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【NPJ通信・連載記事】一水四見/村野謙吉

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日本と東アジアを結ぶ汎アジアの「和」の精神 *

2026年4月28日

「世界は夢・幻・泡・影・露の如く雷光の如し。
このように現象界を直観すべし」 (「金剛般若経」) (1)
「打つ人も打たるる人も諸共にただひとときの夢の戯れ」 夢窓疎石

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 自由と秩序は人類の生態系を維持している矛盾的相互補完の原則である。
自由 (liberty / freedom) は個の利己性を特質とし、秩序 (order) は多の規律性を本質とする。
 そして自由と秩序の間に、平等の理念が常に曖昧に揺れ動いている。

 現在、世界は未曾有の文明的混乱状態にある。
 歴史の生態系を維持している個人の理念「自由」と組織の理念「秩序」が不安定化し、様々な特権を持つ少数の「打つ人々」の「自由」が多数の「打たるる人々」の「自由」を支配して、世界には複雑極まりない対立・謀略・偽善・不信・情報操作が渦巻いている。

 さらにアメリカ人のトランプ氏が2025年1月20日に米大統領に就任して以来、彼の破天荒な政治行動に、世界中の政治家や経済人が翻弄されているようだ。しかし彼が経験を積んだ二期目の米大統領として就任したことによって、積年の西欧史に隠されていた“深刻な世界の諸問題”が鋭角的に露呈されている一面がある。

 しかも西欧の技術文明において開発されたパソコンとインターネットによって種々雑多な情報が、国籍と国情の異なる多くの人々に地球的規模で共用され、様々に善用・誤用・悪用されて複雑化している。

 そして、歴史的現象界においては、功と罪は常に矛盾的に一体となってダイナミックに生成しているのだ。

 しかし、自分が生まれ育った歴史的具体的立ち位置を考えずに、世界の諸問題の共時的現象面に執着して、それに翻弄されていては“深刻な世界の諸問題”の本質が見えてこないだろう。
 そこで、世界と日本国内の政治の喧噪から一旦距離をおいて、日本に生まれた幸運に感謝しながら、通時的視点から“守るべき日本の伝統の本質とは何か”を思いつくままに記してみたい。

* * *

 10年ほど前から、私は古代から現代にまで縁起的に連続していると考えられる日本的価値観の本質に関心をもって、飛鳥、出雲、隠岐などの各地にある神社仏閣を訪れている。

 神社仏閣は日本の伝統の具体的維持装置である。
 そこでは、建造物から樹木に至るまでが自然と一体になって実に見事に掃除が行き届いている。日本国民に「掃除の美学」の手本を示しているかのようだ。

 私は、訪問先の各地で、地元の人々と少しでもさりげなく言葉を交わす事にしている。どこにいっても、道を尋ねた歩行者、売店の女性、各駅の駅員、列車の車掌、タクシー運転手、みんな親切で礼儀正しい。新幹線では、切符を点検にくる車掌が乗客に一礼してから次の車両へ移ってゆく。

 これが「礼の伝統」ということなのだろう。このような伝統の歴史的由来はどこにあるのか。

 ある年の9月の夕刻、京都で中秋の名月を見ることを期待して天皇の「御寺(みてら)」に参った。境内地の一角から清水が湧き出たことから泉涌寺(せんにゅうじ)と呼ばれる寺だ。

 曇り空であったが舎利殿の縁側にたたずんでいると、いつの間にか雲間から見事な満月が現れた。

 

 皇室の菩提所である真言宗泉涌寺の開基は、宋で12年間修道した俊芿(しゅんじょう)律師であり、後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家などから帰依を受け、北条政子と北条泰時は彼の下で受戒している。

 泉涌寺には1230年、南宋より将来された「楊貴妃観音」像が安置されている。玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃の冥福を祈って造像したとの伝承のある像だ。見事な美形の観音像に、善悪の上位理念としての日本的美意識を感じた。

楊貴妃観音 ↑

 私のささやかな歴史探訪は、従来の伝統的神社仏閣に限定されない。
 天理教の教会本部の神殿を訪ねた。
 そこに暗示されている宇宙観に新鮮な驚きを覚えた。

 宗教法人大本のある亀岡や綾部も訪れた。綾部では一千年の耐用を考慮して建造されたという木造の神殿で、300畳敷きの拝殿広間に、秋の夕刻一人佇んだ。
 そこでは、すべての伝統的神社仏閣に通じているいわく言い難い深い 雰囲気を感じた。

 日本の神社仏閣に漂っている、この自然と一体の伝統、この安らぎを支えてきているものはなにか。

* * *

 ある年の10月、私は奈良を訪れ、鑑真和上 の創建された唐招提寺に参拝した。(2)

