韓国レポート
松田 浩

  昨年12月4日、筆者は韓国言論情報学会の秋季研究大会(会場=ソウル・西江大学)に招かれて、 日本におけるメディアの独占集中と政府のマスコミ対策の関連について報告した。 韓国では李明博政権のもとで、 これに先立って野党や全国言論労働組合などの激しい反対を押し切って放送事業に全国紙や財閥系大企業の参入を認めるメディア法改正の強行採決が行われており、 マスメディア集中排除原則の緩和や総合情報産業化、さらに新聞・放送再編の問題がジャーナリズムのありようにどのような影響をもたらすかが論議の的になっていた。 報告は、日本における一種の歴史的ケース・スタディとして、そうした韓国言論情報学会関係者の関心に応えるべく行われたものである。


韓国言論情報学会報告

於・Seoul 西江大学(Sogang Univ.)  2009.12.4
(『韓国言論情報学会秋季研究大会・報告集』 所収、p.19〜24)

日本における新聞・テレビの系列化とジャーナリズムの変質
〜政府のメディア政策および新聞の総合情報産業化との関連を中心に〜
松 田   浩

  只今、ご紹介いただきました松田 浩です。尊敬する韓国言論情報学会の皆さんを前に、こうして報告する機会を与えていただきましたことを大変光栄に思い、 感謝しております。
  日本の新聞とテレビの資本系列化が、どのような政治力学のなかで形成されたのか、 そしてそれが権力の監視や国民の 「知る権利」 に責任を負うべきジャーナリズムのあり方にどのような影響を与えていったのかを、 報告時間も限られていますので、3点にしぼってご報告します。お手元に、あらかじめ報告要旨をお届けしてあります。 それをご覧いただきながら、お聞きいただければ幸いです。

  世界に例をみない垂直型情報独占構造

  日本のマス・メディア構造の最大の特徴は、テレビ、ラジオ計7系統の全国放送網を擁する公共放送NHKのほかに、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、 サンケイ新聞の5大全国紙を中心にして、新聞とテレビ・ラジオ、さらに出版にまでまたがる巨大な垂直型独占集中構造が形成されている点にあります。 このことは日本のマス・メディア構造を、いちじるしく中央集権型なものにしている要因にもなっています。
  メディアの集中化と複合化は先進資本主義国に共通した傾向です。しかし、日本のように巨大発行部数を誇る少数の全国紙を頂点に、 新聞とテレビが一体となったメディアの独占体制が確立している国は、先進資本主義国ではほとんど他に例がないといっていいでしょう。

  このメディア構造は、次のような重層・垂直型構造を特色としています。
  第一は、新聞メディアの独占構造です。日本新聞協会加盟125社が発行する日刊新聞の一日の発行部数は、 朝夕刊を各1部と計算しておよそ5,300万部(朝夕刊セットでは4400万部)ですが、このうち前記5大全国紙全体のシェアは52%(同60%)と半分以上を占めています。 韓国の東亜、朝鮮、中央3大紙の70%には遠く及びませんが、かなりの独占集中度ということができます。

  問題は、第二に、その5大全国紙が、5大民放テレビ・全国ネットワークの基幹局(キー局および主要局)と資本面で親会社・子会社の関係にあることです。 いわゆる新聞、テレビなどクロス・ネットの系列化です。民放テレビのネットワークは1975年以来、東京の5大キー局を通じて全国紙の資本系列に色分けされ、 今日では、全国127の民放地上波テレビ局のうち、ネット系列に属さない独立系UHF局11局と複数系列から番組を受けている複合ネット局3局を除いて、 残りがすべて5大全国紙系ネットワークの系列下に組み込まれています。5大全国紙資本は、系列の地方テレビ局にも出資を行い、社長など役員を送り込んでいます。

 こうして5大全国紙によるテレビ系列化は、 キー局を頂点とした全国テレビ・ネットワークの情報独占と全国紙による新聞領域の情報独占とを一つに結び付ける役割を果たしているのです。

  骨抜きにされた 「集中排除原則」

  しかし、誤解のないように申し上げておきますが、もともと日本の放送法制の原則は、こうした新聞・テレビ・ラジオにまたがる情報の独占集中を、 メディアの 「公共的機能」 を損なう行為として 「集中排除」 原則で禁じているのです。にもかかわらず、なぜ、現実にメディアの独占集中構造がまかり通っているのか、 ここが今日の私の報告の一番大事な点だと考えております。

