は,昭和33年ころ,そのことを知り,公安局に対し,その手紙を見せるよう要求したが,見せてもらうことはできなかった。原告○○は,日本に帰国したい気持ちになったが,具体的には何をしたらよいか分からないままであった。
  原告○○は,昭和39年3月,日本の医学文献に記載されていた大学教授の研究室の住所をたよりに,「母親を捜してほしい」という手紙を送ったところ,その教授が厚生省に依頼をしてくれたため,厚生省援護局から,昭和40年1月ころ,原告○○の下に,調査をする旨の手紙が届いた(甲個14の3,4)。
  原告○○は,その後,何度も厚生省援護局あてに手紙を出したが返事はなかった。撫順市の公安局が,昭和40年ころ,原告○○に対し,「あなたは日本人ですが,日本に帰りたいか」「もし,日本政府があなた方を引き揚げさせると言ってきた場合には,中国政府としてはそれに反対しない方針である」と伝えたが,原告○○の帰国はなかなか実現しなかった。
  原告○○は,昭和48年,近所に住む中国残留婦人である林末子や,静岡県に住む民間人で残留孤児の肉親捜しをしていた鈴木啓治にも肉親捜しを依頼し,何度も手紙のやり取りをした。昭和55年にも,日本に住む山村という女性に,肉親捜しを依頼し,何度も手紙のやり取りをした。また,原告北野は,北京の日本大使館や厚生省に対しても,手紙を送ったが,帰国に関する返事はなかった。
  原告○○は,昭和56年,林末子を通じて知り合いになった松永章央から,肉親捜しのための一時帰国ができるということを聞き,訪日調査の存在を知り,参加することになり,昭和57年2月,一時帰国したが,肉親は見つからなかった。原告○○は,一時帰国後中国に戻った後,すぐにでも永住帰国したかったが,身元が判明しない上,身元保証人を探すこともできず,帰国がかなわなかった。
  原告○○は,昭和57年3月,民間の協力者に永住帰国に向けた協力を求める手紙を書き(厚生省援護局に回付された。),昭和57年4月,同様に民間の協力者あてに,同年中に日本に永住帰国することを希望しており,中国当局の反対意見はないが,日本政府が認めないため帰国できない旨記した手紙を送付し,それが同年5月6日,厚生省援護局に回付された(甲個14の20・21)。
  原告○○は,日本における戸籍がなかったため,就籍手続をとることにし,昭和61年,民間のボランティアを通じ,就籍することができた。その後,昭和62年3月ころになって厚生省援護局から永住帰国できる旨の書類が届き,昭和62年6月3日,永住帰国することができた。
  原告○○は,以上のような経緯でようやく永住帰国できたのであり,仮に,原告○○が永住帰国の意思を固めた昭和57年3月の時点で,政府が身元保証などを求めずに帰国を認める取扱いをしていれば,帰国手続にかかる期間を考慮しても,遅くとも昭和57年9月には永住帰国できていたはずであった。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,定着促進センターにおいて過ごし,その後,神戸市の海外同友会が開講する日本語教室において10か月,日本語の教育を受けたが,日本語能力はほとんど身につかなかった。
  原告○○は,日本語を習得してから仕事に就きたいと考えていたが,自立指導員からは自立を迫られ,日本語を習得できないままに肉体労働に従事することになったが,給料をもらっても生活保護費から差し引かれた。平成8年9月には肋骨を骨折するなどし,働けなくなったため,以後,働いていない。また,夫は,十二指腸潰瘍の病気を持っており稼働できず収入がないため,現在まで生活保護を受給して生活をしている。

15 原告番号15・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和12年3月20日,兵庫県出石郡高橋村(現在の但東町)で生まれた後,家族とともに,依蘭天田開拓団の一員として満州に渡った。原告○○の実父は,昭和20年8月10日召集され,ソ連侵攻後,原告○○は,実母,姉二人,妹及び叔母とともに逃げることになった。その途中,実母と妹はソ連兵に銃で打たれて死亡した。原告○○は,姉らと逃避行を続けていたが,足が痛くなり腫れてしまい,姉らに,大通り沿いにあった中国人の家に「また迎えに来ます」と言って預けられた。しかし,姉らは,迎えに来ることはなかった。

(2)原告○○は,預けられたとき8歳になっており,それ以後も自分が日本人であることを知っていたが,日本語を使うことがない環境にあったため,次第に日本語を忘れてしまった。そして,周囲の者らに,日本人であることを知られており,そのことでいじめられることもあって,幼少時代はあまり外に出ないで暮らしていた。
  原告○○は,昭和55年ころ,中国に残留する日本人が日本に帰れるようになったことを知り,帰国したいと思うようになった。また,そのころ,公安局外事課の職員が原告○○の家を訪問し,調査をしにきた。
  原告○○は,昭和60年,日本に手紙を出すなどして肉親調査を進めたところ,昭和61年9月,訪日調査に参加することができ,そこで既に帰国していた姉と再会することができた。
  原告○○は,中国に戻った後,すぐに永住帰国をしたかったが,夫が反対したため現実化せず,平成5年ころ,中国で大洪水が起こったことを機に夫が賛成してくれたため,永住帰国することになった。そして,姉に帰国したいことを伝え,身元保証してもらうよう頼んだところ,姉は,当初,「中国での生活はそんなに苦しくもないし,日本に来て何をするの。日本語もできないし,日本に来たら窮屈になるでしょう」などと言って反対され,身元保証人になってもらえなかった。原告○○は,その後,何度も手紙を書いて頼んだところ,最終的には,姉が甥とともに身元保証人になってくれ,平成5年8月13日,永住帰国が実現した。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて4か月間日本語教育を受けた後,兵庫県宝塚市に居住し,それから兵庫県伊丹市の日本語教室(自立支援センター)において,1年ほど日本語を学習したが,高齢のせいもあって,ほとんど習得することができなかった。現在,日本語ではあいさつをすることしかできないし,読み書きはできない。
  原告○○は,心臓病,手のひらのしびれ,胆結石,頭痛などの持病を抱えているので,稼動不可能である。また,原告○○の夫も脳血栓で入院して以来歩くのも不自由な状態なので働けない。
  そのため,原告○○は,現在,国民年金月額約2万円,生活保護費月額12万ないし13万円を受給して生活している。

16 原告番号16・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和13年2月11日に生まれ,幼少のころから開拓団の一員として生活していたところ,ある日,遊びに行って自宅に帰ると家族がいなくなっており,近所の家の庭に大きな穴が掘ってあって,死体や生きている人がほうり込まれていた。原告○○は,隣家にいた老婆にしばらく面倒を見てもらい,その後車夫に引き取られ,昭和22年ころ,車夫から養父に引き渡されチチハルで生活するようになった。

(2)原告○○は,養父に引き取られたころ,日本語しか話せず,そのころから自分が日本人であることを認識していた。そして,近所の子供たちに「小日本人」と言われていじめられることもあった。その後,中国で生活するうち,日本語が分からなくなっていった。
  原告○○は,幼少期から自分は日本人であることを認識していたが,自分や実父母の名前や出身地など身元に関することが何も分からなかったから,日本へ帰国することなど考えることもできなかった。
  原告○○は,昭和60年ころ,残留孤児の肉親捜しのことを知っていたが,自分の身元が分からなければ,肉親捜しなどできないと思い込んでおり,日本へ帰国することはあきらめていた。
  ところが,原告○○が,昭和60年ころ,チチハルに来ていた日本人観光客のグループに話しかけたとき,観光客の中の一人が,肉親捜しの申請をするために必要な手続をとってくれ,それをきっかけとして昭和61年6月,訪日調査に参加することができたが,身元は判明しなかった。
  原告○○は,訪日調査後,自身が病弱であり,家族がたくさんいたため,なかなか永住帰国に踏み切れなかったが,後に決断し,平成3年2月7日,夫と四男四女とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,埼玉県所沢市の定着促進センターにおいて日本語の教育を受け,その後,兵庫県伊丹市内で自立研修センター主催の日本語教室で6か月間日本語を勉強した。
  しかし,それら日本語教育は,どちらも不十分であって,原告○○には到底理解できないものであった。
  原告○○とその夫は,帰国後就労することはできず,年金も受給していないため,生活保護を受給して生活していたが,同居の子供が就労し,その収入が認定されたため,いったんは生活保護が打切りとなった。そのため,原告清沢は,生活ができなくなり,中国に戻って,中国に残った子供らとともに生活していたが,平成9年1月,同居していた子供らが独立し世帯を持ったことを機に,日本に再度帰国し,平成9年2月から生活保護を受給して一人暮らしをしている。

17 原告番号17・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和17年5月28日生まれたとされる。原告○○は,終戦のころ,大勢の日本人とともに逃避行をしている途中病気になり,養父母に預けられた。

(2)原告○○を引き取った養父母は,市街地に居住していたが,原告○○が後に日本人であることでいじめられることを避けるため,原告○○の出自を知る者がいない農村に引っ越した。しかしながら,原告は,幼いころ,農村においても「小日本」とやゆされたことがあった。
  原告○○は,昭和36年10月,中国人の妻と結婚したが,妻は原告○○が日本人であることを知っていた。また,原告○○が文化大革命が起きる前に中国共産党に入党しようとしたが,日本人であることから,入党を拒まれることがあった。
  原告○○は,上記のような経験から,自分が日本人であることを知っていたが,具体的に日本に帰国することを考えることはなかった。ところが,昭和60年に,原告○○の下に中国公安局の職員が訪れ,日本へ帰って親捜しをすることを勧めた。さらに,原告○○は,黒竜江省にある役所に連れていかれ「残留孤児であれば,肉親捜しのため,日本に帰ることができる」という説明を受けた。原告○○は,その言葉を聞き,すぐにでも祖国である日本に帰りたいとの気持ちを持った。
  原告○○は,その後,同年11月に調査票を日本政府に送り,翌昭和61年1月,日本政府から連絡があって,同年9月,訪日調査に参加することができたが,身元は判明しなかった。
  原告○○自身は,訪日調査後,日本に帰って生活したい気持ちであったが,家族から反対されたこともあって,そのときは帰国をすることはあきらめた。
  ところが,数年後,原告○○の下に,厚生省から「日本で永住帰国しませんか」などと帰国を促す手紙が来るなどし,家族の賛成も得ることができたから,日本に帰国することを決意した。そして,原告○○は,平成4年の春ころ,厚生省に書類を送付するよう要求して書類を手に入れ,それに記載して永住帰国を希望することを申請したところ,平成5年10月12日,妻と次女とともに永住帰国することができた。そして,平成7年には,次男夫婦と長男が,平成8年には長男の妻と長男の子,平成11年には長女夫妻とその子及び次女の夫が帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,埼玉県所沢市の定着促進センターにおいて4か月の日本語教育を受け,その後,伊丹の日本語学校(自立研修センター)で半年間,日本語教育を受けたが,それでは日本語を習得することができなかった。
  原告○○は,生活保護を受給せずに自立した生活をしたいと思い,平成6年8月からゴミ処理業のアルバイトとして働いたが,労働条件が過酷であったため,退職した。その後,平成12年8月から土木工事業に従事したが同年12月に転落事故にあって3か月入院することになり,リハビリが必要な状態となって,働くことができなくなった。そして,平成15年から,生活保護を受給して生活している。
  原告○○は,現在,妻とともに,年金月額2万1000円と生活保護を受給することで生活をしている。原告○○は,日本語ができないため,地域に溶け込むどころか,近所付き合いもできず,自治体の活動にも参加できていない。

18 原告番号18・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和11年,大阪府で生まれた。原告○○は,昭和19年,家族とともに大阪開拓団の一員として,満州の興安東省札蘭屯市に移住した。その後,原告○○の実父が,昭和20年8月1日,関東軍に動員された後,行方不明となり,一家の支柱を欠いた家族は,開拓団の人々とともに,厳寒の中,逃げた。原告○○の実母は,生き延びるため中国人と結婚し,一家全員を引き取ってもらうことになったが,その後,原告○○と兄は,口減らしのため,いったん他の中国人に引き取られることになった。ところが,その家も養育するだけの余裕がなかったことから,原告○○と兄は,その後3年間ほど,村中を転々とする生活をした。

(2)原告○○は,昭和24年,12歳のときから,働きながら小,中学校に通うことになった。原告○○は,実母が何十キロメートルも離れたところに住んでいたこともあって,実母と連絡を取ることはなかった。
  原告○○は,夜間高校に通った後,内蒙古建築学院(大学相当)に入学することができ,卒業後はエンジニアとして働いていたが,文化大革命の際,日本人であることが発覚し,昭和41年から昭和46年まで,労働改造として,電気工の現場作業を強制された。
  原告○○は,昭和47年に国交正常化を知り,日本に帰国できることができるのであればそうしたい気持ちもあったが,その方法も分からなかったし,日本人差別を恐れていたため日本人であることを告白して中国当局に問い合わせる勇気も持てなかった。また,訪日調査が始まったことも,噂としては知っていたが,具体的な手続なども分からないままであった。
  ところが,原告○○の長女が平成7年日本に留学した後,日本人男性と結婚し,また,原告○○は,平成9年,日中友好協会会長の伊藤秀夫と知り合い,戸籍調査を行ってもらうなどして身元が判明して帰国を決意するようになり,伊藤秀夫氏に身元保証をしてもらった上,平成11年12月9日,妻及び次女夫婦とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて4か月の日本語教育を受け,その後,伊丹ユネスコ日本語学校(自立研修センター)に3年間通い,日本語を学んだが,帰国時既に62歳となっていたことから,日本語を習得することはできなかった。その後も,現在まで,大阪のスクールに通って土日,日本語の勉強を続けている。
  原告○○は,帰国後仕事が見つけることができず,平成12年4月から,生活保護を受給して生活をしている。そのため,自由に中国に帰ることもできないでいる。

19 原告番号19・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和13年3月11日,東京都葛飾区にて生まれた後,家族とともに,中国に渡った。原告○○の実父が平成19年ころ,緊急徴兵され,その後,原告○○は,実母,兄二人とともに暮らした。
  原告○○は,終戦後,中国において家族とはぐれ,物乞いをしながら何とか生きていたところを,養父に助けられ,育てられることになった。
  原告○○の実父は,昭和22年2月,原告○○を捜すことができないまま,日本へ帰国した。

(2)原告○○は,養父に引き取られたころ,日本語しか話すことができなかった。9歳のときに小学校に入学したが,そこでは「小日本人鬼子」などと言われていじめられた。
  原告○○は,日中国交正常化直後,日本へ帰国したいと考えるようになった。原告○○の養父は,日本人は日本へ帰ることができると聞き,昭和49年,公安局に行き,原告○○が残留孤児であることを証する公証書を取得してくれた。原告○○は,残留婦人や残留孤児が帰国するとの情報を得ると,その残留婦人や残留孤児の下に行って肉親捜しを依頼する手紙を託し,さらには日本赤十字社に手紙を出すなどして,肉親を捜していた。
  そうしたところ,原告○○の実父から,昭和52年に手紙と写真が送られてきた。その手紙には,「日本へ帰ってこい」と書かれており,原告○○は,帰国しようとしたが,養父が喜んでくれたものの寂しがったため,すぐには帰国せず,養父が死亡した後の昭和53年12月26日,長女及び次女とともに,当初は一時帰国のつもりで帰国を果たした。なお,実父は,日本で原告河野の帰国の手続を進め,原告○○,長女及び次女の日本旅券を取得し,原告○○に日本旅券を送付したが,原告○○らが日本旅券で出国することを中国公安局外事課が認めなかったため,原告○○らは,日本人としての手続で帰国することができなかった。

(3)原告○○は,帰国後,実父とともに40日間生活したが,言葉が通じず,慣習が異なっていたこともあって,行き違いが生じ,うまくいかなくなったため,実父の家を出て,長女,次女とともに西明石のアパートに移り住んだ。
  その後,原告○○は,知人に身元保証人になってもらって,永住帰国の手続をし,そのまま日本に永住した。しかし,中国に残った夫と息子に対する身元保証人をなかなか見つけることができなかったため,呼び寄せることができず,2年以上経ってから,夫と息子を呼び寄せることができた。
  原告○○は,一時帰国から永住帰国へと移行したこともあって,定着促進センターに入所する機会もなく,日本語教育を受ける機会が与えられなかった。そして,現在でもほとんど日本語を話すことができない状態にある。
  原告○○は,日本語が不自由であるために,近隣の日本人とも打ち解けることができず,近所付き合いはほとんどない。また,目が不自由なことから,介護保険を利用したいと思っているが,日本語ができないことから介護ヘルパーを頼むこともできないでいる。
  原告○○は,帰国後,生活保護を受給して生活しており,平成4年には,身体障害者1級の認定を受け,現在は,夫とともに,障害年金月額8万2400円,生活保護費月額7万8000円を受給して生活している。

20 原告番号20・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和9年2月1日,長野県上伊那郡で生まれ,実母が昭和12年に死亡した後,昭和14年,実父,長兄及び二人の姉とともに,東安省密山県長野村開拓団の一員として満州に移住した。その後,二人の姉,長兄が,昭和19年までに相次いで病死し,実父が昭和20年8月に死亡したため,原告○○は,満州にいる家族のうち,一人取り残されることになった。原告○○は,終戦後,ほかの難民とともに同年10月下旬ころ藩陽市難民収容所に到着し,そこで,毎日街へ出て,現地の人々から残った食物をもらいながら生きていた。原告○○は,そのような生活を続けるうち,もうすぐ死んでしまうと思ったとき,中国人に引き取ってもらい,育てられることになった。

(2)原告○○は,昭和21年から3年間,洋服店に住み込みで働いたが,中国語ができないため苦労した。その後,服装作りの仕事をして生活し,昭和30年には,中国人の女性と結婚した。
  原告○○は,周囲に日本人であると知られており,日本人であるためにいじめを受けることもあった。
  なお,厚生省において,昭和30年以降,原告○○に関し,帰国した日本人から,昭和30年から昭和32年の間に,「昭和21年5月17日,奉天で満人宅にいる」,昭和30年2月には,「昭和20年11月16日に奉天加茂小学校において満人宅へ行った。当時,食糧不足で,満人のところへ行けば,食べる(ママ)と思ったらしい。その後の状況は不明」との情報が提供されていた。さらに,昭和35年9月,「養育者のないため,同部落●●(墨塗り部分)と共に同行者には話はなく,そのまま帰ってこなかったので食べるものに不自由していたため,満人宅へ行けば,暖かいおいしいものを食べられるあこがれがあってだまって二人ででかけたものと想像しております」との情報が提供されていた(乙208の1)。
  原告○○は,日中国交正常化後,日本の民間の調査団に会い,帰国意思のある者は,日本大使館や領事館に手紙を送るよう言われ,近所の日本人孤児と相談した上,北京の日本大使館に手紙を書いて送った。その後,帰国手続についての説明がされたが,日本語での説明であったので,良く理解できなかった。
  原告○○は,その後,近所の残留孤児と残留婦人によって,原告○○(原告番号48。以下「原告○○」という。)を紹介され,昭和49年には,日本に居住していた原告○○の兄を通じ,実兄である○○○○(以下「○○」という。なお,○○は,養子縁組により氏が変わっていた。)と連絡を取ることができた。
  原告○○は,昭和51年1月,里帰りとして一時帰国し,長野県にある○○の家で同年6月末まで過ごした。一時帰国中,永住帰国することを望んだが,○○に反対され,身元保証人になることを拒まれたため,永住帰国をすることができなかった。
  その後,原告○○は,昭和55年ころになって,先に帰国していた残留孤児に頼み込んで身元保証人になってもらい,昭和56年ころ厚生省に帰国の申請をし,昭和58年12月28日,永住帰国することができた。このとき,原告○○は49歳になっていた。

(3)原告○○は,永住帰国後,神戸市にある県営住宅に住み,自立指導員の勧めで兵庫県海外同友会が開講している日本語教室に60回以上通い,日本語を勉強したが,易しい言葉しか習得することができなかった。そのため,就職がなかなかできず,帰国後,昭和63年まで生活保護を受けて生活した。
  原告○○は,被服縫製の技術を有していたことから,そのことを生かして就職しようと考え,数社に履歴書を送ったところ,連絡があった民間企業において,昭和60年から日本語教育の提供を受けることになり,日本語で意思疎通ができるようになった昭和63年からは,嘱託で仕事をすることになった。その後,数社に転職しながら,平成11年に65歳で定年退職するまで民間企業で働き,その給与で生活をした。もっとも,退職後,生活保護を受給するようになり,現在に至っている。

21 原告番号21・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和19年3月13日,大連で生まれた。原告○○の実父は,満鉄職員として満州に渡ったが,終戦直前に召集されてフィリピンへと出征した。原告○○は,大連で実母とともに終戦を迎え,原告○○の実母は,昭和21年秋ころ,過酷な生活状況の下で,周囲の勧めでやむを得ず原告○○を養父母に預けた。

(2)原告○○は,養父母の下で,自分が中国人であると思って育ったが,昭和41年,中国共青団に入団を申請したとき不許可とされ,その際,中国共青団の書記から「自分の身の上を知らないのか」と言われた。原告○○は,その意味が分からず,養父母に尋ねたが,何もないとの返事だったため,そのときは,自分が日本人であるとは思わなかった。
  ところが,原告○○は,昭和42年,中国人の男性と結婚して間もないころ,原告○○が日本人であることを知っていた同僚から,日本人であるとして罵られたことがあり,養父母に問いだたしたところ,自分は日本人であり,養父の档案にも原告○○が日本人であると記載されていることを教えられ,そこで初めて自分が日本人であることを認識した。なお,原告○○は,職場で日本人であることを知られてからは冷たい仕打ちを受けることになった。
  原告○○は,日中国交正常化後,日本との連絡方法や帰国の手段について知らずにいたから,そのまま中国で生活していくしかないと思っていたが,昭和55年秋ころ,中国政府から肉親捜しができる旨告げられた上,身元調査依頼の申請を勧められた。
  原告○○は,これを受け,昭和56年1月に肉親捜しの申請をしたところ,昭和60年になって,大連市公安局外国人管理事務所から呼出しがあり,瀋陽で日本政府によって行われる調査に参加するよう言われ,同年5月ころ,瀋陽での面接調査に参加した。その後,面接調査の結果が日本で放映されるなどし,実母が判明した。
  そして,実母は,昭和60年10月,大連にいる原告○○を訪れ再会を果たし,原告○○は,昭和61年夏ころ,一家全員を連れ一時帰国し6か月ほど滞在した後,中国に戻った。原告○○は,中国に戻った後,永住帰国の手続をすすめ,昭和63年4月12日,一家全員で永住帰国した。

(3)原告○○は,大阪の定着促進センターで4か月過ごした後,兵庫県伊丹市の県営住宅に入所し,昭和63年8月から,伊丹ユネスコ日本語学校(自立研修センター)に通学し,日本語教育を受けたが,平成元年4月に長男がプールで頚椎損傷の事故に遭い,その介護のために勉強を続けることができなくなった。その後,平成2年4月ころから平成4年春ころまで再び通学して教育を受けた。
  原告○○は,中国にいるときから,独力で日本語の学習をしており,日本語の文字の意味は大体分かる程度になり,発音もできるが,聴き取りはあまりできない状態にある。
  原告○○は,定着促進センター出所後,平成3年夏ころまで生活保護を受給していた。その後,夫が就職するなどして生活保護を打ち切られ,原告斎藤も就職するなどして生活を維持してきたが,平成16年から再び生活保護を受給することになった。
  原告○○は,なかなか中国にいる養母の下を訪れることもできず,日本語が不自由なため友達もできず,寂しい生活を送っている。

22 原告番号22・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和16年ころ,日本人の子として生まれ,昭和20年8月15日,黒竜江省鶏西市の草むらで泣いていたところを中国人の養父母に発見され,養育されることになった。

(2)原告○○は,小さいころから周りの子供に「日本人は日本に帰れ」といじめられたことがあり,8歳の時には,養母から自分が日本人であることを聞かされており,自分が日本人であることは分かっていたし,周囲の者にもそのように認識されていた。
  原告○○は,小さいころから漠然と日本に帰りたいと思っていたが,どうやって帰るのかその方法も分からないまま中国で過ごした。
  そして,原告○○は,田舎に住んでいたことから,昭和47年当時,日中国交正常化があったことも知らなかったし,日本に帰る方法があるなどとは知らなかった。
  原告○○は,昭和58年に日本の代表団が訪中した際に,電報をもらい,質問を受けるなどし,現実的に帰国を考えるようになり,帰国を希望するようになった。もっとも,代表団からは,厚生省からの連絡を待つよう言われたため,それを待っていたが,連絡は来ないままであった。
  ところが,原告○○は,昭和61年,残留孤児と親族関係のある人の存在を知って会いに行き,同人から,厚生省に手紙を書くことを教えられ,それに従って厚生省に手紙を書いたところ,いろいろな書類のやり取りをし,昭和62年2月,訪日調査に参加することができた。訪日調査では身元が判明しなかったが,永住帰国したいと思って手続を進め,昭和63年8月5日,夫と長男,三女とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて4か月の日本語教育を受けた後,兵庫県伊丹市に居住し,その後1年間,伊丹の小学校で日本語を学んだ。もっとも,これらの教育は,中国語を解さない教師によるものであったこともあって,不十分と感じざるを得ず,日本語を習得するに至らなかった。現在,漢字も書けず,日本人との意思疎通は筆談ですらできない状況にある。
  原告○○は,自立指導員から自立を迫られたため,日本語が習得できないまま清掃などの肉体労働に従事することになった。しかし,平成8年に高血圧で倒れ,働くことができなくなり,夫も高齢で仕事を得ることができない。そして,得られる年金は,夫婦あわせて2か月約5万円にすぎず,それでは足りないため,平成11年11月4日から現在に至るまで,生活保護を受給して生活をしている。

