遺棄毒ガス・砲弾被害賠償請求事件 東京高裁 判決 2007.7.18


平成19年7月18日判決言渡 同日判決原本領収 裁判所書記官 清水朋子
平成15年(ネ)第5804号損害賠償請求控訴事件(原審・東京地方裁判所平成8年(ワ)第24230号)
口頭弁論終結日 平成19年1月24日

判       決

     当事者の表示   (別紙1)当事者目録記載のとおり

主       文

  1 原判決中,控訴人敗訴部分を取り消す。
  2 被控訴人らの請求をいずれも棄却する。
  3 訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人らの負担とする。

事 実 及 び 理 由

第1 控訴の趣旨

  主文同旨

第2 事案の概要

1 本件は,旧日本軍が日中戦争中に中国国内に持ち込んだイペリット(マスタードガス),ルイサイト等の化学剤を施した兵器,これらの化学剤を入れた容器又は通常砲弾を,中国国内に遺棄・隠匿し,その後もこれを放置し続けたため,@1974年(昭和49年)10月20日,黒竜江省佳木斯市内を流れる松花江において,亡肖慶武(被控訴人孫景霞がその相続人),被控訴人劉振起及び被控訴人李臣が,川底から引き上げられた砲弾から流出したイペリットとルイサイト混合剤に暴露して死亡し,又は傷害を受ける事故が,A1992年(昭和57年)7月16日,黒竜江省牡丹江市光華街において,被控訴人那世俊,被控訴人仲江,被控訴人司明責及び被控訴人孫文斗が,地中から掘り出されたドラム缶から流出したイペリットに暴露して傷害を受ける事故が,B1995年(平成7年)8月29日,黒竜江省双城市周家鎮東前村において,前日,道路脇で発見された通常砲弾が爆発し,亡斉広越(被控訴人張淑云,被控訴人斉正副がその相続人),被控訴人斉広春及び亡劉遠国く被控訴人祁淑芳,被控訴人劉敏,被控訴人劉波がその相続人)が死亡し,又は傷害を受ける事故が発生したと主張して,被控訴人らが,控訴人に対し,上記各事故に基づく損害賠償(被害者各自につき2000万円)と遅延損害金を請求する事件である。
  なお,以下においては,本文中に記載する略称のほかに,(別紙2)略語表の記載の略称を用いる。

2 被控訴人らは,被控訴人らの控訴人に対する損害賠償請求の発生根拠として,
  @「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(以下「ハーグ陸戦条約」という。)3条又は国際慣習法,A中華民国民法184条,185条,188条,193条ないし195条及び中華人民共和国民法通則119条,B国家賠償法1条 1項,C国家賠償法2条1項,D民法709条,715条,E民法717条を主張した。

3 原判決は,控訴人には,旧日本軍が中国国内に遺棄した毒ガス兵器等による被害が発生するのを防止するために,条理により,終戦時における日本軍の部隊の配置や毒ガス兵器の配備状況,弾薬倉庫の場所,毒ガス兵器や砲弾の遺棄状況,各兵器の特徴や処理方法などについて可能な限りの情報を収集した上で,

  中国政府に対して遺棄兵器に関する調査や回収の申出をする作為義務,少なくとも,遺棄された毒ガス兵器や砲弾が存在する可能性が高い場所,実際に配備されていた兵器の形状や性質,その処理方法などの情報を提供し,中国政府に被害発生防止のための措置をゆだねるという作為義務があったにもかかわらず,控訴人が上記各義務を怠ったため,本件各事故が発生したと認めて,国家賠償法1条1項に基づき,本件各事故の被害者1人当たり2000万円(ただし,被控訴人斉広春については1000万円)の損害賠償請求とその遅延損害金請求を認容したため,控訴人が,この敗訴部分を不服として控訴した。

4 当事者の主張の詳細は,当審における被控訴人らの主張を(別紙3)のとおり,控訴人の主張を(別紙4)のとおり付加するほかは,原判決添付の「原告らの主張」及び「被告の主張」のとおりであるから,これを引用する。

第3 当裁判所の判断

1 本件各事故の概要
  証拠(甲15ないし17,20,42,47ないし55,60,90,91,98,99,109,原審証人蘇向祥,原審における被控訴人李臣,当審における被控訴人孫文斗)及び弁論の全趣旨によって認められる本件各事故の概要は,原判決「事実及び理由」欄の第3の1ないし3の各(1)のとおりであるから,これを引用する。

2 本件各事故の原因となった本件遺棄兵器等の遺棄とその態様
(1) 前提事実
ア 旧日本軍による毒ガス兵器等の生産,配備,使用の状況の概要及びイペリット,ルイサイトの毒性
  証拠(甲119,120,122ないし124,129,130,283,304,305,307ないし309,331ないし346,350ないし353,386)及び弁論の全趣旨によって認められる旧日本軍による毒ガスの生産,日中戦争遂行中における中国への毒ガス兵器等の配備の状況,中国における毒ガスの使用状況は,原判決「事実及び理由」欄の第4の1(1)ないし(4)のとおりであり,本件毒ガス兵器に施され,また本件ドラム缶に入れられていたイペリット,ルイサイトの毒性,これによってもたらされる障害の概要は,同第4の2(1)及び(2)のとおりであるから,これを引用する。

イ 終戦時における毒ガス兵器等の処理状況
  証拠(甲121,228,230ないし232,251,252,256,257の1・2,258ないし261,266,280,281,乙17ないし20,22,89,92ないし95,当審証人興梠治照,当審証人吉見義明)及び弁論の全趣旨によれば,終戦時における旧日本軍による毒ガス兵器等の処理状況に関しては,以下の事実が認められる。

(ア) 昭和20年8月14日,日本は,ポツダム宣言を受諾した。ポツダム宣言において,日本軍は,武装を解除した後に各自の家庭に復帰すべきものとされており,大本営は,同月16日,関東軍に対し,戦闘行為停止のためにソ連軍に対する局地停戦交渉及び武器の引渡し等を実施することを認める旨を指示し,支那派遣軍,第5方面軍にも関東軍に対するのと同様の示達を出した。これを受け,関東軍総司令部は,同月17日,各地の部隊に対し,ソ連軍に武器を引き渡すことなどを打電し,同月19日,ソ連軍と関東軍との停戦協定が成立し,関東軍総司令部は,各地の部隊に,同月20日までに一切の戦闘を停止し,武器を交付するように指示をした。

(イ) しかし,終戦直前から終戦直後の混乱期において,中国各地の部隊においては,上官の命令により,毒ガス兵器等を川や古井戸に投棄したり,地中に埋めたりして,これを隠匿する例があり(なお,控訴人は,毒ガス兵器等を川や古井戸に投棄し,地中に埋めた旨の供述等は,信用性が乏しいと主張するが,これらの供述は,自らが行った違法行為を述べるものであって,その信用性は高いものというべきである。),終戦直後のアメリカ陸軍化学戦統括部隊の広東派遣班,同上海派遣班,同華中派遣班の各調査結果によっても,旧日本軍から連合国軍にイペリット,ルイサイト等の致死性のある毒ガス兵器等が引き渡されたことは確認されていない。

  また,中国国内における事例でないものの,毒ガス兵器等に関しては,日本国内において,昭和20年8月20日ころに毒ガス兵器等を陸奥湾に投棄し,これを隠匿した例があるほか,同月25日ころに海軍第23特別根拠地隊司令部(セレベス島マッカサル)が化学戦資材(防毒面を含む。)のすべての痕跡を完全に廃棄するように指示し,これがアメリカ軍によって傍受,解読された例もある。