  戦後、日本の放送法制が電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)によって、その基礎を築いたとき、 最大の眼目は 「放送の政府からの独立」 と多元的な言論・情報チャンネルの保障でした。
  それはNHKの前身にあたる社団法人 「日本放送協会」 が初期の東京、大阪、名古屋の独立三局体制から政府によって一本に統合され、 政府の監督下で実質的に国営放送として戦争推進に協力したことへの深い反省と教訓にもとづくものでした。

  電波三法の最大の特徴は、放送の政府からの独立を制度的に保障するため、アメリカの連邦通信委員会(FCC)にならって、 独立行政委員会制度を導入したことでした。民間人7人で構成する合議制の委員会が、政府から独立して電波・放送に関する行政、準立法、 準司法の権限を行使するという電波監理委員会の存在は、文字通り電波三法の要(かなめ)の役割を担っていたのです。 電波三法は、その一方で放送局の免許に 「事業免許」 ではなく 「施設免許」 制を採用し、公共放送と複数民放の並立制、集中排除原則、 地域免許制を柱に据えることで、メディアの独立性と多元性・多様性、地域密着性に配慮を払ったのでした。

  もともとマス・メディアの 「集中排除原則」 は、言論・報道の自由、いいかえれば、言論・報道の自由市場を、放送の分野において最大限に保障し、 かつ拡大しようとする政策理念の表れでした。@ 新聞・テレビ・ラジオ事業の兼営・支配の禁止と A 複数局支配の制限がその柱です。

  戦後の放送法制はそれを 「放送局の開設の根本的基準」 (1950年)という電波監理委員会規則で規定し、 さらに 「一般事業者に対する根本的基準第九条の適用の方針」 (電波監理局長通達・1959年)、同 「審査要領」 (同)で肉付けしていました。
  それは、「大衆情報手段の所有及び支配が…特定の者に集中することを避け」 (適用の方針)、 また 「放送が当該地域社会に対してより多様かつ公正な大衆情報供給し、言論情報の自由市場の形成伸長に役立つ」 (同・説明)ことを、立法の趣旨にしています。

  ただ単なる 「放送の多元性・多様性」 ではなく、 それによる 「自由な言論・報道市場の形成伸張」 や 「地域に根ざした放送の育成」 が眼目になっている点に注目する必要があります。
  民主主義社会の根幹をなす言論報道の多元性・多様性とそれによる言論情報の自由市場の確保、 そして言論情報の中央集権的支配を排して地方自治の精神に根ざした地域独自の放送を育てようという戦後民主化の理念があったという事実が、ここでは重要です。

  「新聞、放送など言論・報道機関の独占集中が戦前の言論統制に道を開いた。その教訓から何も学べないようでは、戦争に負けた甲斐がない」 とは、 1958年のテレビ大量免許に重要な役割を果たした異色の電波監理局長・浜田成徳の言葉です。 事実、彼は電波監理局長時代、「新聞と放送を分離することが、マスコミの公共性の見地からみて望ましい」 との談話(1957年4月)を発表し、 当時、新聞から猛反発を受けています。

  では、その理念が、なぜ空洞化したのか。理由は二つあります。第一は、電波三法の要の役割を果たしていた 「電波監理委員会」 が、 もともと独立行政委員会制度に反対だった吉田茂内閣によって1952年の 「独立」 と同時に廃止され、 放送行政が戦前同様、政府や時の大臣の自由裁量に委ねられることになったからです。その結果、放送行政の政治的中立性、公正性が失われ、 放送の 「公共性」 実現という本来の放送行政の理念に代わって、ときの政権の政治的思惑(言論対策と産業戦略など)や利権、情実などに左右されることになりました。

  いまひとつの理由は、新聞などマス・メディア側の事情です。60年代に入ってテレビが広告媒体として飛躍的に成長を遂げ、 新聞の相対的地盤沈下が顕著になってきました。さらに75年を境にテレビ広告費が新聞広告費を上回り、 広告媒体でテレビがトップの座について新聞とテレビの地位が逆転します。 こうしたなかで全国紙を中心に収益性が高く、タイアップのメディアとしてもメリットの大きいテレビとの一体経営を求め、 やがてテレビをも資本傘下に組み込んで総合情報産業化をめざす経営戦略が支配的になってくるのです。

