中国残留日本人孤児訴訟 判決全文

平成18年12月1日判決言渡
平成18年12月1日原本交付
裁判所書記官

平成16年(ワ)第8 3 5号損害賠償請求事件(甲事件)
平成16年(ワ)第1485号損害賠償請求事件(乙事件)
平成17年(ワ)第1026号損害賠償請求事件(丙事件)
(口頭弁論終結日:平成18年7月14日)

判    決
(目 次)
主      文
略語及び用語
事      実
【原告らの請求】
【事案の要旨】
【争いのない事実】
【争点及び争点に関する当事者の主張】
理      由
【認定事実】
第1  満州への移民政策について
  1  満州への進出
  2  満州国の建国及び日中戦争への突入
  3  移民政策
  4  大量移民政策の実現
第2  残留孤児の発生について
  1  戦況の悪化
  2  開拓民に対する対策の欠如
  3  ソ連の対日参戦
  4  大量難民の発生とその状況
第3  日中国交正常化までの引揚状況及び引揚援護政策等について
  1  終戦直後の状況
  2  前期集団引揚げ
  3  前期集団引揚げ後
  4  後期集団引揚げ
  5  政府間交渉等
第4  未帰還者に対する対応(昭和20年代,30年代)について
  1  占領されていた時代
  2  援護法の制定
  3  厚生省による未帰還者の調査
  4  昭和30年代における政府(厚生省)の認識
  5  特別措置法の成立とその後の調査等
第5  訪日調査に至る経緯等について
  1  中国残留邦人の立場,出国方法
  2  日中国交正常化
  3  日中友好手をつなぐ会の要請等
  4  訪日調査の実施
  5  訪日調査と並行してされた調査
第6  残留孤児の帰国手続等について
  1  日中国交正常化前
  2  日中国交正常化後−身元保証の要求
  3  旅費の国庫負担制度等について
  4  身元引受人制度の導入
  5  平成6年以降の取扱いの変更
  6  一時帰国援護
第7  永住帰国した中国残留邦人に対する自立支援策等について
  1  従来の方策
  2  自立指導員制度
  3  自立支度金の支給
  4  語学教材の支給   5  オリエンテーションの実施
  6  有識者懇談会(中国残留日本人孤児問題懇談会)の提言
  7  養父母に対する扶養費支給
  8  施設の設置
  9  各種支援策の実施
第8  自立支援法の制定について
  1  各種団体の働きかけ
  2  自立支援法の制定
  3  国民年金に関する支援策
第9  拉致被害者に対する支援策について
  1  拉致被害者支援法の制定
  2  給付金制度
  3  国民年金制度の特例措置
  4  拉致被害者支援法が定める支援策とその実施
第10  残留孤児の置かれた状況等について
  1  生活実態調査の結果
  2  別件訴訟の原告らに対するアンケート調査の結果
  3  生活保護制度の運用状況
第11  原告らの個別の事情について
【被告の責任】
第1  帰国遅延に関する責任について
  1  帰国の妨げとなる行政行為の違法性
  2  入国の際に留守家族の身元保証を要求する措置
  3  帰国旅費の支給申請手続
  4  身元判明者に対する昭和61年10月以降の措置
  5  被告の国家賠償責任の発生と除斥期間経過による消滅
  6  特別措置法による戦時死亡宣告
第2  原告ら主張の早期帰国支援義務について
第3  自立支援懈怠に関する責任について
  1  帰国孤児の自立支援に関する政府関係者の法的義務
  2  自立支援義務の具体的な内容
  3  日本語習得に向けた自立支援策の乏しさ
  4  就労・職業訓練に向けた自立支援策の乏しさ
  5  5年間の生活保持に向けた支援がなかったこと
  6  被告の国家賠償責任の発生と除斥期間経過による消滅
第4  国会議員の自立支援立法の不作為について
第5  除斥期間以外の被告の主張について
  1  戦争責任論
  2  消滅時効
第6  結論
表1 (損害認定一覧表)
表2 (帰国経過等の一覧表)
表3 (帰国後の日本語教育等の一覧表)
別紙1(当事者目録)
別紙2(原告らの主張の要旨)
別紙3(被告の主張の要旨)
別紙1記載の当事者間の頭書事件につき,当裁判所は,次のとおり判決する。

主    文

1 被告は,原告番号19,43,44及び65の原告4名を除く原告らに対し,それぞれの原告らに対応する表1「損害総額」欄記載の金員及びこれに対する同「附帯請求起算日」欄記載の日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。

2 原告番号19・原告○○,原告番号43・原告○○,原告番号44・原告○○,原告番号65・原告○○の請求をいずれも棄却する。

3 前項の原告4名を除く原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

4 訴訟費用は,これを4分し,その1を被告の負担とし,その余を原告らの負担とする。

略語及び用語

本判決では,次の右欄の概念,法令等を左欄の略語又は用語をもっていう。
満州
GHQ
政府
厚生省・厚生大臣
憲法
援護法
特別措置法
自立支援法

入管法
国賠法
国家賠償責任(債権)
拉致被害者支援法

有識者懇談会

全国協議会
永住帰国
かつて満州国の国土とされた中国東北部
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
戦前及び戦後の日本国政府(内閣及び行政機構)
旧厚生省・旧厚生大臣
日本国憲法
未帰還者留守家族等援護法(昭和28年法律第161号)
未帰還者に関する特別措置
中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6年法律第30号)法(昭和34年法律第7号)
出入国管理及び難民認定法
国家賠償法
国賠法1条1項に基づく賠償責任(債権)
北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律(平成14年法律第143号)
中国残留日本人孤児問題懇談会(昭和57年に設置された厚生省の諮問機関)
中国残留孤児問題全国協議会(民間団体)
中国残留邦人が,我が国への入国後に(就籍手続などを経て)日本人と認められ,日本人として我が国に永住することになった際の帰国

事    実

【原告らの請求】
1 被告は,甲事件の原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対する平成16年4月22日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。

2 被告は,乙事件の原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対する平成16年7月9日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。

3 被告は,丙事件の原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対する平成17年6月7日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。

【事案の要旨】
1 原告らは,いずれも,かつての満州(現在の中国東北部)で肉親と暮らしていたが,昭和20年8月9日にソ連軍が満州に侵攻した結果引き起こされた極度の混乱状態において,肉親と死別又は離別して孤児となり,中国人に養育され,その後日本に帰国した者である。原告らの終戦時(我が国が降伏文書に調印した昭和20年9月2日を指す。以下も同じ。の年齢は13歳までである。

2 原告らは,被告の公務員が,早期に原告らの帰国を実現させる義務(早期帰国支援義務)の履行を怠り,かつ,帰国後に自立した生活を営むことができるよう原告らを支援する義務(自立支援義務)の履行を怠ったと主張し,これら違法な不作為によって損害を被ったとして,国賠法1条1項に基づき,被告である国に対し,一律に,損害賠償金3300万円(内訳は慰藉料分が3000万円及び弁護士費用の賠償分が300万円である。)の支払を求めた。
  なお,附帯請求は,甲事件ないし丙事件それぞれの訴状送達の日の翌日以降の民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払請求である。

【争いのない事実】
1 我が国は,戦前,中国大陸に軍隊(関東軍)を駐留させていたが,関東軍は,昭和6年9月,軍事行動を起こして満州全土を支配し,その後,昭和7年3月1日,関東軍の後押しを受けて「満州国」の建国が宣言され,政府は,9月15日,満州国を承認した。

2 政府は,昭和11年8月25日,七大国策14項目を決定し,その一つとして「対満重要策の確立―移民政策および投資の助長策等」を決定した。
  この国策に基づき,満州へ開拓移民を20年間に100万戸500万人を送出するという満州開拓政策の大綱が決定され,昭和12年以降20年間で100万戸500万人の開拓民を満州に入植させる計画が立案された(ただし,昭和20年8月までに実際に入植した開拓民は32万人余りである。)。
  国策としての満州への開拓民の入植は,満州国内に大量の日本人を植民し,農業その他の事業に当たらせて「国」の基礎を固めるとともに,ソ満国境の守りにも当たらせることにあった。

3 関東軍は,昭和18年以降,戦局悪化に伴い,その大部分が南方又は内地に転用され,その戦力を著しく減衰させた。
  ソ連は,昭和20年4月5日,日ソ中立条約の不延長を通告し,ソ連の満州への侵攻が危惧される状態となったが,関東軍は,その侵攻を迎え撃って撃退するだけの戦力を明らかに欠いていた。そこで,我が国は,朝鮮半島及びこれに近接した満州地域を絶対的防衛地域とするとともに,満州の4分の3を持久戦のための戦場とする方針をとったが,そのことは,満州の開拓民には知らされていなかった。
  関東軍は,昭和20年7月,対ソ戦に備え防衛力の強化のため,在満邦人のうち18歳以上45歳以下の男性全員を召集し(いわゆる「根こそぎ動員」),国境付近に配置した。
  その結果,満州開拓団には,ほとんど高齢者・女性・子供しか残らず,その後の逃避行の過程で多くの犠牲者を生むとともに残留孤児が生まれることになった。

4 ソ連は,昭和20年8月8日,対日参戦通告をし,ソ連軍は,翌8月9日午前零時を期して満州への侵攻を開始したが,大本営は,我が国の国土であった朝鮮半島を確保することを第一義とし,満州を防衛の対象としておらず,関東軍は,軍人・軍属とともに朝鮮半島方面に後退したため,ソ連軍の侵攻は極めて速かった。
  そして,戦況について何も知らされていなかった開拓団民らは,突然のソ連軍の侵攻にさらされ,混乱し,多数の犠牲者を出しながら避難を開始し,避難民となった。
  原告らを含む一般開拓民の逃避行は困難を極め,ソ連軍の襲撃による殺戮,強姦,強奪,集団自決等により多大の犠牲者を生み出した。また,無防備な逃避行に対しては中国人からの襲撃もまれではなかった。

5 ソ連軍の満州侵攻開始後間もなく,我が国は,ポツダム宣言を受諾し,昭和20年9月2日,降伏文書に調印して戦争を終え,我が国は,米国軍に占領された。
  終戦時,満州及び朝鮮半島に国家は存在せず,満州と朝鮮半島北部をソ連軍が実効支配し,朝鮮半島南部を米軍が実効支配し,中国共産党と国民党が中国統一政府の樹立に向けて勢力を競っている状態であった。

6 満州を実効支配するソ連軍が,一般邦人の保護や帰還に無関心あるいは非協力的であったため,満州からの邦人引揚げは非常に遅れ,昭和21年5月にようやく開始された。
  そのため,満州の各所の避難場所に避難していた多数の邦人避難民(ほとんどが高齢者又は婦女子)は,満州の極寒の冬を暖房も食料も乏しい状態で耐え忍ぶこととなり,その越冬の間,餓死者・凍死者・病死者が大量に発生した。また,飢えや寒さを凌いで命をつなぐため,多くの女子は中国人の妻となり(いわゆる残留婦人),多くの幼児は中国人の養子となり(いわゆる残留孤児),中国人の家庭に入って生活を始めた。原告らは,このようにして,中国人の養子となり,終戦後ほどなくして中国人家庭で養育されるようになり,中国人社会で成長したものであり,終戦時における原告らの年齢は13歳までである。

  残留孤児のうち終戦時既に日本語を話す年齢に達していた子でも,中国人家庭,中国人社会に埋没して生活するうち日本語を忘れており,終戦時に日本語を話す年齢に達していない子は,当然のことながら,中国語を母国語として成長した。
  GHQが主導で行った大陸からの邦人の集団引揚げにより,昭和21年5月から昭和23年8月まで104万人余りの日本人が本土に帰還したが(いわゆる前期集団引揚げ),中国人に引き取られた幼い残留孤児がこの引揚げに加わることは不可能であった。

7 我が国は,昭和27年4月,いわゆるサンフランシスコ平和条約発行によって主権を回復したが,昭和24年10月に成立した中華人民共和国政府を承認しなかったため,日中間に国交がなく,政府間での邦人引揚げが開始されるということはなかったが,日中の赤十字社(中国紅十字会及び日本赤十字社)を通じて民間協力による邦人引揚げの動きはあり,昭和28年3月から昭和33年7月までの間,3万2500人余りの日本人が本土に帰還したが(いわゆる後期集団引揚げ),やはり,残留孤児がこの引揚げに加わることは不可能であった。
  その後,日中間の民間交流の動きも冷え込み,昭和33年7月をもって,残留邦人の引揚げが中断した。

8 昭和47年9月29日,日中共同宣言によって日中の国交が正常化した。その時点で,中国からの未帰還者(残留孤児・残留婦人を含む。)の大部分は,中国の黒竜江省,吉林省,遼寧省の東北3省に居住していた。
  もともと,政府(厚生省)は,昭和33年ないし34年にかけて行った調査により,中国からの未帰還者が2万人以上いるものと認識しており,国交正常化の時点でも中国に多数の未帰還者がいることを理解していたが,国交正常化と同時に,政府間で未帰還者の帰還に向けた動きが急速に活発化した,というわけではない。
  厚生労働省の調べでは,国交正常化後に永住帰国した残留孤児・残留婦人の世帯数,人員数を戦後ごとに整理すると下表のとおりとなっている(自費帰国しているなどの事情で厚生労働省が把握していない残留孤児・残留婦人は含まれない。)。原告ら残留孤児に関する限り,国交正常化後の数年間の帰還の動きは極めて緩慢であった。なお,残留孤児世帯の中には孤児夫婦が4組あるため,永住帰国した残留孤児の総数は2503人である。

         残留孤児       残留婦人
        世帯  人員     世帯  人員
昭和47年   0    0       19    57
昭和48年   0    0       70    143
昭和49年   1    5      181    378
昭和50年   9   30       170   485
昭和51年   12   43      100   316
昭和52年   13   56      60   199
昭和53年   20   74      80   206
昭和54年   24   80      118   390
昭和55年   26   110      147   486
昭和56年   37   172      156   509
昭和57年   30   120      126   434
昭和58年   36   154      132   472
昭和59年   35   155      98    320
昭和60年   56   258      113   368
昭和61年  159   645     122   369
昭和62年  272  1094     105   330
昭和63年  267  1097      98   256
平成元年   218   831     125   343
平成2年   181   604     145   325
平成3年   145   463     133   287
平成4年   120   353     163   297
平成5年   115   285     203   353
平成6年   100   245     222   625
平成7年    91   259     308   970
平成8年   110   325     239   811
平成9年   108   407     132   507
平成10年   94   380      66   242
平成11年   65   266      43   174
平成12年   53   216      33   106
平成13年   38   164      30   108
平成14年   22   90      15    51
平成15年   14   54      23    45
平成16年   15   64      22    41
平成17年   13   63      16    37
   合計  2499  9162    3813  11040

9 昭和56年から平成11年にかけて残留孤児の永住帰国が多いのは,この間,残留孤児と目される人々を国費で一時的を訪問させ肉親捜しをするという形での身元調査(訪日調査)が行われたことに関連している。
  訪日調査は,昭和56年3月から平成11年まで合計30回,2116人の残留孤児を日本に招いて行われた。そのうち身元が判明したのは670人であったが,身元が判明しなかった孤児も,全員が日本人であると認められた。

10 残留孤児は,日本国内に生活基盤がなく,日本語を理解することができない状態で,かなりの年齢になってから帰国することになったため,日常生活を送る上でも就労する上でも多大な障害に直面することになり,日本社会に適応することが困難な者が多かった。
  そのため,平成6年4月6日,日本語教育,就職,日常生活などの様々な面で残留孤児等を援助するため,自立支援法が交付され,同年10月1日に施行された。しかし,自立支援法は,一時金支給に関する規定はあるが,生活保持のための金銭給付に関する規定を欠いており,残留孤児たちは,日本社会に適応できず,生活に行き詰まった場合,生活保護を受けることになる。
  残留孤児は,そのほとんどが現在でも日本語でのコミュニケーションに大きな問題をかかえており,かつ,帰国後に年齢を重ねていて就職が困難となっているため,生活困窮者が多い。残留孤児世帯の生活保護受給率は,日本人世帯のそれと比較して非常に高い。
  原告らも,日常生活に支障がない程度に日本語を駆使できる者はごく僅かであり,原告ら世帯の多くは生活保護を受給している。

【争点及び争点に関する当事者の主張】
1 本件の争点は,まず第1に,被告の公務員が,原告ら個々人に対して法的義務として行うべきことを行わなかったという違法な職務行為(公権力の不行使)があったかどうかである。原告らは,被告の公務員が早期帰国実現義務あるいは自立支援義務を負っていたと主張しており,被告はこれを否定している。

2 次に,被告の公務員の違法な職務行為があると認められた場合,これにより原告らにどのような損害が生じたと認められるか,原告らが被告に対し損害賠償債権を取得したとして,これが除斥期間の満了又は消滅時効によって消滅したかどうかが争点となる。

3 上記争点に関する原告らの主張の要旨は別紙2のとおりであり,被告の主張の要旨は別紙3のとおりである。

理    由

【認定事実】
  甲総第1ないし第51号証,第53ないし第110号証,第112ないし第117号証,第119号証ないし122号証,第125号証,第127号証,第128号証,第132号証,第133号証,甲総A第1ないし第26号証,甲総B第1ないし第44号証,第46ないし第51号証,甲総C第3ないし第6号証,甲総D第1ないし第14号証,甲総E第1ないし23号証,甲総F第1ないし第21号証,第23ないし30号証,第32号証,第34ないし第65号証,第67ないし第73号証,第75ないし第110号証,甲総G第1ないし第13号証,甲総H第1ないし第5号証,甲総I第1ないし第13号証,甲総J第1ないし第67号証,甲総K第1ないし第3号証,甲個第1ないし第65号証,乙第1ないし第59号証,第61ないし第165号証,第167号証ないし第171号証,第173ないし第181号証,第185ないし第214号証,第216ないし第227号証(いずれも,枝番があるものは,枝番を含む。),証人井出孫六の証言,原告○○,同○○,同出○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○,同○○及び同○○の各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。