ウ 日本国政府による旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器等の確認状況
 証拠(甲267,269,270の1・2,乙12ないし16,117,当審証人吉見義明)及び弁論の全趣旨によれば,日本国政府による中国国内における遺棄毒ガス兵器等の調査結果等に関し,以下の事実が認められる。

 日本国政府は,外務省が中心となり,防衛庁や民間の専門家の協力を得て,旧日本軍が中国国内に遺棄した化学兵器(毒ガス兵器等)の状況を確認するために,平成3年6月から平成17年10月までの間に合計35回の現地調査を実施している。上記現地調査の結果,発掘され,又は発掘物として保管されていた毒ガス兵器等は,いずれも旧日本軍のものと確認され,又は推定されており,ソ連軍又は国民党軍の毒ガス兵器等であることが確認されたものや,その可能性が指摘されたものが存在したことはうかがわれず,日本国政府も,旧日本軍が中国国内に遺棄した毒ガス兵器等の数は約70万発と推定している(中国政府は,200万発と主張している。)。そして,日本国政府は,平成11年7月30日,中国政府との間で,「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」を締結し,同覚書において,累次にわたる共同調査を経て,中国国内に大量の旧日本軍の遺棄化学兵器が存在していることを確認する旨を明らかにした。

エ 本件各事故現場における終戦時の軍隊の配備の状況等
  証拠(甲14,17,45,93ないし96,97の1・2,99,167,267ないし269,290,292)及び弁論の全趣旨によれば,本件各事故現場地域における終戦時の軍隊の配備状況,戦後の遺棄兵器の 発見状況等に関し,以下の事実が認められる。

(ア) 黒竜江省佳木斯市
  松花江紅旗09事件の事故現場は,黒竜江省佳木斯市の記念塔から約200メートルの位置にある。佳木斯市は,昭和7年5月17日,旧日本軍が松花江の佳木斯港に入港し,同年8月21日,63連隊によって占領された。終戦時にも,佳木斯市には関東軍が駐留していて,野戦兵器廠佳木斯支廠があり,佳木斯港区一帯の河川では,松花江紅旗09事件の前から,毒ガス弾がいくつも掘り出されたことがあった。

(イ) 黒竜江省牡丹江市
  牡丹江市光華街事件の事故現場が所在する黒竜江省牡丹江市は,昭和7年5月牡丹江駅が旧日本軍によって占領され,昭和12年以降,旧日本軍が駐屯を続けた。その間,昭和16年7月には,関東軍の防疫給水部(731部隊)の支隊(643部隊)が同市に置かれ,更に,昭和19年には,辺境警備のため,関東軍が第1方面軍の大兵力を同市に駐軍させた。

  牡丹江市には,野戦兵器廠牡丹江支廠があり,牡丹江の鵜飼部隊「牡丹江支廠西倉庫建物使用状況調書」には,器材庫に「化学戦器材(消函類)」が存在すると記載されている。

  日本国政府が行った調査によっても,牡丹江市では多数の毒ガス弾が発見されている。

(ウ) 黒竜江省双城市周家鎮東前村では,昭和11年ころから,旧日本軍の弾薬と軍用物資の倉庫の建築が始まり,昭和15年ころから使用が始まった。倉庫は,周家鎮駅の北西に位置し,3平方キロメートルの面積に約60棟の倉庫が存在し,終戦時には,大量の砲弾が倉庫内に放置,遺棄された。終戦後の昭和21年ころ,双城市に駐屯したソ連軍が,占獲した弾薬庫をその地で起爆したが,依然として爆破されなかった砲弾が倉庫付近に散在する状態となり,このため,双城市が民工を動員して砲弾の除去作業を行ったが,現在に至るも,建築工事や農作業などのときに砲弾が発見されることがあり,周家鎮東前村事件以前にも7件の爆発事故と1件の中毒事件が発生している。周家鎮東前村事件の事故現場は,上記の倉庫があった地域に近接している。

  日本同政府が上記事故現場周辺の双城市で実施した調査の結果,旧日本軍のものであると推定される化学砲弾とともに,通常砲弾32発が発見された。

オ 本件遺棄兵器等の形状等
  証拠(甲10の1,17,48,50,99,103,265,286,乙12,140,原審における被控訴人仲江,当審証人吉見義明)及び弁論の全趣旨によれば,本件各事故の原因となった本件遺棄兵器等の形状,サイズ,重量に関し,以下の事実が認められる。

(ア) 本件毒ガス兵器(松花江紅旗09事件)
  本件毒ガス兵器は,引き上げられた後,すぐに再び松花江に投棄されているが,松花江紅旗09事件の翌々日である昭和49年10月22日,松花江からに再び毒ガス弾(以下「二つ目の毒ガス兵器」という。)が引き上げられた。本件毒ガス兵器と二つ目の毒ガス兵器の双方を目撃した紅旗09汲み上げ式浚渫船の船員らの目視によれば,二つ目の毒ガス兵器は,本件毒ガス兵器と同一の形状,サイズであるところ,その長さは50p,直径は10.6p,重さは15sであって,純度の高い銅製の弾帯が一つあり,その弾帯には二つの浅い溝があって,イペリットとルイサイトの混合剤が充填されていた。二つ目の毒ガス兵器は,その形状,サイズ,重量が,旧日本軍の105ミリ尖鋭きい弾(92式尖鋭きい弾)とよく一致する(なお,甲38号証の5,甲44号証の2によれば,亡肖慶武及び被控訴人劉振起の医療記録に記載された本件毒ガス兵器のサイズは,上記105ミリ尖鋭きい弾のサイズと一致しないが,それが,医療記録に記載されたものであるという性質上,本件毒ガス兵器の形状やサイズを明らかにすることを目的とし,計測した上で記載されたものではなく,患者本人又は関係者からの口頭による聴取りの結果が記載されたにすぎないものと推認され,この記載は,上記認定を左右するものではない。)。

(イ) 本件ドラム缶(牡丹江市光華街事件)
  本件ドラム缶は,うち3つが直径50p,高さ85p,うち1つが直径75p,高さ110pであって,その表面は,錆びついていたが「BH」と判読し得る文字が刻まれており,上部に3つのナットがついて,うち3つのドラム缶にはイペリットガス(マスタードガス)が充填されていた。

  昭和11年6月26日に陸軍省が制定した化学兵器取扱細則附録第一「化学兵器用容器」2条によれば,イペリット化学兵器である「きい1号」用の容器は,内径45.5p,長さ73.5pと,ルイサイト化学兵器である「きい2号」用の容器は,内径45.5p,長さ73.5pと,それぞれ定められていて,これらと本件ドラム缶とは,そのサイズが相異するが,直径と高さの比率はおおむね一致する。また,本件ドラム缶上部のナットは,これを目視した者によれば,日本国政府の調査により,旧日本軍のものと鑑定により確認され,又は推定されたドラム缶のそれとよく似たものであった。

(ウ) 本件砲弾(周家鎮東前村事件)
  本件砲弾は,爆発をして原形をとどめておらず,本件砲弾の形状を確定することはできない。

(2) 旧日本軍関係者による本件毒ガス兵器等の遺棄とその態様
ア 上記(1)の認定事実によれば,旧日本軍は,大量の毒ガス兵器等を生産し,これを中国国内に持ち込んで各地に配備していたこと,日本国政府は,平成3年6月から平成17年10月までの間に合計35回の現地調査を実施しているが,上記現地調査の結果発掘された毒ガス兵器等は,いずれも旧日本軍のものと確認され,又は推定されており,ソ連軍又は国民党軍の毒ガス兵器等であることが確認されたものや,その可能性が具体的に指摘されたものが存在したことはうかがわれず,日本国政府は,旧日本軍が中国国内に遺棄した毒ガス兵器等の数は約70万発にものぼると推定していること,日本国政府は,平成11年7月30日,中国政府との間で取り交わした「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」においても,累次にわたる共同調査を経て,中国国内に大量の旧日本軍の遺棄化学兵器が存在していることを確認する旨を明らかにしていることが認められるのであって,以上の事実によれば,松花江紅旗09事件の原因となった本件毒ガス兵器や牡丹江市光華街事件の原因となった本件ドラム缶が旧日本軍のものではないことを具体的に疑わせるに足りる特段の反証のない限り,これらは,旧日本軍のものと推認するのが相当である。