  集中排除原則の空洞化(骨抜き)に最初に道を開いたのは、フジ・産経グループでした。 もともとフジ・産経グループは、反共財界人の鹿内信隆・経済同友会専務理事が、 植村甲午郎・経団連副会長を社長に担いでマスコミ・言論対策を目的として作ったニッポン放送を母体にした与党系メディア・グループです。 東京地区でラジオのニッポン放送、文化放送、そしてフジテレビ、産経新聞と新聞・テレビ・ラジオの三事業を支配しているわけですから当然、集中排除原則に抵触します。
  しかし、政府は 「東京には他に有力な競争相手が存在するがら、情報独占には該当しない」 と、これを黙認しました。(註 @ 「集中排除原則空洞化の経緯」)

  言論対策と重なった新聞・テレビ系列化

  集中排除原則にとって次に大きな転機になったのは、1967年にUHF周波数帯を開放して行われたテレビの大量開局でした。 その先頭にたったのが、朝日、日経などの全国紙であり、TBS・日本テレビの先行2大テレビ系列への巻き返えしをねらうフジ・産経グループでした。
  この大量免許で特徴的だったのは、全国紙五社が社長を先頭に、政府与党の実力者・田中角栄(自民党幹事長を経て総理大臣)に対して猛烈なアタックをかけ、 電波獲得にしのぎを削ったことでした。
  とくにフジテレビは 「フジ・産経グループ」 が一丸となり、系列の関西テレビ、東海テレビ、テレビ西日本とも連携をとりながら免許獲得にあたりました。 産経新聞を表面に立てるとともに、地元財界有力者や系列局、さらに自社社員までもダミー(身代り申請者)に仕立てて大量の申請を出し、 調整・一本化の段階で優位に立つという作戦でした。その結果、フジは免許獲得31局中、実に10局を新たに傘下におさめて、 一躍、先発のTBS、日本テレビと肩を並べる全国ネットワークにのしあがったのです。

  免許に先立って自民党は、67年10月、免許に際して郵政大臣に要望書を申し入れています。そのなかで注目されるのは、 @ 免許に際してテレビ局の報道姿勢を考慮(「報道が公正であるか、テレビ番組として適切であるかの判定を行い……」)することと、 A 政府の審議会に従来の新聞社幹部のほかに放送局幹部を起用すること(「電波関係はより協力的であることを注目すべきであろう」 と付言)、を要請していることです。 これは、免許にマスコミ対策を絡めるということを意味しています。フジ系列強化の裏に、政府の政治的な意図があったことは明らかです。

  これら新聞資本によるテレビ免許獲得には 「電波のドン」 の異名をとった田中角栄(元郵政大臣、自民党幹事長、首相)をはじめ多くの有力与党政治家が、 直接、深くかかわっていました。
  小林郵政大臣自身、大臣就任前、選挙地盤の静岡県で発起人代表となって免許を申請し、大臣退任後はフジテレビ系列のテレビ静岡の相談役に納まりました。 また浅野賢澄・郵政次官は、フジテレビの副社長に天下りしています。
  田中角栄、塚田十一郎(新潟)、上林山栄吉(鹿児島)、青木一男、小坂善太郎(長野)など自民党の有力政治家たちも発起人代表その他の形で、 この電波争奪戦に大きな役割を演じました。一つの電波をめぐって静岡、宮城、山形、大分、新潟など、ほとんどの地区で競願者間の調整・一本化が行なわれ、 その調整役には地元選出の有力与党代議士たちが当たりました。
  大量免許には電機メーカーから多額の政治献金が行われ、免許獲得をめぐって札束が乱れ飛びました。

  こうしたなかで、フジ・産経グループと並んで、田中角栄に社長を先頭にして猛烈なアタックをかけたのが、朝日新聞と日経新聞でした。 とくにテレビ系列獲得で、他の全国紙に大きく遅れをとった朝日は、現・テレビ朝日の前身であるNETへの資本参加を足場にテレビ系列獲得を悲願にして、 それに社運をかけたのです。
  その朝日に田中角栄は全面協力しました。もともと田中角栄にとって民放テレビ系列を五大新聞の資本系列に一本化・再編成することは年来の持論(「田中構想」)でした。 それはマスメディアを権力に “取り込む” ための言論対策でもあったのです。