第1 満州への移民政策について

1 満州への進出
  我が国は,明治38年,日露戦争後に締結された講和条約(ポーツマス条約)により,ロシアが満州に保持していた権益のうち,遼東半島南部の租借権と満州南部(長春以南)の鉄道及び附属権益である炭坑の経営権を獲得した。日本は,租借地を関東州と名づけて統治し,半官半民の南満州鉄道株式会社を設立して,鉄道とその附属権益の経営に当たらせた。そして,租借地及び鉄道警備のため軍隊(関東軍)を駐屯し,満州での植民地経営を開始した。
  大正3年,第一次世界大戦が勃発し,欧米諸国の目が一時的に中国からそれると,日本は,中国に対し,権益の大幅な拡大を要求し,大正4年,21か条の要求を承諾させ,大正8年には,山東省の旧ドイツ権益を継承するなどして中国における権益を拡大させていった。

2 満州国の建国及び日中戦争への突入
  関東軍は,昭和6年9月,南満州鉄道の線路を自ら爆破した上,これが中国軍による攻撃であると称して軍事行動に出,満州を軍事的に支配した。その後,昭和7年には,満州国が建国され,政府は,日満議定書の調印により満州国を承認した。我が国は,満州国から,国防・治安維持,鉄道・港湾・水路・航空路などの管理と新設の委託を受け,満州を実質的に支配することとなった。
  もっとも,昭和8年2月,国際連盟総会において,日本を除くすべての連盟加盟国が満州国は日本の傀儡国家であるとしてこれを承認せず,満州国の建国は国際法上違法な侵略行為とされ,日本は国際的非難を浴びることになった。
  昭和12年7月7日,北京郊外の盧溝橋で日中両国軍が衝突する事件(盧溝橋事件)が発生し,これに端を発して戦線が中国各地に拡大した。その後,中国で抗日運動が起こり,国民党政府が中国共産党と統一戦線を成立させ抗戦を続けたため,日本は,中国との間で,全面的な戦争に突入した。

3 移民政策
  政府は,昭和7年から満州への移民募集業務を開始した。当時の我が国では,農村を中心に過剰人口を抱えており,その解決のため海外移民が必要であり,そのころまで北米地域やブラジルを中心とした中南米地域に移民が行われていたが,それら地域への日本人の流入が制限されるようになったため,移民先として満州が適当と考えられるようになった。
  また,軍部・関東軍にとっても,満州における日本人の人口を増加させることは都合が良く,国策として移民を取り上げる一因となった。すなわち,日本人を満州北部に配置することで,対ソ戦の兵員を現地で確保することや,軍の食料や軍需品の供給源とすることが期待されたのである。関東軍統治本部が昭和7年2月に作成した「日本人移民案要綱説明書」においても「邦人を満蒙に移植することの必要なる所以は…満蒙に於ける帝国の権益伸張上,将来帝国国防第一線確保上絶対に喫緊集眉の急務に属するが故なり」「一朝有事の際は鋤を棄てて敢然干戈を採って起つべき同胞に俟の外なしとす」と記載されている。
  一般には,府県・郡・町村などの地域を単位として,開拓団(100から300人程度の武装集団)が編成され,毎年計画的に渡満・入植した。特に,村の人口を組織的に2分して一方を送出し,残る母村の一戸当たりの耕地を拡大する分村方式が,模範的な方法として推進された。そして,開拓団の入植先は,満ソ国境に近い満州の北部,北東部が選ばれた。
  移民用地の買収は,当初,関東軍により,強引に,買収価格も著しく低額で行われたため,現地住民の激しい反感を買った。昭和9年3月には,永豊鎮東方の土竜山に住む謝文東らが反乱を起こし,移民を襲撃して関東軍の連隊長以下17人を射殺する事件が起きた(土竜山事件)。
  関東軍は,同事件を手痛い教訓とし,土地買収業務を満州国政府に引き継ぎ,満州拓殖会社及び開拓総局が移民用地の買収を担当することになった。そして,土竜山事件後,買収価格は引き上げられたとされるが,根本的に改善されたとはいえず,昭和11年3月に康安省密山県九洲屯で既耕地1万5000 (1は約0.72町歩。合計約1万800町歩。)を買収したときは,時価1?当たり120元の土地を1 当たり8.2元と計算して支払われたにすぎなかった。
  開拓総局と満州開拓会社が取得・整備した移民用地は,昭和14年末で約1067万9000ヘクタールに達し,その19パーセントである約203万8000ヘクタールが既耕地であった。
  このように,時価を下回る価格で収用された土地所有者は,同等の単価の価値を有する土地を購入するなら,以前より狭い耕地しか入手できないこととなって収穫量は減少するし,等級が下がるか,未墾地に入植することとなった場合にも,当然収穫率が低下することになる。また,収容された土地所有者が,自作から小作に転落するなど階層が下降することが一般的にみられた。土地所有者ではなく,耕作権・被傭権もない小作農や雇農は金銭の補償も得られず,開拓団の小作人や雇農になるほかなかったし,開拓団にその需要がなければ流民化せざるを得なかった。このように,移民用地の大規模買収は,先住中国人農民を必然的により条件の悪い状況に追いやるものであり,中国人にとっては多くの場合,不本意な強制移住を意味した。
  以上のように,日本人農業移民施策実現のため,既耕地を含む農地を安価に収奪し,中国人農民を強制的に移住させ,又は小作人や雇農にしたため,開拓団は中国民衆の反感を買い,反満抗日軍の襲撃を受けやすく,ソ連の参戦以前にも少なからぬ犠牲者を出す原因となった。

4 大量移民政策の実現
  広田弘毅内閣は,昭和11年8月25日,七大国策14項目を決定し,その中で「対満の移民政策および投資の助長策等」を挙げ,開拓移民として20年間で100万戸500万人を送出するという大綱を決定した(甲総5・181頁)。この大綱は,昭和12年以降の20年間を4期に分け,第1期の5年間に10万戸を居住させ,以後毎期ごとに10万戸増やすというもので,20年後の計画完了時には,100万戸が移住するというものであった。
  この大綱に従い,翌昭和12年から,国を挙げての移民政策が遂行され,大量の開拓移民が満州国へ移住した。満州への移民戸数は,昭和8年には372戸,昭和11年には1383戸にすぎなかったが,昭和15年には1万9908戸まで一挙に増加した。
  昭和12年7月7日,盧溝橋事件に端を発する支那事変が勃発し,その後戦局が拡大し,農村からの軍隊・軍需産業への徴用が急増したことから,第1次近衛内閣は,同年11月30日,一般開拓民のほかに,「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出を閣議決定した(甲総6・246頁)。これは,高等小学校を卒業した14,15歳の少年を一定期間特訓した後満州に送り出すというものである。
  また,政府は,昭和14年12月,「満洲開拓政策基本要綱」を決定し,昭和15年,この要項を実施に移した(甲総7・352頁)。この要綱の中で「日本内地人開拓民を中核として,各種開拓民並びに原住民等の調和を図り,日満不可分の強化,民族協和の達成,国防力の増強及び産業の振興を期し,農村の更生発展に資すること」とされ,移民が重要な国策と位置付けられている。
  政府は,さらにその2年後,太平洋戦争開始直後の昭和16年12月,「満州開拓第二期五か年計画要綱」を策定し,移民政策の継続を表明した(甲総8・431頁)。これは昭和17年以降の5年間で開拓民22万戸110万人を入植させるという計画であったが,当時農村の過剰人口が激減していたため,計画人数を満たすことは困難になりつつあった。そこで,拓務省は,昭和17年,未婚男子で編成された義勇軍開拓団に家庭を持たせ,将来的に満州国で農業を営んでいく条件を整えるため,「女子拓殖事業対策要綱」を策定し,日本国内の未婚女性を義勇軍開拓団へ送ることを試みた。
  こうして政府は,一連の国策として,終戦直前の昭和20年8月8日まで開拓団を送出した。終戦前の同年5月における開拓民は,一般開拓民が22万0257人(団員5万2428人,その家族16万7829人),青少年義勇軍の隊員とその家族が7万9879人(隊員6万9457人,家族1万0422人),訓練中の青少年義勇軍の隊員が2万1738人であり,これらの合計は,32万1874人であった(甲総2・899頁)。なお,戦前,関東州及び満州に居住する一般の日本人の総数は150万人以上であったとされている。

第2 残留孤児の発生について

1 戦況の悪化
(1)昭和14年,ヨーロッパを主戦場とする第二次世界大戦が始まり,日本は,昭和16年12月8日,米国に宣戦布告し,太平洋戦争が開始された。
  我が国は,太平洋戦争開始に先立つ昭和16年2月,ソ連との間でいわゆる日ソ中立条約を締結し,相互に他方の領土の保全,不可侵を尊重することが定められた。その有効期間は5年とし,5年の期間満了の1年前に廃棄通告をしないときはさらに自動的に5年間延長されるものとされた。また,条約締結と同時に発せられた日ソ両国の声明において,ソ連が満州国の領土保全及び不可侵を尊重することが宣言された。

(2)我が国は,昭和18年後半ころ以降の太平洋戦争の戦局悪化に伴い,満州防衛の戦力を相次いで太平洋戦線(グアム,レイテ,ルソン,沖縄等)に送り込むことを余儀なくされた。その結果,昭和19年夏までに,関東軍は,その2分の1に達する戦力を転用してしまい,著しく弱体化した(乙46の849頁)。
  この結果,関東軍は,火力・機動力に関する装備はわずかで,訓練が未熟な者が大部分となり,兵力は,戦闘が予想されるソ連軍と比べ,極めて劣勢であった。そして,戦略上にみても,利用できる地形・築城施設はソ連軍が有利で,関東軍は新陣地構築の余裕さえないと分析される状況であったから,戦闘開始となれば関東軍の不利は明らかであった(乙47・347頁,351頁)。

(3)このような状況下であったから,大本営は,昭和19年9月18日,それまでの対ソ作戦を,攻勢から持久守勢に切り替えた。ソ連に対しては「静謐確保」を基本方針とし,表面強大を装いつつ,兵力が不足して弱体化していることを悟られないようにして静けさを保ち,ソ連が侵攻した場合には,まず満州国境方面の前方要域においてソ連を撃破するとともに,満州の広域を利用してソ連の侵入を阻止妨害して持久を策し,最終的には満州東南部から北鮮にわたる地域を確保して長期持久を図ることとを基本構想としたのである(乙46・850頁)。

(4)昭和19年11月7日には,スターリンが革命記念日の演説で,日本を侵略国と誹謗し,同年12月には傍受電報によってソ連が「敵国日本」なる語を使用していることが明らかとなり,昭和20年2月には欧州から極東へ向けてソ連軍の兵力増強が確認されるに至り,ソ連の対日参戦を暗示する動向が続いた。
  そして,ソ連は,昭和20年4月5日,我が国に対し,日ソ中立条約の不延長を通告した。ソ連は,日独伊三国同盟と対立する連合国側にあり,かつ,日露戦争で奪われた領土と権益を奪還する機会を逃すはずがないのであって,ソ連の対日参戦の意図,すなわちソ連軍の満州侵攻の意図は明白な状況となった(乙47・349頁)。そして,昭和20年5月8日ドイツが全面降伏して欧州方面における戦闘が終局したことにより,ソ連の対日参戦は時間の問題となり,欧州方面から満州方面への兵力の移動が完了した時点で,ソ連軍の満州侵攻開始が予想される状況となった。

(5)大本営及び関東軍も,ソ連の対日参戦を十分予期しており,昭和20年春ころには,早ければ同年夏期に侵攻の可能性があると正確な見通しを持っていた。しかしながら,時の経過とともにその見通しは希望的観測に傾いていき,ソ連軍の対日参戦は,昭和21年の解氷期を待ってからではないかとの判断を行うようになった(甲総13,乙47の350頁)。

2 開拓民に対する対策の欠如
  戦局が煮詰まりつつあった昭和20年5月30日,「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」が策定され,これにより,対ソ対戦の際には,本土防衛を目的として,朝鮮半島及びこれに近接した満州地域を絶対的防衛地域とするとともに,その他満州地域を持久戦のための戦場とすることが決定された(乙46・853頁)。大陸における一般の日本人の多くは,関東州や満州南部の都市周辺に居住していたが,開拓民の多くは,満州の北部や北東部に居住していたのであって,この要綱は,多くの開拓民らの居住地域を戦場とすることを意味し,開拓民から多数の犠牲を伴うことを前提とするものであった。ところが,日本は,対ソ作戦として「静謐確保」の方針をとっており,開拓民らを満州国境付近から待避させることは,ソ連に後退守勢の動きが悟られると考えていたため,開拓民らに対し,何ら事前の措置を講じなかったばかりか,軍の後退守勢の動きを秘匿し続けた。婦女子だけでも疎開させるという措置さえもとられず,開拓民らがソ連軍侵攻に備えて避難する機会が失われた。それどころか,政府は,ソ連軍侵攻が予想される状況になっているにもかかわらず移民政策を維持し,危険な情報を伝えぬまま,昭和20年8月になっても,なお,新たな移民を送り出した(乙47の390頁,354頁,甲総101・15〜16頁,甲総H1・27頁,乙47・346頁)。
  また,関東軍は,昭和20年7月10日,弱体化した関東軍の人員補填のため,在満邦人のうち18歳以上45歳以下の男性全員約20万人を一斉に召集し,これらをソ満国境付近に配置した(いわゆる「根こそぎ動員」)。この結果,開拓団の青壮年男子の人口は極端に減少し,開拓団の構成員は,そのほとんどが高齢者・女性・子供となった(甲総12・178〜183頁,甲総101・16頁,甲総H1・21頁,乙1・196頁)。
  以上のとおり,政府・軍部は,ソ連参戦の可能性を十分認識し,ソ連が現実に侵攻した場合には,国境地帯に多く居住し,婦女子を主な構成員とする日本人移民に大きな犠牲が出ることを十分予想していたが,そのための方策をとることなく,成り行きに任せ,そればかりか,なおも移民を送出し,後の被害を拡大させることとなった。

3 ソ連の対日参戦
(1)ソ連は,昭和20年8月8日,我が国に宣戦布告し,ソ連軍は,翌9日午前零時に満州への侵攻を開始した。このとき,関東軍の主力は,既に満ソ国境線から内部に後退していた(乙47・367頁)。
  大本営は,昭和20年8月9日,ソ連軍の侵攻に対し,大陸命(第1374号)を下達し,その中で「関東軍は主作戦を対『ソ』作戦に指向し皇土朝鮮を保衛する如く作戦す」として「本土決戦の主義に即し,確保地域を『皇土』に限定し」,「満州領域は放棄するも可」という命令を発した(乙47・397〜398頁)。すなわち,満州国を関東軍の防衛すべき対象から外し,放棄することを決定したのである。
  関東軍の主力は,上記大陸命に従い撤退することとなったが,その際,ソ連軍の後方からの侵攻を阻止するため,川に架けられた橋を爆破したため,後に避難のため橋を渡ろうとした開拓団に足止めを食らわせる結果を生じさせた例もあった。

(2)ところで,大本営は,昭和20年8月9日,大陸命において「戦後将来の帝国の復興再建を考慮して,関東軍総司令官は,なるべく多くの日本人を,大陸の一角に残置することを図るべし。之が為,残置する軍,民日本人の国籍は,如何様にも変更するも可なり」との方針を関東軍に命令し(甲総21〜22,甲総H1・27頁等),外務省は,同月14日,満州を含むアジア諸国における在外機関に対し,「ポツダム宣言受諾に関する在外現地機関に対する訓令」を発し,居留民はできる限り現地に定着せしめる方針をとることを打ち出した(甲総19,乙48・53頁)。また,大本営朝枝繁春参謀は,同月26日,「一般方針」として「内地における食糧事情及思想経済事情より考うるに既定方針通り,大陸方面においては在留邦人及び武装解除後の軍人は,ソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とする」,「満鮮に土着せる者は,日本国籍を離るるも支障なきものとす」(甲総22・377〜379頁)と報告し,これに対し,大本営総参謀長は,同月29日,「全般的に同意なり」とした。さらに,同年9月24日の次官会議においても同様の方針が確認された。

(3)このように,日本は,ソ連参戦後の一時期,在満邦人に対して現地土着政策ともいうべき政策を取ろうとしていた。この政策は,終戦後に我が国が占領され,GHQの占領政策により政府の防衛・外交機能が全面停止させられたことから,結果的に実行に移されることはなかったが,政府から政策方針が発せられたために南下が遅れた開拓民の集団もおり,一部において引揚げを遅延させる原因となった(甲総E2,3)。

4 大量難民の発生とその状況
(1)開拓民らは,関東軍による保護や情報提供が全くない状態で,突然ソ連軍の侵攻を受け,極度の混乱状態に陥り,居場所を失った。彼らは,根こそぎ動員により高齢者・婦女子しかいない状態で,戦場に投げ出されるかたちになったのである。
  開拓民らは,財産を捨て,鉄道沿線や南方に向けて避難することとなった。その間,ソ連軍の攻撃や中国人による略奪襲撃に遭い,防戦して戦死したり,自決するものが相次いで生じ,ほぼ全滅した開拓団も数多くあった。また,避難途中,力尽きて倒れ,足手まといとなった瀕死の幼児を捨てた者もいたし,ソ連兵等によって虐げられた婦女子も多数いた。また,難を逃れ,略奪襲撃が治まった後も,食糧不足による栄養失調,悪疫などにより,死亡者が相次いで出た。
  九死に一生を得て,ハルビン,新京,奉天等にたどり着いた者たちも,収容所とは名ばかりの倉庫や学校において,麻袋を着て土間やコンクリートの上にわずかにむしろを敷き,零下30度から40度の寒気の中で越冬することとなった。この越冬中,極めて多数の日本人難民が死亡した。