23 原告番号23・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和12年,群馬県で生まれ,4歳ころまでに家族とともに満州に渡った。原告○○の実父は,満鉄の機関士をしており,昭和20年8月9日,ソ連が参戦すると列車の運転のため残り,原告○○は,実母,兄及び弟ともに南に向け逃げたところ,ソ連軍に捕らえられて収容所に入れられた。実母は,収容所が生きていくにはあまりに過酷な環境であったため,昭和20年11月,中国人の養父に原告○○の養育を託した。なお,原告○○の実母は,昭和22年6月,兄一人を連れて帰国することができた。

(2)原告○○は,養父に引き取られたとき8歳であったから,自分が日本人であることは分かっていた。原告○○は,養家において,学校にも行けず,過酷な労務を強いられ続けたが,昭和30年ころ,結婚してからは,人間らしい生活を送ることができた。
  原告○○は,昭和50年から肉親捜しを始め,撫順市内で残留孤児の援助をしている日本人と接触して自分の情報を伝えたところ,原告○○の氏名と写真が日本の新聞に載り,兄がそれに気付いたことから,実母や兄らと連絡を取るようになり,昭和51年には国費で一時帰国を果たし,実母らと31年ぶりに再会した。
  原告○○は,その後,中国に戻ったが,日本語ができなかったため意思疎通が困難であったから,実母らとの交流もないままであった。原告○○は,夫に反対されるなどのため,永住帰国に踏み切れなかったが,夫が平成3年に死亡した後,中国人に紹介を受けた日本人に身元保証人になってもらい,平成5年,子供らとともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,身元保証人が用意してくれたアパートに住み,すぐに働くことになったため,日本語教育を受けることはなかった。現在も日本語は片言のあいさつ程度しかできない。
  原告○○は,帰国後すぐの平成5年11月ころから現在まで生活保護を受給して生活しているが,夫の墓参りのために中国へ帰国することもままならず,近所づきあいもできないため,寂しい思いで過ごしている。

24 原告番号24・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和22年9月29日,黒竜江省佳木新市で生まれた。原告○○の実母は,戦前,夫である○○○○とともに開拓団として入植したが,○○○○が終戦直前に召集されて戦死し,避難した先で,原告○○の実父である○○○○一と再婚し,原告○○が生まれたのである。
  原告○○の家族は,終戦後,生活が苦しかったため餓死寸前の状況となり,実母は衰弱し母乳もろくに出なかったため,原告○○はやせ細り,このままでは死んでしまうと思われたため,昭和22年の秋の終わりころ,生後2,3か月の状態で中国人の養子に出された。そして,養父母は,昭和22年末から昭和23年初めころ,実父母が取り返しに来ることをおそれ,実父母に黙って原告○○を連れて引っ越しした。そのため,実父母は,昭和28年に引き揚げる際,原告○○を捜したが,所在が分からず,連れて帰ることができなかった。

(2)原告○○は,小中学校において,成績はトップクラスであったが,日本人であるという理由で高校へ進学することができなかった。また,小さいころから,日本人であることを理由にいじめられ,職場で昇進差別も受けた。
  原告○○は,日本人であることで不利な扱いを受けてきたため,中国にいては将来が望めないと考えるようになり,真剣に帰国を考えるようになった。
  公安局の外事課長が昭和56年に原告○○を訪れ,北京の日本大使館に手紙を送付するよう勧めた。そこで,原告○○は,日本大使館に手紙を出したところ,厚生省から訪日調査の申込書が送られてきて,それに記入して送付するなどし,昭和60年9月,訪日調査に参加することができた。訪日調査では,身元が判明し,家族と再会を果たした。
  その後,原告○○は,実母に身元保証人となってもらい,永住帰国することにし,昭和61年2月ころ,日本大使館から帰国許可の通知が来て,同年3月13日,妻,長男及び長女とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,埼玉県所沢市の定着促進センターで4か月間日本語教育を受けたが,そこでは片言を覚えた程度であった。その後,昭和61年8月に神戸市の市営住宅に引っ越した後,大阪の日本語教室に1か月,神戸市の日本語センターに半年間ほど通い学習したが,昭和62年に就職してからは,時間がとれなくなり,辞めることになった。
  原告○○は,帰国後,日本語が通じないことで屈辱感を覚えることがあったことから,自力で必死に日本語を勉強したため,現在では,日常会話には不自由しない程度までになっている。
  原告○○は,昭和62年に就職してから転職をしながらも働き続けていたが,平成10年に肺がんの疑いがあると言われ,3年ほど療養した。平成13年2月に,再就職して働いたが,同年8月に機械に右手を巻き込まれる事故に遭って,重傷を負い,退職したまま,現在に至っている。現在は,月額17万5000円の労災年金を受給し,それで生活を送っている。

25 原告番号25・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和14年9月1日,鹿児島県大島郡宇検村において生まれ,昭和17年,家族とともに,第11次宇検村開拓団に参加し,満州へ渡った。原告○○の家族は,満州へ渡ってから2年ほど農業に従事していたが,原告重光の実母が体が弱かったことから,安東に移り住んだ。しかし,安東での生活は厳しく,食料を手に入れることも容易ではなかった。原告○○の弟は,昭和19年死亡し,原告○○の実父は,昭和20年に根こそぎ動員で召集され,それ以後消息は分からなくなった。原告○○の実母は,昭和20年7月ころ子供を産んだが,その子供は数日後に死亡し,原告○○の実母も,産後の体調が悪く,しばらくして死亡した。このようにして,原告○○は,安東に一人取り残されたが,教化県に住んでいた叔母に引き取られ,昭和20年7月末ころから,再び開拓団に戻り,叔母及び祖母とともに暮らすことになった。
  原告○○は,終戦後の昭和20年11月ころ,叔母と祖母に連れられ,他の開拓団員とともに奉天の収容所まで避難したが,間もなくして,祖母は死亡し,叔母も病気で寝込む状態となり,昭和21年3月ころ,収容所に来た知らない男性に連れ出され,養父母の下に連れていかれた。

(2)原告○○は,養父母の下で生活することになり,昭和22年には,小学校に行くことになった。原告○○は,子供のころから「小日本」と罵られ,日本人であるがために進学や職場で不利に扱われることもあった。また,昭和29年ころには,原告○○が日本人であったために公安局の職員が調査に訪れた。
  原告○○は,昭和40年ころ,職場で知り合った中国人の女性と結婚しようとし,相手が日本人であるとして女性の両親から結婚を反対されたり(ただし,その女性とは昭和42年に結婚した。),また,文化大革命時には,戦争犯罪人の子供として壁新聞に書かれたり,思想教育を強制されるなどした。
  このように,原告○○は,日本人であるが故に苦労していたことから,可能であれば,日本に帰りたいとの気持ちを持っていた。もっとも,大切に育ててくれた養父母の気持ちを考え,具体的に行動に移すことはなかった。
  ところが,原告○○の養父母から,また文化大革命のようなことがあったら,危険が及ぶかもしれないから,日本に帰国できるのなら方法を探そうと言われ,原告○○は,昭和51年ころ,養母の知り合いの残留婦人に頼んで,厚生省に肉親捜しを依頼する手紙を託した。
  他方,原告○○の叔母も,日本国内において,厚生省に対し,原告○○の所在を捜すように依頼しており,昭和52年ころには,原告○○のことを自分の肉親ではないかと厚生省に対して申し出た。その後,原告○○は,昭和55年ころから,叔母と直接手紙のやり取りをするようになり,昭和56年1月,厚生省に電話をかけ,1日も早く訪日調査団の一員に加えるよう要請した。そうしたところ,昭和57年2月,訪日調査に参加することになり,叔母と対面することができた(乙210の1・2)。
  原告○○は,訪日調査の後,中国に戻り,家族らと話し合った後,永住帰国を決意し,叔母に身元保証人となってもらった上,昭和59年7月6日,家族5人で永住帰国した。

(3)原告○○は,埼玉県所沢市の定着促進センターに4か月間入所し,日本語の勉強をしたが,それだけでは日本語を習得することができなかった。その後,原告○○は,兵庫県尼崎市の県営住宅に移り住んだが,そこでは日本語を学習する機会が与えられなかった。
  原告○○は,1年ほど生活保護を受け,昭和60年ころ,就労先を見つけ働いたが,日本語ができなかったため,1年足らずで辞めざるを得なくなった。その後,原告○○は,転職をしながら,平成14年に定年を迎えるまで,何とか働き続け,平成13年ころには,何とか167万円を工面して国民年金の保険料を追納した。現在,夫婦あわせて月額12万円ほどの年金を受給して生活しているが,夫婦二人の生活には足らず,アルバイトを探しては働き,家計の足しにして生活している。

26 原告番号26・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和16年7月1日,兵庫県豊岡市で生まれた後,両親とともに,第6次龍爪開拓団の一員として満州に渡った。
  原告○○は,終戦後,逃避行をして奉天市の収容所(春日小学校)にたどり着いたが,そこで実母を亡くし,収容所に養子を探しに来た養母に引き取られることとなった。

(2)原告○○は,幼いころから「小日本」といじめられ,職場でも差別を受けることがあり,周囲に日本人であると認識されていた。
  原告○○は,昭和53年,勤務先の工場に来ていた小松製作所所属の日本人に会ってから,日本へ行って肉親捜しをしたいとはっきり思うようになっており,昭和54年,工場に来ていた日本人に肉親捜しを依頼したところ,昭和55年には,同人が情報を持ってきてくれるなどした。しかしながら,身元が判明することはなかった。原告○○は,昭和56年,公安局外事課の役人が調査に来たため,正式に肉親捜しを依頼し,その後,厚生省に何通も手紙を送るなどした結果,昭和59年2月に訪日調査に参加することができ,そこで肉親が判明した。
  原告○○は,昭和61年9月,家族4人で一時帰国し,長男がそのまま日本に残ることを希望したため,長男は日本で生活することになったが,原告○○自身は,中国での生活が安定していたこともあって,永住帰国に踏み切れないでいた。しかし,日本に残った長男が心配であったこともあり,後に永住帰国することにし,当初は従兄が永住帰国に賛成してくれなかったが,後に従兄を説得することができ,昭和62年12月4日,永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後定着促進センターで4か月の日本語教育を受けた後,昭和63年4月に兵庫県営住宅に移り住み,その後兵庫県帰国者自立センター日本語教室(自立研修センター)で2年間,週5日間,1日2時間の日本語教育を受けたが,それだけでは,ごく簡単な会話のみしか修得することはできなかった。
  原告○○は,独力で日本語修得のための努力を重ねてきたため,日常会話として,聞いたり話したりすることは何とかできるようになったが,十分に表現する能力を有するには至っていない。
  原告○○は,中国で針灸師,リハビリ技師として働いていたことから,帰国後も針灸の資格を取りたいと考えたが,資格を取得するためには3年間の学費が約300万円もかかると知り,断念した。原告○○は,夫とともに,昭和63年4月から生活保護を受給して生活している。

27 原告番号27・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和20年9月ころ,中国遼寧省安東市(現丹東市)の日本人の神社に捨てられていたところを養父に拾われ養育されることになった。拾われたとき,渦巻模様の薄い布団にくるまれ,同じ柄の和服を着ていた。推定の生年月日は,昭和19年1月26日である。養家は,父,母,長兄,次兄,姉がいたが,養母は,原告○○が引き取られてから1年後に死亡した。

(2)原告○○は,8歳のころに近所の人に日本人であると教えられ,小学校でも「小日本鬼子」と呼ばれていじめられ,養親はもちろん,近所の人々も原告○○が日本人であることを知っていた。そして,原告○○は,自分が日本人であるのではないかと感じていたが,17歳のころに,養父に自分が日本人の孤児であることを教えられ,確信するに至った。
  原告○○は,日本に帰国して肉親を捜したい気持ちを漠然と持っていたが,日中国交正常化後,残留孤児の調査のため中国公安局の職員が自宅を訪れたとき養父が怒って追い返したことがあった。原告○○は,養父のこのような対応を見て,帰国すると養父を悲しませることになると考えており,帰国の決意を固めることはできなかった。
  その後,養父が昭和53年に病死し,長兄が昭和54年に死亡した。
  原告○○は,昭和58年ころには,残留孤児に関する情報を得るようになり,帰国して肉親を捜したい気持ちが強くなって,中国政府に対し,日本人孤児であることの認定をするよう申請し,昭和60年8月,その認定を受け,さらには訪日調査の申込みをした。
  原告○○は,昭和62年3月,訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。
  原告○○は,昭和63年に,厚生省から送られてきた書類に記入して永住帰国の申請をし,平成元年11月4日,夫,次男及び次女とともに永住帰国を果たした。原告○○は,長男と長女も連れて帰国したかったが,長男と長女は結婚していたため,帰国旅費の支給を受けられず,かなわなかった。長女は平成3年に,長女は平成4年に自費で日本に来て生活することになった。

(3)原告○○は,帰国後,福岡の定着促進センターで4か月間日本語教育を受けたが,あいさつ程度ができるようになっただけであった。その後1年間,自立研修センターで日本語を勉強したが,日本語を習得することはできなかった。現在においても,日常会話は全くできず,日本語のニュースを見ても,何を話しているか分からず,読み書きもほとんどできない状態である。
  原告○○は,帰国後就職することができず,夫は,パートで掃除夫の仕事をみつけたが,それも月額4万ないし6万円程度の収入であったから,生活保護を受給しながら生活している。そして,夫は,平成15年には無職となり,その後職を見つけられないままである。
  家具は,ほとんどが粗大ごみの日に拾ってきたもので,生活保護を受給している身では,中国への帰国もままならず,重い更年期障害を抱えた状態で,近隣住民ともほとんど交流することなく,狭い部屋で生活をする毎日を送っている。

28 原告番号28・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和7年9月13日,長野県下伊那郡で生まれた後,第6次東安省南五道闇長野村開拓団の一員として,実父,実母,弟とともに4人で満州に渡り,黒竜省密山で暮らした。原告○○は,終戦当時,小学校6年生(12歳)であったが,開拓団の人々とソ連の攻撃を避けるため逃げる途中,ソ連軍に捕まり,藩陽の収容所へ送られ,収容所内で両親及び弟の一人を亡くし,別の弟と二人となった後,中国人に養子として引き取られた。

(2)原告○○は,養父母に引き取られたころから,日本人であることを理由に周りの者から石を投げられたり悪口を言われたりした。
  原告○○は,昭和28年ころ,中国公安局の職員から日本へ帰国したいか否かについての調査を受けたことがあったが,そのときは,日本に知り合いもいなかったことから,日本に帰国したいとは思わなかった。
  原告○○は,昭和47年の日中国交正常化後,近所に住んでいた残留孤児や残留婦人と交流を始め,日本へ帰国するためにはどうすればいいのかを調査した。そして,残留婦人から,日本へ里帰りする方法があることを教えられ,日本へ帰国する者に,自分の身内を捜してくれるよう依頼していた。その結果,昭和50年には,原告○○の親戚に消息が伝わり,昭和51年9月,日本へ一時帰国することができた。原告○○は,養母が生存していたこともあって,一時帰国したときには永住帰国を決断することができなかったものの,昭和58年に,養母が死亡したことを機に,永住帰国する決意を固めた。そして,原告○○は,永住帰国するため,日本にいる親戚に身元保証人となってもらうことや帰国のための手続を依頼したが,帰国を反対され,協力を得ることができなかった。原告○○は,同じ開拓団にいたことがあり既に帰国していた残留孤児の原告○○(原告番号48)と連絡を取って,身元保証人となる日本人を紹介してもらい,平成2年9月19日,長男家族とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,以上のような経緯でようやく永住帰国できたものであり,仮に,原告○○が永住帰国の意思を固めた昭和58年の時点で,政府が身元保証などを求めずに帰国を認める取扱いをしていれば,帰国手続にかかる期間を考慮しても,遅くとも昭和59年6月には永住帰国できていたはずであった。
  原告○○は,永住帰国後,兵庫県尼崎市に居住し,兵庫伊丹市にあった自立研修センターに1年間通って日本語の勉強をした。原告○○は,この勉強の結果,少しは日本語を分かるようにはなったが,日本社会において一人で自立して生きていけるだけの日本語能力は取得することができなかった。
  原告○○は,平成6年12月ころ,持病の腰痛が悪化したことから就労できない状態になり,平成7年2月22日から生活保護を受給するようになった。平成9年ころからは,シルバー人材センターで週3,4回,公園掃除のアルバイトをしながら月額2万円ほどの収入を得ているが,それも生活保護費から差し引かれている。現在,わずかの年金とアルバイト収入では生活していくことは困難であり,生活保護を受給して生活している。

29 原告番号29・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和15年11月22日,牡丹江において生まれた。原告○○の実父は陸軍に所属しており,昭和20年8月にソ連が侵攻し,原告○○の家族は逃げる必要に迫られたが,実父は一緒に行くことができず,実母と子供らだけで逃げることになった。その道中,幼い妹が亡くなり,吉林の収容所において実母が亡くなった。原告○○は,一人取り残され,泣きながら収容所近くの中国人の家を訪れたところ,その中国人の仲介で養父母に引き取られた。

(2)原告○○は,養父母に引き取られたころから,周囲から「小日本」と罵られた。そして,昭和33年から陶器工場に就職し,平成2年に定年退職するまで同工場で働き続けたが,日本人であるため,昇進や昇級で不利な扱いを受けた。
  原告○○は,昭和47年に日中国交正常化を知ると,喜びがこみ上げ,肉親を早く見つけ,日本に帰ることを切望したが,自分の名前も知らず,肉親の名前や住所も分からなかったため,どのようにして肉親を捜し帰国すれば良いのか分からなかった。
  原告○○は,昭和53年の終わりころ,知り合いの残留婦人が日本に一時帰国することを知り,この機会を逃してはならないと考え,自らの記憶の限りをしたためた手紙と自分の写真を残留婦人に託したところ,その残留婦人は,同月,厚生省に送付してくれた。
  そして,昭和55年1月,公開調査がされ,原告○○の写真と手紙が日本において放映されると,それを見た石川県在住の叔父夫婦が原告○○に気づき,これがきっかけとなって,原告○○の身元が判明した。
  原告○○は,昭和56年9月,一時帰国し,3か月ほどした日本に滞在した後,中国に戻った。原告○○は,そのころ,日本に永住帰国したい気持ちもあったが,妻の両親が中国にいたことから踏み切れなかった。
  原告○○は,平成元年10月,かつて実父と同じ軍隊の部隊に属していた京都在住の成田某(以下「成田」という。)の招待に応じ,2度目の一時帰国を果たし,すぐにでも永住帰国したい気持ちが高まり,中国に戻った後は妻の両親の了解を得た上,永住帰国に向けて準備を進めた。
  原告○○は,永住帰国するには身元保証人が必要であると聞かされており,身元保証人を探す必要に迫られたが,1度目の一時帰国に協力してくれた叔父は既に死亡し,他に協力してくれるような親族は見当たらなかったから,平成元年10月,成田に手紙を出して協力を要請したところ(甲個29の5の1),成田に身元保証人を手配してもらうことができた。そこで,原告○○は,厚生省に対し,永住帰国を申請したが,厚生省は,親族が手続をしなければならないし,第三者が身元保証人になる場合でも,親族の永住帰国に対する同意が必要であるなどとして,永住帰国を認めなかった(甲個29の5の3の1・2,29の5の5)。
  原告○○は,永住帰国するにはどのような手続が必要か理解できず,困惑し,平成3年2月には,成田に対し,「帰国手続きについて,どの点が間違ってい居るのか,私達には,どうしても理解出来なくて困って居ります。難しい手続きが必要とは思いませんでした」「日本政府の指摘される,私の親族は誰でしょうか。私達の事情が理解出来ても,帰国に必要な手続をしてもらへるでしょうか」などと記した手紙を送付した(甲個29の5の4の1・2)。
  このように,原告○○は,親族の協力を得ることができなかったため,帰国できない状況におかれ続けたが,最終的には,原告○○の周囲にあった民間ボランティアたちの尽力により,ようやく親族の同意を得ることができ,原告○○は,平成4年4月8日,永住帰国することができた(甲個29の5の6)。
  原告○○の永住帰国に至る経過は上記のとおりであり,もし,身元保証なしに永住帰国できる取扱いがされていれば,帰国手続に必要な期間を見込んでも,遅くとも,永住帰国を希望するに至った平成元年10月から半年後の平成2年4月には永住帰国が実現していたはずであった。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて4か月の日本語教育を受けたが,それだけで日本語を習得することはできず,その後,兵庫県伊丹市の県営住宅に居住し,伊丹ユネスコ日本語教室(自立研修センター)に2年間通って勉強したが,やはり日本語を習得するには至らなかった。
  原告○○は,帰国後,自立指導員や市役所の担当者から何度も「仕事に就くように」と言われたが,日本語ができないことに加え,病気を抱えていたために,職に就くことはできず,帰国後,現在に至るまで生活保護を受給して生活をしている。

30 原告番号30・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和11年11月21日,神戸市で生まれた後,家族とともに吉林省教化開拓団の一員として満州に渡った。原告○○は,終戦直後,家族とともに教化開拓団を離れ,昭和20年11月ころには長春難民収容所に収容されたが,そこでは伝染病が蔓延しており,弟一人と妹が死亡した。その後,原告○○は,両親と弟とともに奉天まで行ったが,弟は死亡し,実母は,原告○○に対し「ひろこ,ひろこ,この方と一緒に暮らすように。あんたひとりだけでも命を助けてもらってね。そうしないとあんたも死んでしまうよ」と諭し,原告○○は,その中国人に連れられていき,そこで生活することになった。その後,実母は死亡した。実父は,その1か月後,日本に引き揚げる前に,養父母宅を訪ねたが,自分一人生きるのが精一杯で,原告○○を連れて帰れる状況にはなかったため,いったん帰国して,また連れに戻ってくると言って別れた。

(2)原告○○は,小さいころから自分が日本人であることを知っており,周囲の者にも日本人であると認識されていた。そして,中国政府の公安局の職員が原告○○の学校まで調査に来ることもあった。
  原告○○は,昭和28年ころ,日本人が帰国するのを見て,自分も帰りたい気持ちになったが,子供であったため,どうしようもなかった。
  原告○○は,昭和50年ころ,中国に来たボランティアの日本人から,残留孤児であれば日本に一時帰国できると教えてもらい,日本大使館に対し,自分の氏名や実父の名前の一部を書いた手紙を送付した。また,友人が帰国するときに,手紙を預け,厚生省に送付してもらった。そうしたところ,実父の所在が明らかになり,昭和54年10月,一時帰国を果たした。
  原告○○は,実父と再会し,永住帰国したい気持ちになったが,中国にいる養父の世話をしなければならないことや,中国における医師としての安定した生活のことを考えると,永住帰国に踏み切れず,中国に戻った。
  その後,養父が死亡し,原告○○は,ますます永住帰国したい気持ちになったが,帰国後の生活がどのようなものか分からず,また日本に帰国してもかえって実父に迷惑をかけることになるとも考え,永住帰国するための具体的な行動には出なかった。
  原告○○は,その後,実父の世話をしたいとの思いが強くなり,すべてを失ってもかまわないと意を決して永住帰国を決意し,昭和59年2月,大連市の公安局に手続を申請し,永住帰国の意思を表明したが,帰国の条件として被告から安定した収入のある親族の身元保証を要求され,夫の身元保証人を探すことに苦労し,すぐには帰国できず,義理の弟に身元保証人になってもらい,昭和59年11月16日,永住帰国することができた。
  原告○○は,比較的速やかに身元保証人を確保することができたが,それでも,身元保証なしに永住帰国できる取扱いがされていれば,帰国手続に必要な期間を見込んでも,遅くとも,永住帰国を希望するに至った昭和59年2月から半年後の昭和59年8月には永住帰国が実現していたはずであった。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて4か月の日本語教育を受け,その後昭和60年4月から,兵庫県神崎郡にある実父の住居で暮らした後,同年7月に神戸市の県営住宅に転居した。そして,昭和60年4月から,約1年間,神戸市にある海外同友会開講の日本語教室で日本語教育を受けたが,そこでは,日本語を十分に学習することができず,独学により勉強することになった。原告○○は,懸命に日本語を勉強したこともあって,現在,日常会話ができるまでになったが,電話での会話は困難であるなど,日本語を自由に操るまでには至っていない。
  原告○○は,帰国後,昭和60年から昭和63年までは生活保護を受けたが,自立した生活を送りたいという思いから,日本語が不自由なまま肉体労働に従事し,昭和64(平成元)年からは,生活保護を受けなくなった。原告○○は,給与の低い仕事にしか就くことができず,中国では医師であったため,それを活かした職業に就きたいとの気持ちがあったが,日本で針灸師の資格を取るには改めて針灸の学校で3年間勉強する必要があり,そのためには,数百万円の学費がかかるため,あきらめざるを得なかった。平成3年から平成7年2月までは,何とか兵庫県明石市内の病院において,電気治療の補佐の仕事に従事することができたが,実父の看病のため退職した。
  実父は,平成7年3月に死亡し,原告○○は,平成11年から,夫が始めた貿易会社を手伝い生活をしている。
  原告○○は,現在,夫とともに,月額40万ないし50万円の収入を得て生活をしている。

31 原告番号31・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和17年9月13日に生まれた。原告○○の父は職業軍人で,原告○○の家族は,通化市に居住していた。原告○○は,昭和21年2月に通化市において日本人軍人組織の暴動事件が起きた際,両親と生き別れ,実父から託された通訳によって養父母に預けられた。