  田中角栄は、まず、NETの大株主・東映と朝日の間をとりもって、東映が買い集めたNET株の半分を朝日にもたせ、 朝日をNETの有力株主(持ち株各22%)にしたうえで、NETと東京12チャンネル(現・テレビ東京)の 「教育専門局」 「科学技術教育専門局」 の免許を 「一般局」 に変えることを交換条件にして、日経、朝日の資本関係をNET=朝日、東京12=日経の形に単一化させたのです。 また資本関係が入り組んでいた朝日、毎日、読売とTBS、日本テレビとの間の資本関係を整理させ、従来から単一資本の関係にあった産経・フジテレビを加えて、 五大全国紙と民放テレビネットワーク各キー局の資本系列一本化を実現させたのでした。

  そして最終的には、1974年に大阪地区でのネット関係のねじれを、新聞資本の強力なイニシアチブによって “解消” させることで、 この新聞とテレビの系列化を完成させるのです。
 第三者の名義株を使って 「持株制限」 規程を空文化し、実質的には30%、40%の持株によって新局を系列化するという、フジテレビがとった手法は、 全国紙資本の新局獲得争奪戦でも郵政省黙認の形で一般化しました。

  2004年になって、この公然たる 「持ち株制限」 規定違反の実態が、大問題になります。
  この問題に火をつけたのは渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長兼主筆名義の日本テレビ株疑惑を衝いた週刊誌の記事でした。

  読売新聞グループ本社と読売新聞東京、大阪両本社の3社が、総務省令 「マスメディアの集中排除原則」 に違反しているとのこの記事は、 新聞・放送界を大きく揺るがしました。
  総務省は、急遽、全新聞・民放各社に 「第三者名義による株式保有状況等の自主的点検」 を求め、その結果、朝日、日経、フジ、産経、毎日、 日本テレビ……と続々 「第三者名義株」 による省令違反や虚偽記載が明るみにでて、地上系放送事業者で持株制限超過が50社に達し、 第三者名義の虚偽記載のケースも含めると、その数は約200社にのぼる実態が明らかになりました。 ここで問われたのは、長年ジャーナリズムを蝕んできたマス・メディア事業者と政・官との 「なれあい」 の構造でした。

  情報独占とメディア腐食の構造

  それにも増して重要なのは、そのマスコミ対策= “権力癒着” の構造のもとで推進されてきた五大全国紙とテレビの資本系列化(その実態は全国紙によるテレビ支配)が、 市民の 「知る権利」 や日本の民主主義に何をもたらしたか、です。これが、二つ目の大きな問題です。

  大きく三つの問題点があります。
  第一の問題点は、五大全国紙が系列キー局を通じてテレビの全国ネットワークをそれぞれ傘下に収めることで、 国際的にも例をみない言論情報の寡占状態を作り出したということです。番組の大半を五大全国紙とつながった東京のキー局から受け、 地域向けの自社制作は平均10%以下という地方テレビ局の編成構造にも、多くの問題があります。

  第二の問題点は、新聞がジャーナリズム機関として政府に大きな 「借り」 (テレビ免許という利権の供与)を作ったことです。 これは従来行われてきた新聞が国有地を社屋建設用地として格安価格で入手する 「利益供与」 と並ぶ裏取引であり、権力に対するチェック機能を著しく低下させました。 とくに新聞のテレビ分野への参入が、政府にとって新聞の手足をしばる一石二鳥のねらいを持っていた点が重要です。 新聞は放送事業に参入することで、免許の利害関係者となり、政府に生殺与奪の権を握られる立場になったからです。 このことは、その後、新聞が総合情報産業への道(利潤追求主導型)を歩み、ジャーナリズム機能を後退させていったプロセスと深く重なっています。

  第三に、権力に対するマス・ディアのチェック機能を弱めただけでなく.新聞とテレビとの間にあった緊張関係をも失わせる結果になりました。 代わって系列テレビ局のPR記事が盛んに新聞紙面を飾ることになります。放送と新聞との間に存在したチェック・アンド・バランス(相互監督)の関係が、 いちじるしく弱まったことは、この二つのマスメディアのもつ影響力が大きいだけに、国民の 「知る権利」 にとっても深刻な問題を投げかけています。

  こうしてテレビを支配下に組み込んだ新聞が、テレビとの連動(メディア・ミックス戦略)を通して激烈な部数拡大競争を展開し、 情報と言論の独占状況をさらに進行させていったのです。