(2)日本は,昭和20年8月15日,ポツダム宣言を受諾する意思を内外に明らかにしたが,ソ連は,宣言後も日本の軍事行動に何ら変化がないとの見解を表明し,攻撃を続行した。そのため,直ちに戦闘状態がやむことはなく,現地で停戦協定が結ばれるなどした後,同年8月末ころまでにようやく戦闘状態が終結した。
  難民となった開拓民らは,戦闘状態終結後,収容所等において,食糧,衣服,燃料,医薬品が不足する中での越冬生活に入った。このような状況の中で,栄養失調症や伝染病などによる死亡者が続出した。開拓民の多くを占める婦女子は,このような状況の下,現地住民に救いを求め,やむなくそれらの妻となったり,乳幼児を託したりせざるを得ない場合も多かった。また,両親の死に伴い孤児となり,現地住民に預けられる乳幼児も発生した。このようにして,残留孤児が生じることになった。原告らも,このようにして発生した残留孤児の一人である。

第3 日中国交正常化までの引揚状況及び引揚援護政策等について

1 終戦直後の状況
  政府は,軍人軍属の帰還とともに一般邦人が引き揚げてきたことから,その受入れに対処するため,昭和20年8月30日,「外地及び外国在留一般邦人引揚者応急措置要項」を,同年9月7日には「外征部隊及び居留民機関輸送等に関する実施要領」を定め,海外の残留一般邦人の保護及び引揚者の受入援護等に関する措置について基本的事項を示した。さらに,次官会議において,引揚者の受入機関や上陸地の収容施設,食糧,衣料等の調達準備等について具体的施策を定め,独自の立場で引揚援護を実施した。しかし,占領軍が終戦後間もなく進駐し,同年10月25日,GHQの指令により政府の外交機能が全面的に停止され,外国との交渉はGHQを通じて行うか又はGHQが政府に代わって行うこととされた。したがって,引揚援護業務も,GHQの計画に従って実施されることとなった。このような状態は,昭和27年4月28日,政府が連合国との間で調印した平和条約(昭和27年条約第5号。いわゆるサンフランシスコ平和条約)の発効により日本が主権を回復するまで続いた。
  GHQは,昭和20年10月18日,厚生省を引揚げに関する中央責任官庁に指定し,政府に対し,引揚者の受入れのためにとるべき措置について,個別に指令し,昭和21年3月16日,引揚げに関する基本的大綱(引揚げに関する基本指令)を策定した後は,これにより包括的に指令した。
  GHQは,各国からの輸送に当たり,各地の連合国軍及び各国政府と連絡を取り,軍人軍属の復員と緊急を要する地域の邦人の引揚げを優先し,一般邦人については,各国との協定によって順次帰還させる方針を採った。この間,政府は,GHQに対して引揚げに必要な船舶の貸与を要請し,輸送船100隻,LST輸送船85隻,病院船6隻の貸与を受けた(乙1・82頁)。
  満州地域は,終戦後,連合軍から発せられた一般命令第1号によりソ連軍の管理地域となっていたが(乙1・80頁),ソ連軍はGHQの上記方針を受諾せず,また,在満邦人の本国送還について何ら措置を執らなかったため,この地域の引揚げ開始は他の地域に比べ大幅に遅れることとなった。

2 前期集団引揚げ
  ソ連軍は,昭和21年4月,在満邦人引揚げについて措置を執らないまま満州から撤退した。
  当時,中国国内は,国民党政府軍(国府軍)と中国共産党軍(中共軍)の内戦状態にあり,旧満州地域も同様であった。米軍は,昭和21年5月,国府軍の中国東北保安司令官との間で在満邦人の本国送還に関する協定に合意し,昭和21年8月,中共軍との間においても送還協定に合意した。これら協定に基づき,昭和21年5月から同年10月までに約100万人の引揚げが実施された。
  集団引揚げは,残留邦人が満州各地にある日本人民会の主導の下,居留地からコロ島まで移動し,そこで米軍によって集結させられた引揚船に乗船し,日本に入港する方法で行われた。中共軍支配地域における残留邦人については,中共軍から国府軍に引き渡された後,日本人民会の統轄の下で,引揚げが実施された。
  その後も昭和21年11月から昭和23年8月まで,大規模な集団引揚げが順次実施され,合計約4万人の在満邦人が引き揚げることができた。
  もっとも,これら集団引揚げで引き揚げることができたのは,自力でコロ島まで移動することができた者であり,中国人に引き取られた残留孤児が引揚げに参加することは不可能であった。

3 前期集団引揚げ後
  その後,国共内戦が激化し,中共軍が優勢となって両軍の均衡が破れ,輸送ルートが遮断されるなどし,引揚げの条件が悪化した。また,中共軍が満州地域,次いで華北以南を手中に収め,昭和24年10月,中華人民共和国が樹立されると,共産党支配下の中国政府とGHQ管理下の政府の交流も途絶えた。そのため,昭和23年8月以降長らく,統治機構を通じての集団引揚げは実施されなくなり,その後の引揚げは,個別に中国政府の特別帰国許可を得るなどして行われたにすぎなかった(乙1・80〜93頁)。
  昭和23年11月9日,参議院本会議において,「日系の大陸残留孤児救済に関する請願」が採択された。この採択の際,参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会の元委員長から,終戦後,多くの残留孤児が満州各地にいるが,これに対し何ら今日まで対策がとられていないこと,一日も早く救済しなければならない旨の報告がされた(甲総120の1)。
  また,昭和24年ころ,孤児を含む残留邦人が満州地方に取り残されている状況についてしばしば新聞報道がされていた。さらに,昭和24年9月に満州地区から1127名が帰国し,それら帰国者から,東北各地の主要都市はもとより僻村地域において,日本婦人や孤児の姿を見ないところはないといってよく,それらの者は,本人が希望しても引揚げは困難で,救出以外に道がないと報告された(甲総120の2,甲総A4の17,18及び20,乙41・57,58頁)。
  政府は,集団引揚げが困難な事情にかんがみ,個別に引き揚げる者の経済的負担を軽減するため,昭和27年3月から帰国に要する船運賃を国が負担することにした(個別引揚者の船運賃国庫負担制度。乙1・122頁)。しかし,この制度を利用するには日本にいる留守家族の申請が必要とされており,留守家族と連絡を取ることができる者のみを対象とするものであった(乙83,102)。
  我が国は,昭和27年4月28日,サンフランシスコ平和条約の発効により主権を回復し,海外の残留邦人の引揚げを自らの手で行うことができるようになったが,中国と国交を樹立していなかったため,中国支配下にある満州地域からの引揚げについて外交ルートを通じての交渉は困難であったことから,直ちに特段の方策を執ることはなかった。
  このような状況下で,満州地域からの引揚げは中断されたままとなったが,引揚げ再開を望む声もあり,衆議院は,昭和27年6月17日,ソ連及び中共等の地域における未帰還者問題の早急なる解決にまい進すること,留守家族に対しては万全の対策を樹立し,援護の実を挙げることを決議し,政府に対し,積極的な対策を講ずべきとする決議案(海外同胞引揚促進並びに留守家族援護に関する決議案)を採択した(甲総117の2)。また,在外同胞帰還促進全国協議会は,同年7月に,引揚者の証言を取りまとめた海外在留邦人の近況調査書を引揚援護庁に提出した(甲総A4の28)。

4 後期集団引揚げ
  中国政府は,昭和27年12月1日,ラジオ放送(北京放送)により,帰国を希望する残留邦人の帰国の援助を表明した。これを契機として,中国側の中国紅十字会と,日本側の日本赤十字社,日中友好協会及び日本平和連絡会(以下,これらを併せて「引揚三団体」という。)との間で,引揚げに関する会談が重ねられ,昭和28年3月5日,「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」(いわゆる北京協定)に調印した。これに基づき,中国地域からの集団引揚げが再開されることになり,第1次引揚げが昭和28年3月に開始され,同年10月の第7次引揚げまで,合計約2万6000人が帰国した。
  中国紅十字会は,昭和28年11月,引揚三団体に対し,いったん集団引揚げの打切りを通告したが,昭和29年8月,中国紅十字会から引揚三団体に連絡があり,第8次引揚げとして520人が帰国した。
  その後,昭和29年11月3日,中国紅十字会会長李徳全等の来日に伴い,中国紅十字会訪日代表団と引揚三団体との間で覚書が交わされ,これに基づき同年9月から昭和30年2月まで,集団引揚げが実施され,2292人が帰国した(第9次から第11次)。さらに,同年12月,第12次集団引揚げとして141人が帰国した。
  昭和31年6月28日,中国紅十字会代表と引揚三団体との間で「共同コミュニケ」(いわゆる天津協定)が調印され,これに基づき,昭和29年9月27日から,昭和32年5月まで集団引揚げが実施され,1368人が帰国した(第13次から第16次)。その後,昭和33年4月から同年7月まで集団引揚げが実施され,2153人が帰国した(第17次から第21次)。
  ところが,昭和33年5月,長崎の中国切手展会場において,一人の日本人青年が中国国旗を引きずりおろした事件(長崎国旗事件)に関し,岸信介首相がした発言が中国敵視とみられたことを背景に,中国紅十字会が引揚三団体に対し,策21次の引揚げをもって集団引揚げを終了する旨伝え,以後集団引揚げが行われなくなった。
  これら後期集団引揚げで帰国した者は,当初は(第1次から第12次)中国で留用されていた者が多く(国府軍及び中共軍は,終戦後,戦闘,後方勤務,技術,職域等の要員として多数の日本人を留め置いた。),その後,戦犯者や現地で中国の妻となった里帰り婦人が中心となった(第13次から第16次)。そして,第17次から第21次の集団引揚げでは,中国で思想教育を受けるなどした学習組と呼ばれる者の引揚げが主体であった(乙42・58〜60頁)。したがって,原告らのように,中国人の養子として中国人家庭で暮らす者は,後期集団引揚げで帰国した者の中には余り含まれていなかった。
  中国残留邦人は,後期集団引揚げが終了した後,個別に帰国するしか方途がない状況となったが,政府は,引揚げを希望しながら居住地から出港地までの旅費を支弁することが困難な者を援助するため,昭和37年6月から,日本赤十字社を通じて旅費を援助することとした。もっとも,この制度についても,従前実施されていた個別引揚者の船運賃国庫負担制度と同様,日本在住の親族の申請が必要とされていたから,親族と連絡が取れない者にとっては意味がなかった(乙1・122頁,乙103)。

5 政府間交渉等
  政府は,昭和30年7月,在ジュネーブ日本総領事に対し訓令を発し,同総領事は,この訓令に基づき,在ジュネーブ中国総領事に対し,中国残留日本人の引揚問題について,人道上の問題として,できる限りのことを要望する旨の覚書を手交した。これに対し,中国総領事は,同年8月,日本総領事に声明を伝えたが,その内容は,国交正常化交渉について提案するにとどまり,引揚交渉を進展させるものではなかった(第1次交渉。乙1・111,112頁,乙42・38頁)。
  また,昭和30年9月,ジュネーブにおいて開催された国際赤十字連盟執行委員会の会合において,中国紅十字会代表から約200人の日本人の帰国について準備をしている旨の発言があり,政府は,同年10月,在ジュネーブ中国総領事に対し,上記発言等の事実関係の確認と,事実であれば帰国者を受け入れる用意のあることを申し入れたが,その回答は,国交正常化に言及するにとどまり,引揚げを進展させるような内容ではなかった(第2次交渉。乙1・112,113頁,乙42・41ないし43頁)。
  また,在ジュネーブ日本総領事は,昭和32年5月,在ジュネーブ中国総領事に対し,中国地域の未帰還者3万5671人の名簿を手交し,現在生存している者については現状を明らかにし,既に死亡している者についても,できる限り調査してほしいことを申し入れた。これに対し,在ジュネーブ中国総領事は,同年7月,現在中国には行方不明というような日本人は存在しない,中国の侵略戦争に参加して行方不明となった日本人の問題は,中国政府として何ら責任を負うものではない,日中国交正常化をそらす企てには同意できない,岸首相が中国を誹謗する発言を行ったのと時を同じくされた行方不明の日本人の調査に関する要求は受け入れることができない旨の厳しい回答をし,やはり交渉は進展しなかった(第3次交渉)。また,衆議院海外同胞引揚特別委員会の広瀬正雄委員長は,上記第3次交渉と並行して,政府代表の資格ではなく,中国残留の日本人の引揚問題を解決するため,国民の代表として中国訪問計画を立案し,中国側に訪問を受け入れるよう申し入れたが,拒否の回答が寄せられた(乙1・112,113頁,乙42・46ないし50頁)。
  このように,昭和30年代以降,日中間において,政府レベルでの交渉は,当時の日中の外交関係上の問題もあって,進展がみられなかった。このような状態は,民間レベルでの交渉でも同様であった。すなわち,我が国の留守家族団体全国協議会会長は,昭和32年8月,中国人民外交学会会長から招待を受けて中国を訪問し,政府首脳と会談するなどし,昭和32年12月から昭和33年9月までの間に5回,中国側に生存残留の見込みが高い約1900名のカードを送り,消息調査を依頼したが,昭和36年,そのうち極めて一部について回答されたにすぎなかった(乙42・192頁)。

第4 未帰還者に対する対応(昭和20年代,30年代)について

1 占領されていた時代
  終戦後,未復員者(旧軍人軍属の未帰還者)については旧陸海軍の復員官署が,一般邦人未帰還者については外務省が,それぞれ調査を行うこととされていたが,現地からの情報によって,一般邦人の引揚げが必ずしも順調に行われていないこと等が明らかになり,内閣に設置された引揚同胞対策審議会は,昭和23年10月9日,「未引揚邦人の氏名,所在,生死の別等を調査することは,極めて緊要なるにつき,政府はみぎ調査を実施するに必要なる措置を至急講ずること」を決議し,政府に要請した。また,昭和23年12月に特別未帰還者給与法が公布されるなどし,ソ連邦の地域内の未復員者と同様の実情にある一般邦人は「特別未帰還者」としての処遇を受けることになり,これによって特別未帰還者の名簿を作成するため,未引揚邦人の調査究明をする必要に迫られた。そこで,これら目的を達成するため,昭和23年11月,外務省内に引揚調査室が創設され,そこで一般邦人未帰還者の調査究明が組織的に行われることになった(乙1・180頁,乙41・108頁)。
  ここでの調査は,特別未帰還者の名簿作成等のための資料整備に主眼がおかれ,@未引揚邦人届の収集,A帰還者から覚書を徴収して行う消息不明者の個人究明,B現地からの通信の収集,C死亡現認書の認証及び死亡証明書の発給,D各地域における終戦以降引揚げまでの状況資料の整備,E残留者の状況に関する各種の調査,F満州開拓団における調査,G未帰還者に関する各種集計表の作成等が行われた。
  外務省引揚課と厚生省が協議して作成した未帰還者統計資料によれば,昭和25年5月1日の時点で,「満州及び関東州」における未帰還者は,生存資料のある者が5万3948人,死亡者が15万8099人,生死不明の者が2万6492人とされていた(乙2・77頁)。

2 援護法の制定
  昭和27年に日本が主権を回復すると,未帰還者問題は国民の強い関心を呼ぶに至り,昭和28年8月1日,援護法が公布,施行された。援護法は,未帰還者及び留守家族に対する援護を目的とし(1条),未復員者及び一般邦人未帰還者のうち自己の意思により帰還しないと認められる者の留守家族に対し,留守家族手当を支給すること(5条)を定めていたが,施行後3年を経過した日(昭和31年8月1日)以後においては,過去7年以内に生存していたと認めるに足りる資料がない未帰還者の留守家族には,留守家族手当を支給しないこととされていた(13条)。もっとも,この規定は支給期間を延長するべく順次改正され,昭和31年には「同法施行後6年を経過した日(昭和34年8月1日)以後」,昭和34年には「同法施行後9年を経過した日(昭和37年8月1日)以後」において,「過去7年以内に生存していたと認める資料がない未帰還者の留守家族には手当てを支給しない」ものとされた(乙42・120頁)。
  また,援護法29条は,「国は未帰還者の調査究明をするとともに,その帰還の促進に努めなければならない」旨を定めており,この規定に基づき,昭和29年4月,厚生省内に未帰還調査部が新設され,そこで未復員者の調査と一般邦人の未帰還者の調査が一元的に行われることになった(乙1・172頁)。未帰還調査部は,当初6課で組織され,そのうち5課が旧軍人軍属の状況不明者の調査,他の1課が未引揚邦人の状況調査を担当することとなった。その後,機構改革により構成が変わるなどした後,昭和37年7月に,援護局調査課に改編された。

3 厚生省による未帰還者の調査
(1)厚生省(未帰還調査部及び援護局調査課)は,次のとおり,一般邦人未帰還者の調査を実施した。
  満州地域の一般邦人及び開拓民の調査は,日ソ開戦前における職域,隣組及び開拓団等ごとにその人員,人名を把握し,行動群調査によりその足取りを追い,この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし,個人ごとの最終消息を基にして個人究明を行い,生死の判定のよりどころを求めることを重視して調査を行った。そして,中国から帰還した者に対し,日本上陸時に聴取調査をし,帰郷した後は,通信調査を実施し,個別に招致したり,訪問して事情聴取し,情報を得るよう努めた(招致調査,探訪調査)。
  昭和32年ころからは,現地に残留している者や一時帰国し再渡航した者で居所が明らかな者に対し,通信調査を実施することとし,昭和33年及び昭和35年には,中国地域に残留しその居所が明らかな者の名簿を作成し,それらに対し留守家族を通じて通信調査を行った(乙1・196〜198頁)。