 大阪港を出発して上海に向かうという20名ほどの日本の大学生たちと一緒に、律宗管長の西山長老から、鑑真和上のこと、故鄧小平が副主席の時(1978年)、唐招提寺を訪問した時の興味ある逸話などを拝聴した。

 鄧小平氏は鑑真和上の御廟(墓所)の前で非常に丁重な仕草で鑑真和上に最上の敬意を示したという。

 唐招提寺は、日本仏教文化の精神的礎石であり、当時世界の大帝国・唐王朝と列島の皇国・日本の外交的信頼の媒介点である。

鑑真大和上(唐招提寺) ↑

鑑真御廟 ↑

 752年4月9日、東大寺大仏殿で開眼供養が行われた。

 日本列島に初来日したインド人僧・ボーディセーナ師が導師を勤めた。

 しかし大伽藍は建造されたが正式な仏教の「サンガ (saṃgha)」(「和合僧」ブッダに帰依する出家者を中心とする「信頼の和」の組織 ) は未だに成立していなかった。

・753年10年15日、玄宗皇帝は、日本の遣唐使の帰国に際して五言の詩を与え、在唐中の阿倍仲麻呂は揚州の鑑真のもとを訪れて日本への渡航を請い、鑑真の承諾を得た。
・753年12月20日、揚州を発って帰朝に向かう4隻の遣唐船の第2船に乗った鑑真一行が現在の鹿児島県坊津町秋目浦に漂着。

 その後、一行24名 (僧14名、尼僧3名、ソグド人 (イラン系)、インドシナ出身者らを含む在家信者7名) は、地方行政機関だが外務省の機能を持っていた太宰府に滞在後、船で瀬戸内海を通って難波津に翌年2月1日到着した。

 鑑真は、皇帝に命じられたのでもなく、率先して発案したのでもなく、当時唐の政権に仕えていた阿倍仲麻呂や在唐中の日本の僧に乞われるままに訪日を決意、そして決意した後は命がけで行動し5度の渡航に失敗したが 6度目の渡航を試みて、失明して来日した。
 来日した鑑真には、異国の精神的伝統を破壊するような征服的宣教の意図はまったくなかったし、政治に介入する意図もなかった。

 754年4月初め、東大寺大仏殿の前に築かれた戒壇で、鑑真によって正式な仏教徒となるための授戒がおこなわれた。
 最初に聖武太上天皇、光明皇太后、その娘の孝謙天皇が順次受戒。その後、440人余が受戒した。かくて鑑真和上の下に、男性僧、尼僧、男性在家信者、女性在家信者の四衆からなる日本の仏教教団の基礎が、天皇家の参加の下に成立した。
 ちなみに「戒律」の根本的意義は、受戒者の主体的な慈悲行と集団における「和」の実践にあるが、慈悲行は「もののあはれの心」に基づいている。

 この年の秋、阿倍仲麻呂は日本に帰国する遣唐使船に乗船したがベトナムに漂着。現地人に襲われ多数が殺されたが幸いに阿倍仲麻呂は無事であった。

 しかし彼が落命したという噂を伝え聞いた詩人李白は七言絶句を作り「あゝ明月のように高潔なあの晁衡(ちょうこう: 阿倍仲麻呂の中国名)は青々とした海の底に沈んでしまった !」と詠んで仲麻呂を悼んだ。

 阿倍仲麻呂はやがて長安に戻り中国で生涯を終えることになる。

・755年、大仏殿の西側に授戒を正式に行う戒壇院が造営された。
 同年、中国では安禄山 (705-757) が玄宗皇帝の政権に対して反乱を起こし「安禄山の乱」があり、唐帝国は複雑な内戦状況となった。安禄山は西域サマルカンド出身のソグド人と突厥の混血であったが、貿易で唐王朝に参入し、玄宗の信任を得、さらに玄宗の側室の楊貴妃に取り入った人物である。
・756年5月2日、日本では聖武上皇が崩御。皇室は上皇の看護に勤めたことに対して感謝し、二人の唐僧すなわち、鑑真には大僧都、法進には律師の任を与えられた。
・757年、一時は首都長安を奪った安禄山であったが病に倒れ失明してから凶暴化し、次男の安慶緒によって殺害された。安禄山の動乱の最中、杜甫は「國破れて山河あり」に始まる名詩「春望」を詠んだ。
・758年、鑑真に「大和上」の官位が授けられた。
・762年、玄宗と李白が亡くなった。
・763年、「安禄山の乱」は一応の終結を見たが、それに関わる双方の死者数は1300万人から
3600万人と推計されている。

 鑑真 (688-763) が来日前に生きていた唐代前半は、「武化」の時代であると同時に日本の阿倍仲麻呂 (698-770)が玄宗皇帝に信任され、詩仙・李白 (701-762) や詩聖・杜甫 (712-770) らが活躍していた「文化」の時代でもあった。