  アメリカのW・シュラム教授は、かつて 「独占はコミュニケーションの自由の敵である」 との名言を残しました。 この言葉のもつ意味を、いま私たちは噛みしめる必要があるように思います。

  政府の世論操作構想に協力

  新聞の権力チェック機能の低下を物語る、私自身の体験をご紹介します。
  1967年、ベトナム戦争下、マスコミの批判的報道とベトナム戦争反対の世論に手を焼いた政府が財界とはかって世論操作を目的に 「日本広報センター」 を設立した時の話です。 それは、政府と財界がカネを出し合って同広報センターを設立し、政府予算を含む年間予算4億数千万円で世論操作番組を作り、 民間スポンサーをつけて一見、テレビ局の自主報道番組のようにみせて放送するという卑劣な計画でした。
  しかも、この計画には、新聞、放送各社の社長を同センターの評議員に委嘱してマスコミ各社を世論操作の共犯者にするという仕組みまで用意されていました。
  私はひそかに政府の 「日本広報センター」 計画の極秘文書を手に入れて110行のスクープ記事を社会部に出稿しました。

  この記事で力をこめたのは、 評議員委嘱の段階で日本新聞協会会長の毎日新聞社長や民放連会長の東京放送社長ら言論界の一部から就任辞退の動きが出ていること伝えた記事でした。 とくに毎日新聞が役員会で 「言論報道機関が政府の政策広報に積極的に手を貸すのは好ましくない」 という結論を出し、評議員引き受けを断ったというくだりは、 世論操作と言論報道活動の矛盾を示した点で重要な意味をもっていました。
  しかし、日経はこの記事を事実上、没にしました。編集局長にまで直接訴えましたが、ダメでした。 私は、どんな手段をとっても、この事実を伝えて、国会審議のなかで問題にして計画をつぶす必要があると考え、 朝日新聞の親しい記者にすべての入手資料と取材メモを提供して朝日にこの特ダネを報道させようとしましたが、朝日は1ヶ月近く待っても書きませんでした。

  私はやむなく 『週刊現代』 という週刊誌の匿名執筆欄で同センターの計画を写真入で大きく暴露しました。 朝日新聞が、やっとこの問題を大きく取り上げたのは週刊誌発売から1週間後でしたが、残念ながらそのときは国会で予算はすでに成立しており、 日本広報センターは、その後長く、政府の世論操作番組を放送しつづけることになるのです。

  なぜ、日経も朝日も、記事掲載をためらったのか? 理由は、この時期、すでにお話ししたように日経も、 朝日も社長を先頭に政府の実力者・田中角栄に対してテレビの免許獲得を猛工作していたからです。政府の重要施策をつぶすような記事は報道できなかったのでした。
  私の記事を没にしたN編集局長は、その後、日経系列のテレビ東京社長、日本民間放送連盟の会長を歴任し、 なんと皮肉なことに 「日本広報センター」 の会長まで務めています。

  田中首相が、1972年8月、避暑先の軽井沢で新聞各社の政治部記者を前に行った軽井沢放言≠焉Aこうした政府と新聞の癒着関係を物語っています。 彼は自分が放送免許や新聞社への国有地払い下げでいかに各社の面倒をみたかを自慢し、「私がその気になれば……記事を止めることもわけない」 「社長も部長もどうにでもなる」 「君たちもつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、私も助かるし、君たちも助かる」 などと放言しています(『放送レポート』 1972年11月号ほか)。

  米カリフォルニア大学のエリス・クラウス教授は、かつてその著書 『NHKvs日本政府』 の中で、「日本のメディアと国家の関係は、 互いに利害を持ったパートナーが親密に絡み合って踊る二人のパ・ド・ドゥなのである」 と権力へのチェック機能を欠いた日本のメディアの現状を痛烈に風刺しています。

  1990年4月には、日本新聞協会会長でもあった小林与三次読売新聞会長が会長を務める政府の第八次選挙制度審議会(委員27人中10人がマスコミの現役・OB) が中選挙区制に代わって小選挙区比例代表並立制の採用を答申、それが選挙への小選挙区制導入につながりました。 政治の分野でも新聞社幹部が重要な役割を演じる形で、多元性原理に逆行する少数政党排除の選挙制度が導入され、 それ以後、新聞やテレビでは政策の中身を問わない 「自民か、非自民か」 の単純な二者択一式報道が氾濫することになります。(註 A)