(2)また,昭和33年12月には,未帰還者の一斉特別調査が実施され,未帰還者の名簿を帰還者に送付し,回答を収集して消息資料とするなどの調査を行った。これにより,未帰還者1475名の消息に関する資料を更新することができた(乙42・208〜210頁)。もっとも,当時の外交状況にかんがみ,ソ連地域や南方諸地域に対し行われた在外公館等を通じての国外調査は,中国残留邦人に関して行われることはなかった。

(3)以上の調査によって得られた情報は,個人ごとに編綴して整理するものとされ,まず,留守家族からの届出等により未帰還者ごとに究明用のカード(究明カード)を作成し,新たな情報や資料を入手したときに,それら情報を追加する作業を行っていた。

(4)ただ,上記の厚生省の調査は,援護法に基づく留守家族手当の支給要件の有無の調査,すなわち,生存が確認されている者については帰国の意思の有無を判定し,状況不明者については生死の確認及び死亡処理の可否を判定するというところに主眼が置かれていた。したがって,残留孤児の人数や居住場所を把握することや,生存が確認された者の早期帰国を援助しようというところに大きな関心を向けて調査が行われたというわけではない。
  このことは,厚生省引揚援護局が毎年度作成していた「未帰還者等に関する調査整理業務実施計画」において,状況不明者の減少を図ることが目標とされ,戸籍法89条による処理や戦時死亡宣告による死亡認定がその重要な手段とされていたこと,未帰還者に関する特別措置法施行後は戦時死亡宣告の申立てが処理の重要な目標とされたことに現れている(乙42・125,126,168〜172頁)。

4 昭和30年年代における政府(厚生省)の認識
(1)前記のとおり,政府は,昭和32年5月,ジュネーブにおいて未帰還者3万5767人の名簿を手交し,生存している者の現状を明らかにしてほしいことと,死亡している者についてできるかぎり調査してほしいことを申し入れたが,このとき政府が手交した名簿には,留守家族から未帰還である旨の届出がされており,帰国及び死亡したことの確認がされていない者が登載されていた。そのうち,「昭和24年以降のある時期に最終の消息のある者」として5689名(第1類),「昭和23年以前のある時期に生存資料のある者1万8315名のうち,中国人等と結婚したか,中国人等に養育されていた消息のある者」として2705名(第2類)が挙げられていた。
  政府は,昭和32年4月当時,第1類の5689名と第2類の2705名の大部は生存していると考えられ,その他の者も含めて7000名を超える未帰還者が生存していると推定できるとしていた。その中には「中国人等に養育されている孤児」が2053名含まれていた(甲総78,79)。すなわち,政府は,その当時,中国国内に取り残されて生存する日本人孤児が多数いるとの認識を有していた。

(2)昭和32年の厚生白書では,生存者の状況について,現在,中共地域に生存している者の総数は7000名を上回るものと判断されるが,これら生存者の大部分は国際結婚の婦人であるので,いわゆる里帰りによる帰国は別として,真に帰国を希望する者は少ないと記載されている(甲総121の1)。

(3)昭和33年7月4日,衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会において,当時の厚生省引揚援護局長は,中国国内にいる未帰還者について,大体6000人位いると考えてよいが,その内訳は,国際結婚した者や中国人にもらわれていった子供など,実質的に中国人になった者が大部分で5000人位を占めると考えており,残りの1000名程度についても差し当たり帰国の希望をもっている者は非常に少数であると考えている旨の発言をしている(甲総34)。

(4)昭和35年の厚生白書では,中共地域において,未帰還者のうち推定生存者6000人のうち,帰国希望者は200人ないし300人と思われると記載されている(甲総121の2)。

(5)昭和37年4月17日,衆議院社会労働委員会において,当時の厚生省引揚援護局長は,中国地域の残留者約300人が,その家族又は日本赤十字社あてに帰国を希望する手紙を送付していることを認識していると発言していた(甲総117の20)。

5 特別措置法の成立とその後の調査等
(1)政府(厚生省)は,上記のとおり,未帰還者の調査業務に当たっていたが,昭和30年代には,未帰還者数が急速に減少したとはいえ,なお消息が判明しない者が多数おり,それらの大部分は生存の望みが薄いのに,これをいつまでも放置しておくことは留守家族の意にも沿わないと考え,消息不明者に対する最終処理をする必要があると判断するようになった(乙1・169頁,乙42・203〜205頁)。
  また,援護法に基づいて支給される留守家族手当は,昭和34年8月1日以降,生存が確認できない未帰還者の留守家族に対する支給を打ち切ることとされていたから,それまで(昭和34年7月末まで)に未帰還者の状況を把握し,調査究明を完結させる必要があった(乙42・99頁,乙42・125,126頁)。
  しかしながら,昭和34年7月末までに未帰還者に対する調査究明を終えることは事実上不可能であったため,未帰還者の最終戸籍処理について特別な措置を講じ,これを未帰還者の最終処理に結びつける方針が立てられた。
  それまで,未帰還者の死亡処理は,生存の疑いがない者については事変による死亡報告(戸籍法89条),生存不明者については失踪宣告制度(民法30条)によって処理が行われていたが,これら制度を利用しても未帰還者全部を処理することは期待できなかったので,特別な死亡宣告制度を新設して戸籍上の最終処理を図ることとされたのである(乙1・224頁)。

(2)政府は,昭和32年12月,死亡推定措置等を盛り込んだ厚生省試案を公表したが,留守家族団体代表から反対意見が出されるなどしたため立法化に至らなかった。
  昭和33年3月,未帰還問題解決促進全国留守家族大会が開かれ,@未帰還者の調査に全力を尽くし,引揚を促進すること,A留守家族の心情に即して未帰還者の最終処理を急ぐこと,B留守家族の援護をよくし,死亡処理した未帰還者の家族に,特別な弔慰と慰霊の措置を執ること,が決議された。この決議は,留守家族の間において,調査を尽くすことを要求する声がある一方で,最終処理を求める声があることに配慮したものである(乙42・207頁)。
  厚生省は,未帰還者に関する特別措置の法律案についてさらに検討を進め,昭和33年12月,要綱案を引揚同胞対策審議会に諮問して同審議会の賛意を得,その要綱案に基づいて法律案を起草し,国会審議を経て,特別措置法が制定され,昭和34年4月1日に施行された(乙1・229頁)。

(3)特別措置法は,「未帰還者のうち,国がその状況に関し調査究明した結果,なおこれを明らかにすることができない者について,特別の措置を講ずることを目的」とし(1条),未帰還者に係る戦時死亡宣告の請求は,厚生大臣が当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行うことができることとなった(2条)。そして,未帰還者が戦時死亡宣告を受けたとき,遺族に対して弔慰料を支給することとされ(3条),弔慰料の額は,戦時死亡宣告を受けた者一人につき3万円又は2万円とされた(6条)。また,戦時死亡宣告の請求を行う厚生大臣の権限は,未帰還者の本籍地の都道府県知事に委任することとされている(14条,特別措置法施行令1条の2)。
  なお,昭和34年当時,中卒者の初任給が1万円を超えたということが話題となる時代であったから,上記弔慰料は,決して低額ではない(甲総A106)。

(4)特別措置法施行後,厚生省による未帰還者に対する調査業務は,同法に基づく戦時死亡宣告による処理を中心とするものに移行した(乙42・168〜172頁)。
  厚生省は,調査業務の実施計画を立案し,都道府県に通知していたが,これによると,生存の可能性が高い者については,生存の事実及び帰国意思の有無に関する資料を収集すること,生存の可能性の少ない者については,死亡を確認しうる資料又は戦時死亡宣告該当者と認められる資料を収集すること,戦時死亡宣告の該当予定者とされた者については,留守家族の意向を調査することとされていた(乙61,62)。
  一方で,生存が確認された者については,残留事情を追求調査し,帰国意思がないと認められた者については,未帰還者の対象外とする処理がされていたが,昭和37年ころからは,その調査は積極的に行うこととされた。帰国意思の有無の調査においては,その意思がないとされれば,未帰還者の対象から外され,調査に区切りをつけることができたから,そのような結果を求めるあまり帰国意思がないとの認定に傾きがちであり,恣意的ともいえる認定もされていた(甲個65の1ないし9,乙62,乙61)。
  そして,厚生省は,約1000人を「自己の意思により帰還しないと認められる者」と認定した(乙1・198頁)。

(5)戦時死亡宣告の審判申立ては,厚生省が,まず保有の資料(最終消息資料等)により該当予定者を決定して都道府県に通知し,都道府県を通じて留守家族の意向調査を行った上,その同意を得て,都道府県知事名で行うこととされていた(乙42・215,216頁,乙63)。
  昭和34年当時,未帰還者として調査対象とされていた者は約3万1000人であったが,特別措置法施行後昭和39年までに戦時死亡宣告による処理が進み,昭和39年度末には,未帰還者として調査の対象とされていた者は6145人になり,日中国交正常化後の昭和47年11月には3543人にまで減少した(乙1・173,233頁)。
  中国地域に限ると,未帰還者として調査対象であった者は2万0798人とされていたが,昭和51年までに約1万4000人が戦時死亡宣告による処理がされ,未帰還者としての調査対象から除かれた(乙1・198,233頁)。
  本件の原告ら65名についてみると,戸籍上の身元が判明している者が32名いるが,そのうち実に22名について戦時死亡宣告がされ,戸籍上死亡したものと取り扱われていた。

(6)厚生省は,特別措置法成立以後,日中国交正常化に至るまで,戦時死亡宣告による処理や帰国意思不存在の認定による処理に主眼を置いており,未帰還者の調査究明は,あまり進展しなかった(乙2・257頁)。
  また,厚生省は,戦時死亡宣告によって未帰還者としての調査対象から外れた者について,直ちにそれらの資料を処分することはせず,他の諸資料と区分して整理保管することとしていたが,そのような者については,死亡処理がされ一応の区切りがついたことから,その生存の事実が判明し,戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じるまで,ほとんど調査を行わなかった(甲総117の19,乙61ないし64,甲総G1ないし11)。

(7)政府は,昭和35年10月25日付けの通知をもって,未帰還者が帰国する際,戸籍謄本の提出を義務づけた(乙42・348頁)。これにより,戸籍を持たない者のほか,戸籍があってもそれを取得する手段をもたない未帰還者の帰国の道が事実上閉ざされることになった。そして,残留孤児の多くは,戸籍を持っていなかったり,自己の身元を知らなかった者であるから,戸籍謄本を取得する手段を持ちえず,この通知に基づく運用により,多くの残留孤児が,帰国したくても帰国できない状態に置かれたことになった(乙126の2,4,5)。

第5 訪日調査に至る経緯等について

1 中国残留邦人の立場,出国方法
(1)終戦の時点で中国に統一政府はなかったが,中国共産党は,その支配下地域に地方政府を設置しており,外国人(中国では「外僑」と呼ばれる。の調査・登録作業も行っていた。地方政府は,例えば,昭和21年には,チチハル市に居住する外国人が3万6363人であること,その大部分である3万5993人が日本人であること,ハルビン市に居住する外国人が13万6616人であり,そのうち8万4986人が日本人であることを把握していた。
  昭和24年10月に中華人民共和国が建国された後も,中国政府は,国家の危機管理という観点から日本人の調査・管理を強化しており,中国公安当局は,誰が日本人でその住所がどこかを把握し,登録しており,日本人を日本に送還する(特に生活苦に陥っている日本人は早急に送還する。との基本方針を早い段階で決めており,国交のない政府にラジオを通じて呼びかけ,後期集団引揚げ(昭和28年3月から昭和33年7月まで)につなげたのである。
  中国の公安当局が日本人を調査・管理していたから,後期集団引揚げの際,個々の日本人に帰国の意思の有無を確認することができたのである。

(2)原告らのように幼くして中国人家庭に入った残留孤児についても同様である。ある中国人が日本人の孤児を養育している事実は,周辺の地域住民に隠し通せることではないから,公安当局は,早い段階から当該事実を把握し,当該孤児を日本人として登録していた。
  そのため,当該孤児自身が自分が日本人だと気付いていない場合でも,公安当局と周辺社会はその子が日本人であることを知っていたのであり,文化大革命の時期(昭和40年11月〜昭和51年10月),日本人であるとの自覚のなかった残留孤児でさえ,日本人であるとして差別や虐待の対象とされたのである。
  このように,原告らを含む日本人残留孤児のほとんどの住所,氏名は,中国政府によって正確に把握されていたのである。ただし,後期集団引揚げの際,残留孤児は幼く,自らの意思で帰国を決意し,中国人養親の保護下から離脱することなど不可能であった。

2 日中国交正常化
  昭和47年9月29日の日中共同宣言により,我が国と中国の国交が正常化し,これを契機として在北京日本大使館が開設された。これにより,中国残留邦人の帰国を期待する者が増加し,帰国を願う手紙が在北京日本大使館,厚生省,都道府県などに殺到し,また,直接日本の留守家族のもとへ帰国を願う手紙ももたらされた。この背景には,中国残留邦人の多くが,いわゆる文化大革命の時期(昭和40年11月〜昭和51年10月)に,敵国人の子,異分子・反革命分子あるいはスパイとして様々な差別,嫌がらせ,暴力にさらされ,中国人社会での生活に絶望したことも関係している(乙2・397頁)。
  廖承志中日友好協会会長は,昭和48年5月31日,中国訪問中の日本人代表団に対し「中国残留の日本人のうち,里帰りや帰国したい者の希望に沿う努力をしている」と述べ,周恩来中国首相は,同年6月3日,中国訪問中の川崎秀二衆議院議員に対し「中国にいる日本人で中国人の妻や家族となっている人々の里帰りを全面的に支援したい」と述べた。
  在中国日本大使が,昭和48年8月,中国政府に対し,中国残留邦人に関する資料の提供,速やかな出入国許可証の発給,日本大使館に自由に出入りできるよう配慮することなどを申し出たところ,中国政府は,理解を示し,解決を要する関連問題(中国人養親への補償問題等)もあるとしながらも,協力する基本方針をとっている旨回答した(乙181)。
  ところが,政府(厚生省)は,中国残留邦人の帰還に向けて何らかの特別な措置を執ることはせず,当初は,寄せられた手紙と国内における資料とを照合し,家族に確認するといった国交正常化以前と同様の調査をするにとどまった。このような消極的な姿勢がとられる理由の一つとして,予算措置を伴う積極的な施策を講じることが困難な事情もあった。すなわち,中国残留邦人の多くは,戦時死亡宣告によって死亡したことになっており,大蔵省が死者とした者の帰還に向けた施策に予算を付けることに消極的であったという事情があった。

3 日中友好手をつなぐ会の要請等(甲総A5の19,43)
  このような状況下において,日本の留守家族等の民間ボランティアの帰国活動が活発化し,昭和48年,留守家族らが「日中友好手をつなぐ会」を結成し,同会を中心とした肉親捜しの活動が展開した。そして,マスコミ各社が,このような民間団体の活動を広く報道するようになって,日本国民の関心を呼ぶようになった。また,昭和49年には,朝日新聞がボランティアによる残留孤児の肉親捜しに連動して,残留孤児から寄せられた中国からの便りを報道したことが反響を呼んでいた。
  一方,残留孤児の多くが自分や両親の氏名,居住地や離別状況等の手掛かりを覚えていなかったり,記憶が曖昧であったし,養父母も残留孤児の身元資料を有していない場合が多かったから,従来どおりの保有資料を基にした調査では身元調査が困難な事例が多く生じていた。
  そこで,日中友好手をつなぐ会は,昭和51年8月,孤児を帰国させて身元調査(訪日調査)をすべきであり,そのため政府は予算を組むべきである旨の決議をし,まずは250人の訪日調査費用として1億8000万円余りの予算措置を講じることを求めた。しかし,政府は,訪日調査を行うことに前向きではなく,予算措置を講じて訪日調査を実施しようとはしなかった。
  なお,旧日本軍少尉である小野田寛郎は,昭和49年2月,30年近く身を隠していたフィリピン・ルバング島から帰還したが,政府は,小野田元少尉の生存情報を把握してから,約1億4000万円もの費用を投じて調査を行い小野田元少尉を生還させたものであり,旧軍人の帰還と満州開拓民の帰還とでは,政府の対応は著しく違っていた。

4 訪日調査の実施
(1)政府は,訪日調査の実施に消極的であったが,残留孤児の問題に関する世間の関心は高まっており,昭和50年3月からは,国内での公開調査を実施したところ,最終的に437名中166名の身元の確認することができた。
  このようなこともあり,訪日調査の実施を求めるマスコミや世論の声が次第に大きくなったことから,マスコミや世論に後押しされるようにして,昭和54年9月ころから,身元が確認できない残留孤児について,一定期間日本に招き,報道機関の協力を得て肉親捜しを行うという形での訪日調査の実施に向けて検討を開始し,昭和56年3月からこれを実施した(乙2・403頁)。

(2)訪日調査は,@政府が作成した訪日調査名簿を中国政府に送付し,中国政府が残留孤児であると確認した者を訪日調査対象者として政府に通知することとされたから,日中両国政府で孤児と確認された者だけが,訪日調査に参加することとなり,A訪日が確定された孤児について,各種資料を照合しながら肉親関係者の抽出を行うとともに,報道機関の協力により孤児の手掛かりを公表して,訪日期間中の調査効果を高めるための準備をした上で,B孤児が訪日すると,厚生省係官が本人から聞き取り調査(面接調査)を行い,C肉親関係者が名乗り出た場合には,孤児と対面させ確認を行い(対面調査),D場合によっては血液鑑定(平成2年以降はDNA鑑定)を行うというものであった。