(2)原告○○は,近所の子供に「小日本鬼子」と言われていじめられることがあり,文化大革命中の昭和44年には,「政治審査」として,日本人であるから昇職できないとされ,昇進の機会を失った。
  原告○○は,昭和60年ころ,中国公安局から残留孤児捜しが行われると聞き,そこで初めて帰国する方法があることを知り,手続を進め,昭和61年9月,訪日調査に参加することができた。しかし,訪日調査では,身元が判明しなかった。
  原告○○は,訪日調査の際,永住帰国を希望しないとの意思を表明したが(乙214の1),中国に戻った後,日本に帰国したい気持ちが強くなり,中国において,日本人であることが発覚してからは昇進の途が絶たれ,子供たちの将来にも不安を感じたことから,平成元年,永住帰国を決意し,厚生省に永住帰国を申請し,同年12月8日,家族6人で永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後,大阪の定着促進センターで4か月間の日本語教育を受け,その後兵庫県明石市に居住した後は,神戸市にある自立研修センターで18か月間日本語学習を受けたが,それも十分であるとは感じられず,現在でも,読み書きも会話も満足にできない。
  原告○○は,平成2年7月,交通事故に遭って膝を痛めたが,日本語ができなかったためうやむやにされ,正当な賠償を受けられず,悔しい思いをした。そして,事故による身体の障害があり,日本語もできないため,就職できないままであり,帰国後から現在まで,生活保護を受給して生活している。
  原告○○は,中国に墓参りに行くこともままならず,家で中国のテレビ番組を見る毎日を送り,近隣住民や地域社会との交流も全く持てないでいる。

32 原告番号32・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和20年12月6日ころ生まれ,丹東市六道口の日本人難民収容所において,生後3日くらいの状態で養母に引き取られた。原告○○の実母は,「この子は生まれたばかりだけれど,私は乳が出ないし病気なので,この子を育てられません。あなたたちに差し上げます。そうすれば,この子にも生き延びる道ができます。お願いします」といって,養母に原告○○を預けたのであった。

(2)原告○○は,自分が日本人であることを知らずに生活を送っていたが,昭和55年になって突然,丹東市の公安局の役人が原告○○の身元調査に訪れ,日本人であることを知らされた。   原告○○は,平成2年に養父が死亡した後,養母から,引き取られたときの事情や自分が日本人であることを聞き,そこで日本に帰国したい気持ちが芽生えた。そして,平成2年5月,厚生省に対し,肉親捜しの申請をし,さらに同年7月,中国丹東市公安局及び日本大使館に対しても肉親捜しの申請をした。原告○○は,平成3年8月26日付けで,丹東市公安局から,残留孤児証明書の送付を受け,その後,厚生省に訪日調査を申し込んだところ,平成3年,訪日調査団に参加することができた。   訪日調査では身元が判明しなかったが,自分が日本人であり,祖国との絆を感じて永住帰国することにし,平成3年12月10日,永住帰国の申請をし,平成4年8月7日,妻と長男とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,平成4年11月末まで定着促進センターにおいて生活し,その後,現住所地に移り住み,平成5年1月から自立研修センターで8か月間日本語教育を受ける予定であったが,同年4月に体調を崩して入院することになり,日本語の勉強を中断した。原告○○は,退院後,日本語の勉強の再開をしてもらいたいと申し出たが,断られたため,それ以降,日本語教育を受けることはできなかった。原告○○は,現在でも日本語をほとんど話すことができず,読み書きもできない。   原告○○は,帰国後のストレス等から,平成5年以降,腸閉塞,胃がんの手術をし,胃を全摘出されてしまったため,一度も就職をすることができなかった。それにもかかわらず,自立指導員や生活保護のケースワーカーからは,早く就職して自立しなさいと責められ,つらい思いをした。   原告○○は,定着促進センター退所後から,生活保護を受給し,妻と二人で県営住宅で暮らしている。以前,妻が,生活費が少ないために2年間清掃のアルバイトをしたことがあったが,そのアルバイトで稼いだ収入を市役所に届け出ていなかったため,その分の生活保護費の返還を求められ,現在でも,分割して毎月1万5000円を返還している。   原告○○は,現在,粗大ごみを拾ったり,安い食料を買いだめしたりして節約し,中国語のテレビを見たり孫の相手をしたりしながら,家に閉じこもる生活をしている。

33 原告番号33・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和7年11月1日,樺太で生まれた。
  原告○○の実父は,岐阜県出身であったが,軍関係の商売をしていた関係で,家族を連れ満州へ渡ったが,昭和19年12月に病死した。
  原告○○は,昭和20年8月,ソ連軍から逃げるため,身を隠しながら牡丹江に向かったが,その逃避行の途中,原告○○の家族は,実母が病死し,さらに弟と妹も次々と死亡し,原告○○と妹一人の二人だけが生き残り,それぞれ養父母の下に引き取られた。

(2)原告○○は,終戦時12歳となっていたから,日本人であるとの認識はもちろん,家族構成や家族との離別,出身地などについてはっきりとした記憶を有しており,周囲にも日本人であると知られていた。そして,日本人であるとの理由で種々の差別や苦労を受けたため,日本へ帰国したいとの気持ちを常に持っていたが,どうすることもできなかった。
  原告○○は,昭和48年,近所に住む残留婦人が一時帰国した際,原告中井の消息を岐阜県庁に知らせてくれたことから,親族と連絡を取ることができ,昭和50年10月に一時帰国した。滞在期間は6か月と決められていたので,6か月滞在した後,昭和51年4月に中国に戻った。
  原告○○は,中国に戻った後,持病の高血圧のためには日本で治療する必要があると考え,夫の反対を押し切り,永住帰国することにし,昭和54年,厚生省に永住帰国を申請したが,1年以上連絡が来なかったため,国費での帰国をあきらめ,日本にいる知人に身元保証人になってもらった上,昭和55年11月25日,次男とともに自費で帰国した。その後,三男一家が昭和61年に,長女一家と原告○○の夫が平成5年に来日した。
(3)原告○○は,帰国後,岐阜県の県営住宅に居住することになったが,日本語教育を受ける機会は与えられなかった。また,自費で帰国したため,自立支度金や雑費の給付を受けることもできなかった。また,原告○○が居住した近辺に,公的な日本語教室がなかったため,日本語教育を受ける機会もなかった。
  原告○○は,帰国後,昭和57年から平成2年まで岐阜県内で仕事をし,月額5万ないし10万円ほどの収入を得ていたが,後に兵庫県明石市に住む三男の看病をすることになり,同市で三男と同居して生活した。その後,三男の家を出てから,中国から呼び寄せた長男や長女と同居し,平成7年3月からは,一人暮らしをしている。原告○○は,一人暮らしをするようになって以後,生活保護を受給して生活をしている。

34 原告番号34・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和12年,長野県で生まれ,昭和18年に家族とともに,開拓団の一員として中国へ渡り,黒竜江省において生活をしていた。しかし,原告○○の家族は,ソ連参戦後,他の開拓団員とともにソ連の収容所に収容され,実父死亡後(実父は自殺しようとした後,自ら依頼して上司に射殺された。),兄弟とともに中国人に預けられた。実母は,その2,3日後,収容所において病死した。

(2)原告○○は,中国人に預けられた後,労働力とみなされて複数の養父母先を転々とし,一日中働かされる生活をすることになった。原告○○は,小学校に行くこともなく,働き続けた。また,幼いころから自分が日本人であるとうっすらと記憶していたが,周囲から日本人であると明確に指摘されることはほとんどなかった。
  ところが,原告○○は,昭和54年ころ,息子を幼稚園に迎えに行ったとき,幼稚園の先生がその息子のことを「日本息子」となじっているのを聞き,自分が日本人であることを確信し,日本にいる肉親に会いたいと思うようになり,最初にもらわれていった養父の下を訪ねて事情を聞いたところ,原告長井と血のつながりがある女の子が同じ村の家にもらわれていったかもしれないと教えてもらった。原告○○がその家を訪ねると,2番目の姉が住んでおり,すぐにお互いのことを認識することができた。
  2番目の姉は,長野県に住む3番目の姉と連絡を取っていたことから,原告○○も連絡を取ることができ,一時帰国することになって,死亡宣告を取り消した上で,昭和57年1月,2番目の姉とともに一時帰国を果たした。
  原告○○は,一時帰国後,日本で生活したいと強く思うようになったが,中国での生活を捨てて帰国することに躊躇を覚え,すぐに永住帰国をしようとまでは思うに至らず,平成2年ころになってようやく決断し,平成2年12月6日,永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後,大阪の定着促進センターに入所し,4か月間日本語教育を受けたが,ほとんど日本語が上達することはなく,あいさつができるようになっただけであった。その後,兵庫県明石市の県営住宅で生活することになり,その後2年間,同市から授業料や交通費の補助を受けて2年間日本語教室に通ったが,思うように話せるようにはならず,授業料等の補助が打ち切られたことから,通うことを止めた。
  原告○○は,市役所の担当者から自立するよう催促され,仕事をすることになったが,既に54歳になっており,日本語も不自由であったから,過酷な低賃金労働に従事するしかなく,いったん働いたものの,あまりに過酷で体が持たず,半年ほどで仕事を辞め,その後は生活保護を受けて生活している。

35 原告番号35・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和18年ころ生まれ,昭和20年11月ころ,訥河県三道街で一人泣いていたところを養父に拾われ,養父母に育てられることになった。原告○○は,拾われたとき,その着衣の中に実父母の日本人であることが分かる手紙や写真が入っていたが,養母が後に原告○○が日本人であることを知られるのをおそれ,すべて燃やしてしまった。

(2)原告○○は,幼いころから自分が日本人であるということをうっすらと感じていたが,17歳のころに共青団に入団しようとした際,入団調査において,日本人であることを明確に認識することになった。また,文化大革命の時代には,日本人であるが故に,職場の工場の前で頭を下げ,蹴られたりするなどつらい思いをし,また日中関係が悪化するたびに,身分調査を受けてきた。
  ところが,原告○○の下に,昭和49年,瀋陽市公安局の職員が訪ねてきて,肉親調査の申請をするよう勧められた。原告○○は,日本に帰りたい気持ちもあったが,養父を中国に残していくことはできないと考え,帰国を思いとどまり,申請をしなかった。
  原告○○は,昭和61年,子供が成長するにつれ,その将来を考えるようになり,このまま中国にいて文化大革命のようなことが再び起きれば,子供たちが大変に目に遭うかもしれないと考え,子供たちを連れて日本に帰国した方がよいと考えるに至り,身元調査を申請をした。そして,昭和63年に訪日調査に参加し,そこで名乗り出た男性と親子関係にあると思われ,そのように信じたまま中国に戻った。しかしながら,平成元年に再来日したときに血液鑑定をしたところ,その男性とは親子関係にないことが判明し,失望して中国に戻った。
  原告○○は,身元は判明しなかったものの,やはり日本に帰りたいと思うようになり,平成2年12月,夫と四男とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,大阪の定着促進センターで4か月間日本語教育を受け,平成3年に兵庫県伊丹市の県営住宅に居住するようになってから,同市内において数か月間,ユネスコ日本語教室(自立研修センター)に通ったが,実際の生活に役立つほどの日本語を学ぶことはできなかった。
  原告○○は,帰国後,平成3年に就職し,平成7年まで,転職するなどして勤務したが,その間,言葉が通じないことや習慣の相違などから誤解が生じ,解雇されることもあった。
  原告○○は,平成7年からは,仕事を見つけることができず,生活保護を受給して生活するようになって,現在に至っている。

36 原告番号36・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和17年4月10日,岡山県で生まれた。原告○○の実父は公医で,昭和12年ころ,原告○○の実母とともに満州に渡った後,実母が原告○○を身ごもると,家族全員で一時帰国し,原告○○が生まれた後すぐ満州に戻り,昭和20年8月まで興安東省巴彦に居住していた。
  ところが,昭和20年8月,ソ連軍が侵攻すると,原告○○の家族は家を追われ,嫩江の収容所に連行されたが,実母がチフスに罹ったことが知られると,家族は,収容所を追い出された。
  原告○○の家族は,追い出された後,着るものも食べるものも乏しい過酷な環境におかれ,実母は死亡し,原告○○の弟,姉は,生き延びるため,相次いで中国人に引き取られた。原告○○は,昭和21年9月ころ,実父と兄に連れられ,嫩江からチチハルへ船で移動したが,その途中,実父が川へ転落して溺れ死んだ。原告○○と兄は,チチハルの収容所に到着後,実父の知人であった西川氏に守られながら引揚げを待って暮らしていたが,原告○○は,両足ともに凍傷にかかり,ストーブで大火傷を負う事故に遭ったため,とても日本に連れて帰ってもらえる状況になく,昭和22年3月ころ,やむなく養父母に預けられることとなった。

(2)養父母は,原告○○を中国人の子供として届け出たが,周囲には,日本人であると認識されていた。そして,幼いころは「小日本鬼子」と言っていじめられた。
  原告○○は,昭和33年ころから働き,職場では日本人であることも知られておらず,まじめに働いていたため,労働組合の組長を任せられるほど認められていたが,昭和38年の政治運動の際,日本人であることが知られると,仕事がしづらくなり,労働組合の組長も辞めさせられた。そして,文化大革命の時代には,監禁され,思想改造を受けるなどの迫害を受けた。
  原告○○は,日本人であるが故につらい思いをし,祖国である日本を愛していたから,日本へ帰りたいと思い続けていたが,具体的な帰国の方法が分からず,行動をとることができないままであった。また,日中国交正常化時には既に養父母が高齢となっており,原告○○は,養父母を中国に残して帰国することはできないと考えていた。
  しかし,原告○○は,昭和53年,養母が亡くなると,自らの気持ちを抑えきれず,養父に対し,養父が亡くなったときには日本へ帰りたいと告白したところ,養父は,原告○○の気持ちを汲み,自らの死を待つことなく帰りたければ帰るよう勧めた。原告○○は,養父の気持ちに感謝し,昭和53年8月24日付けで,日本大使館に肉親捜しを求める手紙を出した。それから1年余り経過した後,岡山の役場に原告○○の手紙が届き,親族と連絡を取ることができた。原告○○は,これを契機に永住帰国のための手続を進め,兵庫県尼崎市に住む兄に家族3人の身元保証人になってもらった上,昭和55年10月28日,永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後,まずは1か月間,兄宅で居候をすることになった。また,当時は,定着促進センターがなかったため,そこでの日本語教育を受けることができず,国からは,カセットテープの配布を受けただけであった。
  原告○○は,帰国後5か月間は,生活保護を受給していたが,昭和56年の年明けから,兄が紹介してくれた鉄工所で働きはじめ,その給与で生活をすることになった。原告○○は,日曜祝日も働き,倹約のため1時間近くかけて自転車で通勤し,睡眠時間をわずか2,3時間しかとらずに働き続けた。ところが,昭和60年,働いていた鉄工所が倒産し,しかも知らないうちに保証人となっていることが判明するというつらい目に遭い,家庭が破局状態になる時期もあった。
  原告○○は,突然負うことになった借金の返済のため必死で働いたが,言葉が不自由なために,職場でいじめを受けたり,不利益な扱いを受けた。
  原告○○は,現在,月額16万円ほどの収入を得て何とか生活を維持しているが,帰国後働きづめであったため,日本語を学習する機会がなく,日本語が不自由なままで,仕事を探したり病院にいくときには,妻や子に同伴していってもらわなければならない状態にある。また,原告○○は,歩道に横たわっていた古タイヤを持ち帰ろうとしたときに窃盗扱いされ,日本語ができないため説明したり反論することができず,一晩中身柄を拘束される目にあうなどつらい経験を有している。

37 原告番号37・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和17年に生まれたとされる。そして,昭和21年ころ,黒竜江省手員寧安県東京城付近の日本軍の官舎で,死人が積み上げられていた中,一人取り残されていたところを通りかかった行商人の老人と若い女性に拾われた。その後,子供のいない家庭に引き取られることを繰り返した。

(2)原告○○は,4歳ころ,現在の養父母に引き取られた後は,黒竜江省寧安県東京城付近に居住することになった。原告○○は,周囲に日本人であると認識されており,小学校に行くようになってからは「小日本」「小日本鬼子」といっていじめられた。
  原告○○自身も,自分が日本人であることを知っていたが,幼いころに肉親とは死別しており,日本には知っている人もいないため,帰国しようと考えることはなかった。
  ところが,昭和60年に,公安局外事課の職員が原告○○を訪れ,日本に行って肉親を捜すことを勧めた。原告○○は,その勧めに従って手続をし,昭和61年2月,訪日調査に参加し,2週間ほど日本に滞在した。もっとも,訪日調査では身元が判明しなかった。
  その後,原告○○の下に,厚生省から,2度にわたり日本に帰国することを勧める手紙と手続書類が送付され,原告○○は,永住帰国することを現実のものとして検討し始め,昭和63年10月5日,夫,四女及び長男とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,埼玉県所沢市の定着促進センターにおいて日本語の教育を受けた後,神戸市に居住し,2年間,兵庫県福祉センター(自立研修センター)において日本語の教育を受けた。しかし,そこでの日本語教育は,日本語で記載されたプリントを声に出して読むだけという,余りに稚拙なものであり,身につくものではなかった。
  原告○○は,日本語を覚えようと,毎日テレビのドラマでの会話を聞き,少しずつ日本語を覚えた結果,現在では,日本語を大体理解できるまでになっている。しかし,近所の日本人と交流することはできず,寂しい思いをしている。また,家庭では,夫は中国語だけしか分からず,子供たちは主に中国語を話し,孫たちは,日本語しか分からない状態であり,家族同士で意思疎通するのに苦労する状況にある。
  原告○○は,職業安定所に行くなどして仕事を探す努力をしたが,日本語がうまくできないことから見つけることができず,帰国後,就労したことはない。夫は,2年間の日本語学習の後,清掃のアルバイトを始め,その後転職するなどしたが,言葉ができないことから長続きせず,給料も月額6万ないし7万円くらいしか得ることができていない。
  そのため,原告○○は,神戸市に居住するようになった平成元年2月から現在まで生活保護を受給して生活している。

38 原告番号38・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和13年4月9日,宮崎県東臼杵郡で生まれ,昭和19年初めころ,祖父,両親,兄二人,姉二人及び弟とともに宮崎開拓団の一員として満州に渡った。終戦前に,祖父は日本に帰り,長男は兵隊にとられた。
  原告○○は,昭和20年11月ころ,宮崎開拓団の人々とともに逃避行の末那吉屯にある収容所にたどり着いた。原告○○の家族は,収容所において,原告○○の次兄がアルバイトをして稼いだお金で食料を調達し生活をしていたが,食料不足による飢えと伝染病のため,次々と亡くなり,原告○○と次兄以外はみな死亡した。
  原告○○は,収容所の過酷な生活のため,ガリガリに痩せ病気になって寝込んでいたが,次兄が収容所を訪れていた蒙古人に原告○○の病気を治してくれるよう頼み,蒙古人は,原告○○を治療のために連れ出した後,自分のいとこである養父に預けた。その後,原告○○は,養父母に育てられることになった。
  原告○○の次兄は,原告○○を預けた後しばらくしてから日本へ帰国した。

(2)原告○○は,養父母に引き取られた後,8歳から13歳くらいまで,仕事の手伝いをさせられ,13歳のころから,ようやく小学校に行かせてもらえることになった。
  原告○○は,小学校では「小日本人鬼子」などといっていじめられた。原告藤本は,自分が日本人であることは,幼少時から認識しており,いやなことがあるときは,日本の田舎などの風景を思い出し,日本に帰りたいと漠然と思っていた。もっとも,具体的に帰国に向けた行動をとることはなかった。
  ところが,原告○○は,昭和54年ころ,妻の兄から日本へ帰国することができるとの話を聞き,北京の日本大使館へ肉親調査の依頼をする手紙を送付した。また,昭和55年秋ころには,厚生省援護局に対し,自分の知り得る限りの情報を知らせたが,連絡がなかった。
  原告○○は,昭和55年末ころ,知人から,日本で居住する赤松氏の住所を聞き,手紙を送って肉親捜しを依頼したところ,赤松氏が原告○○のことを新聞に載せてくれ,それを見た角田氏が,ボランティアで肉親捜しをしてくれ,次兄らしい者を捜してくれた。原告○○は,昭和56年6月ころから,その次兄らしい者と手紙のやり取りをし,お互いの記憶をつき合わせていくうちに,本当に次兄であることが明確になり,原告○○の身元が明らかになった。
  そして,原告○○は,昭和57年12月に一時帰国し,半年間次兄の下で滞在した後,昭和58年5月,中国に戻った。原告○○は,中国に戻った後,すぐに永住帰国することを決意し,家族に相談したところ,賛成を得ることができたから,永住帰国のための手続を進めることにし,次兄に永住帰国したい旨伝え,身元保証を頼んだが,次兄は反対し,身元保証人になることも拒んだ。その後,原告○○は,次兄に頼むのはあきらめ,他の親戚に当たったところ,叔父の娘に身元保証人になってもらうことができ,昭和60年7月,ようやく永住帰国することできた。
  原告○○が帰国した経緯は以上のとおりであり,もし,身元保証なしに永住帰国できる取扱いがされていれば,帰国手続に必要な期間を見込んでも,遅くとも,永住帰国を希望するに至った昭和58年5月から半年後の昭和58年11月には永住帰国が実現していたはずであった。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,所沢の定着促進センターに入所し,日本語を学習した後,兵庫県尼崎市の県営住宅に居住し,そこから1年間,大阪の帰国者センターに通って日本語の勉強した。もっとも,それらの教育では日本語を習得することはできなかった。現在でも,日常会話くらいしか日本語をすることができず,新聞や雑誌を読むのは難しいし,病院に行っても医師との意思疎通が困難な状態である。
  原告○○は,昭和62年ころから1年間,職業訓練学校に通って塗装を学んだ後,塗装会社に就職し,平成15年に定年退職するまで勤務し続けた。
  原告○○は,現在,月額約9万円の年金と月額5万ないし6万円の妻のパート収入で生計を維持している。

39 原告番号39・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和13年1月20日に生まれ,昭和19年秋ころ,両親ではない男女に満州に連れていかれ,満州の日本人開拓村で日本人小学校に通っていた。その後,終戦前後に,大人たちとともに逃げたが,昭和20年9月末ころ,中国人に預けられ,養家を転々とした後,現在の養父母に育てられることになった。

(2)原告○○は,預けられた先で殴られたり,食事を与えられなかったりといった虐待を受けた。
  原告○○は,昭和28年ころ,政府の指示を受けた村長の来訪を受け,日本人は帰国できると聞かされたことがあり,帰国を希望したが帰国には至らず,国交正常化後も帰国を希望していたが,その術を知らなかった。
  原告○○は,昭和56年3月ころ,同じく残留孤児である○○○○(以下「○○」という。と知り合って付き合いを始め,昭和56年5月以降,○○の勧めに従い,厚生省に手紙を3通出したが返事がなく,同年10月,牡丹江市訪問中の日本代表団に会いに行ったが,残留孤児であることの証明書がないとして,受け付けてもらえなかった。
  原告○○は,昭和58年ころ,公安局に残留孤児であることの証明書を発行してもらい,厚生省に送ったところ,昭和60年11月,訪日調査に参加することができた。もっとも,身元は判明しなかった。
  原告○○は,訪日調査後,永住帰国したいと考えるようになり,昭和62年5月に養父が亡くなったのを機に厚生省に永住帰国の申請をしたところ,平成元年冬になって,永住帰国の日時の知らせを受けることができ,平成2年4月10日,永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後,大阪の定着促進センターにおいて4か月の日本語教育を受け,その後8か月,伊丹市文化センター(自立研修センター)で日本語の教育を受けたが,それらの教育では日本語能力を身につけることはできなかった。その間,生活保護を受給していたが,平成3年7月に残留孤児に理解のあった帝国化成に就職することができ,平成10年に定年退職するまで勤務を続けた。
  原告○○は,定年退職後も仕事を探したが,日本語ができないことと高齢であることから,就職先は見つからず,しばらく失業給付を受給した後,生活保護を受給して生活することになった。
  また,原告○○は,子供たちの協力を得て年金保険料を追納し,現在,厚生年金を2か月で9万7899円,大阪薬業年金組合年金を2か月で2万1517円受給しているが,それだけでは生活できないので生活保護を受給している。

40 原告番号40・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和20年8月21日ころ,内蒙古の牙克石駅の水タンクの下に置き去りにされていたのを養父の友人に発見され,養父母に預けられた。
  原告○○は,そのとき,へその緒がついた生まれたばかりの赤ん坊であった。

(2)原告○○は,幼少時から近所の子供に「小日本」と言ってからかわれることがあり,周囲の者に日本人であると認識されていた。また,原告○○は,養母から自分が日本人であることを知らされた7,8歳ころ以降,自分が日本人であると認識していた。また,原告○○は,共産党に入党申込みをしたとき,日本人であるという理由から党員になることを拒まれた。そして,文化大革命が始まると,職場を変えさせられ,山の現場で仕事をさせられることになり,養父は「日本鬼子」と書かれた紙を貼られたまま,引き回され,監獄に収容されるなどし,つらい思いをした。
  原告○○は,日本へ帰国することなど想像もしていなかったが,昭和55年に公安局の職員による訪問調査を受け,それを機に日本大使館に連絡をしたところ,日本大使館から手紙が届いた。また,原告○○は,養母から肉親調査に参加するよう勧められたことから,肉親調査を希望し,その申請をしたが,中国政府は,昭和63年に至るまで,原告○○を残留孤児であるとの認定をしなかったので,なかなか訪日調査に参加することができなかった(乙220の1)。
  原告○○は,昭和63年6月,訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。その後,永住帰国したいと思うようになり,家族に相談したところ,同意を得ることができ,平成2年4月,子供一人とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後大阪の定着促進センターにおいて,4か月の日本語教育を受けた後,身元引受人の紹介で,兵庫県篠山市に居住することになった。そして,伊丹市内のユネスコ日本語教室(自立研修センター)で3か月間日本語教育を受けたが,日本語を身につけることはできなかった。
  原告○○は,その後ゴルフティー製造の仕事に就き,その後も転職するなどして仕事を続けたが,日本語が不十分なせいもあってか,立ち仕事で男ばかりの職場しか見つからず,やがて腰を痛めて働くことができなくなり,それから現在まで生活保護を受給して生活している。