  一方、自民党がマスコミ対策として打ち出した政府各種審議会への新聞、放送幹部の登用もその後、急速に進みます。 90年代半ばには、212の審議会中、178機関に121人(論説・解説委員69人)もの新聞、放送関係者が起用されている実態が大きく取り上げられて、 「権力に取り込まれたマスコミ人」 として議論を呼ぶことになりました。

  ジャーナリズム空洞化で相次ぐ不祥事

  こうした全国紙のテレビ支配を足場にして、1982年には日経新聞が 「総合情報機関化」 を、 つづいて1986年には朝日新聞が 「総合情報産業化」 を経営戦略として提起します。

  日経の森田社長は新入社員に対して 「君たちはジャーナリストではなく情報マンだ。ジャーナリストなどという過剰な使命感を捨てよ」 と訓示して注目を集めました。
  情報産業化への傾斜のなかで最大の問題は、本来の新聞がもつべき真実追求や権力チェックの使命感が希薄になり、 報道と情報との区別が記者のなかであいまいになっていったことです。権力側の広報活動の巧妙化と合理化による取材記者の労働強化が同時進行するなかで、 悪名高い記者クラブ制度ともあいまって権力側が記者向けに提供する発表文書を安易に記事化する風潮が一般化します。 「発表ジャーナリズム」 の氾濫やメディアが同じ方向に向かって一斉に雪崩(なだれ)″用を起こす 「総ジャーナリズム状況」 「メディア・スクラム」 といった現象が、 識者の間で問題になりだしたのは、この前後からでした。(註 B)

  権力癒着と 「売れる情報」 優先の企業風土は、アメとムチ≠フ労務対策による労働組合の 「御用組合化」 (内部チェックシステムの喪失)ともあいまって、 新聞社のなかに自由闊達な批判精神を失わせ、経営トップの腐敗を生まずにはいませんでした。 モラル・ハザード(モラルの崩壊)は、新聞社、放送局の記者、社員にも広がります。記事の捏造、盗用、インサイダー取引、経費使い込み、 さらには権力と癒着した番組の改ざんなど数々の不祥事が、多発するようになります。

  1989年、リクルート・コスモス社未公開株収受による収賄事件が竹下内閣の崩壊という形で政権の中枢を揺るがすなかで、 総合情報産業化推進の旗手的存在だった日経の森田社長が、問題のリクルート未公開株にからむインサイダー取引の責任をとって辞任、 読売新聞の丸山巌副社長、毎日新聞の歌川令三編集局長も同様、リクルート事件に連座して引責辞任するという前代未聞の事態が起きます。

  その後も不祥事は相次ぎます。2001年には、日経で政府の 「銀行保有株式の買い上げ構想」 批判の論説を書いた論説委員がワンマン社長の命令で配置転換される事件が起き、 つづいてそのワンマン社長が今度は 「背任横領」 の疑いで部長から内部告発される事件が話題を呼びました。 その社長は、愛人の経営するクラブに3年間で推定6,500万円(『週刊現代』)にも及ぶ社長交際費をつぎ込むという乱脈ぶりまで明るみに出て、 結局、社長を辞任します。朝日新聞でも2005年に 「企画記事」 にからんで消費者金融大手の 「武富士」 から編集協力費の名目で 5,000万円を受け取る不祥事と記事捏造の不祥事が重なって、社長が辞任する事件が起きます。(註 C)

  NHKでも、2005年、人気番組のプロデューサーの使い込み事件につづいて、 安倍官房副長官(のちに首相)らの圧力で戦時中の従軍慰安婦問題を扱った番組を上層部が業務命令で改ざんさせた事件が内部告発により発覚、 不信感から受信料不払いが広がって、ついに会長が辞任追い込まれます。(註 D)

  生き残る道はメディアの公共性に徹すこと

 最後に、これが三つ目ですが、既存メディアの今後の問題について簡単に触れて、報告の結びにしたいと思います。
  ネット社会を迎えて、既存メディアはいま情報接触と広告・販売収入の両面できびしい逆風にさらされています。 新聞を購読しない、テレビもパソコンのネット映像や携帯のワンセグで済ませる世代が増えています。そんななかで既存メディアが生き残る道は、 自らが拠って立つ公共的メディアとしての存在理由に徹すること以外にないのではないでしょうか。