イ 上記アの判断につき,控訴人は,本件毒ガス兵器等がソ連軍又は国民党軍のものである可能性があると主張する。

(ア) 被控訴人らは,控訴人の上記主張を含め,本件毒ガス兵器等が旧日本軍のものであることや旧日本軍関係者がこれを隠匿して,遺棄したことを争う趣旨の控訴人の主張は,時機に後れたものであるから却下すべきであると主張するので,まずこの点について検討する。

  控訴人が,当審に提出した控訴理由書において,初めて上記主張をするようになったことは,当裁判所に顕著であるが,弁論の全趣旨によれば,控訴人は,原審においては,本件毒ガス兵器等が旧日本軍のものであり,これを旧日本軍が遺棄,隠匿した旨の被控訴人らが主張する事実関係に立ち入ることなく本件訴訟の帰趨は決せられるとの見通しの下に,敢えて事実の認否を行わなかったものの,上記事実関係を争うことを明らかにしなかったわけではなく,その意味では,控訴人が,事実に対する認否を変更するものとはいえないこと,当審における控訴人の上記主張は,被控訴人らの主張する事実関係を否認する理由を述べるものであって,自らが主張立証責任を負う事実について新たな主張を始めたわけではないことを考慮すると,なお,故意又は重大な過失によって,その提出が後れたとまでいうことはできない。

(イ) そこで,控訴人の上記主張について検討すると,確かに,証拠(乙104ないし111,153ないし159)及び弁論の全趣旨によれば,ソ連軍が,イペリットを含む毒ガス兵器等を製造,保有し,化学戦闘部隊を編成していたことが認められるほか,旧日本軍との戦闘において毒ガス兵器(その内容は不詳)が使用された例があることもうかがわれないではなく,また,国民党軍もイペリットを製造,保有していた可能性があることは認められる。

  しかし,これまで日本国政府が行った35回にものぼる調査の結果によっても,ソ連軍又は国民党軍の毒ガス兵器等であることが確認されたものや,その可能性が指摘されたものが存在したことはうかがわれないことは,既に説示したとおりであることに加え(なお,この点につき,控訴人は,乙137号証をもって,中国国内においてソ連式の毒弾が発見された例があることが認められると主張するが,同号証は,旧日本軍が遺棄した大量の毒ガス弾を吉林省教化県において埋設処理した記録文の中で,「その(埋設処理した)中に,ソ連式の焼夷弾や毒弾があった」と言及されているにすぎず,その毒弾の内容はおよそ不明なのであるから,同号証の記載をもってしても,ソ連が製造したイペリットやルイサイトを充填した毒ガス兵器が中国国内で発見されたとは到底認め難い。),その他本件記録を精査しても,ソ連軍が中国東北郡にイペリットやルイサイトを持ち込んだことを認めるに足りる証拠はないこと,国民党軍については,黒竜江省に進出したとの事実すら認めるに足りる証拠はないこと(かえって,乙96号証によれば,国民党軍は佳木斯市,牡丹江市まで進出侵攻した事実がないことが認められる。)などを考慮すれば,控訴人の主張するところを考慮しても,上記アの判断は左右されない。

ウ そこで,上記アの観点から本件毒ガス兵器等が旧日本軍のものであるとの推認を妨げるに足りる反証があるかどうかについて検討する。
  まず,本件毒ガス兵器について検討すると,上記アに説示したところに加え,松花江紅旗09事件の事故現場が所在する佳木斯市には,終戦時に関東軍が駐留していて,野戦兵器廠佳木斯支廠が存在しており,佳木斯港区一帯の河川では,松花江紅旗09事件の前から,毒ガス弾がいくつも掘り出されたことがあったなどの終戦前後の事情や,本件毒ガス兵器は,目視によって確認されたところによれば,これが引き上げられた直後に同じく松花江から引き上げられた二つ目の毒ガス兵器と,同一の形状,サイズのものであるところ,この二つ目の毒ガス兵器は,形状,サイズ,重量が旧日本軍の105ミリ尖鋭きい弾とよく一致することを考慮すると,本件毒ガス兵器は,旧日本軍のものであると推認するのに十分であって,この推認を妨げるに足りる反証はない。

  次に,本件ドラム缶について検討すると,本件ドラム缶は,化学兵器取扱細則附録第一「化学兵器用容器」2粂に定められた「きい1号」又は「きい2号」用の容器とサイズに差異があり,また,本件ドラム缶には「BH」と判読し得る文字が刻印されているところ,上記文字の意味するところは必ずしも明らかではなく,旧日本軍が上記のような文字を刻印をした容器を使用していたことを認めるに足りる証拠はない。しかし,本件ドラム缶については,牡丹江市政府の省政府に対する公的な報告文書(甲50)には,その大きさについての記述はなく,前記認定の直径,高さがどのように計測されたのか,また,その計測結果がどれほど正確であるのかは必ずしも明らかとはいえないし,上記文字も,事故現場を検証した市保健所の 医師が,本件ドラム缶の表面に「BH」という文字があったと報告しているにすぎないのであって(甲103),その読み取りの正確性の程度は明らかではなく,しかも,この文字の存在が,本件ドラム缶が旧日本軍のものであることを否定するだけの意味を持つものであることをうかがわせるに足りる証拠もない。そして,牡丹江市光華街事件の事故現場が所在する牡丹江市についても,昭和12年以降旧日本軍が駐屯を続け,野戦兵器支廠も存在していたこと,その間,昭和16年7月には,関東軍の防疫給水部(731部隊)の支隊(643部隊)が置かれていたことや牡丹江の鵜飼部隊「牡丹江支廠西倉庫建物使用状況調書」には器材庫に「化学戦器材(消函類)」が存在すると記載されていることからすると,上記野戦兵器支廠には化学戦に備えた配備がされていたことが推認されることに加え,日本国政府が行った調査によっても,牡丹江市では多数の毒ガス弾が発見されていること,本件ドラム缶の上部のナットは,上記調査で旧日本軍のものと確認され,又は推定されたドラム缶のそれとよく似ていることを考慮すると,本件ドラム缶と「きい1号」又は「きい2号」用の容器とのサイズの違いや本件ドラム缶に「BH」と判読し得る文字が刻印されていたことをもってしても,本件ドラム缶が旧日本軍のものであるとの推認を妨げるには足りないものというべきである。

エ 次いで,本件毒ガス兵器等が,旧日本軍関係者によって,遺棄,隠匿されたと認めることができるか否かについて検討する。
  上記1において引用した原判決の認定事実によれば,本件毒ガス兵器は,松花江の川底から引き上げられたものであり,本件ドラム缶は,牡丹江市光華街の建築文化宮前において下水道管の埋設工事中に深さ2.5メートルに掘った溝の中から発見されたものであるというのであり,これらは,人為的に松花江に投棄され,又は牡丹江市光華街の地中に埋設されていたものであると推認するのが相当である。

