東京地方裁判所は、2007年 1月30日、中国 「残留孤児」 国家賠償関東訴訟について、「早期帰国実現義務」、「自立支援義務」 そのものを認めず、
全面的に請求を棄却する判決を言い渡しました。この判決は、その判断内容にとどまらず、当時の中国人や朝鮮人を 「満人」 「鮮人」 あるいは 「土匪」、
「匪賊」 と呼ぶなど、人権感覚、歴史認識自体に重大な欠陥を抱えるものです。
以下にその全文を掲載します。なお、当事者名については、X01 などの表記に置き換えました。(編集部)
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中国残留日本人孤児 東京地裁判決 2007.1.30
平成19年 1月30日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官 夏目亜裕子
平成14年?第27907号損害賠償請求事件
口頭弁論終結日 平成18年5月24日
判 決
当事者の表示 別紙1「当事者目録」記載のとおり
(目次)
主文 7
事実 7
第1 請求 7
第2 事案の概要 7
第3 当事者の主張 7
1 原告らの主張 7
2 被告の主張 7
理由 7
第1 当裁判所の判断の概要 7
第2 認定事実 8
1 原告らが孤児となった経緯及びその背景事情 8
(1) 満州国の建国宣言に至る経緯など 8
(2) 日本政府による満州国への移民政策 14
ア 試験移民 14
イ 大量移民政策とその実施 14
ウ 大量移民の実情 15
エ 原告らの満州への移住経緯等 17
(3) ソ連の対日参戦と日本人孤児の発生 17
ア ソ連の対日参戦に至る経緯 17
イ 日ソ開戦,敗戦,武装解除,日本人のソ連領への移送,各地の越冬の状況 20
(ア) ソ連軍の攻撃に対する関東軍の行動 20
(イ) 日ソ開戦に伴う満州在留邦人の行動 26
(ウ) 関東軍の武装解除と日本人のソ連領への移送 30
(エ) 満州における日本人の越冬状況 33
ウ 日本人孤児の発生 37
エ 本件の原告らが孤児となった状況 39
2 日中国交回復までの未帰還者の帰国等に関する事情 51
(1) 終戦直後における引揚げに関する日本政府の対応 51
ア 終戦直後の日本政府の方針など 51
イ 満州における日本人居留民の窮状に関する外交交渉について 54
ウ ソ連軍の資産持去り 58
(2) 前期集団引揚げの実施 58
(3) 日本政府による船運賃の負担 59
(4) 後期集団引揚げの実施 59
(5) 未帰還者留守家族等援護法の施行 63
(6) 後期集団引揚げの実施前後の日中政府間における書簡のやりとり 65
(7) 衆議院海外同胞引揚特別委員長以下の訪中申入れ 67
(8) 長崎国旗事件 68
(9) 未帰還者特別措置法の施行前における未帰還者調査 70
ア 昭和29年(1954年)ころまで 70
イ 昭和30年(1955年)ころ以降 71
(ア) 国内調査の実施 71
(イ) 国外調査の実施 72
(ウ) 一斉特別調査の実施 73
(10) 未帰還者特別措置法の施行 74
ア 未帰還者特別措置法の制定に至る経緯 74
イ 未帰還者特別措置法の施行 76
ウ 戦時死亡宣告制度の処理要領 78
(11) 未帰還者特別措置法の施行後における未帰還者調査 79
ア 未帰還者の調査究明活動一般 79
イ 生存の可能性の低い未帰還者の調査 80
ウ 戦時死亡宣告を受けた未帰還者についての調査 81
3 日中国交回復から中国残留孤児の帰国が実現するまでの経緯 81
(1) 日中国交回復 81
(2) 帰国旅費の国庫負担制度など 81
ア 帰国旅費の国庫負担の対象 81
イ 一時帰国援護 83
ウ 帰国旅費の国庫負担制度の周知方法 83
エ 帰国旅費の支給申請手続 83
オ 身元未判明の長期未帰還者の帰国援護など 83
(3) 日中国交回復後における身元調査 84
ア 保有資料による調査 84
イ 中国政府への協力要請等 84
ウ 公開調査 85
エ 訪日調査 85
オ 訪中調査 89
(ア) 障害を有する長期未帰還者(孤児)の調査 89
(イ) 未確定者の調査 89
(ウ) 訪日対面調査 89
カ キャラバン調査 90
(4) 養父母の扶養費の支給 91
(5) 長期未帰還者(中国残留孤児)の入国手続 91
ア 長期未帰還者(中国残留孤児)の入国手続に関する日本政府の取扱い 91
イ 身元引受人制度の創設 94
ウ 特別身元引受人制度の創設 94
4 原告らの帰国状況 97
5 日本政府による外地からの引揚者(帰国者)に対する主な自立支援策 114
(1) 日中国交回復前 114
(2) 自立支度金の支給 114
(3) 自立指導員派遣制度 114
(4) 帰国時オリエンテーション 115
(5) 就労に関する支援 115
(6) 中国残留日本人孤児問題懇談会による報告書(昭和57年(1982年) 8月26日) について 116
(7) 中国帰国者定着促進センター 119
ア 開設に至る経緯等 119
イ 入所対象者 121
ウ 定着促進センターにおける援護内容 122
(8) 身元引受人制度の創設 122
(9) 中国残留日本人孤児問題懇談会による報告書(昭和60年(1985年) 7月22日) について 124
(10) 就籍に関する支援 124
(11) 中国帰国者自立研修センターの創設 125
(12) 自立支援通訳制度 126
(13) 巡回健康相談事業 127
(14) 特別身元引受人制度の創設 128
(15) 自立支援法の施行 128
(16) 住宅に関する支援 129
(17) 国民年金に関する取扱い 130
(18) 中国帰国者支援・交流センターの開設 130
6 原告らを含む長期未帰還者(中国残留孤児)の帰国後の状況 131
(1) 生活保護の受給状況等 131
(2) 就労状況 135
(3) 日本語の習得状況 137
第3 早期帰国実現義務違反について 138
1 被侵害利益について 138
2 早期帰国実現義務の存否について 142
(1) 早期帰国実現義務の根拠について 142
ア 憲法 142
イ 国際法・条約等 143
ウ 法令 145
(ア) 各設置法 145
(イ) 留守援法 145
(ウ) 未帰還者特別措置法 146
エ 先行行為に基づく条理上の義務 146
(ア) 原告らの主張 146
(イ) 原告らの主張する先行行為の検討 147
(ウ) 原告らが実親と離別して孤児となるに至った原因について 153
(エ) 結果予見可能性(原告らが普通の日本人として成長していくことができないであろうことの予見可能性) について 156
(オ) 結果回避可能性(原告らが普通の日本人として成長・発展するために,被告において原告らを早期に日本に帰国させることができたか) について 157
a 日中国交回復前について 157
b 日中国交回復後について 159
(カ) まとめ 162
オ 条理について 162
(2) 早期帰国実現義務の存否についての判断のまとめ 163
3 早期帰国実現義務懈怠の主張について 164
(1) 原告らの主張の要旨 164
(2) 国が中国残留孤児の帰国に関してとった主な措置と経過の要約 165
(3) 上記の措置と経過に対する評価 168
(4) 日本政府による帰国妨害があったとの主張について 169
ア 未帰還者特別措置法の制定と運用及び留守援法の運用について 169
イ 身元判明者の帰国手続について 170
第4 自立支援義務違反について 170
1 被侵害利益について 170
(1) 原告らの主張する被侵害利益 171
(2) 原告らの主張する損害及びその性質 171
2 自立支援義務の存否について 173
(1) 自立支援義務の根拠について 173
ア 憲法 173
イ 国際法・条約等 174
ウ 法令 174
エ 先行行為に基づく条理上の義務 175
(2) 自立支援義務の存否に関するまとめ 179
3 自立支援義務違反の主張について 179
(1) 現実にとられた自立支援策の概要 179
(2) 日本政府がとった自立支援策に対する評価について 181
第5 原告らの主張する共通損害について 181
第6 結論 182
主 文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事 実
第 1 請求
被告は,原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対する平成15年3月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第 2 事案の概要
本件は,第二次世界大戦の終結前後,中国東北地方(以下「満州」,「中国東北部」ともいう。)において孤児となったいわゆる中国残留孤児である原告らが,
被告の公務員が原告らを早期に帰国させる義務(早期帰国実現義務)及び帰国した原告らの自立した生活を支援する義務(自立支援義務)に違反し,
その違反により,普通の日本人として人間らしく生きる権利を侵害されたとして,被告に対し,国家賠償法1条1項に基づき,
それぞれ3300万円(慰謝料3000万円と弁護士費用相当額300万円の合計)及びこれに対する平成15年3月4日
(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
第 3 当事者の主張
1 原告らの主張
別紙 2 「原告らの主張」 記載のとおり
2 被告の主張
別紙 3 「被告の主張」 記載のとおり
理由
第 1 当裁判所の判断の概要
当裁判所の判断は,(1) 原告らがいわゆる中国残留孤児となった原因として,戦前の国の満州政策が存在していることは間違いなく
(特に,日ソ開戦直前の根こそぎ動員によって邦人男性のほとんどが召集され,その結果,
終戦時の混乱状態にあって民間の邦人男性がほとんどいなかったことの影響は極めて大きかったと考えざるを得ない。),
一つの歴史的認識として,その国家政策が中国残留孤児発生の原因であるということはいえるが,
それを法的責任の発生根拠としての孤児発生の原因とすることはできない,
(2) 原告らが主張する国の原告らに対する法的な早期帰国実現義務は認められない,
(3) 法的な早期帰国実現義務の有無にかかわらず,国の原告らに対する法的な自立支援義務を認めることはできない,
(4 )国の原告らに対する帰国に関する措置や帰国援護策及び自立支援策について,違法と評価することはできない,
(5) 原告らすべてに共通する被害として認められるのは,孤児となったために日本語を母語とすることができず,かつ,
37歳前には帰国することができなかったことであるが,これが国の違法行為によって生じたものであるとすることはできず,
(6) 結論として,原告らの請求をいずれも理由がないとして,棄却するものである。
第2 認定事実
当該認定箇所に掲げる証拠及び弁論の全趣旨に加え,公知の歴史上の事実によれば,以下の事実が認められる。
1 原告らが孤児となった経緯及びその背景事情
(1) 満州国の建国宣言に至る経緯など
日本は,清国との間で朝鮮半島への影響力を争った日清戦争に勝利し,明治28年(1895年)の日清講和条約(下関条約)により,
朝鮮の独立の確認(清との宗属関係破棄),遼東半島・台湾等の割譲その他の特権を清国から獲得したが,ロシア,フランス及びドイツのいわゆる三国干渉によって,
遼東半島を返還させられ,ロシアは,その見返りとして,清国から,シベリア鉄道の延長である満州鉄道の敷設権を取得し,
その後ハルピン駅から南下して大連・旅順に至る南満州鉄道の敷設権も取得し,旅順,大連など遼東半島南部地域を租借した。
日本は,ロシアとの間で,満州におけるロシアの優越権を日本が認めるかわりに,朝鮮における日本の優越権をロシアに認めさせようとしたが,
ロシアは,これに応じようとしなかった。
ロシアは,南満州鉄道の敷設に反対する現地住民との間でゲリラ戦を戦っていたが,義和団運動の影響によって鉄道の破壊が激しくなったことから,
その保護を名目にロシア軍が本格的に満州に侵攻し,明治33年(1900年)末ころまでには満州全域を制圧(軍事占領)した。
日本は,ロシアの進出を警戒するイギリスと日英同盟を締結し,満州からの撤兵をロシアに要求したが,ロシアは,
朝鮮へ進出する意図・姿勢を隠さず(日本は,明治36年(1903年) 8月,ロシアは満州,日本は朝鮮の特殊利益を相互に認める方針を伝えたが,
ロシアの回答は,満州には触れず,朝鮮領土の軍事利用禁止等を求めるものであった。),
旅順に極東総督府を設置し,満州南部に兵力を移動し,極東の軍備増強を開始した。
日本は,自国の存亡をかけて大国ロシアと戦うこととなり,明治37年(1904年) 2月,日露戦争が勃発した。
日本は,日露戦争(満州が地上戦の主戦場であった。)において,総計8万人以上の戦死者及び多くの負傷者を出し,
明治38年(1905年) 5月の日本海海戦の勝利後,同年9月,米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で,ロシアと日露講和条約(ポーツマス条約)を締結し,
これにより,ロシアが満州及び朝鮮に保持していた権益のうち,遼東半島南部(旅順及び大連を含む地域で,山海関の東側に位置していたことから,
日本は同地域を関東州と呼称した。)の租借権と満州南部(旅順から長春まで)の鉄道経営権等の取得を認めさせ(ただし,樺太北半分は無償返還させられ,
戦費賠償要求は一切拒否された。),同年12月の満州に関する日清条約により,上記の権益を獲得した。
日本は,日露戦争後,満州の軍事占領(占領地行政)を続けていたが(清朝は,日露戦争の際,自国の領土内である満州での戦争であったが,
局外中立を宣言していた。),門戸開放政策を唱える米英等から軍事占領に対する抗議を受けて早期撤兵に踏み切り,明治39年(1906年) 11月,
南満州鉄道株式会社(以下「満鉄」という。)を設立し,ロシアから取得した鉄道等の権益の経営に当たらせ,
遼東半島南部の租借地並びに鉄道及び鉄道付属地の経営(実質的な植民地経営)を開始した。
日露戦争後の日本とロシアは,三次にわたる日露協約(秘密協定を含む。)により,北満州と南満州の分界線を定め,前者をロシア,
後者を日本の勢力範囲と定めて互いにその範囲内での自由行動を認め合い,
ロシアが朝鮮での日本の行動を承認する代わりに日本は外蒙古でのロシアの行動を承認するなどした。
なお,満鉄の総資本は2億円であり,うち 1億円は日本政府がロシアから譲渡された鉄道等と炭坑を現物出資し(当時の国家予算は4億余円であったが,
日露戦争にかかった国費は約20億円であり,多額の外債もあって政府には出費の余裕がなかった。),残り 1億円が株式募集され,多くの応募があった。
清国では,日露戦争での日本の勝利を見て日本型の近代化を目指す改革が始まったが,明治44年(1911年) 10月,孫文が指導した辛亥革命が起こり,
明治45年(1912年) 1月 1日,孫文を臨時大総統として中華民国臨時政府が成立した。
清朝政府は,北洋軍閥袁世凱を総理大臣に任命して革命軍を討伐させようとしたが,袁世凱は,宣統帝溥儀を退位させて(清朝滅亡),
中華民国大総統に就任し,その後,国民党を解散させ,帝政復活をはかるなどした。大正5年(1916年)に袁世凱が死亡した後,
中国は各地の軍閥(満州は張作霖)がそれぞれ外国に後援されて争うところとなり,日本も軍閥に借款を供与するなどして軍事的,
経済的に中国への影響力を強めようとした。
日本は,大正3年(1914年) 7月に勃発した第一次世界大戦に,日英同盟に基づいて参戦することし,同年8月にドイツに宣戦布告して膠州湾,
青島の山東省のドイツ権益を接収し,翌大正4年(1915年) 月,袁世凱に対し,21か条要求を提出し,同年5月7日最後通牒をつきつけ,同月9日,
遼東半島南部の租借権及び満州南部の鉄道経営権の期間を当初の25年間から99年間に延長すること,
満州南部における商工業又は農業経営のために日本人が30年ごとに更新し得る永代租借権「商租権」を取得し得ること,日本人が南満州で自由に居住,
往来・営業できること,奉天・吉林南部の9鉱地の試掘・採掘権を日本人に与え,
南満州における政治・財政・軍事の外国顧問教官には日本人を優先すること等を認めさせた。
日本は,このように,満州に対する支配を拡大・強化したが,21か条要求により日本に留学していた中国人学生の反日感情は高まり,
中国沿岸や満州では日貨排斥運動も広がり,大正8年(1919年) 5月には,
日本が山東省の権益を引き継ぐことを含むヴェルサイユ条約(第一次世界大戦の終戦後処理を目的とする講和条約)の調印拒否,
日貨排斥等を掲げる学生・商人らを中心とする広範な五四運動が起きた。
日本は,中国内の軍閥間の抗争において,当初,満州軍閥の張作霖を支持して満州及び中国における権益の保持・拡大強化を図っていたが(大正15年(1926年) 4月,
張作霖は北京に入った。),蒋介石を指導者とする国民党革命軍の勢力拡大・北伐により張作霖の勢力が弱体化したため,張作霖に満州への引揚げを勧告し,
北伐軍に圧力をかけて満州まで追撃しないように約束させた。昭和3年(1928年) 6月,張作霖を見限った関東軍は,同人を殺害して中国人の犯行に見せかけ,
それを口実に部隊を出動させて一気に満州を占領しようと考え,北京から奉天に向かった同人の乗った列車を満鉄付属地で爆破した(満州某重大事件)。
しかし,張作霖は死亡したものの,この日本軍の謀略は成功せず,張作霖の息子張学良が軍閥を継承し,張学良は,国民党による中国統一を支持し,同年12月,
国民政府の統治下に入ることを表明し,蒋介石から東北辺防総司令官に任命された。
五四運動から始まった中国のナショナリズムは,満州でも国権回復運動として徐々に浸透しつつあったが,張学良は,
満州においても高まってきたナショナリズムを背景に,国権回復運動を更に進め,
前記の21か条の要求の取消しを求めて日本に対する敵対行動をとり(昭和4年(1929年) 7月には北満州鉄道を強行回収したため,ソ連が国交断絶を通告し,
ソ連軍が満州里に侵入して張学良軍を圧倒して満州各地を占領する事態となったが,同年12月に講和を結んだ。),関東軍の撤兵,満鉄の接収を要求するなどし,
関東軍や現地居留日本人の危機感は募り,窮状を打破するには武力による解決もやむなしとの機運が関東軍に高まった。
当時の大新聞をはじめとする日本のマスコミも,満蒙問題の根本的解決には武力行使もやむを得ずという論調が強くなっていた。
ソ連又は共産主義思想の浸透に対する防衛上の必要性をも重視していた関東軍は,満蒙の領有を目的として,昭和6年(1931年) 9月18日,
柳条湖事件を発端として満州において総攻撃を開始し(満州事変),
陸軍中央や日本政府の事変不拡大指示を無視して管轄外の北満州に進出し(国内世論は関東軍の行動を支持し,社会民衆党も満州事変支持を決議し,
事変不拡大を指示した若槻内閣は同年12月に倒れた。),11月には黒竜江省の首都チチハルを占領し,
翌昭和7年(1932年) 2月にはハルピンを占領して東3省を制圧した。北京にいた張学良は,蒋介石の方針により,
東北軍に不抵抗・撤退を命じ(当時,蒋介石率いる国民党は全力を共産党包囲掃討作戦に集中し,国内統一を最優先課題としていた。),
ソ連は中立不干渉を声明した。現地では事変後から関東軍の働きかけもしくは脅迫により反張学良の有力者が各地に政権を樹立し,
東北行政委員会が組織され,昭和7年(1932年) 3月 1日,同委員会によって満州国の建国が宣言され,清朝最後の皇帝溥儀が執政という名の元首についた。
満州国の支配地域とされたのは,中国東北地方全域に及び,現在の吉林省,黒竜江省,遼寧省の全域と河北省及び内モンゴル自治区の一部に跨る地域である。
同月10日,溥儀は,関東軍司令官に対し,満州国の安全発展を日本の援助指導に頼ることを確認した上,満州国は,
@国防及び治安維持を日本に委託し,その経費を満州国で負担すること,
A日本軍が国防上必要とする鉄道,港湾,水路,航空路等の管理・敷設を日本又は日本が指定する機関に委託すること,
B日本軍が必要とする各種の施設を極力援助すること,
C日本人を満州国参議に任じ,その他の官署にも日本人を任用し,その解職には関東軍司令官の同意を必要とすることを誓約する書簡を交付した。
日本政府特に犬養首相は,満州国の承認をしぶっていたが,5・15事件で犬養首相がテロに倒れ,その 1か月後に衆議院が満場一致で満州国承認を決議したため,
日本国は,同年9月15日,満州国を承認し,同時に,満州国との間で,
@それまで日本国又は日本国民が日華両国間の取り決め及び公私の契約によって満州国領内に持っていたすべての権利と利益を無条件で承認する,
A日満両国による共同防衛を約し,日本軍が満州国内に駐屯することを定める,の2か条を内容とした日満議定書を締結した。
中国は,昭和6年(1931年) 9月21日,国際連盟に柳条湖事件を提訴し,同年12月の理事会で調査団派遣が決議され,昭和7年(1932年) 2月末から,
英国人リットン?を代表とし仏,独,伊,米の計5人から構成されたリットン調査団が日本の政府,軍の要人,蒋介石(南京),張学良(北京)と会見し,
満州に6週間滞在し,同年10月に報告書を公表した。その内容は,日本軍の武力行使が自衛のためではなく侵略行為で,不戦条約に違反し,
中国の主権を侵していると指摘するものであった。しかし,結論部分では,日中間に新しい条約を締結させ,満州における日本の本来の権益を確保させることや,
満州には中国の主権の範囲内で広範な自治を認める自治政府をつくり,その政府に日本人を含む外国人顧問を任命する方向で解決をはかるべきだと勧告していた。
国際連盟総会は,昭和8年(1933年) 2月24日,リットン報告書を採択し,満州国の不承認を決議した。そのため,日本は,同年3月27日,国際連盟から脱退した。
日本側の言い分は,中国が組織化された国家ではなく,国内が極度に混乱し,諸国間の通常の関係を規制する国際法を適用できないというものであった。
関東軍は,その後,長城線を超えて華北に侵入し,北京に迫ったが,蒋介石は中国共産党の掃討作戦を優先し,同年5月の日中間の停戦協定により,
関東軍はおおむね長城線に帰還し,昭和9年(1934年) 12月,中国国民政府は,同年3月に成立した満洲帝国(以下「満州国」ともいう。)と通郵協定,
設関協定を結んだ。満洲帝国は,同年9月,ローマ法王庁がこれを承認し,その後,イタリア,スペイン,ドイツも続いて承認した。
最終的に,承認国は15か国,それを含めて事実上承認した国は23か国で,ソ連とは国境紛争を繰り返したが,後記の日ソ中立条約の声明書にもあるとおり,
事実上承認の関係にあった。
日本は,昭和12年(1937年) 7月7日,盧溝橋事件を発端として日中戦争を開始し,昭和16年(1941年) 12月,アメリカ合衆国,イギリス等の連合国との間で,
戦争を開始した(太平洋戦争)。日本は,太平洋戦争開始前である同年4月,ソ連との間で,両国相互の領土の保全及び不可侵の尊重等を内容とし,
有効期間を5年間とする日ソ中立条約(昭和16年(1941年) 4月30日公布)を締結した。
日本とソ連は,上記条約と同時に,ソ連が満洲帝国の,日本が蒙古人民共和国の,それぞれ領土の保全及び不可侵を尊重することを約する旨の声明書を発出した。
(甲総3,4,110の1,111の3~5,12,13,112の2~5,乙40,証人岡部牧夫)
(2) 日本政府による満州国への移民政策
ア 試験移民
日本政府は,帝国議会で承認された拓務省による満州への移民計画に基づき,
次のとおり4次にわたって試験移民(第3次までは在郷軍人による軍装一式を受け取って入植した武装農業移民である。)を実施した。
昭和 7年(1932年) 第 1次 弥栄村 502人
昭和 8年(1933年) 第 2次 千振村 455人
昭和 9年(1934年) 第 3次 瑞穂村 259人
昭和10年(1935年) 第 4次 城子河 268人
哈達河 190人
日本政府は,試験移民の実施と合わせて,開拓民に対する金融,移住地の買収・分譲,開拓地建設経営のあっせん助成を行うために,昭和9年(1934年),
満州拓殖株式会社を設立した。同社は,昭和12年(1937年) 8月,日本と満州国の合弁による満州拓殖公社に改組され,
現地での土地の取得と営農資金の貸付を中心とする移民政策の実行機関となった。
イ 大量移民政策とその実施
日本政府は,昭和11年(1936年) 8月25日,閣議決定により,満州への移民政策を七大国策綱領の一つとし,昭和12年(1937年) 1月,
満州への開拓移民として20年間に100万戸500万人を送出する大綱を決定した。そして,移民計画の第1期5か年計画が,昭和12年(1937年)から実施された。
開拓民は,その渡航費の全額を日本政府から補助され,営農に必要な費用,指導員,衛生施設,小学校等の施設及び経常費についても補助を受けた。
開拓民の募集及び宣伝等は,拓務省の外郭団体であった満州移住協会が当たった。満州移住協会は,
「移住地は北満州で現在鉄道に沿うた所又は近く開通する交通の便のよい,水利にも恵まれた土地の肥えた,飲み水に不自由のない,
恐るべき病気もなく治安上安心して生活の出来る土地を選定することにいたしております。」といった宣伝文句を記載したパンフレットを発行するなどして,
開拓民の募集を進めた。
しかし,移民の応募者は常に計画を下回り,戦争の進行により軍隊への応召や軍需産業の活況から農村人口がかなり吸収され,
開拓民として成人男性を確保することが困難となったため,昭和12年(1937年) 11月30日,「満州に対する青少年の移民送出に関する件」を閣議決定し,
将来に移民団へ移行させるために農家の次三男以下の数え年16歳から19歳までの男子を対象とする満蒙開拓青少年義勇軍
(満州国側ではこの名を避けて満州開拓義勇隊とした)の制度をつくり,また,昭和16年(1941年) 12月31日,移民計画の第2期5か年計画を閣議決定し,その後,
終戦直前ころまで,開拓民の送出を実施した。昭和20年(1945年) 5月までに送出された日本人移民は約32万人(このうち青少年義勇軍は10万人を超えた。)で,
中途退団者を除いても約27万人といわれている。なお,日露戦争後から満州事変の直前までの日本の対満投資額は当時の金額で約17億6000万円であり,
満州国建国以後の5年間で更に約11億6000万円が投資され,昭和12年(1937年)から昭和19年(1944年)までに更に79億円が投ぜられた。
ウ 大量移民の実情
満州への移民政策は,日本国内の農村における過剰人口を解消し,恐慌で疲弊し小作争議や農民運動が増えていた農村の救済策であったとともに,
満州における権益の確保・拡大及び有事の際に関東軍が召集できる人員の増加(予備兵力の確保)をも目的としており,そのため,開拓団は,主として,
ソ連との国境近くや反満抗日軍の遊撃地区の周辺に配置された。
移民用地の確保は,当初,耕作中の中国人の生活に脅威を及ぼすことのないこと,未耕地を主として選定することとされていたが,実際は,
中国人から既耕地を強制的に買収して確保することも多く,その買収価格も時価と比較すると非常に低額であった。
しかも,移民政策の初期段階では,移民用地買収に当たって関東軍の現地部隊が表面に立ち,強制的な買収が行われ(これが現地農民の反抗を呼び,
昭和9年(1934年) 3月には約3000人の現地民衆自衛軍が第 1次,第2次試験移民団への包囲・攻撃した依蘭(イーラン)事件が起き,
第 1次,第2次の試験移民から大量の脱落者を出した。),満州国開拓総局と満拓において取得・整備した移民用地は,
昭和14年(1939年)末の段階で約1067万9000ヘクタールに達し,その約19パーセントである約203万8000ヘクタール
(当時の日本国内の耕地面積の約3分の 1の広さに当たる。)が既耕地であった。時価を大幅に下回る金額で土地を収用された中国人は,その多くが,
日本人開拓民に対し,強い反感を持った。また,集団での移民団では,自作農経営に必要として 1戸あたり10〜20町歩の耕地が配分されたが,
これを自家労働力で経営できるものは限られていて(若年夫婦であれば子供もいて,夫は団の公用もあり,農作業に投入できる労力は限定される。),
その多くは中国人や朝鮮人に小作させたり,雇用して耕作し,地主化・大農化した例も多く(そのような例がない開拓団もあった。),
日本人の中国人に対する民族的偏見や非行も加わって,現地住民との間に緊張関係が存在していたところも多かった。
なお,満州国の総人口は,昭和13年(1938年)ころには約3900万人(うち日本人約70万人),昭和18年(1943年)ころには約4500万人といわれている。
エ 原告らの満州への移住経緯等
原告らの移住経緯,帰国経緯及び帰国後の生活状況等は,別表原告ら一覧表記載のとおりであり,移住経緯については,後記に認定したとおりである。
原告らのうち,原告X03(原告番号3。なお,原告番号は,別紙 1当事者目録に各原告に付した番号を指す。以下同じ。),原告X07(原告番号7),
原告X08(原告番号8),原告X09(原告番号9),原告X10(原告番号10),原告X15(原告番号15),原告X16(原告番号16),原告X17(原告番号17),
原告X21(原告番号21),原告X24(原告番号24),原告X25(原告番号25),原告X27(原告番号27),原告X28(原告番号28),原告X30(原告番号30),
原告X31(原告番号31),原告X33(原告番号33)及び原告X34(原告番号34)の17名は,開拓民として満州に渡ったか,又は,
開拓民の子として満州において出生したものと認められる。原告らのうち,原告X01(原告番号 1)及び原告X37(原告番号37)の父は軍人であり,
原告X13(原告番号13)の父も軍人であった可能性があり,原告X05(原告番号5)の父は満鉄社員であり,原告X04(原告番号4)の父も満鉄社員であった可能性が高い。
原告X02(原告番号2)及び原告X40(原告番号40)の父はいずれも商売のために移住したものと思われる。その余の原告ら16名の移住経緯は,証拠上不明である。
(甲総1,2,5〜10,110の1,111の1~19(枝番省略),112の8,11~15,19,20甲総A1の1,9の1,甲各1から40まで(各枝番も含む。),証人菅原幸助,証人岡部牧夫)
(3) ソ連の対日参戦と日本人孤児の発生
ア ソ連の対日参戦に至る経緯
日本は,昭和16年(1941年) 4月,ソ連との間で,日ソ中立条約を締結した。しかし,同年6月末にドイツとソ連との間で戦争が始まると,日本政府内には,
ソ連極東軍の状況次第で,ソ連に対して開戦する考えも主張された。日本政府は,昭和16年(1941年) 7月,関東軍特殊演習(関特演)と称して関東軍の軍備を増強し,
12個師団30万人であった兵力は,昭和18年(1943年)初めには,師団14,戦車師団2を基幹とした約80万人の兵力となった。しかし,昭和18年(1943年)後半になると,
太平洋戦域の戦況が急迫し,この方面に増援として,師団11,戦車師団 1,その他多数の部隊が転用され,関東軍の兵力が激減した。
そこで,日本政府(大本営)は,昭和19年(1944年) 9月18日,ソ連に対して極力戦争の発生を防止するとの対ソ全面持久戦計画を内容とする大陸命
(大本営陸軍部命令の略称。以下同じ。)を発し,対ソ戦略について長期持久作戦に方針を転換した。
他方,ソ連は,昭和19年(1944年) 10月5日,黒竜江の中にあり満州国が自国領と主張していた光風島を占拠して満州国側の定期船の航行を阻止し,同年11月7日,
革命記念日のスターリンの演説において日本を侵略国と非難し,同年12月5日から10日までの間には,ソ連との国境の虎頭付近において射撃を行うなど,
対日参戦への動きを見せ始めた。大本営は,このようなソ連側の動きから,ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告すること,
さらには日本に対して参戦する可能性もあることを認識した。関東軍は,昭和20年(1945年) 2月までに,師団14,独立混成旅団4を新設したものの,その兵力は,
昭和18年(1943年)初めと比較して約3分の 1程度となっていた。しかも,これら急増の師団は,訓練が不十分な上,装備も極度に不足し,
本格的な戦闘に耐えうるものではなかった。
ソ連は,同年4月5日,日本に対し,日ソ中立条約の期限満了後(昭和21年(1946年) 4月)の不延長を通告し,同年5月上旬には,ドイツが連合国側に降伏した。
これにより,大本営は,ソ連の対日参戦の時期が近づいていることを予想し,同月30日,「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」 「朝鮮方面対ソ作戦計画要領」を出し,
持久戦の防衛線を満州の南東部と朝鮮(図們−新京−大連以東の要域)に変更するよう指示し,その場合には司令部も後退させることとした。
また,日本政府は,極度に弱体化した関東軍の兵備を緊急に強化する措置として,同年7月,行政,治安維持,交通通信,戦時産業等のために,
絶対に必要な人員15万人を除き,満州における日本人適齢男子約25万人を召集するといういわゆる根こそぎ動員を発令し,これを実施した。
根こそぎ動員等による兵力増強によって,外見的には,師団24個,独立混成旅団9個を基幹とする約60万人の兵力となったが,訓練,装備等は不良で,