  単に情報を集めて流すだけのネット・メディアとは異なる職能的ジャーナリストのプロ集団としての取材力を駆使した調査報道やニュース、ドキュメンタリーによって、 民主主義の 「監視犬(Watch Dog)」、「言論・情報の自由市場」 の主宰者としての役割に徹し、長年培った文化の創造や教育、 教養などの記事・番組の制作機能を通じて読者・視聴者との間に築き上げた信頼の関係を強固にしていくことこそ、 既存メディアが今後のネット社会でめざすべき方向ではないのでしょうか。
  「真実」 を伝えてこそのメディアなのだ、というジャーナリズムの根源的な哲学に、いまこそ立ち返るべきだと思います。 メディアが 「真実」 を追究せず、伝えなくなった─―そのことから、今日の社会の歪みと混迷が始まっているように私には思えてなりません。

  社会は自らの姿をそこに映して居住まい(姿勢)≠正すジャーナリズムという 「鏡」 が曇ったことで、自らを客観視できなくなった。 また多元的で多様な言論と議論を保障する 「言論・情報の自由市場」 が権力寄りの情報独占で損なわれたことによって、 社会の健全な復元作用が機能不全状態に陥っているのです。
  そこから脱出するためには、どうしたらいいか。まず権力からのメディアの 「自立」、さらにメディア組織内での民主主義(「内部的自由」)の確立、 情報・言論の多元性・多様性の確保、市民社会に対するメディアの 「透明性」、そしてそれらを視聴者・読者として支える 「市民」 の存在が欠かせません。

  視聴者・読者のなかに、単なる情報の消費者ではなく、市民社会の担い手としての主体的参加意識を持った自立した 「市民」 を育て、その市民によって支持され、 支えられるメディアのあり方を追求することこそ、今後、私たちがめざすべき方向なのではないかと考えている次第です。
  そのためにも、メディアの担い手であるジャーナリストや制作者自身が、まず自ら市民、そして人々の 「知る権利」 に責任を負うプロフェショナルな職能人として、 権力からも、企業・組織の論理からも 「自立」 した意識を確立する必要があります。 そうした 「自立」 した意識をもって日々の活動に取り組み、またメディアを内側から改革していくことが、いま求められていると思うのです。
  長時間、ご清聴、ありがとうございました。

<註>
註@ 集中排除原則空洞化の経緯: マスメディアの独占集中排除論者だった浜田の退任から三カ月半後、郵政省電波監理局は、 電波監理審議会への諮問を経て、重要な意味をもつ二通の局長通達を発令した。「一般放送事業者に対する根本的基準第九条の適用の方針」 (1959年9月18日決定)と 「一般放送事業者に対する根本的基準第九条の適用の方針に基く審査要領」 (同)である。
  この 「方針」 と 「審査要領」 は、57年のテレビ大量免許に際して、郵政省がテレビ局に課したマスメディアの集中排除のための 「条件」 (1957年10月22日 「テレビジョン放送局の一せい予備免許に付した条件」)を法的に成文化したものだった。だが、そこでは 「条件」 からの後退〃が目立った。 「条件」 はテレビの複数局支配および新聞、テレビ間の兼営または経営支配を厳しく禁じたが、「審査要領」 では禁止の対象を新聞、テレビ、 ラジオ三事業″兼営のみに限定し、新聞とテレビの兼営を認める立場をとった。 また三事業兼営に対しても、「右の者のほか当該地域社会に存立の基盤をもつ有力な大衆情報の供給事業が併存する場合、その他、 ……大衆情報の独占的供給のおそれのない場合は、この限りでない」と留保条件を付した。この場合、経営支配有無の判断基準は、議決権10分の1以上の所有、 総数の5分の1以上の役員の兼任、代表役負および常勤役員の兼任に置かれた。 だが、この基準自体も、株主名儀を企業のほか重役個人などに分散することにより、前記の留保条件とともに抜け道〃が可能となったのである。
  このほか、テレビの地域密着・自主編成についても、「方針」 でその精神を強調しながら、「審査要領」 では、 「できる限り人的に(役員、番組審議会委員等の構成において)及び資本的に(株式の地域的分布等において)その地域社会に直接かつ公正に結合すること」 と抽象的な要望″のレベルに表現をとどめた。
  57年の 「条件」 が、「放送区域内の住民が意見の発表その他出演をし及び放送区域内の公共的な団体が容易に利用することができるように、 また、ローカルニュースその他放送区域内の住民の利益となるようなローカル番組を放送するように配慮すること、 したがって、またローカル生番組が相当程度の時間割合を占めていること」 など具体的に細かく条件をつけていたことを考えれば、 ここでも一種の後退現象が起きていることは明らかだ。
  なぜ、このような後退″が起きたのか。もともと、57年の 「条件」 自体が、新聞と放送の分離を強く主張する浜田電波監理局長の理想主義と、 それに消極的な田中郵政大臣の現実主義との 「妥協の産物」 だったという事情がある。 それ以上に決定的なのは、法令の解釈と運用が大臣の自由裁量に委ねられた点にこそある。 電波監理局長の浜田には、マスメディアの集中・独占が言論・情報の自由市場形成に逆行し、民主主義政治にとって好ましくないとの問題意識があった。 それは、彼が東北大学教授出身の異色の官僚で、自由主義思想の持ち主として、戦後の一時期、放送委員会の委員長をつとめ、 深くNHKの民主化にもかかわったという特異な経歴に由来するところが大きい。だが、大方の郵政・電波官僚にとっては、 「条件」 に盛られた諸規定は数多い免許申請者をフルイにかけるための単なるチェック・ポイントにすぎなかった。
  「条件」 でマスディアの独占集中排除を厳しく唱いながら、実際の運用面では、明白な違反が政治的配慮から黙認された。 水野成夫の文化放送、フジテレビ、産経新聞三社長兼任や正力松太郎の読売新聞社長、日本テレビ、読売テレビ両会長兼任は、その一例だ。 既成事実として違反がまかり通った以上、次はそれを合法化する以外にない。「審査要領」 は、 57年のテレビ一斉予備免許の際の 「条件」 の法的位置づけ作業であるとともに、過去の行政実績の合法化であり、 「条件」 が掲げた理想主義からの撤収作戦″にほかならなかった。