 阿吽の呼吸の如く、来日した唐人の鑑真は763年日本で入寂し、渡唐した阿倍仲麻呂は50余年を唐朝に仕えて770年中国で生涯を終えた。同年に杜甫も死去している。

* * *

 鑑真と阿倍仲麻呂の間に深い信頼の心の交流がなくしては、聖徳太子が基礎を築いた和国の国体の下に仏教教団の基礎は築かれず、仏教は歴史的に日本に根付かなかっただろう。

 もし鑑真が、日本を精神的に支配しようとして仏教を世俗的手段として利用したとすれば、日本に固有の神道的なるもの、自然に対する豊かな感性が否定された結果をもたらしたことだろう。

 最澄 (766 – 822)も空海 (774 – 835)も、それぞれに唐に留学し、帰国後は鑑真が伝えた釈尊の制定に由来する「具足戒」を受戒して正式の仏教僧となって活躍し「平安仏教」を日本に確立させた。

 平安時代は “非覇権性を本質とする貴族文化” の時代であり、これが後世に発達してゆく日本的抒情文化の情念を支える基層となった。
 平安仏教無くしては、「源氏物語」も「平家物語」も「方丈記」も「徒然草」も生まれえなかった。

 ちなみに 、「源氏物語」は「物のあはれをしる」ということのすぐれたあるいは唯一の認識の方法の価値を主題とする書である(吉川幸次郎「文弱の価値 ̶ 物のあはれを知る」補考)。

 和語「もの」は物質ではなく具体化された「こと」である。
 「もののあはれ」の文化のお陰で、日本文化独特の抒情性が養われ、平安時代後、舞台芸術としての能や歌舞伎、今日、国内外で愛されている独特の抒情性豊かな日本の演歌やポップ歌謡が育てられた。

 

 最澄 (先祖は後漢孝献帝の末孫・登萬貴王) が比叡山延暦寺を建立し日本天台宗を確立しなければ、そこで修学した栄西、道元、日蓮、法然、親鸞、宋にわたって12年間修学した泉涌寺開山の俊芿、さらに七朝国師と尊称される夢窓疎石などの鎌倉仏教の祖師たちは生まれえなかった。

 1279年、北条時宗の招きを受けて、元軍に包囲された体験を持つ無学祖元が南宋から来日、時宗の心の指南役となった。彼がいなければ中華帝国を打倒した元軍による1281年の2度目の日本侵略に時宗は精神的に耐えられず、その後の東アジアの歴史は一変していたかもしれない。

     俊芿 ↑

 インドの霊性文明に生まれた「仏教」が中華文明に移入され、中国の英邁なる僧侶たちによってインドでは歴史的に成立を見なかった「大乗仏教」が歴史的に確立され、それが日本において鑑真らによって「仏道」として定着し、日本の「和」の伝統が育成されていった。
                      夢窓疎石 →

 

 飛鳥期、奈良期、平安期、鎌倉期を経て大衆にひろまっていった「仏道」がなければ、今日伝えられている様々な「道」の日本文化は成立しえなかっただろう。

* * *

 日本文化の「道」とは、具体的な身体行為をもって一定の理念を不断に探求していく自己修練のシステムのことだ。
 この「道」に身分や出自の差別はない。求道者は、それぞれの「道」の師に対する「礼」の志と不断の向上心と修練のみが要求される。しかし「道」には必ず「遊び」の楽しみの要素があるので「道楽」と言われる。
 そして「道」が集中的に正しく行われるべき場が伝統的「道場」であり、神棚が置かれている。

 日本人は「仏道」を起源とした「道」のソフトウェアーの原型が与えられたことにより、茶道、香道、華道、歌道、武道(剣道、柔道、相撲道)などを育てていったが、それぞれの「道」には必ず善悪を離れた「美意識」にもとづく相手に対する敬意の「礼」がある。武道でさえも「礼」に始まり「礼」に終わる「美意識」がなければならない。

 豆腐、味噌、砂糖は鑑真等によってもたらされたと伝えられるが、日本人は中華の調理法を学んで、日本列島の豊かな清水と多様な魚貝類を素材として盛り付けし「形の美」を持った「和食」の様々な「道」を工夫していった。
 和食では「頂きます」の言葉と合掌が「わたし」を生かしてくださる食物に対する「礼」である。

 聖徳太子が「十七条憲法」において深く意図された「和」(3)の心にもとづいて「道」としての「礼」があるが、「礼」の原意は「南無 」(サンスクリット語: namas の音写) (4)であり、「相手に対する全幅の信頼にもとづく礼拝」である。