  そして,上記(1)の認定事実によれば,ハーグ陸戦条約を批准し,ジュネーブ議定書に署名をしている日本国の軍上層部においては,中国国内に毒ガス兵器等を持ち込み,これを使用していたとすれば,それが国際的非難を受けることを認識していたと推認できることに加え,関東軍総司令部は,ポツダム宣言受諾後,中国各地に展関している各部隊に対し,ソ連軍に武器を引き渡すことを指示したにもかかわらず,アメリカ陸軍化学戦統括部隊の各調査結果によっても,旧日本軍から連合国軍にイペリット,ルイサイト等の致死性のある毒ガスが引き渡されたことは確認されておらず,かえって,終戦直前から終戦直後の混乱期において,中国各地の部隊においては,上官の命令により,毒ガス兵器等を川や古井戸に投棄したり,地中に埋めたりして,これを隠匿する例があったこと,佳木斯港区一帯の河川では,松花江紅旗09事件の前から,毒ガス弾がいくつも掘り出されたことがあったこと,日本国政府が行った調査によって,牡丹江市では,旧日本軍が遺棄したことが確認され,又は推定される多数の毒ガス弾が発見されていることなどからすれば,中国国内において,日本軍関係者が,毒ガス兵器等を隠匿して,遺棄したことがあったことは否定し難い。さらに,中国国内における事例でないものの,毒ガス兵器等に関しては,昭和20年8月に,日本国内において,毒ガス兵器等を陸奥湾に投棄した例があるほか,旧日本海軍司令部が化学戦資材(防毒面を含む。)の痕跡を完全に廃棄するように指示した例もあることが認められることをも考慮すれば,それがどの程度組織だって行われたのかについてはこれを確定することはできないものの,旧日本軍関係者によって,本件毒ガス兵器は,松花江に投棄され,本件ドラム缶は,牡丹江市光華街の地中に埋設され,それぞれ隠匿された上で,遺棄されたものと推認することができる。ソ連軍の参戦からわずか数日以内に,ソ連軍が佳木斯市,牡丹江市に侵攻してきたなどの控訴人主張事実を考慮しても,上記認定を左右するには足りない。

オ 以上に説示したところによれば,本件毒ガス兵器等は,いずれも旧日本軍が中国国内に配備したものであって,これを,旧日本軍関係者が,ソ連軍侵攻までの間に松花江に投棄し,又は牡丹江市光華街の地中に埋設し,それぞれ隠匿した上,遺棄したものと認めることができる。

(3) 本件砲弾の旧日本軍関係者による遺棄とその態様
ア 上記(1)の認定事実によれば,周家鎮東前村事件の現場が旧日本軍の弾薬庫に近接する地域であること,日本国政府が現場周辺の双城市で実施した調査の結果,旧日本軍のものであると推定される化学砲弾とともに,通常砲弾32発が発見されたことなどから,特段の反証がなければ,本件砲弾は,旧日本軍のものと推認することできる。

イ しかしながら,通常砲弾については,毒ガス兵器等とは異なり,旧日本軍において,これを特に隠匿しなければならないような動機があったとの事情は認められないことに加え,上記1において引用した原判決の認定事実によれば,本件砲弾は,道路脇の畑から発見されているのであって,その発見状況からしても,これが殊更隠匿されたことはうかがわれない。そして,上記(1)の認定事実によれば,本件砲弾は,旧日本軍が弾薬庫内に放置した砲弾をソ連軍が占獲した後,これを起爆したものの,依然として爆破されなかった砲弾が倉庫付近に散在する状態となったもののうちの一つである可能性が高いものというべきである。したがって,本件砲弾については,旧日本軍が弾薬庫内に放置していたという意味においては,その管理下にあった本件砲弾を捨て置き,遺棄したということができるが,これが周家鎮東前村事件の事故現場である道路脇の畑に放置されるに至ったについては,ソ連軍の起爆処理の後も爆破されずに,砲弾が周囲に散在した結果である可能性を否定することができず,旧日本軍関係者が,これを隠匿したと認めるには足りないものというべきである。

3 国家賠償法1条1項に基づく請求について
  以上の認定の下において,当審における審理の経過に鑑み,破控訴人らの請求のうち,まず国家賠償法1条1項に基づく請求について検討する(なお,本件砲弾については,旧日本軍関係者が,これを隠匿して,遺棄したとの事実を認めるに足りないことは前記のとおりであるので,以下は,旧日本軍関係者が本件毒ガス兵器等を,中国において隠匿して,遺棄したことを前提とする上記請求について検討するものである。)。
(1) 被控訴人らが主張する不作為の内容と公務員の特定
  控訴人は,被控訴人らの国家賠償法1条1項に基づく請求は,違法な公権力の行使を行った加害行為者である公務員を特定していないから,主張自体失当であると主張するので,まず,この点について検討する。

  公務員の不作為の違法を理由として国家賠償法1条1項に基づく請求を行う者は,公務員の「違法な公権力の行使」に当たる不作為を具体的に特定して主張することを要するものというべきところ,被控訴人らは,本件において,@終戦時における日本軍の部隊の配置や毒ガス兵器等の配備状況,弾薬倉庫の場所,毒ガス兵器等の遺棄状況,各兵器の特徴や処理方法などについて可能な限りの情報(以下「遺棄兵器に関連する情報」という。)を収集した上で,中国政府に対して遺棄兵器に関する調査や回収の申出をするという作為義務,A少なくとも,遺棄された毒ガス兵器等が存在する可能性が高い場所,実際に配備されていた兵器の形状や性質,その処理方法などの情報を提供し,中国政府に被害発生の防止のための措置をゆだねるという作為義務があったにもかかわらず,これを怠ったことをもって,「違法な公権力の行使」に当たると主張するものである。国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が,個別の国民等に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民等に損害を与えたときに,国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定するものであり,同条項に基づく国の責任は,代位責任の性質を有するものと解される(最高裁判所昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民業39巻7号1512頁,最高裁判所平成13年(行ツ)第82号同17年9月14日大法廷判決・民集59巻7号2087頁)。したがって,被控訴人らが,控訴人(国)が遺棄兵器に関連する情報を収集した上,収集した情報を中国に提供する義務や,遺棄兵器の調査・回収を申し出て,これを行う義務を負い(国家の義務),その義務(国家の義務)の不履行を理由として,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を請求するというのであれば,その主張は失当といわざるを得ない。被控訴人らが,控訴人に対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償請求を行うためには,公務員を特定して,当該公務員の公権力の不行使(不作為)が違法であることを主張,立証することを要するものというべきである。

  そこで,被控訴人らが公務員を特定して,その公権力の不行使(不作為)が違法であることを主張していると理解することができるかどうかについて検討する。本件において,被控訴人らは,先行行為に基づき,条理上,我が国の公務員に牒される上記作為義務の不履行をもって違法な不作為に当たると主張しているものと理解することができるのであって,かかる違法行為類型にあっては,条運上導かれるとされる作為義務の内容が特定して主張されれば,国家行政組織法上,当該作為に係る事務を所管する行政機関を構成する公務員をもって,不作為の主体として特定したものということができ,かかる特定をもって,不作為の主体である公務員の特定としては足りるものと解するのが相当である。本件について具体的にいうならば,被控訴人らは,我が国の戦後処理に関する事務及び対中国外交に関する事務を所管する行政機関,更には上記事務の執行について指示,決定すべき行政機関を構成する国家公務員を行為の主体として,これらの公務員が旧日本軍の遺棄兵器に関連する情報を収集し,収集した情報を中国に提供することをせず,遺棄兵器の調査・回収の申出もしなかったという不作為が,被控訴人らに対する違法な公権力の行使に当たると主張するものと理解することができ,以上のように理解する限りにおいては,被控訴人らの主張が不作為の主体である公務員の特定に欠けるということはできない。
  控訴人の上記主張は,採用することができない。