註A  政府の 「議題設定」 したテーマを、メディアがそろって無批判に二者択一方式で増幅することで、 言論・情報の 「自由市場」 が極端に狭められた形で 「世論」 形成や政治選択が行われる傾向が広がった。 いわゆる小泉マジック。「官か、民か」 「郵政民営化、是か非か」 で小泉・自民党が総選挙に大勝利を収めた。

註B 総合情報産業化のもとで日本経済新聞では 「記者の多重活用」 と称して、新聞記者が複数媒体に原稿の書き分けを求められ、 「記者組版」 作業など労働強化が進むなかでノイローゼになったり、他の新聞社に転職する記者があいついだ。

註C 急低下した新聞の 「公平性」 信頼度: 日本新聞協会は、1979年から1997年まで隔年12回の 「全国新聞信頼度調査」 を実施している。 新聞の信頼度を 「正確性」 「社会性」 「日常性」 「公平性」 「品位性」 「人権配慮」 「信頼性」 の7項目について質問、 人々が新聞をどのようにみているかを系統的に調査してきた。7項目の平均値は1987年以降の10年間に限ってみても1991年の77点をピークに51点(93年)、 54点(95年)、40点(97年)と低下しているが、このうち特に 「公平性」 (設問 「新聞はいろいろの立場の意見を公平に取り上げていますか」)の数値が、 1991年の38点から15点(93年)、26点(95年)、6点(97年)と7項目中、際立って急低下しているのが注目される。 同調査は読売新聞の渡辺恒雄社長が新聞協会会長を勤めていた時期に同会長の指示で打ち切られた。

註D NHKの番組改変事件は担当制作デスクと内部告発者とチーフ・プロデューサーによる法廷証言で真相が明らかにされた。 この事件に対して東京高裁は 「改変は政治の意向を忖度して行われた」 とNHKを訴えた原告側勝訴の判決(※最高裁は判断を回避して原告敗訴)を下し、 また放送業界の第三者機関 「放送倫理・番組向上機構」 も 「意見書」 で 「改変は公共放送の自主・自律を危うくし、 視聴者に重大な疑念を抱かせた」 とNHKに反省を求め、「自主検証番組」 の放送を提言した。 しかし、NHKは政治的改変≠フ事実を最後まで認めず、前記2人を非制作現場に配置転換する 「懲罰人事」 を行い、結局2人はNHKを退職することになった。