41 原告番号41・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和20年10月ころ,撫順市内において,男性により「子供はいらないですか」と声をかけられた養父に引き取られた(養父によれば,そのとき生後8か月であった。)。原告○○の生年月日は,後の就籍手続では昭和19年6月25日とされた。

(2)原告○○は,養父母に引き取られた後,撫順市で生活していたが,周囲の中国人からは日本人として扱われて,養母から虐待を受けることがあり,ときには「日本人お化け」と罵られることもあった。原告○○は,2番目の養父母のところに引き取られた後,結婚した。
  原告○○は,昭和25年ころには,最初の養父から日本人であることを教えられ,漠然と日本に帰りたいと考えていたところ,昭和49年,近所に住む残留婦人から厚生省に手紙を送れば良いと教えてもらい,その教えに従い厚生省に対し,何度も肉親調査を依頼する手紙を送り続けた。
  原告○○は,昭和54年,中国に残留していた実母とされる前田静枝と会うことができ,昭和56年3月,訪日調査に参加し,親族と会うことができた。そして,昭和57年2月,親族に身元保証人となってもらって永住帰国した。
  原告○○は,その後2年間,生活保護を受給して生活したが,その間,親族との関係が悪化したために,昭和59年5月,中国にいったん戻って生活することにした。ところが,中国に戻ると原告○○らが住む家はなくなっており,夫とともに夫の実家に身を寄せ,暮らしていたが,中国に戻ってから半年経ったころ,再度日本に永住帰国することにした。ところが,中国に戻るときに身元保証人となると約束してくれていた知人に,身元保証人になるよう求めたところ,原告○○の親族から断るよう言われたため,なってもらうことができず,昭和60年夏に,他の知人に頼んでようやく身元保証人になってもらうことができ,昭和61年5月,再度の永住帰国を果たした。
  以上のとおり,原告○○は,昭和59年11月には再度の永住帰国をしようと決めていたのであり,仮に,身元保証なしに永住帰国できる取扱いがされていれば,帰国手続に必要な期間を見込んでも,遅くとも,再度の永住帰国を希望するに至った昭和59年11月から半年後の昭和60年5月には永住帰国が実現していたはずであった。

(3)原告○○は,昭和57年に一度目の帰国を果たしたとき,日本語教育のための施策がなかったため,海外同友会開講の日本語教室で6か月間日本語の教育を受けたが,授業内容は「あいうえお」などの基本的なものにとどまり,また短期間でもあったために,ほとんど日本語を話せるようにはならなかった。また,昭和61年5月に帰国した際も,海外同友会開講の日本語教室で3か月くらい教育を受けたが,あまり役に立たなかった。
  原告○○は,2回目の帰国を果たした後,就職しようと職業安定所に通ったが,中国人に仕事を紹介するのは難しいと言われ,自力で就職先を探すことになった。帰国後2年間は,生活保護を受給していたが,早く自立しようと思い,友人の紹介で就職してからは,職を転々としながら働き,現在は時給800円の臨時工として就業している。以前勤めた会社では,中国人に対する差別が激しく,そのストレスから脳梗塞を発症したこともあった。
  原告○○は,現在,就労により生計を立てているが,蓄えもなく,仕事を辞めれば生活保護を受給して生活せざるを得ないと考えている。

42 原告番号42・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和14年4月23日,鹿児島県大島郡で生まれ,昭和19年9月末ころ,実父母及び弟とともに大羅密開拓団の一員として,方正県の東方に位置する山の麓にある村に移住した。
  原告○○は,終戦後,外の開拓団員とともに,ハルビンに向かうことになったが,途中,尖山の近くにある九班というところでソ連軍に行く手を阻まれ移動することができなくなり,弟が昭和20年9月,実父が同年10月,飢えと寒さのために死亡した。生き残った原告○○と実母は,そこで偶然出会った中国人の大地主の家で生活することになり,実母は,家政婦のように働いたが,絶えずいじめを受け,精神的にも肉体的にも追いつめられた末,昭和21年2月ころ自殺した。その結果,原告○○は,6歳にして孤児となった。

(2)原告○○は,その後,養家を転々とし,それぞれの家で仕事の手伝いをさせられ,昭和26年,12歳になってようやく小学校に入学し,5年間通って卒業した。原告○○は,小学校1年生のころ,学校に公安局が来て日本人の子供として調査を受けたことがあった。
  原告○○は,小学校卒業後に就職してから真面目に働いていたが,ことあるごとに「小日本」と侮蔑された。原告○○は,幼少のころから自分が日本人であることは分かっていたが,家族とは死別し,自分の故郷や日本名,家族の名前も忘れていたため,中国で暮らしていくしかないと考えていた。
  ところが,原告○○は,昭和53年ころになって,親族が自分を捜しているという情報に接し,それを機に日本在住の叔父と連絡がとれるようになり,昭和55年に一時帰国して親族が住む鹿児島県名瀬市で滞在し,親族から親切にしてもらった。
  原告○○は,この経験から永住帰国することを決意し,昭和58年6月に永住帰国することができた。

(3)原告○○は,帰国後,故郷の鹿児島県名瀬市で親族の援助を受けながらアルバイトをするなどし,帰国後約3年間,同市の公民館で,1日約2時間,週に5日間,日本語を教えてもらったが,現実には中国帰国者同士が中国語で話をするばかりで日本語を習得することはできなかった。
  原告○○は,自立した生活を送りたいと思い,日本語が不自由なままに肉体労働に従事したが,賃金差別を受けることもあった。同市がある奄美大島では,子供にとって良い就職先がなかったので,昭和62年に兵庫県尼崎市に転居したが,原告○○自身は,就職先がみつからず,生活保護を受給して生活することになり,現在に至るまで生活保護を受給している。

43 原告番号43・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和10年5月26日,鹿児島県の奄美大島で生まれ,昭和16年に,実父母,兄,弟である原告番号44・原告○○(以下「原告○○」という。),姉3人とともに開拓団の一員として,三江省方正県伊漢通に移住した。その後,実父と兄は,昭和19年6月に軍隊に召集され,後にシベリアに抑留された。原告○○は,昭和21年秋ころまで,実母,弟である原告○○,姉3人とともに養牛場で働いていたが,雇主は,原告○○らが食事を多く食べるのを嫌がり,食事を与えないようにしたため,実母は原告和廣らが育ちざかりであるのに十分栄養が採れないことを心配し,原告○○,原告○○を養子に出した。

(2)原告○○は,養子に出されたころ,日本語しか話せなかったが,次第に日本語を忘れ,中国語のみを話すようになった。原告○○は,養家では,毎日,養牛業に従事するほか,家の手伝いをさせられていたため,学校にも通わせてもらえず,中国語での読み書きを学ぶ機会もなかった。
  原告○○は,自分が日本人であることを知っており,日中国交正常化のころから具体的に日本に帰りたいと思うようになっていた。そして,自分の戸籍が日本にあるはずだと思い,昭和48年ころ,本籍地である鹿児島県に,弟の原告○○とともに,身元を照会したところ,昭和49年,鹿児島県から返答があり,本籍などの身元が判明した。そして,シベリアから帰国し,兵庫県尼崎市に居住していた実兄と連絡を取ることができ,昭和51年8月,実兄を頼って永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後1年間,乳牛の放牧場や奈良の製作所で仕事をし,昭和52年から平成5年まで豊中市立病院で清掃員として働き,月額10万円程度の給与を得ていたが,健康上の問題を抱え,その後生活保護を受給して生活している。原告○○は,帰国後,日本語教育を受けたことはなく,現在でも日本語は話せないままである。

44 原告番号44・原告○○
(1)原告○○は,昭和14年1月20日,奄美大島で生まれ,昭和16年に,実父母,長兄,次兄(原告○○),姉3人とともに,開拓団の一員として三江省方正県伊漢通に移住した。その後,実父と長兄が昭和19年6月に軍隊に召集され,原告○○は,昭和21年秋ころまで,実母,原告○○,姉3人とともに養牛場で働いていたが,後に養子に出された。

(2)原告○○は,昭和24年,10歳のときに小学校に入学したが,小学校では,「小日本鬼子」と言われていじめられた。その後,昭和33年から後に永住帰国するまで,醸造工場で働き続けたが,その職場でも「日本鬼子」と呼ばれ,いじめられることがあった。そして,文化大革命の時代には,日本人であるため集会や催物には参加させてもらえなかった。
  原告○○は,自分が日本人であることを知っており,昭和48年ころは,具体的に日本に帰りたいと考えていたが,次兄である原告○○とともに,鹿児島県に身元を照会したところ,昭和49年に,鹿児島県から返答があり,身元が判明した。
  その後,原告○○は,兵庫県尼崎市に居住していた長兄を頼って,昭和51年12月7日,妻と4人の子供とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国した後,家族で兵庫県尼崎市内の市営住宅で生活するようになったが,国から日本語教育を受けたことはない。
  原告○○は,帰国後6か月間,ボランティアが開設している日本語学校に通い,その後も独力で勉強を続け,職場等で日本語を使う努力をしてきた結果,日常会話程度の日本語は話すことができるようになったが,読むのは苦手である。
  原告○○は,帰国後,昭和53年まで生活保護を受給して生活した後,職業安定所で職を見つけることができ,昭和53年から平成10年に定年退職するまで,そこで働いた。給与は,当初は,月額13万円弱であったが,退職時は,月額20万円程度であった。妻も就職することができ,平成17年11月まで,清掃員として働いた。
  原告○○は,生活は安定していたが,決して楽なものではなく,長男が,中学卒業後,進学を希望した専門学校に,学費が高いためにあきらめさせたことがあり,悔しく思うことがあった。
  原告○○は,現在定年退職しているが,貯蓄はなく,月額12万円程度の年金を受給している。妻は,平成17年11月に定年退職したが,パート勤務であったことから退職金はなく,まだ職はみつかっていない。妻は,平成23年から,年金を月額4万ないし5万円受給できる予定であるが,それまでの生活は,収入が少なく,健康上の問題もあり,不安を抱えたまま生活を送っている。

45 原告番号45・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和18年7月28日に生まれた。原告○○の実母は,昭和20年秋ころ,ハルビン市内の飲食店を訪ねるなどして,当時2歳であった原告○○を中国人に引き取ってもらい,自身は病弱であったため,間もなく死亡した。

(2)原告○○は,5歳ころから,周囲の者に日本人であると言っていじめられるなどしたため,自分が日本人であると認識していた。そして,中学,高校において,成績が優秀であったため,大学への進学を希望したが,日本人であれば,審査が通らないだろうということで,進学はあきらめた。
  原告○○は,昭和57年ころ,叔母(養母の姉)の家にいったときに,その叔母の子供から原告○○が養父母に預けられたいきさつを聞き,日本に帰り,肉親を捜したいと思うようになったが,夫や子供の反対にあい,養父母の協力も得られずあきらめた。
  その後,原告○○は,夫の妹の夫である原告初田(原告番号1)が訪日調査に参加したことを知り,自分も訪日調査に参加しようと考え,日本大使館に聞いたり,公安局に相談して手続を進め,昭和61年10月,訪日調査に参加することができた。訪日調査では,身元が判明しなかったが,永住帰国を決意した。
  当時,身元未判明孤児については,身元引受人制度を利用すれば,身元保証人がなくても帰国することができたが,原告○○は,身元保証人がいないと帰国できないと聞かされていたから,永住帰国の手続を始める前に,いろいろな人に手紙を書いて身元保証人になってくれるよう依頼したがなかなかみつけることができなかった。その後,原告○○は,先に帰国した原告初田に紹介してもらって兵庫県伊丹市在住の日中友好協会の会長に身元保証人となってもらう約束を取り付けた上で帰国申請し,平成元年3月,ようやく永住帰国することができた。
  このように,原告○○は,帰国に際し,身元保証人が必要と考えていたため永住帰国が遅延したのであるが,もし,政府が,残留孤児は身元保証人なしに帰国できる旨の取扱いを徹底していれば,永住帰国を決意した昭和61年10月の半年後の昭和62年4月には帰国が実現できていたはずであった。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,定着促進センターで日本語教育を受けた後,兵庫県伊丹市に居住し,その後2年間,伊丹ユネスコ日本語教室(自立研修センター)において日本語の教育を受けたが,それだけでは満足に日本語を習得することができなかった。
  原告○○は,平成4年から清掃の仕事に就き,差別を受けながらも懸命に働いて,切り詰めた生活で自活してきたが,平成16年3月に高齢のため辞めざるを得なかった。また,原告○○の夫も平成10年にリストラされてしまい,その後の再就職も困難な状況にある。
  原告○○は,現在,夫婦あわせて月額7万円にも満たない年金しか受給していないが,仕事をしているときに切り詰めて夫名義でかけ続け,仕事を辞めてからは息子が代わって掛金を払い込んでくれている生命保険があるため,生活保護を受けることもできず,現在,息子から月額5万円の援助を受けながら,何とか生活を維持している。

46 原告番号46・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和19年8月20日,吉林省吉林市で生まれた。原告○○の両親は,昭和13年ころ,実父の仕事のために満州に渡っていた。実父は,終戦直前に徴兵された後,帰ってこず,実母は,終戦後,幼子3人を抱え途方に暮れた末,しばらくの間だけ預かってもらうつもりで,病弱だった原告○○を養父母に預けた。
  その後,実母は,日本に引き揚げることになり,原告○○を連れて帰ろうと養父母の下を訪ねたが,養父母は,家の門を閉めて会わせないようにしてこれを拒んだため,実母は,原告○○を置いて帰国するほかなかった。

(2)養父母は,原告○○に日本人であることを知らせず,周囲の者にも言わせないようにしていたため,原告○○は,自分が日本人であるとは知らずに育った。
  しかしながら,原告○○は,幼いころに「小日本人鬼」と呼ばれたことがあり,うすうす日本人ではないかと考えていた。そして,就職してからは,職場でも重要なポストに就くことができず,共産党に入党することができなかったことなどから,自分が日本人であるとの思いが高まっていった。
  原告○○は,昭和51年ころ,養父に自分が日本人であるか尋ねたところ,そうであると教えてもらった。原告○○は,肉親を捜したい気持ちになり,昭和51年には,日本大使館に手紙を送り,日中友好手をつなぐ会に手紙を出すなどした。
  そうしたところ,原告○○は,日中友好手をつなぐ会から,昭和55年,肉親捜しのためには,まず中国政府に孤児証明書を出してもらうことが必要だと教えてもらい,公安局で孤児証明書を発行してもらった上,昭和56年3月,第1次訪日調査に参加することになった。そして,訪日調査において,実母と会うことができ,身元が判明した。

(3)原告○○は,昭和56年4月から6か月間,実母と会うために一時帰国した。そのとき,永住帰国したい気持ちもあったが,相次いで病に倒れた養父母の看病をする必要があったため,中国に戻った。そして,養父母を看取った後の昭和62年12月8日,妻と二人の子供とともに永住帰国した。
  原告○○は,帰国後4か月間,大阪の定着促進センターで日本語教育を受けた後,兵庫県明石市に居住し,昭和63年5月から同年11月に就職するまで,自立研修センターで日本語教育を受けた。しかし,日本語を十分に習得することのないまま就職したため,それ以降,日本語教育を受けることができず,現在でも,簡単なあいさつができる程度の日本語しか身につけられていない。
  原告○○は,昭和63年から平成16年8月に定年退職するまで,中国で従事していた旋盤の技術を生かした職に就くことができ,定年退職後も低賃金ではあるが再雇用され,現在も働いている。就職した当初の給与は,月額約16万円であったが,退職時には,月額約34万ないし35万円であり,再雇用後は,その6割程度の賃金を得ている。そのため,現在は,安定した生活を送っているが,将来受け取ることができる年金は,月額7万ないし8万円程度であるとされているから,今就いている職を失った後の生活には,不安を抱えている。

47 原告番号47・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和16年に生まれたとされる。原告○○は,昭和20年8月13日,日本人男性により,わずかばかりの食料と手紙とともに養父母宅に置かれ,養父母に引き取られて育てられることになった。原告○○は,その当時,日本語を話し,日本人の習慣である正座をしていたが,養父母は,日本人であることが知られないよう,日本語を話したり,正座をすることをさせないようにしていた。

(2)原告○○の養父母は,原告○○が日本人であることを知らせずに育て,原告○○は,自分は中国人であると思って育った。
  そして,養父母は,原告○○に,日本人であることを教えないまま死亡してしまったが,原告○○の養姉が,平成9年9月ころ,危篤状態になったときに原告○○を呼び,原告○○が日本人の子であり,養父母に引き取られた事情について教え,さらにそれら事情を知っている者として,幼いころに過ごした黒竜江省林口県古城村に住む者の名前を挙げ,確認しにいくよう説得した。そこで,原告○○は,その説得に応じ,平成9年暮れころ,古城村に確認しにいったところ,養姉が挙げた者に会うことができ,養親に引き取られた状況を聞きだすことができた。さらに,平成10年ころ,再度古城村を訪ねて調査したときに,種痘の跡を確認すれば日本人であることが分かると教えられ,確認してみると,日本人特有の種痘の跡があることが判明し,自分が日本人であることを確信するに至った。
  原告○○は,自分が日本人であることを知り,日本に行き実親と会ってみたい気持ちになり,平成9年11月,厚生省に手紙を出し,訪日調査の参加を希望するなどしたところ,平成11年11月に訪日調査に参加することになった。
  訪日調査では,実姉らしい日本人と会うことはできたが,確定的に肉親であるとの判断をするまでには至らず,身元未判明であるということで,中国に戻った。
  原告○○は,中国に戻った後すぐには,永住帰国しようとは考えなかったが,後に永住帰国を決意し,夫や子供の賛成を得た上で,平成12年8月8日,夫と三女の家族とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,大阪の定着促進センターに入所したが,C型肝炎に罹患していることが判明し,その治療のために入院していたため,そこであまり日本語教育を受けることができなかった。その後もC型肝炎や白内障のため,日本語教育を受けることができず,また就労もできないまま,部屋に閉じこもり,生活保護を受給して生活をしている。

48 原告番号48・原告○○
(1)原告○○は,昭和10年12月1日,長野県で生まれ,昭和13年に家族や親族とともに,開拓団の一員として満州に渡った。
  原告○○は,昭和20年8月にソ連軍が侵攻したため,開拓団全員とともに集団で逃亡を始めたが,その間に家族を次々と失い,収容所で実母や兄弟と死別した後,収容所において厳しい生活を送っていたが,兄の助言に従って中国人に預けられ,中国人の養子として育てられることになった。

(2)原告○○は,養父母に引き取られた後,近所の人や小学校の同級生に「日本鬼子」「殺せ殺せ」などといじめられ続けた。原告○○は,このような経験を有していたこともあって,幼少のころから常に日本に帰りたいと考えており,結婚して中国で家庭をもった後も,日本に帰りたいという気持ちを持ち続けていた。
  原告○○は,日中国交正常化を知ると,昭和49年1月,肉親捜しの申請書を作成し,北京の日本大使館に提出したところ,1月も経たない間に,日本に帰っていた実兄の○○(以下「○○」という。から手紙が届き,手紙でやり取りをすることになった。○○は,原告○○に帰国することを勧め,原告○○は,昭和50年5月,3人の子供を連れて一時帰国を果たし,半年間(昭和50年11月まで)○○の居宅で生活をした。しかしながら,原告○○は,日本語を話せなかったこともあって,○○との交流がうまくいかず,永住帰国することは反対された。そして,中国に戻るときには「兄さんの顔も見たくない」というほど,関係は悪化していた。原告○○は,中国に戻った後も,永住帰国したい気持ちでおり,昭和58年には,借金をして自費で一時帰国した。そのとき,○○が永住帰国に協力してくれさえすれば,そのまま永住帰国するつもりであったが,反対されたため,かなわなかった。原告○○は,いったんは永住帰国をあきらめたが,先に永住帰国していた残留孤児から,家族が反対していても永住帰国することは可能であると聞き,その方法によることにした。そして,一時帰国中,有馬温泉にある旅館の寮で住み込みで働き,その旅館の支配人に身元保証人となってもらうことにし,いったん中国に戻った後,昭和60年5月20日,家族5人とともに永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後から昭和62年まで,有馬温泉の旅館で寮に住み込みで働き,日本語教育などの支援を受けることはなかった。旅館では,朝6時から夜の11時まで,休む間もなく働き続けた。昭和62年に体調を崩して退職し,昭和63年には,市営住宅へ引っ越した後,食肉工場で食肉を串に刺すパートに就いた。
  ところが,夫が平成5年3月,脳梗塞等で入院することになり,原告○○は,看病するために仕事を辞め,以後生活保護を受給して生活するようになり,現在に至っている。原告○○は,厚生年金を受給しているが,その分が生活保護費から引かれるため,収入は変わらない。
  原告○○は,仕事を辞めた後,自ら夜間中学や夜間高校に6年間自主的に通ったりして必死で学習した結果,日本語を習得し,現在は残留孤児や残留孤児二世に対する日本語ボランティアに従事している。

49 原告番号49・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和11年7月21日,神戸市長田区に生まれ,祖父母に養育されていたが,昭和19年3月ころ,黒竜江省孫呉県で武器製造工場で勤務していた実父に引き取られることになり,満州に渡った。原告○○は,昭和20年8月15日に終戦の玉音放送を聞いた後,逃げたが,途中実父と別れた後,継母とともにソ連の管理下にある日本人収容所に収容された後,瀋陽に送られた。
  原告○○の継母は,瀋陽において,原告○○を中国人に渡しお金を受け取り,「父と一緒に迎えに来る」と言って別れた。原告○○の継母は,原告本信を迎えに来ることなく,後に日本に帰国した。

(2)ア 原告○○は,中国人家庭に引き取られた後,2度目の養子にいくなどしたが,日本人であることを自覚しており,漠然と日本に帰りたいと考えていた。もっとも,養家では,日本人に対する印象は悪く,そのようなことを言い出せる雰囲気ではなかった。昭和33年に養母が亡くなって一人暮らしをするようになってからは,原告○○の帰国の意思は一層強くなった。
  原告○○は,昭和48年,石家荘市にいた日本人から,「日本と中国が国交を回復したのだから,日本大使館へ帰国の意思があることを申し出てはどうか」と言われ,日本大使館へ手紙を送った。しかし,日本大使館からは「少し待ってください。事情が分かったら連絡します」という返事が返ってくるだけで,他に情報提供はなかった。昭和50年にも,日本大使館に対し手紙を送ったが,連絡はなかった。その後,昭和51年に,実父から「早く帰ってこい」という内容の手紙が届き,昭和54年,一時帰国を果たした。原告○○は,実父の下で半年間を過ごした後,すぐに永住帰国できると思いながら中国に戻ると,実父が昭和55年に死亡した。

イ 原告○○は,実父死亡後,永住帰国することにし,昭和55年12月,日本大使館に対し,永住帰国を希望すること,そのための手続を尋ねる内容をしたためた手紙を送付した。その後も,日本大使館に手紙を何通も送付し,また何度も直接赴いたが,進展はみられず,身元保証人がいないために帰国できない状態が続いた。そうするうち,昭和60年になって,大使館員から,兵庫県民生部に身元保証を申請することを勧められ,それに従って兵庫県民生部に永住帰国の援助要請の手紙を何度も送付したが,兵庫県民生部援護課は,親族が身元引受けを拒否している,個人しか身元保証人となることはできないとの趣旨の手紙を約5年にわたり返信するばかりで,やはり帰国することができなかった。
  原告○○は,中国に戻った後の10年以上,どこに掛け合っても帰国できない状態が続いていたが,平成2年11月,日本大使館一等書記官から,春陽会という民間団体を利用して一時帰国することを勧められ,その勧めに従って一時帰国した。
  中国に戻った後,特別身元引受人の制度を利用して帰国を実現したい旨,大使館に手紙を送付したが,連絡はこなかった。
  原告○○は,平成4年6月,厚生省から,その本籍地である兵庫県福祉課に帰国の申請をすることを促す通知が送られてきたことから,最後の願いを込めて,兵庫県福祉課に対し,永住帰国申請の方法を尋ねる手紙を出したが,返事はなかった。

ウ 原告○○は,平成4年7月,春陽会の援助を受け,その会員の一人であるという人に身元保証人になってもらい,春陽会に旅費を立て替えてもらい,妻,長男及び次女とともに4人で帰国を実現させた(ただし,これは永住帰国ではない。)。ところが,帰国後,身元保証人は,原告○○らのパスポートを管理した上,家族共々コーンスターチ工場での重労働を強いた。原告○○と長男は,時給700円,妻と長女は時給600円の低賃金で働くこととなり,当時,長男は15歳,次女は18歳であったが,学校に行くことも許されなかった。原告○○の労働は,午前8時から午後5時半まで,24キロの袋を30袋を一度にトローリーに乗せて運搬するというもので,過酷なものであり,危険な仕事であるのに雇用保険にも入ってもらえなかった。しかし,原告○○は,「働くのを辞める」というと,身元保証人から「別の仕事は紹介しないし,保証人を辞める」などと言われるので,過酷な労働に耐えるしかなかった。
  原告○○は,次第に限界を感じ,中国に帰ろうとして,東京の定着促進センターに駆け込んだが,民間のルートで帰国したという理由で援助を受けることができず,結局,身元保証人から「他の仕事はないから,中国に帰れ」と言われ,平成5年9月,自費で再び中国へ戻った。