特に近代戦に欠かすことのできない戦車,砲兵,防空部隊等の主力は他の地域に転用され,航空部隊も辛うじてゲリラ的に使用できるに過ぎない状況であった。
そして,関東軍は,ソ連の進攻に際しては満州内の地形を利用してその進入を阻止し,やむを得ない場合は南満,
北鮮の山岳地帯を確保して抗戦を続けるとの方針に基づき,国境付近の各部隊は一部駐屯地に残して未教育兵の教育にあたらせ,
主力の多くは駐屯地から遠隔した地点での陣地構築に着手し,また,一部の部隊は新駐屯地に移動中に8月9日のソ連参戦を迎えた。
日ソ開戦時の満州と北鮮における関東軍の第一方面軍(満州東部)以外の主要部隊の配置は別紙Aに記載のとおりであり,
同じく東満州における第一方面軍の主要部隊の配置は別紙Bに記載のとおりであった。他方,根こそぎ動員の結果,開拓団の青壮年の男子の人口が極端に減少し,
入植地(開拓団995個,開拓義勇軍99個中隊,報国農場73個所)には老人,女性,子供らばかり22万人が残されてほとんど無防備な状態となり,
これが,ソ連参戦後の開拓民の逃避行が困難を極める一因となった。
以上のとおり,ソ連の対日参戦の時期が近づいていることが予想される中,関東軍の兵備は弱体化し,
開拓団の青壮年の男子の人口が極端に減少した状況であったため,
特に,前記満鮮方面対ソ作戦計画要綱において持久戦の場所から外された地域すなわち満州の北西部は,極めて危険な状況下にあった。
しかし,日本政府は,ソ連軍に日本が防勢に転じたことを予知されることを恐れ,開拓団に対し,上記の危険を知らせることをせず,逆に,
同年8月2日のラジオ放送において,「関東軍は盤石の安きにある。邦人,特に国境開拓団の諸君は安んじて生業に励むがよろしい。」旨誤った事実を広報した。
同月6日,広島に原子爆弾が投下され,日本の降伏が近づいたことが予想されると,ソ連は,同月8日,日ソ中立条約の有効期限中であったが,
日本に対して宣戦を布告し,同月9日午前 0時過ぎ,満州への攻撃・進軍を開始した(昭和20年(1945年) 2月の米・英・ソ3国のヤルタでの首脳会談の秘密協定で,
ドイツの降伏後2ないし3か月後にソ連が対日参戦すること,その見返りとしてソ連が日本領である南樺太,千島列島の引渡しを受けること,
満州の鉄道や港に関する権益等を取得すること,ただし,満州は中華民国が完全な主権を保有すること等が決定されていた。)。
イ 日ソ開戦,敗戦,武装解除,日本人のソ連領への移送,各地の越冬の状況
(ア) ソ連軍の攻撃に対する関東軍の行動
ソ連軍の攻撃開始に対し,関東軍は,直ちに各部隊に対し,作戦計画に基づいてソ連軍の攻撃を撃破するよう命じ,日ソ間の全面戦闘に突入した。
8月9日から,関東軍の武装解除の命令がされ,事実上の戦闘が終了した同月末日ころまでの各地の関東軍の行動等は,次のとおりである。
a 間島正面(別紙B参照)
進入してきたソ連軍は 1個師団と戦車2個旅団で,一部は五家子の陣地を攻撃し,戦車部隊は,羅津方面に南下し,主力は琿春,
春化から越境して図們に向かって進攻した。歩兵第280連隊は,五家子の陣地で戦い,19日まで,これを確保していた。
第112師団の主力は,図們東側の密江付近でソ連軍の主力と激戦を交え,ソ連軍に損害を与えたが,自軍にも損害が出て,図們北側の陣地に後退し,
その後は大きな戦闘を交えることなく停戦となった。第127師団は,国境に派遣していた一部及び遊撃戦のために遠く出撃していた一部を除き,
交戦することなく停戦となった。羅津要塞部隊,混成101連隊は,小戦を交えつつ古茂山,会寧に後退して停戦を迎えた。
機動第 1旅団は,汪清,金蒼,老黒山の地区に分散して敵軍に対する挺進斬込み,遊撃戦を準備中,一部が戦闘したのみで停戦となった。
b 東寧正面(別紙B参照)
進入してきたソ連軍は2個師団と戦車 1個師団で,東寧東方の国境陣地(勝鬨陣地と郭亮船口陣地)を攻撃し,主力は国境を突破して独立混成第132旅団を攻撃し,
羅子溝の陣地に迫り,一部の戦車部隊は大興溝付近まで進出してこの方面の日本軍の背後に迫る態勢となった。
勝鬨陣地の独立歩兵第783大隊は,ソ連軍に損害を与えて8月下旬の停戦命令受領まで陣地を確保したが,郭亮船口陣地の独立歩兵第786大隊は,
ソ連軍によって陣地を破壊されて全滅した。第128師団は,羅子溝南側の完勝山陣地で13,14日の両日激戦を交え,多くの損害を受けて樺皮甸子東方の陣地に後退し,
16日戦車部隊の攻撃を受け,応戦して損害を与え,戦闘停滞のうちに停戦に至った。輜重隊(軍需品補給・陸上輸送隊)は,背後から迫ったソ連軍と戦い,
ソ連軍を停戦まで大興溝付近に阻止していた。独立混成第132旅団は,東寧から後退途中,ソ連軍戦車部隊から攻撃を受けて損害を出したが,
大?廠陣地においては,穆稜方面から進攻してきた戦車部隊を撃退して停戦まで戦闘を続けていた。
c 牡丹江正面(別紙B参照)
ソ連軍が機甲軍団と2個師団以上で攻撃の重点を向けたところで,その一部が国境陣地を攻撃し,主力は綏芬河南北から国境を越え,
12日朝には穆稜−牡丹江街道に沿う地区から第124師団の主陣地に攻撃を開始し,13日夕には四道嶺東側に進出し,
他の一部は八面通−樺林道を進んで13日に樺林に進入し,14日には掖河陣地への攻撃を開始した。日本軍が15日夜に牡丹江左岸に撤退するのに追尾し,
16日に主力が牡丹江南側の海浪橋,一部が掖河橋及び樺林橋を経て牡丹江に進入し,更に一部は南方の寧安−敦化道方面及び北西の横道河子方面に前進を続けた。
また,ソ連航空隊は,地上軍と呼応して日本軍の第一線と後方を爆撃し,特に15,16日は牡丹江市及びその西方道路,鉄道に対して猛烈な爆撃を行った。
国境の観月台陣地を守備した第124師団歩兵第273連隊第三大隊は,8日夜からソ連軍の攻撃を受け,
多数の損害を出してわずかに一部の者が脱出後退し得た状況(10日に失陥)であり,綏芬河の天長山陣地を守備した歩兵第271連隊第三大隊は,
同地の一般邦人をも収容し,約 1週間の激闘の末,逐次陣地を破壊されて15日に全滅した。綏陽付近にあった第124師団の残留部隊,陸軍病院,
補給諸部隊等は撤退途中に綏陽付近及びその西方地区でソ連軍に追及され,多数の損害を受けて分散後退した。穆稜付近の第124師団の主力は,
12日朝からのソ連軍の攻撃を当初は撃退していたが,逐次火砲が破壊されて後退し,13日には多数の損害を出しながら戦闘を続け,15日に小豆山の線を攻略され,
主力は寧安・東京城方向へ,一部は牡丹江方向へ後退して停戦となった。後退の際,多くの小部隊に分散した日本兵は各所でソ連軍と衝突して多くの損害を出した。
八面通西南側の陣地を占領していた第126師団は,10日夜,主力を掖河に転進する命を受け,12日夜には四道嶺西側の牡丹江街道南北の線に陣地占領し,
14日からのソ連軍の攻撃を迎えた。14日同陣地は奪取され,15日は早朝からの砲撃で火砲が全部破壊されたが,
ソ連戦車に対する肉迫攻撃を反復してソ連軍を撃退した。同日夜,撤退の命を受けて師団の主力は16日までに牡丹西側地区に集結したが,
歩兵第278連隊には撤退の命が伝わらず,同連隊は16日孤立してソ連軍と戦闘し,大損害を受けて残存者は寧安及び横道河子方向へ分散後退した。
第135師団は,七星に陣地占領していたが,10日夜から主力が掖河に後退し,13日夕までに掖河北側高地に陣地を構え,同日,ソ連軍戦車の攻撃を受け,
14日以降も戦車を中心としたソ連軍と戦い,15日夜から翌16日朝にかけて牡丹江西側に集結した。牡丹江西側に集結した第126師団と第135師団の主力は,
ソ連軍の爆撃を受けつつ17日に横道河子に到着し,同日夕停戦命令を受けた。この間の損害は極めて大きかった。
d 東安正面(別紙A,B参照)
林口,平陽,東安,虎林など,虎林線(鉄道)沿線には第135師団の約半数,第126師団の一部,軍直属部隊の一部,幹部教育隊等が駐屯し,
国境には監視部隊のほか,虎頭に第15国境守備隊が配置されていた。
ソ連軍は,約2個師団で第15国境守備隊の虎頭陣地を包囲攻撃するとともに,約 1個師団で平陽−東安の中間から進入し,11日平陽で虎林線を遮断し,一部が勃利,
林口に向い,また,八面通正面のソ連軍の一部は,13日に林口付近に達し,さらに七星方向に南下した。
第15国境守備隊は,虎頭にいた邦人を陣地内に収容して10数日間戦闘を続け,玉砕した。
後方への移動の命令を受けた各部隊は,虎林線に沿い林口を経て南下するもの,勃利を経て図佳線に沿い南下するものに分かれたが,
交通路へのソ連軍の爆撃や鉄道遮断により混乱し,後退中にソ連軍や反乱した満軍等の攻撃を受け,部隊は分散して多数の落伍生死不明者を生じた。
これらの部隊には停戦命令が伝わらず,あるいは停戦を信じないでソ連軍の警戒線を横道河子付近で強行突破して更に南下したものが少なくなかった。
e 佳木斯正面(別紙B参照)
この正面には第一方面軍直属の第134師団が配置され,富錦及び鶴岡の陣地にそれぞれ歩兵 1個大隊を配し,その一部が黒竜江岸の国境監視に任じ,
師団主力は方正東方にいた。
ソ連軍は,鶴岡方面では,国境監視隊を撃破して13日に鶴岡に,15日には佳木斯対岸の蓮江口に進入し,鉄道を遮断して松花江の鉄橋を占領した。
富錦方面では,艦隊が松花江を上って10日に富錦陣地を攻撃占領し,さらに松花江をさかのぼって15日に佳木斯に達し,17日には依蘭に上陸し,
20日に方正付近に進駐した。鶴岡陣地の部隊は,国境から後退する部隊を収容し,主力と合流するために南下したが,途中ソ連軍の攻撃を受けて進路を変更し,
28日南叉に達して停戦を知った。富錦陣地の部隊は,10日にソ連軍と戦闘した後,16日に同地から撤退を開始し,方正で主力と合した。
松花部隊の 1個中隊は蓮江口で南下してきたソ連軍と交戦し,多くの損害を受け,綏化を経てハルピンまで後退して停戦となった。
佳木斯に残留していた部隊及び富錦方面の部隊が後退する際,依蘭付近及びその東方付近で反乱満軍及び住民から受けた損害は極めて大きかった。
方正付近にいた師団主力は戦闘するに至らずに停戦となった。
f 敦化地区(別紙A,B参照)
この地区は第 1方面軍直轄の第122師団が鏡泊湖東側に陣地を占領し,第139師団が敦化周辺などに待機していた。
牡丹江正面を突破したソ連軍の一部が寧安方面から前進して17日に敦化に進入した。第122師団と第139師団は,戦闘することなく停戦を迎えた。
g 孫呉正面(別紙A参照)
チチハルに司令部を置いていた第四軍に属する第123師団と独立混成第135旅団が?琿南側に陣地を設け,それぞれ黒竜江岸に監視隊を配置していた。
ソ連軍は,3個師団と戦車2個旅団で9日夜に一部が黒竜江を渡河し,監視隊を攻撃し,主力が11日から主陣地を包囲攻撃した。
日本軍の前方拠点であった勝武屯の陣地では歩兵第269連隊の第 1大隊が12日に戦闘し,同じく相模山陣地の同第3大隊は14日孫呉に後退中にソ連軍と戦闘し,
両隊とも大きな損害を受けて南方に後退した。師団主力は挺身隊を派遣してソ連軍の前進を阻止しようとしたが,15日にソ連軍が孫呉に進入し,
これに対する反撃を準備中に停戦となった。独立混成第135旅団は,11日夜以降,?琿南側の主陣地でソ連軍と戦闘を続け,
20日に停戦命令を受領するまで陣地を確保した。
h ハイラル正面(別紙A参照)
第四軍は,大興安嶺陣地に第119師団,ハイラル及び満州里付近にそれぞれ独立混成第80旅団の主力と一部を配置し国境線には監視隊を派遣していた。
ソ連軍は,9日,満州里正面,三河地区,ボイル湖付近の3方面から2,3個師団と戦車 1,2個旅団で越境し,9日夕にはハイラルに進入し,
10日から日本軍の陣地を攻撃し,鉄道線路に沿って進撃し,15日に大興安嶺の主陣地への攻撃を開始した。
満州里付近及び三河地区等の部隊は開戦とともにハイラルに向かって撤退したが,多くの損害を出した。
ハイラル周辺の陣地の第80旅団は多くの損害を受けたが,18日に停戦となるまで陣地を保持した。第119師団の歩兵第254連隊第3大隊は12日牙克石の前進陣地で,
第80旅団の独立歩兵第585大隊は14日鳥諾爾の陣地でそれぞれソ連軍と戦闘し,大きな損害を受け,札蘭屯に後退して停戦となった。
第119師団主力は,15日から大興安嶺陣地でソ連軍の攻撃を受け,歩兵第254連隊が戦闘中の16日に停戦となった。
i チチハル及びハルピン地区(別紙A参照)
この地区は第四軍の後方地区で,第149師団をチチハルに,独立混成第131旅団をハルピンに配置し,その北方の嫩江に独立混成第136旅団を配置し,
ソ連軍に備えていたが,14日に第149師団がハルピンへ転進を命じられ,いずれも交戦することなく終戦を迎えた。
j 西方正面(別紙A参照)
第3方面軍の第四四軍の第107師団が五叉溝付近に,第117師団が? (*さんずいに兆)南付近に,第63師団を通遼付近に,独立戦車第9旅団を四平に配置し,
国境監視隊を派遣していた。
ソ連軍は,9日に3方面から満蒙国境を越えて進入し,第107師団の歩兵第90連隊の主力は開戦とともに阿爾山から五叉溝へ後退し,
途中急追するソ連軍と交戦して相当の損害を受けた。その後,師団は第三〇軍の指揮下に入り,新京への後退集結を命じられ,列車や自動車,徒歩で行軍したが,
途中追撃してきたソ連軍と戦闘し,多くの損害を出して分散し白阿線(鉄道)以北の地区に後退した。師団主力は,
24日に号什台付近(興安北方約80q)でソ連軍約 1個旅団と遭遇し,翌25日まで交戦し,離脱後,28日に音徳爾(号什台東方約50q)に到着して停戦命令を受けた。
その他の分散小部隊は,主として新京方面に,一部はチチハルやハルピン方面に後退したが,途中,ソ連軍,反乱した蒙古軍又は住民の攻撃を受けて多くの戦死,
生死不明者を出した。第117師団は,新京に集結するよう命じられ,12日に? (*さんずいに兆)南付近を出発し,その後停戦を迎えた。第63師団及び独立戦車第9旅団も交戦することなく,
停戦を迎えた。
k 熱河正面(別紙A参照)
この正面は第3方面軍直轄の第108師団であり,一部は赤峰に位置してソ連軍の進入に備え,主力は承徳付近で八路軍の討伐にあたっていた。
ソ連軍は外蒙騎兵 1個師団で西ウジムチンから林西−赤峰に進入し,師団は,10日,錦県−阜新の線に後退するよう命じられ,
15日,さらに遼陽へ後退するよう命じられ17日に同地に到着して停戦となった。しかし林西に派遣されていた歩兵第241連隊第5中隊は,後退の命令が到着せず,
12日に同地でソ連軍と交戦して損害を受けて後退し,退却中の18日,景山(林西南東約70q)付近でソ連軍に追及されほぼ全滅の損害を被った。
l 中南満地区(別紙A参照)
新京,四平,奉天,撫順,遼陽,安東,通化,臨江の各地では第3方面軍の主力が配置され,戦闘準備中に停戦となり,
現地応召者等の解散又は自由行動に移ったものが多かった。
(イ) 日ソ開戦に伴う満州在留邦人の行動
a 東満方面
(a) 三江省
撫遠等国境の邦人は撤退ができず,多くが戦闘によって死亡又は自決した。佳木斯市及び鉄道沿線のものは,8月10日から鉄道により,
また一部は松花江を船により綏化,ハルピン,長春に避難した。奥地の邦人は徒歩で佳木斯に向かう途中,ソ連及び現地人の攻撃のため多くの死亡者を出し,
佳木斯以南に避難できたものはわずかであった。佳木斯南方地域にあった開拓団は,徒歩で依蘭,方正に向かったが,
土匪(反日武装集団)のために全滅的な打撃を受け,集団自決をしたり,ようやく方正に到着し得たものが方正周辺に分散して越冬した。
(b) 東安省
鉄道沿線の邦人は列車によって牡丹江,ハルピン,長春,瀋陽までも避難できたが,鉄道を利用し得ない開拓団に対しては,
徒歩にて勃利経由横道河子以南に後退するよう軍及び省の命令が出された。虎頭の邦人は軍の陣地に収容され,激戦の末軍隊とともに玉砕した。
国境に近い開拓団もソ連軍の攻撃により大半が全滅した。避難行動に移ることのできた邦人群は,県長,市長,団長の指揮の下,虎林線に沿い,
または宝清−勃利−ハルピン道に沿って避難を開始したが,途中,東安駅での軍用弾薬の爆発,ソ連軍の爆撃・砲撃や機銃掃射,長距離の避難の間の病死,
戦車による攻撃,土匪の攻撃など,佐渡開拓団跡におけるソ連軍の砲撃など著名なものをはじめとして無数の事件により多数の死亡者・行方不明者を出した。
避難した主力はヤブロニー,ハルピンを経て長春に,一部は敦化,吉林を経て長春,瀋陽に,また,東京城を経て延吉に到着し,それぞれ越冬した。
中南満まで避難できずに勃利付近で越冬した邦人群もあった。
(c) 牡丹江省
東寧正面では列車で避難したものは延吉へ,徒歩のものは山中を東京城に出た後四散して個別の行動をとった。
綏芬河正面では約400名が列車で避難したが,他は天長山陣地に収容され,軍とともに玉砕した。徒歩で牡丹江に出たものは牡丹江から列車でハルピン,長春,
瀋陽へ避難して越冬した。これらの避難行動中,爆撃,ソ連軍や土匪の攻撃により多くの死亡者を出した。
(d) 間島省
開戦と同時に国境付近の邦人はまず琿春に集結して延吉へ,後方地区の邦人は山間部で現地にとどまったもの以外は延吉へ向かって避難した。
この間,図們駅で避難列車の爆撃により約300名が死傷した。終戦後の延吉には北部から多数の避難民が到着し,当時集まった避難民は2万7000名といわれ,
その一部はさらに吉林,長春方面に避難した。延吉市の混雑はその極に達し,食糧不足のため省内の邦人既住者と開拓団員は,
ソ連軍の命令により老人病弱者などを残して自宅及び団地に帰り,難民を延吉市内の収容所及び民家に収容した。
このほか北鮮で逮捕された邦人,警察官,司法官,行政官等約3500名及び多数の軍人が平壌,興南方面から送りこまれて延吉に収容された。
b 北満方面
(a) 黒河省
開戦と同時に在郷軍人は全員臨時召集されて防衛任務につき,その他の邦人は鉄道沿線のものは列車を利用して北安,ハルピン,長春に退避することができたが,
交通不便な地にあったものは集団となって小興安嶺を越えて南下し,途中,ソ連軍,満軍,オロチョン族等から攻撃を受け,また長途の難路のため病弱者,老人,妊婦,
幼児等は途中に残置する惨状のもと,40余日を費やして孫呉,北安,嫩江に到着越冬した。一部のものは,さらにハルピン,チチハル,長春,瀋陽に南下した。
黒河街は,入ソする者(捕虜)やシベリアより満州への病弱者を逆送するための中継点となり,多くの死亡者を出した。
(b) 北安省
終戦に伴い,省の北部及び黒河省からの邦人は北安,嫩江に集結し,省南部の邦人は綏化に集結した。
これらの邦人は三江省からの多数の難民とともにさらにハルピン,長春,瀋陽,チチハルに南下したが,現地で越冬を余儀なくされたものも少なくなかった。
開拓団員や義勇隊員等で軍人とともに強制的に入ソさせられた者が多かったが,その大部分は非軍人であることが逐次判明し,北安に送り返された。
c 西北満方面
(a) 興安北省
国境の満州里市は開戦と同時にソ連軍の進入を受け,国境警備隊員及び鉄路警護隊員はほとんど全員戦死し,その他の邦人は退避するいとまなく全員抑留の後,
男子はソ連領に送られた。婦女子は10月に入りようやくハルピンに送られ,一部はさらに長春,瀋陽に南下した。
ソ満国境の小都市の邦人は,興安嶺を越え,途中,オロチョン族や白系ロシア人の襲撃のため死亡者を出しつつ嫩江市に到着した。
ハイラル市付近の邦人は,9日の爆撃と同時に避難命令が出され,同日中にチチハル,ハルピン市方面に避難を完了したが,爆撃により相当数の死者を出した。
警察隊員とその家族はハイラルの軍陣地に入り,軍とともに10日間にわたりソ連軍と交戦し,多数の戦死者を出し,婦女子の多くは自決し,その他のものはチチハル,
ハルピンに向かって避難した。
(b) 興安東省
鉄道沿線の邦人はチチハル及びハルピンへ避難したが,一部の開拓団は団地に残留し,現地住民の襲撃を受け悲惨な最期を遂げた。
残余の開拓団は札蘭屯,チチハル,嫩江に集まって越冬した。
(c) 興安中省
かねての計画に基づき,省の北部を経て長春に避難したが,興安街邦人の一団は東進するソ連戦車部隊に追及され葛根?で多くの死亡者を出した。
また,東京荏原郷開拓団は,新京に向かう途中,土匪の襲撃を受け,ほとんど全滅した。
d 西南満方面
(a) 興安南省
11日の引揚命令により同日夕から12日にわたり列車で瀋陽,通化方面に避難した。奥地のものは集団で徒歩で後退したが,途中,蒙古軍や暴民のため迫害を受け,
全滅したもの,行方不明となったもの,自決するもの多数の犠牲者を出しつつ,新民,瀋陽,阜新に到着した。
(b) 興安西省
婦女子のうちにはトラック,バス等により赤峰又は阜新を経て安東に到着したものもあるが,徒歩で東方に向かった邦人群は,途中,
ソ連軍及び土匪のため随所で攻撃を受け,自決,全滅,行方不明等多数の犠牲を出しつつ長春,鉄嶺,安東に到着した。
(c) 熱河省
ソ連軍の進入が遅かったため,邦人の大部分は無事に安東,錦州,瀋陽へ,一部は北京に避難した。
北支の遵化に分駐していた日系一心隊員約50名は,満系隊員の反乱によりほとんど全員が殺害された。
e 中南満地域
浜江省,竜江省では,ソ連軍,満軍及び暴徒等のため邦人のうちに多くの死亡者が出た。
長春においては,関東軍は,邦人を一般市民,国策会社,官,軍の順序で避難させることを満州国政府側に要請するとともに,10個列車を用意し,
その第 1列車は10日夕に長春駅を出発し得るように準備した。しかし,軍人軍属の家族から輸送を開始し,次いで満鉄職員の家族,一般邦人の順に出発させた。
これらの避難者は主として平壌に向かい避難した。
その他の中,南満の省では開戦直後に一部の者が安東,平壌,大連地区に南下したが,終戦に伴い逐次既住都市に復帰したものが多かった。
また,約 1万人が安東より海路仁川に向かって脱出し,日本に帰国した。
(ウ) 関東軍の武装解除と日本人のソ連領への移送
a 昭和20年(1945年) 7月26日,米国,英国及び中華民国政府は,日本政府に対して,
直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言する等の要求をしたが(8月9日に対日宣戦布告と同時にソ連がこれに加わった。),これに対して,
日本政府は,同年8月14日,日本国の利益代表国であるスイス国を通じて,上記4か国にその要求を受諾する意思を通告した。
翌15日,終戦の詔書が発布され,その内容は昭和天皇が自らラジオで放送した。そして,同日,天皇は,参謀総長を通じて,陸軍の各方面司令官に対し,
「各軍ハ別ニ命令スル?各々現任務ヲ続行スヘシ但シ積極進攻作戦ヲ中止スヘシ」との命令(大陸命第1381号)を発したが,同月16日,
米国政府及び連合国最高司令官から旧日本軍の戦闘行動停止を命ずる通告がされたため,天皇は,全陸海軍部隊に対し,
やむを得ざる自衛のための戦闘行動以外の戦闘行動を停止することを命ずる停戦命令を発令した(大陸命第1382号,大海令第48号)。
大本営は,大陸命第1382号に基づき,8月16日,関東軍に対し,「戦闘行為停止のためソ軍に対する局地停戦交渉及び武器の引渡等を実施することを得」と指示し,
関東軍総司令部は,翌17日早朝,隷指揮部隊に対し,「一 総司令官は承詔必謹,挙軍一途,万策を尽くして停戦を期する。二 各司令官(部隊長)は左に準拠せよ。
(一)速やかに戦闘行為を停止し,おおむね現在地付近に軍隊を集結。大都市にあってはソ連の進駐以前に郊外の適地に移動。
(二)ソ連軍の進駐に際しては,各地ごとに極力直接交渉によりその要求するところに基づき武器その他を引き渡す。
(三)破壊行動は一切行わず。
(四)満軍(警)の反乱その他により不覚をとらざるごとく注意。
(五)兵力集結予定位置に速やかに糧秣を集積。
(六)満州側とも連係し極力居留民を保護。」(関作命第106号)などを内容とする命令を発電し,翌18日,
各方面軍及びその直属軍の参謀長を新京に集め(総司令部は11日に新京から通化に移転していたが,終戦情報に接して14日には首脳部は新京に戻っていた。),
停戦及び武装解除に関する関東軍命令を伝達した。しかし,移動中又は戦闘中の部隊や連絡のできない部隊へのこの命令の伝達は困難であり,
8月下旬に至って終戦を知った部隊もあった。この停戦命令は将兵に大きな衝撃を与え(建軍以来初めての降伏であった。),責任を痛感して自決する幹部,
火砲とともに自爆する将兵等も少なくなく,また,現地応召者について召集解除をした部隊もあったが,ソ連軍に降服するのを潔しとせずに部隊から脱退する者も多かった。
関東軍は,8月17日,ソ連軍と停戦協定の交渉をするため,秦参謀総長をハルピンに送ったが,
対日作戦軍総司令官ワシレフスキー元帥はソ連側から期日を指定するとして交渉を拒否し,同月19日,
ジャリコーウォのソ連軍極東第 1方面軍司令部で停戦交渉が開始され,@武装解除に際し都市等の権力も一切ソ連軍に引き渡す,
A後方補給のため,局地的のものを除き,軍隊,軍需品の大なる移動は行わない,
B日本軍の名誉を重んじ,軍人に階級章を付し,また帯刀(剣)を許可するほか,武装解除後も将官に副官を付し,かつ将校全部に当番兵の使用を認める,
C満内の要地に対してはソ連軍の進駐まで日本軍が警備を担任し,ソ連軍の進出後日本軍は自体の武装を解除する,
D関東軍総司令部は全軍隊の武装解除後解体する,この間,通信機関,連絡のための飛行機,自動車の使用は支障なく,また要求ある場合ソ連軍の飛行機を貸与する,
E武装解除後の日本軍隊の給養は自体において実施する,食糧運搬の自動車使用及び給養定額は概して現在どおりとする,
Fその他(省略)との停戦協定が成立した。また,この際,秦中将は,特に「日本軍の名誉を尊重されたいこと」
「居留民の保護に万全を期せられたいこと」の2点を強く申し入れ,ソ連側(4元帥 1提督)の快諾を得た。
しかし,現実には,ソ連軍は各方面で無統制に武装解除を実施し,交通通信を遮断し,入ソのための作業大隊の編成の際に関東軍の指揮組織を破壊したので,
関東軍は意図していた武装解除が不可能となり,部隊の掌握も困難となった。ソ連軍は関東軍による戦場地域の整理を否認したため,死傷者の収容加療,
行方不明者の捜索その他の戦闘後の後始末を全く実施することができなかった。
8月19日にザバイカル軍管区司令官ガバリヨフ大将が新京(長春)に飛来し,在新京部隊の武装解除がされ(通信機関を差し押さえて遮断し,交通制限もした結果,
総司令部の機能は停止した。無線による東京との連絡のみが可能であった。),翌20日,同大将は関東軍総司令部に入って,
山田乙三総司令官及び秦参謀総長から停戦全般の状況と居留民の状況について説明を受けた。
日本側から越冬準備ができていない事情を指摘してソ連側の善処協力を要請したのに対し,ソ連側は率直な態度で応諾の意を示した。
9月3日に前記ワシレフスキー元帥が新京に入り,総司令部で山田総司令官から停戦・武装解除の進捗状況などについて説明を受けた。
その際,山田総司令官は,一般居留民に対するソ連側の好意ある取り計らいを懇請し,同元帥は理解ある態度を示したが,
現実にそれについて何らかの措置がとられた形跡はみられなかった。9月5日,ソ連軍は関東軍総司令部の武装解除をし,書類等の接収をし,山田総司令官,
秦参謀総長以下の主な将官,淺田(情報),草地(作戦)両大佐,瀬島・朝枝(いずれも作戦)両中佐を空路ハルピンに一泊した後ハバロフスクに移送した。
既に8月20日に第3方面軍の,23日に第 1方面軍の各首脳が入ソさせられていた。
b 満州,北鮮等において終戦を迎えた日本軍は,おおむね8月末までに武装を解除され,ソ連軍の命令によって逐次各地に集結収容され,ソ連軍の管理下に置かれた。
この間,離隊する兵員も多く,特に満州,北鮮では現地に家庭を持つ現地応召者で家族を求めて離隊する者が続出した。
ソ連軍は,一般の邦人に対して日本人であることを理由に逮捕することはなかったが,
武装解除後に集結収容した軍人の人員が部隊の編入人員に照らして不足する場合は,市民のうちに逃れた軍人や兵役年齢の邦人男性を拉致して人員の充足を図った。
このほか,日系満州国官吏,同協和会役員,朝鮮総督府等の官吏,警察官,重要な職域の幹部らもソ連軍によって逐次逮捕され,これらは,ソ連兵や現地住民の掠奪,
暴行とあいまって終戦後の邦人に極度の不安を与えた。作業大隊に編成されて東満州からソ連領に移送された人員は約21万人,北満州からのそれは約7万4000人,
中・南満州からのそれは約15万2000人,作業大隊に編成されないでソ連領に移送された人員は合計約5700人であった。
これらの大部分は8月下旬から昭和20年(1945年)末までにはソ連領に送られた。
なお,ポツダム宣言第9項には「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」とあり,
ソ連もこれを前提に日本に宣戦布告し,日本もこれを前提として降伏したのであるが,関東軍はじめソ連軍占領管理下の軍人がなぜその後シベリア等に抑留されたのか,
その理由・経緯は証拠上明らかでない。
(エ) 満州における日本人の越冬状況
a 三江省
佳木斯市では,国境付近の住民及び開拓団から避難してきた日本人約400人が越冬し,越冬期間中に約260名が発疹チフス及び栄養失調で死亡した。
この間,健康な者はソ連軍及び八路軍により強制労働が課せられた。
依蘭では,樺川から避難した開拓団員及び県内開拓団員の一部約1400名以上が越冬し,約700名以上が死亡した。婦女子で満人の妻になったものが多かった。
通河県では約3000名の開拓団員が越冬したが,匪賊の襲撃,発疹チフス,再帰熱,栄養失調等で極めて多くの者が死亡し,約200名以上の者が満人の妻となった。
方正県では佳木斯以南の地域にあった開拓団員が避難して混雑を極め,約6000名から8000名が越冬し,伊漢通収容所,興農合作社,水利組合倉庫等に収容された。
伊漢通収容所では所持品の大部を掠奪され,暖房,医療の設備もなく,全員栄養失調と伝染病に悩まされ,
伊漢通開拓団本部に収容された約2000名の約半数が死亡した。婦女子は満人の妻等になる者が多く,子供を満人に託す者も続出した。
満人の妻等になった者は約2000〜2500名,死亡者は2500名以上と推定された。
b 牡丹江省
牡丹江市では,難民等を加えた残留日本人は昭和20年(1945年)12月で約450名で,その3分の 1が女子であった。
その後,奥地から避難してきた者やソ連の収容所から解放された者を加えて昭和21年(1946年) 3月末には日本人は約1200名となった。
そのうち600名は満人及び鮮人宅に寄寓し,他は集団生活をしていた。牡丹江では,牡丹江日本難民救済委員会が組織され,満人,鮮人の協力が得られたため,
死亡者は約300名前後にとどまった。
東京城付近一帯には約3000名が越冬したが,多くは難民で街公署からわずかな食糧の配給を受け,農家の日雇等をして生計を立てていたが,
逐次収入の途を失って死亡する者が多く,その数は1000名に近いといわれた。また,生活手段のない者で満人家庭に入る者も多かった。
c 間島省
延吉市では,小学校,教会,民家等に分かれて約 1万7000名の日本人が越冬し,栄養失調,発疹チフス,コレラ等により,幼児の大部を含んで約5000名が死亡した。
竜井街では,約3000名が越冬して五百数十名が死亡した。
図們街では,約2000名が越冬して約200名が死亡した。
琿春街では,約5800名が越冬し,炭鉱夫や農家の手伝いなどで生計を立てていたが,約1000名が死亡した。
安岡県では,約1000名が越冬したが,治安が良好なため強制労働や農業に従事して生活することができ,死亡者は約250名であった。
d 黒河省
邦人の多くは北安に南下避難したため,越冬者はなかった。前記のとおり,入ソ作業大隊の中継地点であったため,残留される者,逆送される者などが滞留し,
昭和21年(1946年) 3月時点で約三千数百名に達した。
e 北安省
北安街で約200名が越冬した。
嫩江街で昭和20年(1945年) 12月末で約1300名が越冬し,約6000名が死亡した。この間,満人の妻となる者もあった。
通北では約1700名が越冬し,死亡した者約300名,満人の妻となった者50名以上であった。
f 興安東省
札蘭屯では避難してきた約1000名が越冬し,約300名が死亡した。
g 興安中省
興安嶺とその周辺では100余名が越冬したが婦女子が多かった。
h 竜江省
チチハル市では,既住の住民と周辺からの難民約2万7000名を合わせて約5万名が市中の体育館,官吏会館,映画館,軍倉庫,料亭,学校,会社社宅,官舎,
市民住宅等に収容されて越冬し,栄養失調,発疹チフスにより約3500名が死亡し,4000名近い行方不明者があった。
甘南県では,約5000名が現地で越冬したが,約700名が死亡し,約百数十名が満人の妻となった。
i 浜江省
ハルピン市では,避難民で定着した者が約8万8000名に達し,市内300か所以上の場所に収容され,既住者約7万3000名とともに越冬したが,
ソ連兵や満人による掠奪暴行,食糧や燃料不足により生活は悪化した。昭和20年(1945年) 9月上旬,日本人居留民会(11月以降は日本難民救済会)が組織され,
難民の救済が開始されたが,無料救済は10月中旬に停止され,日本人は,物売り,下僕,職工,自由労務者,農業労務者等として自活の途を求めることに努めたが,
越冬期間中に凍死,栄養失調,発疹チフス,肺炎等による死亡者は難民 1万2000名,既住者3000名と推定された。
j 長春(新京)市及び吉林省
既住者と他方面からの難民約12万名の合計約二四,五万名が越冬した。市は,終戦とともに進駐したソ連軍のほか,中共軍と国民政府軍の争奪の目標となり,
その戦闘によって日本人の越冬生活は困難の度を加えた。日本人会の食糧配布や防疫活動にもかかわらず,栄養失調や発疹チフス等の伝染病の流行によって,