(3)訪日調査は,昭和56年3月から平成11年まで計30回実施された。1回あたりの訪日人数は,おおむね50名から100名程度で,多いときで200名が参加した。身元の判明率は,昭和58年までは50パーセントを超えていたが,徐々に低下し,平成2年以降は10パーセント程度に落ち込んだ。合計で2116名が参加し,うち670名の身元が判明した(乙74)。

5 訪日調査と並行してされた調査
(1)厚生省は,昭和58年3月,「肉親探しの手掛りを求めている中国残留日本人孤児」(3分冊)を作成し,各都道府県及び市町村等に配付し,一般に孤児に関する情報の提供を求めた。その後も適宜情報を更新し,情報の提供を求めた(乙2・412頁)。

(2)また,厚生省は,昭和62年8月24日,元開拓団等の代表者からなる「身元未判明孤児肉親調査委員会」を開催し,3年計画で各都道府県に「肉親捜し調査班(同調査員及び厚生省職員)」を派遣し,ブロック別単位で肉親関係者や開拓団関係者等の協力を得て,国内における未帰還者及び孤児に関する情報の収集等を行うこととし,昭和62年度から平成元年度の間に,いわゆるキャラバン調査を延べ25回(各10日間)行い15人の孤児について有力情報を得た。このうち12人について,再度訪日調査に参加させたところ,9人の身元が確認された(乙79,80)。
  そして,キャラバン調査の結果を踏まえ,国内における肉親調査のため,平成2年度以降,元開拓団関係者等当時の事情に精通した者を身元未判明孤児肉親調査員として都道府県に配置し,肉親関係者等からの情報収集などを行うこととした(乙2・413頁)。

(3)平成6年以降,厚生省職員が訪中し,日中両国政府のいずれかが残留孤児と確認できない者について,中国政府の協力の下,中国現地での残留孤児等との面接調査や手掛かり資料の収集等を実施し,残留孤児である蓋然性が高いと判断した者について訪日調査に参加させた(乙2・411頁)。

(4)また,平成12年度以降,訪日調査に代えて,調査担当官を中国に派遣し,日中政府共同で面接調査を行い(共同調査),日中両国政府で残留孤児と確認された者について,日本で顔写真,身体的特徴,肉親との離別の状況等の情報を「孤児名簿」として公開し肉親情報を収集し(情報公開調査),肉親情報のあった者について訪日させ,肉親と思われる者との対面調査(訪日対面調査)を行った(乙3)。

第6 残留孤児の帰国手続等について

1 日中国交正常化前
(1)もともと,日本の国籍を有する中国残留邦人が,戦後,我が国に引き揚げるという場合,政府の帰国許可を得なければ帰国ができないということはありえない(日本人の帰国の権利は憲法上保障されているものと解される。)。

(2)中国に在留する外国人が中国から出国しようとする場合,外国人の管理を行う公安当局に申請して,中国政府発行の出国許可証を得なければならなかったが,中国政府は,後期集団引揚げ(昭和33年7月まで)が終了した後も,日本人又は元日本人(中国政府が中国の国籍を取得したとする者である。ただし,政府は,中国政府を承認していない国交正常化前の時点で,その者の中国籍取得・日本国籍離脱を認めていたのかどうかは,必ずしも判然としない。乙135からすれば,そのような元日本人も日本の国籍を有する者として入国していたのではないかとも思われる。が我が国に帰国するため,家族とともに出国することを基本的に許可していた。
  中国政府は,在留日本人又は元日本人が帰国を希望して出国許可証の下附を申請した場合,政府が発行する日本人又は元日本人であることの証明書(戸籍に関する証明書ともいうべきものである。)を要求することが多かった。
  そのため,政府は,帰国希望者の留守家族又は日本赤十字社(留守家族がない場合)の申請を通じて,帰国希望者に戸籍に関する証明書を発行していた。帰国希望者及びその家族は,中国政府発行の出国許可証と政府発行の戸籍に関する証明書によって帰国していたのである(乙188)。

(3)この取扱いは,日本人にとって,帰国のため余分な手続が課されたことになるが,元日本人あるいは帰国に同伴する中国人家族にとっては,外国人として必要な旅券や査証さえ不要ということになり,便宜的な取扱いとなる。ただ,日中国交正常化前,政府は,中国旅券の効力を認めなかったし(中国旅券は無意味),中国内に領事館を置いて我が国への入国査証を発給するということもあり得なかったから,元日本人について,外国人としての入国手続を要求することなど,そもそも不可能であった。

2 日中国交正常化後−身元保証の要求
(1)政府は,日中国交正常化後,それ以前に中国の国籍を取得した日本人は,日中国交正常化の日(昭和47年9月29日)に日本の国籍を喪失したとの見解に立ち,以後,そのような者を外国人として取り扱うことにし,中国旅券と査証による入国を求めることになった(甲総123,乙185)。
  中国旅券を所持する者は,(中国政府がその者を残留孤児と認めていようがいまいがともかく)中国人であるとして入国手続を実施すべきであるとされ,帰国の際,他の共産圏諸国から我が国に入国する外国人と同じ入国手続が求められることになった(乙189)。

(2)外国人が上陸(入国)するには,原則として有効な旅券で日本国領事官等の査証を受けたものを所持し,かつ,その者が上陸しようとする出入国港において,法務省令で定める手続により,入国審査官による上陸のための審査を受けることが要件とされており(入管法6条),査証を受けるためには,申請に当たり,身元保証書の提出が必要とされている(平成2年法務省令第15号改正前の入管法施行規則6条9号)。
  したがって,日中国交正常化前は身元保証がなくても入国が認められていた,元日本人及び同伴の中国人家族については,身元保証がなければ帰国できないこととなった。そして,この身元保証は,留守家族によるものとされた(乙133)。

(3)残留孤児にとって,帰国手続の際,日本人として扱われるのか,外国人として扱われるかは重大な問題となる。
  政府は,日中国交正常化の当初,日本の国籍を有しながら中国旅券の発給を受けた者(中国政府が中国人と扱っている者)について,日本の国籍を失っているか否かの判断が困難であるとの考えに基づき,日本人としての手続による帰国を認めていた(乙135)。
  しかし,政府は,昭和49年10月ころまでには,残留孤児を含めたすべての中国旅券所持者に対し,一律に外国人としての帰国手続を要求するようになった。政府は,中国政府から旅券の発給を受けているという事実から,旧国籍法下(昭和25年6月30日以前)で婚姻,認知等により中国国籍を取得したことにより日本国籍を喪失したか(旧国籍法18条,23条),あるいは自己の志望によって中国国籍を取得したことにより日本国籍を喪失している可能性が高いと判断したことによる(国籍法11条1項,昭和59年法律第45号による改正前の同法8条,旧国籍法20条)。
  さらに,政府は,中国旅券を所持する残留孤児について,入国後も外国人として取り扱うことにし,外国人登録をするよう指導しており,残留孤児については,戸籍が判明していようといまいと,ともかく外国人として扱う方針を徹底していた。

(4)結局,身元保証なしに帰国できるとされたのは,日本国籍を有することが確認できる者で,かつ,中国政府からも日本人として扱われた者だけとなった。しかし,中国人の養父母に育てられた残留孤児は中国旅券の発給を受けることになるから,残留孤児の中でそのような条件を満たす者はほとんど想定できず,残留孤児は,事実上,外国人としての入国手続が要求されることになった。
  政府(法務省)がこのような帰国手続をとっていたため,身元が判明している孤児であっても,留守家族の身元保証を得て外国人として我が国に入国することにしなければ帰国ができないこととなり,身元が判明していない孤児については,そもそも我が国に入国することが極めて困難となった。

(5)なお,法務省入国管理局長が外務大臣官房領事移住部長あてに発した昭和61年7月19日付け照会文書(乙173)には,「終戦前に我が国から中国本土に渡航し,その後も引き続き同地に居住している者(いわゆる残留孤児を含む。)の中には,日本戸籍の存在が確認され,又は新たに日本戸籍への就籍が許可されているにもかかわらず,中国出国に当たり,日本旅券によることができず,事実上中国旅券に日本の入国査証を必要とされているものがありますが,これらの者は,実質的には日本人であり」「日本旅券または帰国のための渡航書の発給を受けて帰国すべきものである」との記載があり,法務省は,残留邦人のうち日本戸籍を有する者は日本人として扱うべきであるとの認識を有していたことがうかがえるが,それでも,そのころ,行政上の措置を改め,入国手続において残留孤児を日本人と同様に取り扱うようにしようとはされなかったのである。

3 旅費の国庫負担制度等について

(1)前記のとおり,我が国は,中国から日本へ引き揚げる者等に対し,昭和27年3月から帰国に要する船運賃を負担し,昭和37年6月から日本赤十字社に委託した上で,中国国内の居住地から出港地までの旅費を負担していたが,昭和48年4月から,いずれの旅費も国が負担することとなった(甲総44,乙104)。
  そして,昭和48年10月16日付け法務省援第1052号通知により,中国からの引揚者らに対し,中国国内の旅費及び中国の出境地から日本までの船又は航空機の運賃を国庫負担とすることにした(甲総45,乙84)。
  この制度は,日本の国籍を有し,終戦前から引き続き外地に居住していた者(これらの者を両親として終戦地外地において出生した者を含む。)及びその家族並びに終戦前から引き続き外地に在住し,外国人と結婚したことによって日本の国籍を失った元日本婦人及びその未成年の子等を対象としており,その申請手続には戸籍の提出が必要とされていた。
  そして,これら帰国旅費の申請手続は,いずれも引揚希望者の在日留守家族によって行われるものとされ,その周知方法も,留守家族を経由した通信による方法によるのみであって,日本が中国在留者に対し,直接知らしめるなどの方法がとられることはなかった。
  国がこのような方法をとったのは,それまで,都道府県,留守家族を経由して,未帰還者等と連絡を取ることとしていたし,帰国希望者が本人であるかを判断するには留守家族によって申請することが確実であると考えてのことであったが,その結果,身元が判明しない者や日本在住の留守家族等の協力が得られない未帰還者等は,これら国庫負担制度を利用することができないこととなった。

(2)昭和60年に,身元引受人制度の創設に伴って身元未判明孤児の帰国が開始された以後は,身元未判明孤児やその家族についても,帰国旅費の国庫負担が行われるようになった(乙86)。

(3)なお,帰国旅費国庫負担制度の対象となったのは,上記のとおり,中国残留邦人本人とその家族であり,その家族の範囲は妻及び未成年の子に限られていたが,平成4年度以降,身体等に障害を有する残留邦人については,扶養するため同行する成年の子1世帯を,平成6年度以降は,高齢(65歳以上。平成7年度以降は60歳以上とされた。)の残留邦人を扶養するため同行する成年の子1世帯について対象とされた(乙2・418,419頁)。

4 身元引受人制度の導入
(1)訪日調査を実施すると,身元が判明しない孤児(留守家族の身元保証があり得ないから,政府の取扱いでは外国人扱いがされる)から,日本への永住帰国の希望が寄せられるようになった。
  また,日中両政府は,昭和58年1月から,中国残留日本人孤児問題に関して協議を行い,その協議の結果,昭和59年3月17日,両政府間で口上書が取り交わされ,これにより,「政府は,孤児が自ら日本国に永住することを希望する場合には,その在日親族の有無にかかわらず,これを受け入れ」,「(日中)双方は,すでに訪日親族捜しをしたが親族が判明しなかった孤児を優先させることに同意する」こと,「政府は,孤児の養父母,配偶者,子女及びその他孤児の扶養を受ける者が,孤児と共に日本国に永住することを希望する場合には,その希望を受入れ,孤児と共に訪日できるための査証を発給する」ことが確認された(乙85,190)。

(2)そこで,政府は,この口上書に従って身元未判明孤児及びその家族の帰国を受け入れる必要が生じ,帰国の際に身元保証書を要求していた運用を通達により改め,昭和60年度以降,帰国旅費国庫負担承認通知書及び定着促進センター(当初の正式名称は「中国帰国孤児定着促進センター」,平成6年4月以降の正式名称は「中国帰国者定着促進センター」である。)への入所通知をもって,身元保証人の身元保証がなくても査証を発給することとした。そして,帰国後,定着促進センターに入所中に身元保証人に代わる身元引受人をあっせんすることとし,身元引受人において身元未判明孤児の身元を引き受け,その世帯の身近にあって,自立に必要な助言・指導を行わせることとした(乙2・422,423頁,乙13,乙186)。

(3)一方,身元が判明している孤児については,そのような制度が適用されなかったから,従前どおり,帰国するためには,身元保証人(留守家族)の身元保証書が必要とされていた。
  政府は,昭和61年10月15日から,運用を通達により改め,日本戸籍の存在が確認され又は新たに日本戸籍への就籍が許可されている者及びその家族のうち一定の者について,査証の際に身元保証書の提出を要求しないこととした。もっとも,査証申請において,@在日関係者からの招へい理由書,A戸籍謄(抄)本又は就籍許可を証する公的文書の写し,B親族関係を証する公的資料等の提出を要求し,@の招へい理由書には,招へい経緯,入国後の落ち着き先の住所・連絡先等の記載が必要とされ,これは,落ち着き先未定のまま帰国しトラブルを起こすことのないよう,連絡・世話をしてくれる人物がいることを確認する意味で求められたものであったから,身元判明孤児が帰国するためには,身元保証までは必要ないにしても,親族等在日関係者の協力を得なければ帰国できない運用は維持されたことになる(乙173,187)。

(4)このように,身元判明孤児が帰国するには,留守家族等の協力が不可欠であった。
  しかしながら,身元が判明しても,必ずしも留守家族の協力が得られるわけではないし,それまで一時帰国の際に身元引受けを行ってきた親族が死亡して在日親族そのものがいなくなったり,在日親族が世代交代し,関係が薄まるなど,様々な事情から,留守家族の協力を受けられない者が多数生じていた。そこで,身元未判明孤児については,身元引受人制度によって永住帰国が可能であるのに,身元が判明しているためその制度の恩恵を受けられず,永住帰国ができないという現象が生じ,身元判明孤児から,国や民間団体に援助の手を求める手紙が寄せられるようにもなった。
  そこで,政府は,新たに特別身元引受人制度を創設し,帰国を希望している身元判明孤児につき,留守家族による協力が得られない場合に,身元引受人のあっせんを行うなどして,その身元保証を得ることとして永住帰国できるようにした。特別身元引受人制度は,身元判明孤児については平成元年7月から,中国残留婦人等について平成3年度から実施された(乙2・399,400,423,424頁,乙14)。

(5)身元判明孤児が特別身元引受人制度の適用を受けるためには,@肉親が死亡している場合又は不明である場合,A肉親が孤児の受入れを拒否し,長期にわたり説得したにもかかわらず納得が得られない場合,Bその他肉親が家庭の事情等により孤児を受け入れることができないなど,肉親以外の者が帰国受入れを行うことがやむを得ないと判断されることが必要とされた。そして,上記Aの要件のうち,「長期にわたる説得」とは,おおむね6か月間にわたり定期的に説得を行うことで,説得方法は,親族の受入れ拒否の原因が経済的な理由や長期間中国に居住していた判明孤児を受け入れることに対する不安である場合に,その誤解や不安を解消する方法ですべきであるとされた(乙191)。
  また,政府は,平成3年に運用を改めるまで,身元判明孤児について特別身元引受人の決定がされた場合には,身元判明孤児の親族から身元判明孤児が特別身元引受人の行う帰国手続により,永住帰国することに異存がない旨の確認書を提出することとしていた(乙14)。これは,身元判明孤児の親族に上記A及びBの事情がある場合に必要とされる要件であり,身元判明孤児が永住帰国した場合に身元判明孤児と親族との関係に生じ得る摩擦を未然に防止するという観点から設けられたものである(乙14,192)。
  このように,政府は,身元が判明している孤児の帰国や帰国後の生活について,できる限り,親族の関与を求めていた。

5 平成6年以降の取扱いの変更
(1)政府は,平成6年1月以降は特別身元引受人が行うこととされていた帰国手続を直接政府が行うこととした。その結果,身元引受人と特別身元引受人に大きな違いがなくなったので,平成7年2月以降両制度を一本化した身元引受人制度を実施した(乙15)。

(2)平成6年6月10日開催の衆議院法務委員会において,法務省入国管理局長は,「中国残留邦人が日本へお帰りになるときは,日本人でございますので,入管法上は特別保証人とか身元を保証する人とか,そういうたぐいの者は一切必要ございません。帰国いただいて入国手続を済ます上では何ら問題はございません」「これらの方々が日本へお帰りいただく上では入国管理法上必要なものは何もないわけでございます」「我々から見れば,この身元引受人云々というのは入国の問題ではなくむしろ入国後…円滑な生活をしただく上で大事な制度ではなかろうか,入国上は必要はない…と理解しております」と発言し,入国手続の際に中国残留邦人を日本人として扱うことを明言しており(甲総188号証),残留孤児が帰国する際,外国人としての入国手続を求める取扱いは,そのころまでに改められた。

(3)政府は,平成12年度以降,上記のとおり,肉親調査の方法を集団訪日調査から訪日対面調査に改めたが,事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については,肉親情報がない等により訪日対面調査に至らない場合でも,残留孤児として日本に帰国できることとした。

6 一時帰国援護
  政府は,中国残留婦人等を中心とした一時帰国を希望する者の要望に応え,昭和48年度以降,親族訪問,墓参等を目的として一時帰国を希望する者に対し,中国の居住地から日本の落着先までの往復の旅費を支給することとした。この一時帰国旅費の支給は,当初一度限りであることを想定していたが,昭和62年度以降,随時その要件を緩和し,平成7年度以降,前回帰国から1年経過すれば受給できることとした。
  また,身元未判明孤児について,祖国訪問との位置付けにより,平成6年度以降,一時帰国旅費を支給している。