エ 原告○○は,中国に戻った後,平成5年から平成8年まで,日本大使館,厚生省及び兵庫県へ手紙を送り続けたが,兵庫県から,厚生省に手紙を出すように指導する手紙が1通届いただけであった。
  原告○○は,平成8年11月,厚生省から帰国旅費支給決定通知書が届くなどして,永住帰国がかなうこととなり,平成9年4月8日,妻と長男とともに永住帰国したが,このとき既に60歳になっていた。

オ このように,原告○○は,身元保証人が得られないために永住帰国することが大幅に遅れたのである。もし,身元保証なしに永住帰国できる取扱いがされていれば,帰国手続に必要な期間を見込んでも,遅くとも,永住帰国を希望するに至った昭和55年12月から半年経ったころ(昭和56年6月)には,永住帰国することができたはずであったが,原告○○は,身元保証を求められたため,実に14年近くも帰国が遅れたことになる。
  しかも,政府関係者は,身元保証人を要求した上,身近に身元保証人がいない原告○○に「春陽会」なる団体を紹介したため,結果的に,原告本信は,怪しげな身元保証人をあてがわれ,過酷な重労働を強制され,中国に逃げ帰らなければならなかったのである。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて,4か月の日本語教育を受けたが,そこでは全く日本語を身につけることはできなかった。その後,自立研修センターに1年間通い,日本語教育を受けたが,やはり日本語を習得することはできず,現在まで全くといってよいほど日本語を理解できない状況におかれ続けている。
  原告○○は,永住帰国時,既に身体を壊しており,稼働が困難な状態となっていたから,生活保護を受給せざるを得ない状況であり,帰国後から現在に至るまで生活保護を受給している。
  原告○○は,日本語が不自由で,近所との交流も皆無であり,県営住宅の当番も免除してもらい,行事などにも一切参加していない。

50 原告番号50・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和19年8月15日生まれたとされる。
  原告○○は,日本人集団でソ連軍から逃げていたが,昭和20年8月14日,東麻山付近でソ連軍の銃撃を受けて集団が全滅した中,風呂敷にくるまれた状態で一人生き残り,多数の死体の中にいたところを養父に拾われ,養父母の下で育てられることとなった。

(2)原告○○は,幼いころから,近所に住む者に日本人であることを知られており,「小日本」などと噂されていた。そして,原告○○は,昭和28年ころ,公安局によって日本人であるために写真を撮られたりして調査を受けた。また,昭和29年ころに小学校に入学してからは,周囲の者に「小日本」と言われ,いじめられていた。
  原告○○は,昭和34年に地元の人民公社に入り,後に永住帰国するまで,農業に従事して暮らしていたが,日本人であるために親しく接してくれる者はいなかった。原告○○が居住していた双竜村は,かつて日本人が中国人から強引に土地を奪って入植したことがあり,現地の人々の日本人に対する感情が著しく悪かったのである。また,原告○○は,文化大革命の時代,1か月ほど監禁され,思想教育を強制されるなどの迫害にもあった。
  このように,原告○○は,幼いころから日本人であるが故に差別を受けており,日本に帰国したい気持ちはあったが,具体的に帰国したり肉親捜しの方法があるとは知らず,帰国に向けた行動をとることはなかった。
  ところが,日中国交正常化後,原告○○は,同じ人民公社にいた残留孤児が日本に帰国したということを聞き,いてもたってもいられない気持ちになり,「何も肉親のことを覚えていないが,肉親捜しをすることはできますか」との手紙を何らかの機関に出したことがあったが,返信はなかった。
  それから年月が経ち,昭和60年ころになって,突然,公安局から肉親捜し(訪日調査)ができるとの手紙が届いた。原告○○は,この手紙に従い,厚生省に訪日調査を申請し,昭和61年10月,訪日調査に参加して一時帰国した。このとき,原告○○の身元は判明しなかったが,後に永住帰国を決意し,平成2年6月8日,永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後4か月,埼玉県所沢市の定着促進センターにおいて日本語教育を受けた後,兵庫県伊丹市に移り住み,9か月ほどの間,生活保護を受給しながら自立研修センターにおいて日本語教育を受けたが,日本語を習得することはできなかった。原告○○は,日本語を身につけてから仕事を探したいと考えていたが,自立指導員から強く自立を迫られ,また,中国に残してきた子供たちを呼び寄せるため,経済的に自立して身元保証人となる必要があったから,ともかく働くことにした。こうして,平成3年8月から,鉄の加工作業をする肉体労働に従事した。職場では,中国人とばかにされ,つらい思いをしたが我慢して働き続け,平成5年には次女夫婦と孫二人,平成6年には長女夫婦,三女夫婦と孫二人を呼び寄せることができた。しかし,平成13年に肝臓癌に罹患した後は働くことができなくなり,貯金を取り崩して生活したが,平成16年に入って,生活保護を受給して生活することになった。
  原告○○は,現在,得られる年金が夫婦あわせて月額5万ないし6万円にすぎないから,生活保護から脱却することが不可能な状態にある。

51 原告番号51・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和16年5月1日に生まれとされる。物心ついたときには,両親,三人の兄及び一人の姉とともに満州で暮らしていた。
  原告○○は,ソ連軍侵攻後,逃げる途中で実父を見失い,実母は銃撃され死亡した。その後,生き残った兄とともに逃げたが,途中で歩けなくなって牡丹江市林口県の線路の上に取り残され,そこで中国人に拾われ,養父母の下に引き取られ,そこで育てられることになった。

(2)原告○○は,ほとんど学校に行かせてもらえず,家の手伝いをして育ち,19歳のときに結婚した。
  原告○○は,自分が日本人であるかどうか,はっきり知らないまま育ったが,昭和28年ころ,公安局の職員が日本人を対象とした調査をしに来たことがあり,このとき,自分が日本人であることをはっきり認識するようになった。
  昭和56年,原告○○の下に,日本政府から,肉親捜しをしてよいという通知が届き,原告○○は,この通知を見て訪日調査の申込みをし,昭和60年9月,訪日調査に参加することができたが,身元が判明しなかった。原告柳瀬は,このとき,成人の子供を連れて永住帰国することはできないと聞いていたし,夫も家族がばらばらになることに強い抵抗を示していたため,永住帰国を決断することはできなかった。その後,原告○○は,永住帰国を決断し,平成3年6月6日,夫や上の子供を中国に残したまま,下の子供3人とともに永住帰国を果たした。夫は,平成5年6月に訪日し,同居することになった。

(3)原告○○は,帰国後,埼玉県所沢市の定着促進センターにおいて4か月の日本語教育を受けたが,そこでは日本語を身につけることはできなかった。その後,兵庫県宝塚市に移住してからは,日本語の教育を受けていない。そのため,ほとんど日本語が分からず,病院に行くことも躊躇するほどである。
  原告○○は,平成5年から平成7年まで清掃員として働いたが,言葉が話せないことから誤解が生じたり,自分のミスでなくともミスを押しつけられるなどの不利益な待遇を受け,最終的には解雇され,それ以後,職をみつけられていない。夫も日本語ができず,就職することができないため,生活保護を受給して生活している。

52 原告番号52・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和16年10月12日,兵庫県伊丹市で生まれた。原告○○の実父は,満蒙開拓青少年義勇軍の中隊長として嫩江県泥秋訓練所に所属しており,原告○○の実母と結婚した後,一緒に満州で生活していた。原告○○の実母は,原告○○を身ごもり,その出産のためいったん兵庫県伊丹市の実家に戻って原告○○を出産した後,再び満州に渡った。原告○○の家族は,昭和20年春ころ,東満総省宝清県へ転居し,その後実父は,現地で軍隊に応召され,本土防衛のため日本に戻った。
  残された家族は,昭和20年8月,ソ連軍の侵攻にともない,避難を開始したが,勃利県大茄子訓練所でソ連軍に囲まれ,原告○○の実母は他の女性たちとともに井戸に身を投げて集団自殺した。原告○○は,辛うじて逃げることができ,拉古の難民収容所に入所したが,そこではソ連軍に囲まれたまま,食べ物も乏しく,生死もおぼつかない生活を強いられた。原告○○は,そのような暮らしをしているとき,食べ物を探しに行った収容所近くの中国人の村で養父母の目にとまり,引き取られ,育てられることになった。

(2)原告○○が暮らし続けた拉古村では,周囲に日本人であると認識されていた。また,原告○○は,昭和21ないし22年ころ,公安局により,日本人を対象とした調査を受けた。なお,原告○○の戸口(戸籍)では,日本人であると記載されていた(甲個52の2)。
  原告○○は,幼いころから,日本人として生きてきたため,苦労が多く漠然と日本に帰りたいと思い続けてきた。
  そうしたところ,日中国交正常化した直後,公安局外事課の職員が原告○○の家を訪れ,「日本に帰りたいとか,手紙を出したいと思ったら自由にできるし,困ったことがあれば公安局に相談してよい」などと言った。しかし,原告○○は,このとき,どこに手紙を出してよいか分からなかったし,養父に帰国の意思を表明するのも憚られたことから,帰国に向けた行動はとらなかった。
  ところが,原告○○は,養父から帰国したいのなら帰国することを勧められ,具体的に帰国することを考えるようになった。そして,公安局の職員から,肉親捜しのためには日本大使館に手紙を出せばよいと教えてもらい,その教えに従い,日本大使館に何度も手紙を出し,訪日調査に参加することを待っていたところ,昭和59年11月,訪日調査に参加することになり,実父との再会を果たすことができ,一週間実父の下で暮らした。
  このとき,原告○○は,永住帰国するつもりでおり,実父にそのことを伝えたが,実父は経済的な負担に耐えられないと考え消極的な態度であり,身元保証人になってもらえなかなかったため,中国に戻ることになった。
  原告○○は,中国に戻った後も,実父に対し,永住帰国を希望することを手紙を書いて伝えたが,消極的な返事が来るばかりであった。
  原告○○は,実父に頼んでも埒が明かないと考え,第三者の身元保証によって帰国しようとし,日中友好手をつなぐ会の会員でもある知人に相談したが,実父がいる限りできないと言われた。また,厚生省に対し,年に1,2通は「日本人だから日本に帰りたい」などと永住帰国を希望する手紙を書き続けたが,返事は来なかった。
  原告○○は,平成元年ころ,厚生省の通訳が中国を訪れた際に相談したとき,出身県である兵庫県に依頼することを勧められ,藁にもすがる思いで兵庫県あてに手紙を書いたところ,平成元年の年末ころ,叔父(亡き母の弟)から,帰国手続を行う旨の手紙が届き,身元保証人になってもらい,平成2年3月9日,ようやく永住帰国を果たした。
  以上のとおりであって,身元保証なしに永住帰国できる取扱いがされていれば,原告○○は,訪日調査で一時帰国した昭和59年11月,そのままこれを永住帰国とすることもできたのに,その後平成2年3月9日まで永住帰国が妨げられたのである。

(3)原告○○は,帰国後4か月,愛知県の定着促進センターに入所して日本語教育を受け,その後,兵庫県に住むようになってからは,約11か月間,神戸市灘区の自立研修センターに通ったが,そこでは日本語の文章を日本語で読むだけで物足りないものであって,日本語を習得することはできなかった。
  原告○○は,平成3年6月,実父が見つけてくれた貨物機関車の清掃の職に就き,その後,肉体労働の仕事を転々としながら平成16年ころまで,懸命に働き続けてきたが,最後の勤め先が倒産し職を失ってからは,仕事を見つけられないまま現在に至っている。
  原告○○は,帰国後就いた職で得た給与では生活を維持することができなかったため,生活保護を受給していたが,平成10年4月に実父が亡くなったことに伴い,賃貸用マンションを相続してからは,生活保護を打ち切られた。賃貸用マンションの家賃収入は,ローンの支払と経費を差し引くとほとんど利益が出ないため,現在,月額2万9000円の厚生年金がほぼ唯一の収入源となっており,子供たちの援助を受けて生活している。

53 原告番号53・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和17年2月13日,遼寧省阜新市で生まれた。実父は,終戦時,既に亡くなっており,実母は,一人で4人の子供を育てるのが困難であると考え,原告○○を養父母に預けた。

(2)原告○○は,自分が中国人であると思って育ち,日本人としていじめられることもなかったが,小学校の時に日本人だと言われ,養父母にそのことを問いただしたことがあったが,養父母は日本人であることを否定した。
  原告○○は,昭和56年,養父が重病にかかったとき,養父から,初めて自分が日本人であることを告げられた。原告○○は,自分が日本人であることを知り,日本に対する興味を持つようになり,一度行ってみたいとの気持ちになったが,その術も分からないまま帰国に向けた行動をとることはなかった。
  そうしたところ,原告○○は,昭和61年になって,公安局から日本に帰国して肉親を捜すことを勧められ,これに応じ,書類を作成して公安局に渡した。その後,昭和63年に,日本大使館から調査票が送られてきて,これに記載して送付したところ,平成2年2月に訪日調査に参加し一時帰国することになった。原告○○の肉親は見つからず,身元は判明せず,中国に戻ったが,永住帰国をしたいと思い,養母の反対にあったものの,夫が面倒をみるといって説得し,平成4年2月15日,三女とともに永住帰国した。その後,同年11月に長男家族,平成8年8月に次女家族を日本に呼び寄せた。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,埼玉県所沢市の定着促進センターにおいて日本語教育を受け,兵庫県伊丹市に住むようになってからは,同市のユネスコ日本語教室(自立研修センター)に1年8か月ほど通ったが,日本語を習得するには至らなかった。現在でも,他人に道を聞くのに筆談をしなければならない程度の日本語能力しか有しておらず,病院にいっても,医師の話が理解できず,病状を説明するにも困難である。
  原告○○は,仕事をみつけることができず,帰国後現在に至るまで生活保護を受給している。

54 原告番号54・原告○○(以下「秀子」という。)
(1)原告○○は,昭和16年10月19日に生まれ,終戦後すぐに,実母とともに南台の難民収容所に収容されたが,しばらくして実母がいなくなり,孤児となったところを,養母に引き取られたが,その後,異なる養家に引き取られて育った。

(2)原告○○は,日本人であることからいじめられ叩かれたりしたため,小学校を1年で辞め,その後は学校教育を受けていない。そのため,中国語でも読み書きがほとんどできない状態である。
  原告○○は,幼いころから日本人であることは自覚していたが,生活が苦しく,その日の生活のことを考えるので精一杯であったから,日本に帰国することなど考えたことがなかった。ところが,日中国交正常化から相当に経過したとき,公安局の調査を受け,日本へ帰国することができることを知らされたことを契機として,訪日調査への参加を申し込んだ。そして,平成8年10月,訪日調査に参加したが,身元は判明せず,中国に戻った。それからしばらくしてから,永住帰国する途があることを聞き,永住帰国することにし,所定の手続を行い,平成10年4月9日,夫,長男夫妻とその子供とともに永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,大阪の定着促進センターにおいて,4か月間の日本語教育を受けたが,日本語を習得することはできなかった。その後,兵庫県伊丹市の県営住宅に住むようになってからは,日本語の教育を受ける機会はあったが,定着促進センターの職員から,原告○○のような高齢者では,教育を受けても無駄であると言われており,体調も思わしくなかったため,ほとんど教育を受けに行かなかった。
  原告○○は,仕事に就くこともできず,平成10年7月31日から現在まで生活保護を受けて生活をしている。
  原告○○は,日本語がほとんど話せないから,近所づきあいも全くなく,同居の夫以外に話す相手もいない寂しい生活を送っている。

55 原告番号55・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和17年9月29日に生まれたとされる。原告○○は,終戦前後のころ,実父母とともに逃げたが,途中で実父がいなくなり,実母と二人で逃げていた途中,長春市内の道ばたで一人取り残され,助けを呼んでいるところを中国人に助けてもらい,その中国人の知人の養父母に引き取られ,育てられることになった。

(2)原告○○は,養父母に引き取られたとき,日本語しか話せず,中国語に慣れるまで,2ないし3年ほどかかった。原告○○は,幼いころから「小日本鬼子」などといじめられ,文化大革命の際には,日本人を養子にしたとして,養父までが審査の対象になった。原告○○は,幼いころから,自分が日本人であると認識しており,実の父母のところへ行きたいと考えていたが,どうすれば良いか分からないまま過ごしていた。
  原告○○は,昭和61年に,同僚の甥が残留孤児で肉親捜しをしていると聞き,同人から肉親捜しの方法を教えてもらい,昭和61年8月ころ,日本大使館,北京公安局及び中日友好協会に手紙を送った。そうすると,原告山田の下に,昭和62年2月,公安局から手紙が送られてきて,書類を提出すればすぐにでも訪日調査に参加できるということであったので,原告○○はすぐに書類を提出したところ,昭和62年2月,訪日調査に参加することができたが,肉親は判明しなかった。
  原告○○は,昭和62年3月,日本政府から,永住帰国するための書類が郵送され,同月,その指示に従って書類を提出したが,手続に時間を費やし,平成元年8月8日になって,ようやく妻と長女とともに永住帰国することができた。

(3)原告○○は,帰国後3か月余りの間,大阪の定着促進センターで過ごし,その後は,兵庫県宝塚市の県営住宅に入居し,生活保護を受けながら,伊丹ユネスコ日本語学校で約1年10か月の日本語教育を受けたが,そこでの教育は,中国語を解さない教師が一方的に講義をする形式の授業で理解することが困難であったこともあり,日本語を十分習得することはできなかった。その後も,独学で日本語を勉強するための本を買って勉強したが,現在は,あいさつ程度しか話すことができず,テレビを見てもドラマや娯楽番組は理解できず,ニュースについて,映像と併せて一部が理解できる程度であり,日本語の雑誌を見ても理解できないほどの読解能力しかない。
  原告○○は,県営住宅に入居してから1年ほど経った平成2年12月ころから,兵庫県宝塚市の生活保護の担当者から,「早く仕事をしなさい」と言われるようになったため,日本語を学習したいという思いを抱きながらも,やむなく職を探すことになり,帰国者の友人らに訪ね回って,ようやく就職先を見つけた。ところが,2年後には,日本語が分からないことから人員削減として解雇され,その後非常に苦労して妻と同じゴルフ場の肉体労働の職に就くことができ,平成7年から懸命に働き続けてきた。現在,そこで月額約15万円の給与を得ている。
  原告○○は,国民年金の保険料追納の知らせを受け,全額を払い終えたが,現在は,月額1万円程度しか受給していない。

56 原告番号56・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和15年1月1日生まれたとされる。戦後,実父はソ連軍に殺され,原告○○は,チチハル市の収容所で実母と実兄二人とともに暮らしていたが,その収容所は,テントの中にゴザのようなものを敷いたような場所で,非常に寒く,食料も高梁や黄豆だけしかない悪環境であったため,原告○○の実母は,原告○○が生き残れるよう,養父母に引き取ってもらった。

(2)原告○○は,引き取られたときから,自分が日本人であることを認識していたが,周囲の者には余り知られておらず,学校では,日本人であることが理由でいじめられることはなかった。しかし,原告○○は,養母から,口癖のように「日本人だから」などと非難されていたし,日本人だといって中傷する者もいた。
  原告○○は,日中国交正常化後,日本に帰りたい気持ちもあったが,日本での生活に不安を抱えていたこともあり,現実的に帰国を考えるまでには至らなかった。ところが,原告○○は,昭和60年ころ,夫の職場の同僚から肉親調査の申請を勧められ,これをきっかけとして公安局外事課に肉親調査を申請したところ,昭和61年,訪日調査に参加することができたが,肉親は判明しなかった。
  原告○○は,訪日調査を終え中国に戻ってから,いつかは日本に帰りたいと思っていたが,養母に強く反対されたし,夫が喘息の持病を有しており日本で生活していけるか不安であったことから,永住帰国を決断できないまま悩み続けていたが,平成4年,子供たちがすべて結婚し,夫婦二人になったことを機に,帰国することを決意し,自分たちが居住していた家を養母にあげることにして,夫の年金で養母の介護者を手配した上で,永住帰国を申請し,平成5年6月11日,夫とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,定着促進センターにおいて日本語教育を受け,その後兵庫県宝塚市に居住してからは,2年間伊丹のユネスコ日本語教室(自立研修センター)に通い日本語教育を受けた。その結果,日本語の会話を聞き取ることや読むことはかなりできるようにはなったが,日常会話ができるほどにはならず,近所の人とうまく話せないでいる。
  原告○○は,日本語もできず,また,喘息の持病をもつ夫とともに帰国したことから,その看病の必要もあって,働くことができず,生活保護を受給して生活し,現在に至っている。

57 原告番号57・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和18年3月18日に生まれ,昭和21年春ころ,吉林省吉林市の小学校跡地の収容所に実母,姉,弟とともにいたところ,実母から養母に預けられ,養父母の下で育てられることになった。

(2)原告○○は,引き取られてから日本へ永住帰国に至るまで吉林省吉林市に居住していたが,子供のころから「小日本鬼子」などといじめられていた。しかし,原告○○自身は,自分が日本人であるとは思っていなかった。そして,原告○○は,高校での成績が優秀であったため,大学に進学できると考えていたが,日本人であったために,大学への入学を許可されない経験をし,ここで初めて自分が日本人であることを認識した。
  また,原告○○は,昭和36年から何度か中国共産党への入党を申請したが,なかなか入党を許可してもらえず,平成元年になって,ようやく入党を許可された。
  原告○○は,昭和56年,吉林省内の残留孤児が自発的に行っていた会合に参加するようになり,そこで一時帰国した残留孤児の話を聞き,親族の調査を厚生省に依頼できることを知り,厚生省に対し,身元調査を依頼する手紙を送付した。原告○○は,身元調査の依頼に対する返事がなかなかこなかったことから,その進捗状況を尋ねる手紙を何度も送り返事を待っていたところ,昭和60年2月,ようやく訪日調査団の一員として祖国日本の地を踏むことができたが,身元は判明しなかった。
  原告○○は,昭和61年,厚生省から日本へ帰国することを促す連絡を受けたが,このときには,帰国を決断できなかった。その後,平成2年に日本に帰国しても何とか生活できるだろうと考え帰国を決断し,平成3年3月7日,養母,妻及び子供二人とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後3か月半程度,福島県にあった定着促進センターにおいて日本語の教育を受け,その後,平成3年7月に神戸市垂水区に移り住んでからは,平成4年11月半ばまで神戸市灘区にあった海外同友会(自立研修センター)において日本語の授業を受けた。もっとも,その間,養母が中国に戻るのに同行したり,住宅を変更するための手続に忙しかったことから,日本語の学習を中断することがあったから,学習期間を延長するよう要請し,平成5年4月から平成6年1月まで,週3回,外大日本語教室に通って勉強した。原告○○は,これら学習によっても日本語を十分習得することはできず,現在でも簡単なあいさつしかできない。
  原告○○は,平成6年,ようやく日本語ができなくても支障のない清掃員の仕事に就いたが,平成7年1月に阪神大震災が起きたため,職を失った。その後,平成9年から再びアルバイトとして清掃員の職に就いたが,平成17年12月からは持病のため,就労できなくなった。
  原告○○は,仕事をしても生活保護を上回る収入を得ることができなかったため,帰国後から現在に至るまで生活保護を受給し続けている。

58 原告番号58・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和18年3月17日生まれたとされる。原告○○の実父は兵庫県淡路島の出身で,中国に渡って満鉄(奉天駅鉄道)で仕事をしていた。原告○○の実父は,満州において病死した後,原告実父の同僚が,原告○○とその妹を中国人夫婦に引き取るよう頼んだところ,養父母は,それを引き受け,原告○○は,養父母の下で育てられることになった。

(2)原告○○は,幼少のころから,「小日本」と呼ばれていじめられており,周囲に日本人であると認識されていた。原告○○は,養父母に問いただしたところ,自分が日本人であることを教えられ,自分が日本人であることを認識することになった。そして,原告○○が17,18歳のころ,公安局が日本人を対象とする調査のため訪れたことがあった。
  原告○○は,自分が日本人であることを知ったときから,一度は日本に行ってみたいと思っていたが,どうすれば日本に行けるのかは分からなかった。そうしたところ,昭和60年10月ころ,厚生省から肉親捜しを希望するのであれば写真を添えて調査票を提出するよう指示する手紙が届き,それに従って手紙を返送したところ,昭和61年6月,訪日調査に参加することができた。
  訪日調査においては,淡路島に住む○○○(以下「○○○」という。)が会いに来てくれ,血液検査の結果,○○○が原告○○の母方の叔父であることが判明し,原告○○の身元が判明した。○○○は,原告○○の帰国に協力してくれると言ってくれていたが,同年11月に死亡した。
  原告○○は,中国に戻った後,永住帰国を希望して必要な書類を日本に送付したが,○○○の妻から,永住帰国に協力できないとの連絡が届き,帰国できない状態が続いていた。
  原告○○は,平成2年11月までに,厚生省に対し,親族の協力が得られないが帰国させてほしいことを要請する手紙を出したが,返事は来なかった。原告○○は,その後,瀋陽にある日本領事館を訪れ,帰国するにはどうしたらよいか相談したところ,返事が来るまで手紙を出し続けるよう言われ,兵庫県福祉部援護福祉課に手紙を出し続けた。同課は,平成3年ないし平成5年7月に,原告○○の親族に対し,原告○○の帰国には親族の同意が必要であるとして,その意思を確認する手紙を何度か送付したが,同意を得ることができなかった。
  原告○○は,平成6年になって,厚生省から帰国してもよいとの連絡があり,平成6年8月12日,ようやく妻とともに永住帰国することができた。このように,原告○○は,訪日調査の後それほど時間を置かずして永住帰国を決意したのであり,身元保証なしに永住帰国できる取扱いがされていれば,帰国手続に必要な期間を見込んでも,原告○○は,どんなに遅くとも,昭和63年6月(訪日調査の2年後)には永住帰国できていたはずであった。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,大阪の定着促進センターにおいて日本語教育を受けた後,兵庫県姫路市に居住することになった。
  原告○○は,日本語ができないほか健康上の問題もあって,就職することができず,帰国後,現在に至るまで生活保護を受給して生活している。