3万1000名以上の死亡者が出た。
吉林市では,約2万4000名の既住者と市内17か所の収容所に収容された避難民と合計約4万2000名が越冬した。
日本人会が組織されたが,食糧不足,伝染病の発生により,約4000名が死亡した。
敦化街では,約 1万7500名が集結し,うち約 1万6000名を吉林方面に送り出し,約1600名が越冬した。
公主嶺市では,約5000名が越冬し,難民の餓死や凍死はなかった。
k 四平省
四平市では,既住者約9000名と避難民 1万7000名とが越冬した。越冬の初期には食糧事情は比較的良好であったが,ソ連軍,中共軍,
国民政府軍の数回にわたる衝突があり,これら軍隊による強制供出により昭和21年(1946年)に入って衣食住が逐次悪化し,約2500名の餓死者,凍死者が出た。
l 奉天省
瀋陽(奉天)市では,避難民7万2000名と既住者を合わせて約28万名以上が越冬した。市民は,終戦後,現地住民の横行掠奪,
ソ連軍による家屋の供出要求等により生活に窮し,学校,官舎,社宅等49か所に収容された多数の難民は悲惨な生活を送った。
昭和20年(1945年) 8月下旬に日本人会が組織されて食糧配給,医療等に活動したが,栄養失調及び伝染病のため,越冬期間に約2万6000名が死亡した。
m 通化省
通化市では,既住者と避難民の合計約 1万5000名が越冬した。食糧が比較的豊富で餓死者は少なかった。ただし,八路軍による家屋立退き,労務の供出が行われ,
さらに,省高官等125名の逮捕処刑が行われたため,
邦人の一部(関東軍内で最後まで抗戦を主張して譲らなかった第125師団参謀長を含む。)は密かに八路軍の省外駆逐を画策し,
昭和21年(1946年) 2月3日早朝を期して,発電所,八路軍司令部,公安局警備隊本部等を襲撃したが,計画が事前に知られて不成功となり,
邦人特に軍人の検挙が全市にわたって行われ,約1200名の日本人が処刑された(いわゆる通化事件)。
n 安東省
安東市では,避難民の出入りが多く,越冬者数は明らかでないが,栄養失調,伝染病,中共軍による処刑等で越冬期間中に約3000名が死亡した。
o 錦州省
錦州市では,既住者約2万名,流入難民約2万名であったが,そのうち約 1万名を10月下旬瀋陽に向けて疎開させた。
暴民の掠奪,中共軍,国民政府軍による住宅,食糧の供出等により,邦人の生活は困難であったが,死亡者は比較的僅少であった。
ウ 日本人孤児の発生
前記認定のとおり,開拓民その他の満州の在留日本人は,日ソ開戦後,避難を開始し,鉄道沿線の都市にあった邦人の一部は,列車を利用して,
避難できた者もあったが,大部分は,徒歩での避難を余儀なくされた。そして,根こそぎ動員の結果,
開拓団における青壮年の男子の人口は極端に減少していたこともあって,老幼婦女子を中心とする開拓民の避難行動は困難を極め,ソ連軍の攻撃のほか,
満州国軍や中国人等の襲撃により多くの死亡者が出た。また,ソ連軍による辱めを潔しとしない開拓団においては,集団自決により多数の死亡者を出したところもあった。
満州における戦闘は,8月末までには終息したが(戦闘期間中に死亡した軍人軍属は2万6000人以上,邦人3万人以上と推定されている。),在留日本人は,
前記認定のとおり,逃避行の末に定着した避難地においても,無警察状態の下,ソ連兵や中共軍,国民政府軍,現地住民からの強制供出,強制労働,掠奪,
暴行にさらされ,衣食住,燃料,医薬いずれも不足のまま零下30度から40度という厳寒の満州において,越冬をしなければならず,前記のとおり,
栄養失調や伝染病及び寒さ等により死亡した。この越冬期間内の残留邦人の死亡者は,昭和20年(1945年) 12月末までに約9万人,
昭和21年(1946年) 5月までに累計で約13万人,軍人軍属を含めると約14万人に及んだとされる。なお,中国人による襲撃は,ソ連が参戦してすぐには顕著ではなく,
日本の降伏が知られてから広がった。その主体は,@満州国軍の将兵,A警察官や県職員など満州国の権力機構の構成員,Bアウトロー集団,
C暴徒化した民衆などであり,@がB,Cを率いることが多かった。日本の降伏が周知された後,反日傾向の強い者が態度を豹変させ,
普通の農民部落の指導者を指導,教唆して掠奪暴行に駆り立てた。局地的に新勢力が結成されると,
直ちに武器と資金を獲得する目的で開拓団に対して武器の引渡し要求と財産の没収を行い,武器がないと見ると一般暴民が開拓団員の個人財産,被服,
身回品等を目指して掠奪に走った。
上記のような悲惨な状態の下,自己の生存さえもままならない在留日本人の母親にとって,乳幼児を抱えての逃避行は至難の業であり,
やむを得ず乳幼児を殺害したり,現地の中国人に預けたりせざるを得なかった。運良く避難に成功しても,厳寒の満州の越冬に耐えられない幼い子女は,
中国人に預けられた。逆に,逃避行又は越冬生活により肉親を失い,子女のみが生き残って最終的に中国人に引き取られた例も多かった。
このように,残留邦人の子女は,肉親と生き別れ,又は,死別し,満州において孤児となった(約2500名以上と推定されている)。
また,残留邦人の中には,生きる術を求めて,現地の中国人の妻となる者も多かった(約4000名と推定されている)。終戦後,日本政府は,
終戦時13歳以上の在留日本人についてはいわゆる残留婦人として,終戦時13歳未満のいわゆる残留孤児とは区別して取り扱った。
原告らは,別表原告ら一覧表記載のとおり,いずれも終戦時13歳未満のいわゆる残留孤児である。
日本政府は,前記のとおり,同月14日,無条件降伏を受諾する意思を通告し,
翌15日に天皇による終戦の詔書が発布されたが(正式に降伏文書が調印されたのは同年9月2日の戦艦ミズーリ上でのことであり,
法的にはそのときまで戦争状態が継続している。),日本政府は,同月14日,外務大臣名で満州国等の在外公館に対して訓令を発し,
在留日本人はできる限り現地に定着する方針を執る旨伝えるなど,終戦の詔書が発布された直前及び直後の段階においては,将来の再興・復権を考慮して,
日本人を現地に残置するという極めて楽観的な方針・計画を有していた。
エ 本件の原告らが孤児となった状況
(ア) 原告X01(原告番号1・身元判明)
原告X01の家族は,牡丹江市の陸軍官舎にいたが,日ソ開戦後,軍用車で寧安の更に南方の鏡泊湖湖畔の軍陣地に移り,軍の武装解除後,
同原告の母が5人の子を連れて,昼は山に隠れ夜は鉄路をたどり東京城から牡丹江市に避難し,同市の日本難民収容所で避難生活に入ったが,
その間に乳飲み子であった同原告を知人の中国人に預け,その後別の中国人夫婦の一人娘として養育されることとなり,牡丹江市で育った。
同原告の母は,昭和21年(1946年) 11月,4人の子を連れて帰国した。
(イ) 原告X02(原告番号2・身元判明)
原告X02の両親は,長野県から昭和7年(1932年)ころ渡満し,間島省延吉県図們街で和菓子屋を営んでいた。同原告は昭和12年(1937年) 9月にそこで生まれた。
翌年,母が死亡し,終戦時,父は応召していたが,8月25日に陸軍病院で死亡した。原告と姉妹は延吉の日本人収容所に収容されたが,
連日多数の死者がでる状況において,中国人に引き取られた。
(ウ) 原告X03(原告番号3・身元判明)
原告X03の両親は,北九州市八幡区で銭湯を経営していたが,第9次興隆開拓団の一員として子供3人を連れて渡満し,黒竜江省甘南県に移住し,
同原告は同地で昭和20年(1945年) 4月に生まれた。日ソ開戦後,家族は逃避行を重ねたが,同原告の父は現地の中国兵に銃殺された。
同原告の母は,幼かった同原告を同年末から翌年初めころにかけて,他の日本人に預け,その後,中国人養父母に引き取られた。兄3人と姉2人は帰国した。
(エ) 原告X04(原告番号4・身元未判明)
原告X04は,終戦時4歳で,身元が判明していないので,孤児になった経緯は必ずしも明らかでないが,
東安省林口の満鉄官舎に住んでいて(父は満鉄社員であったらしい。),日ソ開戦後,母と姉2人と弟の5人で避難し,
浜江省葺河県開道村で母から養父母に預けられたらしいことがほぼ明らかになった。
(オ) 原告X05(原告番号5・身元判明)
原告X05は,昭和14年(1939年) 2月,満州国吉林市で生まれた。父は満鉄社員であったが,昭和16年(1941年)に死亡した。
日ソ開戦後,同原告の母は,同原告の2人の姉とはぐれ,同原告を道連れに他の大勢の日本人と集団自殺をしようとしていたところを(通化事件),
八路軍の兵士に助けられ,その兵士と結婚し,その兵士が同原告の養父となった。その後,同原告の母と養父は逃亡生活を続け,昭和24年(1949年)ころ,
吉林省通化市に戻った。同原告の母は,ソ連兵にレイプされたショックと過酷な逃亡生活のためか精神を病み,失明し,昭和35年(1960年)に死亡した。
同原告は,母から日本人としての教育は受けず,一切の養育を受けなかった(むしろ,同原告が母の世話をしていた。)。同原告の2人の姉は,日本に帰国した。
(カ) 原告X06(原告番号6・身元未判明)
原告X06は,身元が判明せず,養父母とも死ぬまで同原告を実子として育てたので,孤児となった経緯は必ずしも明らかではないが,
昭和21年(1946年) 2月ころ吉林省吉林市で生まれ,母から中国人に預けられ,さらに,養父母に引き取られたらしい。
(キ) 原告X07(原告番号7・身元判明)
原告X07は,哈達河開拓団の一員として渡満した両親の長男として昭和13年(1938年) 6月に生まれた。ソ連軍の攻撃により親を失い,孤児となった。
最初に引き取られた夫婦のもとから逃げ出し,その後養われた養母と長年暮らした。
(ク) 原告X08(原告番号8・身元判明)
原告X08は,東安省密山県の哈達河開拓団の一員として渡満した両親の次男として昭和16年(1941年) 3月に同地で生まれた。
同原告の父は,昭和20年(1945年) 2月に応召し,ソ連に抑留された後,帰国した。同原告の母は,日ソ開戦後,ソ連軍の攻撃に遭い,同年8月14日,
日本刀と銃による集団自決(麻山事件)により同原告の3名の兄弟姉妹とともに死亡し,九死に一生を得た原告は,中国人に保護された。
(ケ) 原告X09(原告番号9・身元未判明)
原告X09は,日ソ開戦時,5歳くらいで,両親と妹の4人で黒台開拓団に属していたが,逃避行中に母と妹の消息は不明となり,
同原告の父が同原告を背負って数日間山野を歩き,古城鎮駅にたどり着いた。同原告の父は,そこで中国人の武装集団に襲われて撲殺され,
同原告は最初の養父となった中国人に助けられた。
(コ) 原告X10(原告番号10・身元判明)
原告X10は,昭和18年(1943年) 5月に和歌山県の高野町高野山で両親の五男として生まれ,昭和20年(1945年) 5月,
両親と5人の兄弟とともに開拓農民として渡満したが,同原告の父は同年7月死亡した。日ソ開戦後,同原告の母は,5人の子を連れて避難したが,
同年11月,吉林省敦化県二海道溝で同原告を中国人養父母に預け,その後,4人の子とともに帰国した。
(サ) 原告X11(原告番号11・身元未判明)
原告X11は,身元が判明せず,孤児となった経緯は不明であるが,
両親と兄の4人家族で黒竜江省ハルピン南崗区西大橋にある三角地という満鉄官舎の側の石の家に住んでいた。同原告の父は,ソ連兵に連行され,
母は2人の子を連れて日本人難民収容所に避難したが,毎日餓死者や病死する者が出る中で,同原告(当時4歳くらい)を最初に養母となった中国人に預けた。
(シ) 原告X12(原告番号12・身元未判明)
原告X12は,終戦時 0歳であり,身元が判明していないので,孤児となった経緯は不明であるが,終戦時,両親は吉林省吉林市に同原告を含めて3人の子と住み,
父は日本の特務であったらしい。同原告の両親は骨軟化症で足が悪かった同原告を中国人に預けて,2人の子とともに帰国した。
同原告は,昭和21年(1946年) 3〜4月ころ,養父母に買い取られて養育された。
(ス) 原告X13(原告番号13・身元未判明)
原告X13は,身元が判明せず,終戦時に満州国にいた経緯は不明である。同原告は,終戦時6歳くらいで,軍人であった父と母,
妹と弟の5人で日本軍の後ろについて徒歩で避難していた。ある日,ソ連軍との戦闘後,父は姿が見えなくなり,野宿している際,日本軍の軍人が同原告ら家族を銃撃し,
同原告だけが生き残り,翌朝,ソ連兵に発見・保護され,中国人に引き取られた。
(セ) 原告X14(原告番号14・身元未判明)
原告X14は,終戦時2歳くらいで,身元が判明せず,孤児となった経緯は不明である。同原告の中国人養父母も中国東北地方を放浪した末に吉林省吉林市に落ち着き,
同原告はそこで養育された。
(ソ) 原告X15(原告番号15・身元判明)
原告X15は,昭和14年(1939年) 7月に生まれ,昭和18年(1943年)ころ,両親と母の連れ子である兄と渡満し,黒竜江省北安の伊勢崎郷開拓団に入植した。
同原告の父は,昭和20年(1945年) 7月自殺した。敗戦のころ,母と兄と同原告は,日本人収容所に収容されたが,同年11月母が死亡し,その後まもなく,
同原告と兄は別々に中国人に引き取られた。昭和28年(1953年)ころ,同原告のところに所在不明であった兄が突然訪ねてきて,一緒に帰国することを勧められたが,
これに応じなかった。
(タ) 原告X16(原告番号16・身元判明)
原告X16は,昭和12年(1937年) 8月に生まれ,昭和19年(1944年) 12月ころ,両親,2人の姉,弟の6人で,
北安省克東県第13次集団前橋郷開拓団の一員として渡満した。同原告の父は,昭和20年(1945年) 6月に召集され,敗戦後ソ連軍の捕虜となり,
強制労働等により死亡した。敗戦が明らかになったとき,開拓団長は集団自決を説得したが,同原告の家族は開拓団から逃げ出し,撫順老虎台礦収容所に収容された。
同原告の母は,同年12月,同収容所で栄養失調と過労で死亡した。同原告は,長姉により,養父母となった中国人に預けられた。
(チ) 原告X17(原告番号17・身元判明)
原告X17は,昭和12年(1937年)7月に長野県南牧村で生まれ,昭和18年(1943年),両親と3人の姉とともに千曲郷開拓団の一員として,東安省密山県に入植した。
日ソ開戦後,同原告の家族は避難したが,母と弟がソ連軍飛行機の攻撃により死亡し,哈達河開拓団内の家に子供が集められて集団虐殺された際,姉恭子が殺され,
同原告は頭をナイフで刺されたが生き残った。同原告の父と2人の姉とは生き別れになり,開拓団長の斡旋により,同原告は養父となった中国人に売られた。
(ツ) 原告X18(原告番号18・身元未判明)
原告X18は,終戦時7歳くらいであったが,身元が判明せず,孤児となった経緯は不明である。同原告の記憶では,両親と兄・弟とともに渡満し,敗戦後,
瀋陽市の収容所にいて,母はそこで2番目の弟を出産し,その弟は直ぐに中国人に預けられ,同原告も昭和21年(1946年) 3月ころ,中国人に預けられた。
兄も中国人に一時預けられたが,母は兄だけを連れて帰国し,同原告と2人の弟は中国に残していった。
帰国の別れに際し,母が泣きながら?にキスをしてくれたことを同原告は鮮明に記憶している。同原告は,すぐ下の弟とは会ったことがあるが,家族とは全く音信不通である。
(テ) 原告X19(原告番号19・身元未判明)
原告X19は,終戦時 1歳くらいであり,身元が判明しないため,孤児となった経緯は不明であるが,昭和20年(1945年) 8月,
逃避行中の同原告の母が黒竜江省北安県で同原告を中国人に預け,孤児となった。
(ト) 原告X20(原告番号20・身元未判明)
原告X20は,終戦時3歳くらいであり,身元が判明していないので,孤児となった経緯は必ずしも明らかではないが,
本人は三江省樺川県大八浪又は小八浪の開拓団の一員であったと考えている。終戦のころ,父は家におらず,母が同原告と姉を連れて避難したが,
方正県伊漢通郷河南屯で同原告だけがはぐれてしまい,中国人に拾われ,さらに養父母に預けられた。6,7歳ころ,方正県伊漢通郷河南屯で生活し,
開拓団の建物に住んでいた記憶がある。
(ナ) 原告X21(原告番号21・身元判明
原告X21は,昭和7年(1932年) 8月に生まれ,敗戦時,母,兄,妹2人とともに牡丹江省寧安県?林開拓団にいた。父は敗戦の2年前に病死していた。
日ソ開戦後の避難中,ソ連兵や現地人に襲われ,すべてを奪われ,着の身着のままで瀋陽(奉天)にたどり着き,同地の難民収容所で生活するうちに,末妹が死亡し,
次妹も昭和21年(1946年)1月に「食べ物をあげるから」と言われて満州人についていき,そのままとなった。
同原告は,その後すぐに同じ満州人に「妹に会わせてやる」と言われて連れ出され,その日のうちに別の満州人に売られてしまった。母は,その収容所で死亡した。
(ニ) 原告X22(原告番号22・身元未判明)
原告X22は,終戦時2〜3歳であり,身元が判明していないので,孤児となった経緯は必ずしも明らかではないが,黒竜江省に入植した開拓民の子であったとのことで,
昭和20年(1945年) 8月ないし9月に牡丹江から南に避難してきた開拓団員が集まって吉林省額穆村に一時滞在していた際に,
中国人が乳飲み子であった同原告をもらい受けた。なお,額穆村には何人もの残留日本人がいて,後期集団引揚げで帰国した者や,
日中国交回復前に親族と文通をして一時帰国した者(同原告の養父のもとで同居していたことがあった。)がいた。
(ヌ) 原告X23(原告番号23・身元未判明)
原告X23は,終戦時2歳くらいであり,身元が判明していないので,孤児となった経緯は明らかではない。終戦後まもなくハルピンの難民収容所から養親に拾われたが,
その際に日本語の単語(「くるま」「おにいちゃん」)を話したことや右腕に予防接種の跡があることから,日本人の子であると推定される。
(ネ) 原告X24(原告番号24・身元判明)
原告X24は,昭和11年(1936年)に生まれ,父が昭和18年(1943年)に開拓団の先遣隊として三江省方正県大羅蜜開拓団本部に赴き,翌年7月ころ,
母と弟妹とともに渡満して,同開拓団に入植した。父は,昭和20年(1945年) 5月に召集され,その後死亡し,母も父が召集されて 1週間も経たないうちに病死した。
同原告と弟妹は同開拓団で面倒をみてもらっていたが,終戦時,同原告は逃避行の末,収容所に収容され,中国人養父母に引き取られた。
(ノ) 原告X25(原告番号25・身元判明)
原告X25は,昭和10年(1935年) 7月に長野県木曽郡で生まれ,昭和14年(1939年)10月,祖母,父母,姉,弟とともに三江省華川県に読書開拓団として入植し,
同原告の叔父とともに栄安屯に居住していた。敗戦後,同原告の家族は馬車に米と荷物を積んで列車で帰国するためにアイジャー駅にたどり着いたが,
列車には日本軍兵士が乗って,同原告らは置き去りにされた。そして,その3つの開拓団(中川開拓団,泰阜開拓団,読書開拓団)の約3000人は,
昭和20年(1945年) 8月21日,現地中国人の襲撃を受け,多数の死傷者を出した(方正県の惨事)。同原告の姉と弟もこのときに死亡した。
生き残った同原告と両親は,多くの開拓団員とともに 1か月半ほど極限状態の逃避行を続けた末,ソ連軍に身柄を拘束されて伊漢通収容所に収容された。
同収容所では次々に死者が出て,翌年 1月ころには同原告の親族で生き残っているのは両親と従兄弟の鎌吉だけになり,原告の両親も死亡し,
同原告は日本人女性の世話で中国人養父母に引き取られた。鎌吉とも別れた。同原告は,昭和26年(1951年)に養母の息子と結婚させられた。
(ハ) 原告X26(原告番号26・身元未判明)
原告X26は,終戦時3〜4歳で,身元が判明していないので,孤児となった経緯は明らかではない。
黒竜江省牡丹江市維新街南端にあった日本人難民収容所(萬字会収容所)に収容されているところを,中国人養父母に引き取られた。
(ヒ) 原告X27(原告番号27・身元判明)
原告X27は,昭和16年(1941年) 10月に長野県埴科郡坂城町で生まれ,昭和18年(1943年)に家族で埴科開拓団の一員として渡満し,黒竜江省宝清県に移住した。
同原告の父は渡満後約1年で死亡し,母が同原告を含む3人の子を育てていた。日ソ開戦により,同原告の家族は佐渡開拓団に避難したが,
同開拓団に対するソ連軍の虐殺(佐渡開拓団事件)により,母は死亡し,2人の姉も行方不明となり,同原告は孤児となった。
(フ) 原告X28(原告番号28・身元判明)
原告X28は,昭和17年(1942年) 11月に生まれ,昭和19年(1944年),祖父,叔母,両親(父は北海道の炭鉱で働いていた。),姉,2人の兄とともに,
興安東省布特哈旗博克図壬生川開拓団員として渡満した。渡満後まもなく叔母と祖父が死亡し,父は翌年7月に召集され,その後シベリアに抑留された。
同原告ら開拓団員約30数世帯は,斉斉哈爾市を目指して避難したが,途中,ソ連軍の爆撃や匪賊の襲撃,病気や飢えで多くの死者が出た。
同原告の家族5名は斉斉哈爾の難民収容所にたどり着いたが,そこでも多くの死者が出て,同原告の母も男児を出産した後,
昭和21年(1946年) 1月に栄養失調と赤痢で死亡し(嬰児の男児も死亡),飢えと病気で死にかけていた同原告は中国人に引き取られた。
なお,姉と2人の兄も中国人に引き取られたが,2人の兄は死亡した。
昭和28年(1953年)春,当時17歳であった同原告の姉が斉斉哈爾市内の同原告の養家を訪ねて来て,日本に帰国するように言い,
養母に同原告を日本に連れて帰りたいと告げた(姉は父と文通して,帰国する際必ず同原告を連れて帰るように指示されていた。)。
養母がこれに反対したため,姉は斉斉哈爾中級人民裁判所に裁判を起こし,裁判所は,同原告自身が選択するように促した。
同原告は,姉に言われて初めて自分が日本人であることを知ったが,養家で愛情をもって大切に育てられ何の不満もなく,養母を残して帰国する決断ができず,
中国に残ることとした。姉は同原告とともに帰国することを諦めて後期集団引揚げで帰国した。
(ヘ) 原告X29(原告番号29・身元未判明)
原告X29は,終戦時 1歳くらいで,身元が判明していないので,孤児となった経緯は明らかではない。両親は?台市に居住していて,
昭和20年(1945年) 8月16日に同原告の母が多くの日本人とともに列車に乗り込む際,同原告が高熱を出していたため,駅に置き去りにされて孤児となったといわれている。
(ホ) 原告X30(原告番号30・身元判明)
原告X30は,昭和18年(1943年) 8月に長野県埴科郡五加村で生まれ,翌年3月に母と2人の姉とともに渡満した。
父は昭和15年(1940年)ころから渡満して宝清県東ソロンボ(索倫河)埴科郷開拓団づくりに奔走していた。父は,昭和19年(1944年) 3月に召集され,
ソ満国境警備を経て内地防衛のために宮崎県に送られた。上記開拓団員231人は,日ソ開戦とともに避難を開始し,8月18日に勃利県佐渡開拓団跡にたどり着いたが,
不時着したソ連軍の偵察機を攻撃したため,同月27日のソ連軍の報復攻撃や集団自決でほぼ全滅した(佐渡開拓団跡事件)。
同原告の母と2人の姉はそのときに死亡した。同原告は,母がその死の直前に中国人に差し出し,その後,養父に引き取られた。
(マ) 原告X31(原告番号31・身元判明)
原告X31は,昭和12年(1937年) 11月に生まれ,昭和17年(1942年)に両親(父は福島県で建築の仕事をしていた。),2人の姉と 1人の妹とともに渡満し,
間島省延吉県鳳寧村亮兵台石城開拓団に入植した。その後,同地で同原告の妹が生まれた。父は,その後召集され,終戦の年に死亡した。
日ソ開戦後,同開拓団員は一時避難したが,その後開拓地に戻った。母はそこで男児を出産したが母子ともに栄養失調等で死亡した。
同原告ら5人の姉妹は,それぞれ中国人に引き取られた。
(ミ) 原告X32(原告番号32・身元未判明)
原告X32は,終戦時4歳くらいで,身元が判明していないので,孤児となった経緯は明らかではない。満州国の首都である長春(新京)の日本人収容所にいて,
中国人養父母に引き取られたといわれている。
(ム) 原告X33(原告番号33・身元判明)
原告X33は,昭和13年(1938年) 1月に長野県埴科郡松代町で生まれ,昭和19年(1944年),長野県埴科開拓団の一員として両親,2人の兄, 1人の姉とともに渡満し,
黒竜江省宝清県に入植した。昭和20年(1945年) 8月20日,開拓団に対して帰国命令が出され,宝清県の難民収容所への集合が命じられた。
翌21日朝,同収容所に到着したところ,ソ連軍に爆撃されたため,勃利県に向かい,途中現地住民から発砲されて死者が出たため,佐渡開拓団の部落に向かった。
佐渡開拓団員は既に全員避難していなかったが,他の開拓団員が約2800人集まっていた。そこにソ連軍が攻撃してほとんどの避難民が死亡した(佐渡開拓団跡事件)。
同原告は,そこで生き残り,その後,中国人養父母に引き取られた。
(メ) 原告X34(原告番号34・身元判明)
原告X34は,昭和12年(1937年) 1月に東京で生まれ,昭和20年(1945年) 5月,両親,祖父母,2人の姉とともに渡満し,
東安省宝清県の北哈馬阿智郷開拓団に入植した。日ソ開戦により,開拓団は集団で避難し,祖父母と父は馬車で,母と同原告と2人の姉は徒歩で宝清に向かい,
約2週間の逃避行の末,勃利県佐渡開拓団本部跡地に到着したが,8月27日,ソ連軍との交戦により,母と2人の姉は死亡した(父と祖父母は同月12日に死亡していた。)。
同原告は,その後,おばとともに逃避行を続け,同年10月に勃利県の県庁に着き,同年11月におばによって中国人に預けられた。おばはその後まもなく病死した。
同原告は,その後,別の中国人を経て,ハルピン市の養家に引き取られた。
(モ) 原告X35(原告番号35・身元未判明)
原告X35は,終戦時4歳くらいで,身元が判明していないので,孤児となった経緯は明らかではない。両親,祖母,兄と満州で生活し,
近所に多くの日本人が生活していた記憶,日本語の単語(「にわとり」 「ぶた」 「いぬ」)を覚えていたこと,
日ソ開戦により家族とともに黒竜江省牡丹江近くの山に避難したことから,開拓団の一員であったと推測される。
ある日,原告が目覚めると 1人だけ山に取り残されていて,ほかには誰もおらず,山中をさまよっているところを中国人に拾われ,
その後,何度も養親に棄てられ,昭和20年(1945年)の年末に4番めの養親に拾われて養育された。
(ヤ) 原告X36(原告番号36・身元未判明)
原告X36は,終戦時4〜5歳くらいで,身元が判明していないので,渡満した経緯は明らかではないが,両親,兄とともに開拓団に入植したものとも考えられる。
日ソ開戦により,同原告らの家族は黒竜江省の三井市駅にたどり着いたが,途中で父とは離別した。母は,同原告を中国人に預け,
同原告の兄を連れて到着した汽車に乗り込もうとしたが警備していた日本人に銃撃されて死亡した。
その後,同原告は中国人養父母に売り渡されて養育されることになった。
(ユ) 原告X37(原告番号37・一応身元判明)
原告X37は,昭和13年(1938年) 5月に東京都で生まれた「X37」であるとされている。父は軍人で昭和19年(1944年)に一家で満州に移転した。
父は,終戦前に別の部隊に移転させられて家族と離れた。日ソ開戦後,同原告の家族は牡丹江郊外から避難し,難民収容所に収容されたが,
母はそこで栄養失調で死亡し,同原告と弟2人が残された。昭和20年(1945年) 12月,同原告と弟は日本人女性に連れ出され,道に並べられて売りに出され,
中国人に買われて養育された。
(ヨ) 原告X38(原告番号38・身元未判明)
原告X38は,終戦時4歳で,身元が判明していないので,渡満して孤児になった経緯は必ずしも明らかではないが,父は軍人で,官舎に住み,母は医師であったらしい。
父はソ連に抑留され,母は友人の中国人女性医師に同原告を預けた後,収容所に収容されて死亡し,同原告の兄も中国人に預けられたと聞いている。
(ラ) 原告X39(原告番号39・身元判明)
原告X39の父は,昭和13年(1938年)に母と渡満し,翌年11月,延吉県で同原告が生まれた。父は召集されて終戦後シベリアに抑留されて帰国した。
同原告と母は,日ソ開戦時,延吉市図們街(図們市)東京洞に居住していたが,昼は山の上に隠れ,夜に里に下りてきて食べ物をさがすという生活をした。
同原告の母は,昭和21年(1946年)秋ころ中国人と結婚し,同原告は連れ子となったが,母は翌年病死し,同原告は家を出され,その後,中国人に養われたり,
家を出されたりし,11歳くらいのときにようやく4番めの養父母に引き取られて安定した生活を送れるようになった。
(リ) 原告X40(原告番号40・身元判明)
原告X40は,昭和12年(1937年) 10月,満州国の佳木斯で自動車修理業を営んでいた父母の間に生まれ,その後,牡丹江に移った。
日ソ開戦時,父は既に召集されて不在であり,同原告家族5人(母,祖母,弟妹)は牡丹江から避難し,たどり着いた村で敗戦を迎え,
そこの馬小屋で数か月過ごした後に牡丹江に戻り,借家住まいをして母が働いて生活を支えた。しかし,生活は困窮を極め,母は同原告を中国人に預けた。
母は日曜日ごとに同原告に会いに来たが,養父母がこれを嫌がったため,面会は途絶えた。同原告の母は,昭和27年(1952年)に帰国したが,
同原告はその前年に養父母とともに牡丹江から平安に転居していて,母とともに帰国することはできなかった。
(甲総11〜14,16〜19,21〜23,30,110の 1,111の 1~3,12,14,19,112の23,25,27,136,甲総A4の 1,2,6,7,15,甲総A9の 1,210の 1,甲総E3,
甲各 1から40まで(各枝番を含む。),乙 1,42〜57,証人菅原幸助,証人岡部牧夫,原告X01本人,原告X03本人,原告X04本人,原告X07本人,原告X08本人,
原告X09本人,原告X10本人,原告X11本人,原告X17本人,原告X22本人,原告X23本人,原告X25本人,原告X26本人,原告X29本人,原告X30本人,原告X31本人,
原告X32本人,原告X34本人,原告X35本人)
2 日中国交回復までの未帰還者の帰国等に関する事情
(1) 終戦直後における引揚げに関する日本政府の対応
ア 終戦直後の日本政府の方針など
日本政府は,昭和20年(1945年) 8月15日以降,海外に残された330万人以上の軍人軍属とそれとほぼ同数の海外在留一般邦人の日本への引揚げについて,
対処しなければならないという課題に直面した。日本政府は,同日,終戦対策処理委員会を設置し,同委員会において引揚げに関する協議を行い,同月30日,
次官会議において,「外地(樺太を含む)及び外国在留邦人引揚者応急援護措置要綱」を決定し,@引揚者上陸地の地方長官(現在の知事)が,現地に県職員を派遣し,
援護及び連絡指導等を行うこと,A上陸地及びその他の地において一時的に要する共同の宿泊施設,食糧,医療及び輸送に要する経費を国庫において負担すること,
B引揚者に対して引揚証明書を交付し,これによって,食糧,物資等の配給を受けさせ,また,
定着地及び宿泊施設に到着するまでの鉄道無賃乗車券の交付を受けさせるようにすること等6項目からなる措置を執ることとした。
連合国軍総司令部(以下「GHQ」という。)は,同年9月2日,指令第1号(陸海軍一般命令第1号)を発し,日本軍軍隊に対し,
各地区の連合国軍司令官に降伏するよう命令し,満州,北緯38度以北の朝鮮地域,樺太及び千島諸島にある日本の先任指揮官並びに一切の陸上,海上,
航空及び補助部隊はソ連極東軍最高司令官に降伏することとした。その結果,満州は,ソ連軍の管理地域とされ,日本人の軍人軍属及び在留一般邦人は,
ソ連軍の支配下に入った。ソ連軍は満州の主要都市を占領して軍政を布いたが,後記のとおり,在留日本人の本国送還にはまったく関心がなく,
昭和21年(1946年) 4月に撤退するまで何の措置もとらなかった。
日本政府は,昭和20年(1945年) 9月7日,「外征部隊及び居留民帰還輸送等に関する実施要領」を決定し,海外在留日本人の帰還輸送等については,
現地の悲状に鑑み,内地民生上の必要を犠牲にしても優先的に処置するとともに他の一切の方途を講じ,可及的速やかに完遂を期する問題と位置づけ,
現有稼働船腹量の大部分を帰還輸送等に充てることや,連合国軍に対し,帰還輸送に長年月を要すべき事態を明確にし,
連合軍において輸送協力の必要があることを絶えず認識させることにあらゆる努力を払い,
現地残留民の帰還輸送完遂までは居留民等の現地保護特に越冬期における特別の保護について要請するなど,その協力を要請することとした。
そして,同年10月12日,「艦船ヲ以テスル在外地軍官民内地還送計画」(軍務一第192号)により,官民の引揚希望者を内地に還送する方針と要領を決定した。
さらに,日本政府は,同月4日,「海外部隊及び海外邦人に対する食糧,衣料,衛生材料其の他所要物資の補給並に宿営施設に関する件」を次官会議により決定し,
海外部隊及び海外在留日本人に対する食糧,衣料等の所要物資の調達準備等について具体的施策を定めた。
GHQは,同年10月12日,日本政府に対し,引揚げ業務について,統一ある中央機関を設置し単一組織によって運営するよう命じ,これを受けて,日本政府は,
同月18日,厚生省(現在の厚生労働省。以下同じ。)を引揚げに関する中央責任官庁とすることを決定した。GHQは,同月25日,日本政府の外交機能を全面的に停止した。