(2) 違法評価の対象となる不作為
  控訴人は,遺棄行為とは別に放置行為を法的評価の対象とはなし得ないとも主張する。
  確かに,自らが管理すべき物をそのまま捨て置くという意味における「遺棄」と,その状態を単に継続しているという意味における「放置」とは,これを一体として評価すべきであって,「遺棄」の通常の因果の流れにある「放置」は,先行行為である「遺棄」によって評価し尽くされ,「放置」行為が独自に違法評価の対象となることはないということはできる。しかし,遺棄された物が人の生命,身体等に対する危害を発生させる危険がある場合において,その危険が現実のものとなって,人の生命,身体等に被害が生じたときに,上記のような危険を発生させた遺棄行為と,危害の発生を防止し,回避するための具体的手段があるにもかかわらず,これを行わない不作為とは,別個の法的評価の対象となり得るものというべきである。そして,被控訴人らは,本件訴訟において,旧日本軍関係者が,自らの管理下にあった毒ガス兵器等をそのまま捨て置き,その状態を単に継続していたという意味での放置行為の違法を主張するものではなく,戦後,我が国の公務員が,遺棄兵器に関連する情報を収集し,収集した情報を中国に提供することをせず,遺棄兵器の調査・回収の申出もしなかったという不作為を違法評価の対象として主張するものである。上記不作為は,旧日本軍関係者が中国国内に毒ガス兵器等を隠匿して遺棄した行為とは,その行為の主体も異なる全く別個の公権力の行使にかかわる不作為であって,これが,旧日本軍関係者が中国国内に毒ガス兵器等を隠匿して遺棄した行為とは,別に違法評価の対象となり得ることは明らかというべきである。

  さらに,控訴人は,被控訴人らが主張する作為義務の発生根拠とされる先行行為(遺棄行為)の当時には国家賠償法は施行されておらず,したがって,これを違法とする余地がなかった(国家無答責の法理)にもかかわらず,上記先行行為に基づいて発生した危険を除去しない不作為をもって「違法な公権力の行使」に当たるとするのは奇異であるとも主張する。しかし,国家無答責の法理の下においても,旧日本軍関係者が毒ガス兵器等を中国国内に隠匿して遺棄した行為を理由として,控訴人に対して損害賠償請求をなし得ないというにとどまり,上記行為は,およそ法の世界から放逐されていて,法的評価の対象とはなり得なかったなどと解することはできない。国家賠償法施行前は,我が国において,国家無答責の法理が確立されていたとしても,そのことは,上記行為が条運上の作為義務の発生根拠とならない理由にはならないのであって,控訴人の上記主張は独自の見解といわざるを得ない。

  以上によれば,戦後において,我が国の公務員が遺棄兵器に関する情報を収集し,収集した情報を中国に提供せず,遺棄兵器の調査・回収の申出もしなかった不作為を独自に法的評価の対象とすることはできないとの趣旨をいう控訴人の主張は,いずれも失当である。

(3) 違法な先行行為に基づく作為義務の発生
  本件毒ガス兵器に施されていたイペリットとルイサイトとの混合剤や本件ドラム缶に入れられていたイペリットが,これに触れた人の生命,身体に重大かつ重篤な被害をもたらす極めて毒性の強い化学剤であることは,前記引用に係る原判決の認定するところであり,旧日本軍関係者が,日中戦争の終結時に,中国国内に持ち込み,配備していた本件毒ガス兵器を松花江に投棄し,本件ドラム缶を牡丹江市光華街の地中に埋設して,それぞれこれを隠匿し,遺棄したものと推認されることは,前記認定のとおりである。

  人の生命,身体に重大かつ重篤な被害をもたらすイペリットやイペリットとルイサイトの混合剤が施され,又は入れられた本件毒ガス兵器等を上記のような態様で遺楽し,適切な管理ができない状態に量くことは,その危険性を知らない一般人が,これを発見して触れるなどして,その生命,身体に重大かつ重篤な被害を被る危険を生じさせるものであって,違法の評価を免れることはできないものというべきである。

  この点につき,控訴人は,本件毒ガス兵器等を上記のような態様で遺棄したことそれ自体によっては,差し迫った危険は生じていないなどと主張する。確かに,本件毒ガス兵器等が終戦後長い年月を経た後に,松花江から引き上げられ,又は牡丹江市光華街の地中から発掘されて,本件被害者らがその生命,身体に被害を受けたものであるが,このような事故の発生態様は,本件毒ガス兵器等が松花江に投棄され,又は牡丹江市光華街の地中に埋設されて遺棄されたことによって生じた上記の危険が,まさに現実化したものというべきであって,上記各事故が,本件毒ガス兵器等の遺棄から年月を経て発生したことや,遺棄されたそのままの状態で発生したわけではないことなどの控訴人主張の事実は,上記判断を左右するものではない。

  さらに,控訴人は,ハーグ陸戦規則23条によって禁じられていたのは,毒ガス兵器を戦争で「使用」することにとどまり,これを遺棄することは,国際法上禁じられていなかったから,遺棄が国際法上,違法とされるいわれはないなどと主張するが,人の生命,身体に重大かつ重境な被害を及ぼす危険を作出する行為は,何物にも代え難い権利を侵害する危険を作出するものであって,これを違法とする特段の法令の定めがなくとも,違法の評価を免れないものというべきである。このことは,その違法行為に基づき,行為主体や国家が,国際法上,又特定の国家の法制度上,民事上若しくは刑事上,どのような責任を負うことになるのかについては,法令の規定を待つ必要があることとは別論である。ハーグ陸戦規則23条を根拠として,毒ガス兵器等を上記のような態様で遺棄する行為の違法性を否定する控訴人の主張は,独自の見解といわざるを得ない。

  また,国家賠償法施行以前においては,国又は公共団体の権力作用については,国の賠償責任が否定されていたとしても(国家無答責の法理),そのことによって,人の生命,身体に危険を及ぼす行為の違法性それ自体が否定されるものではないことももとより明らかである。そもそも,実定法の規定に即して国家無答責の法理について考察すれば,民法715条の文言上は,公務員の公権力の行使が同条の適用から明示的に排除されているとはいえないことに加え,行政裁判所法16条が「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」と規定していることからすれば,同条の規定は,実体法上は,公権力の行使に違法があった場合に国に対する損害賠償請求権が成立することを前提としながら,行政裁判所が損害賠償請求訴訟を受理しないという訴訟法上の定めを置いたもの(その結果,国家賠償請求はなし得ないことになる。)と解する余地すらあるのであって,国家無答責の法理もまた,公務員の公権力の行使が,人の生命,身体に重大かつ重篤な被害を与える場合に,その違法性を否定する根拠となるものとは到底解し得ない。

  人の生命,身体に重大かつ重篤な被害を生じるおそれのある状態を作出する行為が違法ではないなどという見解は,到底採用することができず,その他本件記録を精査しても,他に上記判断を左右するに足りる事情を見出すことはできない。

  そして,旧日本軍関係者が,人の生命,身体に重大かつ重篤な被害をもたらすイペリットやイペリットとルイサイトの混合剤が施され,又は入れられた本件毒ガス兵器等を上記のような態様で遺棄し,適切な管理ができない状態に置いた結果,中国国民が,その生命,身体に重大かつ重篤な被害を被る危険が生じたのであるから,我が国の公務員がある具体的な措置(公権力の行使)を執ることによって上記危険が現実化しなかったであろう高度の蓋然性を肯定できる場合において,当該措置を執ること(公権力の行使)が,被害者との関係で法的に義務付けられていると解されるときは,当該措置を執らなかったこと(不作為)は,条理上,違法と評価されるものというべきである。そして,かかる作為義務の発生には,必ずしも法令上の根拠を要するものとは解し得ない。

