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【NPJ通信・連載記事】一水四見/村野謙吉

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AIデジタル情報の世界にあって「もののあはれの伝統」を保て!
  ~ 叩かれてうれしそうなり木魚かな ~

2026年7月6日

 世界の人口は、2026年時点で約81億~82億人程度と言われる。そこで世界とは81億人余の「わたくし・私」という主観の総体であって、「世界」が主観から離れて存在しているわけではない。
 因みに「世界」は漢語の仏教用語で「世は過去・現在・未来」の時間の三相を意味し、「界」は上下・東西南北・四維に代表される空間を意味する。
 そして「世界存在は主観の総体である」とはインド仏教の偉大なる学僧・ガンダーラ地方(現在のパキスタン・ペシャーワル)出身のヴァスバンドゥ (Vasubandhu :漢訳・天親または世親;
400頃 – 480頃) の唯識観の説くところである。
唯識観とは、全人類の主観の総体を阿頼耶識 (ālaya-vijñāna の漢訳音写・蔵織) といい、それは現在の81億余人の顕在化している主観情報の集積である。

* * *

 現在、「量の価値観」が、あたかも我々81億余人の身体行動と脳細胞の隅々までを支配するがごときAIデジタル情報世界の状況下にあって、ふと1969年に訪れたペシャワール出身のヴァスバンドゥの唯識論に想いを馳せていったが、改めて伝統的仏教体験に「わたくし」の安らぎを思い出したので、過ぎ去った過去に思いを寄せて、以下個人的な筆者のささやかな仏教的思い出を記したい。

 60年ほど前のことであるが、大学院生の時、静岡県の三島にある臨済宗の龍澤寺に、2、3カ年ほど各年の8月か12月に約1ヶ月間滞在していた。

 龍澤寺は江戸中期に活躍した白隠禅師にゆかりのある臨済宗の専門道場で禅僧以外は受け入れないが、ぶっつけ本番で訪問したところ、中川宋淵老師 (1907 – 1984) がたまたま寺の玄関におられて、私の名前も理由も何も聞かずあっさりと受け入れてくださった。低音のずっしりした声で「しっかりやれ」とおっしゃった。

 ちなみに中川宋淵老師 は山本玄峰老師 (1866 – 1961) の直弟子で、玄峰老師は、鈴木貫太郎首相の相談役を務め、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言したと言われている。

 龍澤寺では、私は雲水(禅宗の修行僧)さんと同じ生活をした。いろいろなことが思い出されてくるが、以下取り留めもなく記す。

 坐禅は寺の本堂ではなく大きな一戸建ての禅堂で行うが、就寝は決められた禅堂の畳一畳である。禅堂は障子で囲まれているので、冬でも外と禅堂の中の気温は同じで、当時修行者は年中裸足であったと記憶している。

中川宗淵老師 ↑ (ウィキペディア) 

 ある日、寺の本堂の後ろにある宗淵老師の小さな私室で3人ほどの雲水さんと私は老師の法話を拝聴していた。一人の年配の雲水さんがコックリ、コックリと法話中の宗淵老師の目の前で眠り出した。しかし宗淵老師は注意するわけでもなく、静かに語り続けていた。
 龍澤寺では弟子たちに実に厳しい師家を知っていたので、師匠が説教中、目の前の弟子が居眠りをしても気にかけない、これが中川宗淵老師の “禅風” なのか、と懐かしく思い出された。龍澤寺の禅堂では、中川宗淵老師と二人っきりで座禅していたこともあった。アメリカ人の青年が滞在していたこともあった。

 中川宗淵老師の隣で毎朝、5、6名の雲水さんと一緒に食事をしたことも懐かしく思い出される。そして、禅寺の伝統的修道体系に感心した。
 朝研いだ米のとぎ汁は捨てずに五右衛門風呂の釜に入れて入浴に利用し、翌朝はその白濁の湯水を使って廊下を雑巾がけし、汚れたとぎ汁は本堂裏の畑に肥料として撒いていた。

 食事の時は、最初に全員が箸でひとつまみのご飯を一皿に置いて、それを食後に外に撒いてまいて小鳥や虫たちの餌とした。ご飯は自分に必要な分量だけいただいた。食事の最後にヤカンのお湯をご飯とみそ汁の碗に入れ箸を洗い、 一切れ残しておいた大根のタクアンで二つの碗きれいにしてから碗の湯を全て飲んで、最後にタクアンを食べた。食器と箸は布巾で拭いた後、その布巾で包むから食器を改めて洗うことはしない。

 一切の無駄のない小欲知足の生活で、実に合理的。これが「禅は習禅にあらず」ということだろう。

* * *

 数十年以前、年に一、二回、江ノ島の太平洋を見渡せる場所に行って海を眺めていたことがあった。
 無限の数の波頭が一瞬もとどまることなく全世界の海に躍動していて、一つの波頭は時々刻々波の谷間へと沈みながら他の一切の波頭と連動しているが、すべてはただ一つの水の表面的な変化である。