その後,外国と日本との交渉は,GHQを通じて行うか,又は,GHQが日本政府に代わって行われることとなった。このような状態は,
連合国と日本政府との間で調印された平和条約(昭和27年条約第5号。いわゆるサン・フランシスコ平和条約)の発効により,
日本が昭和27年(1952年) 4月28日主権を回復するまで続いた。日本政府は,当初,前記のとおり,将来の再興・復権を考慮して,
日本人を満州等の旧支配地域に定着させる方針をとっており,昭和20年(1945年) 9月24日次官会議においても,この方針が確認されている。
しかし,他方,同日の次官会議で運輸省を中心とする「海外部隊並びに海外邦人帰還対策委員会第二部会」が設置され,
運輸省はその輸送業務を船舶運営会に行わせた。満州においては,日本人の定着が反日感情の強かった中国人に受け入れられる余地はほとんどなく,
終戦に伴って発生した混乱等による生活手段の喪失により,当初から上記の方針を実現することは現実的に困難であり,さらに,同年10月25日,
日本政府の外交機能が全面的に停止されたことにより,現地に残留することが極めて危険,不安な状態になったため,この方針は放棄され,政府は,
海外同胞の速やかな日本引揚げを図るため,GHQに船舶の貸与を要請し,米国船リバテー輸送船100隻,同LST輸送船85隻,同病院船6隻の貸与を受け,
昭和21年(1946年) 1月18日の次官会議で「米国船の整備に関する件」を決定して必要物資の船内積込み等を規制し,同年2月7日の次官会議で,
地方引揚援護局の整備強化,宿泊施設の拡充整備等を内容とする「輸送力増強に伴う引揚者受入れ体勢の整備強化に関する件」を決定した。
GHQは,昭和21年(1946年) 3月16日,「引揚に関する基本指令」を発し,海外在留日本人の引揚げに関する基本的大綱を示した。
しかし,ソ連極東軍最高司令部は,GHQの上記方針を受諾しなかった。日本政府は,終戦後,後記イのとおり,GHQのほかスウェーデン政府,
赤十字国際委員会等を通して,ソ連に対し,満州などのソ連軍管理地域の在留日本人の保護及びその帰還を要請したものの,ソ連は,
降伏文書の調印が行われた昭和20年(1945年) 9月2日以降,昭和21年(1946年) 12月19日にアメリカ合衆国との間で「ソ連地区引揚米ソ協定」
を締結しソ連軍管理地域から毎月5万人の引揚げを約定するまで,捕虜や在留日本人の引揚げについてまったく無関心であった。
ソ連軍は,昭和20年(1945年) 11月15日に撤収の予定であったが,国民党政府の撤退要求にもかかわらず撤退せず,
後記の工業施設の撤去等が終わった昭和21年(1946年) 4月ころ,満州から撤退した。ソ連は,引揚げについて極めて消極的な対応に終始し,
上記協定の毎月5万人送還の約束は履行されず,昭和25年(1950年) 4月にはタス通信が「戦犯関係者として審理中の者を除き日本人捕虜の送還は完了」と報じ,
集団引揚げは後期集団引揚げの開始まで中断されたため,ソ連軍管理地域における在留日本人の引揚げは,他地域におけるそれと比較して,著しく遅れる結果となった。
イ 満州における日本人居留民の窮状に関する外交交渉について
(ア) 敗戦後の満州の邦人の状況については,関東軍幕僚や駐満大使から中央部(参謀次長,重光外相など)への次のような電文により伝えられ,
何らかの措置をとるよう要請がされた。
8月23日「ソ連軍首脳筋は日本軍・邦人に対する無謀行為を戒めあるも,
現実には理不尽の発砲・略奪・強姦・使用中の車両奪取等頻々たり(中略)今や日本軍に武力なく,加うるに満軍警・満鮮人の反日侮日の事態の推移等,
将兵の忍苦真に涙なくして見るを得ず(中略)願わくば将兵今日の忍苦をして水泡に帰せしめざるよう善処を切望してやまず(以下略)」
8月29日「2か月後の寒季と逼迫せる食糧問題とを控え真に憂慮に堪えず,之が善処に関し国家として全幅の努力を払わるるの要ありと思考す」
8月30日「新京に在る避難民を見ても僅かに持出せる手廻品すら掠奪せられ又数日絶食の者すらあり……採煖用石炭は労力あるも輸送認可せられず,
而かも衣糧寝具住宅等は徴発又は掠奪せられ冬に入らば餓死者凍死者の続出を憂慮せらる……
当地ソ軍首脳の内意を糺したるも東京に於て取極めらるべしとて何等の措置を講ぜず当方にては全く手のつけ様なし……
速やかに内地送還をなし得る様至急御補助相煩度悃願す」
9月2日「……近く寒気を控え避難民約40万(在来の居住者約30万を加え邦人約80万)
南満一帯に充満し食なく住居なく金銭なく如何とも為し難き実情なるを以て遅くも11月初旬頃?に(以下電文未着)」
9月6日「在大陸200万軍隊の処理もさることながら邦人の被害の深刻なること言語に絶す(中略)右に関し関東軍より再三ソ側に申し入れ,
ソ軍の上層筋においては改善に努力中のごときも,元来対日参戦の動機よりするもソ支合作して対日圧迫を加うるは当然なるのみならず,
ソ軍首脳部の意図は容易に末端まで徹底せず,かつ満鮮人の対日感情悪化し暴状あくなきの現状のおりから,一方ソ軍の特性上現地交渉には限度あり,
重大な案件はモスクワを動かさずして解決は到底不可能と考えらる。
なおこの種問題処理にあたりては,モスクワ及び東ソ軍最高指揮官の立場をも十分尊重し機微なる感情問題を考慮するにあらざれば逆効果を生ずる虞もあり(以下略)」
(イ) 日本政府は,ソ連に対する一切の通信手段が途絶していたため,昨日まで戦闘を交えた主敵であるアメリカ軍に頼らざるを得ず,GHQを通じて,
ソ連政府に対する好意ある善処を要請した。
a 日本政府は,8月20日,在マニラの連合軍総司令部に対し,「中国の治安が乱れているので,秩序維持と民衆保護のため,
速やかに連合軍総司令部から所要の人員を派遣してほしい」旨の電報を打ったが,同月23日には「満州,蒙彊,北鮮においては,
各方面逐次武装解除を実施しつつあるも,一部において日本軍及び邦人に対する無法なる発砲,掠奪,暴行,強姦等目に余る行為発し,
逐次治安維持が不可能となり,収拾不可能なる事態惹起の徴歴然たり。斯くの如く日本軍が誠意を以て忠実に貴軍司令官の要請に応ぜんとするも,
事態の推移は楽観を許さざるものあるにつき,これら治安不良地区においては,邦人を安全なる地区に退避せしむる?,
所要の武器を保持することを許容されたき事を望む。」と打電した。
b 8月27日に大本営が在マニラの連合軍総司令部に宛てたソ連宛電報案は,次のとおりである。
@ 満鮮における撤兵輸送の順位は,給養逼迫の地域及び患者を優先とし,一般部隊にあっては満州から始めること
A 武装解除後においても無防備の邦人,非武装軍人の保護に必要な武装警察力の存置を必要とすること
B 軍民の輸送完了まで給養を実施確保し得るごとくソ連側において臨機適切にあっせん保障すること
C 輸送の実施長期にわたる場合にはその完了まで,邦人・非武装軍人のため安全居住地帯を設定し,殊に冬季に対する食糧・燃料を確保すること
D 休戦に関する軍事的措置,邦人処理等につきその完了まで軍の組織を保持し,所要の通信・運輸機関を確保すること
この電文を連合軍総司令部がソ連側に通達したかは不明であり,満州の実情が好転しなかったことは,前記認定のとおりである。
c 8月28日及び翌29日においても,日本政府は在マニラの連合軍司令部に対し,同趣旨の電報を打った。
d 9月2日にGHQによる占領行政が開始されたが,同月9日に終戦連絡中央事務局(GHQ・日本政府間の連絡を担当する外務省の外局)から,
同月13日に外務大臣の名前で,同月16日には再び終戦連絡中央事務局から,それぞれGHQに覚書を提出し,満州,北朝鮮,樺太,
千島の在留日本人の保護と引揚げについて申入れをした。同月13日の覚書は,外務大臣が自ら持参してサザランド参謀長に面会したが,その内容は次のとおりである。
「終戦による事態の急転換に伴い,従来日本の支配下にありし外地に於ける多数日本人の生命財産の安危は帝国政府の最も大きな関心を有する所なるが,
信ずべき情報によれば,特に満州,北鮮,樺太及び千島における事態,日に窮迫し,極めて憂慮に堪えざるものあるに付いて,
今後の更に事態の悪化するを防止するため…」として,至急措置してほしいこととして,満州及び北朝鮮に関し,
@東京・新京(長春)間の無電連絡,空輸連絡の再開,A朝鮮総督府及び満州の日本の在外公館の官吏を釈放して在留民の保護と引揚げの任に当たらせ,
B日本居留民の食糧その他生活必需品の購入を可能ならしめるため,その地域の通貨を供与してほしい,その金額は日本政府が返済する,
C引揚げを容易ならしめるため,満州,朝鮮直通列車の運行,38度線において遮断の鉄道打開,列車運行のための石炭補給,羅清,清津,元山,大連,
鎮南浦(いずれも港)への配船を認めること,を要請した。
e 9月29日,吉田茂外務大臣は,GHQにサザランド参謀長を訪ねて満州・北朝鮮在住日本人の窮状を訴え,その保護を要請した。
しかし,同参謀長の回答は,「貴方の申入れをソ連側に伝達する以上のことはできない。当方としてはソ連側に何らかのインフルエンスを及ぼすことはできない。
日本側の依頼はワシントンを通じソ連側に打電したが,まだ返事はない。」というものであった。その後も,日本政府のGHQへの陳情と要請は延々と続いたが,
GHQの回答は,いつも「貴方の要請は既に外交ルートを通じてモスクワに伝えてある。」「我々としてはどうしようもない。」というものであった。
(ウ) 日本政府は,9月1日,在東京のスウェーデン公使を通じ,また,在京のソ連大使に対し,ソ連占領下の邦人保護につきソ連政府に伝達方申し入れたが,
ソ連大使は,「その権限なし」としてこれを拒否した。9月5日には,在スウェーデン日本公使がスウェーデン政府に対し,
ソ連占領下の在留日本人保護についてソ連政府に伝達するよう要請した。9月8日にスウェーデン政府から寄せられたソ連の回答は,
「日本の降伏による日本と連合国間の敵対関係の終了は,日本の国際的地位を完全に変更し,相互の利益保護に関し全然新たなる事態を招来せり。
日本におけるソ連の利益に関するすべての問題は在日連合軍最高司令部により処理されるべし。
右の理由により,ソ連政府はソ連における(日本の)利益保護に関する問題は根拠を失えるものなりとの見解を有し,
従ってソ連に在住する日本人の地位は一方的に処理されるべし。」というものであった。
日本政府は,これに反論し,利益保護の問題は外交及び領事関係回復まで存続すべきであると主張したが,ソ連からの返事はなかった。
(エ) 日本政府は,9月 1日,在スイス日本公使を通じ,赤十字国際委員会に対して,人道的見地からできる限りの尽力を要請した。
しかし,同委員会は,「ソ連とはもともと何の連絡もなく,当方としてはソ連に然るべき影響を与えることはできないから,
むしろ日本赤十字社代表をして米英の連合軍当局に接触させる方が得策であろう。そのためには然るべく協力はしよう。」との回答であった。
在東京赤十字国際委員会代表は,南朝鮮を視察し,アメリカ側に対し,困窮者の優先的輸送について懇談するなどの努力をしたが,
北朝鮮への入国はソ連軍当局によって拒否された。この9月に北朝鮮の日本人避難民救済につきソ連軍当局との折衝のため,
外務省から派遣されて京城まで赴いた亀山参事官も,「その必要を認めず」として再びソ連側に拒否された。
(オ) 日本政府は,在東京のローマ法皇庁使節に対しても援助を要請し,同使節は,ローマ法皇庁に連絡し,ソ連占領地区を除き,仏領インドシナ,オーストラリア,
フィリピン,インド,中国に駐在する司教に対し,その地方にある一般日本人と捕虜の救援につき全幅の努力をするよう要請し,
法皇庁はそのための経費をそれぞれの司教に送付してくれた。しかし,ソ連地区の司教には法皇庁も連絡をつけることができなかった。
(カ) 日本政府は,中華民国政府に対しても,在満州の邦人保護に関して援助を要請し,同政府は極めて好意的に考慮される模様との記録が残っている。
ウ ソ連軍の資産持去り
ソ連軍が満州から持ち去った満州国の国家資産は,当時の金額にして総計7億6000万余円,貴金属類も多額に上り,また,
工業施設や物資の撤去による被害総額は12億3316万ドルに上り,その搬出に要した輸送トン数は99万トン,使用貨車は3万輌以上であった。
ソ連軍は,このほか日本軍民倉庫より押収した兵器や被服の一部を中共軍に与えてその戦力育成に努めた。
国民党政府は,ソ連が撤去した施設の返還を要求したが,ソ連は戦利品としての主張を変えず,これに応じなかった。
(甲総24〜28,111の3,乙1,43〜45,56,57)
(2) 前期集団引揚げの実施
ソ連軍の撤退により,満州の管理は中国東北保安司令官(中国国民党軍)に引き継がれた。アメリカ合衆国軍代表は,昭和21年(1946年) 5月11日,
中国東北保安司令官との間で,満州における在留日本人の帰還に関する協定を締結した。また,アメリカ合衆国軍は,同年8月,中国共産党軍との間においても,
同軍の管理地域における在留日本人の帰還に関する協定を締結した。上記各協定により,アメリカ合衆国及び中国の監督及び支援の下,中国本土及び台湾,
満州から大規模な集団引揚げが実施された(いわゆる前期集団引揚げ)。この集団引揚げは,昭和23年(1948年) 8月までの間に4期にわたり実施され,
これにより満州から約104万5000人(全体では304万5000余人)の在留日本人が帰国した。その後,中国における中国国民党軍と中国共産党軍の内戦の激化,
中華人民共和国の成立等の事情により,集団引揚げは中断された。なお,上陸地で正規の引揚げ手続を経た者は,全体で,昭和21年(1946年)末までで509万6323人,
昭和22年(1947年)中に74万3757人,23年(1948年)中に30万3624人,昭和24年(1949年)中に9万7844人,昭和25年(1950年)中に8360人,
昭和26年(1951年)中802人,昭和27年(1952年)中729人であった。(乙1,57)
(3) 日本政府による船運賃の負担
日本政府は,個別に引き揚げる者の経済的負担を軽減するため,昭和27年(1952年) 3月 1日から,
個別に引き揚げる者の帰国に要する船運賃を国が負担することとした。その後,個別に引き揚げる者の中国国内の居留地から出境地までの旅費についても,
本人又はその留守家族においてそれを負担することが困難な事情があるときは国が負担することとしたが,外交ルートによる実施が困難であったため,
この取扱いを日本赤十字社に委託し,昭和37年(1962年)6月1日から実施した。(乙1,58,82,83,102,103)
(4) 後期集団引揚げの実施
ア 中国においては,中国国民党軍と中国共産党軍による内戦の末,昭和24年(1949年),中華人民共和国が成立し,中国国民党は,台湾を本拠とするに至った。
日本は,昭和27年(1952年)4月28日,サン・フランシスコ平和条約の発効により主権を回復したが,同日,台湾の国民党政権との間で平和条約を締結し,
中国共産党による中華人民共和国政府とは平和条約を締結しなかった。
その後,日本政府は,同年3月18日閣議決定された「海外邦人の引揚に関する件」に基づき,海外在留日本人の引揚げに関する措置を執ることとなった。
しかし,日本は,上記のとおり,中国東北地方を統治する中華人民共和国を平和条約の相手方として選択せず,同国と正式な外交関係を持たなかったから,
中国東北地方における在留日本人の引揚げ問題を正式な外交ルートによって解決することはできなかった。
イ 上記のとおり,日本と中国(中華人民共和国を指す。以下,特に断らない限り,中華人民共和国を指す。)との間で正式な外交ルートは開かれなかったものの,
民間レベルでの交流は行われた。すなわち,国際経済会議日本代表らは,昭和27年(1952年) 6月 1日,中国国際貿易促進委員会主席との間で,
第一次日中民間貿易協定を締結し,双方の輸出及び輸入金額を各3000万英ポンドとすることなど,貿易の基本的な枠組みを合意した。
中国政府は,昭和27年(1952年) 7月,在留日本人の帰国支援計画を策定し,中国紅十字会等により中央日僑事務委員会を組織し,同年9月,
在留日本人の引揚げに関する取決めを行って在留日本人の帰国の支援を開始した。中国政府は,昭和27年(1952年)12月 1日,北京放送において,
中国に約3万人の日本人居留民がいること,帰国を望む在留日本人に対しては帰国を援助することを表明した。
中国側から指定のあった日本赤十字社,日中友好協会及び日本平和連絡委員会(いわゆる引揚三団体。以下「引揚三団体」という。)の代表は,
約40日間中国に滞在して会談を重ね,昭和28年(1953年) 3月5日,中国紅十字会との間で,
日本人居留民の帰国問題に関する日本赤十字社等と中国紅十字会との申合せ(いわゆる北京協定)を締結した。
この協定に基づき,中国からの集団引揚げが再開し,同月23日の第1次から同年10月の第7次までの集団引揚げにより,約2万6051人の在留日本人が帰国した。
この引揚者は,終戦後に中国側の軍又は政府機関等に留用されていた者とその家族が主であった。
ウ その後,集団引揚げは,同年11月12日,中国紅十字会からの打切りの通告により一旦中断したものの,翌昭和29年(1954年)8月,
日本赤十字社から中国紅十字会会長に対して訪日の招請状が発せられ,これがきっかけとなって,
同年9月には第8次引揚げとして520人(元軍人等の捕虜417人と一般邦人103人)が帰国し,その後,引揚三団体は,来日した中国紅十字会代表との間で,
同年11月3日,「帰国問題に関する懇談の覚書」を交わし,これに基づいて翌昭和30年(1955年) 3月まで第9次から第11次の集団引揚げにより2292人が帰国した。
これらの引揚者の大部分は,朝鮮戦争当時に安東,旅順,大連等に居住していてその後他の地区に移住させられた者で,
一部は中国軍に留用され又は戦務に従事した者や,中国人の妻となっていた日本婦人等であった。
エ 昭和30年(1955年) 7月以降のジュネーブにおける政府間交渉は,後記(6)アのとおりであるが,引揚三団体と中国紅十字会とは,昭和31年(1956年) 6月28日,
共同コミュニケ(天津協定)を締結し,これらに基づき,同年7月から昭和32年(1957年) 5月までの第13次から第16次集団引揚げにより1368人
(戦犯として抑留されていた者1018人,一般人350人)が帰国し,また,日本婦人とその随伴子女1071人が一時帰国した。
オ 昭和32年(1957年) 5月以降のジュネーブにおける政府間交渉は,後記(6)イのとおりであるが,昭和33年(1958年) 4月,
引揚三団体と中国紅十字会との会談によって集団引揚げが再会されることとなり,同月から同年7月までの第17次から第21次集団引揚げにより,
2153人(自発的に中国に残留していわゆる共産学習を受けた者と中国の軍や政府に留用されていた者が大部分であった。)が帰国し,
また,中国人と結婚していた日本婦人48世帯98人が一時帰国(里帰り)した。
カ 中国紅十字会は,引揚三団体に対し,集団引揚げは第21次で終了することを伝え,その後は個別引揚げに移行することとなった。
後期集団引揚げによる帰国者3万2506人のうち,いわゆる残留孤児(終戦時13歳未満の在留日本人を指す。)は,93人であり,原告らのうち,
後期集団引揚げにより帰国を実現した者はいない。しかし,原告らのうちには,原告X07(原告番号7),原告X26(原告番号26),原告X32(原告番号32),
原告X33(原告番号33),原告X34(原告番号34),原告X35(原告番号35),原告X13(原告番号36)など,後期集団引揚げが実施されたころ,中国政府から,
日本人であるかどうかの確認のほか,日本への帰国希望の有無等に関する調査を受けた者が多く(また,
帰国のためにいったんトラックに乗せられた原告X10(原告番号10)の例,兄から一緒に帰国しないかと言われたが断った原告X15(原告番号15)の例,
訪中した元残留邦人に帰国の手続を頼んだという原告X17(原告番号17)の例,
姉が帰国に反対する養母に対して裁判をして帰国させようとしたが結局断った原告X28(原告番号28)の例,
母が後期集団引揚げで帰国する際に既に養子に出されていたので一緒に帰国できなかった原告X40(原告番号40)の例などがある。),
同原告らが調査を受けた時期から考慮すると,これらの調査は,後期集団引揚げの実施に伴う調査であったと考えられ,同原告らが,これらの調査の際,
帰国意思を明確にすることができ,かつ,養父母の反対等の支障がなければ,
後期集団引揚げにより帰国できた可能性はあったということはできる
(むしろ,養父母が孤児本人の意思にかかわらず積極的に送り出す意思を持っていなければ帰国の現実的な可能性はなかったものと考えられる。)。
なお,個別引揚げの方法は,中国政府から外僑出境証の発行を受け(この際,日本政府の入国に関する証明書が必要な場合があり,
それは帰国希望者の留守家族等からの申請に基づいて入国管理局審査課長名で発給された。),
大陸を南下して広東に行き,持帰り金の両替等をして汽車で深?に至り,国境駅で下車し,出国手続をして,国境の橋を徒歩で渡り,
九龍半島側の羅湖で英国官憲に対して入域手続をし,汽車(1時間)で香港対岸の九龍に至る。この際,香港政庁の通過査証が必要であり,
帰国希望者は居住地出発前にあらかじめ在香港の日本総領事館に香港到着の日程を通知する必要がある。香港からは便船又は飛行機による。
個別引揚げの経費は自己負担が原則であり,内地の親族からの送金について便宜が図られていた。この帰国方法の難点は,
中国政府の出境許可に非常に時間がかかったこと,香港までの旅費に多額の経費を要することの2点であった。
香港での滞在については日本総領事館が重要な役割を果たし,帰国の旅費については,前記のとおり,船賃については昭和27年(1952年)から,
中国内地の旅費について昭和37年(1962年)から国庫負担の制度ができた。個別引揚げによる帰還者は,昭和34年(1959年)10名,昭和35年(1960年)41名,
昭和36年(1961年)36名であった。
(甲総E5〜8,13,18の1,2,甲総F1〜4,6〜10,12,14〜16,19,30,36,甲総A4の22〜104,甲各7の2,10の1,15の1,26の1,28の1,32の1,33の1ノ2,35の1,
36の1,40の1,乙1,乙59,230〜234,証人古川万太郎,原告X17本人,原告X26本人,原告X34本人)
(5) 未帰還者留守家族等援護法の施行
ア 未帰還者の留守家族に対する援護は,当初,未復員者給与法(昭和22年法律第182号)及び特別未帰還者給与法(昭和23年法律第279号)によって行われていた。
未復員者給与法は,未復員者本人に対する俸給(昭和22年(1947年) 7月以降,従前の階級にかかわらず一律月額100円,昭和24年(1949年)11月以降月額300円,
昭和26年(1951年) 1月以降月額1000円)その他の給与(扶養手当)を支給する建前をとりながら,これらを留守家族に前渡しすることにより,
間接的に留守家族を援護するものであり,帰郷旅費,埋葬経費,療養費等の支給も定められていた。特別未帰還者給与法は,軍人軍属に属しない者で,
昭和20年(1945年) 9月2日から引き続き海外に在留してまだ帰国せず,かつ,ソ連の地域内において未復員者と同様の実情にある者に対し,
未復員者給与法を準用して,俸給その他の給与を支給するものであった。特別未帰還者給与法は,昭和24年(1949年)改正により,
中国東北地方における一般邦人も対象となった。
イ しかし,上記各法律による援護は,終戦後年月を経過するに従い,不自然な制度となり,昭和28年(1953年),
直接留守家族の援護を対象とした未帰還者留守家族等援護法(昭和28年法律第161号。以下「留守援法」という。)が公布・施行された。
同法の主な内容は次のとおりである。
この法律における「未帰還者」とは,@もとの陸海軍に属していた者で,まだ復員していない者,
A昭和20年(1945年)8月9日以降ソ連,中共地域内において生存していたと認められる資料があり,かつ,
自己の意思により帰還しないと認められる者以外の者などであり,この法律によって援護を受けることのできる留守家族の範囲は,
未帰還者の配偶者,18歳未満の子,60歳以上の父母,孫及び祖父母等であって,未帰還者が帰還しているとすれば,
主としてその者の収入によって生計を維持していると認められる者であり,留守家族手当として,留守家族の先順位の者に月額2100円を支給し,
他に留守家族がある場合は1人月額400円を加給することとされ,その他,帰郷旅費(上陸地から帰郷地までの旅費),葬祭料,遺骨引取経費,
療養の給付・療養費の支給,障害一時金,特別手当などについて定めがあった。
そして,長年月にわたり生死に関する何らの資料も得られず,生死の状況が判明しない未帰還者について無期限に留守家族手当を支給するのは,
必ずしも妥当な措置とはいえないことから,この法律の施行後3年を経過した日(昭和31年(1956年) 8月1日)以後においては,
過去7年以内に生存していたと認めるに足りる資料がない未帰還者の留守家族には,留守家族手当を支給しないこととしたが,その29条で,
「国は,未帰還者の状況について調査究明をするとともに,その帰還の促進に努めなければならない」とした。
この法律はその後昭和51年(1976年)まで30回改正され,逐次手当額等が増額されたが,
同年12月末での厚生省が把握する未帰還者は合計2496名(うち中国地域は2021名)であるのに対し,
未帰還者に婦女子が多いため留守家族手当受給者は5人であった。
(乙1,58,59)
(6) 後期集団引揚げの実施前後の日中政府間における書簡のやりとり
ア 日本政府は,昭和30年(1955年) 7月15日,同月 1日の閣議了解(総理大臣鳩山一郎)に基づき,在ジュネーブ日本総領事から在ジュネーブ中国総領事に対して,
人道上の問題として,@昭和29年(1954年)11月に来日した中国紅十字会による報告によると,その後の帰国者を差し引いて中国に約6000人の日本人がなお在留しており,
これらの者の氏名と近況等の日本政府への通知及び帰国を希望する者について帰国の援助を希望し,Aほかに,
明らかに中国大陸にいた約4万人の状況又は死亡を確かめることができないが,これらの者の調査と死亡した者があった場合の遺骸の送還等を希望する,
B日本政府は,中国政府と協力して有用な資料あるいはどのような可能な方法をも提供して困難の解決をうながす用意があるとの内容の覚書を手交した。
上記覚書に対し,中国政府は,中国には6000名余りの日本人居留民と日本人戦犯以外に状況不明の4万人というような者はおらず,
このような問題を持ち出す動機が疑われるという声明を出すとともに,同年8月17日,在ジュネーブ中国総領事から在ジュネーブ日本総領事への,
「中日関係の正常化を促し,併せて国際情勢を引き続き和らげることに寄与するため,中国政府は,中日両国政府が両国の貿易についての問題,
双方の居留民の問題,両国人民が相互に往来する問題,及びその他両国人民の利益に関係のある重大な問題について話合いを行うことが必要であると考えていること,
仮に日本政府が同様の希望を持っているならば,中国政府が,日本政府の派遣する代表団と北京で会談を行うことを歓迎する」との内容の書簡で回答した。
これに対し,日本政府は,同月29日付けの在ジュネーブ日本総領事から在ジュネーブ中国総領事に対する書簡で,消息不明の約4万人は,
終戦当時又は1949年頃まで中国に在住していた資料のある者で,帰国した者やソ連領に連行された者,死亡したことが確実に認定された者は含まれておらず,
氏名は判明しているがその後の消息が不明で調査も不可能な者であること,
いわゆる戦争犯罪人を拘禁している理由がまったく不明であり終戦後10年を経過している現在,速やかに釈放して送還するよう希望する,
残留邦人の帰国問題こそ日中政府間で先ず解決すべき問題であり,これは純粋に人道的問題であると伝えた。
日本政府は,同年9月28日ジュネーブにおいて開催された国際赤十字連盟執行委員会の会合における中国紅十字会代表の
「約200人の日本人の帰国について準備している」旨の発言等を受けて,同年10月20日,在ジュネーブ日本総領事から在ジュネーブ中国総領事への書簡により,
上記約200人の送還計画等の有無についての確認を求めるとともに,もし,この計画が進められているのであれば,日本政府は,
これらの送還者を受け取る用意のあることを表明した。
これを受けて,中国政府は,同年11月5日,日本政府に対し,在ジュネーブ中国総領事から在ジュネーブ日本総領事への書簡により,
@日中関係の正常化は,両国人民の共通の願いであるから,両国政府にとっても解決を要する第1の重要問題であること,
A従前の書簡の中で,両国関係の正常化を促すため,重大な関係諸問題について話合いを行うことを提案したことについて何ら回答がないこと,
B中国に在留する日本人居留民のうち,帰国を申請する者があれば,中国紅十字会は,引揚三団体との話合いに基づいて,引き続き適切な処置を講じること,
C中国にいる日本人戦犯の処理は,中国の主権に属する事柄であること,
D既に帰国した約2万9000人の日本人居留民と,処罰を免除されて送還された417人の軽い罪を犯した日本軍人以外,現在,
中国には6000人余りの日本人居留民と1000人あまりの日本人戦犯がいるだけであって,状況不明の日本人などという者は全くいないが,
人道上の原則に基づき,中国紅十字会は,個々の日本人の状況の問題について,引揚三団体が具体的な資料を提供すれば,
できうる限り調査をしたいと考えている,日本政府が持ち出した状況不明の4万人の日本人の存在は,全く根拠のないものであり,
成り立ち得ないこと等を表明し,これ以上の交渉の進展はなかった。
イ 日本政府(総理大臣・岸信介)は,昭和32年(1957年) 5月,在ジュネーブ日本総領事から在ジュネーブ中国総領事に対し,
中共地域の未帰還者に係る名簿を手交し,生死確認や現状に係る調査を申し入れた。この名簿は,
同年 1月 1日現在の中共地域からの未帰還者3万5767人の名簿であり,留守家族から日本政府に対し未帰還者として届出があった者の全員が各人ごとにその姓名,
生年,性別,本籍,最終消息(現地からの通信又は帰還者の証言等によって判明している最終の消息:時期・場所・状態)を記載して掲載されていた。
この名簿に記載された未帰還者は,4分類され,第 1分類は,昭和24年(1949年)以降の消息資料のある者5689名,
第2分類は,終戦前後から昭和23年(1948年)末までの間の消息資料があり,かつ,中国人等と結婚したか,若しくは,結婚したと判断される消息があるか,
又は,終戦前後に孤児となり中国人等に養育されているか,若しくは,養育されていると判断される消息がある者2705名,
第3分類は,終戦後から昭和23年(1948年)末までの間の消息資料がある者で第2分類に該当しない者9291名,
第4分類は,終戦時までに消息を絶っている者 1万8082名がそれぞれ分類されていた。
これに対し,中国政府は,同年7月,現在中国には,行方不明という日本人は存在せず,また,中国の侵略戦争に参加して行方不明となった日本人の問題は,
日本政府が日本人民に説明すべきものであり,中国政府として何ら責任を負うものではない,
東南アジアを廻った岸首相が蒋介石と会談し中国を誹謗する発言を行ったのと同時になされた「行方不明の日本人」の調査に関する要求は,
中国政府の絶対に受け入れることのできないものである旨の回答をした。
(甲総78,79,甲総F1,2,18,19,27,30〜36,42〜44,乙1,59,235,証人古川万太郎)
(7) 衆議院海外同胞引揚特別委員長以下の訪中申入れ
前記(6)イの在ジュネーブ総領事間の交渉中の昭和32年(1957年) 6月,衆議院海外同胞引揚特別委員会の広瀬正雄委員長は,
中国の周恩来首相及び中国紅十字会会長あてに,中国に残留している日本人の帰国の促進,
行方不明の未帰還者(前記名簿掲載者)の調査等の問題について中国側と直接話合いをするため
,同委員長ほか国会議員の同委員3名及び若干名の政府職員の訪中を申し入れた。これに対し,中国紅十字会は,昭和32年(1957年) 7月,引揚三団体に対して,
「目下中国に居住している日本居留民はすべて長期か又は暫時中国に居留したい希望を表示しているもので,いかなる所在不明の日本人問題も存在しない。
現在いる日本人居留民が帰国を希望する場合は引き続き援助するが,所在不明の日本人問題の提出は絶対に容認できない。
日本の某方面がこの問題を提出したのであれば,それは中国の在留日本人の帰国を援助した努力を抹殺しようと企画したものである。
日本の岸首相が蒋介石と会談し,米国と同列の口調で一致して中華人民共和国を敵視する言論を発表したことは注意すべきことであり,
日本側の要請は日中の友好関係を破壊するものである」との趣旨の電報により上記訪中の申入れを拒否する旨回答した。
(乙1,59)
(8) 長崎国旗事件
昭和32年(1957年) 2月内閣総理大臣に就任した岸信介首相は,同年6月3日,台湾において国民党の蒋介石と会談した際,反共産主義の立場を明らかにし,
中国大陸が中国共産党の支配下にあることは日本国民がソ連より中国に親近感を持っていることから日本にとっても脅威である旨(大陸の自由回復に同感する等)
述べたが,他方,昭和33年(1958年) 3月5日には日本の民間貿易三団体と中国国際貿易促進委員会との間で第4次日中民間貿易協定(有効期間 1年)が締結され,
