「4月28日」 は、沖縄屈辱の日
ジャーナリスト 池田龍夫 2013.4.29
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  政府は4月28日、「サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日を記念する式典」 を東京千代田区で開いた。 天皇、皇后両陛下ら400人が出席。一方 「沖縄屈辱の日」 と抗議していた仲井真弘多知事は参加しなかった。

  講和後も米軍政下に置かれた沖縄など3島
  安倍晋三政権が 「4月28日」 を 「主権回復の日」 と称して政府主催の式典を開いたことに、多くの国民から批判の声が高まっている。 61年前の4月28日に講和条約が締結されたが、沖縄、奄美、小笠原の3島は、その後も米国の軍政下にあり、自由を奪われた状態が続いた。 奄美は1952年2月10日本本土に復帰、小笠原も1968年6月26日に復帰したが、軍事戦略拠点の沖縄県には米軍が駐留。 本土復帰を果たしたのは1972年5月15日だった。その後も米軍は基地に止まって、現在に至っている。 基地専用に限れば、人口約180万人の島に、74%の基地が存在するというイビツな配置に驚く。 その間、米兵の犯罪などトラブルが続出して今なお沖縄県民の苦悩が続いている。 この事実を無視して 「式典」 開催を強行した安倍政権に反発するのは、当然の成り行きといえよう。
  そもそも同会議には、日本がアジア・太平洋戦争で侵略した中国や韓国は招待されず、当時のソ連などは調印を拒否し、全面講和ではなかった。 また領土不拡大の原則に反して、2条C項では千島列島のソ連の占領を認め、3条では沖縄、奄美、小笠原3島を米国の施政権下に置くなど、 「日本国の主権回復」 とは程遠いものだった。沖縄県民らは、この日を 「屈辱の日」 と反発。 怒りの底流には、在日米軍に裁判権などで特権を与えた不平等な日米地位協定に苦しめられ、本土復帰した今も主権を制限され続けているとの思いがある。 本土と沖縄の歴史認識の差異で片付けず、日本全体が抱える今の課題をそこに読み取るべきだ。

  「式典開催」 を狙っていた自民党
  日経新聞4月28日付社説は、「政府内には講和条約締結60年だった2年前から祝賀行事を開いてはどうかという声があったが、 民主党政権下で日米関係がぎくしゃくして見送りになった。野党だった自民党は衆院選の公約に式典開催を明記、政権復帰で強行に踏み切った。 気になるのは行事の前史だ。1997年に 『主権回復の日』 の政府式典開催を求める学者らが集会を開いた。 趣意書には 『占領軍即席の憲法』 との表現がある。参加したのは、先の戦争は聖戦で、東京裁判は不当な断罪と考える人たちが多かった。 そもそも日本はなぜ主権を失ったのか。正義は日本にあったが、力及ばず負けたからなのか。 そうではなく、日本が誤った道を選んだことこそ原因ではないのか。日本は戦争責任がどこにあるかを曖昧にしてきた。 それが歴史認識の食い違いを生み、戦後68年を経ても、ときに周辺国とあつれきを生む一因になっている。 61年前の主権回復の枠外に置かれた沖縄では 「我々を見捨てた日を祝うのか」 との反発が出ている」 と、厳しく批判していた。

  不平等な 「日米地位協定」 改定に取り組め
  毎日新聞4月26日付朝刊 「記者の目」 が、「沖縄屈辱の日 地位協定再考の契機に」 と指摘した問題意識に共感した。 その要旨を紹介すると……。「沖縄では、この日を 『屈辱の日』 と呼んでいる。 怒りの底流には、在日米軍に裁判権などで特権を与えた不平等な 『日米地位協定』 に苦しめられ、本土復帰した今も主権を制限され続けてとの思いがある。 本土と沖縄の歴史認識の差で片付けず、日本全体が抱える今の課題をそこに読み取るべきだ。 今年の 『4・28』 は、主権回復の意味と、地位協定の在り方を改めて問い直す契機としたい。 …安倍首相は憲法改正の必要性を強調するが、議論が待ったなしなのは地位協定改定ではないのか。 自民党の沖縄県議も安倍首相は 『戦後レジームからの脱却』 を掲げたが、地位協定はまさに戦後レジームのはずだ。 協定改定に手が付けられない現実に対し、沖縄の怒りや悲しみがあることに気付いているのだろうか」 と困惑する。 専門家の中には、協定改定が実現できないのは日本側の長年の対米追従姿勢が原因との指摘があるが、 『改定が必要』 との認識が国民に共有されていないのも一因だと思う。今こそ、全国的な議論が必要だ」 との主張は歯切れがいい。

  沖縄へ米軍基地を押しつけ
  朝日新聞4月27日付夕刊は、「沖縄県には、国内の米軍基地(専用施設)の73・8%がある。面積は約2万3000ヘクタールで、JR山手線内側の約3・5倍。 このうち約4分の3は普天間飛行場(宜野湾市)など米海兵隊基地が占めている。 敗戦後、海兵隊がやってきたのは沖縄ではなく、山梨、神奈川、岐阜、大阪、奈良など本土だった。 講和条約が発効した1952年前後、米軍基地面積の割合は本土が9、沖縄が1だった。 しかし、各地で反基地運動が活発化したのを背景に、55年ごろから海兵隊は米軍統治下の沖縄へ次々と移った。 50年代、本土の基地面積は4分の1に減る一方、沖縄は2倍に。60年代には本土と沖縄の割合は半々になった。 さらに関東地方などの基地が一気に縮小されるなどして、70年代前半には4分の3の基地が沖縄に集中する現在の構図が固まった」 と、 沖縄への基地押しつけの実態をリアルに報じていた。
  地位協定第3条は、「合衆国は、施設及び区域内において、それらの設定、運営、警護、及び管理のための必要な全ての措置を執ることができる」 と定めている。これが 「排他的管理権」 と呼ばれるもので、沖縄を米軍の治外法権下に縛り付けている 「地位協定」 改定に、 日本政府は立ち上がらなければならない。

(いけだ・たつお)
1930年生まれ、毎日新聞社整理本部長、中部本社編集局長などを歴任。
著書に 『新聞の虚報と誤報』 『崖っぷちの新聞』、共著に 『沖縄と日米安保』。