第7 永住帰国した中国残留邦人に対する自立支援策等について

1 従来の方策
  従来は,昭和21年4月25日次官会議で決定した「定着地に於ける海外引揚者援護要綱」(乙2・492頁)に基づき,戦後海外に残留する者に対し,政府は引揚援護を,地方自治体は帰国した後の定着地での定着自立支援をそれぞれ担当することとされ,各地方自治体が,定着自立支援政策として,帰国者向け一時宿泊施設を設置し,日本語教育を行うなどする役割を担うこととされていた。

2 自立指導員制度
  政府は,昭和52年度以降,定着自立支援策として,引揚者生活指導員(昭和62年度より「自立指導員」に改称。以下,引揚者生活指導員及び自立指導員を併せて「自立指導員」という。)による支援を行っていた。これは,中国をはじめとする海外からの引揚者に対し,言葉,生活習慣等の相違から,定着先の地域社会で定着し自立していく上で種々の困難を来している状況にかんがみ,
  生活等を指導する者を派遣し,引揚者の生活に関する諸問題に応じ,必要な助言,指導等を行うというものである。
  自立指導員は,残留孤児に対し,相談や助言を行うとともに,市区町村,福祉事務所,公共職業安定所等の公的機関と緊密な連携を保ち,必要に応じて帰国者をこれらの機関の窓口に同行して仲介をするなどの役割が期待された。また,昭和62年度から,日本語の指導,日本語教室等日本語補講についての相談及び手続の介助を行うこと,職業訓練が行われるよう援護措置を講ずることとされた。
  自立指導員の派遣期間,派遣日数等については,制限が設けられており,創設当初は,派遣期間は帰国後1年間,派遣回数は24日とされていた。それらは,順次拡大され,派遣期間は昭和62年度に定着後2年間,昭和63年度に定着後3年間とされ,派遣回数も順次拡大された。平成15年度についてみると,派遣期間は,定着後3年間,派遣回数は,1年目は84日以内(同伴帰国した子世帯等と同居している場合等は120日以内),2年目は12日以内(都道府県知事が必要と認める場合は72日以内),3年目は12日以内とされている(乙22〜24,乙2・427〜429頁)。

3 自立支度金の支給
  政府は,昭和28年3月以降,引揚援護政策の一つとして,残留孤児に対し,帰国後の当面の生活資金等に充てるものとして,帰還手当を支給してきた(乙4)。
  制度発足当時,支給額は原則として一人当たり1万円(18歳未満は半額)とされたが,昭和48年度から毎年1万円ずつ増額され,昭和51年度は一人当たり5万円とされ,昭和53年度には一人当たり10万円,昭和54年度には10万7000円と順次増額され,以後消費者物価上昇分が反映されることとなった(乙2・419頁)。
  昭和62年度には,名称を「自立支度金」に改めるとともに,少人数の世帯について一定の金額を加算して支給することとなった(乙5)。
  その後も順次増額され,平成15年度における自立支度金の額は,大人一人につき16万0400円で,例えば,大人四人,小人一人世帯の場合,72万1800円となる(乙6)。

4 語学教材の支給
  政府は,昭和52年度以降,中国からの引揚者に対し,日本語習得のための語学教材として,カセットレコーダー,カセットテープ及びテキストを帰国直後に支給してきた(乙37,38)。

5 オリエンテーションの実施
  政府は,昭和54年4月以降,残留邦人及び同伴帰国者(以下「中国帰国者」という。)に対し,中国から帰国した直後,帰国後の援護の内容,各種行政機関窓口,生活習慣の相違等帰国後直ちに必要となる事項についてのオリエンテーションを実施している(乙7)。

6 有識者懇談会の提言
(1)厚生省は,昭和57年3月,広く有識者の意見を聞いて具体的な施策を検討する必要があるという認識の下に,厚生大臣の私的諮問機関として,日本経済新聞社顧問圓城寺次郎を座長とし,日本孤児問題連合会顧問,日中友好手をつなぐ会会長等18名で構成する有識者懇談会を設けた。
  有識者懇談会は,昭和57年8月26日,「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書を厚生大臣に提出した(乙88)。

(2)上記報告書は,まず「孤児問題についての基本的な考え方」として,次のとおり意見をまとめた。
  「孤児問題を考えるに当たっては,孤児がこのように過去の不幸な戦争のなかで肉親と離別し,昭和47年の日中国交正常化までの長い間,自分の身元を明らかにしたいと思いながらその方法さえないまま,中国で暮らしてきたということを忘れてはならない」
  「孤児が自分の身元を明らかにしたいと願うことは,人間の本性に立った自然な気持ちであり,彼らが孤児となった事情を考えれば,身元調査の依頼を受けた政府が全力を挙げて肉親捜しを行うべきことは当然である。また,孤児がその家族とともに日本に帰国することを望む場合には,政府,国民が一体となって,その受入れ,日本社会への定着のための援助を行う必要があることはいうまでもない」
  「肉親捜しを通じて,日中両国間の交流が深まっているが,社会体制が異なっていることもあり,中国にいる孤児たちの間に,日本社会がバラ色で,日本に帰ってさえくれば幸せになれるかのような,事実と相違した情報も流布されているようである。日本は自由経済体制のもとで経済発展をしてきたが,それだけに,自分の生活は自分の手で築いていかなければならず,既に中年に達している孤児が,言葉や社会習慣の異る日本で職を得て自立していくことは決して容易ではない。政府が帰国した孤児の定着のために根幹的な対策を進め,地方公共団体やボランティア団体が新たに地域住民となった孤児たちのためにあたたかい援助を行うことが必要なことはいうまでもないが,それはあくまでも側面的な援助であって,最終的には,孤児自らが努力して困難を克服していかなければならない。日本に帰国したほうが幸せか,中国に留まったほうが幸せかは,そのような日本社会の実情をよく知ったうえで,孤児自身がよく考えて判断することであるが,日本国民も孤児の判断を誤らせないように,日本社会の実情を孤児に正しく理解させるように努力しなければならない。孤児も,帰国を決意する以上は,多くの困難を乗り越えていくだけの覚悟が必要であろう」

(3)また,有識者懇談会は,上記報告書において,次のとおり具体的な方策について提言した。
@ 肉親捜しの計画的推進を図るものとし,当面,一回の訪日調査対象孤児は60人程度,訪日調査の回数も年3回が限度であると考えられる点を踏まえ,昭和58年度以降60年度までの3か年計画で肉親捜しを完了させるべきである。
A 養父母等の扶養のため,孤児が自立できるまでの間,養父母等に必要な資金を公的資金により低利で貸し付けるとともに,確実に中国の養父母等に送金するため,送金の代行を行う制度を設けることが適当である。
B 長きにわたり孤児を育ててくれた養父母や中国社会に対し,政府が具体的な形で感謝の気持ちを表明することが必要である。
C 帰国後の定着化を図るため,帰国者センターを設け,孤児等の引揚者を帰国後直ちに一定期間入所させ,日本語教育を含めた生活指導を行い,退所後も自立できるよう生活指導員を派遣したり就職をあっせんするなどの援護施策を講じていく必要がある。
D 身元の判明しない孤児の永住帰国を受け入れるため,身元引受人制度を発足させる必要がある。
E 民間援護活動の推進を図る必要がある。

(4)次いで,有識者懇談会は,昭和60年4月以降4回にわたり帰国後の定着自立促進対策を中心に討議を行った上,同年7月22日,厚生大臣に対し,「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書を提出した(乙2・668〜672頁)。
  上記報告書は,「孤児問題についての基本的な考え方」として,「肉親捜しの依頼があった孤児については,政府が全力を挙げて肉親捜しを行うとともに,日本への帰国を望む孤児については政府及び国民が一体となって受け入れ,日本社会への定着のための援助を行う必要があること」,「帰国した孤児が定着し,自立するためには,孤児自らが努力して困難を克服していかねばならないことはもちろんであるが,政府,地方公共団体は言葉と文化の異なる日本に帰国した彼らの直面する様々の困難を少しでも軽減するために,物心両面にわたる施策を積極的に推進する必要があること。また,孤児の肉親も,言葉と文化の違いに起因する様々の摩擦を忍耐強く克服して,孤児と共に問題を乗り越えていくことが必要であること」などと意見をまとめ,次のとおり提言した。
@ 肉親捜しの早期完了のため,日本にいる肉親等からの情報提供の促進,情報システムの整備,再訪日調査を講ずる必要がある。
A 中国政府と協議をまとめ,養父母等に対し早期に扶養費の支払を開始するよう求めたい。また,養父母や中国に対し,国民全体として感謝の意を表明する必要がある。
B 定着自立促進対策の総合的推進として,定着促進センターの拡充及び指導内容の充実を図る必要があり,落ち着き先における日本語指導及び生活指導の強化,住宅対策,子弟等の就学対策,就労対策,民間援護活動を図る必要がある。

7 養父母に対する扶養費支給
  昭和56年3月に始まった訪日調査により,肉親判明後,日本に永住帰国する孤児が増加したが,このことにより,中国に残された養父母の生活の保障をどのようにするのかの問題が生じた。
  政府は,現実に永住帰国した孤児が中国に残る養父母を扶養することは極めて困難であることを考慮し,「中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について」(昭和58年4月8日閣議了解)等を定め,残留孤児の養父母の扶養費として,中国側と取り決めた一定金額を援助することとされた。
  また,前記のとおり,昭和59年3月17日,日中両政府間で口上書が取り交わされたが,そこで「日本国に永住帰国した孤児が,中国に残る養父母に対し,負担すべき扶養費の2分の1は,政府が援助する。扶養費の標準額,支払方法等については,日中双方が別途協議する」こととされた。
  その後,細部について事務レベル協議が行われ,昭和61年5月,具体的な内容について意見が一致し,口上書が交換された。これにより,養父母に対する扶養費は,日本国と財団法人中国残留孤児援護基金が2分の1ずつ負担することとなった(乙2・437,438,672頁)。

8 施設の設置
(1)定着促進センター
  日中国交正常化以後,永住する中国帰国者が増加するに従って,彼らが定着していく過程で様々な問題が生じていることが指摘されるようになった。有識者懇談会が昭和57年8月に提出した報告書の中で,中国帰国者の定着を図るためのセンターを設けることを提言したことは上記6 で述べたとおりである。
  そこで,政府は,昭和59年2月,埼玉県所沢市に定着促進センターを開設し,中国帰国者に対し,帰国後の一定期間,入所形式による日本語教育・生活指導等の援護を行うこととした。
  その後,昭和62年度に,北海道,福島県,愛知県,大阪府及び福岡県の5か所に定着促進センターを開設し,平成3年度には,帰国者数が漸次減少したことにより,北海道,福島県及び愛知県の3か所を閉所した。そして,援護対象者の拡大(高齢の中国残留邦人を扶養するため同伴帰国する子1世帯への援護)による帰国者数の増加が見込まれたことに伴い,平成6年度には,所沢センターの分室を山形県及び長野県に開設し,さらに,平成7年度には,新たに宮城県,岐阜県及び広島県の3か所に開設した。その後帰国者数の減少に伴い,これらを順次閉所し,現在は,埼玉県,大阪府及び福岡県の3か所において運営している。
  定着促進センターの入所期間は帰国後4か月程度とされ,この間,帰国者は,宿泊施設の提供を受け,生活援助費の支給を受けながら指導を受ける。入所期間は,有識者懇談会がセンターでの入所は4か月程度にとどめるのが適当であると提言したことを参考に決められた。定着促進センターでは,学習適性,日本語能力等によりクラス編成をした上,月曜日から金曜日までの週5日間,各5時限(1時限=50分)の研修と各1時限の個別指導等補講や定着指導を行うこととされ,基礎的な日本語の研修,基本的生活習慣の指導,個別の就職相談・指導をはじめ,職業についての講話,公共職業安定所や職業訓練校の見学,職場体験実習,地域体験実習等が実施されている。
  また,身元未判明孤児に対し,就籍手続の説明や指導が行われている(乙2・420〜421頁,乙8ないし12)。

(2)自立研修センター
  全国協議会などボランティア団体は,定着促進センター退所後の中国帰国者を対象に,地域社会における定着自立を促進するための自立支援施設を開設するよう政府に要望していた(甲総A7の60,9の1)。
  政府は,これら要望に応える形で,昭和63年度以降,中国帰国者自立研修センターを全国各地に設置し,都道府県に委託して,定着促進センター退所後の中国帰国者に対し,通所形式による日本語研修,生活相談・指導,就労相談・指導等を行うことにした(乙16)。
  自立研修センターは,昭和63年度に15の都府県に設置され,平成7年度に5か所増設された(乙18)。
  自立研修センターでは,中国帰国者を対象として,原則8か月程度,通所形式により,日本語研修,地域の実情を踏まえた生活相談・指導,就労相談員による就労相談・指導,大学進学準備過程,地域住民との交流事業等が行われる。
  日本語研修は,日本語習得の状況に応じてクラス分けを行い,1日2.5時間,1週12.5時間を基準として,8か月412時間のカリキュラムを組み実施することとされた。また,就労を促進するため,専門的な知識を有する就労相談員が通所者の就労に関する相談に応じ,個々の実情を踏まえて就労へ向けた計画的な指導を行い,公共職業安定所,公共職業訓練施設,企業等への集団見学や個別の引率等を行っている。また,平成4年度以降,早期離職を防止し,安定した就労を促すことを目的として,自立研修センター通所中あるいは修了後1年以内に就労した中国帰国者を対象に職場を訪問して,事業主に中国帰国者の職業意識・慣習等を説明し,認識を深めてもらうとともに,中国帰国者の勤務状況を把握し,指導を行うことにより,中国帰国者と事業主との相互の調整を行う就労安定化事業を実施している。平成9年度以降,講演,体験発表等の交流会等を行う就職促進オリエンテーション事業を実施している(乙19ないし21)。
  研修期間は,当初,原則8か月とされていたが,平成8年度から改められ,帰国後5年以内の者で,日本語の習得が不十分である者,又はより高度な日本語の習得を希望する者を対象に,自立研修センター退所後,1週7時間を基準として,2年以内に限り日本語の再指導を行うとされた。再指導の時間帯は,通所者の就労等の妨げとならないよう夜間及び土日に行うこととされ,その指導時間は週7時間を基準とすることとされた(乙20,21)。

(3)支援・交流センター
  政府は,中国帰国者の地域社会における定着・自立を中長期的,継続的に支援していくため,平成13年11月,東京都及び大阪府の2か所に,中国帰国者支援・交流センターを開設した。
  支援・交流センターにおいては,自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象とし,地方公共団体との連携の下,民間ボランティアや地域住民の協力を得ながら,日本語学習支援,相談窓口を設置し,中国語での電話事業,中国帰国者相互及び地域住民との交流事業,ボランティアの活動情報の収集と提供,中国残留邦人問題の普及啓発事業等を行っている。
  日本語学習支援事業としては,進度別,目的別の日本語学習コースを開講し,通所形式による日本語教育のほか,通信教育を行い,平成14年度からは,その補完授業としてのスクーリングとして,月1回の対面方式による学習の機会の付与を与えるなどしている(乙25〜27)。

9 各種支援策の実施
(1)自立支援通訳派遣事業
  政府は,平成元年6月から,日本語の会話が不自由な中国帰国者について,医療機関における適切な受診を確保するとともに,関係行政機関等での助言,指導及び援助を受けやすくするため,定着促進センター退所後(入所しない者については帰国後)3年以内の者に対し,一定の派遣要件の下,日中両国の通訳の能力を有し,中国帰国者の援護に理解と熱意を有する自立支援通訳の派遣を行うこととした(乙30,31)。

(2)巡回健康相談事業
  政府は,平成元年6月から,中国帰国者に対し,日本と中国との間にある医療事情や食生活等の相違等により,医療・保健衛生面における生活指導を行う必要があるとして,定着促進センター退所後,1年以内の中国帰国者世帯に対し,医師を派遣し,健康相談を実施するとともに,必要な助言・指導を行うこととした(乙2・432,433頁,乙32,33)。

(3)就籍に関する支援
  政府は,身元未判明孤児に対し,戸籍を得させるため,家庭裁判所に就籍の申立てを行うための支援を行った。
  定着促進センターにおいて,該当者に対し,最高裁判所による説明会を開催するとともに,就籍申立手続開始後は,家庭裁判所へ孤児調査関係資料や帰国旅費申請に係る資料等を提供した。
  そして,昭和61年から,厚生省が協力を依頼するなどし,財団法人法律扶助協会が財団法人日本船舶振興会の補助を受け,審判費用を負担することとなった。また,厚生省は,その補助金申請に際し,確実に交付されるよう副申していた。その結果,残留孤児本人には経済的負担が及ばないこととされていた。
  平成7年度からは,就籍審判費用を国庫で負担することになった(乙99,100)。

(4)住居に関する支援
  政府は,地方自治体と協力し,住宅に困窮する低額所得者を対象に低廉な家賃の住宅を供給する制度の運用に際し,中国帰国者をその対象者とするとともに,優先的な取扱いを講じるようにした。
  そして,平成7年度以降,中国帰国者が,帰国後(定着促進センター退所後)最初に居住するときに,公営住宅に入居できず,やむを得ず民間住宅に入居する場合には,当該中国帰国者に対し,礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給することとした(乙2・435頁,乙35,36)。

(5)就労に関する支援
  政府は,昭和57年度から,中国帰国者に対し,職業転換金給付制度を適用するとともに,昭和59年度から特定求職者雇用開発助成金を適用した。また,昭和62年度からは,雇用促進事業団による就職時の身元保証が行われるようになった(乙2・435頁)。