互いに相手国に常駐の民間通商代表部を置くこと等が合意され,その覚書で,通商代表部はその建物に本国の国旗を掲げる権利を有することを確認した。
これに対し,台湾政府は,日台の貿易会談や新規契約の認可を停止し,更に台湾銀行の日本向け信用状の開設を一切停止する等の強硬措置を打ち出し,
米国も,日本の対中共貿易について,日本の対米貿易が大幅に伸びて問題となり,米国議会に対日制限に関する法案が20ばかり出ていること
(しかし米国の景気は上向くであろうこと)を指摘しつつ,「米国自体は今でも対中共貿易を全面的に禁止している。
日本が対中共貿易をするのは主権国家として自由であるが,日本と米国は従来から緊密な関係にあり,共産勢力のおそれに対しても共通の自覚をもっているはずである。
こうした点から日本が中共貿易について賢明な決定を行うことを期待する。」との意見表明をした。
その後,同年4月,日本政府は,上記日中民間貿易協定について,日本の民間貿易三団体に対し,「わが国国内諸法令の範囲内で,かつ,
政府を承認していないことにもとづき,現存の国際関係をも考慮し,貿易拡大の目的が達せられるよう,支持と協力を与える」と回答し
,同時に「貿易拡大を期する精神は尊重するが,中共を承認する意向は全くなく,民間通商代表部に特権的な公的地位を認める所存はなく,
中共のいわゆる国旗を代表部に掲げることを権利として認めることはできない」(内閣官房長官の談話)とした。これに対して,中国側は,上記の日本政府の回答が,
中国国旗掲揚を法的に保護せず,国内法を理由に中国通商代表部員とその家族の指紋を強制的に採ることを否定せず,
中国人民を敵視して第4次日中民間貿易協定を破壊する意図を持ったものであるとし,上記協定を実施することはできないとしたが,そのような状況において,
同年5月2日,長崎市内の百貨店で開催された中国物産展の会場に掲げられていた中国国旗が引きずり下ろされる事件が発生した(いわゆる長崎国旗事件)。
日本政府は,上記犯人の身柄を拘束したものの,中共政府を独立国として承認していないことを理由として,同人を国旗損壊罪に問うことはせず,
軽犯罪法違反として間もなく釈放した。
中国側は,上記事件における日本政府の対応について「岸内閣の中華人民共和国を独立国として認めず,中国国旗を個人財産であるとするいい方はでたらめきわまる。
これらの言動は中華人民共和国を侮辱するものであり,中国人民に対する敵対行為である」とし,
民間貿易を始めとする日本との間で行ってきた交流(鉄鋼協定による商談,民間漁業協定の更新など)を停止した。
中国紅十字会は,同年7月,引揚三団体に対し,後期集団引揚げ(いわゆる残留婦人の里帰りを含む。)を打ち切る旨の通告をした。
その後,中国紅十字会は,同年10月11日,北京放送を通じて,日中友好協会訪中代表団に対し,在留日本人の帰国援助を表明したが,
集団引揚げが再開されることはなく,一時帰国も日中国交回復まで中断されることとなった。
(甲総F1,42〜44,47〜55,乙2,59,証人古川万太郎)
(9) 未帰還者特別措置法の施行前における未帰還者調査
ア 昭和29年(1954年)ころまで
(ア) 日本政府は,未引揚邦人届の収集,帰還者より覚書を収集して行う消息不明者の個人究明,現地からの通信の収集,
各地域における終戦以降引揚げまでの状況資料の整備,残留者の状況に関する各般の調査,開拓団に関する調査等の業務を行った。
すなわち,日本政府は,昭和24年(1949年) 3月,留守家族から未引揚邦人届を提出させ,また,開拓団,在外商社等にも呼びかけて関係資料の提出を求めた。
日本政府は,昭和25年(1950年) 4月から6月までの間,各都道府県を通じて留守宅に対する一斉調査を行い,同年10月実施された全国国勢調査の際に,
調査員に未引揚者の調査を依頼した。また,日本政府は,集団引揚げの舞鶴などの上陸地において,
引揚者から未帰還者又は死亡者に関する情報を取得するとともに(昭和28年(1953年)から昭和31年(1956年)までに帰還者から取得した資料(覚書)は,
合計9786であるが,昭和31年(1956年)は617と少ない。),帰郷後においては通信調査,合同調査等により現地の未帰還者の動態資料を入手した。
上記の未帰還調査業務は,昭和25年(1950年)ころから日本政府内の態勢が整って本格的に実施されるようになった。
(イ) 日本赤十字社は昭和29年(1954年)11月の中国紅十字会との懇談において,未帰還者の調査に関し,
終戦直後日本人が満州の現地で作成・残置した死亡者に関する名簿類の調査とそれが現存する場合の送付方を要望したが,これに対して,
昭和31年(1956年) 7月,中国は,7種類13冊の書類(ハルピン市難民委員会死亡証明発行台帳など)を送還した。
これによって,当時未帰還者として調査中の145名の死亡が新たに判明・確認されたが,他の大部分は既に死亡処理済みのものであった。
イ 昭和30年(1955年)ころ以降
日本政府は,昭和29年(1954年) 4月以降,未引揚一般邦人に関する調査業務を,未帰還者留守家族等援護法の趣旨に基づき,
厚生省に設置した未帰還調査部において,軍人軍属の未帰還者に係る調査業務と一元的に実施することとした。
前記認定のとおり,満州において終戦前後の混乱とそれに続く越冬期間に死亡したとされる邦人は軍人軍属を含めて約20万人と推定されていたが,
この死亡推定者のうち昭和30年(1955年)初めころまでの間に,氏名が判明した者は軍人軍属約2万8000人,邦人約14万余人であった。
そして,昭和30年(1955年) 7月1日時点での未帰還者全般の状況は,中国地域4万7127人(ソ連その他の地域を含めた総数は6万6491人)であった。
この中国地域の未帰還者のうち,帰還者の情報提供等による生存残留(抑留)推定者は7000人以上,
調査上昭和28年(1953年)以後の生存資料を入手した未帰還者は4762人であった。
前記認定の昭和29年(1954年) 9月から30年(1955年) 3月までに中国から帰還した合計2855人のうち,国が未帰還者として把握していた者は2054人,
把握していなかった者は678人であった。
昭和30年(1955年) 7月時点で,昭和23年(1948年)以降消息のあった者で,国際結婚者又は孤児は約2100名と把握され,
これ以外にも相当数の未把握者があるものと考えられていたが,いずれもその実情は不明であった。
(ア) 国内調査の実施
a 上記のとおり,中国東北地方からの未帰還者の中には死亡したものと考えざるを得ない者も多く,死亡者究明の余地も大きかった。
日本政府は,中国東北地方の未帰還者について,職域名簿,開拓団在籍名簿等を使用して,日ソ開戦前における職域,隣組及び開拓団ごとにその人員,人名を把握し,
次いで,行動群調査(終戦後に及ぶ期間における武装解除後に満州に消息のある軍人軍属や満州の辺境地帯以外の地域に居た邦人についての中共の場面の
調査を含む。)によりその足取りを追い,この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし,未帰還者の個人ごとの最終の消息のある地点(病院,収容所,
難民収容所等越冬期間中に多くの死亡者を出した地点)を基にして地区ごとに個人究明を行い,生死の判定のよりどころを求めた。
なお,戦場で消息を絶った生死不明の軍人軍属も多く,これらについては戦場の場面の調査を行った。
b 外務省は,未引揚一般邦人に関する調査に当たり,未引揚邦人究明台帳(邦人原簿登録簿)を作成し,これが厚生省に引き継がれ,究明用カードとして活用された。
厚生省は,中国東北地方における軍人軍属以外の未帰還者について,ソ連参戦時生存していたと認められる資料のある者で,今なお帰国していない者について,
日本にいる留守家族からの届出により,個人ごとの究明カードを作成し,新たな情報を入手した場合には,究明カードにある既存の情報と照合していた。
また,この究明カードには,留守家族からの届出のほか,
引揚者が上陸した際に厚生省担当者が聴取した未帰還者の消息情報や厚生省や各都道府県の担当者が帰還者らから個別に入手した情報等をその都度記入し,
調査を進めた。
c 日本政府は,全国を6ブロックに分け,厚生省調査課員と各都道府県の調査担当者等とが資料を持ち寄って未帰還者の合同調査等を行う究明会議を開催した。
この会議では,厚生省調査課員と都道府県の担当者が情報交換を行ったり,会場に招致した留守家族等又は元開拓民等の帰還者から直接事情を聞いたりして,
情報を収集した。
(イ) 国外調査の実施
日本政府は,留守宅等に通信があるなどにより現地住所が明らかな者に対し,通信調査を実施した。日本政府は,昭和33年(1958年)及び昭和35年(1960年),
未帰還者の消息の調査究明のため,中国に残留しその現地住所の明らかな者の名簿を作成し,これを都道府県に配布し,
留守家族と協力して現地への通信調査を実施した。これに対する現地からの来信数は,昭和33年(1958年) 147,昭和34年(1959年) 697,昭和35年(1960年) 582,
昭和36年(1961年) 782 (4年間の合計2208)であり,これにより生存が確認された者は,未帰還者として把握されていた者199人,
未帰還者として把握されていなかった者84名であった。
(ウ) 一斉特別調査の実施
日本政府は,後記(10)アのとおり,未帰還者特別措置法の制定及び留守援法による留守家族手当の実際上の打切り時期である昭和34年(1959年) 7月末日に向けて,
昭和33年(1958年)12月,「未帰還者の調査究明促進に関する特別措置について」(昭和33年(1958年) 7月第3回未帰還者問題処理閣僚懇談会申合せ事項)に基づき,
一斉特別調査を実施した。すなわち,日本政府は,都道府県と連携し,広報機関や関係各種団体の協力を得て,
帰還者138万4426人に対して各種名簿を送付して(例えば現に外地で生存残留していると思われる未帰還者約7000人の名簿を昭和28年(1953年)
以後の帰還者約2万7000人に送付)消息資料を求める通信調査を実施(国内調査)するとともに,未帰還者に対する通信調査(国外調査)の実施を計画した。
しかし,日本政府は,中国と外交関係を有していなかったため,中国東北地方における未帰還者については国外調査を実施することができず,
昭和33年(1958年)10月,日本赤十字社から中国紅十字会に対し,日本政府の実施する未帰還者の内地向け通信について協力を申し入れたものの,
協力を得ることはできなかった。
なお,中国紅十字会会長李徳全女史は,昭和32年(1957年)12月に来日した際,記載人員880名(生存者640名,帰還者220名,死亡者12名など)
の中国残留日本人名簿を引揚三団体と留守家族団体全国協議会に手渡したが,これにより,未帰還者のうち新たに9名の死亡が確認され,
新たに消息が判明した者42名,未帰還者として新たに把握された者15名を数えた。また,留守家族団体全国協議会は,
昭和32年(1957年) 12月以降昭和33年(1958年) 9月まで,5回にわたり生存残留の見込みの多い約1900名のカードを中国紅十字会に送り,
消息調査を要請したが,昭和36年(1961年) 5月,中国訪問中の中国人捕虜殉難者名簿捧持代表団に対し,中国紅十字会から生存残留者名簿(300人記載)が手渡され,
これによって新たに未帰還者26人の生存残留が確認された。
(甲総F45,46,乙1,57〜59,144〜154,証人中川昇)
(10) 未帰還者特別措置法の施行
ア 未帰還者特別措置法の制定に至る経緯
前記の留守援法による留守家族手当は,当初予定の3年間が延長されて同法施行後6年を経過した日(昭和34年(1959年) 8月 1日)以降においては,
当該未帰還者について過去7年以内に生存していると認めるに足りる資料がない限り支給されないこととされていた。したがって,大部分の未帰還者の留守家族は,
同日以降,上記留守家族手当の受給を受けられなくなることが予定された。このような事情もあって,留守家族団体から,
未帰還者の調査究明の徹底と留守家族手当支給終了に当たっての援護措置の要望が出始めた。
また,日本政府としても,留守家族手当終了の時期を迎えるに当たって,未帰還者の調査究明の完結が望まれたものの,
戦後10年以上にわたる調査究明によっても状況を明らかにすることのできなかった4万人を超える未帰還者(昭和32年(1957年)10月 1日現在で4万6650人)について,
調査究明を完結することは事実上不可能であった。そこで,日本政府内では,未帰還者について,死亡処理を含めた最終処理を図ることが考えられた。
しかし,未帰還者の死亡処理は,従来,戸籍法89条(事変による死亡)の規定に基づく取締官公署による「死亡の報告」
(地方自治法附則10条 1項に基づき都道府県知事が死亡者の本籍地の市町村長に報告する方式)によって行われていたが,この死亡報告は,
死亡を確認するに足りる資料により「四囲ノ状況ニ照シ万生存ノ疑ヒナキトキ」(昭和17年(1942年) 7月8日海員指第89号,
海務長官照会に対する法務省民事局長回答)に限定されていた。したがって,未帰還者の死亡推定が可能であっても生存不明者である限りは,
これに該当しないため,この死亡報告制度で,生死不明の未帰還者の死亡処理をすることはできなかった。生死不明者の死亡処理は,当時,
民法30条の失踪宣告制度以外にはなく,しかも,この失踪宣告の請求のできる者は不在者の利害関係人に限定されており,
国はこの利害関係人にふくまれていなかったから,国が失踪宣告を請求できるようにするためには,特別の立法措置が必要であった。
厚生省は,昭和32年(1957年)12月17日,引揚同胞対策審議会に対し,
厚生大臣が未帰還者のうち生存資料のない者につき死亡した者と推定することができることなどを骨子とする法律の試案を諮問した。
上記死亡推定の手続は,厚生大臣が公告により,裁判所を関与させることなく行い得るとされていた。これに対し,留守家族団体は,引揚同胞対策審議会において,
最終処理だけが重視され,調査究明及び補償援護に関する措置が不十分であるとして,上記試案に対して強い反対を表明した。そこで,厚生省は,
上記試案の法案提出は取りやめた。
未帰還者問題解決促進全国留守家族大会は,昭和33年(1958年) 3月20日,@未帰還者の調査に全力を尽くし,引揚げを促進すること,
A留守家族の心情に即して,未帰還者の最終処理を急ぐこと,B留守家族の援護をよくし,死亡処理した未帰還者の家族に,
特別な弔慰と慰謝の措置を講じることを内容とする決議をした。上記のAについては,
未帰還者死亡推定法案が主に留守家族団体全国協議会の反対で取り止めになったことについて内部から留守家族の実情を
無視した行動であるとの不満が上がったためであるとの報道もされた。これを受けて,「未帰還者に関する措置方針」が,
同年5月2日,第2回未帰還者問題処理閣僚懇談会(構成員・副総理,厚生,大蔵,法務,外務各省大臣,官房長官)において,申合せ事項として定められた。
その内容は,@未帰還調査の徹底を期するとともに,留守家族の実態についても所要の調査を行うこと,A死亡の公算の高い未帰還者については,
留守家族の心情を斟酌のうえ,国又は都道府県知事が失踪宣告を申し立て得る途を開くこと,Bその場合,恩給法及び遺族援護法等の適用上,
原則として公務上の死亡として取扱うとともに,留守家族に対して弔慰の意を表することを考えること,C昭和34年(1959年) 8月以降における留守家族手当については,
今後の未帰還調査の状況に応じ,所要の措置を講ずることというものであり,留守家族団体の従来の要望を相当取り入れたものであり,死亡推定について,
民法の失踪宣告制度に乗せて,その手続の大部分を司法機関(家庭裁判所)に委ねようとするものであった。
また,日本政府は,未帰還者の死亡処理も含めた最終処理の前提として,留守家族団体の意向でもある調査究明の徹底を図るため,前記のとおり,
昭和33年(1958年) 12月,未帰還者について一斉特別調査を実施した。
その後,厚生省は,昭和33年(1958年)12月17日,上記措置方針に基づく試案を,引揚同胞対策審議会に諮問し,その賛意を得た。
イ 未帰還者特別措置法の施行
前記の経緯を経て,昭和34年(1959年) 3月3日,未帰還者に関する特別措置法(法律第7号。以下「未帰還者特別措置法」という。)が制定され,同法は,
同年4月 1日,施行された。同法により,民法の失踪宣告制度の特例として,利害関係人の請求によらず,厚生大臣が戦時死亡宣告の請求を行い得ることとなった。
(ア) 同法の主な内容は,次のとおりである。
第 1条(目的)
この法律は,未帰還者のうち,国がその状況に関し調査究明した結果,なおこれを明らかにすることができない者について,特別の措置を講ずることを目的とする。
第 2条(民法第30条の宣告の請求等の特例)
第 1項 留守援法2条1項に規定する未帰還者(以下「未帰還者」という。)に係る民法第30条の宣告の請求は,厚生大臣も行うことができる。
第 2項 前項の請求をする場合には,厚生大臣は,当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行わなければならない。
第 3項 第1項の規定による厚生大臣の請求に基く民法第30条の宣告(以下「戦時死亡宣告」という。)の取消の請求は,厚生大臣も行うことができる。
第 4項 厚生大臣が第1項又は前項の規定により戦時死亡宣告の請求又はその取消の請求を行う場合には,家事審判法第6条の規定は,適用しない。
第 3条(弔慰料の支給)
第 1項 未帰還者が戦時死亡宣告を受けたときは,その遺族に対し,弔慰料を支給する。
第 6条(弔慰料の額)
弔慰料の額は,戦時死亡宣告を受けた者一人につき3万円(当該戦時死亡宣告を受けた者が第13条第 1項
(注・戦傷病者戦没者遺族等援護法等の適用についての規定)の規定の適用を受ける者である場合においては,2万円)とする。
第14条(都道府県が処理する事務)
この法律に規定する厚生大臣の権限に属する事務の一部は,政令で定めるところにより,都道府県知事が行うこととすることができる。
(イ) 未帰還者特別措置法は,昭和38年(1963年)4月1日法律第74号による改正により,適用対象となる未帰還者について,従前,
軍人軍属以外の一般未帰還者については,昭和20年(1945年) 8月9日以後生存していたと認められる資料の存在を要件としていたのを緩和し,
その範囲を次のとおり拡大した(同法13条の2)。すなわち,
13条の2 次に掲げる者であって未帰還者でないものは,この法律(前条を除く。)の適用については,未帰還者とみなす。ただし,日本の国籍を有しない者は,
この限りでない。
@ 中国本土,フイリピン諸島その他の政令で定める地域内においてそれぞれ当該地域ごとに政令で定める日
(注・中国本土については昭和16年(1941年)12月8日)以後生存していたと認められる資料があるが,
諸般の事情からみてすでに死亡していると推測される者(昭和20年(1945年)
9月2日以後自己の意思により帰還しなかったと認められる者及び同日以後において自己の意思により本邦に在った者を除く。)
A 留守援法2条1項2号に規定する地域(中国本土の地域を除く。)又は前号の政令で定める地域内においてそれぞれ昭和20年(1945年)
8月9日又は同号の政令で定める日(注・前号と同じ。)前に生存していたと認められる資料があるが,それぞれこれらの日以後生存していたと認められる資料がない者で,
諸般の事情からみて同日以後に死亡したと推測されるもの
ウ 戦時死亡宣告制度の処理要領
日本政府は,未帰還者特別措置法2条において,戦時死亡宣告の請求をする場合,厚生大臣は,当該未帰還者の留守家族の意向を尊重する旨定められたことを受け,
戦時死亡宣告の請求に当たっては,次の要領で処理することとした。
日本政府は,同法2条1項各号に規定する戦時死亡宣告申立て該当者の決定について,厚生省保有の資料により,
一定の期間消息情報がないなどこれに該当すると認められる未帰還者について,あらかじめ該当予定者として,都道府県を通じて留守家族に通知し,
当該留守家族が戦時死亡宣告の申立てに同意した後に該当決定をすることとされた。
そして,都道府県においては,厚生省から通知された特別措置法該当予定者について,その留守家族(少なくとも配偶者,子,父母程度は必要とされていた。)
に調査状況を詳細に説明した上,その意向を調査し(通信調査のみでは不十分であるため,直接,間接に面接することとした。),
戦時死亡宣告の申立てに同意する場合は,同意書の提出を求めることとされた。その後,都道府県は,厚生省に報告して,特別措置法該当決定の通知を受け,
当該未帰還者の消息資料を整理して添付の上,知事名で,当該都道府県庁の所在地にある家庭裁判所に対し,戦時死亡宣告を申し立てることとされた。
このように,厚生大臣又は都道府県知事が戦時死亡宣告の請求をする場合,少なくとも,留守家族から同意書の提出を受けることが要件とされた。
日本政府は,戦時死亡宣告確定者の生存の事実が判明するなど,戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じたときには,
都道府県が利害関係人に対し民法の規定に基づく失踪宣告(戦時死亡宣告)の取消審判の申立てを行うよう指導し,利害関係人が申立てを行わない場合には,
都道府県からの通知を受け,厚生大臣が戦時死亡宣告の取消請求を行い,裁判所による審判確定後,本籍地市区町村に戸籍の処理について依頼するとともに,
都道府県を通じ,利害関係人に戦時死亡宣告の取消しについて通知することとした。
実際に戦時死亡宣告の審判申立てが行われた昭和34年(1959年)7月以降昭和51年(1976年)12月31日までにおける戦時死亡宣告の審判確定者は,
合計1万9834人(昭和34年8人,昭和35年3871人,昭和36年2879人,昭和37年5243人,昭和38年3208人,昭和39年1767人,昭和40年754人,
昭和41年から昭和51年まで順次,434人,340人,226人,306人,218人,213人,121人,108人,65人,29人,44人)で,このうち,
中国地域における未帰還者は,1万4100人(昭和34年7人,昭和35年2605人,昭和36年1868人,昭和37年3868人,昭和38年2482人,昭和39年1205人,
昭和40年519人,昭和41年から昭和51年まで順次,314人,261人,157人,238人,154人,157人,92人,81人,41人,16人,35人)であった。
(甲総39,40の1〜4,乙1,59,63〜65,106の1,2,144,証人中川昇)
(11) 未帰還者特別措置法の施行後における未帰還者調査
ア 未帰還者の調査究明活動一般
日本政府は,未帰還者特別措置法の施行後においても,未帰還者の調査究明活動は継続して実施した。すなわち,日本政府は,国内において,
帰還者全員に対する上陸地における聴取調査,厚生省や都道府県の職員による,
未帰還者の情報をもっていると思われる帰還者に対する通信による未帰還者に関する既得資料の確認・調査や帰還者の招致
又は帰還者宅への訪問による未帰還者の消息に関する情報収集等を実施するとともに,国外において,日本赤十字社ルートや留守家族ルートにより安否確認を実施した。
しかし,他方で,「自己の意思により帰還しないと認められる者」と認定し,調査究明の対象から実質的に除外する例も見られた。すなわち,留守援法2条 1項2号は,
未復員者(軍人軍属等)以外の一般邦人について,「自己の意思により帰還しないと認められる者」は未帰還者から除くと定め,
当該認定を受けた者は今後未帰還者として扱われず,帰国援護の対象から除外されることとなった。たとえば,原告X28(原告番号28)は,後記認定のとおり,
昭和28年(1953年)ころに,その姉から帰国を促され,養母の反対があったことから裁判手続となり,
その手続において残留の意思を自ら明確にして帰国しなかった経緯があったが,
日本政府から上記の「自己の意思により帰還しないと認められる者」との認定に向けて帰国意思の調査を受けた。
すなわち,同原告は,昭和29年(1954年)以降,同原告の姉にあてて何度か手紙を送付したものの,帰国意思に関するはっきりとした表明はしなかった。
しかし,同原告の本籍の所在する都道府県は,同原告の帰国意思が不詳であると認識した上,帰国意思判明後,
自己の意思により帰還しないと認められる者と認定する方向で処理することとした。その後,同原告は,昭和41年(1966年) 10月上旬,
帰国意思確認の通知を受けたものの,同通知が中国語で記載されていなかったため,その内容を知ることができなかった。そこで,同原告は,昭和41年(1966年)
11月20日付けで,手紙の内容を翻訳して送ってもらいたい旨の手紙を送付した。しかし,同原告に返信がされることはなく,逆に,上記手紙において,
「中国での生活は幸福です」と書かれた部分から,帰国意思不詳と判断され,さらに,帰国意思については回答なしとの処理がされた。
イ 生存の可能性の低い未帰還者の調査
未帰還者特別措置法の施行により戦時死亡宣告制度が創設されたことにより,生存の可能性の低い未帰還者については,
死亡を確認しうる資料又は同法2条 1項に該当すると認められる資料(留守援法に規定する未帰還者に該当すると認められる資料)の取得に向けて調査を行うこととされた。
すなわち,戦時死亡宣告制度が創設されたことにより,生存の可能性の低い未帰還者については,死亡処理に向けた調査が実施されるようになった。
また,未帰還者特別措置法の該当決定を受けた未帰還者の留守家族が,戦時死亡宣告の請求に同意しない場合,都道府県は,当該留守家族に対し,
面接の上説得するとともに同意しない理由を十分に把握してその解明に努めることとされた。
ウ 戦時死亡宣告を受けた未帰還者についての調査
日本政府は,戦時死亡宣告を受けた未帰還者についても調査を継続した。しかし,その調査方針は,
戦時死亡宣告審判確定者等死亡を確認していない者の諸資料を他の処理済者の諸資料と区別して整理保管し,機会あるごとに死亡時期,場所,
死因及び遺骨等について調査するものとされ,戦時死亡宣告を受けていない未帰還者とは異なっていた。
(甲総39,118の 1~11(各枝番を含む。),132,甲各28の3,4,16,17,19~21,乙61〜65,144)
3 日中国交回復から中国残留孤児の帰国が実現するまでの経緯
(1) 日中国交回復
昭和35年(1960年) 1月,日米安全保障条約(改定)が調印され,同年6月これが国会で自然承認となり,同年7月,池田勇人内閣が発足し,
日中関係はやや改善の方向に進み,LT貿易と称される民間相互貿易が開始され,この貿易に輸出入銀行資金の適用が認められたが,
これが未帰還者問題の改善につながることはないまま,昭和39年(1964年) 11月,佐藤栄作内閣が発足し,
厳しい東西対立を基調とする国際情勢の影響もあって日中関係の改善は進まなかった。
その後,アメリカ合衆国と中華人民共和国との間の国交が,昭和47年(1972年) 2月に事実上回復し,同年9月,田中角栄首相の訪中により,日中国交回復が実現した。
(甲総F1,62,証人古川万太郎)
(2) 帰国旅費の国庫負担制度など
ア 帰国旅費の国庫負担の対象
日本政府は,昭和37年(1962年)6月から,船運賃の他に,中国からの個別引揚げの際の中国国内旅費の国庫負担を日本赤十字社に委託して実施していたが,
日中国交回復後も,未帰還者が中国から引き揚げる際の,居住地から出港地までの中国国内旅費及び船運賃を支給する措置を継続し,昭和48年(1973年) 4月 1日,
日中国交回復に伴い,従前日本赤十字社に委託して負担していた居住地から出港地までの旅費を,国庫から直接支給することとし,さらに,
昭和49年(1974年) 9月に日中航空協定により東京・大阪と北京・上海との間に航空機の相互乗り入れが実現したことなどに伴い,昭和48年(1973年) 10月以降,
航空機により帰国した場合の運賃を支給する措置を開始した。
日本政府は,当初,帰国旅費の国庫負担の対象範囲を,未帰還者本人のほか,同行する配偶者,
未成年の子や成人した未婚の子であって本人に扶養を受けていた者等の扶養親族に限定していたが,その後,これに加えて,平成4年(1992年)以降,
身体等に障害を有する未帰還者を扶養するために同行する成年の子1世帯について,また,平成6年(1994年)以降は,
高齢の未帰還者を扶養するために同行する成年の子1世帯についても帰国旅費の援助対象とし,平成7年(1995年)度に,
高齢の未帰還者の要件を60歳以上に,平成9年(1997年)度に55歳以上に,それぞれ引き下げた。
日本政府は,例外的に,上記対象者に含まれない者についても,厚生省援護局長が引揚者に準じる者として取り扱うことを適当と認めた者については,
帰国旅費の援助対象者に含める取扱いをしていたが,この取扱いは,あくまでの例外であって,平成3年(1991年)以前,未帰還者の成人した既婚の子は,
原則として帰国旅費の援助を受けることはできなかった。したがって,帰国旅費を負担する資力のない長期未帰還者は,
帰国旅費の国庫負担の対象外の家族を中国に残して帰国する例も多かった。原告らにおいても,この例は多い。
日中国交回復後,帰国旅費の国庫負担制度を利用して帰国した帰国者世帯及び人員は,別表中国帰国者の年度別帰国状況記載のとおりであり,
うちいわゆる残留孤児の帰国世帯数は,平成16年(2004年)度までの合計で2485世帯である。
イ 一時帰国援護
日本政府は,昭和48年(1973年)度以降,未帰還者のうちいわゆる中国残留婦人を中心として,
親族訪問,墓参等を目的として中国から日本への一時帰国を希望する者が存在する状況を踏まえ,このような者に対し,
中国の居住地から日本の落ち着き先までの往復の旅費を支給する措置を開始した。
ウ 帰国旅費の国庫負担制度の周知方法
日本政府は,未帰還者の調査要領として,本籍地都道府県が留守家族に対して未帰還者等の調査の現況を連絡するとともに,
絶えず留守家族の実情の把握に努めることとし,国−都道府県−留守家族−未帰還者等という連絡の経路を築いていた。
そして,帰国旅費の国庫負担制度の周知方法としても,留守家族を経由した通信による方法を採用し,直接,
未帰還者に帰国旅費の国庫負担制度の存在を知らしめる措置は執らなかった。
エ 帰国旅費の支給申請手続
日本政府は,帰国旅費の支給申請手続についても,上記の留守家族による連絡経路を採用した。すなわち,帰国希望者は,帰国希望者が留守家族と連絡を取り,
帰国を希望する旨を伝え,留守家族において,帰国希望者の戸籍の謄本又は抄本(引揚希望者が元日本人の場合は除籍の謄本又は抄本)
を添付して居住地の都道府県あてに申請する必要があった。したがって,留守家族の協力を得られない長期未帰還者は,
帰国旅費の支給を受けることは原則としてできなかった。
オ 身元未判明の長期未帰還者の帰国援護など
日本政府は,昭和59年(1984年)3月17日,中国政府との間で,長期未帰還者問題の解決に関する口上書を交換し,昭和60年(1985年)に,
身元未判明の長期未帰還者の帰国援護を開始した。これ以降,身元未判明の長期未帰還者は,帰国手続として,
日本永住帰国希望等調査票と日本永住帰国のための旅費申請書を在中国日本国大使館に送付することとされ,他方,身元未判明の長期未帰還者以外については,
帰国希望者が,永住を目的として帰国を希望している旨の申立書(通信文で可),中国に残る親族がいる場合には,新たな離別を避けるため,
帰国希望者が永住の目的で帰国することに中国に残る親族が同意している旨を明らかにする書面を在日親族等に送付することとされた。
(乙1,2,84〜86,103,104,158,229)
(3) 日中国交回復後における身元調査
日中国交回復を契機として,中国からの引揚者や一時帰国者が急激に増大し,また,中国に残留している者からの日本国内への通信が活発化したことに伴い,
長期未帰還者(孤児)についての多くの情報が寄せられるようになった。そこで,日本政府は,日中国交回復後,寄せられた多くの情報を処理し,
長期未帰還者(おもに孤児)の身元調査を本格的に実施する必要に迫られた。日本政府及び民間により実施された身元調査活動はおおむね次のとおりである。
ア 保有資料による調査
日本政府は,日中国交回復以後,当初は,長期未帰還者(おもに孤児)やその養父母等から寄せられた手掛かり資料を基に,
未帰還者調査等により収集整理された各種資料を照合して該当者と思われる者を抽出し,都道府県を通じて家族に確認を求めるなどの方法により実施した。
イ 中国政府への協力要請等
中国の中日友好協会会長は,昭和48年(1973年)5月,永住帰国又は一時帰国を希望する長期未帰還者の帰国が実現するよう努力している旨表明し,
その後,中国首相は,同年6月,中国にいる日本人で中国人の妻や家族となっている者の里帰りを全面的に支援する旨表明した。
日本政府は,昭和48年(1973年)8月,中国政府に対し,厚生省において作成した未帰還者名簿を送付した上,@中国側で保有する資料の提供,
A帰国を希望する長期未帰還者に対し,速やかに出入国許可証を発給する措置を執ること,
B長期未帰還者と日本国大使館が必要なときにいつでも接触できるよう配慮すること,
C日本国大使館員が長期未帰還者に帰国手続等を教示するなどの目的で行う現地調査旅行を許可すること,