(4) 不作為が不法行為を構成する場合
ア もっとも,ある具体的な権利侵害との関係で,我が国の公務員がある具体的な措置を執らなかったという公権力の不行使が,権利を侵害された個人に対する違法行為(不法行為)に当たるというためには,公務員がその公権力を行使して当該措置を執っていれば,当該権利侵害の結果は発生しなかった高度の蓋然性が認められるという関係(条件関係)があることが,

  当該公権力の行使が当該個人に対する関係で法的に義務付けられているかどうかを検討する前提となるものと解される。

  すなわち,一般に,不作為の不法行為にあっては,不法行為者とされる者は,積極的な行為を何もしていないにもかかわらず,その者の不作為が不法行為を構成するとされるのは,その者が,ある具体的な行為をしてさえいれば(当該行為をしないという不作為がなければ),権利侵害の結果が生じなかった高度の蓋然性が認められるという関係(条件関係)があるからであり,そのような条件関係がある不作為だからこそ,作為が,被害者との関係において,法的に義務付けられていると解される場合(作為義務がある場合)には,作為義務違反(不作為)が,違法と評価されるのである。これに対し,上記のような条件関係すらない不作為をとらえて,作為義務に違反し違法であると解してみたところで,かかる不作為については,論理的にみて,結果発生との間の相当因果関係を認める余地はないのであって(最高裁判所昭和48年(オ)第517号同50年10月24日第二小法廷判決・民衆29巻9号1417頁,最高裁判所平成8年(オ)第2043号同11年2月25日第一小法廷判決・民衆53巻2号235頁参照),当該結果発生についての不法行為責任を問うことができないことは明らかである。仮に,このような場合にも不法行為責任を問う余地があるというのであれば,それは,作為義務違反とは相当因果関係がない結果に対する責任,すなわち結果責任を問うものといわざるを得ない。したがって,上記のような条件関係すら肯定できない不作為をとらえて,作為義務の有無,すなわち,不作為の違法性の有無を論ずることは相当とはいえない。ある不作為が不法行為を構成すると主張される場合には,不法行為を構成するとされる不作為がなければ,当該権利侵害は生じなかった高度の蓋然性が認められるという関係にあることが,作為義務の有無を論ずる前提となると解されるのである。かかる前提の下において,当該権利侵害の危険性が現存し,かつ,差し迫っている状況にあり(危険の切迫性),不法行為者とされる者が当該権利侵害の危険性と切迫性を認識することができ(予見可能性),その者が当該行為をすることによって結果が回避できた(結果回避可能性の存在)などの要件が充足される場合には,その者は,被害者との関係において,当該行為をすることが法的に義務付けられていたと解されるのであって,当該行為を行うことについて,技術的,経済的,社会的制約等のためにどの程度の困難が伴うのかが,上記の結果回避の可能性の要件として検討されるべき事項であって(技術的,経済的,社会的制約等のため,当該行為を行うことが不可能である場合には,結果回避可能性が否定される。),当該行為がされていれば,権利侵害の結果が回避された文宇どおりの可能性があったかどうか,又はその可能性が高まったかどうかは,ここで検討すべき事項とは解されない。以上の事理は,公権力の不行使が,個人に対する違法行為を構成するか否かについても同様というほかはない。

イ 被控訴人らの主張についての検討
  被控訴人らは,本件において,我が国の公務員には,遺棄兵器に関連する情報を収集した上で,中国政府に対して遺棄兵器に関する調査や回収の申出をするという作為義務,少なくとも,遺棄された毒ガス兵器等や砲弾が存在する可能性が高い場所,実際に配備されていた兵器の形状や性質,その処理方法などの情報を提供し,中国政府に被害発生の防止のための措置をゆだねるという作為義務があったにもかかわらず,これを怠ったことをもって,「違法な公権力の行使」に当たると主張することは前記のとおりである。そして,我が国の公務員が,上記の作為義務を尽くしていれば,本件毒ガス事故の発生を未然に防止できた可能性はあると主張し,これらを全く行うことなく,かえって毒ガス兵器等に関する情報を隠匿したことによって,時間の経過によって遺棄兵器が存在する場所を具体的に特定できなくなったからといって,法的作為義務が否定されるというような見解は採り得ないとも主張する。

  旧日本軍は,日中戦争中に,多数の毒ガス兵器等を中国に持ち込み,これを各地に配備した上,その終戦時には,これを隠匿して遺棄したものも含め,日本国政府が認めているだけでも70万発にのぼる毒ガス兵器等が中国国内に遺棄されており,これらが適切に管理されていない状況が本件各事故の発生当時も継続していたことは既に認定したところである。上記事実関係の下においては,我が同が「化学兵器の開発,生産,貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」(以下「化学兵器禁止条約」という。)に署名し,これを批准するのを待つまでもなく,我が国が,遺棄兵器に関する情報を収集した上で,中国政府に対して遺棄兵器に関する調査や回収の申出をし,少なくとも,遺棄された毒ガス兵器等や砲弾が存在する可能性が高い場所,実際に配備されていた兵器の形状や性質,その処理方法などの情報を提供することは,国家としての責務であるというべきである(この責務は,個々の公務員の本件毒ガス事故の被害者個人に対する法的作為義務とは性質を異にする。)。上記責務を果たしたとしても,これによって,被害の発生を未然に防止できる可能性が少ないとか,既に中国政府が遺棄された毒ガス兵器等の調査,回収を行っているなどの控訴人が主張するような理由で,これらの情報の収集やその提供を真摯に行わないなどということは,責任ある国家の姿勢として許されるものではない。

  しかし,国家賠償法上の議論としては,我が国の個々の公務員が上記各行為をしたとしても,本件各事故の発生を防止できた蓋然性が高いとはいえないのであれば,仮に,当該各行為をすることが,我が国の公務員の本件被害者らに対する法的義務であると解したとしても,当該行為をしなかったことと結果の発生との間の因果関係は認める余地はないものといわざるを得ないことは既にアにおいて説示したとおりである。あらゆる可能な手段を講じてもおよそ結果を回避することが不可能であったといえない限りは,控訴人は,国家賠償法上の責任を免れないなどの主張は,同法の解釈としては採り得ないものというほかはない。個々の公務員が上記各行為をしていれば,現に発生した権利侵害の結果を防止できた蓋然性が高いとの条件関係がない場合には,当該行為を行わなかったために権利侵害の結果が発生したと解する余地がないという意味で,当該行為を行うべき法的義務の有無を論ずるまでもなく,これが違法な不作為に当たると解することは相当とはいえないのである。したがって,被控訴人らの主張は,採用することができない。

ウ 以上の見地に立って本件をみると,被控訴人らにおいても,我が国の公務員が,遺棄兵器に関する情報を収集した上で,これを中国に提供し,遺棄兵器に関する調査や回収の申出をし,少なくとも,遺棄された毒ガス兵器等や砲弾が存在する可能性が高い場所,実際に配備されていた兵器の形状や性質,その処理方法などの情報を提供したとすれば,本件毒ガス事故の発生を防止することができた高度・の蓋然性があると主張するものではなく,あらゆる可能な措置を執っていれば,結果を回避できた可能性があったこと,又はその可能性が高まったことを主張するにとどまる。その主張自体からみて,被控訴人らが主張する不作為は,その不作為がなければ,本件毒ガス事政による権利侵害の結果を防止することができたとの条件関係を肯定し得るものとはいえない。