(6)その他の施策
  政府は,昭和58年以降,中国帰国者世帯の定着地における生活の実態を把握し,今後の自立促進対策の充実を図るための基礎資料とするため,不定期的に中国帰国者の帰国後の生活状態実態調査を実施した。
  また,自立研修センターや支援・交流センターを拠点として中国残留邦人問題の普及啓発を図っている。平成7年には,厚生省及び援護基金の主催により,「中国残留邦人問題への理解を深める中央大会」を開催し,広く国民に対して中国残留邦人問題について普及啓発を行った(乙2・433,434頁)。

第8 自立支援法の制定について

1 各種団体の働きかけ
(1)政府は,前記第7のとおり,特別な立法措置を講じることまではせず,行政の施策として,永住帰国した中国残留邦人に対する自立支援策を講じていたが,全国協議会等の民間団体等は,次のとおり,政府が行っていた残留孤児に対する自立支援策は不十分であるとして,各種機関に訴えた。
  全国協議会は,昭和59年8月5日,衆議院及び参議院議長に対し,特別法を制定し,残留孤児が帰国した後,自立に必要な措置(日本語学校,職業訓練,生活指導)をきめ細かく特別な配慮で行うこと,年金の実効が確保されるよう措置することなどを請願した(甲総62)。
  全国協議会は,昭和60年2月8日,中国残留孤児問題国会議員懇談会に対し,孤児問題の解決方策を要望し,その中で具体的施策を挙げ,日本語教育については,定着センター終了後も地方公共団体により教育を継続すること,既に帰国している者の学習が可能な方途を講ずることを要求し,職業については,定着センター修了後も職業訓練受講可能な方途を講じ適職あっせんに努め,資格や技能について特別措置を講じることを訴え,生活保護法の適用については,孤児等にはなじまないから,自立までの一定期間別途援護の方途を講じること,年金については,「から期間」設定によって解決しない実額の確保の方途を講じることを求めた(甲総B22)。
  全国協議会は,昭和60年7月29日,厚生省援護局長に対し,生活保障,年金を含む援護法制定を申し入れた(甲総87)。
  また,全国協議会は,昭和62年7月,文部大臣及び内閣総理大臣に対し,孤児問題についての陳情を行い,「定着促進センターにおける4か月の教育では,日本語はもちろん,日本の社会で就職し,自立するには十分ではないこと,政府の受け入れ態勢が整っていないため,生活困窮者として乞食寸前の生活に追い込まれている」との事情を訴え,就職のあっせんや中国における技能資格の活用を求めた(甲総100,101)。
  また,全国協議会は,昭和63年2月9日,法務省人権擁護局長に対し,中国帰国者人権救済申立に関する件と題する書面において,各申立てをするとともに,帰国者のほとんどが生活保護を受けるが脱却が容易でないことが社会問題となってきている問題を伝えた。

(3)日本弁護士連合会は,昭和59年10月20日,「中国残留邦人の帰還に関する決議」を行い,そこで,「日本語教育については,わずか4か月程の教育を受けられるのみで,その他はボランティア等が建設した少数の日本語学校が存在するのみである。したがって,帰還した者らは地理的理由等からほとんど大多数の者がこれを利用できない状態であって,就職のための技能取得にも支障を生じている。更に,就職については,医師,教師等の資格についても何ら特例が認められないため,中国におけるこれらの有資格者も帰還後は肉体的労働によって生活せざるを得ない状況にある」とし,「現行の措置としては,帰国後の生活維持は,本人または近親者による援助を原則としつつ,それが不可能な場合には生活保護法の適用によるものとされている」「帰還者においては,40年にもわたる異郷での生活を余儀なくされたために,『活用すべき』資産,能力において著しく不利な条件下におかれており・・・,多くの場合帰還者の『困窮』状況は生活保護法の予測するレベルを遙かに超えたところにある。本人の意思にかかわらず余儀なくされたこのような特別事情を考慮するならば,その受給要件,受給額の両面において帰還直後の不適応状態に即した特別立法による生活保障を実現する必要がある」と指摘した(甲総95)。

(4)東京弁護士会は,昭和61年10月,国に対し,残留孤児の就職確保のため,「職業訓練,中国残留期間の職能の活用,公的機関への就職等による就職を確保すること」などを要望し,「何らの生活基盤を有せず,言語を異にし,日本語を学習して定職を得るまで,少なくとも3年乃至5年程度を要する。この間精神的に多くの困難と苦痛に耐えなければならず,また仮に就労しても職場に安定することは極めて少ない実情にある。生活保護法によると,収入があればこれと同一の額が支給額から減額されるのであるから,文言通り適用されればほとんどの場合減額と回復が繰り返されることになり,この間言語に不自由な状態でその手続きをなし,精神的苦痛を受け,結果として常に生活に不安を来して自立を妨げる結果となっている」ことを指摘し,生活保護法によらない「特別の生活保障給付金を支給」すべきこと,「国民年金法施行後の中国残留期間をすべて掛金支払済期間とみなし,国民年金を支給すべき」ことなどを要望した(甲総99)。

(5)日本弁護士連合会人権擁護委員会は,平成3年5月,中国残留邦人対策問題第1次調査報告書として調査事項をまとめた。これによると,残留孤児とその家族の帰国定着についての問題点として,定着促進センター退所後,定着するための所在地を一方的に指定してあっせんすること,生活保護の運用上日本語と職業教育を受ける期間を認めず,6か月から1年で打切りを警告し,就労を間接強制しているため事実上肉体労務者とならざるをえないこと,残留孤児の子女の教育にも配慮がないことを指摘している。

2 自立支援法の制定
  前記のとおり,中国残留邦人の自立支援に関する特別立法の必要が長年にわたり訴えられていたところ,平成6年に自立支援法が制定され,同年10月1日から施行された。
  自立支援法は,終戦前後の満州での「混乱等により,本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情にかんがみ,これらの者の円滑な帰国を促進するとともに,永住帰国した者の自立の支援を行うこと」を目的とする(1条)。
  その上で,自立支援法は,「国は,本邦への帰国を希望する中国残留邦人等の円滑な帰国を促進するため,必要な施策を講ずる」(3条),「国及び地方公共団体は,永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため,必要な施策を講ずる」(4条1項),「国及び地方公共団体は,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援のための施策を有機的連携の下に総合的に,策定し,及び実施する」(5条)としている。
  具体的な施策として,自立支援法が規定するものは,次のとおりである。生活保障に関する特別の施策は規定されていない。
(1)中国残留邦人等が永住帰国する場合に帰国旅費の支給すること(6条)
(2)永住帰国した場合に必要な資金を一時金として支給すること(7条)
(3)日本語の習得を援助すること等必要な施策(8条)
(4)公営住宅の供給の促進(9条)
(5)雇用の機会の確保を図るため,職業訓練の実施,就職のあっせん等必要な施策(10条)
(6)教育の機会の確保(11条)
(7)就籍等の手続に係る便宜の供与(12条)
(8)国民年金の特例を政令で定めること(13条)
(9)一時帰国旅費の支給(14条)

3 国民年金に関する支援策
(1)残留孤児は,帰国時には高齢を迎えているため年金への加入期間が短く,中国に居住していた期間が年金額に反映されないため,受給額が低額か又は受給できない事態が生じていた。

(2)平成6年11月9日,国民年金法等の一部を改正する法律(平成6年法律第95号)が成立し,これにより自立支援法が改正され,平成8年4月1日から,中国帰国者等に国民年金の特例措置が講じられることとなった。
  この特例措置は,@中国居住期間のうち,20歳以上60歳未満の期間で,国民年金制度が創設された昭和36年4月1日から永住帰国する前日までの期間は保険料免除期間とみなされ,この期間については保険料を納付した場合の3分の1相当額(国民年金の国庫負担相当額)が年金額に反映され,A保険料免除期間とみなされた期間について保険料を追納することができ,追納すれば,その分が年金額に反映されることとなった(乙2・434,695頁)。
  これにより,残留孤児に対し,国庫負担相当額,すなわち保険料を納付し続けた場合の3分の1(月額2万2000円程度)が支給されることとなった。

(3)なお,保険料を追納する場合,その追納保険料は,既に保険料を納付していた者との均衡を図り,過去の保険料を現在の価値に換算して支払うべきであるとの建前がとられ,仮に保険料が納付され積立金として運用されていたとした場合の予定運用利回りで設定した一定の加算率を乗じて追納する必要がある。例えば,平成8年4月より前に永住帰国して日本に1年以上住んでいる者は,平成13年3月31日までに追納することができるとされ,その額は,1か月につき6000円とされた(乙179の3)。
  これによると,例えば20年間(240か月)の追納をするためには144万円もの大金が必要となるため,追納ができる者はさほど多くはなかった。
  また,後記のとおり,生活保護を受給すると,年金受給額は生活扶助費から控除されるため,生活保護を受給している残留孤児ととって年金を受給することの利点はないに等しい。

(4)二十二都道府県中国帰国者対策協議会は,平成12年4月,国に対し,「中国帰国者の定年後の生活の安定を図るため,国民年金保険料の追納分の国費負担化や援護手当の支給などの措置を講ずること」を要望した(甲総A7の105)。

第9 拉致被害者に対する支援策について

1 拉致被害者支援法の制定
  北朝鮮当局により不法に拉致された日本人被害者及びその家族が帰国したことを契機として,それらの者の我が国での生活を支援するために必要な立法措置として拉致被害者支援法が制定され,平成14年12月11日に公布,平成15年1月1日に施行された。
  拉致被害者支援法は,「拉致された被害者が,本邦に帰国することができずに北朝鮮に居住することを余儀なくされるとともに,本邦における生活基盤を失ったこと等その置かれている特殊な諸事情にかんがみ,被害者及び被害者家族の支援に関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに,帰国した被害者及び帰国し,又は入国した被害者の配偶者等の自立を促進し,被害者の拉致によって失われた生活基盤の再建等に資するため,拉致被害者等給付金の支給その他の必要な施策を講ずること」を目的とする(1条)。

2 給付金制度
  拉致被害者支援法は,帰国した被害者及び帰国し,又は入国した被害者の配偶者等(以下「帰国被害者等」という。)が永住帰国する場合には,自立を促進し,生活基盤の再建等に資するため,拉致被害者等給付金を5年を限度として毎月支給することとしている(5条)。
  拉致被害者給付金は,世帯ごとに月を単位として支給するものとし,その月額は次のとおりとされた(同法施行規則4条)。
     一人世帯    17万円
     二人世帯    24万円
     二人を超える世帯超える数一人ごとに3万円を24万円に加算した額この金額は,生活保護の水準よりも高くすべきであるということを前提に,厚生年金の標準的な年金額を参考にして定められた(甲総125の4)。
  そして,帰国当初は出費がかさむことを考慮して,初回の支給額は上記月額の4倍の金額が支給されることとされている(同法施行規則5条)。
  残留孤児には,このような給付金制度はなく,上記のとおり,帰国時に自立支度金が支給されるにとどまる。

3 国民年金制度の特例措置
  拉致被害者については,国民年金制度の特例的措置として,拉致された日以降の期間であって政令で定めるものを国民年金の被保険者期間とみなし,国がその期間に係る保険料に相当する費用を負担することとされている(拉致被害者支援法11条)。

4 拉致被害者支援法が定める支援策とその実施
(1)拉致被害者支援法は,「国及び地方公共団体は,帰国被害者等を支援するため,有機的連携の下に必要な施策を講ずるものとすること」(3条2項),「国は,必要があると認めるときは,地方公共団体が講ずる前項の施策について,援助を行うものとする」こと(3条3項),具体的施策として,次のものを規定している。
@ 日本語の習得を援助すること等必要な施策(6条)
A 公営住宅の供給の促進(7条)
B 雇用の機会の確保を図るため,職業訓練の実施,就職のあっせん等必要な施策(8条)
C 教育の機会の確保(9条)

(2)支援策の具体的な実施
  政府は,都道府県及び市町村に委託して,帰国被害者等に対する自立・社会適応促進事業を実施した(甲総125の3,甲総D10)。
  この事業の実施に当たっては,帰国被害者等に対し,社会適応指導,日本語指導,帰国被害者等の自立を促進するために必要な指導・生活相談等及び社会体験研修を行うとともに,地域の行事等への参加等を通じた地域との交流を行うことにより,帰国被害者等の自立・社会適応の促進を図る方針のもと,具体的要領を作成し,平成15年4月1日から実施するものとされた。その内容は,次のとおりである。
  @ 都道府県は,有識者等で構成される策定会議を設置して,地域の実情及び帰国被害者等の生活実態等を勘案の上,自立・社会適応事業を適正かつ効果的に実施するための指針(自立支援プログラム)を策定するものとする。
  A 市町村は,有識者等で構成される作成会議を設置して,都道府県が策定した自立支援プログラムに基づき,帰国被害者等の自立・社会適応状況等を総合的に検討し,社会適応指導等,社会体験研修及び地域交流事業等に関する事業計画(自立支援カリキュラム)を作成するものとする。
  B 市町村は,自立を促進するために必要な指導及び生活相談等を行う者を帰国被害者等の属する世帯や帰国被害者等が日本語指導や職業訓練を受けている施設に派遣することにより,社会適応指導等を実施するものとする。
  C 市町村は,社会適応指導等の実行を高めるため,社会体験研修を実施するものとする。
  D 市町村は,帰国被害者等の社会参加を促し,地域社会への円滑な適応を図るため,地域の行事を活用したり,新たな交流事業を実施するものとする。

(3)政府は,拉致被害者家族に対し,就労に関する施策として,地元公共職業安定所に所長を長とした支援チームを設置し,帰国被害者等の希望に応じ,求人情報の収集・提供,求人開拓,職業相談,職業紹介等を通じて確実な就職に結びつけること,公共職業安定所において求職登録,受講あっせんにより,無料で公共職業訓練を提供するとともに,訓練受講中の生活の安定を図る等のため雇用対策法に基づく職業転換給付金制度の適用により訓練手当等を支給することとした(甲総125の2)。

第10 残留孤児の置かれた状況等について

1 生活実態調査の結果
  厚生省は,昭和59年から平成11年までの間,8回にわたり中国帰国者に対する生活実態調査を行った。この調査結果の概要は,次のとおりである(調査時期に従い「昭和59年調査」「平成元年調査」などという。甲総71,91〜93,甲総E22,乙101,116の1〜8)。

(1)昭和59年調査の概要
  昭和59年調査は,日中国交正常化以降昭和59年3月末までに永住帰国した187世帯を対象に調査を実施した。調査対象の残留孤児の年齢は,38歳から52歳で,40歳代が90パーセントであった。
  日本語の習得状況として,簡単な日常会話ができないと答えた者は8パーセントであった。
  残留孤児世帯のうち48パーセントが生活保護を受給していると答えた。
  就労している者の割合は,62パーセントで,その職業は,工員が最も多く,51パーセントであった。

(2)昭和61年調査の概要
  昭和61年調査は,日中国交正常化以降昭和60年12月末までに永住帰国した260世帯を対象とした。調査対象の残留孤児の平均年齢は44.9歳であった。
  日本語の理解度として,「職場の人と仕事の話ができる」と答えた者が19.2パーセント,「買い物に不自由しない程度の会話ができる」と答えた者が25.6パーセント,「片言のあいさつ程度」と答えた者が18.4パーセントであった。
  生活保護を受給している世帯の割合は43.2パーセント,以前受給していたが現在受給していない世帯の割合は50.8パーセントであった。
  就労している者の割合は59.8パーセント,以前就労したことがあるが現在就労していない者の割合が9.0パーセント,就労したことがない者が31.2パーセントであった。就労している者の職業は,工員が最も多く41.4パーセントであり,就労による月収は,15万円未満が全体の50パーセントであり,就労3年以上の者に限れば27.7パーセントであった。就労したことがない者は,その理由として,日本語が十分にできないと答えた者が最も多く41.1パーセント,次いで病気のためと答えた者が19.2パーセントであった。

(3)昭和62年調査の概要
  昭和62年調査は,日中国交正常化以降昭和62年11月末までに永住帰国した617世帯のうち,定着促進センター入所中の世帯を除いた515世帯を対象に調査を実施した。残留孤児の平均年齢は45.6歳で,40歳代が84.5パーセントであった。
  日本語の理解度についてみると,「会話に何の不便も感じない」と答えた者が10.1パーセント,「テレビニュースで話している内容がわかる」と答えた者が8.2パーセント,「職場の人と仕事の話ができる」と答えた者が15.6パーセントで,これらを合計すると33.9パーセントであるが,「買い物に不自由しない程度の会話ができる」と答えた者が28.7パーセント,「片言でのあいさつ程度」と答えた者が35.2パーセント,「全くできない」と答えた者が2.2パーセントであった。
  生活保護の状況として,帰国後3ないし4年で半数以上の世帯が生活保護から脱却したと報告されている。
  就労したことがない者のうち,不就労の理由として「日本語が十分にできない」と答えた者が54.9パーセント,「病気のため」と答えた者が19.3パーセント,「できる仕事がない」と答えた者が8.2パーセントであった。

(4)平成元年調査の概要
  平成元年調査は,日中国交正常化以降平成元年11月末までに永住帰国した1145世帯のうち,定着促進センター入所中の世帯を除いた1061世帯を対象に調査を実施した。残留孤児の平均年齢は48.7歳である。
  日本語の理解度として,「会話に何の不便も感じない」と答えた者が11.7パーセント,「テレビニュースで話している内容がわかる」と答えた者が7.7パーセント,「職場の人と仕事の話ができる」と答えた者が19.0パーセントで,これらを合計すると38.4パーセントとなる。「買い物に不自由しない程度の会話ができる」と答えた者が29.9パーセント,「片言でのあいさつ程度」と答えた者が28.1パーセント,「全くできない」と答えた者が3.6パーセントであった。
  生活保護を受給している世帯の割合は49.4パーセント,以前は受給していたが現在受給していない世帯の割合は45.3パーセントであった。