D公安部門の責任者と面会して事務的な話合いをすることなどを要請した。これに対し,中国政府は,日本側に協力するという基本方針を採っている旨回答したものの,
上記要請について具体的な回答はしなかった。
ウ 公開調査
幼いころ肉親と離別した長期未帰還者(孤児)は,自分や肉親の氏名,居住地や離別状況等の手掛かりを覚えていないか,記憶が曖昧であることが多く,
また,養父母が長期未帰還者(孤児)の身元の状況についての資料を有していない場合も多く,保有資料のみによる調査には限界があった。
保有資料による調査がなかなか実を結ばない状況の中,民間ボランティア団体と朝日新聞社は,同社の新聞紙上で,
長期未帰還者(孤児)から寄せられた情報を公開する方法によって肉親捜しを行うことを計画し,昭和48年(1973年)8月15日,
長期未帰還者(孤児)の情報を顔写真入りで紹介する特集記事(「生き別れた者の記録」)を掲載した。
民間団体が主体として取り組んだ上記特集記事による肉親捜しは,国民の反響を呼び,逆に,日本政府は,身元調査に対する姿勢について,
新聞紙上等において消極的である旨の批判を受けた。
日本政府は,上記特集記事が反響を呼んだことを参考にし,昭和50年(1975年)3月,新たな調査方法として公開調査を開始した。
すなわち,日本政府は,報道機関の協力を得て,長期未帰還者(孤児)の顔写真,特徴,肉親と離別した時の事柄等を新聞,
テレビ等に公開して情報を周知し身元調査を実施した。公開調査は,昭和50年(1975年) 3月から昭和56年(1981年) 1月まで合計9回実施され,
その結果,166人の長期未帰還者(孤児)の身元が確認された。
エ 訪日調査
公開調査の対象は,手紙を送付した長期未帰還者(孤児)に限定され,また,離別後長期間を経て,記憶も薄れ,資料も散逸していることも多かったため,
昭和51年(1976年)ころから,民間ボランティア団体等により,公開調査の限界が指摘され始め,
長期未帰還者(孤児)を肉親と面接させることによる調査を実施すべきとの声があがった。
日本政府は,昭和54年(1979年),民間ボランティア団体及び留守家族からの要望を踏まえ,長期未帰還者(孤児)を一定期間日本に招き,
報道機関の協力を得て肉親捜しを行う訪日調査の実施を検討し始め,昭和55年(1980年)10月28日,中国政府に対し,訪日調査について協力を要請し,
中国政府の協力を得て,昭和56年(1981年)3月,訪日調査を開始した。
訪日調査は,昭和56年(1981年) 3月から平成11年(1999年) 3月まで合計30回実施され,2116人の長期未帰還者(孤児)のうち,670人の身元が確認された。
訪日調査の具体的実施方法は,次のとおりである。まず,訪日調査の対象者は,
手掛かり資料等に基づき日中両国政府が長期未帰還者(日本人孤児)と確認した者とした。日本政府は,対象者の訪日前に,
訪日期間中の調査効率を高めるため,保有資料の調査により肉親関係者の抽出を行うとともに,報道機関の協力により手掛かり資料を公表し,
肉親関係者の名乗り出や情報の提供を求める公開調査等を行った。そして,訪日後は,まず,手掛かり資料の正確を期すため,
調査担当者により本人からの聴き取り調査(面接調査)を行い,その結果新たに把握されたり,修正された手掛かり資料については,直ちに報道機関を通じて公開した。
また,報道機関の協力により,長期未帰還者(孤児)自らがテレビに出演し,全国に身元の手掛かりを訴え,資料提供の呼びかけを行った。
そして,肉親関係者が名乗り出た場合は,長期未帰還者(孤児)と直接対面させ,身元の確認が行われた(対面調査)。
日本政府は,対面調査によって,長期未帰還者(孤児)・肉親の双方が身元確認について明確に判断できない場合や,
一人の長期未帰還者(孤児)に対して複数の関係者が名乗り出た場合等に,当事者双方の希望により,血液鑑定(平成2年(1990年)以降はDNA鑑定)を実施した
。血液鑑定の費用のうち,長期未帰還者(孤児)の負担すべき費用は全額国庫負担とされ,肉親関係者については本人負担とされた。
なお,肉親関係者のうち,経済的な事情から負担が困難と認められる者については,昭和60年(1985年)度以降,例外的に,国庫により負担することとされた。
血液鑑定を実施するかどうかについては,あくまで当事者の希望に委ねたため,血液鑑定が実施される例は少なかった。
血液鑑定を実施しない場合,肉親かどうかの認定は,長期未帰還者(孤児)及び肉親関係者の記憶等のみを基礎として判断され,
対面調査により肉親と認定されたにもかかわらず,その後,肉親でないと判明する例もあった。
さらには,肉親でないことが判明したことにより,帰国者が自殺するという事件も発生した。
訪日調査に参加した長期未帰還者(孤児)の人数,うち判明した数及び身元判明率は次表のとおりである。
回 数 参加数 判明数 判明率(%)
第 1次(昭和56年3月) 47 30 63.8
第 2次(昭和57年2月〜3月) 60 45 75.0
第 3次(昭和58年2月〜3月) 45 25 55.6
第 4次(昭和58年12月) 60 37 61.7
第 5次(昭和59年2月〜3月) 50 27 54.0
第 6次(昭和59年11月〜12月) 90 39 43.3
第 7次(昭和60年2月〜3月) 90 39 43.3
第 8次(昭和60年9月) 135 41 30.4
第 9次(昭和60年11月〜12月) 135 34 25.2
第10次(昭和61年2月〜3月) 130 34 26.2
第11次(昭和61年6月) 200 79 39.5
第12次(昭和61年9月) 200 64 32.0
第13次(昭和61年10月〜11月) 100 33 33.0
第14次(昭和61年12月) 42 15 35.7
第15次(昭和62年2月〜3月) 104 28 26.9
昭和62年度第1回(昭和62年11月) 50 10 20.0
昭和62年度第2回(昭和63年2月〜3月) 50 13 26.0
昭和63年度第1回(昭和63年6月〜7月) 35 12 34.3
昭和63年度第2回(平成元年2月〜3月) 57 9 15.8
平成元年度(平成2年2月〜3月) 46 12 26.1
平成2年度(平成2年11月〜12月) 37 4 10.8
平成3年度(平成3年11月〜12月) 50 5 10.0
平成4年度(平成4年11月〜12月) 33 4 12.1
平成5年度(平成5年10月〜11月) 32 5 15.6
平成6年度(平成6年11月〜12月) 36 5 13.9
平成7年度(平成7年10月〜11月) 67 7 10.4
平成8年度(平成8年10月〜11月) 43 4 9.3
平成9年度(平成9年10月) 45 3 6.8
平成10年度(平成10年11月) 27 5 18.5
平成11年度(平成11年11月) 20 2 10.0
合 計 2116 670
訪日調査への参加人数は,日本政府と中国政府との協議により決定された。参加人数は,上表のとおり,当初,
1回につき45人から60人程度と帰国希望者の人数からすると少なく抑えられたが,これは,
1回につき30人か40人程度の参加人数とする中国政府側の希望や日中政府間における準備作業に時間を要するという事情を踏まえたものであった。
また,中国残留孤児問題懇談会は,昭和57年(1982年) 8月26日,「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する提言の中で,
訪日調査の参加人数につき,1回60人年3回の実施が限度であるとの見方を示している。
日本政府は,第1次から第15次の訪日調査により1488人の長期未帰還者(孤児)を訪日させ,これにより大半の長期未帰還者の調査が終了したとして,今後,
長期未帰還者(孤児)からの調査依頼はさほどの件数はないとの見通しの下,訪日調査の概了宣言を行った。しかし,この後も,
長期未帰還者(孤児)からの調査依頼が続き,日本政府は,補充調査として,その後も訪日調査を継続した。
オ 訪中調査
(ア) 障害を有する長期未帰還者(孤児)の調査
日本政府は,平成3年(1991年)度及び平成4年(1992年)度に,本来,訪日調査に参加する長期未帰還者(孤児)であるが,
身体等に障害を有するため訪日できない長期未帰還者(孤児)について,厚生省の職員が長期未帰還者(孤児)の住所地まで赴き,中国政府の担当官の立会いの下,
当該長期未帰還者(孤児)から,肉親等の離別状況,日本の家族構成等に関して直接聴取調査を行い,その様子を日本で報道発表を行うためにビデオ撮影し,
報道機関を通じて世間一般に広く広報提供するため,肉親に関する情報の収集を実施した。この調査の結果,
平成3年(1991年)度及び平成4年(1992年)度に18人の長期未帰還者(孤児)について調査を行ったところ,3人の身元が判明した。
(イ) 未確定者の調査
日本政府は,長期未帰還者調査を促進するため,日中両国政府のいずれかが長期未帰還者(日本人孤児)と確認できない者(いわゆる未確定者)について,
平成6年(1994年)度以降,調査担当官を中国に派遣し,中国政府の協力の下,中国現地での長期未帰還者等との面接調査や手掛かり資料の収集等を実施し,
長期未帰還者(日本人孤児)である蓋然性が高いと判断した者については,訪日調査に参加させた。平成11年(1999年)度までに53人が訪日調査に参加し,
4人の身元が確認された。
(ウ) 訪日対面調査
日本政府は,肉親判別の手掛かり資料の減少や,長期未帰還者(孤児)の高齢化を踏まえ,平成12年(2000年)度以降,訪日調査に代えて,
@調査担当官を中国に派遣し,長期未帰還者等との面接調査を日中政府共同で行い(共同調査),
A日中両国政府で長期未帰還者(日本人孤児)と確認された者について,日本で顔写真,身体的特徴,肉親との離別の状況等の情報を「孤児名簿」として公開し,
肉親情報を収集し(情報公開調査),B肉親情報のあった者について訪日させ,肉親と思われる者との対面調査(訪日対面調査)を実施した。この調査により,
平成12年(2000年)度以降平成14年(2002年)度末までの間に46人が長期未帰還者(日本人孤児)と認定され,うち8人の身元が確認された。
なお,訪日対面調査においては,事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で長期未帰還者(日本人孤児)と確認された者については,
肉親情報がないなどにより訪日対面調査に至らない場合でも,長期未帰還者(日本人孤児)として日本に帰国できることした。
カ キャラバン調査
日本政府は,訪日調査に参加したが身元を確認することができなかった長期未帰還者(孤児)の肉親調査を促進するため,昭和62年(1987年) 8月24日,
元開拓団等の代表者からなる「身元未判明孤児肉親調査委員会」を開催し,3年計画で各都道府県に「肉親捜し調査班(同調査員及び厚生省職員)」を派遣し,
ブロック別単位で肉親関係者や開拓団関係者等の協力を得て,国内における長期未帰還者(孤児)に関する情報の収集等を実施することとした。
このようないわゆるキャラバン調査を,昭和62年(1987年)度から平成元年(1989年)度の間に,25回(各10日間)行った。具体的には,日本政府は,民間団体の協力の下,
肉親捜し調査班を編成して各都道府県に派遣し,未帰還者届を提出している関係者や当時の状況に詳しい元開拓団関係者等と面接して情報収集を行い,
この調査により,15人の長期未帰還者について有力情報を得た。このうち12人については中国政府の協力を得て,
再度訪日調査に参加させた結果,9人の身元が確認された。
(甲総41,42の 1~4,43,甲総A4の105〜112,114〜117,119,5の 1~21,23,26~33,36,38~41,43,51,52,55~67,6の 1~23,27,30~102(枝番を含む。),106,108~111,9の 1,
乙 1〜3,66〜80,88,137〜143,157の 1,2,158,216,証人菅原幸助,証人中川昇)
(4) 養父母の扶養費の支給
永住帰国をする長期未帰還者(孤児)の増加に伴い,中国に残される養父母の扶養の問題が顕在化した。
終戦後長期間にわたって孤児の生活の面倒をみた高齢の養父母の扶養及びその精神的打撃をどうするかは,
永住帰国を決断する長期未帰還者(孤児)及び中国政府にとって深刻な問題であった。
しかし,現実に永住帰国した帰国者が中国に残る家族を扶養することは困難であった。そこで,日本政府は,「中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について」
(昭和58年(1983年)4月閣議了解)等に基づき,養父母の扶養費として,中国政府と取り決めた一定金額を援助することとし,昭和59年(1984年) 3月17日,
中国政府との間で,長期未帰還者(孤児)が中国に残る養父母に対して負担すべき扶養費の2分の 1は,日本政府が援助することを内容とする口上書を交わした。
その後,日本政府は,昭和61年(1986年) 5月9日,中国政府との間で,扶養費の具体的な金額,送金方法等について定めた口上書を交わした。
そして,日本政府は,中国政府との間で合意した上記扶養費(帰国孤児 1人当たりの養父母などの被扶養者を 1人と計算し,月額60元,15年分を一括して支払う。)を,
日本政府と財団法人中国残留孤児援護基金がそれぞれ2分の 1ずつ負担し,同基金から一括して中国紅十字会総会を経由して養父母などに転送されることとなった。
昭和61年(1986年)から平成16年(2004年)までに送金された金額は,2997人分8億5659万余円である。
国としては,この扶養費の性格は,養父母の今後の生活を維持するための扶養費であって,
本来孤児が負担すべき養父母などの生活費を国と国民が肩代わりしたものととらえている。
(甲総A6の34〜75,乙2,3,108〜110,159)
(5) 長期未帰還者(中国残留孤児)の入国手続
ア 長期未帰還者(中国残留孤児)の入国手続に関する日本政府の取扱い
日本政府は,出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)上,長期未帰還者(中国残留孤児)を外国人として取り扱った。
すなわち,日本人の帰国について,入管法61条は,「本邦外の地域から本邦に帰国する日本人(乗員を除く。)は,
有効な旅券(有効な旅券を所持することができないときは,日本の国籍を有することを証する文書)を所持し,その者が上陸する出入国港において,
法務省令で定める手続により,入国審査官から帰国の確認を受けなければならない。」と定める。長期未帰還者のうちいわゆる中国残留孤児は,
終戦前後の混乱の中,若年で肉親と離別しており,有効な日本の旅券は有していなかった。原告らにおいても,終戦前から有していた日本旅券により帰国した者はいない。
また,入管法61条の規定によれば,有効な旅券を所持しないときは,日本の国籍を有することを証する文書でも足りるものの,
身元の判明しない長期未帰還者(中国残留孤児)はもちろん,身元の判明している長期未帰還者(中国残留孤児)においても,
入国手続においてこれを立証することは困難であった。また,仮に日本国籍取得の事実が確認されたとしても,これらの者は中国から旅券の発給を受けた者,
すなわち,中国国籍を取得した者であり,このような者は,旧国籍法(明治32年法律第66号,大正5年法律第27号により改正後のもの)下(昭和25年(1950年)
6月30日以前)で婚姻,認知等により中国国籍を取得したことにより日本国籍を喪失し(旧国籍法18条,23条),又は,
自己の志望によって外国の国籍を取得した(国籍法11条1項,昭和59年法律第45号による改正前の同法8条)ことにより,日本国籍を喪失していることがある。
このように,中国旅券で日本に上陸しようとする長期未帰還者(中国残留孤児)のうちには,帰国時において,そもそも日本国籍を取得した事実すら確認できない者のほか,
これを喪失した事実が疑われる者もおり,これらの者は,日本国籍を有することを確認できない者として取り扱われた。
そして,一般的に,外国人の入国は,有効な旅券又は乗員手帳を所持し,かつ,正規の手続に従い,
入国審査官から上陸の許可を受けて日本に上陸しようとする者であることが要件とされ(入管法3条 1項),さらに,外国人の本邦への上陸に関しては,
原則として有効な旅券で日本国領事館等の査証を受けたものを所持しなければならず,かつ,その者が上陸しようとする出入国港において,
法務省令で定める手続により,入国審査官による上陸のための審査を受け,その許可を受けることが要件とされている(入管法6条以下)。
そして,外国人が上陸のための審査を受けるに当たっては,身元保証書の提出を要することとされているから(平成2年法務省令第15号改正前の入管法施行規則6条9号),
中国旅券を所持して日本に上陸しようとする外国人は,あらかじめ査証申請の際に身元保証書を提出しておくことが必要であった。そして,身元保証人には,入管法上,
当該外国人の滞在費用,帰国費用及び法令の遵守について保証することとされている。
したがって,日本に身寄りがなく身元保証人を確保できない身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)は,事実上,日本に帰国することは不可能であった。
外国人の入国に際して要求される身元保証人の資格は,一般的に,日本人又は在留期間3年以上の在留資格を有し現に日本に在留する外国人に広く認められている。
しかし,日本政府は,長期未帰還者(中国残留孤児)の身元保証人には,親族しか就任できない取扱いをしていた。もっとも,親族以外の者も,
申請に至った経緯を明らかにする書面を提出すれば身元保証人に就任する余地もあったが,認められる例はまれであった。これは,当初,日本政府が,
留守家族からの届出によって未帰還者を把握し,留守家族と未帰還者との通信等のやり取りにより本人確認をしていた経緯により,
帰国手続における身元判明の長期未帰還者(中国残留孤児)の身元確認についても,その親族によりされるのが迅速かつ的確であると考えられたこと,
帰国後の長期未帰還者(中国残留孤児)の日本社会への早期定着,自立促進のためには,
できるだけ親族が身元を引き受けることが適切であると考えられたためであった。そのため,身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)はもちろん,
身元の判明している長期未帰還者(中国残留孤児)についても,帰国に際し留守家族の協力が得られない限り,帰国することは困難であった。
また,日本政府は,長期未帰還者(中国残留孤児)については,運用として,身元保証書のほかに,長期未帰還者(中国残留孤児)の帰国後の生活に対する配慮から,
原則として就職先の採用証明書の提出を求めた。このため,長期未帰還者(中国残留孤児)は,
あらかじめ日本における就職先を確保しないと永住帰国することができなかった。
イ 身元引受人制度の創設
身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)については,当初,帰国する場合に身元保証人が必要とされていたが,訪日調査の回を追うごとに,
調査の結果身元の判明しなかった身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)が増加し,これらの者から,たとえ身元が判明しなくとも,
自らの故郷である日本へ永住帰国したいとの希望が寄せられることが多かった。
しかし,前記のとおり,身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)については,在日親族や知人がいないことや身元保証人を捜す手段や連絡方法もないことから,
身元保証人を立てて帰国することが困難な状況にあった。
中国残留日本人孤児問題懇談会は,昭和57年(1982年) 8月26日,「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する提言において,
身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)の受入れについて,肉親に代わって相談相手となり,助言・指導を行う身元引受人制度を創設することを提案した。
そこで,日本政府は,昭和58年(1983年) 1月,中国政府との間で中国残留日本人孤児問題の解決を踏まえた協議を行い,その結果,
昭和59年(1984年)に日中両国政府間に取り交わされた口上書において,「日本への帰国を望む孤児は,
肉親の有無にかかわらずその同伴する中国の家族とともに永住させること」が確認された。
日本政府は,身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)及びその家族の帰国を促進するため,昭和60年(1985年)度以降,身元保証人の代替措置として,
帰国旅費国庫負担承認書及び定着促進センターへの入所通知をもって,身元保証人がなくても入国査証を発給することとし,帰国後,
定着促進センターに入所中に身元保証人に代わる身元引受人をあっせんすることとした。
ウ 特別身元引受人制度の創設
前記のとおり,身元引受人制度の創設により,身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)は,身元保証人がなくても永住帰国することが可能となった。
しかし,身元の判明している長期未帰還者(中国残留孤児)は,昭和60年(1985年)度以降においても,親族による身元保証人を要求されたため,
親族の協力を得られない場合は,永住帰国することが困難な制度となっており,現実においても,
長期未帰還者(中国残留孤児)が帰国に際して親族の協力を得ることが現実に困難な場合が多かった。
すなわち,終戦前後の混乱や日中国交回復までの段階で既に両親が死亡している場合には,親族といっても,叔父や叔母といった血縁の薄い者であり,
肉親としての愛情が持てず,自己の生活を犠牲にしてまで長期未帰還者(中国残留孤児)の受入れを期待するのは難しかった。仮に両親が存命であっても,
日本において新しい生活を築いている場合のほか,相続問題や帰国後の生活援助の負担等の事情から,
身元判明の長期未帰還者(中国残留孤児)が親族の協力を得ることは困難な場合が多かった。長期未帰還者(中国残留孤児)の中には,
親族の協力を得られないため永住帰国することができず,これを嘆いて自殺に至った例も発生した。
日本政府は,昭和61年(1986年)から,終戦前に中国に渡航し,その後も引き続き同地に居住している者(いわゆる残留孤児を含む。)のうち,
日本戸籍の存在が確認され,又は新たに日本戸籍への就籍が許可された者及びこれに同伴する一定範囲の家族については,身元保証書の提出を不要とし,
在日関係者からの招へい理由書(身元未判明のいわゆる残留孤児で,定着促進センターに入所する者については,本人からの帰国理由書をもってこれに代える。)
及び戸籍謄抄本の提出があれば,中国旅券に在中国の日本公館限りで査証の発給を受けて永住帰国できるよう取り扱うこととした。
しかし,長期未帰還者(中国残留孤児)は,この取扱いによっても,日本戸籍の謄抄本のほか,通常の場合は在日関係者からの招へい理由書の提出が求められ,
親族による協力なしでの永住帰国が困難な状態は続いた。
日本政府は,平成元年(1989年)7月,肉親(三親等内の親族で戸籍は回復されていないが,訪日調査等により肉親関係を確認された者を含む)
との血縁関係が遠い等の特別の事情のため,永住帰国できない身元判明のいわゆる中国残留孤児を対象として,帰国,日本社会への早期定着,自立促進を図るため,
帰国手続や帰国後の受入れを行う特別身元引受人制度を創設し,一定の要件を満たせば,身元保証人がなくても,永住帰国を認めることとした。
しかし,特別身元引受人制度の利用は,@肉親が死亡している場合又は不明である場合,A肉親が長期未帰還者(中国残留孤児)の受入を拒否し,
長期にわたり説得したにもかかわらず納得が得られない場合,Bその他肉親が家庭の事情等により長期未帰還者(中国残留孤児)を受け入れることができないなど,
肉親以外の者が帰国受入れを行うことがやむを得ないと判断される場合のように,親族による受入れが不可能な場合に限られていた。また,日本政府は,
上記A及びBの場合において,特別身元引受人の決定がされた場合には,身元判明の長期未帰還者(中国残留孤児)の親族から,
長期未帰還者(中国残留孤児)が特別身元引受人を行う帰国手続により,永住帰国することに異存がない旨の確認書の提出を求めることとしていた。
したがって,長期未帰還者(中国残留孤児)は,肉親から,上記確認書の提出すら拒否された場合,特別身元引受人制度を利用して永住帰国することはできなかった。
日本政府は,平成3年(1991年),上記取扱いを変更し,上記確認書の提出を省略できることとした。
こうした中,平成5年(1993年) 9月5日,いわゆる残留婦人12人が,身元引受人がないまま突然成田空港に帰国し,「私たちを祖国で死なせて」
と当時の内閣総理大臣に対する陳情文を携え永住帰国を訴えるいわゆる強行帰国事件が発生した。この事件を契機として,日本政府は,平成5年(1993年)12月,
特別身元引受人制度の改善を行い,@従来は肉親を6か月間説得してそれでも納得が得られない場合に初めて特別身元引受人のあっせんを開始していた取扱いを,
遅くとも2か月以内と短縮し,A特別身元引受人をあっせんすることとなる帰国希望者については,帰国旅費の申請は,帰国希望者本人が直接行うものとし,
B特別身元引受人のあっせんは帰国前に行うことを原則としつつ,あらかじめ把握した本人の帰国希望時期から相当期間
(10か月程度)を経過しても何らかの事情により特別身元引受人のあっせんが困難なときは,一旦,帰国受入れを行うこととした。
日本政府は,上記のとおり,特別身元引受人の役割から長期未帰還者(中国残留孤児)の帰国手続の処理を除外することとし,これにより,
特別身元引受人と身元未判明の長期未帰還者(中国残留孤児)に対する身元引受人との役割が同様となったため,平成7年(1995年) 2月,両制度を一本化した。
特別身元引受人の登録者数は,上記制度変更後である平成6年(1994年) 3月31日現在で565人(個人及び法人を含む。以下同じ。)であったが,
変更前は,平成5年(1993年) 5月31日現在で228人,同年11月30日現在328人にとどまり,あっせん実績も,平成5年(1993年) 5月31日までの約4年間の累計で,
いわゆる中国残留孤児については45件であった。
(甲総49の 1,2,68,83,84の 1,2,86,89,90,123の 1,2,甲総A7の 1~5,9の 1,甲総D 1の2〜4,乙2,13〜15,83〜98,133〜135,183,218〜221,
枝番のあるものについては,枝番を含む。)
4 原告らの帰国状況
原告らの帰国状況は,( 1)以下のとおりであるが,帰国時期別にみると,昭和50年(1975年) 1人,昭和54年(1979年) 2人,昭和55年(1980年) 4人,
昭和57年(1982年) 2人,昭和59年(1984年) 1人,昭和60年(1985年) 3人,昭和61年(1986年) 2人,昭和62年(1987年) 4人,昭和63年(1988年) 5人,
平成元年(1989年) 5人,平成2年(1990年) 1人,平成3年(1991年) 4人,平成5年(1993年) 1人,平成6年(1994年) 1人,平成9年(1997年) 1人,
平成10年(1998年) 2人,平成12年(2000年) 1人である。
(1) 原告X01(原告番号 1)
原告X01は,昭和53年(1978年)夏ころ,北京の日本国大使館に肉親捜しを求める手紙を出した。国は,昭和55年(1980年) 1月10日,第8回公開調査として,
同原告の顔写真と情報を新聞紙上で公開したが,これに対する身元確認を求める情報はなかった。
同原告は,身元は判明していなかったものの,昭和56年(1981年) 7月,家財を売り払って渡航手続の費用・旅費を捻出し,子ども3人を連れて,一時帰国をした。
同原告は,一時帰国後,牡丹江市公証処の孤児証明書をよりどころとして東京家庭裁判所の就籍許可申立てを行い,昭和57年(1982年) 3月 1日,就籍許可を得て,
そのまま永住帰国するに至っている。
(2) 原告X02(原告番号2)
原告X02は,昭和51年(1976年),日本国大使館に手紙を出し,自分や家族の情報を伝え,その 1か月後,大使館からの返答により,自己の身元を知った。
同原告は,すぐに,親族に手紙を出し,昭和52年(1977年) 4月10日,父方の親族から手紙を受けた。しかし,その内容は,日本での生活は楽でないし,
中国で結婚し子どももいるのであるから,家族での永住帰国は賛成できないというものであり,
帰国旅費の申請や身元保証人の就任等について協力を得ることはできなかった。その後,同原告は,昭和53年(1978年)ころ,
永住帰国に協力してもらえる親族を捜し当て,昭和54年(1979年) 6月26日,永住帰国をした。
(3) 原告X03(原告番号3)
原告X03は,昭和50年(1975年) 8月13日,知り合いの長期未帰還者(孤児)から教わったやり方に従い,
岩手県厚生援護課あてに身元調査を依頼する内容の手紙を出した。原告の手紙を受け取った岩手県厚生援護課は,
直ちに調査を実施したものの該当者が見つからなかった。そこで,同原告は,同年9月 1日,厚生省に全国的な調査依頼をすべく手紙を送った。
しかし,同原告が昭和56年(1981年) 2月に第 1次訪日調査に参加するまでの約6年間,日本政府からの連絡はなかった。
同原告は,第 1次訪日調査に参加し,身元が判明し,昭和57年(1982年)10月21日,永住帰国をした。
(4) 原告X04(原告番号4)
原告X04は,昭和56年(1981年) 8月,初めて日本国大使館に身元調査及び帰国を求める手紙を出した。日本政府は,同年12月ころ,
同原告に対して調査票を送付した。身元未判明の長期未帰還者が帰国できる制度が設けられたのは昭和60年(1985年) 3月であり,
同原告が厚生省に手紙を送ったころには,身元未判明の長期未帰還者の帰国の方法自体がなかった。そのため,身元未判明の同原告は,当時,
帰国することはできなかった。
同原告は,ボランティアから,身元未判明でも就籍許可の審判を受けて,永住帰国する方法があることを教えられ,
そのために必要な資料や陳述書等について具体的に教示を受けた。同原告と妻は,ボランティアを代理人として東京家庭裁判所に対し就籍許可審判を申し立てた。
同原告は,昭和60年(1985年) 9月,訪日調査に参加し,その際,横浜家庭裁判所に赴き,上記就籍許可審判の手続を進めることができ,同年11月,
就籍許可の審判を得た。同原告は,国庫負担による旅費の受給の見込みが立たなかったため,民間でカンパを募って集めた帰国旅費で,昭和61年(1986年)10月,
帰国した。
(5) 原告X05(原告番号5)
原告X05は,昭和53年(1978年)ころ,日本に一時帰国する知人に,同原告の情報と姉を捜したいという希望等を記した手紙と写真を託した。
この手紙と写真は,遅くとも,昭和60年(1985年) 2月27日には,大阪府を通じて厚生省に受理された。同原告は,昭和53年(1978年)ころから,厚生省に対し,
約20通にも及ぶ手紙を出し続けた。しかし,厚生省から同原告に対する連絡はなく,昭和56年(1981年)ころ,
厚生省から同原告にあてて肉親調査票の用紙が送られてきた。同原告は,直ちに同調査票に必要事項を記入して,写真を同封し,返送した。
同原告は,その後も,数回にわたって手紙を書いたが,日本政府からは一切連絡がなかった。
その後,米国人と結婚して米国に住んでいた長姉孝子から,昭和59年(1984年) 1月4日,同原告に対して手紙が届き,その約 1週間後には,大分県福祉課から,
同原告の戸籍がまだ残っていることを知らせる手紙が届いた。同原告は,昭和59年(1984年)10月23日,次姉節子に手続をとってもらい,一時帰国をした。
しかし,同人は同原告の身元保証人になることを承諾せず,同原告はいったん中国に戻った。
同原告は,平成3年(1991年) 1月31日,死亡した次姉節子の夫に強く懇願して身元保証人になってもらい,永住帰国の申請をし,平成3年(1991年) 6月6日,
夫とともに永住帰国をした。
(6) 原告X06(原告番号6)
原告X06は,昭和57年(1982年)から昭和60年(1985年)までの間に,厚生省に対し,早期帰国を実現するよう,少なくとも7通の手紙を送付した。
同原告は,昭和60年(1985年)に訪日調査に参加できるとの連絡を受け,同年9月14日,第8次訪日調査に参加したが,同原告の身元は判明しなかった。
同原告は,訪日調査から約2年半後の昭和63年(1988年) 2月3日,夫と二人の子とともに永住帰国をした。
(7) 原告X07(原告番号7)
厚生省援護局長は,昭和32年(1957年)11月2日,原告X07について,死亡認定所見を作成し,これ以降,同原告は,死亡したものとして取り扱われたが,
同原告が日本国大使館等に手紙を書くなどしてから,同原告についての調査が再開された。
同原告は,昭和53年(1978年)ころから,帰国の意思を固め,その準備をし,昭和54年(1979年)ころから,日本国大使館等に帰国を希望する手紙を書き始めた。