* * *

 南無の心を体現する鑑真律師は、釈尊在世時に制定された正式な仏教僧になるための完全な戒律である具足戒を受戒した僧であるから、南方アジアの僧とも仏教的行動規範の基本を共有している。

 鑑真という人格は、インド、中国、南アジア、東アジアを包む汎アジアの精神的価値であるが、鑑真の仏道が日本に定着され得たのは聖徳太子 (574-622) の「和の国体」がすでに確立されていたからである。

 聖徳太子の意図した「十七条憲法」の第一条におかれた「和」は、非覇権の理念であり、いわゆる宗教的差別を超えた理念であり、安易な性善説に基づく妥協ではない。

 「和」は宗教、民族、職務上の “区別” は認めて、そこに “差別” を是認しない、普遍的な人間平等の精神である。

 聖徳太子の「十七条憲法」は、基本的に国家の宝である「おお・み・たから (人民)」、すなわち「国民」の安心の生活のために責任をもって奉仕すべき公僕 (public servants) の志を説いているが、その志とは国民のだれもが尊重すべき、人間の平等観にもとづく様々な差別的不正に対する不断の批判精神である。

「悪しきを見てはかならず匡(ただ)せ。それ諂 (へつらひ) 詐 (あざむ) くものは、
 すなはち国家 (あめのした)を覆(くつがえ)すの利 (と) き器 (うつわもの) たり、
 人民 (おおみたから) を絶つの鋒 (と) き剣 (つるぎ) なり。 」(「十七条憲法」第六条)。

 現在、世界中の人々の生活の隅々までが膨大な量の「金融と電流」によって支配され、大量の資源を用いて大量生産された物資が大量輸送され、大量に売買され、大量に廃棄されている。

 「量の価値観にもとづく唯物思考」によって浅薄化した自由と平等のオデオロギーが横行して道義的カオスの状況を生んでいる現在の世界は、有史以来の伝統的価値観が歪みを生じた文明的大混乱期にある。

 このような時代状況においてこそ、現世に執着した覇権思考を離れて、
 「世界は夢・幻・泡・影・露の如く雷光の如し」、
 「打つ人も打たるる人も諸共にただひとときの夢の戯れ」との達観が必要ではないのか。

 「もののあはれ」を知る心ある人々よ、
 世界の文明的対立を超えた「和の精神」に深く目覚め、
 西欧技術文明の功と罪とを正当に評価しつつ、
 世界の善民との交流を進めて、
 新たな未来の文明の育成に努めようではないか。

(2026/04/10)

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* 本文、引用文、一定の内容などについて、筆者の意図しない誤記や誤解などがあれば、ご指摘を受けて、感謝をもって訂正したい。

(1) 「金剛般若経」:サンスクリット語の原名: Vajra-cchedikā-prajñā-pāramitā-sūtra(ダイアモンドのように素晴らしい智慧の完成を説く経典):漢訳(中国語訳)具名「金剛般若波羅蜜経」。この引用文は「金剛般若経」の最後に置かれており、ブッダが縁起の「空」であることについて最も優れて体得していた仏弟子のスブーティ(須菩提)に語った言葉である。サンスクリット文 とその漢訳をもとに筆者が意訳。
(2) 「招提」はサンスクリット語 cāturdiśa の漢訳音写で「四方」の意味。そこで唐招提寺は「唐代 の (律師によって開基された) 四方に開かれた寺」である。本尊は毘盧舎那仏(サンスクリット語: Vairocana Buddha の音写)。 本尊とは、宗教の最高価値観が人格的に表現された象徴であり、偶像ではない。仏像の大小に関わりなく唐招提寺の丈六(約4.8m)の本尊と東大寺の座像の大仏 (約15m) は同格のブッダ(仏陀;覚者)である。
(3) 「十七条憲法」において深く意図された「和」の理念については別稿に譲る。
(4) 仏教文献における「礼」の本義は、サンスクリット語: (名詞) namasであり、その動詞語根 √ nam は「曲がる、(身体を曲げて)お辞儀をする、相手に敬意を表する」の意味。その中国語音写が南無。武器を持っているかもしれない相手に対して頭を下げるのは完全な無防備体制であるから、namas は相手に対する信頼を意味し、仏教では身体的礼拝の根拠である仏陀に対する全幅の信頼の心を意味する。
因みにサンスクリット語: namasの漢訳に「礼」の字が用いられるが、その繁体字「禮」の原意は「禮酒(あま酒)を用いて行う饗禮などの儀礼」である(参照:白川静『新訂字統』)。
namasとその漢訳「礼」の翻訳過程を見るだけで、インド文明と中国文明の異質性と、両者を統合する仏教の統合智を学ぶことができる。

* 本文の歴史的記述については『対外関係史総合年表』(吉川弘文館)を参考。

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