59 原告番号59・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和14年11月27日,満州の東安省林口県龍爪開拓団伯龍竜郷において生まれた。原告○○の実父母は,もともと鳥取県で農業を営んでいたが,昭和12年ころ,満蒙開拓団の一員として満州へ渡った。
  原告○○の実父は,昭和20年2月ころ,軍隊に招集された。原告○○は,昭和20年8月にソ連軍が侵攻してきたとき,実母や兄らに連れられ,開拓団員とともに逃避行を始めたが,道中,集団からはぐれてしまい,奥深い山中を一人さまよい歩いているうち,小さな村にたどり着き,養父母に引き取られることとなった。

(2)原告○○は,周囲の者に日本人として認識されていたが,養父母が周囲に信頼され,尊敬されていたこともあって,特にひどいいじめに遭うことはなく育った。
  公安局の職員が,昭和36年,日本人を対象とした調査をするため原告○○を訪れたが,その際,原告○○に対し,「日本人のままだと国外退去になりかねない」と述べ,中華人民共和国に入籍(帰化)するよう勧めたため,原告○○は,仕方なく中華人民共和国に入籍した。
  原告○○は,いずれは必ず日本に帰るつもりでいたから,結婚するつもりもなく,独身でいたが,昭和42年5月,ある人から女一人で生きていくのは大変であるなどと言われ,その助言に従い結婚した。養父は,昭和37年に死亡し,養母は,昭和51年に死亡したが,養母は,死亡する直前,原告○○に対し,「日本の本当のお母さんがきっと捜しているはずだから,いつかは必ず日本に帰りなさい」と言って帰国を勧めた。
  原告○○は,このようなことがあったから,いつかは日本に帰国するつもりでいたが,具体的な方策は分からなかった。ところが,原告○○は,昭和59年7月ころ,訪中友好団の一員として林口を訪れていた人物に手紙を送ったところ,同人が原告○○の親族を捜し当ててくれ,1か月後日本にいた兄から手紙が届き,身元が判明した。
  原告○○は,この手紙を読み,すぐにでも一時帰国をしたい気持ちになったが,既に戦時死亡宣告により戸籍が抹消されていたため,まず戦時死亡宣告取消審判を受ける必要があり,それら手続を終え,昭和61年10月,一時帰国し,昭和62年8月まで約10か月間,日本に滞在した。原告○○は,一時帰国後もそのまま日本に永住したかったが,兄が身元保証人になることに同意せず,永住帰国に反対を続けたために,いったん中国に戻らざるを得なかった。そして,その後,鳥取県の福祉課と名和町生活課に,手紙で何度も永住帰国の希望を伝えたが,返事はなかなか帰ってこず,帰国を果たせない状況におかれたが,兄が後に身元保証人になってくれることになり,平成2年1月9日,永住帰国することができた。
  以上のとおりであって,身元保証なしに永住帰国できる取扱いがされていれば,原告○○は,訪日調査で一時帰国した昭和62年8月,そのままこれを永住帰国とすることもできたのに,その後平成2年1月9日まで永住帰国が妨げられたのである。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターへの入所を希望していたがかなわず,鳥取県で生活することになり,同県内には日本語学習のための機関がなかったため,日本語教育を受ける機会を得ることができなかった。
  原告○○は,帰国後2か月経った平成2年3月から,生活のため働くことを余儀なくされ,日本語も不自由なままに肉体労働に従事した。帰国後1年間は,生活保護を受けていたが,いったんは,生活保護を受給せずに生活できるようになった。そして,仕事の傍ら,家では辞書を片手に独学で死にものぐるいで日本語を勉強し,ようやく簡単な日常会話ができるようになったが,それ以上の会話や読み書きは不可能である。職場においては,日本語が不自由なために,給料も他の従業員より安く抑えられた。
  原告○○は,平成7年ころ,5年間でようやく貯めた70万円の貯蓄をはたいて年金の追納をしたが,これにより,全く貯金がなくなってしまった。原告○○は,平成12年から皿洗いなどの仕事に従事していたが,平成13年8月に無理がたたってに手がしびれて皿が持てなくなってしまい,それ以来就職していない。原告○○は,追納したにもかかわらず,得られる年金は夫婦で月額8万5000円にすぎないため,平成16年から生活保護を受給して生活している。

60 原告番号60・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和16年11月21日,大阪府吹田市で生まれた。原告田中の家族は合計7人で,昇平開拓団の一員として満州に渡ったが,原告○○の実父は昭和19年に病死し,終戦時の逃避行の途中,実妹が死亡した。原告○○は,残った家族とともにハルビンの収容所にたどり着いたが,そこでは子供たちが次々と死亡しており,原告○○の実母は,そのような状況下で原告○○が死んでしまわないよう,養父母の下に預けた。その後,原告○○の実母や兄らが原告○○の様子を何度も見に来ていたが,その後,実母は病死し,兄と姉は,原告○○を引き取る余裕がないまま日本に帰国した。

(2)原告○○は,養父母から日本人であることを隠されたまま育てられたが,小学校では,周囲から頻繁に「小日本」などと言われていた。
  原告○○は,幼いころから周囲からは日本人と言われ,養父母に聞くと中国人だと言われ,自分が何人であるか分からないまま育ったが,中学,高校と進むにつれ,自分が日本人であると漠然と認識するようになっていった。そして,もし日本人であるならば,日本に帰りたいと考えていた。
  そうしたところ,原告○○は,昭和52年ころ,近隣住民の残留婦人が日本に一時帰国するということを知り,残留孤児であれば帰国できることを知って,その残留婦人に自分の写真を渡し,調査を依頼した。その後,その残留婦人は,日本で原告○○の実兄らしいという人物を見つけてくれ,原告○○は,その人物と連絡を取り,写真や自分の血液を送ったところ,昭和53年,原告○○とその人物(○○○○)が実の兄弟であることが判明し,原告○○は,兄の協力を得て,昭和54年9月,永住帰国を果たすことができた。

(3)原告○○は,帰国後,兵庫県尼崎市の兄が住む家の隣に居住することになった。そして,大阪にあった関西学友会で,1年ほど日本語の勉強をした。そこでは,あいさつができるくらいまでしか習得できなかったが,現在では,帰国後25年以上経っていることもあり,随分話せるようになった。
  原告○○は,てんかんの発作があるため,帰国後しばらくは仕事ができず,生活保護を受けていたが,昭和57年には仕事を始め,転職をし,平成4年まで働いた。しかし,平成4年にてんかんの発作で仕事中に倒れ,仕事を続けることができず,同年からは月約7万円の障害福祉年金を受けている。
  原告○○の妻は,パート収入が月額10万円程度あったが,現在は62歳と高齢であるため休んでおり,現在は障害福祉年金のみで生活している現状にある。

61 原告番号61・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和16年8月26日,日本人の子として生まれたとされ,昭和20年9月ころ,養父母に預けられ,育てられることになった。

(2)原告○○は,昭和26年に小学校に入学し,昭和32年には中学校に進学したが,小学校や中学校では,「小日本」「小日本鬼子」などと言われた。原告○○は,養母に対し,自分は日本人ではないかと尋ねたが,養母は,常に「私の子だ。日本人ではない」と言って否定していた。
  しかしながら,原告○○は,昭和36年,親しくしていた残留婦人の小倉○○(以下「小倉」という。)から,養母から聞いた話として,原告○○は実は日本人であるとの話を聞き,自分が日本人であることを確信した。そして,これを知ってから,日本で生活したいと思うようになった。
  原告○○は,昭和54年ころ,小倉を通じて,日本の民間ボランティアに帰国を求める手紙を出し,昭和55年ころには小倉に依頼し,厚生省あてに身元調査を求める手紙を出した。そうすると,厚生省から昭和57年と昭和58年に調査書類が届き,原告○○は,それに記載して送り返したところ,昭和60年11月,訪日調査に参加することができた。原告○○は,訪日調査で身元が判明せず,そのときは,永住帰国を希望しなかったが,中国に戻った後,永住帰国を決断し,民間ボランティアを通じて日本への帰国を求めたところ,昭和62年,厚生省から手紙が届き,昭和63年2月5日,妻や子供らとともに永住帰国を果たすことができた。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,定着促進センターにおいて日本語教育を受け,その後も兵庫県西宮市に定着した後,2年間,国とは無関係の日中友好手をつなぐ日本語学校に通ったが,現在も日常会話すらできない。
  原告○○は,日本語ができないために就職することができず,帰国してから現在に至るまで生活保護を受給して生活をしている。

62 原告番号62・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和7年7月19日,京都府において生まれたが,物心ついたときには実母はおらず,昭和18年8月に父が病死し,兄弟7人が残された。そして,兄弟と親戚が相談した結果,昭和18年10月,原告○○は,次兄とともに,中国の大連に働きに出ていた長姉の下に引き取られることとなり,昭和19年からは,妹の原告○○一枝(原告番号63。以下「原告○○」という。)も大連にきて一緒に暮らすことになって,以後兄弟4人で生活することになった。
  原告○○は,昭和20年8月末ころ,兄弟とともに,ソ連兵による襲撃を受けながら,必死に逃げ延びる生活を送った。終戦から1年ほどの間は,満足に食べ物も手に入らず,極限状態で生活を維持していたが,やがて日常生活も送れないような状態となり,原告○○と長姉は,遼寧省に居住していた中国人に引き取られることとなり,原告○○は大連にある中国人に引き取られることとなった。残った兄は,昭和22,23年ころ,日本へ帰国した。

(2)原告○○は,長姉とともに,周囲の者に「小日本犬」「小日本鬼子」などと言っていじめられ,時には叩かれることもあった。また,中国人と結婚した後も,夫の兄弟から日本人であることできつく当たられ,つらい思いをした。原告○○は,養父母に引き取られた後も,日本人であることははっきりと自覚しており,中国でも「○○○○」という日本名で通していた。中国政府からは,中国籍に入り,日本名を変えるよう勧められたが,原告○○は,それを拒否し続けていた。
  原告○○は,昭和48年,大連在住の日本人と知り合う機会があり,同人に依頼して,京都府援護課に手紙を送付してもらったところ,長兄と連絡を取ることができた。そして,原告○○は,昭和50年10月,長姉とともに,日本に一時帰国し,昭和51年4月まで日本に滞在した。そして,原告○○は,滞在中,日本旅券を作成してもらい,それを持って中国に戻った。
  原告○○は,中国に戻った後,昭和52年,夫が死亡したことから,永住帰国しようと考え,京都府援護課あてに永住帰国の手続をするよう要請したところ,同援護課から,「日本に兄弟がいるのであるから,その兄弟に帰国手続の協力をしてもらわなければならない」との返答しか得られなかった。そこで,原告○○は,日本にいる親族に協力を要請したが,なかなか応じてもらえなかったため,帰国ができない状態が続き,先に永住帰国していた長姉の協力を得ることができた後,昭和59年4月17日に,ようやく三男とともに永住帰国することができた。
  原告○○は,日本旅券所持者であるから身元保証なしに帰国できるはずであり,あくまで日本在住の親族の協力が得られなければ帰国できないとする京都府援護課の対応は誤りであったが,同課の誤った対応は,残留孤児に対し外国人としての入国手続(身元保証)を要求する政府の取扱いに起因しており,このような政府の取扱いがなければ,原告○○は,遅くとも昭和53年6月までには永住帰国が実現していたものである。

(3)原告○○は,帰国後,長姉の住んでいた兵庫県神戸市の県営住宅に身を寄せ,一緒に住むことになった。そして,帰国後半年ぐらい経った昭和59年12月ころからは,兵庫県明石市に移り住み,三男とともに生活するようになったが,そのうち三男は,就職先を見つけ,出ていったため,それからは一人で暮らしている。
  原告○○は,帰国後,日本語教育を受ける機会はなく,独学で勉強した結果,何とか基本的な読み書きはできるようになったが,少し込み入った会話をするときや役所からの文書を受け取ったときなどには,理解するのに多大な苦労を強いられる状態にある。
  原告○○は,永住帰国したころ,中国における長年の過酷な労働のため,足,心臓,腰を患っており,外出することも困難な状況であったことから,就労することが不可能であり,帰国時から現在まで生活保護を受給して生活している。

63 原告番号63・原告○○
(1)原告○○は,昭和10年6月10日,京都府において生まれ,物心つかないうちに実母が死亡し,昭和18年8月に実父が病死した。その後,原告○○は,大連に働きに出ていた長姉の下に引き取られることとなり,昭和19年8月,大連で兄弟4人で生活することになった。
  原告○○は,終戦後,兄弟とともに,極限状態で生活をしていたが,生き延びるため,大連にある中国人に引き取られることとなった。

(2)原告○○は,日本人であることが知られないよう,中国人として身を潜めるようにして生きていたが,つらい思いをすることは多く,その度日本に帰りたいと思っていた。
  原告○○は,日中国交正常化後も,帰国できる方法があるとは知らなかったが,昭和49年になって,原告○○の姉である原告○○から手紙が届き,その1か月後には,原告○○が原告○○を捜し当て,訪ねてきた。そのとき,原告○○が日本人であることが周囲に発覚し,原告○○やその子供らは,差別を受けることになった。
  そして,原告○○を含む姉妹3名は,帰国の手続を進めることになり,一緒に帰国するつもりであったが,原告○○と長姉は,日本国籍であったため,手続が迅速に進み,昭和50年10月に一時帰国することができたが,原告○○は中国籍になっていたため渡航許可が遅れ,昭和51年7月になって一時帰国することができ,その後4か月間,兄の下で滞在した後,中国に戻った。原告○○は,日本に滞在してる間に,日本旅券を発行してもらった。
  原告○○は,中国に戻った後,持病の心臓発作の治療を受けるためにも,できるだけ早くの永住帰国を望んでいたが,単身で帰国することはその病状から無理であり,息子二人とともに永住帰国を申請したところ,許可が下りなかったが,昭和54年12月13日,自費で永住帰国することができた。

(3)原告○○は,帰国後,いったん神戸市長田区の次姉の居宅に身を寄せ,その後,同区内にあるアパートを借りて1年余り移り住んだ後,昭和56年から現在まで,神戸市垂水区の県営住宅に居住している。原告○○は,県の紹介で日本語教育を受ける機会があったものの,心臓の持病のため通学できなかった。現在では,日常の会話ができるようにはなったが,日本語の文章を読むことはできないし,書く能力も著しく低い。
  原告○○は,中国での激しい労働から体を悪くしておりそもそも働くことはできなかったから,帰国後現在まで,生活保護を受けて生活している。

64 原告番号64・原告○○(以下「原告○○」という。
(1)原告○○は,昭和20年3月3日に生まれたとされる。原告○○の実母は,日本に帰国する前に,森井光子(以下「森井」という。に仲介してもらい,養父母の隣人の高延民(以下「高」という。に原告○○を引き取ってもらった。

(2)原告○○は,養父母から,中国人として育てられていたが,小学校に入ると,「小日本」と言われいじめられた。また,原告○○は,昭和44年ころ,高から,自分が日本人であると聞かされたが,それでも自分は中国人であると思っており,中国共産党にも入党した。
  ところが,昭和55年,原告○○の下に警察がやってきて,「あなたは日本人だから中国共産党を辞めなさい」と言われたため,原告○○は,中国共産党に脱退届を提出することになり,昭和56年,養父母の下に里帰りしたとき,養父に自分の国籍について尋ねたところ,自分が日本人であることを教えられ,ここで,自分が日本人であることを確信するに至った。
  原告○○は,自分が日本人であることを知って,すぐにでも日本に帰りたい気持ちになり,高から森井の住所が長崎県佐世保市であることを聞きだし,昭和56年4月と同年6月の2回にわたって,佐世保市役所あてに肉親捜しを依頼する手紙を出したところ,佐世保市から同年6月と7月にそれぞれ返信があり,肉親の消息がある程度知らされたが,原告○○の訪日や帰国を実現してくれる旨の記載はなかった。
  また,原告○○は,昭和59年5月,厚生省援護局あてに「訪日して自分で肉親捜しをしたい,そのために是非,私を帰国させてほしい」と書いた手紙を送ったところ,昭和60年11月,訪日調査へ参加することができた。
  訪日調査では身元は判明しなかったが,日本に帰りたい気持ちが高まり,昭和63年2月9日,妻子とともに永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後4か月,埼玉県所沢市の定着促進センターにおいて日本語教育を受けたが,そこでは日本語を修得することはできなかった。その後,兵庫県明石市に居住し,数か月間,日本語を学習する機会があったが,ここの学習でも十分な日本語を習得することはできなかった。その後,仕事をするうちに,何とか日本語を話せるようにはなったが,読み書きは苦手であるし,夫婦の会話は現在でも中国語である。
  原告○○は,兵庫県明石市に居住してからしばらくは生活保護を受給していたが,平成2年ころ,塗装工として就職し,月額25万円程度の給与を得ることになった。現在も会社は移ったが,塗装工として月額24万ないし25万円の給与を得ており,長男が独立してラーメン店の店長として生活しているため,比較的安定した生活を送っている。しかし,働きだしたのが平成2年であるため,退職後に受給する年金に期待が持てず,老後の生活には不安を持っている。

65 原告番号65・原告○○
(1)原告○○は,昭和12年6月20日,京都府において生まれた。原告○○の実母が昭和19年ころ死亡し,実父は後に再婚した。原告○○は,昭和20年6月20日,家族とともに,依蘭開拓団の一員として渡満して黒竜江省に入植し,間もなく終戦を迎え,原告○○の家族は,船に乗って松花江を下り,ハルビンの難民所へ逃げた。原告家族のうち,難民所での生活の中で,実弟,継母,腹違いの妹,実父が難民所での過酷な生活の中で次々と病死し,原告○○と実姉のみが残された。その後,生き残るために,実姉は中国人と結婚し,原告○○は最終的に養父母の下に引き取られることになった。

(2)原告○○は,養母から差別を受け,学校にもろくに通わせてもらえなかった上,周囲の者に日本の鬼の子だと言われたこともあった。
  昭和28年,原告○○の実姉の下に,叔父に当たる○○○○から「帰ってこい」との手紙が届き,原告○○にもその知らせが届いた。そこで,原告○○は,実姉とともに日本に帰ろうとしたが,実姉の夫の親戚が反対し,帰国に必要な書類を隠されて帰国を妨害されたため,帰国は実現しなかった。後に実姉は,結核に罹患し,昭和30年に死亡した。
  原告○○は,日本に帰りたいと考えていたが,どのようにすれば帰れるか分からなかった。そして,文化大革命の時代には,日本のスパイ扱いされたので,手紙を書くこともできず,日本人であることが分かるとひどい目に遭うので,できるだけ他の残留孤児や残留婦人とは付き合わないようにしていた。
  原告○○は,昭和47年,中国で原告○○を支えてくれていた残留婦人の佐藤加志(以下「佐藤」という。)から,自分が日本に帰る可能性があると教えられた。そして,原告○○は,佐藤が昭和48,49年ころに一時帰国したとき,肉親調査を依頼したところ,佐藤が電話帳を調べて原告○○の親戚を発見してくれ,その親戚との連絡を取り持ってくれた。そして,原告○○は,昭和52年,一時帰国を果たし,日本に7か月滞在してから中国に戻った。
  原告○○は,中国に戻った後,永住帰国することにし,日本人として帰国するため,帰国のための渡航書の発給を受け,昭和54年10月16日,家族とともに自費で永住帰国を果たした

(3)原告○○は,福知山に居住したが,日本語教育を受ける機会は得ることができず,独学で日本語を勉強したが,現在でもテレビを見ても理解できない。このように,原告○○は,日本語が不自由であり,中国でも教育を受けることができなかったために無学であることが恥ずかしいということもあって,近隣の日本人とも打ち解けることができず,子供の授業参観でさえ出席できておらず,寂しい思いをして生活している。
  原告○○は,日本語が話せない分必死で働き,何とか生活をしたが,現在の収入は,帰国後に働いた期間分の年金月額約6万円もらえるのみである。夫が生きていたころは二人で合計月額約11万円受給していたが,平成13年に夫が亡くなった後は,遺族年金を受給することとなり,減額された。

【被告の責任】
第1 帰国遅延に関する責任について

1 帰国の妨げとなる行政行為の違法性
(1)前記認定のとおり,政府は,傀儡国家である満州国を建国したことから,満州の支配体制の確立,満州の軍事力の充実を目的とし,昭和7年から満州への移民を開始し,昭和12年から終戦直前までは,重要な国策として,大量の開拓民を満州に送出し,主として満州の北部・北東部に開拓民を住まわせたのである。また,開拓民に提供された農地は,現地中国人から半ば収奪されたようなものであった。すなわち,開拓民は,移民の当初から,現地中国人の反感を買いやすく,かつ,ソ連軍の満州侵攻時に犠牲となりやすい状況下に置かれていた。
  しかも,開拓民が唯一頼りにできる関東軍は,戦局悪化による他所への転用により,昭和18年後半以降著しく弱体化し,ソ連軍を迎え撃ち,撃退する戦力を保持していない状態となっていた。
  その上,昭和20年4月5日にソ連が日ソ中立条約の不延長を通告したことで,ソ連の満州侵攻が決定的となったが,政府は,朝鮮半島及びこれに近接した満州地域を絶対的防衛地域とするとともに,その他満州地域を持久戦のための戦場とすることを決定し,多くの開拓民らの犠牲を伴う作戦を立てた。これにより,開拓民の多くは,ソ連軍侵攻時,関東軍による防戦を期待することができず,ソ連軍による殺戮・略奪の危険にさらされた状態となった。
  ところが,政府は,静謐を装う方針を堅持することにし,開拓民に関東軍やソ連の動向に関する情報を伝えることも,開拓民を待避させる措置を講ずることもなかった。それどころか,昭和20年7月には,弱体化した関東軍の人員補充のため,いわゆる根こそぎ動員を実施し,開拓団の構成員のほとんどを高齢者と婦女子としてしまい,開拓民をより一層無防備な状態に陥れた。開拓民以外の一般の在満邦人にとっても事態は似たようなものであり,彼らが,無防備な状態でソ連軍の侵攻とこれによる極度の混乱にさらされたことも自明のことである。

(2)開拓民は,このような全く無防備な状態で,昭和20年8月9日,突然にソ連軍の侵攻にさらされ,極度の混乱の中で難民と化し,暖房も食料も乏しく衛生状態も悪い避難所で極寒の越冬生活に直面することになった。原告らを含む多数の日本人の乳幼児・児童は,避難所へたどり着く過程や避難所生活中に肉親や兄弟と死別・離別しており,周囲の大人の判断により,命をつなぎ止める唯一の手段として中国人家庭に入り,養子として養育されることにされたのである。そして,中国人の養子となってしまったため,集団引揚げによって日本人の大人と一緒に我が国に帰還する途は閉ざされ,残留孤児となった。残留孤児は,日本人でありながら我が国への帰国の術を失ったのである。
  原告らの個別事情(認定事実第11)からも分かるように,残留孤児の中国での生活は千差万別で人によってかなり違っており,家庭や仕事に恵まれた人もあれば,幼少のころから辛酸をなめた人もある。ただ,本人に日本人としての自覚があろうとなかろうと,当該孤児が日本人であることは公安当局にも地域社会にも知れており,それ故,人生のいずれかの場面で(多くは文化大革命の時期に),多かれ少なかれ日本人であるとして差別や虐待を受けたのであり,それ故,残留孤児は,成長するに連れ,例外なく,祖国に対する望郷の念を強め,あるいは,自分の本当の親兄弟が誰なのかを知り,会いたいとの願望を強め,祖国の地に帰還することを熱望するようになったのである。残留孤児の願望は,人間としての最も基本的かつ自然な欲求の発露にほかならない。
  原告らも,上記のような人間としての自然な願望を長年抱き,最終的には我が国に永住帰国したのである。

(3)さて,残留孤児を発生させるに至った一連の政策,すなわち,国策として行われた移民,関東軍の大幅な転用,静謐確保の優先,満州防衛の放棄といった一連の政策は,明治維新後我が国が経験した戦争と近代化の歴史の所産として,歴史家によって論ぜられるべき問題であり,戦後の司法裁判所が,法的観点から,その当否や違法性を論じることは可能でも適切でもない。
  しかしながら,戦後の憲法が立脚する価値観に立って見たとき,戦闘員でない一般の在満邦人を上記 のとおりの無防備な状態に置いた政策は,自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であったというほかない。したがって,憲法の理念を国政のよりどころとしなければならない戦後の政府としては,可能な限り,無慈悲な政策によってもたらされた自国民の被害を救済すべき高度の政治的な責任を負うものと考えなければならない。
  そして,近代国家の政府は在外自国民を保護すべき使命を負うと考えられること,政府が昭和32年1月時点(後期集団引揚げが実施されていた時期)の集計結果として,少なくとも中国大陸に2053人もの残留孤児・残留婦人がいることを認識していたことからすれば,政府は,民間レベルで行われた後期集団引揚げが終了した昭和33年7月以降も,中国大陸に置き去りにされ,我が国への帰還の術を失った残留孤児の消息を確かめ,自国民の救済という観点からその帰国を実現すべき政治的責任を負っていたものということができる。
  残留孤児の救済責任の実定法上の根拠を敢えて挙げるとすれば,援護法29条の規定を挙げることができるが,この責任は,実定法上の根拠規定の有無にかかわりなく,端的に,国民の生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利は国政の上で最大限尊重しなければならないとする憲法13条の規定及び条理により当然に生ずると考えるのが相当である。