同原告は,昭和61年(1986年),第10次訪日調査に参加することができ,これを契機として,昭和62年(1987年) 3月31日に,異母兄姉が親族として名乗り出て,
身元が判明した。しかし,同原告は,親族の同意が得られず,そのまま永住帰国することはできなかった。
同原告は,平成5年(1993年),特別身元引受人制度について,偶然ラジオで知り,その後,中国で知り合った帰国者に特別身元引受人になってもらい,
平成6年(1994年) 6月,永住帰国した。
(8) 原告X08(原告番号8)
原告X08は,昭和20年(1945年) 8月14日死亡したとして,昭和26年(1951年) 7月21日親族の届出により,除籍された。
その後,同原告は,死亡したものとして取り扱われたが,昭和54年(1979年)ころ,日本政府に対し,身元調査を依頼する手紙を,
近くに住むいわゆる残留婦人に依頼して送付するようになった。同原告は,昭和55年(1980年) 5月27日,
同原告が日本人であることを証明する中国政府発行の公証書の交付を受け,同原告が調査した結果判明した情報を日本政府に伝え,昭和57年(1982年)ころ,
同原告の身元が判明した。しかし,同原告の父は,日本に帰国後養子として養子縁組をして,しかも,既に高齢で病気を抱え,貧しい生活を送っており,
同原告の身元保証人となってもらうことはできなかった。
同原告は,昭和58年(1983年) 9月8日,戸籍訂正許可審判の確定を受け,昭和59年(1984年) 2月24日,一時帰国し,ボランティアに身元保証人への就任を依頼し,
昭和62年(1987年) 1月28日永住帰国した。
(9) 原告X09(原告番号9)
原告X09は,昭和60年(1985年)に訪日調査の存在を初めて知り,そのころ,作家である山崎豊子氏の取材を受け,同氏に対し,
訪日調査のための手続の援助を求めた。同氏による働きかけの結果,同年10月ころ,厚生省から同原告に対し,調査票が届き,同原告は,昭和61年(1986年) 6月,
第11次訪日調査に参加し,身元は判明しなかったものの,妻と次女とともに永住帰国した。
(10) 原告X10(原告番号10)
原告X10は,日本における家族の所在を知り,昭和52年(1977年) 11月8日,一時帰国をすることができた。しかし,母や兄弟が永住帰国を望んでくれてはいたが,
中国に残る養母のこと等を思い,結局,いったん中国に戻り,養母が亡くなるまではその経済生活を支えるとの決断をし,
養母が死亡した翌年である平成元年(1989年) 5月12日,妻と未成年の4男とともに,永住帰国した。
(11) 原告X11(原告番号11)
原告X11は,中国政府から自分が日本人孤児であることの認定を受け,昭和60年(1985年) 5月28日と同年6月24日,厚生省援護局調査資料室に手紙を出し,
自分が孤児となった状況を説明し,肉親を捜すよう依頼した。その後,厚生省に最初に手紙を出してから2年半後の昭和62年(1987年) 11月,
第16次訪日調査団への参加が実現したが,身元は判明しなかった。同原告は,日本への永住帰国を強く希望したが,知人に身元引受人を引き受けてもらえず,
断念し,その後,約1年間かけて,その知人に身元引受人への就任を説得し,これを受け入れてもらうことができ,平成元年(1989年) 10月3日,永住帰国した。
(12) 原告X12(原告番号12)
原告X12は,平成4年(1992年),終戦後両親から同原告を預けられた中国人の息子から,同原告が肉親と離別した経緯を知り,自分が日本人であることを確信し,
平成5年(1993年),定着促進センターにあてて手紙を出し,平成8年(1996年),訪日調査に参加した。身元は判明しなかったが,平成10年(1998年) 2月12日,
永住帰国をした。
(13) 原告X13(原告番号13)
原告X13は,内モンゴル自治区に住んでいたため,日中国交回復の事実も知らないまま,長期間を過ごし,昭和61年(1986年) 6月,第11次訪日調査に参加したが,
身元は判明しなかった。同原告は,当時,国費による同伴帰国ができるのは配偶者と20歳未満の子どもに限られており,永住帰国する場合は,養母,
23歳で既婚の長男夫婦と孫,20歳に達している長女と別れなければならなかった。そのため,同原告は,永住帰国する決断をすることができなかった。
同原告は,平成11年(1999年),訪日調査に参加し,長期未帰還者が55歳以上の場合,長期未帰還者を扶養する子供世帯1世帯につき,
国費による同伴帰国の制度があることを知り,平成12年(2000年) 6月13日,この制度を利用し,永住帰国をした。
(14) 原告X14(原告番号14)
原告X14は,昭和56年(1981年) 7月,厚生省援護局調査資料室にあてて,孤児証明書と2枚の写真を同封して一刻も早く日本に帰国したいという手紙を出し,
昭和59年(1984年) 5月,厚生省に手紙を送り,日本に帰るにはどのような手続をする必要があるか問い合わせた。同年12月に日本国大使館から連絡があり,
昭和60年(1985年) 2月25日からの訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。同原告は永住帰国を希望したが,昭和60年(1985年) 2月当時,
身元未判明の孤児を永住帰国させる措置はとられていなかったため,同原告は,ボランティアの協力を得て,就籍申立てを行い,同年3月27日,就籍し,
昭和62年(1987年) 4月7日家族とともに永住帰国した。
(15) 原告X15(原告番号15)
原告X15の兄は,昭和29年(1954年) 7月7日,日本政府に未帰還届を出して,同原告が中国で健在であること,同原告の中国における住所及び中国名を明らかにした。
厚生省は,昭和31年(1956年) 3月,同原告の姉に手紙を送り,同原告の所在を確認した。同原告は,昭和50年(1975年),親族の援助により一時帰国し,
兄に,永住帰国の意思を伝えた。しかし,兄を含む親族は,同原告ら家族7人が帰国したときの負担の重さを考えて,同原告の永住帰国に賛成することはできなかった。
結局,同原告は,永住帰国を断念して,中国に戻った。同原告は,その後,知人の協力も得て,兄を説得し,平成3年(1991年) 2月8日,永住帰国した。
(16) 原告X16(原告番号16)
昭和30年(1955年) 12月7日付で原告X16から日本の親族に送られた手紙が,親族の手を経て,昭和31年(1956年) 1月9日,日本政府に届けられた。
日本政府は,既に,このころまでに,同原告の所在を把握していた。同原告は,昭和49年(1974年) 2月28日,同原告の姉,
同原告の2人の子の合計4人で日本に一時帰国をし,約半年間,日本に滞在し,その後,昭和55年(1980年) 8月7日,永住帰国した。
(17) 原告X17(原告番号17)
原告X17は,厚生省に対し,知人を通して,同原告が肉親と別れた時の状況等を記載した手紙を送った。日本政府は,昭和50年(1975年) 10月8日に,
原告X17の公開調査を実施し,同年10月14日までに,この新聞記事を見た姉三和子からの連絡で,身元が確認された。同原告は,姉の援助により,
昭和52年(1977年),一時帰国し,その後,永住帰国を決意して,昭和55年(1980年) 11月,永住帰国した。
(18) 原告X18(原告番号18)
原告X18は,昭和51年(1976年),日中国交回復を知り,そのころから3回にわたり,日本国大使館に対して手紙を送り,肉親の調査と帰国の実現を求め,
昭和54年(1979年) 10月,日本人ボランティアと出会い,同原告が帰国を希望している旨の記事を朝日新聞に掲載してもらうことができた。
その後,同原告は,昭和59年(1984年),ボランティアの協力により,浦和家庭裁判所(現さいたま家庭裁判所)に就籍の申立てをし,昭和60年(1985年),
訪日調査に参加することができたが,身元は判明しなかった。
同原告は,3人の成年の子及びその家族について国費による旅費の支給を受けることができないことのほか,
旅費の申請をして定着促進センターに入所するという公式の手続を踏むと帰国がいつ実現するのか見込みが立たないことから,国費帰国を断念し,
昭和61年(1986年) 6月9日,自費で帰国した。
(19) 原告X19(原告番号19)
原告X19は,平成8年(1996年) 10月,第27次訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。同原告は永住帰国を希望したが,
身元引受人のあっせんがなかなか進まず,平成9年(1997年)6月11日,永住帰国をすることができた。
(20) 原告X20(原告番号20)
原告X20は,昭和61年(1986年) 9月の第12次訪日調査に参加し,厚生省の担当者に対し,身元の判明・未判明を問わず帰国したい旨述べ,
平成元年(1989年) 3月6日,永住帰国した。
(21) 原告X21(原告番号21)
原告X21は,戦時死亡宣告制度により,昭和38年(1963年) 1月9日付けで,昭和22年(1947年) 2月1日死亡とみなされ,戸籍を抹消された。
同原告は,日中国交回復前,帰国できた可能性がないとはいえなかった。すなわち,同原告と同じ開拓団の出身で,かつ,
同じ収容所にいた長瀞町(同県内で荒川村に近い)の新井けさ子(いわゆる残留婦人)は,昭和30年(1955年)ころから郷里と手紙を交換し,
帰国の援助を求め,新井の留守家族と長瀞町の協力により,昭和37年(1962年)に日本政府から日本人であることの証明書の交付を受け,
これを日本赤十字社に送り,中国政府の出国許可証があれば帰国できると教えられ,それらの手続を済ませて昭和39年(1964年),永住帰国をした。
同原告は,日中国交回復後,うろ覚えであった叔母の名前と住所を頼りに,埼玉県経由で同人に手紙を出し,しばらくして,叔母から,「住む家もない。
あなた方は日本語もできない。私は援助もできない。日本へ帰ってこない方がいい。」旨の返信を受けた。その後,荒川村や同原告と同じ開拓団出身の帰国者が,
同原告とその妹の帰国を援助し,同原告とその妹は,荒川村がとった手続により,昭和51年(1976年) 5月22日戦時死亡宣告取消の審判の確定を受け,
村長が身元引受人となり,昭和51年(1976年) 9月,一時帰国をした。
同原告は,中国に戻り,永住帰国することについて夫を説得し,その後,日本における生活への不安から永住帰国に躊躇したものの,昭和55年(1980年) 12月,
荒川村や同原告と同じ開拓団出身の帰国者の協力により,永住帰国をした。
(22) 原告X22(原告番号22)
原告X22は,日中国交回復以降,何度も,日本国大使館に手紙を書き,帰国の実現や肉親の調査を求め,昭和50年(1975年)には,
日本人孤児であることの証明書を提出した。しかし,同原告の身元は,昭和56年(1981年)の第9回公開調査で判明せず,
昭和58年(1983年) 12月の第4次訪日調査によっても判明しなかった。当時,身元未判明の未帰還者(孤児)のための身元引受人制度は導入されておらず,
永住帰国はできなかった。同原告は,福島県在住の日本人から,農業の後継者とし養子にしたいとの申出を受け,昭和59年(1984年) 9月以降帰国手続を進め,
日本政府からの帰国許可を待っていたが,昭和60年(1985年) 2月,養子の申出をした日本人が死亡し,同原告の帰国手続は中断した。
同原告は,帰国できるものと信じて中国ですべての家財道具を売り払い,子どもたちは学校を退学し帰国準備を整えた後であった。
同原告は,昭和60年(1985年) 12月9日,新設された身元引受人制度を利用して,永住帰国をした。
(23) 原告X23(原告番号23)
原告X23は,昭和58年(1983年)及び昭和59年(1984年)ころ,中国紅十字会主催の交流会で肉親捜しや帰国についての情報に接し,さらに訪日調査の存在を知り,
その申請をして,昭和61年(1986年) 9月,第12次訪日調査に参加した。同原告は,そこで,同原告の兄ではないかと名乗り出た男性との間で血液鑑定を行なった。
日本政府は,昭和62年(1987年) 1月,同原告に対し,肉親関係がないことが明らかになった旨の書簡を送付した。
また,日本政府は,昭和61年(1986年),上記男性の母と同原告との間の肉親関係を確認するため血液鑑定を行っていたが,
本件訴訟に至るまでその結果を同原告に知らせなかった。同原告は,民間ボランティア団体の援助を得て,平成2年(1990年),永住帰国をした。
(24) 原告X24(原告番号24)
原告X24は,1960年代ころ,同じ開拓団で隣人であった未帰還者のところに,同原告の親族から手紙が届いたことをきっかけとして,日本に住む叔母らとの間で,
文通をするようになった。同原告は,昭和48年(1973年) 2月12日,兵庫県民生部援護局に,帰国したいが旅費がない旨の手紙を出したが,返信はなかった。
同原告は,自ら帰国の手はずを整え,昭和52年(1977年) 12月,一時帰国をした。そして,同原告は,昭和55年(1980年) 12月,日本に住む親族の協力を得て,
永住帰国した。
(25) 原告X25(原告番号25)
原告X25は,終戦時10歳で,日本人であることの自覚があり,自分の名前も,両親をはじめとする親族や日本人としての生活の記憶も鮮明であった。
同原告は,昭和32年(1957年),収容所で生き別れとなったいとこの鎌吉から手紙を受け取り,同人が中国で生存していることを知った。
鎌吉は,昭和43年(1968年),自力で日本に帰国した。同原告は,鎌吉の帰国後,同人の母との間で手紙のやり取りができるようになった。
同原告は,一時帰国の制度があることを知り,昭和49年(1974年)以前から,その手続への協力を鎌吉ら親族に依頼していたが,
親族らも,経済的な理由や日本語のできない同原告が帰国しても日本での生活になじめないことなどを危惧し,手続は進まず,昭和51年(1976年) 5月,
鎌吉に手続をとってもらい,里帰りの制度を利用して一時帰国した。鎌吉ら親族は,同原告が日本に永住帰国することに強く反対し,身元保証人となることを承諾せず,
同原告は,同原告の三女の配偶者の母に身元保証人を引き受けてもらい,昭和60年(1985年)6月,永住帰国をした。
(26) 原告X26(原告番号26)
原告X26は,昭和59年(1984年),人づてに訪日調査の存在を知り,同年5月13日,厚生省援護局に,自分が日本人孤児であり,
肉親を捜しに日本に帰国したい旨の手紙を出し,日本国大使館あてにも何度か手紙を出し,同年7月15日,再び,同援護局に手紙を出し,昭和61年(1986年) 2月,
第10次訪日調査団に参加して一時帰国した。
同原告の身元は判明しなかったが,迷った末,永住帰国を決意して,平成3年(1991年)に夫と未成年の次男とともに永住帰国した。既に成人していた長女と長男は,
帰国援助の対象外であり,同伴帰国することができなかった。
(27) 原告X27(原告番号27)
原告X27は,昭和54年(1979年),日本国大使館に,肉親を捜す方法を教えてほしいとの内容の手紙を出し,
大使館から送付された所在調査依頼書に記入して返送するなど何回かやりとりをし,厚生省にも同じ内容の手紙を出し,昭和58年(1983年) 3月,
第3回訪日調査に参加し,その身元が判明した。同原告は,直ちに帰国したいと考えたが,叔父から身元保証人となることを拒否されたため,帰国は実現しなかった。
その後,ボランティアの説得によって叔父が身元保証人の就任を承諾し,結局,平成元年(1989年) 2月,永住帰国した。
(28) 原告X28(原告番号28)
原告X28は,その姉が,シベリア抑留から帰国した父親の指示により,昭和28年(1953年)春,斉々哈爾市内の同原告の養家を訪問し,
同原告に同姉とともに帰国することを促し,これに反対する養母との間で裁判となった。裁判所は同原告に自ら意思決定するよう求めたが,
同原告は,実子以上に自分を愛してくれている養母らを残して帰国する決断ができず,中国に残留することとなった。
日本政府は,昭和34年(1959年) 3月の未帰還者特別措置法制定以降,同原告を,自己の意思により帰還しないと認められる者と認定し,
調査究明及び帰還促進の対象から除外していた。
同原告は,昭和49年(1974年),日本政府に対し,旅費国庫負担申請等の帰国の手続をとり,昭和51年(1976年) 1月13日,一時帰国した。
同原告は,昭和55年(1980年),ボランティアから帰国手続の教示を受け,父及び姉に,身元保証人を依頼したが,その承諾を得ることはできなかった。
同原告は,昭和61年(1986年) 6月,ボランティアから親族以外の者も身元保証人になれることを知らされ,その後,別のボランティアに身元保証人になってもらい,
平成元年(1989年) 9月に永住帰国をした。
(29) 原告X29(原告番号29)
原告X29は,平成元年(1989年) 8月2日付けで,厚生省に対し,肉親捜しを求める手紙を出し,同年9月14日,これが厚生省に受け付けられた。
その後,同原告は,厚生省に対し,自分が日本人孤児であることの証明書や調査報告書を作成し,これを送付したが,平成6年(1994年) 5月まで,返信はなかった。
返信がなかった原因は,同原告が最初の手紙において肉親との離別時期を誤って昭和18年(1943年)と記載したためであった。
同原告は,平成7年(1995年) 10月,訪日調査に参加し,身元は判明しなかったが,永住帰国を希望し,平成9年(1997年) 10月16日,永住帰国をした。
(30) 原告X30(原告番号30)
同原告の父は,佐渡開拓団跡事件で一家が全滅したと思い,昭和21年(1946年) 11月15日,母,二人の姉及び同原告の4人が,
昭和20年(1945年) 8月27日死亡した旨の届出をした。このため,同原告については,未帰還届の提出もなく,究明カードも作成されていない。
同原告と同じ小学校に通っていた孤児である原告X33(原告番号33)は,昭和50年(1975年)に身元が判明し,日本へ永住帰国した。
原告X33は,原告X30の父に,同原告が中国で生きていることを知らせ,同原告の父は,長野家庭裁判所に対して戸籍訂正許可の審判を申し立て,
昭和58年(1983年) 7月28日,その審判が確定した。そして,同原告は,昭和59年(1984年) 9月 1日,父の招きにより,一時帰国した。
しかし,父の後妻や同原告の異母弟妹らが同原告の永住帰国に反対し,父は,同原告の身元保証人になることはできなかった。
その後,同原告は,父の説得を受けて,平成2年(1990年),父の相続権を一切放棄することと父の後妻ら父の家族と一緒に暮らさないことを約束する手紙を日本に送り,
ようやく父に身元保証人になってもらうことができ,平成3年(1991年) 6月5日,永住帰国をした。
(31) 原告X31(原告番号31)
原告X31は,中国人に預けられた際,既に8歳であり,自分が日本人であることを認識していた。同原告は,昭和42年(1967年),戦時死亡宣告の審判を受けた。
同原告の叔父は,昭和52年(1977年),未帰還者である同原告の姉を通じて同原告に接触し,昭和55年(1980年),
同原告の戸籍を回復させる手続をとった(もっとも,この際,同原告は,既に死亡していた妹イミ子と取り違えられ,
昭和55年(1980年) 3月戦時死亡宣告取消の審判確定により戸籍が回復したのは,イミ子であった。そのため,同原告は,この時以降,
日本政府からはイミ子として取り扱われ,同原告について,戦時死亡宣告取消の審判が確定したのは,平成14年(2002年) 5月になってからであった。)。
同原告は,昭和56年(1981年),一時帰国し,叔父に身元保証人になってくれるよう依頼したが,応じてもらえず,ボランティアに身元保証人となってもらい,
昭和63年(1988年)10月7日,永住帰国した。
(32) 原告X32(原告番号32)
原告X32は,終戦直後から,自分が日本人であることを認識していた。
同原告は,昭和50年(1975年)ころ,日本国大使館あてに,家族と離別した状況,身体的特徴等を記載した手紙を出したが,
情報が少ないため親を捜すことはできないとの返事があった。同原告は,その後も厚生省などに手紙を出し,昭和56年(1981年) 2月,第 1次訪日調査に参加したが,
身元は判明しなかった。当時,身元未判明の未帰還者(孤児)を帰国させる措置はとられていなかったため,同原告は,自力で身元保証人を探し,
ボランティア等の支援を受けて,昭和60年(1985年),就籍許可審判を得て,同年12月4日,永住帰国をした。
(33) 原告X33(原告番号33)
原告X33は,終戦時から,自分が日本人であることを自覚し,帰国意思を明確に持ち,紅谷という姓を忘れないようにしていた。
同原告は,日中国交回復後間もなく,公安局から指示された日本領事館に渡航証を申請し,3か月後,その交付を受けたが,その後,その返却を求められて,
これを返却した。これは,中国国籍を取得した者は,婚姻,認知等により中国国籍を取得したことにより日本国籍を喪失し(旧国籍法18条,23条),又は,
自己の志望によって外国の国籍を取得した(国籍法11条 1項,昭和59年法律第45号による改正前の同法8条)ことにより,日本国籍を喪失している可能性があり,
原告X33は,渡航証ではなく,中国旅券に査証を受けて帰国する取扱いとされたことによるものであった。同原告は,昭和50年(1975年) 4月13日帰国した。
同原告は,当初から家族全員(同原告,妻及び6人の子)での帰国を希望したが,日本政府は,同原告1人の帰国旅費しか支給を認めなかった。
そのため,同原告は,家族と別れて先行して 1人日本に帰国した。
(34) 原告X34(原告番号34)
原告X34は,昭和28年(1953年) 3月24日,親族により死亡届が出されて除籍され,以後,死亡したものとして取り扱われた。
同原告は,昭和51年(1976年) 10月,友人の未帰還者(孤児)が永住帰国することとなって,帰国が可能であることを知り,昭和52年(1977年) 5月ころ,
ボランティアの協力により身元が判明し,同年8月,戸籍回復許可の審判を受け,昭和54年(1979年) 4月,妻と2人の子とともに永住帰国した。
(35) 原告X35(原告番号35)
原告X35は,昭和52年(1977年)ころ,日本国大使館に対し,手紙を送付し,大使館から,家族や家族との離散状況を記入する調査票の送付を受けたが,
調査票に十分な記載ができなかった。
同原告は,昭和60年(1985年),公安局の職員の案内で,日本からハルピンに調査に赴いた厚生省の職員の宿泊先に出向き,訪日調査への参加が認められ,
昭和61年(1986年) 2月,訪日調査に参加し,昭和62年(1987年) 10月15日,永住帰国をした。
(36) 原告X36(原告番号36)
原告X36は,昭和59年(1984年),訪日調査への参加を申請し,昭和60年(1985年) 11月,第9次訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。
当時,身元未判明の長期未帰還者(孤児)に対する身元引受人あっせん制度が開始されていたが,同原告は,ボランティアの協力により,昭和62年(1987年),
就籍審判を得て,昭和63年(1988年) 6月3日,永住帰国をした。
(37) 原告X37(原告番号37)
原告X37は,昭和50年(1975年) 4月ころ,朝日新聞社に,肉親を捜すため,手紙を送付し,同年,同紙に肉親捜しの記事が載って,
「X37」として身元が判明したとされた。しかし,「X37」は,幼少時に凍傷で左足の小指を切断していたとされるが,同原告は左足の小指を切断していないので,
「X37」でない可能性がある。この身体的特徴の違いは,「X37」の父母が既に死亡していたため,親族や関係者によって見過ごされた。
同原告は,身元が判明したとされたことにより,昭和50年(1975年) 12月2日,戦時死亡宣告取消の審判を受け,同月4日,戸籍を回復し,
親類に身元保証人になってもらい,昭和59年(1984年) 8月21日,永住帰国をした。
(38) 原告X38(原告番号38)
原告X38は,昭和21年(1946年)春ころまで,ソ連兵等に知られないように中国人養母の家の地下室で生活し,その後,ソ連,スイス経由で,
西ドイツに住む養母の夫のところに送り出され,高校卒業まで西ドイツで生活した。同原告は,中学生のころから,自分が日本人であることを意識し始め,
養父に自分の実の両親のことを尋ね,実母が死亡したことを聞いた。同原告は,昭和33年(1958年) 9月ころ,養父の兄弟の協力を得て,中国に戻った。
同原告は,昭和41年(1966年)に起こった文化大革命の際,スパイの嫌疑で逮捕・投獄され,同原告の夫も逮捕され,獄中で死亡した。
同原告は,昭和45年(1970年)に釈放されたが,その後しばらくは生活を監視されていた。
同原告は,ドイツに住む養父の経済的援助を受けて2人の子を日本へ留学させ,昭和60年(1985年) 2月,訪日調査に参加し,身元は判明しなかったが,
昭和62年(1987年) 2月,永住帰国した。
(39) 原告X39(原告番号39)
原告X39は,自分が日本人であることを当初から認識し,日本名も知っていた。同原告と母は,昭和37年(1962年) 12月28日,富山県知事による届出により,
昭和28年(1953年)に死亡したとして戦時死亡宣告を受けた。同原告は,昭和50年(1975年)から昭和54年(1979年)までの間,厚生省に対し,
七,八通の手紙を出したが返信はなかった。
同原告は,昭和63年(1988年) 11月5日,日本国大使館の一等書記官と面談する機会を得,訪日調査への申込みの手続を知り,昭和63年(1988年) 11月18日,
第18次訪日調査団に参加を希望する旨の手紙を厚生省に出し,平成2年(1990年) 2月,訪日調査に参加し,身元が判明した。
しかし,親族に身元保証人になってもらうことができず,平成4年(1992年)に特別身元引受人が決まり,平成5年(1993年) 5月14日,永住帰国をした。
(40) 原告X40(原告番号40)
原告X40は,終戦時7歳であり,自分が日本人であることについて認識し,母と生き別れた際の記憶も鮮明に持っていた。同原告は,昭和61年(1986年) 6月,
第11次訪日調査に参加し,母と再会することができた。同原告は,夫を説得して家族全員で永住帰国する意思を固めたが,母に身元保証人になってもらうことができず,
一旦中国に戻り,ボランティア等の協力を得て身元保証人を確保し,昭和63年(1988年) 10月13日,永住帰国をした。
(甲各1〜40(各枝番を含む。),原告X01本人,原告X03本人,原告X04本人,原告X07本人,原告X08本人,原告X09本人,原告X10本人,原告X11本人,原告X17本人,
原告X22本人,原告X23本人,原告X25本人,原告X26本人,原告X29本人,原告X30本人,原告X31本人,原告X32本人,原告X34本人,原告X35本人)
5 日本政府による外地からの引揚者(帰国者)に対する主な自立支援策
(1) 日中国交回復前
日本政府は,終戦の翌年である昭和21年(1946年) 4月25日,次官会議において,定着地に於ける海外引揚者援護要綱を決定した。その内容の骨子は次のとおりである。
すなわち,援護の対象について,海外引揚者と国内における各種要援護者とはその援護を要する事情を異にするから,
内地上陸後概ね 1年間は特別の援護を実施すること,援護の機関は,都道府県,地方事務所,支庁及び市区町村に担当させ,
方面委員及び各種援護団体に協力させること,援護の方法は,既存建物の転用による集団収容宿泊施設を設営し,又は,貸家,新設住宅等の優先的あっせんをしたり,
商工業の経営等に対し積極的な援助を与えたりすることなど,引揚者援護についての基本的な枠組みについて定められた。(乙2)
(2) 自立支度金の支給
日本政府は,昭和28年(1953年) 3月 1日から,引揚者に対して,帰国後の当面の生活資金又は就職のための支度金として,
行政措置により帰還手当を支給することとした。その額は,導入当初,大人 1人 1万円,18歳未満の小人 1人5000円であった。その後,順次,帰還手当の額は増額され,
昭和62年(1987年),名称を「自立支度金」に改めるとともに,支給額について,個人単位支給額の制度(大人 1人13万8600円,小人 1人6万9300円)に加えて,
少人数世帯加算額(大人 1.0,小人0.5で換算した世帯人員が,1.0以上2.0以下の世帯について13万8000円,2.5以上3.5以下の世帯について6万9000円)
を支給することとした。原告ら帰国した孤児らもこれを受給した。
(乙2,4〜6)
(3) 自立指導員派遣制度
日本政府は,昭和52年(1977年)以降,各都道府県に委託して,定着自立に必要な助言,指導等を行う引揚者生活指導員(昭和62年(1987年)度からは「自立指導員」
に名称が変更された。以下,改称前のものも含めて,「自立指導員」という。)を帰国者の家庭に派遣する制度を創設した。
自立指導員は,中国語が理解でき,帰国者に深い関心と理解を持ち,日本社会への定着・自立に向けて積極的に協力できる民間の篤志家の中から選任することとされ,
その業務内容は,都道府県援護担当課の指示により帰国者の家庭を訪問し,日常生活,言語,就職等の諸問題に関する相談に応じて,必要な助言や指導を行うとともに,
市区町村,福祉事務所,公共職業安定所等の公的機関と緊密な連携を保ち,必要に応じて帰国者をこれらの機関の窓口に同行して,
通訳を兼ねて仲介するなど効果的な措置を講じることとされた。
自立指導員派遣制度は,上記の業務内容からすると,帰国者の自立にとって有効な制度であるが,派遣期間は,当初, 1世帯につき帰国後 1年間で,
かつ,派遣回数はこの期間に24回(原則として月2回)とされ,帰国から2年目以降は利用できないという限定した取扱いとなっていた。
その後,順次,派遣回数は拡大されたが,昭和62年(1987年)度に定着後2年間と拡大されるまで,派遣期間は 1年間に限定されたままであった。(乙2,22〜24,124)
(4) 帰国時オリエンテーション
日本政府は,昭和54年(1979年)以降,帰国者本人及び同伴帰国者に対して,成田空港又は大阪空港に帰国した際に,東京都内又は大阪市内に 1泊させて,
専門講師により,帰国後の援護の内容,各種行政機関窓口,生活習慣の相違等帰国後直ちに必要となる事項についてのオリエンテーションを実施した。(乙7)
(5) 就労に関する支援
日本政府は,永住帰国者に対し,雇用の促進を図る目的で,昭和57年(1982年)度から職業転換金給付制度(訓練手当,広域求職活動費,移転費,職場適応訓練費)
を,昭和59年(1984年)度から特定求職者雇用開発助成金を適用している。また,後記のとおり,日本政府は,昭和61年(1986年)から,
定着促進センターにおいて就職相談・指導を,平成元年(1989年)から,自立研修センターにおいて就労相談員による就労相談・指導等を実施している。(乙2)
(6) 中国残留日本人孤児問題懇談会による報告書(昭和57年(1982年) 8月26日)について
厚生省は,昭和57年(1982年)3月,帰国した孤児に対する具体的な施策を検討する厚生大臣の私的諮問機関として,日本経済新聞社顧問圓城寺次郎を座長とし,
帰国者三互会会長和泉清一,日中孤児問題連合会顧問坂口遼,日中友好手をつなぐ会会長山本慈昭ほか,
有識者合計18名で構成する中国残留日本人孤児問題懇談会を設けた。
中国残留日本人孤児問題懇談会は,昭和57年(1982年) 8月26日,総合的な長期未帰還者対策を盛り込んだ
「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書を厚生大臣に提出した。中国残留日本人孤児問題懇談会は,
孤児問題についての基本的な考え方として,次のとおり述べている。
「孤児問題を考えるに当たっては,孤児がこのように過去の不幸な戦争の中で肉親と離別し,昭和47年の日中国交正常化までの長い間,
自分の身元を明らかにしたいと思いながらその方法さえないまま,中国で暮らしてきたということを忘れてはならない。」,
「孤児が自分の身元を明らかにしたいと願うことは,人間の本性に立った自然の気持ちであり,彼らが孤児となった事情を考えれば,
身元調査の依頼を受けた日本政府が全力を挙げて肉親捜しを行うべき事は当然である。また,孤児がその家族とともに日本に帰国することを望む場合には,
政府,国民が一体となって,その受入れ,日本社会への定着のための援助を行う必要があることはいうまでもない。」,
「肉親捜しを通じて,日中両国間の交流が深まっているが,社会体制が異なっていることもあり,中国にいる孤児たちの間に,日本社会がバラ色で,
日本に帰ってさえくれば幸せになれるかのような,事実と相違した情報も流布されているようである。日本は自由経済体制のもとで経済発展をしてきたが,
それだけに,自分の生活は自分の手で築いていかなければならず,既に中年に達している孤児が,
言葉や社会習慣の異る日本で職を得て自立していくことは決して容易ではない。政府が帰国した孤児の定着のために根幹的な対策を進め,
地方公共団体やボランティア団体が新たに地域住民となった孤児たちのためにあたたかい援助を行うことが必要なことはいうまでもないが,そ
れはあくまでも側面的な援助であって,最終的には,孤児自らが努力して困難を克服していかなければならない。