  そして,被控訴人らが主張する上記措置が執られていたとしても,本件各事故の発生を防止することができた高度の蓋然性があると認めるには足りないことは,以下に説示するとおりである。すなわち,証拠(甲171,189,267,269,270の1・2,乙12ないし16,117)及び弁論の全趣旨によれば,旧日本軍による毒ガス兵器等の中国における配備は,広範囲に及び,日本国政府と中国政府との35回にわたる共同調査によっても,旧日本軍の遺棄兵器は,中国東北部(黒竜江省,吉林省,遼寧省)に多くみられるほか,河北省,河南省,江蘇省,安徽省,浙江省でも確認されており,その分布範囲は,広大な中国大陸に広く及んでおり,毒ガス兵器等の遺棄地点の多くは,未だ特定されるに至っていないこと,また,毒ガス兵器等の遺棄に関する旧日本軍関係者の供述に基づいて,遺棄された毒ガス兵器等が発見された事例の報告もないことが認められるのであって,これらのことからすると,我が国の戦後処理に関する事務を所管する行政機関において,遺棄兵器に関する情報収集を行い,収集された情報を,対中国外交に関する事務を所管する行政機関を通じて,中国に提供し,また,より早期に,かつ,より積極的に,遺棄兵器の調査・回収を申し出て,これを行ったとすれば,本件毒ガス事故の発生を防止できた一般的,抽象的な可能性は高まったとみる余地があるといえるとしても,これを行うことによって,本件毒ガス事故の発生を防止できた高度の蓋然性があったとは到底認め難いといわざるを得ない。したがって,被控訴人らが主張する不作為がなければ,本件毒ガス事故の発生が防止できた高度の蓋然性が認められるという条件関係を肯定することはできないのであり,かかる不作為をもって,本件毒ガス事故の被害者らに対する関係で違法な公権力の行使に当たると解することはできない。既に述べたとおり,仮に,かかる不作為をもって,違法な公権力の行使に当たると解したとしても,かかる不作為と本件毒ガス事故の被害者らに生じた権利侵害の結果との間の因果関係を認める余地はないことも明らかというほかはない。

(5) 以上によれば,被控訴人らの国家賠償法1条1項に基づく請求は,その余の点を判断するまでもなく,理由がないものといわざるを得ない。

4 ハーグ陸戦条約3条又は国際慣習法に基づく請求について
  被控訴人らは,旧日本軍関係者が本件遺棄兵器等を中国国内に遺棄,隠匿し,これを放置した行為は,ハーグ陸戦規則,ジュネーブ議定書,世界人権宣言,国際慣習法に違反し,被控訴人らは,ハーグ陸戦条約3条又は国際慣習法に基づき,控訴人に対し,損害賠償を請求することができる旨を主張する。

  しかし,国家は,それぞれ独立の主権を有しており,国際社会を構成するほかの国家とは独立対等な関係にある。このような独立対等な諸国家を規律するものが条約又は国際慣習法であって,条約及び国際慣習法は,通常は,国家間の権利義務関係を規律する規範である。このような条約及び国際慣習法の分野においては,他国が条約又は国際慣習法に違反する行為を行ったことによって,ある個人が被害を受けたとしても,当該個人は,原則として,その条約及び国際慣習法に基づき,加害国に対する損害賠償請求権を取得することはなく,このような個人の損害は,その所属する国家の外交保護権の行使による国際法上の責任の追及によって回復が図られることになる。上記のような原則にかかわらず,条約が例外的に,個人に加害国に対する損害賠償請求権を付与することもあり得るが,そのような例外的な場合に当たるというためには,当該条約において個人が損害賠償請求権の帰属主体であることが明確に規定されていることを要するものというべきである。

  これをハーグ陸戦条約3条についてみると,ハーグ陸戦条約3条の文脈及び趣旨,目的とともに事後に生じた慣行に照らし,その用語の通常の意味に従って,これを解釈すれば,ハーグ陸戦条約3条が,交戦当事国の軍隊の構成員によるハーグ陸戦規則違反の行為があった場合に,損害を受けた個人に対し,加害国に対する損害賠償請求権を付与することを規定したものと解することはできず,条約の起草過程に依拠した解釈によっても,上記解釈の正当性を確認することができる。したがって,ハーグ陸戦条約3条は,被控訴人らが本訴において主張する損害賠償請求権の権利根拠規定足り得ず,また,ハーグ陸戦条約3条が,被害を受けた個人に対し,損害賠償請求権を付与する権利根拠規定であるとの解釈を前提に,同条によって具体化された国際慣習法に基づくとする被控訴人らの控訴人に対する損害賠償請求は,その余の点について判断するまでもなく,失当である。

  のみならず,ハーグ陸戦条約3条は,交戦当事国の軍隊の構成員によるハーグ陸戦規則違反の行為によって生じた損害賠償請求権について定めるものであることは明らかである。そうであれば,仮に,ハーグ陸戦条約3条に基づき被控訴人ら個人が損害賠償請求権を取得したと解する余地があるとしても,その請求権が同条に基づくものであるという以上,それは,日中戦争の遂行中の行為によって生じた請求権を行使するものと解さざるを得ず,被控訴人らは,日中共同声明5項によって,裁判上これを訴求する権能を失ったものというほかはない(最高裁判所平成16年(受)第1658号同平成19年4月27日第二小法廷判決)。

  したがって,ハーグ陸戦条約3条又は国際慣習法に基づく被控訴人らの請求は,失当である。

5 中華民国民法及び中華人民共和国民法通則に基づく請求について
  被控訴人らは,旧日本軍関係者が,本件遺棄兵器等を中国国内に遺棄,隠匿し,これを放置した結果,被控訴人らに生じた損害の賠償請求については,法例11条1項により,中華民国民法及び中華人民共和国民法通則が準拠法として指定されると主張して,同法に基づく損害賠償を請求する。

  我が国の法例(平成19年1月1日の「法の適用に関する通則法」施行後は,同法)を含むいわゆる国際私法は,渉外的私法関係に適用すべき私法を指定する法則,適用規範である。国際私法は,社会には,特定の国家の法を超えた普遍的な価値に基づく私法があり,国家が異なっても相互に適用が可能であるとの前提の下に,上記のように国際的共通性の高い渉外的私法関係に適用されるものであり,私法の抵触問題の解決をその中心課題とする。これに対し,公法は,私法とは異なり,一国の公益と密接な関係を有する法であって,公法の抵触問題の解決は,私法のそれと性質を異にすることから,刑法や行政法規等の公法の抵触問題は,国際私法の適用範囲外の問題とされている。

  これを本件についてみると,被控訴人らの上記請求は,旧日本軍関係者等の違法な公権力の行使を理由として,控訴人に対して被控訴人らが被った損害の賠償を求める国家賠償請求の性質を有する。一般に,国家賠償請求権の存否に関する法律関係は,加害者(公務員)の違法行為によって損害を受けた被害者の救済を目的とするものであり,私的な個人の賠償請求権の存否を審理,判断の対象とするという側面からみる限りにおいては,一般の不法行為と共通性を有する私法的法律関係に属するということができる反面,上記法律関係は,公権力の行使の適否が判断の対象となるという意味で,公法的な色彩を持つことは否定できない。すなわち,公権力の行使の適否に関する判断は,その後の国の行政権,立法権の行使,さらには,国民生活に対する国の機関の権限行使のあり方にも重大な影響を与えるものであって,当該国家の公益と密接な関係を有する。そして,公権力の行使が法律に従って行われるべきことはいうまでもないが,国家賠償請求訴訟の審理において,その適否が問題とされている公権力の行使について,当該国家の法律とは異なる適法要件を定める他国の法律によって,その違法性の有無が判断されるようなことは,当該国家の公益に反するものといえる。さらに,各国の国家賠償に関する法制をみても明らかなように,各国が,国家賠償制度の存否,責任の範囲や程度につき,国政全般にわたる総合的政策判断の下に,様々な立法政策を採用していることは,国家賠償請求権の存否に関する法律関係が,国家の国政全般にわたる総合的政策判断と密接な関係を有する公法的色彩を持つ法律関係であることを示すものといえる。