(4)ところで,米国が終戦前から長年にわたり国民党政府に支援を惜しまなかったにもかかわらず,米国の期待に反し,戦後,中国大陸には共産党の統一政権が誕生し,米国は,戦後長らく,反共産主義の立場から,中国政府を無視・敵視する政策を取っていたものである。そして,主権回復(昭和27年)から日中国交正常化(昭和47年)までの間,政府が,米国政府と異なる外交政策をとることは政治的に極めて困難であったから,その間,政府が中国政府に働きかけて友好的関係を築くこと,残留孤児帰還に向けた実務担当者による話合いの機会を持つことに大きな限界があったというほかない。認定事実第3の5も,このことを示している。
  したがって,日中国交正常化までは,残留孤児の救済責任を果たすための具体的な政策の実行は困難であったというべきである。

(5)しかしながら,日中国交正常化後は,中国残留邦人の住所・氏名を把握していた中国政府が,その帰還に前向きな姿勢を示していたのであり,政府は,残留孤児の救済責任を果たすための具体的な政策を実行に移すことができるようになったのであるから,その具体的な政策を速やかに実行すべき責務を負担するに至ったといわなければならない。
  したがって,日中国交正常化後は,残留孤児の帰還に関与することになる政府関係者(外務省,厚生省及び法務省の主務大臣)は,残留孤児の帰還に関する特別な立法がなくとも,政府の政治的責任(残留孤児の救済責任)を認識すべきであり,これと矛盾する行政行為を行ってはならなかったはずである。そして,もし,それら主務大臣が,特段の合理的な根拠なしに,残留孤児の帰国を制限する行政行為をした(妨げとなる措置を執った)とすれば,残留孤児個々人の帰国の権利を侵害する違法な職務行為となる。そのような制限は,憲法上保障された帰国の権利のやむを得ない制限(公共の福祉の観点からする制限)とは認められないからである。
  したがって,そのような帰国制限によって一定期間我が国への永住帰国が妨げられたと認められる原告がある場合,被告は,国賠法1条に基づき,その者が違法に帰国を制限されたことによって被った損害を賠償すべき責任を負う。
  そこで,次項以下では,そのような観点から,日中国交正常化後,政府の政治的責任(残留孤児の救済責任)と矛盾する違法な行政行為(合理的理由を欠く帰国制限)があったかどうかについて検討する。

2 入国の際に留守家族の身元保証を要求する措置
(1)残留孤児が中国から出国する際の手続の細部までは分からないが,日中国交正常化後,残留孤児は,中国政府が発給する中国旅券を所持し,中国政府から出国を許可されて我が国に渡航することになった。昭和40年・昭和50年代において,共産主義国家であった中国が自国民の出国を寛大に許可していたとは考えにくい。中国政府は,中国人の養子となった日本人孤児の住所と氏名を把握しており,だからこそ当該孤児が日本人又は元日本人であるとの特別な事情を考慮して出国を許可したはずである。そして,政府が,そういう事情を理解していないとは到底考えられない。
  すなわち,中国政府が残留孤児であると認めた者は,中国旅券を所持していても,日本人の父親を持ち,終戦時の混乱によって中国に留まることを余儀なくされた日本人であると考えて何ら差し支えがなかったのである。

(2)ところが,政府は,昭和49年10月以降,中国旅券を所持して入国しようとする残留孤児を外国人として扱う方針を貫き,留守家族による身元保証書の提出がされない限り,入国を認めなかった。日本の戸籍があることが明らかな残留孤児についても取扱いは変わらなかったのである。
  上記取扱いは,中国旅券を所持する残留孤児は,(仮に日本の戸籍があっても)自己の志望によって中国の国籍を取得し,日中国交正常化と同時に日本国籍を失ったとの考え方を前提とするが,残留孤児が自己の意思に基づいて中国人に養育されるに至ったとか,自由な意思で国籍を選択し得たということはあり得ないことであり,その考え方は,残留孤児が発生した歴史的経緯を敢えて無視し,机上の空論とも言うべき形式論理を振りかざすだけの誤った考え方である。しかも,その誤りは,母国への帰還を願う残留孤児に,帰国への大きな障害を設ける原因となったのであり,極めて重大な誤りである。

(3)入国の際に留守家族の身元保証を要求するという措置は,身元が判明しない孤児(留守家族の身元保証があり得ない者)について昭和60年に身元引受人制度が発足するまで,身元が判明している孤児(留守家族が非協力的ならば身元保証を得られない者)について昭和61年10月15日まで継続された(ただし身元判明者の帰国に障害がなくなったわけではない。)。
  上記措置の結果,まず,身元さえ判明していない残留孤児は,10年以上にわたり,およそ帰国の可能性が閉ざされた。留守家族が特定できず,留守家族の身元保証が得られる可能性がないからである。また,身元が判明している残留孤児であっても留守家族の協力が得られない者は,やはり同様に我が国に入国することができない状態に置かれた。長年別れて暮らしている留守家族(歳月を経るに連れ,兄弟姉妹や叔父叔母であることが多くなっていた。)が残留孤児の帰還に協力的であるとは限らないのであって,留守家族の協力がない多くの身元判明者も,結局,帰国の途を閉ざされたのである。

(4)日本人が我が国への入国の際に同胞の身元保証を要求されることは,法律上あり得ないことであり,中国政府が残留孤児であると認めて出国を許可した者が日本人であることを疑う合理的な理由はなかったはずであるから,入国の際に留守家族の身元保証を求める措置に,合理的な根拠を見いだすことは困難である。
  実際にも,身元保証を求める措置は,身元が判明しない孤児については昭和60年中に通達によって廃止され(身元引受人制度が導入された。),身元が判明している孤児については昭和61年11月に通達によって廃止された(在日関係者からの招へい理由書に代置された。)。
  また,入管法上,残留孤児の入国に際して身元保証など要求されないことは,平成6年6月の衆議院における政府委員の答弁(認定事実第1の5 )からも明らかである。
  したがって,残留孤児を外国人として扱い,留守家族による身元保証書の提出がされない限り入国を認めないという政府関係者(残留孤児の帰国に関わる政府関係者)の措置は,法律の根拠も合理的な理由もなしに,残留孤児の帰国を制限する違法な職務行為である。

3 帰国旅費の支給申請手続
  厚生大臣は,日中国交正常化後,残留孤児が政府に帰国旅費の負担を求める際(残留孤児で自ら帰国旅費を工面できる経済的余裕がある者は少ない。),その支給申請は,留守家族が残留孤児の戸籍謄本を提出して行うとの措置を執っていた。
  このような帰国旅費支給行政の結果,身元が判明していない残留孤児はもちろんのこと,身元が判明している残留孤児であっても留守家族の協力が得られない者は帰国旅費の支給を受けることができず,これにより帰国旅費の工面に支障がある残留孤児は,事実上,帰国することができない結果となった。留守家族による残留孤児の戸籍謄本の提出を求めることが,このような帰国制限に結びつくことは,誰の目から見ても明らかである。
  残留孤児本人の支給申請によって帰国旅費を負担することが不可能な事情はないのであって,帰国旅費の支給申請手続に関する厚生大臣の措置は,違法な職務行為である。

4 身元判明者に対する昭和61年10月以降の措置
(1)身元が判明しない孤児については,昭和60年度以降,永住帰国の際,帰国旅費国庫負担承認通知書及び定着促進センターへの入所通知をもって,査証を発給することとし,定着促進センターに入所中に身元保証人に代わる身元引受人をあっせんすることとされ,帰国の障害が一応なくなった。

(2)ところが,身元が判明している孤児については,そのような制度が適用されず,査証を受けるためには身元保証が必要とされており,昭和61年10月以降,身元保証書がなくてもよいとされたが,それでも在日関係者の招へい理由書が必要とされ,やはり在日関係者の協力なしには帰国できない状態が維持された。その結果,身元判明者は,留守家族が帰国に協力的でない場合,そう簡単には帰国ができない状態となった。

(3)政府は,平成元年7月,身元判明者について特別身元引受人制度を創設し,身元判明者につき,留守家族による協力が得られない場合,特別身元引受人のあっせんを行い,特別身元引受人が身元保証などの帰国手続を行い,身元判明者を永住帰国させることになったが,この制度の適用を受けるためにも,肉親以外の者が帰国を受け入れることがやむを得ないと判断されることが必要とされていたし,平成3年までは,特別身元引受人が行う手続によって永住帰国することに異存がない旨の親族の確認書の提出が求められた。
  結局,身元判明者は,昭和61年10月以降,留守家族の身元保証がなくとも永住帰国できることにはなったが,招へい理由書とか,特別身元引受人による身元保証(それを受けるための親族の関与)といった,入管法が求めているわけでもない措置の履践を求められ,帰国が制限されていたのであり,この状態は,平成6年1月,特別身元引受人が行う帰国手続を直接政府が行うことにするまで継続したのである。

(4)入管法上,残留孤児の入国に際し,招へい理由書,特別身元引受人の身元保証が要求されないことは,平成6年6月の衆議院における政府委員の答弁(認定事実第1の5 )からも明らかである。このような措置を求めた政府関係者(残留孤児の帰国に関わる政府関係者)の措置は,法律の根拠も合理的な理由もなしに,残留孤児の帰国を制限する違法な職務行為である。

5 被告の国家賠償責任の発生と除斥期間経過による消滅
(1)原告らの個別事情(認定事実第11)のとおりであって,原告番号5,6,9,12,14,20,28,29,30,38,41,45,49,52,58,59,62の17名の原告ら(原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○,原告○○)は,上記2ないし4の被告の公務員による違法な職務行為(残留孤児個々人の帰国の権利を侵害する違法な職務行為である。以下「本件帰国制限」という。)によって,我が国への永住帰国が妨げられたものと認められる。

(2)そして,原告らの個別事情(認定事実第11)に照らせば,上記17名の原告らは,本件帰国制限がなければ,表2「帰国可能時」欄に記載の時期に永住帰国できたはずであるが,実際には同「永住帰国時」欄の時期まで永住帰国することができず,本件帰国制限により,その間永住帰国の遅延を余儀なくされたということができる。

(3)上記17名の原告らが,本件帰国制限により,日本人でありながら思うように祖国に帰国できずに多大の苦痛を受け,苦労を余儀なくされたことは疑いがない。その苦痛・苦労がいかに深甚なものであり,身元保証を要求した政府関係者の措置がいかに残留孤児を翻弄したかは,原告番号49・原告○○の個別事情に照らして明らかである。原告○○は,身元保証にこだわる政府の措置により,怪しげな身元保証人に捕らわれ搾取されるに至り,定着促進センターに助けを求めても援助を断られたため,いったん,逃げるようにして中国に戻らざるをえなかったのである。このような例に接すると,我が国は同胞に対し冷淡すぎるのではないかとの思いを禁じ得ない。
  そして,前記認定の原告らの個別事情及び本件に顕れた一切の事情を考慮すれば,本件帰国制限によって上記17名の原告らに生じた無形損害(苦痛・苦労)を賠償するための慰藉料の額は,帰国遅延月数1月当たり10万円として計算される額とするのが相当である。
  また,上記17名の原告らが,本件帰国制限によって被った損害の賠償を求めるため,本訴の提起及び追行を原告ら訴訟代理人弁護士らに有償で委任することを余儀なくされたことは,弁論の全趣旨に照らして明らかであるところ,本件帰国制限と相当因果関係に立つ弁護士費用は,帰国遅延月数1月当たり1万円と認めるのが相当である。

(4)国賠法4条によって本件に適用がされる民法724条後段の規定は,不法行為による損害賠償責任につき20年の除斥期間を定めたものと解される(最高裁平成元年12月21日第一小法廷判決・民集43巻12号2209頁,最高裁平成10年6月12日第二小法廷判決・民集52巻4号1087頁,最高裁平成16年4月27日第三小法廷判決・民集58巻4号1032頁)。
  民法724条後段所定の除斥期間の起算点は,「不法行為ノ時」と規定されているが,本件帰国制限は,遅くとも昭和49年10月ころ始まり,原告ら個々人との関係では,永住帰国を果たした時点で終了する継続的な措置であり,これによる損害(帰国遅延)も日々生じるものであるから,本件訴訟提起の日において既に20年が経過している時期に関する国家賠償責任は,除斥期間の経過によって法律上当然に消滅したといわなければならない。
  すなわち,表2「提訴20年前の日」欄記載の日より以前の帰国遅延期間に係る国家賠償責任は,除斥期間の経過によって消滅しているから,結局,被告の国家賠償責任は,除斥期間が経過していない帰国遅延期間の月数に11万円を乗じた額に限定されることになる。

(5)そこで,被告が賠償すべき損害額を具体的に算定すると,まず,表2「帰国遅延月数」欄に「※」印しか付していない原告番号20・原告○○,原告番号62・原告○○の帰国遅延期間は,その全部につき除斥期間が経過しており,その両名の本件帰国制限に関する限り,被告の国家賠償責任は全部が消滅したというほかない。
  次に,上記両名を除く原告ら15名の帰国遅延期間のうち提訴時に20年が経過していない期間の月数は,表2「帰国遅延月数」欄記載のとおりとなる。同欄に「※」印のある原告らの帰国遅延期間には提訴時既に20年が経過した期間があるため,それらの者の帰国遅延月数は実際の帰国遅延期間よりも少ない(なお,帰国遅延月数の計算においては,表2「帰国可能時」欄の月及び日が不明な者については当年12月末日を起算日とし,日が不明な者については当月末日を起算日とし,同「永住帰国時」欄の日が不明なものについては当月1日に帰国したものとし,1月に満たない端数日は切り捨てて期間を計算した。)。
  したがって,その15名の本件帰国制限を理由とする損害賠償債権(慰藉料債権)の額は,表1の「本件帰国制限による損害」欄の「合計」欄に記載のとおりとなる。

6 特別措置法による戦時死亡宣告
  なお,昭和34年4月に特別措置法が施行された後,戦時死亡宣告に基づく処理を中心に,未帰還者に関する戸籍上の最終処理と一定限度での遺族補償が行われ,戦時死亡宣告がされた在留邦人に対する消息調査や所在調査がなおざりにされたことは否めない。そして,原告らは,戦時死亡宣告による死亡処理が多用されたことに絡めて,被告の責任を追及しているようにもみえる。
  確かに,戦時死亡宣告は,実際に中国内で生き抜いてきた者が帰国後そのことを知れば大変な衝撃を受けるものであり,誤って戦時死亡宣告がされた人々に対する同情の念は禁じ得ない。また,戦時死亡宣告の制度が,日中国交正常化が見込めない状況下で,いつまでも多数の生死不明な未帰還者の調査を行うことが適当ではないという行政上の要請から創設された面を否定することもできない。
  しかし,この制度が生死不明の未帰還者の留守家族の利益のためでもあったことは疑いがないし,戦時死亡宣告が個々の残留孤児の帰国の障害になったとまでは考えにくいため,戦時死亡宣告に向けてされた政府関係者の行為をもって,残留孤児個々人の帰国の権利を侵害する違法な職務行為とは認められない。
  ただし,戦時死亡宣告が,結果的に,日中国交正常化直後の時期において,残留孤児の帰国支援政策を遂行する際,予算措置を講じる上での一定の障害となっていたことは事実である。これは,戦時死亡宣告の良しあしということではなく,戦時死亡宣告を根拠として予算措置に消極的な姿勢をとった政府関係者の対応の問題である。この対応は,政府が残留孤児に対して負う政治的責任(残留孤児の救済責任)を理解しない誤った対応であるから,政府の政治的責任の懈怠の一場面として把握し,考慮されるべきである。

第2 原告ら主張の早期帰国支援義務について

1 原告らは,本件帰国制限以外に,さらに,被告の公務員が,原告ら残留孤児個々人との関係で,積極的な早期帰国支援義務を負っており,その義務の懈怠によって原告らに損害が生じたと主張し,国家賠償を求めている。
  原告ら主張の早期帰国支援義務は,その懈怠が国家賠償責任の原因となるということであるから,もちろん,政府が残留孤児一般に対して負う道義的責任あるいは政治的責任というものではなく,政府関係者(厚生大臣,外務大臣)が残留孤児個々人との関係で負担する法的義務である。
  そこで,以下,原告ら主張の早期帰国支援義務について検討する。

2 日中国交正常化の前
(1)政府は,戦後間もなくから,ソ連軍の満州侵攻によって大量の日本人避難民が発生していることを当然認識していたのであり,認定事実第3のとおり,昭和23年の参議院本会議において,残留孤児が満州各地にたくさんおり,その救済が必要である旨の報告がされていること,引揚者がもたらした情報や残留邦人が日本の留守宅に送り伝えてきた通信によって,相当数の残留孤児が存在することを把握していたこと,認定事実第4のとおり,厚生省は未帰還者の調査をかなり継続的に行っており,昭和32年1月1日時点の集計として2053人の孤児・残留婦人があるとの調査結果を得ていたのである。その調査結果の精度はそれほど高いとはいえないであろうが,それでも,人数を把握していたということは,孤児・残留婦人となっている可能性が極めて高い者を特定して認識していたはずである。
  そして,残留孤児は,戦前の政府の無慈悲な政策に起因して中国に取り残された日本人であるから,主権回復(昭和27年)後の政府としては,たとえ日中間に国交がなかったとしても,残留孤児をできるだけ早期に帰国させるための帰国支援政策を遂行すべき道義的責任ないし政治的責任を負っていたことが明らかである。

(2)しかしながら,残留孤児を我が国に帰国させるためには,その住所・氏名を把握している中国政府の協力が不可欠であるところ,日中国交正常化以前の段階で,中国内に領事館さえ設置していない政府が,外交ルートを通じて行うことができる中国政府への働きかけというものは,極めて限られたものでしかなかったのである。
  実際にも,認定事実第4のとおり,政府は,昭和30年ころから,在ジュネーブ日本総領事を通じて中国政府との間で,残留邦人帰還問題について交渉を持っていたが,中国政府は,当時の国際政治の状況(政府が中国を敵視しているとみられる状況)を背景に強硬な態度をとっていた。昭和32年5月には,政府が中国政府に対し,実名を把握していた残留孤児を含む未帰還者の名簿を手交して消息の調査を依頼したが,中国政府からは,中国には行方不明というような日本人は存在しないなどという厳しい回答が寄せられたのである。国交がない状況下で,中国政府からこのような対応がされた場合,政府が残留孤児個々人の帰国に向けて具体的にどのような対策を講じることができたのかを考えることは困難である。

(3)したがって,日中国交正常化前の段階では,残留邦人一般に向けた帰国支援政策を遂行すべき道義的・政治的責任以上に,残留孤児個々人に向けられた早期帰国支援義務というものを想定することは困難である。

3 日中国交正常化の後
(1)日中国交正常化の後は,政府は,中国政府と正式の外交ルートを通じて残留孤児の問題について交渉できることになったし,北京に日本大使館が開設され,そこに残留孤児から帰国を求める手紙が殺到したから,それら孤児の住所・氏名を調査することが可能となった。中国政府も,従前の態度を改め,昭和48年ころには,残留孤児の帰国に協力する姿勢を打ち出していた。
  したがって,日中国交正常化後は,我が国への帰還の術を失った残留孤児の消息を確かめ,自国民の救済という観点からその帰国を実現すべき政治的責任を果たすための土壌が整った。

(2)日中国交正常化の時点では終戦から既に27年が経過していたし(原告らの当時の年齢は25歳ないし40歳である。),国交正常化前は残留孤児の身元調査が事実上長らく中断しており,多くの残留孤児が誰の子で,日本に肉親等の親族がいるのかどうかさえ分からない状態となっていた。
  また,原告らの個別事情(認定事実第11)からも明らかなとおり,残留孤児のほとんどの者は,中国社会で仕事や家庭を持っていたのであり,養父母とのつながりもあったから,自己の一存ですぐに我が国に帰国できるというわけでもなく,日本がどういう国であるのかという知識もなかったはずである。
  したがって,この時期に政府が実施すべきは,できるだけ早く身元の調査を行い,かつ,残留孤児に日本がどのような国であるかを分からせることであり,そのための最良の手段が訪日調査であったことは疑いがない。すなわち,政府は,日中友好手をつなぐ会が要望していた訪日調査を,できるだけ早期かつ集中的に行うべき政治的責任を負っていたということができる。
  ところで,昭和49年に帰国した小野田寛郎元少尉の捜索に莫大な費用が費やされたことからみて,財政的な事情から,日中国交正常化後速やかに,早期かつ集中的な訪日調査を実施することが困難であったとも考えられないのであって,政府は,相当規模の予算と実務担当者を投入することにより,昭和52年ころには,かなりの規模で短期間・集中的な訪日調査を実施することが可能であったと思われる(認定事実第5の3のとおり,日中友好手をつなぐ会も,残留孤児の状況に鑑み,昭和51年8月時点で,是非とも昭和52年に訪日調査を実現するよう求めていたものであり,その実施が不可能であったとは考えにくい。)。

(3)実際に行われた訪日調査の実施状況(昭和56年3月)と残留孤児の永住帰国の状況に照らせば,もし,日中国交正常化後速やかに集中的な訪日調査を実施していたならば,実際の訪日調査に参加した2116名は,おそらく昭和52年,53年といった時期に訪日調査に参加し,(本件帰国制限がないという前提で考えれば)そのころには永住帰国ができたのではないかと思われる。
  ところが,政府は,日中国交正常化後も,残留孤児に対する政治的責任を正しく自覚しておらず,消息調査や帰国支援に向けた積極的な施策を執ろうとせず,そのための予算措置にも消極的であり(戦時死亡宣告が予算措置を制限する論拠の一つとなったことは既に述べたとおりである。),昭和56年3月になってようやく訪日調査を開始したが,少人数ずつ五月雨式にしか訪日調査を実施しなかったのであり,このような消極的な姿勢により,多数の残留孤児の帰国が大幅に遅れたのである。このことは,日中国交正常化時既に若くはなかった残留孤児の帰国をいたずらに遅らせ,残留孤児の高齢化を招き,残留孤児が日本社会に適応することを妨げたのであり,残留孤児に対する政治的に無責任な政府の姿勢は強く非難されて然るべきである。

(4)しかしながら,結局のところ,原告ら個々人との関係での早期帰国支援義務の有無を検討するということは,もし政府が日中国交正常化後速やかに消息調査と帰国支援のための政策(具体的には早期・集中的な訪日調査)を実施していれば,本件帰国制限がなかったとして帰国し得たであろう時期よりも,さらにどの程度早く帰国することができたのかを問うことである。
  ところが,原告らの中国での居住場所,生活状況はまちまちであり,中国社会や養父母との親和性もまちまちであるから,一律に,いつの時点で政府のどのような措置が可能であり,これによりどの程度早く帰国することができたのかを判断することは不可能である。
  そうすると,必然的に,原告ら個々人について,@いつの時期に訪日調査に招へいすることが可能であったのか,A訪日調査に招へいしたとして,原告らがいつの時期に永住帰国を決意することができたであろうか,そして,B実際にいつの時期に永住帰国を実現することができたのかを個別的に認定した上で,原告ら個々人に対する関係での(法的義務としての)早期帰国実現義務の存在やその懈怠の有無を判断すべきことになるが,その個別的な事実を的確に認定することは極めて困難である。例えば,中国人家族から永住帰国を反対されている原告,養父母を置いて永住帰国することが忍びないとする原告などについて,「当該原告については,遅くともこの時期までに訪日調査に招へいすることが可能であり,その措置を執りさえすれば,当該原告は,実際よりもこれくらい早期に帰国することができたはずである」との個別的な事実を認定することは極めて困難である。そのような個別的な事実認定が困難であることは,多かれ少なかれすべての原告についていえることである。
  そして,そのような個別の事実認定ができないまま,原告ら個々人との関係での早期帰国支援義務の存在やその懈怠の有無というものを論じることも不可能であり,結局のところ,その義務懈怠に基づく原告らの国家賠償請求は理由がない。

(5)原告らは,先行行為に基づくもののほか,憲法13条,25条1項,26条,戦時における文民の保護に関する昭和24年8月12日のジュネーブ条約(第四条約),日本国との平和条約,市民的及び政治的権利に関する国際規約及び児童の権利に関する条約,援護法29条,特別措置法1条の規定に基づき,法的義務としての早期帰国支援義務の根拠であるとする。確かに,それら憲法,条約,法律の規定は,本件帰国制限が違法であることの論拠としては十分である。
  しかし,それら憲法,条約,法律の規定があるからといって,原告らの個別事情の認定なしに,政府関係者の原告ら個々人に対する一定の作為義務の有無を論じることが可能となるわけではない。それら規定は,詰まるところ,残留孤児一般に対する消息調査,帰国支援義務,すなわち政府の政治的責任の根拠となるにすぎないというべきである。
  もっとも,政府が,消息調査及び帰国支援に関する政治的責任を怠ったことは,一般的に残留孤児の帰国をかなりの年月遅らせたことは誰も否定できないところであり,この政治的責任の懈怠は,自立支援義務の成否の判断に影響するものというべきである。