(5)平成5年調査の概要
  平成5年調査は,日中国交正常化以降平成5年1月1日までに永住帰国した1635世帯のうち,定着促進センター入所中の世帯を除いた1423世帯を対象に調査を実施した。
  日本語の理解度として,「会話に何の不便も感じない」と答えた者が7.5パーセント,「テレビニュースで話している内容がわかる」と答えた者が4.2パーセント,「職場の人と仕事の話ができる」と答えた者が23.9パーセントで,「買い物に不自由しない程度の会話ができる」と答えた者が24.0パーセント,「片言でのあいさつ程度」と答えた者が34.0パーセント,「全くできない」と答えた者が6.4パーセントであった。
  生活保護を受給している世帯の割合は34.6パーセント,以前は受給していたが現在受給していない世帯の割合は58.8パーセントであった。

(6)平成7年調査の概要
  平成7年調査は,昭和36年4月1日以降平成7年3月1日までに永住帰国した世帯のうち,定着促進センター入所者及び死亡した者等を除いた4532世帯を対象とし,そのうち,昭和59年3月1日以降に永住帰国した世帯についてのみ,生活実態を把握するための調査を実施した。回答者のうち,昭和59年3月1日以降に永住帰国した世帯は2469世帯である。調査対象の残留孤児の平均年齢は53.1歳であった。
  日本語の理解度として,「会話に何の不便も感じない」と答えた者が8.8パーセント,「テレビニュースが理解できる」と答えた者が6.7パーセント,「職場で仕事の会話ができる」と答えた者が18.5パーセントで,これらの合計は,34.0パーセントとなる。「買い物に不自由しないと答えた者」が26.2パーセント,「片言のあいさつ程度」と答えた者が33.7パーセント,「全くできない」と答えた者が6.0パーセントであった。
  生活保護を受給している世帯が38.5パーセント,以前は受給していたが現在受給していない世帯が52.3パーセントであった。
  残留孤児のうち,就労している者の割合は51.2パーセントで,その職業は,「技能工,製造・建設・労務作業者」の区分が圧倒的に多く,80パーセントを占めている。

(7)平成11年調査の概要
  平成11年調査は,平成元年12月1日から平成11年11月30日までに永住帰国した中国残留邦人のうち,定着促進センター入所中の者及び死亡した者等を除いた2562人を対象に調査を実施した。そのうち,残留孤児の平均年齢は58.3歳であった。
  日本語の理解度をみると,生活保護を受給していない者を対象にした集計結果によると,「会話に不便感じない」と答えた者が4.9パーセント,「テレビニュースが理解できる」と答えた者が6.1パーセント,「職場で仕事の会話ができる」と答えた者が30.3パーセント,「買い物に不自由しない」と答えた者が26.5パーセント,「片言のあいさつ程度」と答えた者が29.5パーセント,「全くできない」と答えた者が2.7パーセントであった。
  生活保護受給者を対象にした調査結果によると,「会話に不便感じない」と答えた者が3.3パーセント,「テレビニュースが理解できる」と答えた者が1.7パーセント,「職場で仕事の会話ができる」と答えた者が2.0パーセント,「買い物に不自由しない」と答えた者が37.9パーセント,「片言のあいさつ程度」と答えた者が48.7パーセント,「全くできない」と答えた者が6.3パーセントである。
  生活保護受給世帯の割合は,実に65.5パーセントであった。平成11年度の全国の生活保護受給率(人員)は0.79パーセントであり,永住帰国した中国残留邦人の世帯の生活保護受給率は余りにも高い。
  残留孤児のうち,60歳未満の就労率は,29.2パーセントで,世帯の中に就労者がいる割合は,60.6パーセントである。また,就労者がいる世帯の収入月額の平均は22万円となっており,残留孤児本人のみが就労している世帯の収入月額は,15万1000円である。平成11年における総務庁の家計調査の結果によると,一般世帯の就労収入の平均月額は,50万5000円であるから,これを大きく下回る結果となっている。
  就労している帰国者本人の職業は,「技能工,製造・建設・労務作業者」が最も多く87.4パーセントを占める一方で,「専門的・技術的従事者」が3.3パーセント,「事務従事者」が0.4パーセントにとどまっている。平成11年の総務庁の調査によると,日本人一般においては,「技能工,製造・建設・労務作業者」が30.6パーセント,「専門的・技術的従業者」が13.3パーセント,「事務従事者」が19.5パーセントであるから,中国帰国者が就いている職業は,現業労働の割合が高いことが分かる。

(8)上記調査結果を概括すると,残留孤児の日本語能力については,職場の人と仕事の会話ができる程度にも至らない者が常に6割以上を占め,時を経てもほとんど改善がみられないし,平成11年においては,高齢化の影響もあり,残留孤児世帯の半数以上が生活保護を受給している。また,残留孤児のうち就労している者の割合をみると,やはり5割程度で推移していたが,平成11年調査においては,高齢化の影響もあり,25.5パーセントにまで落ち込んだ。

2 別件訴訟の原告らに対するアンケート調査の結果
  平成16年9月,東京地方裁判所に本件同様の訴訟を提訴した残留孤児が主体となり,その訴訟の原告ら(1079人)に対して行ったアンケート調査の結果によると,「日本語で不自由がない」と答えた者の割合は3パーセントにすぎず,「日本語を話せない」と答えた者の割合は90パーセント弱であった。
  また,生活保護を受給している者の割合は,58パーセントであった(甲総D12)。

3 生活保護制度の運用状況
(1)生活保護制度は,生活困窮者が,その利用し得る資産,能力その他あらゆるものを生活の維持のために活用しても,なお最低限の生活を維持できない場合に,不足分を支給する建前がとられ(補足性の原則。生活保護法4条),年金等の公的給付を受けた場合にも,その受給額が収入認定され,生活保護費から控除されるものとされている。
  貯金があることが発覚すると,それを使い果たさなければ支給を受けられないし,働いて少しでも収入があると,その分支給額から差し引かれることになる。また,前記のとおりの年金の特例制度により,年金を受給することになっても,その分も差し引かれることになる。そのため,生活保護を受給している残留孤児にとって(前記のとおり,残留孤児世帯の過半は生活保護を受給している。),年金の特例制度は全く意味がないことになってしまうのである。その結果,過去分の年金保険料の一括追納が全く無駄となってしまう例も生じている(甲総132の1)。

(2)また,現在の生活保護制度では,ごく限定された場合にしか移送費の支給が許容されていないから,中国への里帰り費用の支給は認められない。したがって,里帰りするためには,その費用の捻出が大変である。そればかりか,里帰りしている間は生活保護の支給が停止される運用が行われているから,中国へ里帰りすることは,相当な覚悟が必要とされるのである。

(3)政府は,当初,残留孤児に対し,帰国後1年間は生活保護を支給し,定着促進センターや自立研修センターに通学させ,日本語の学習をするよう指導するが,その後は,生活保護を打ち切り自立を促す方針をもっており,この方針に基づき,帰国後1年が経つと,就労するよう迫る運用を実施していた。ところが,政府は,後に,国民年金だけでは生活ができない者に対し,無条件で生活保護を支給する方針に切り替えた。平成12年12月ころ,当時の厚生省中国孤児等対策室長は,「生活保護は恥ではないから,意識改革をして生活保護を受ければよい」と発言している(甲総73,甲総A9の1)。

第11 原告らの個別事情について

  原告らが残留孤児となった状況,帰国に至る経緯,帰国後の生活状況は,下記1ないし65のとおりである。なお,以下において「一時帰国」というのは,原告らが,中国旅券によって入国し,外国人として我が国に短期間滞在することを意味する(前記のとおり,政府は,日中国交正常化後,中国旅券を所持する残留孤児に対し外国人としての入国手続を要求していた。)。
  以下の認定事実のうち,原告らの終戦時(昭和20年9月2日),日中国交正常化時(昭和47年9月29日)及び永住帰国時の各年齢等を整理すれば表2のとおりとなり,帰国後に受けた日本語教育の概要等を整理すれば表3のとおりとなる。
  表2の「(終)」とは終戦時の年齢を,「(正)」とは日中国交正常化時の年齢を,「帰国決意時」とは永住帰国を決意した時期を(同欄の空欄はその時期が不明である。),「(永)」とは永住帰国終戦時の年齢である。
  表3の「(定)」とは定着促進センターへの入所の有無を,「(保)」とは現在の生活保護受給の有無である。原告ら65名のうち,現に生活保護を受給しているのは48名(約74パーセント)である。


1 原告番号1・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和17年12月6日に生まれ,終戦当時,2歳であった。終戦後の昭和20年10月ころ,瀋陽において,伊達鉄次という人物が原告○○を張徳海(以下「張」という。)に預け,張がその腹違いの兄弟である養父母に原告○○を預けた。

(2)養父母は,原告○○が日本人であることを周囲の人から隠すため,瀋陽からハルビンに引っ越し,原告○○を9歳まで育てた。
  原告○○は,中学校でもトップクラスの成績であり,当時,成績優秀者ならば通常加入していた組織で,共産党へと続くエリート養成のステップに位置づけられる「共青団」に入るつもりでいたが,中学校の先生から「お前は日本人だから,共青団には入れない」と言われた。
  原告○○は,日本人であったため,紅衛兵にもなれず,文化大革命の際には,過酷な差別を受け,追放され,農村での生活を15年間強いられた。
  原告○○は,昭和54年ころ,病気になった張を見舞いに訪れたときに,自分が日本人であることや養父母に引き渡された経緯を打ち明けられ,ここで初めて,自分が日本人であることを確信した。原告○○は,そのときは,日本に帰る手段があることなど考えも及ばなかったが,文化大革命のときのような差別を受けることが今後起こってはいけないと思い,間もなく公安局に陳情に行った。これが幸いして,原告○○は,被告に肉親調査の受付をしてもらうことができた。  原告○○は,昭和57年1月2日,伊達鉄次の息子である伊達三演から手紙と写真を受け取り,昭和59年11月には訪日調査に参加することができた。伊達三演は,訪日調査のとき駆けつけてくれたが,原告○○の肉親はあらわれず,身元は判明しなかった。
  原告○○は,身元が明らかにならなかったものの,日本人であるから日本に帰りたいと考え,昭和62年,妻,長男及び次男とともに永住帰国した。

(3)原告○○は,帰国後4か月間,埼玉県所沢市にある定着促進センターにおいて日本語教育を受けた後,兵庫県伊丹市に移り住み,4,5か月ほど経ってから,大阪帰国者センターで,日本語の教育を受けることになった。しかしながら,原告○○は,自宅から大阪帰国者センターに通うために往復3時間かかったところ,農村に追放されていた間に腰を痛めていたため,通うには負担が重く,ほとんど通わなかった。そして,これら教育を受けても,日本語を満足に習得することはできなかった。
  そのうち,原告○○は,自立指導員から就職を迫られ,昭和63年には,牛革加工の職につき,同時に大阪の日本語教室は卒業するものとされた。
  原告○○は,平成5年まで牛革加工の仕事を続けた後,交通事故に遭い,親指が動かなくなるなどして転職し,平成14年に定年を迎えるまで働いた。平成8年には,国から国民年金の追納の通知を受け,やっとの思いで分割で全額を納付した。
  原告○○は,定年後,厚生年金を2か月で約5万円を受給し,妻とともに空き缶拾いをして,月額3万円ほどの収入を得て生活している。このような現状にあるために,養母が亡くなったときも中国に行くことができず,養母の墓代も支払うことができなかった。
  原告○○は,日本語ができないため,地域に溶け込むどころか,地域住民と会話を交わすこともためらうような状況であり,また,生活保障も十分でないことから惨めな気持ちで日々を過ごしている。

2 原告番号2・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○の実父は,満州で建築関係の仕事についており,原告○○は,昭和13年9月24日,満州の新京特別市において生まれ,2,3歳のときに,家族とともに満州北部の嫩江県へ転居し,そこで終戦を迎えた。原告○○の実父は,終戦前に動員され,後にシベリアに抑留され,原告○○の実母は,終戦後,嫩江の収容所において死亡した。
  原告○○は,収容所において,食べるものに事欠く生活をした末,命をつなぐため,中国人家庭に引き取られた。

(2)原告○○の実父は,昭和23年ころシベリアから日本に帰国し,原告○○が嫩江で養家に引き取られたことは,嫩江から引き揚げた帰国者らによって,間もなく伝えられていた。
  原告○○は,2,3歳のころから後に永住帰国するまで,ずっと嫩江で暮らしていたが,小学校に入ってからは,「小日本鬼子」などと言われ,いじめられた。
  昭和32年ころ,原告○○の実父名義で嫩江県政府あてに手紙が届き,それが原告○○のもとに届いたが,その手紙は,実父と再婚した女性が書いたもので,そこには,原告○○が期待していた「帰ってこい」という言葉はなかった。そして,原告○○は,実父が再婚したことを知り複雑な気持ちになった。
  原告○○は,日中国交正常化後,日本へ帰国できる道があるということを知らなかったが,昭和53年ころになって,たまたま近隣に居住する日本人及び公安局に勤める知人から一時帰国することが可能であることを教えてもらい,喜び勇んで実父に手紙を書き,一時帰国の手続を進めた。そして,昭和54年5月,一時帰国を果たし,3か月余り日本で生活した後,中国に戻った。
  原告○○は,日本で滞在している間に永住帰国したい気持ちが高まったが,年老いた姑を中国に置いていくことはできないと考え,すぐには永住帰国するつもりはなかったが,帰国の準備を進めることにし,まずは身元保証人を確保するべく,実父に頼んだ。ところが,実父には,身元保証人となることに応じてもらえず,叔母にも頼んでみたが断られた。
  そうしたところ,原告○○は,昭和60年ころになって,永住帰国した知り合いの孤児のつてで,第三者の身元保証人を確保することができた。そして,昭和61年4月に姑が亡くなり,その葬儀を終えて生活が落ち着いた後,具体的な永住帰国の手続を進め,昭和62年1月23日,夫と子供3人とともに永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,帰国後,定着促進センターにおいて4か月の教育を受けたが,日本語を十分習得することができなかった。その後,三重県に居住することになったので,自立研修センターに通うこともできず,日本語が不自由なまま,昭和63年4月ころから肉体労働に従事したが,3年ほどで身体を壊して稼働不可能となった。
  職を辞めてからは,わずかな貯金を取り崩して生活した後,生活保護を受給せざるを得ない状況となり,平成5年ころから現在に至るまで生活保護を受給している。
  原告○○は,日本語が不自由であるために,近隣の日本人とも打ち解けることができず,中国人扱いされ,毎日家に閉じこもってテレビを眺めるばかりの生活をしている。

3 原告番号3・原告○○(以下「原告○○」という。)
(1)原告○○は,昭和19年2月2日に日本で生まれた。その実父が終戦直前に実母とともに北方の前線へ出征することとなっため,姉とともに錦洲市白雲街朝日公園前にあった祖父宅に預けられた。祖父らは,終戦後の昭和23年ころ,日本に引き揚げることにしたが,原告○○とその姉を連れていくのは困難であると判断し,原告○○は,中国人である養父母に預けられ,中国に残された。

(2)原告有馬は,中国において,子供のころ,「小日本鬼子」と言われ,いじめられたことがあり,5,6歳のころから自分が日本人であることを薄々感じるようになっており,10歳のころ,養父から自分の生い立ちを聞き,自分が日本人であることをはっきりと知るに至った。それ以後,日本にいる実の家族の下で生活できれば幸せだろうと思い,漠然と日本に帰国したい気持ちを持っていた。
  原告○○は,昭和48年,中国政府主催の少数民族の会議に招待され,日本人は帰国できるということを知って喜び,すぐにでも帰国したい気持ちになったが,妻や子供に相談すると,日本での生活が保障されていない以上,帰国すべきないと反対されたため,まずは肉親を捜すことにし,厚生省に,手紙を出したが,出生前後の事情について詳しい情報を求める返事が返ってきただけであった。
  原告○○は,その後も厚生省や日本領事館と手紙でのやり取りを続けたところ,昭和60年になって,厚生省から,訪日調査に関する知らせが届き,同年,訪日調査に参加したが,肉親は判明しなかった。
  原告○○は,訪日調査で日本に一時帰国した際,永住帰国の意思の有無を尋ねられ,帰国の意思を明らかにしたものの,帰国後,どこに住み,就職すればよいのか,子供の教育をどうすればよいのかが分からず,不安があった。そして,中国に戻ってから,厚生省から定期的に永住帰国の申込用紙が送られてきたが,日本での生活が不安だったため,すぐには永住帰国には踏み切らなかった。
  原告○○は,昭和63年になって,長女が高校卒業を前に日本での生活を希望したことを契機に,子供たちが大きくなっていたことから何とかなるだろうと考え,不安ながらも永住帰国することを決意し,永住帰国したいこと旨を申込用紙に記載して提出し,昭和63年10月,妻と3人の娘と共に永住帰国を果たした。

(3)原告○○は,永住帰国後,定着促進センターで4か月間の日本語教育を受けた後,兵庫県明石市に居住し,海外同友会開講の日本語教室(自立研修センター)が用意され,そこに通った。その通学費は,明石市から支給を受けることができた。原告○○は,通学して8か月経つと,市の職員や自立指導員から卒業を求められたが,ほとんど日本語を習得していなかったため,希望して通学を継続させてもらった。しかし,それも平成3年2月には,通学費の援助を打ち切られたため,日本語を十分に話せないまま,通うことを断念し,自主的にボランティアが教えてくれる日本語教室に1年ほど通ったが,日本語を習得するには至らなかった。
  原告○○は,日本語を十分に話すことができなかったから,なかなか就職することもできず,職業安定所に行っても,満足に意思疎通をすることもできず,