  以上に説示したところによれば,一般に,国家賠償請求権の存否に関する法律関係は,個人の損害賠償請求権という私的な権利の存否を対象とし,私的利益の救済を目的とするものではあるものの,他方で,国家の公益と上記のような密接な関係を有しているのであって,かかる法律関係が準拠法の選択を国際私法の規律にゆだねるべき法律関係に当たると解することは困難といわざるを得ない。

  したがって,被控訴人らの控訴人に対する損害賠償請求権の存否を判断するに当たっては,法例11条1項に基づき中華民国民法及び中華人民共和国民法通則が適用されるとする被控訴人らの主張は,これを採用することができず,同法に基づく請求は,その余の点について判断するまでもなく,失当というほかはない。

6 国家賠償法2条1項に基づく請求について
  被控訴人らは,本件遺棄兵器等が「公の営造物」に該当することを前提として,これを中国国内に遺棄し,放置し続けたことをもって,その管理に瑕疵があったと主張して,国家賠償法2条1項に基づく請求をする。

  しかし,国家賠償法2条1項所定の「公の営造物」といえるためには,当該物が公共の目的に供されていることが必要であるところ,旧日本軍が中国に持ち込み,これを遺棄したまま放置しているという状態は,いかなる意味においても控訴人により公共の日的に供されているとみることはできないから,本件遺棄兵器等が,「公の営造物」に当たらないことは明らかである。また,国家賠償法施行後においては,本件遺棄兵器等が,法律上も,事実上も控訴人の管理下になかったことは明らかであって,控訴人がこれを放置していたことをもって,その管理に瑕疵があったということもできない。

  したがって,その余の点について判断するまでもなく,被控訴人らの上記請求は失当である。

7 民法709条,715条1項に基づく請求について
  被控訴人らは,旧日本軍関係者が,中国において,本件遺棄兵器等を遺棄,隠匿した行為が,控訴人を行為主体とする不法行為を構成し,又は控訴人は,旧日本軍関係者の使用者として,民法715条に基づく損害賠償責任を負うと主張する。

  前記認定のとおり,旧日本軍関係者は,本件毒ガス兵器等を中国国内において遺棄,隠匿し,又は本件砲弾を放置したものと認められるが,これらの各行為は,戦争行為の一環として行われたものというべきである。かかる行為については,そもそも,民法の適用が排除されるものと解される上,仮に,国家賠償法施行前の公務員の不法行為については,民法に基づき,被控訴人らが控訴人に対して損害賠償請求権を取得すると解する余地があるとしても,戦争行為の一環として行われた行為の結果生じた損害の賠償を求める権利については,本件各事故の発生時点において被控訴人らに損害が生じたとの事情を考慮しても,被控訴人らは,日中共同声明5項によって,裁判上訴求する権能を失ったものというほかはない(前記最高裁判所平成19年4月27日第二小法廷判決)。

  したがって,その余の点について判断するまでもなく,被控訴人らの上記請求も失当である。

8 民法717条に基づく請求について
  被控訴人らは,本件遺棄兵器等が「土地の工作物」に該当することを前提として,これを中国国内に遺棄し,放置し続けたことをもって,その「設置又は保存」に瑕疵があったと主張して,民法717条に基づく請求をする。

  しかし,「土地の工作物」とは,土地に接着して人工的に作業を加えることによって成立した物をいい,本件遺棄兵器等が「土地の工作物」に当たらないことは明らかである。

  したがって,その余の点について判断するまでもなく,被控訴人らの上記請求も失当である。

9 結語
  以上のとおり,被控訴人らの控訴人に対する本訴請求は,いずれも失当といわざるを得ない。したがって,これと異なる原判決中の控訴人敗訴部分を取り消し,被控訴人らの請求を棄却することとして,主文のとおり判決する。


 なお事案の性質に鑑み付言するに,中国国民が,旧日本軍が中国において遺棄した毒ガス兵器等から漏出した毒ガスに暴露し,その生命,身体に重大かつ重篤な被害を受ける事故は,本件各事故にとどまるものではない。別に,控訴人に対する損害賠償請求訴訟(東京地方裁判所平成9年(ワ)第22021号事件,その控訴審である東京高等裁判所平成15年(ネ)第3248号事件)が提起された4件の事故のほかにも,既に多数の事故が発生していることは公知である上,今なお,中国に多数の化学兵器が遺棄されていることは,日本国政府もこれを認めるところであって,化学兵器禁止条約に定められた期限までに,これらの処理を終えることは不可能な状況にある。このような状況の下で,旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器等に起因する事故が発生し,中国国民が生命,身体に重大かつ重篤な被害を被ったとしても,法律の解釈適用による権利救済には限界があり,これらの事故によって被害を受けた中国国民が個別に我が国に対する損害賠償請求を行うことによって,その被害の救済を得ることは,法解釈上,認め難いことは既に説示してきたところである。また,事柄の性質上,このような個別の被害救済が,上記のような被害の全体的かつ公平な救済の方法としてふさわしいものとも言い難い。上記のような被害救済は,広義の戦争損害に対する補償の一環をなすものとして,財政的,政治的,外交的考慮の下に立った総合的政策判断の下に,全体的かつ公平な救済措置が策定されることが求められる事項であるというべきである。


 そして,我が国は,平成7年9月15日,化学兵器禁止条約を批准し,中国も,平成9年4月25日,同条約を批准し,同条約は,同月29日,両国間において発効したこと,我が国は,同条約1条3項,4条6項により,同条約発効から10年を期限として,中国国内に遺棄したすべての化学兵器を廃棄する国際法上の義務を負っていることに加え,証拠(甲355,乙117)及び弁論の全趣旨によれば,日本国政府は,平成11年7月30日中国政府との間で,「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」を締結し,旧日本軍のものであると既に確認され,及び今後確認される化学兵器の廃棄を行うこと,そのためのすべての必要な資金,技術,専門家,施設及びその他の資源を提供すること,廃棄の過程で万一事故が発生した場合には,必要な補償を与えるため双方が満足する措置を執ることを約束していること,我が国は,平成15年8月4日,黒竜江省チチハル市において,旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器によって,1人が死亡し,43人が傷害を受けた事故に関連し,同年10月19日,遺棄化学兵器処理事業に係る費用の名目で,中国に3億円を支払うことを約束し,これを履行していること,しかし,本件毒ガス兵器等による被害者やその遺族に対しては,現在に至るも全く何らの補償も行われていないことが認められるのである。化学兵器禁止条約は,我が国が,大正14年6月17日に署名したジュネーブ議定書,昭和47年4月10日に署名した「細菌兵器(生物兵器)及び毒性兵器の開発,生産及び貯蔵の禁止並びに廃楽に関する条約」の原則及び目的を踏まえ,これらの化学兵器が人類の良心に反し,文明世界の世論の正当な非難に耐えないものであることを確認するものであること,毒ガス兵器等による生命,身体に対する被害が極めて重大で,重篤なものであることを考慮すると,本件毒ガス兵器等による事故が,化学兵器禁止条約及び上記覚書締結前の事故であるからといって,本件毒ガス事故の被害者が被った被害をおよそ補償の埓外に置くことが正義にかなったものとは考えられない。化学兵器禁止条約及び上記覚書の趣旨とするところに従って,日本国政府により,中国に遺棄されていることを認めている毒ガス兵器等によって現に生じ,又は将来生ずるおそれのある事故に対する補償について,上記のような総合的政策判断の下に,全体的かつ公平な被害救済措置が策定されることが望まれるものというべきである。


  東京高等裁判所第5民事部


      裁判長裁判官    小  林  克  已

           裁判官    綿  引  万 里 子

  裁判官山崎恵は,転補のため署名押印することができない。

      裁判長裁判官    小  林  克  已