第3 自立支援の懈怠に関する責任について

1 帰国孤児の自立支援に関する政府関係者の法的義務
(1)既に述べてきたように,政府は,国策としての大量移民政策を実施した上,軍事的な作戦遂行の過程で,開拓民等の一般の在満邦人を敢えて犠牲にする無慈悲な政策を選択し,大量の残留孤児を発生させたのである。
  残留孤児は,幼いころから中国に取り残されたまま我が国に帰国できず,そのため,戦後,我が国に住む子供であれば当然のごとく享受できた教育を受ける権利を享受することができず,日本語も日本での生活習慣も身につけることができない状態に置かれていた。

(2)したがって,政府は,戦後,我が国への帰還の術を失った残留孤児の消息を確かめ,自国民の救済という観点からその早期帰国を実現すべき政治的責任を負っていたし,日中国交正常化後は,1日でも早くその責任を果たすことが期待されていたはずである。そして,前記第2において説示のところからも明らかなとおり,もし,政府が,歴史的経緯から自己に課せられた政治的責任の重みを自覚し,早急に適宜の帰国支援策を実行していれば,残留孤児の個々人が永住帰国できたはずの正確な年月を言い当てることはできないにしても,一般的には,永住帰国を希望する残留孤児の大半が,昭和50年代の前半には,概ね30歳代で永住帰国ができたのではないかと推測されるのである。

(3)ところが,政府は,歴史的経緯によって課せられた政治的責任を自覚せず,帰国支援に向けた政策の遂行を怠ったばかりか,かえって本件帰国制限を行い,いたずらに残留孤児の帰国を大幅に遅らせ,残留孤児を高齢化させ,日本社会への適応がより困難な年齢での帰国を余儀なくさせた。
  すなわち,原告らを含む残留孤児の大半が,日本人であって,本来であれば終戦後速やかに我が国に帰還し,我が国で日本人として成長することができたはずなのに,日本社会での適応に困難を来す状態での永住帰国を余儀なくされたのは,政府によって遂行された国策(満州国の経営及びこれに伴う移住計画)及び無慈悲な政策(一般の在満邦人を敢えてソ連軍の侵攻にさらしたこと)が根本的な原因であるが,そればかりではなく,日中国交正常化後も孤児救済に向けた政治的責任を果たそうとしなかった政府の姿勢,本件帰国制限という政府関係者による違法な措置が積み重なった結果なのである。
  このような政府自身による先行行為の積み重ねがあり,それにより日本社会での適応に困難を来す状態での永住帰国を余儀なくされた残留孤児がある場合,たとえ自立支援法のような特別な法律がなくとも,政府関係者(厚生大臣)は,条理により,残留孤児が日本社会で自立して生活するために必要な支援策(日本語の修得,就労・職業訓練,自立までの生活保持に向けた支援策)を講ずべき法的義務(自立支援義務)があったということができる。

2 自立支援義務の具体的な内容
(1)自立支援義務は,個人の生活能力向上に向けた積極的な施策を実施する義務であり,一般には,その種の施策の取捨選択に関する行政裁量は広いとみられるが,残留孤児の発生及び帰国遅延に関する特殊事情に照らせば,政府は,人道的見地から最善を尽くすべきであったというべきであり,施策の取捨選択の裁量は狭いというべきである。

(2)また,残留孤児と拉致被害者らは,同じく日本人でありながら,その意思に反して外国において長期間生活することを余儀なくされ,その地で新たな生活基盤を確立した後に,生活基盤のない我が国に帰国して生活することになり,日本社会で自立して生活するためには日本語修得・就職に関する支援を必要とする点で共通するから,拉致被害者に対して行われた自立支援策は,残留孤児に対してどのような施策を執るべきであったか,あるいは,どのような施策を執ることができたかを判断する上で参考になるということができる。

(3)そこで拉致被害者に対して行われた自立支援策をみると,拉致被害者が永住帰国する場合,拉致被害者世帯には,拉致被害者等給付金を5年を限度として毎月支給することとされ,その給付金の額は二人世帯で月額24万円,3人世帯で月額27万円,4人世帯で月額30万円というもので,生活保護の水準よりもかなり高く設定されているし,帰国当初にはその4倍の金額が支給されるなど,帰国後の経済的な保障は手厚いものとなっている。
  また,拉致被害者に関する年金の特例措置は,保険料国庫負担(追納義務なし)により,拉致された期間も保険料を納めていたものとして年金給付を受けることができるとされている。
  そして,帰国被害者等は,帰国直後から,社会適応指導,日本語指導,自立を促進するために必要な指導・生活相談等及び社会体験研修を受けることとされ,また,就労支援として,地元公共職業安定所に所長を長とした支援チームを設置し,帰国被害者等の希望に応じ,求人情報の収集・提供,求人開拓,職業相談,職業紹介等を通じて確実な就職に結びつけること,公共職業安定所において求職登録,受講のあっせんにより,無料で公共職業訓練を提供するとともに,訓練受講中の生活の安定を図るなどのため雇用対策法に基づく職業転換給付金制度の適用により訓練手当等を支給することとされ,きめ細かな就労支援策を受けることができる。
  これらの支援策により,拉致被害者は,少なくとも永住帰国から5年間は,所得保障がされ,無理な就労を強いられない状態で,日本語の習得,職業能力の向上に専念することができるし,年金保険料支払義務を果たし続けた者と同様の老後の保障があるため,その分,精神的にも余裕をもって永住帰国後の生活を送ることができる。

(4)拉致被害者に対する上記支援策は,国会が,拉致被害者の「地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るために必要な施策」であるとして政府に実施を求めたものであり(拉致被害者支援法1条,4条1項),拉致被害者支援法は,拉致被害者(及びその家族)が自立して生活できるようになるまで5年程度かかると見込んでいるのである。
  翻って考えるに,拉致被害者は,そもそも北朝鮮当局が計画的に犯した犯罪の被害者である。被害者を暴力によって北朝鮮に連れ去り,肉親との絆を遮断して長年北朝鮮に残留することを強いたのは,北朝鮮当局なのであって,拉致被害者の発生に関して政府には責任がない。また,拉致被害者の救済に向けた政府の対応(帰国支援策)は,客観的に見れば遅すぎたのかもしれないが,拉致被害者の消息を調査することが極めて困難であったことからすれば,その点にはやむを得ない面がある。すなわち,拉致被害者(及びその家族)が自立支援を要する状態となったことにつき,政府の落ち度は乏しい。
  にもかかわらず,国会は,人道的見地,自国民保護の観点から拉致被害者支援法を制定し,政府に対し,拉致被害者に上記のようなかなり手厚い支援策を実施するよう求めたとみられるのである。
  これに対し,残留孤児(及びその家族)が自立支援を要する状態となったのは,既に繰り返し述べているとおり,政府の措置の積み重ねの結果であるから,条理が,政府に対し,残留孤児との関係で実施を求める自立支援策が,拉致被害者との関係におけるそれよりも貧弱でよいわけがないのである。

(5)したがって,厚生大臣(又は厚生労働大臣)としては,原告らを含む永住帰国した残留孤児個々人に対し,日常生活に支障がない程度の日本語能力を身につけ,相応の職に就き自活能力を身につけるまで,一応の目途として永住帰国から5年の期間,日本語の習得,就職・職業訓練に向けた支援を行い,かつ,それらにじっくりと取り組むことができるよう生活保持に向けた支援を行う法的義務(以下「本件自立支援義務」という。を負っていたと認めるのが相当である。
  日本語習得に向けた自立支援策,就職・職業訓練に向けた自立支援策の実施には(予算措置は必要となるものの)特別な立法は不要であり,行政の施策として行うことが可能である。
  自立能力を身につけるまでの生活保持に向けた支援は,もし所得保障の趣旨で給付金を支給しようとすれば特別な立法が必要となろう。残留孤児との関係でも,拉致被害者支援法と同様の立法がされるべきであったと思われるが,現実にはそのような特別立法がされなかった以上,厚生大臣(又は厚生労働大臣)としては,生活保持に向けた支援として生活保護制度を利用するしかなかったことになる(実際にも,認定事実第10の1,第11のとおりであって,原告らを含む多くの残留孤児は,永住帰国直後に生活保護を受給している。)。そして,生活保護の運用の柔軟性には限界があるが(補足性の原則と矛盾する取扱いや合理的な説明が付かない不平等な取扱いが許されるわけではない。),それでも,生活保護制度を適切に運用することにより,永住帰国から5年間程度,帰国孤児が,日本語の習得,就職活動・職業訓練にじっくり取り組めるよう生活の保持を支援することは可能であったと思われる。

3 日本語の習得に向けた支援策の乏しさ
(1)認定事実第7に認定のとおり,政府は,日本語や日本の生活習慣を習得させるため,残留孤児に対し,当初(昭和52年度以降),日本語学習教材としてカセットテープ及びテキストを支給し,昭和59年2月以降,全国各地に定着促進センターを開設し,帰国後約4か月間の日本語教育及び生活指導を行うこととし,昭和63年には,自立研修センターを各地に設置し,約8か月間通所形式による教育を実施した。そして,平成13年11月に,東京都及び大阪府の2か所に,支援・交流センターを開設し,民間ボランティアや地域住民の協力を得ながら,日本語学習支援事業として,通所形式による日本語教育のほか,通信教育やその補完授業としてのスクーリングとして,月1回の対面方式による学習の機会の付与を与えるなどした。

(2)しかしながら,日本語がほとんどできない残留孤児に対し,教材を渡して自習に任せるだけでは,日本語を習得させることは困難であることは自明であり,日本語を習得させるという面からみると,当初の施策(学習教材の支給)は,ほとんど日本語習得の役に立たなかったと思われる。

(3)定着促進センターにおける教育は4か月であり,日常生活に必要な日本語を習得するには短すぎる。
  このことは,前記認定事実第8の1 に認定のとおり,全国協議会が,昭和60年ころから,各機関に対し,4か月の教育では日本語等の教育が不十分であることを訴えていること,昭和61年3月7日の衆議院予算委員会において,委員から「40歳過ぎてから4か月で言葉を覚えて日本の人と接触できるなんていう条件は絶対ない」(甲総A12の8・49頁)と指摘され,同年5月13日の参議院社会労働委員会においても「訓練期間がわずかに4か月,これではどうしても初老期を迎え50歳に手が届こうとしている孤児の方々が,実質的に外国語であります日本語をマスターするというのは非常に難しいのではないか」(甲総117の30・3頁)と指摘されていることからも明らかである。

(4)昭和63年度以降,自立研修センターでは,8か月間,通所して研修を受けることができたが,これでも日本語習得のための期間としては短いし,習熟程度にかかわらず研修が終了することとされていたから,帰国孤児個々人に日本語を習得させるとの姿勢はみられない。
  このことは,定着促進センター自身が,第二言語としての日本語学習が生涯学習的な性格を持つことを考えても,日本語習得のため長期にわたる支援体制が不可欠なはずである(1年程度の支援では足りない)と指摘していることからも明らかである(甲総D第4号証)。

(5)平成8年度から,自立研修センターにおいて,ようやく再指導の制度が実施され,退所後も一定の範囲で再度の研修を受けることができるようになったが,これも自立研修センターが開設してから8年以上も経過した後であり,平成13年11月に支援・交流センターが設置され,これによって継続的な日本語支援策が実施されるようになったが,そのころには,終戦直前に生まれた残留孤児でも,既に50代後半の年齢にさしかかっており,多くの残留孤児が60歳を超えていたことを考えると,帰国孤児に対する日本語修得の支援策の実施は余りにも遅かったのである。

(6)原告ら個々人の帰国後の状況(認定事実第11)に照らせば,政府が原告ら個々人に施した日本語教育に関する支援策は極めて貧弱であったといわざるを得ず,原告らは,政府の支援策によっても日本語をほとんど身につけることができなかったか,あるいは,簡単な日常会話程度しか身につけることができなかったのである。すなわち,日本語教育に関する支援策は,地域社会で自立するため必要な程度−日常生活に支障がない日本語能力を身につけさせる程度のものでは,全くなかったのである。
  なお,現在,日常生活に支障がない程度まで日本語を身につけたとみられるのは,原告番号20・原告○○,原告番号24・原告○○,原告番号26・原告○○,原告番号30・原告○○,原告番号48・原告○○,原告番号60・原告○○,原告番号62・原告○○の7名しかいない。これら7名も,政府の日本語教育に関する支援策によって日本語能力を身につけたのではなく,終戦時に年長であったとか,たまたま永住帰国が早かったとか,本人に独学の才能があった等の条件があったから日本語能力が身についただけである。

4 就労・職業訓練に向けた支援策の乏しさ
  認定事実第7の8及び9に認定のとおり,政府は,残留孤児に対する就労援助策として,定着促進センターにおいて就職相談や指導等を実施し,自立研修センターにおいては,就労指導員を配置して就労相談や指導を行うこととし,昭和57年度から職業転換金給付制度を適用することとし,昭和62年度から雇用促進事業団による就職時の身元保証を実施したことが認められる。これら支援策は,いずれも残留孤児本人の就労を側面的に援助するにとどまるものである。前記認定事実第8の1に認定のとおり,各団体は,政府に対し,残留孤児の現状を踏まえてより積極的な就労支援策を講ずるよう要望していたが,政府は,残留孤児の個別の技能や資格に配慮するなどして積極的に職業をあっせんするまでの施策を講じることはなかったのである。

5 5年間の生活保持に向けた支援がなかったこと
  認定事実第10の3 のとおり,政府は,生活保護の受給期間を原則として永住帰国後1年を目途とする運用をしており,日本語能力や職業能力が十分に身についていない状態であっても,残留孤児に就労を迫っていたものである。

6 被告の国家賠償責任の発生と除斥期間経過による消滅
(1)以上にみたとおり,政府の帰国孤児の自立支援策は極めて不十分なものであった。そして,認定事実第6ないし第8のとおりの一連の施策の在り方,事実の経過に照らせば,厚生大臣(又は厚生労働大臣)は,過失により,戦前の政府の無慈悲な政策によって原告ら残留孤児が中国に取り残されたこと,日中国交正常化後の政府の所為(早期帰国に向けた政治的責任を果たさず,かえって本件帰国制限を行ったこと)が,いたずらに,原告ら残留孤児の帰国を大幅に遅らせ,原告ら残留孤児が帰国後日本社会に適応するのをより一層困難にしたこと,それら事情によって本件自立支援義務が発生していることを認識せず,その結果,本件自立支援義務を懈怠したというほかない。したがって,被告は,国賠法1条1項により,本件自立支援義務の懈怠によって原告らに生じた損害を賠償する責任を負う。

(2)本件自立支援義務の懈怠によって原告らに生じた損害とは,ごく抽象的にいえば,この義務が履行されていたならば原告らが置かれていたであろう状況と原告らの現状との格差であるが,これを認識し金額に評価するのは極めて困難な作業である。
  原告らの永住帰国時の年齢に照らせば,仮に,本件自立支援義務が履行されていたとしても,就職先を見つけることは容易ではなかったかもしれず,原告らが日本社会で稼働できる年数には限りがあり,原告らの大半は,永住帰国時において既に,老後の生活をも支えるだけの生活基盤(年金収入に裏付けられた生活基盤)を築けるほどには若くはなかったのである。
  したがって,本件自立支援義務が履行されていたならば,大抵の原告らが我が国で生活基盤を築いて自活していたであろうと考えることは,やはりできない。本件自立支援義務が履行されてようがされていまいが,残留孤児は,かなりの確率で生活保護を必要とするような生活困窮状態に陥っていたと考える方が妥当であろう。
  そうすると,本件自立支援義務が履行されていたならば原告らは自活できるだけの生活基盤を築くことができたのに,その義務の懈怠によって生活基盤を築くことができなかったのであって,この格差こそが本件自立支援義務による損害である,と考えるには無理がある。
  おそらく,原告ら残留孤児の生活基盤の脆弱さは,本件自立支援義務の懈怠に基づく国家賠償という形ではなく,後記のとおり,生活保護に変わる何らかの所得保障的な給付金制度によって償われるしかないように思われる。

(3)さて,本件自立支援義務の懈怠と生活基盤の脆弱さを結びつけて考えることができないとしても,永住帰国後5年間にわたり,最低限の生活の保持に悩まされずに日本語を学習する機会を与えられれば,原告らが日常生活に支障がない程度の日本語能力を身につけることができ,原告らが地域社会で感ずる疎外感・孤立感は大幅に軽減されたであろうと推認することは許されるであろう。
  また,永住帰国後5年間にわたり,最低限の生活の保持に悩まされずに就職活動・職業訓練を行うための行政の支援があれば,原告らは,就職活動・職業訓練を通じて日本社会をよりよく理解し,自分の年齢や能力に適した仕事に就くことができ,日本社会で自尊心と生きがいを感ずる機会が大きく増えたであろうと推測することもできると思われる。例えば,原告番号26・原告○○は針灸師,原告番号30・原告○○は医師の資格を有していたのであるから,その資格が日本社会でも生かせるよう適切な就業支援がされれば,その両名が,日本社会で自尊心や生きがいを感じて毎日の生活を送ることができたことは明らかである。

(4)以上にみたとおりであって,本件自立支援義務が履行されなかったことによる損害とは,永住帰国後5年間にわたり,日常生活に支障がない程度の日本語能力を身につける機会を奪われ,日本社会をよりよく理解する機会を奪われ,自分の年齢や能力に適した仕事を見つける機会を奪われたという三つの点に見いだすことができる。これら機会の喪失こそが,本件自立支援義務の懈怠によって原告らに生じた損害というべきである。これらは,もちろん財産的損害ではなく無形損害であるから,被告は,慰藉料の支払によりこれを償うべきである。
  そして,原告らは,これら機会を奪われたことにより,その機会が付与された場合と比較して,多大の疎外感・孤独感に苛まされ,自尊心や生きがいを感じる機会を失ったのであり,本件自立支援義務によって生じた損害を償うための慰藉料の額は,それほど少額でよいとすることはできないのであって,当裁判所は,その慰藉料の額としては,原告ら一人当たり600万円が相当と思料する。
  また,原告らが,本件自立支援義務懈怠によって被った損害の賠償を求めるため,本訴の提起及び追行を原告ら訴訟代理人弁護士らに有償で委任することを余儀なくされたことは,弁論の全趣旨に照らして明らかであるところ,本件自立支援義務懈怠と相当因果関係に立つ弁護士費用は,60万円と認めるのが相当である。
  すなわち,本件自立支援義務の懈怠によって生じた損害は,原告ら一人当たり660万円ということになる。

(5)本件自立支援義務の懈怠は,原告らが永住帰国した時に始まり支援期間の末日(5年が経過した時とすべきである。)に終了するが,その懈怠による損害は支援期間の末日に顕在化するものと解される。
  したがって,永住帰国から5年が経過した日から20年の経過により,本件自立支援義務懈怠を理由とする被告の国家賠償債権は除斥期間の経過により消滅する。具体的には,原告番号19・原告○○,原告番号43・原告○○,原告番号44・原告○○,原告番号65・原告○○の原告4名については,本件自立支援義務懈怠を理由とする被告の国家賠償責任は消滅したというほかない。

第4 国会議員の自立支援立法の不作為について

1 日本全国の生活保護受給率が0.79パーセントであるにもかかわらず,残留孤児世帯の生活保護受給率が65.5パーセントという調査結果(平成11年調査)は異常である。
  この調査結果は,残留孤児のように,外国で成長し,日本語も話せず,日本の生活習慣も理解しておらず,若くはない年齢でようやく永住帰国したという境遇の者は,自立して生活することなどできないのが普通であって,自助努力によって自立して生活を営むことを要求することがむしろ酷であることを端的に示している。
  生活保護制度は,自助努力によって生活を営むことができなくなるのが例外的な出来事であることを前提とし,最低生活を保障すると同時に,被保護者の自立を助長することを目的とし,補足性の原則で運用されるが,このような生活保護制度は,残留孤児の生活基盤の脆弱さを補う手段としてふさわしいかどうか疑問の余地が大きい。残留孤児の同情すべき境遇が,戦前の政府の無慈悲な政策に端を発していること,既に説示のとおり,残留孤児に対する帰国支援や帰国孤児に対する自立支援に向けた政府の対応が無責任なものであったことを考慮するならば,その疑問はさらに強くなる。
  また,認定事実第10の3に認定の生活保護の運用実態,すなわち,年金保険料の一括追納が無駄になっている例が多いこと,生活保護を受給している限り中国に里帰りするのが困難となっていること,里帰りしたことが原因で生活補助費を156万円も返還するよう求められた残留孤児があること(原告番号8・原告○○)などは,とても社会正義に適っているとは思えない。原告ら残留孤児の大部分は生活保護を受給しているから,大部分の残留孤児は里帰りや養父母の墓参りさえできないのである。

2 残留孤児については,永住帰国後年月を経ており,その年齢に照らし,今更日本語教育などの職業訓練などの自立支援策を講じることもできなくなっている。そして,残留孤児をめぐる歴史的経緯,残留孤児が帰国支援も自立支援も十分に受けることができず,日本人でありながら日本語も身につけることができなかった特殊な事情を考慮すれば,政府としては,生活保護とは異なる考え方によって運用される,残留孤児に独自の生活維持のための継続的給付金あるいは年金の制度(以下「給付金制度」という。)を実施する必要があろうと思われる。

3 しかし,厚生大臣(又は厚生労働大臣)が,行政上の措置として(特別な立法措置を経ないで),給付金制度を実施することはできないであろうから,結局のところ,国会議員には,残留孤児に独自の給付金制度を定めた立法を行うことが期待されているといわなければならない。しかし,今日までにそのような立法措置がされていない。
  そこで,その点の国会議員の立法不作為が国賠法1条1項の規定の適用上違法と評価されるかどうかについて検討する。

4 国会議員の立法不作為が,裁判所により,同規定の適用上違法であるとされるのは,当該不作為が,個々の国民(本件では原告らを含む帰国孤児個々人)に対して負う職務上の法的義務に違背したと判断される場合である。
  ところで,残留孤児に独自の継続的給付金制度が必要な社会事象が存在するとしても,どのような給付内容を定めれば適法な立法活動をしたことになり,どの水準以下の給付内容を定めただけでは立法不作為の違法が解消されないのかを,国会に代わって司法裁判所が判決で示すことは不可能である。そして,具体的にどのような立法活動をすれば違法状態が解消されるのかを認識しないまま,国会議員に職務上の法的義務の懈怠があるとの判断を下すことは不可能である。
  すなわち,残留孤児に独自の継続的給付金制度の立法不作為については,裁判所が国賠法1条1項の規定の適用上の違法であると評価することができない類の立法不作為であるといわなければならない。
  なお,最高裁判所平成17年9月14日大法廷判決(民集59巻7号2087頁)は,「国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり,それが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合などには,例外的に,国会議員の立法不作為は,国賠法1条1項の規定の適用上違法の評価を受ける」としているが,本件では,同判決にいう「所要の立法措置」が具体的にいかなる内容かを裁判所が確定することが不可能である以上,同判決の判断の枠組みにより,残留孤児に独自の継続的給付金制度の立法不作為の違法を論ずることはできない。

5 また,残留孤児に独自の給付金制度という以外にも,原告らは,国会議員が自立支援義務の具体的施策を定める立法を怠ったことを理由として国家賠償を求めていると思われるが,そのような立法不作為を違法とする余地がないことは上記に述べたところから明らかなことと思われる。

6 以上のとおりであって,国会議員の自立支援立法の不作為を根拠とする原告らの国家賠償請求は理由がない。

第5 除斥期間以外の被告の主張について

1 戦争責任論
  被告は,原告らの犠牲は戦争損害であり,その 補や原状回復の措置がとられなかったとしても,およそ違法の問題は生ぜず,原告らの本件請求は理由がない旨主張するが,前記第1の5に認定の損害(本件帰国制限によって生じた損害)及び第2の6に認定の損害(本件自立支援義務の懈怠によって生じた損害)は,政府関係者が日中国交正常化後にした違法な職務行為による損害であって戦争損害ではないから,いわゆる戦争損害論によって国家賠償責任を否定しようとする被告の主張は失当である。

2 消滅時効
  被告は,本件帰国制限に基づく国家賠償債権につき消滅時効を援用するが,政府は,本件自立支援義務を怠り,日本語も日本社会の生活習慣も理解しない原告らに対し日本語習得のための十分な支援策さえ講じることがなかったのであり,原告らにとって,帰国後3年以内に本件帰国制限に基づく国家賠償責任を追及することなど事実上不可能であったといわざるを得ない。
  そして,政府自身が,帰国した原告らに対して負う本件自立支援義務を履行せず,原告らの生活基盤を不安定なものとし,訴訟の提起を困難にしておきながら,被告が,本件帰国制限に基づく国家賠償債権につき,原告らに対し,帰国後3年以内の訴え提起を要求することは,著しく信義に反するといわなければならない。
  したがって,本件における被告の消滅時効の援用は,法の一般原則を定めた民法1条2項に照らし,許されない。

第6 結論

  以上の次第で,原告番号19・原告○○,原告番号43・原告○○,原告番号44・原告○○,原告番号65・原告○○の本件請求はいずれも理由がないから棄却することとし,それ以外の原告らの本件請求は,表1「損害総額」欄記載の金員及びこれに対する同「附帯請求起算日」欄記載の日から完済まで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し,その余は失当として棄却し,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条,64条を適用し,仮執行宣言については相当ではないのでこれを付さないこととして,主文のとおり判決する。

    神戸地方裁判所第6民事部

            裁判長裁判官   橋 詰    均

                 裁判官   山 本 正 道

                 裁判官   宮 端 謙 一