 太平洋の海をながめながら、自分流の「華厳経の海印三昧」を味わっていた。

 私が伝統仏教や神道のみならず、これまで仏教以外の様々な宗教(キリスト教・ヒンズー教、新宗教など)の集まりに参加して様々な意見を持つ人々と会ってきたのは、鈴木大拙師が今後の世界のために勧める「華厳経」の世界観に影響されているからだろう。

* * *

 2014年8月、知人の仏教学者に紹介されて、浄土宗関係の修道団体「光明会」主催の別時念仏会(べつじねんぶつえ)に参加した。場所は長野県諏訪市上諏訪唐沢にある唐沢山阿弥陀寺。
 「光明会」はホームページによれば「山崎弁栄聖者 (1859~1920) を通して、浄土宗祖・法然上人 (1133~1212) の信仰を現代に生かしていこうとする人たちの集まりで、山崎弁栄聖者は浄土宗の伝統にあって「光明主義」を唱えました。」

 その光明会主催の別時念仏会というのは特別な期間 (唐沢山では1週間) 集中的に念仏する修行である。

阿弥陀寺の本堂から絶景の諏訪湖を望む ↑

唐沢山阿弥陀寺 (筆者撮影)↑

 山と山の間の彼方に諏訪湖を見晴らせる風光明美な地にある阿弥陀寺で、好天に恵まれて修道に参加でき、お世話くださった浄土宗の僧侶の方々に改めて 厚く御礼を申しあげたい。

 「叩かれてうれしそうなり木魚かな」

 これはその時作った私の下手な川柳まがいだが、普通、人間でも猫でも叩かれることは嫌だろう。が木魚は叩き方によって色々な音が喜んで出てくるような気がする。

別時念仏の行われる本堂 ↑

 本堂の後方に控える導師が叩く大きな木魚のズッシリとしたボック、ボックという音を背中に感じつつ、参加の念仏者は自分の前に置かれた小さい木魚を叩きながら南無阿弥陀仏をひたすら唱える。

「南無阿弥陀仏」のサンスクリット語に基づく語義:
 宇宙的永遠の安らぎに目覚めた光のいのちである
 アミターバ・ブッダ (阿弥陀仏) の働きに
 「わたくし」をお任せします

 念仏中は、本堂の両側の雨戸が閉じられて室内は適度に暗くなり、正面の阿弥陀仏の画像がわずかな灯で照らされている。別時念仏は、特定の期限に集中的に南無阿弥陀仏を称えるのであるから、参加者は原則として全日程、無言で行動し参加者同士の会話も禁止である。

 別事念仏の日課
4:30: 起床・5:00: 入堂:念仏・6:00: 十二礼拝:念仏:聖歌・7:20: 退堂
7:30: 朝食・8:30: 入堂:晨朝礼拝: 念仏: 聖歌・10:30: 法話: 念仏: 退堂
12:00: 昼食・13:00: 入堂: 念仏:聖歌・14:30:法話: 念仏・15:30: 法話・16:00: 念仏・17:30: 退堂
18:30: 夕食・20:00: 入堂: 昏暮の礼拝: 念仏: 聖歌・20:15: 退堂・21:00: 就寝 (適時、入浴)

 ささやかな禅堂生活の体験は六十年ほど前のことであるが、2014年の別時念仏会の僧侶方の仕草をかいま見ても、「伝統」仏教を身につけた浄土宗僧侶の生活マナーの優しいことに改めて感心した。在家の参加者も皆さん温和で、修道中であるが修行から連想される緊張感はなく、至ってなごやかな雰囲気であった。

* * *

 現在の世界の状況は、文明的大局観において、「量」優位の現世的価値観に支配された歴史性の欠如したデジタル情報文明である。そして、伝統とは「質」重視の、人類の数千年続く歴史性の価値観にもとづくアナログ文化である。

 現在は、人々がスマホに夢中になり人間によって人為的に作られた無時間的・無機的デジタルのAI情報に「もののあはれ」の時間的存在である人間自身の判断をゆだねているような状況である。
 しかし、和語の「もの」は、主観の「わたくし」にとって物質ではなく時間性をもった有機的客体である。

 仏教によってインドの霊性智と中国の歴史的叡智を与えれた日本に生まれた幸運をいただいた「わたくし」は、「和語」と「漢語」の相乗関係で成り立っている「日本語の文明的意義」を改めて確認すべきである。

 そのような意義を理解した、日本語を語る日本人は、全心身的に「わたくし」を教える様々の「道」*から成り立っている和国・日本の「伝統」を22世紀以降の未来に伝えて行こうではないか。

(2026/06/18・記F)

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* 和国・日本の「道」の文化論の歴史的成立については以下のコラムで解説:
 2026.04.28 日本と東アジアを結ぶ汎アジアの「和」の精神 *

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