日本に帰国したほうが幸せか,中国に留まったほうが幸せかは,そのような日本社会の実情をよく知った上で,孤児自身がよく考えて判断することであるが,
日本国民も孤児の判断を誤らせないように,日本社会の実情を孤児に正しく理解させるよう努力しなければならない。
孤児も,帰国を決意する以上は,多くの困難を乗り越えていくだけの覚悟が必要であろう。」,「このようにして日本社会に定住し,自立した孤児たちは,
日中両国の生活,文化にも通じている貴重な存在として,将来は,ますます深まる日中友好の「掛け橋」としての大きな役割も期待できよう。」
上記のとおり,中国残留日本人孤児問題懇談会は,いわゆる中国残留孤児に対して,日本政府及び国民が一体となって,その受入れ,
日本社会への定着のための援助を行う必要がある旨述べる一方,日本政府等が実施する援助は,あくまでも側面的な援助であって,最終的には,
帰国者自らが努力して困難を克服していかなければならないとして,自立支援についてはそれほど積極的な意見を述べてはいない。
そして,中国残留日本人孤児問題懇談会は,上記の考え方に続いて,@肉親捜しの計画的推進(当面1回の訪日調査対象の中国残留孤児は60人程度,
訪日調査の回数も年3回が限度であることを踏まえ,昭和58年(1983年)度以降昭和60年(1985年)度までの3か年計画で肉親捜しを完了させるべきであること。),
A養父母の扶養(中国残留孤児が自立できるまでの間,養父母等の扶養に必要な資金を公的資金により低利で貸し付けるとともに,
確実に中国の養父母等に送金するため,送金の代行を行う制度を設けること),B養父母や中国社会に対する感謝(政府が,
具体的な形で感謝の気持ちを表明すること),C帰国後の定着化対策(帰国後直ちに一定期間収容し,生活指導(基礎的な日本語教育を含む。)
を行うための帰国者センターの設置),D身元の判明しない中国残留孤児の受入れ(身元引受人制度の発足),
Eボランティア団体による民間援護活動の推進(これまでボランティア団体は,孤児の援護のため,さまざまな先駆的な活動を行ってきており,
孤児問題の解決に当たってボランティア団体が果たしてきた役割は大きく,ボランティア団体と日本政府とが緊密に連絡を取り,
調査活動を進めていくことを期待したい)について提言している。
また,帰国者の自立・定着のための施策として,次のとおりのモデルを提案している。
↓
第 1段階(定着促進センターへ入所)
| 定着促進センターにおける生活指導(基礎的日本語教育を含む。)
| 生活は全部センター(国費)で賄う
| ボランティアによる援助
|
↓
第2段階(センターを退所し地域社会に入る)
職業訓練
生活指導員による生活指導
都道府県,ボランティア団体等による日本語教室
(子供は小,中学校に入校)
|
生活保護
公営住宅の優先入居
|
ボランティアによる生活相談,援助
|
↓
第3段階(就職・自立)
|
就職あっせん
|
生活保護からの脱却(収入の度合いに応じて生活保護で補てん)
|
ボランティアによる援助
|
上記のとおり,中国残留日本人孤児問題懇談会は,定着促進センターの開設を提言する一方,就職までの生活手段及び就職後の生活手段の不足分として,
生活保護の利用を想定していた。
また,上記報告書において,定着促進センターの入所期間については,「簡単な日常会話と日本社会における一般的な生活習慣の習得を目標とするが,
日本に帰国した孤児をあまり長い間一般社会から遠ざけておくことは好ましくないので,標準的な入所期間は4か月程度に止めることが適当である」とされた。
なお,上記の懇談会の提言のうち,養父母の扶養について,中国残留孤児が自立できるまでの間,
養父母等の扶養に必要な資金を公的資金により低利で貸し付けるとともに,確実に中国の養父母等に送金するため,送金の代行を行う制度を設けることする部分は,
これに基づく日本側と中国側の交渉において中国側が履行が不確実であると難色を示して受け入れず,交渉の末,
前記認定のとおり国が直接負担して送金することとなった。
(甲総A6の34〜75,乙88)
(7) 中国帰国者定着促進センター
ア 開設に至る経緯等
中国からの帰国者は,別表中国帰国者の年度別帰国状況記載のとおりであり,長期未帰還者のうちいわゆる中国残留孤児の帰国世帯数は,
昭和49年(1974年)度に 1世帯が帰国した後,昭和50年(1975年)度9世帯,昭和51年(1976年)度12世帯,昭和52年(1977年)度13世帯,
昭和53年(1978年)度20世帯,昭和54年(1979年)度24世帯,昭和55年(1980年)度26世帯,昭和56年(1981年)度37世帯,昭和57年(1982年)度30世帯,
昭和58年(1983年)度36世帯と増加し,昭和56年(1981年)に訪日調査が開始され,その後も帰国者世帯数の増加が見込まれた。
しかし,日本政府は,昭和52年(1977年)以前,帰還手当の支給のほか,長期未帰還者(中国残留孤児)の事情に応じた特別な自立支援策は設けていなかった。
日本政府は,同年4月以降の帰国者に対し,日本語習得のための語学教材として,カセットレコーダー,カセットテープ及びテキストを帰国直後に個別に支給することとした。
日本政府は,前記のとおり,昭和57年(1982年),中国残留日本人孤児問題懇談会の定着促進センターの設置に関する提言を受け,昭和58年(1983年)度予算において,
3億5000万円弱を定着促進センター施設費として計上し,昭和59年(1984年) 2月,埼玉県所沢市に中国孤児定着促進センター(平成6年(1994年)4月,
「中国帰国者定着促進センター」に名称が変更された。以下,この種の施設を「定着促進センター」という。)を開設した。
財団法人中国残留孤児援護基金が事業実施団体となる所沢市の定着促進センターは,当初は,居室30室で年間90世帯の収容が可能であったが,
昭和61年(1986年) 12月に拡張された後は,いずれも鉄筋コンクリート造2階建ての研修棟と宿泊棟各 1棟からなり,研修棟には大教室,視聴覚教室,調理実習室,
図書室,保健室,教務室のほか20の教室その他が配置され,宿泊棟には事務室,厨房,浴室,談話室,4つの自炊室と 1,2階各28室の居室が配置されていて,
受入世帯数は年間180世帯,受入人数は年間810人,入所時期は偶数月であった。
日本政府は,昭和62年(1987年)度,帰国希望者数の増加に伴い,北海道札幌市(事業実施・社会福祉法人北海道社会福祉協議会,入所時期4,8月,
受入世帯・人数年間10世帯・45人),福島県郡山市(事業実施・社団法人福島県引揚者団体連合会,入所時期6,10,2月,受入世帯・人数年間30世帯・135人),
愛知県西春日井郡新川町(事業実施・社会福祉法人愛知県厚生事業団,入所時期6,10,2月,受入世帯・人数年間30世帯・135人),
大阪府大阪市(事業実施・社会福祉法人大阪府社会福祉協議会,入所時期4,8,12月,受入世帯・人数年間40世帯・180人,研修棟と宿泊棟は別の場所にある。)
及び福岡県粕屋郡宇美町(事業実施・福岡県中国帰国者自立促進協議会,入所時期7,11,3月,受入世帯・人数年間40世帯・180人)
の5か所に定着促進センターを新設した。その後,日本政府は,平成3年(1991年)度に,長期未帰還者世帯の永住帰国が漸次減少したことにより,
北海道,福島県及び愛知県の3か所を閉所したが,
援護対象者の拡大(高齢の長期未帰還者を扶養するため同伴帰国する子 1世帯への援護)による帰国者の世帯員数の増加が見込まれたことに伴い,
平成6年(1994年)度には,所沢センターの分室を山形県及び長野県に開設し(主に残留婦人等を入所対象として予定した。),さらに,平成7年(1995年)に,
新たに,宮城県仙台市(旧宮城県職員宿舎を利用,居室数16,入所世帯・年間40世帯),岐阜県不破郡垂井町(民間の社宅を利用,居室数12,入所世帯・年間30世帯),
広島県沼隈郡沼隈町(旧町営老人ホームを利用,居室数14,入所世帯・年間24世帯)の3か所に開設した。その後,日本政府は,帰国者数の減少に伴い,
これらを順次閉所し,現在は,埼玉県及び大阪府の2か所が運営されている。
イ 入所対象者
定着促進センターへの入所対象者は,日本政府の援護を受けて中国から永住帰国する者で,かつ,@中国残留孤児及びその同伴家族,
A@のほか厚生省援護局長がセンターへ入所させることを適当と認めた者のいずれかに該当する者とされた。このように,定着促進センターでの援護対象は,
帰国旅費の援護を受けて帰国した世帯に限られ,原則として,自費により帰国した者は援護対象とならなかった。
日本政府は,昭和62年(1987年) 7月27日付け厚生省援護局長通知により,定着促進センターの入所対象者について,
@国費により中国から永住帰国した中国残留孤児及びその同伴家族,又は,A既に国費により中国から永住帰国した中国残留孤児及びその家族,
その他厚生省援護局長がセンターの入所を適当と認めた者と変更し,
「厚生省援護局長がセンターの入所を適当と認めた者」として例外的に自費帰国者も定着促進センターに入所する余地を認めたものの,
この例外要件により入所が認められた自費帰国者の例は,本件証拠上,平成元年(1989年)以降に数例認められる程度である。日本政府は,
平成7年(1995年)から,自費帰国者であっても,定着促進センターへの入所を希望する者には入所資格を認める旨明文で定めた。
ウ 定着促進センターにおける援護内容
定着促進センターの入所期間は帰国後4か月程度であり,この間,日本政府は,宿泊施設の提供,生活援助費の支給を行いながら,
日常生活に必要な基礎的日本語研修と基本的生活習慣等の指導を行った。この4か月程度という期間は,
昭和57年(1982年)の中国残留日本人孤児問題懇談会の報告書において,日本に帰国した中国残留孤児を余り長い期間遠ざけておくことは好ましくないので,
標準的な入所期間は4か月程度にとどめることが適当であるとの提言がされたことを踏まえて決定された。
(乙8〜12,37,38,224〜228(枝番を含む。),229)
(8) 身元引受人制度の創設
日本政府は,前記認定のとおり,昭和60年(1985年)度から,身元未判明の孤児に対する身元引受人制度を創設し,身元保証人の代替措置として,
帰国旅費国庫負担承認書及び定着促進センターへの入所通知をもって,身元保証人がなくても入国査証を発給することとし,
帰国後,定着促進センターに入所中に身元保証人に代わる身元引受人をあっせんすることとした。
日本政府は,身元引受人の主要担当業務として,次の業務を実施させることとした。
ア 定着促進センターへの出迎え
イ 住宅等に関すること(@入居に当たっての身元保証人,A転入手続(外国人登録・住民登録・生活保護の申請),B民間住宅の確保,
C転居手続(民間住宅から公営住宅への転居),D電話・風呂の取り付け)
ウ 学校に関すること(@編入学手続,A進学についての相談,B学校生活の問題点の相談,C日本語学習への援助(入学手続等))
エ 就労に関すること(@就職のあっせん,A訓練校への入校,B就労に関する相談)
オ 病気に関すること(@病院の紹介,A病院の付き添い)
カ 家族に関すること(@在留資格の延長,A呼び寄せ家族,B中国への帰国,C子供の結婚問題,D親子・夫婦間のトラブル)
キ その他(@買物の仕方,A日常生活用品の確保及び使い方,B戸籍の問題,C転居問題,D免許の習得・書換え)
身元引受人の業務は,上記のとおり幅広い分野にわたり,かつ,帰国孤児の入居に当たっての身元保証人等,重い責任を負わなければならないものも含まれ,
その負担は重い。
身元保証人の身元引受の期間は,定着促進センターを退所後3年以内とされ(もっとも,入居に当たっての身元保証人等の業務は,必ずしも,
3年以内で終了しない。),身元引受人に対する手当は,月額 1万1000円とされた。日本政府は,昭和60年(1985年) 11月から,個人のほか,
企業等の法人についても身元引受人の候補者に登録できることとし,平成元年(1989年)度からは,ボランティア団体等の任意団体についても,登録できることとした。
日本政府は,平成元年(1989年)度から,新たな行政知識の付与及び資質の向上を図る目的で,身元引受人を対象とした身元引受人会議を毎年開催した。
身元引受人の登録者数及びあっせん件数は,別表「身元引受人登録者数及びあっせん状況」記載のとおりである。
帰国者は,定着促進センター退所後,身元引受人の住居地の近隣に定住することを義務づけられた。
身元引受人のあっせんの際,帰国者の定住希望地も考慮されていたものの限界があり,帰国者が希望の地に定住できない例も多かった。
厚生省によって平成15年(2003年) 11月20日から平成16年(2004年) 3月31日までに実施された中国帰国者生活実態調査(日中国交回復から平成15年
(2003年) 3月31日までに帰国した孤児1858人,残留婦人等2236人から回答があった。)において,悩みの相談相手がいる者(全体の73.6%)のうち,
14.3%(複数回答)が相談相手として身元引受人を挙げている。(なお,自立指導員は18.8%である。)
また,平成16年(2004年) 8月本件原告団の実施した調査(東京地方裁判所に本件と同種の国家賠償請求訴訟を提起した者1079人を対象)においては,
身元引受人について(有効回答738),「よくしてくれた」が411人(56%),「あまりよくしてくれなかった」が216人(29%),
「まったく役に立たなかった」が80人(11%)という回答があった。なお,生活相談員について(有効回答727)については,「役立った」が403人(55%),
「あまり役立たなかった」が145人(20%),「全く役立たなかった」が121人(17%),「ほとんど相談したことがない」が85人(12%)であった。
(甲総83,86,88,142,甲D12,乙2,13〜15,90〜96)
(9) 中国残留日本人孤児問題懇談会による報告書(昭和60年(1985年) 7月22日)について
前記中国残留日本人孤児問題懇談会は,昭和60年(1985年)年7月22日,厚生大臣に対し,
「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書を提出した。
この報告書では,孤児問題についての基本的な考え方として,「孤児問題を考えるに当たっては,孤児が過去の不幸な戦争の犠牲者であり,
終戦前後の混乱の中で肉親と離別し,昭和47年の日中国交正常化までの長い間,自分の身元を明らかにしたいと思いながらも,
その方法さえないまま中国で暮らしてきたということを忘れてはならない」と指摘した上で,@肉親捜しの早期完了(訪日調査及び訪中調査等),
A養父母等に対する扶養費の支払等,
B定着自立促進対策の総合的推進(中国孤児定着促進センターの拡充及び指導内容の充実,落ち着き先における日本語指導及び生活指導の強化,
住宅対策,子弟等の就学対策,就労対策,民間援護活動等)について提言している。(乙2)
(10) 就籍に関する支援
身元未判明の帰国者は,戸籍が特定できず,本籍も不明であるため,家庭裁判所に就籍の申立てを行い,
その就籍許可を得ることによって日本での本籍及び戸籍を得なければならなかった。
そこで,日本政府は,昭和61年(1986年)から,財団法人法律扶助協会を通して行う就籍審判の費用について,厚生省が副申して,
財団法人日本船舶振興会の補助を受けられるように措置した。しかし,就籍審判の申立てを行う帰国者の間では,
モーターボート競争事業の収益金から申立費用が援助されることにつき,不快感を言う者が多かった。
その後,日本政府は,平成7年(1995年) 4月 1日以降に家庭裁判所に家事審判申立書が受理されたものから,印紙代,通信費,交通費,
中国から持ち帰った資料の翻訳や弁護士への委任のための費用等,就籍手続に要する経費について,直接,援助を実施することとした。
(甲総A9の 1,乙34,99,100,証人菅原幸助)
(11) 中国帰国者自立研修センターの創設
日本政府は,昭和63年(1988年),定着促進センターでの指導を受け終わった帰国者及びその同伴家族に対し,日本語の補充教育,
地域の実情を踏まえた生活相談・指導,就職相談・指導等を行うことにより,地域社会における定着自立の促進を図ることを目的として,
中国帰国者自立研修センター(以下「自立研修センター」という。)を設置した。自立研修センター業務の実施主体は,国が都道府県知事に委託して行うこととされた。
入所対象者は,中国から永住帰国したいわゆる残留孤児のうち,@定着促進センターを修了した者であって,
都道府県知事が自立研修センターへの入所が必要であると認めた者,又は,A@に規定する者のほか,
都道府県知事が自立研修センターに入所させることが適当であると認めた者のいずれかに該当する者とされ,定着促進センターを修了した者でなくても,
入所することは可能であった。
設置都道府県は,昭和63年(1988年)度は山形県,埼玉県,千葉県,東京都,神奈川県,長野県,愛知県,京都府,大阪府,兵庫県,広島県,高知県,福岡県,
長崎県及び鹿児島県の15か所であったが,帰国者数の増加が見込まれたため,平成7年(1995年)度に,新たに,北海道,岩手県,福島県,
東京都武蔵野市及び静岡県の5か所を増設した。その後,日本政府は,帰国者数の減少に伴い,平成11年(1999年)に 1か所(高知県),
平成12年(2000年)に3か所(長崎県,静岡県,兵庫県),平成13年(2001年)に 1か所(岩手県),平成14年(2002年)に3か所
(東京都武蔵野市,福島県,鹿児島県)を閉所し,現在12か所を運営している。
自立研修センターでは,原則8か月程度(ただし,病気等やむを得ない事情のある場合には,4か月の延長が可能。
一般科目の受講者でこれを修了することができない者については,さらに4か月の延長が可能。また,日本語の再研修については2年以内。)の期間,
通所形式により,日本語研修,生活相談・指導,就労相談員による就労相談・指導等が実施された。
日本政府は,文部省(現在の文部科学省)の告示により,日本の大学の入学に必要な12年の就学年限を満たしていない帰国者について,
定着促進センターにおける4か月の研修及び自立研修センターにおける8か月の研修を修了することで,大学入学に必要な12年の就学年限を満たす取扱いとした。
日本政府は,これに対応するため,全国10か所の自立研修センター(千葉県,埼玉県,東京都,神奈川県,愛知県,京都府,大阪府,兵庫県(平成12年(2000年)閉所),
広島県,福岡県)に専任講師を配置し,該当する通所者に対し,英語,数学,理科及び社会の一般科目について,210時限(1時限50分)の講義を実施した。
(乙2,16〜21,117)
(12) 自立支援通訳制度
日本政府は,平成元年(1989年) 6月 1日,帰国者及びその同伴家族が定着先の地域社会の医療機関で受診する場合などに,自立支援通訳を派遣することにより,
医療機関での適切な受診を確保するとともに,関係行政機関での助言,指導及び援助を受けることを容易にし,
もって帰国者及びその同伴家族の定着自立の促進を図ることを目的として,自立支援通訳制度を設けた。
この制度は,国が都道府県に委託して実施され,定着促進センター修了後(同センターに入所しない者は帰国後)3年以内の帰国者及びその同伴家族について,
次の場合に派遣することとされた。すなわち,
@ 帰国者及びその同伴家族が中国帰国者巡回健康相談事業実施要領により健康相談医の助言,指導を受ける場合
A 帰国者及びその同伴家族が医療機関で受診する場合であって都道府県が派遣を必要と認めるとき
B 帰国者及びその同伴家族が福祉事務所等の関係行政機関から,助言,指導又は援助を受ける場合であって都道府県が派遣を必要と認めるとき
派遣回数は,@については年 1回,Aについては,通院の場合は初診の日に1回,入院の場合は入院期間7日ごとに 1回
(ただし,病状に応じて派遣回数を増減することができる。),Bについては原則として年2回以内とされた。
自立支援通訳制度は,日本語のできない帰国者にとって便利な制度であったが,このように派遣期間は限定されていた。
その後,日本政府は,C小中学校,高等学校に通学する子等の学校生活上生じた問題について,又は,中学校に通学する子等の進路について相談する場合であって,
都道府県が派遣を必要と認めるとき,平成14年(2002年) 4月 1日から,D介護保険制度による要介護認定の申請,
介護サービス計画の作成及び介護サービスの利用を行う場合(平成14年(2002年)以降)等で,都道府県において派遣を必要と認める場合にも派遣を認めることとした。
また,日本政府は,A及びDの場合においては,平成15年(2003年)度以降,定着促進センター修了後(入所しない者については帰国後) 4年目の帰国者も対象とし,
平成17年(2005年)度以降は,利用可能な年数の制限を撤廃した。
(乙2,30,31,240)
(13) 巡回健康相談事業
日本政府は,平成元年(1989年) 6月 1日から,帰国者に対して医療・保険衛生面における生活指導を行うことを目的として,
定着促進センター修了後1年以内の帰国者世帯に対し,都道府県知事の選任した医師(健康相談医)を派遣し,健康相談により,必要な助言・指導を実施することとした。
この事業は,国が都道府県に委託して,年 1回実施された。
(乙32,33)
(14) 特別身元引受人制度の創設
日本政府は,前記のとおり,平成元年(1989年) 7月,肉親との血縁関係が遠い等の特別の事情のため,
永住帰国できない身元が判明している中国残留孤児を対象として,帰国手続や帰国後の受入れを行う特別身元引受人制度を創設し,一定の要件を満たせば,
身元保証人がなくても,永住帰国を認めることとした。
特別身元引受人制度の業務は,原則として,帰国者の本籍を管轄する都道府県において行うこととされ,
特別身元引受人は帰国者の本籍を管轄する都道府県内から選ばれた。帰国者の定住地は,特別身元引受人の近隣とされていたことから,
大都市志向の強い傾向にあった帰国者が,希望する地に定住できない例も多かった。
特別身元引受人は,帰国者及びその同伴家族の身元を肉親に代わって引き受け,帰国者世帯の@帰国手続の遂行,A日常生活上の諸問題の相談,
B定着自立に必要な助言,指導を行うこととされた。
日本政府は,前記のとおり,平成6年(1994年) 1月,特別身元引受人をあっせんすることとなる帰国希望者については,帰国旅費の申請は,
帰国希望者本人が直接行うものとし,これにより,特別身元引受人と身元未判明の帰国者に対する身元引受人の役割等が同様となったため,
平成7年(1995年) 2月,両制度を一本化した。
(乙2,14,15,218〜221)
(15) 自立支援法の施行
中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6年法律第30号。以下「自立支援法」という。)が,議員立法により制定され,
平成6年(1994年) 4月6日に公布,同年10月 1日に施行された。
同法は,「今次の大戦に起因して生じた混乱等により,
本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情にかんがみ,
これらの者の円滑な帰国を促進するとともに,永住帰国した者の自立の支援を行うことを目的」(1条)とし,国等の責務として,次のとおり定めている。
第3条 国は,本邦への帰国を希望する中国残留邦人等の円滑な帰国を促進するため,必要な施策を講ずるものとする。
第4条
第1項 国及び地方公共団体は,永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため,必要な施策を講ずるものとする。
第2項 国は,必要があると認めるときは,地方公共団体が講ずる前項の施策について,援助を行うものとする。
第5条 国及び地方公共団体は,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援のための施策を有機的連携の下に総合的に,策定し,
及び実施するものとする。
自立支援法は,上記に加えて,永住帰国旅費の支給等(6条),自立支度金の支給(7条),生活相談等(8条),住宅の供給の促進(9条),雇用の機会の確保(10条),
教育の機会の確保(11条),就籍等の手続に係る便宜の供与(12条),国民年金の特例(13条),一時帰国旅費の支給等(14条)について,
各施策の基本的方針を規定している。
(16) 住宅に関する支援
日本政府は,公営住宅法(昭和26年法律第193号)に基づき,財政措置を講じて,公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力して,
住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃の住宅を供給しており,帰国者もその施策対象者とするとともに,
入居者選考及び決定において優先的な取扱いを講じてきた。
平成7年(1995年)度以降,帰国者が帰国後(定着促進センター退所後)最初に居住する場合において,公営住宅優先入居の募集選考時期,
地域要件又は当該住宅に空きがないなどのため,やむを得ず民間住宅に入居する場合,当該帰国者に対し,
礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給することとされ,平成8年(1996年) 4月 1日からは,敷金も支給対象とされた。
(乙2,35,36)
(17) 国民年金に関する取扱い
日本政府は,平成8年(1996年),帰国者の国民年金について特別措置を講じ,国民年金制度が創設された昭和36年(1961年) 4月 1日から永住帰国するまでの期間
(20歳以上60歳未満に限る。)を保険料免除期間とみなすこととした。これにより,この期間については保険料を納付した場合の3分の 1相当額
(国庫負担相当額)が年金額に反映されることとなった。また,保険料免除期間とみなされた期間については,保険料の追納ができ,追納した場合は,
この期間について全額が年金額に反映される。なお,通常は,直近の10年分の保険料についてのみ追納が認められるが,帰国者の場合は,
昭和36年(1961年) 4月 1日から永住帰国するまでの期間について追納を可能とした。なお,保険料を追納する場合は,生活福祉資金の貸付制度を利用することができ,
その場合,償還期限が特別長期となるほか,生活保護受給者については,貸付金を収入認定から除外し,
この償還に充てる費用も世帯収入から控除する取扱いとしている。
上記のとおり特例措置が講じられたが,帰国者が,中国において納めた年金分は考慮されない。上記免除期間の国庫負担相当額は,月額約2万2000円程度であり,
それだけでは,通常では,自立した生活を維持することはできないと考えられる。また,生活福祉資金の貸付制度を利用しての追納制度は,ほとんど利用されていない。
(乙2)
(18) 中国帰国者支援・交流センターの開設
日本政府は,平成13年(2001年)11月 1日,帰国者やその家族の地域社会における定着・自立を中長期的,継続的に支援していくため,
東京都及び大阪府に各 1か所ずつ,中国帰国者支援・交流センター(以下「支援・交流センター」という。)を開設した。東京都に開設された支援・交流センターは,
財団法人中国残留孤児援護基金に,大阪府に開設された支援・交流センターは,財団法人大阪YWCAにそれぞれ業務が委託されて運営された。
日本政府は,平成16年(2004年) 6月,福岡県に支援・交流センターを増設した。
支援・交流センターでは,自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象として,日本語学習支援,相談事業,
帰国者相互及び地域住民との交流事業,ボランティアの活動情報の収集と提供,帰国者問題の普及啓発事業等が実施された。
(乙25〜29,118〜120,123,239,各枝番を含む。)
6 原告らを含む長期未帰還者(中国残留孤児)の帰国後の状況
(1) 生活保護の受給状況等
ア 終戦から61年が経過し,当時13歳未満で多くは乳幼児であった原告ら中国残留孤児(ただし,原告X06(原告番号6)は昭和21年(1946年) 1月生と推定されている。)
は,現在,還暦を過ぎている。
中国残留孤児世帯の生活保護受給率は,次のとおりである。
(ア) 厚生省が実施した調査によると,昭和61年(1986年) 2月 1日(日中国交回復から昭和60年(1985年) 12月末までに帰国したうち234世帯からの回答による。
孤児の平均年齢は44.9歳である。)では,帰国後 1年未満の234世帯では94%, 1年以上2年未満の203世帯では70.9%,2年以上3年未満の168世帯では57.1%,
3年以上4年未満の141世帯では46,8%,4年以上5年未満の113世帯では36,3%,5年以上の97世帯では26.8%であり,全く受けたことがないのは11世帯4.7%で,
同時点で生活保護を受けている世帯は101世帯で全体の43.2%,その内訳は,2年未満が46世帯,2年以上3年未満が13世帯,3年以上4年未満が13世帯,
4年以上5年未満が8世帯,5年以上が21世帯となっている。かつて受けていたが調査時点では受けていない119世帯の内訳は,2年未満が78世帯,
2年以上3年未満が17世帯,3年以上4年未満が12世帯,4年以上5年未満が7世帯,5年以上が5世帯となっている。
(イ) 厚生省が実施した平成7年(1995年) 3月 1日時点での調査では,
昭和59年(1984年) 3月 1日以降に帰国し定着促進センターに入所した世帯のうち2469世帯から回答があり(調査対象者は帰国残留婦人を含めて4532世帯であったが,
回収率は76.3%であった。),孤児1416人の平均年齢は53.1歳,その世帯構成員は平均2.82人(配偶者と子 1人が多いと思われる。),
帰国後の経過期間別の生活保護適用状況は, 1年未満の世帯では84.2%, 1年以上2年未満の世帯では82.5%,2年以上3年未満の世帯では45.5%,
3年以上4年未満の世帯では36.0%,4年以上5年未満の世帯では31.8%,5年以上の世帯では27.1%,全体では38.5%の世帯が生活保護を受給している。
受給したことのない世帯は全体で7.0%である。
(ウ) 厚生省が実施した平成11年(1999年) 12月 1日時点での調査では,
平成元年(1989年) 12月1日から平成11年(1999年) 11月30日までに帰国し定着促進センターに入所した者のうち2225人から回答があり
(調査対象者は帰国残留婦人を含めて2562人で,回収率は86.8%であった。),孤児990人の平均年齢は58.3歳,その世帯構成員は平均2.78人,
帰国後の経過期間別の生活保護適用状況は, 1年未満の世帯では91.5%, 1年以上2年未満の世帯では86.4%,2年以上3年未満の世帯では85.8%,
3年以上4年未満の世帯では70.5%,4年以上5年未満の世帯では75.9%,5年以上の世帯では53.2%,全体では65.5%である。
(エ) 厚生省が平成15年(2003年) 11月20日から平成16年(2004年) 3月31日までに実施した実態調査によれば,
日中国交回復から平成15年(2003年) 3月31日までに帰国した孤児のうち同調査に回答した者1858人の平均年齢は61.5歳,世帯構成員の平均人数は2.2人,
61.4%の世帯が生活保護を受給し,35.7%の世帯が受給していない。一度も生活保護を受給したことのない世帯は11.1%であった。
(オ) 平成16年(2004年) 8月本件原告団の実施した調査(東京地方裁判所に本件と同種の国家賠償請求訴訟を提起した者1079人を対象)においては,
有効回答をした820人のうち,現在生活保護を受給している者は476人で回答者全体の58%であり,一度も受給したことのない者51人(6%),
帰国後しばらく受けていたが現在受けていない者293人(35%),帰国時から現在まで継続して受け続けている者248人(30%)であり,
現在受給していない人の今後についての見通しとしては(有効回答数186),生活が苦しいので申請したいと思っている者103人(55%),
申請したが認められなかった者6人(3%),生活は苦しいが生活保護は人権無視なので我慢して申請しないで頑張っている者77人(41%)という結果であった。
(カ) 原告らの生活保護受給状況は,別表原告ら一覧表の「就業・生活保護の区分」欄記載のとおりであり,40人中25人(62.75%)の原告が,
現在,生活保護を受給している。帰国者の生活保護受給率は,日本国民世帯全体の受給率が 1%に満たないことと比較すると,
高齢者世帯であることを考慮しても高率であるといって差し支えないものと考えられ,帰国者の多くが帰国後の生活に経済的ゆとりがないであろうことが窺われる。
上記の(オ)の調査においては,生活保護の受給に関して次のような回答(@〜Lは有効回答数666(複数回答),Mは有効回答数346,
Nは有効回答数444(複数回答))がよせられている。
@ 中国の養父母の病気見舞いや墓参りに行った期間の生活費を差し引かれたことがある。198人(30%)
A アルバイトなど収入があることが判明してその分を差し引かれたことがある。37人(6%)
B 2,3世からもらった現金を収入として差し引かれた。18人(3%)
C 子供たちと離れて暮らすことを強制されるのがつらい。126人(19%)
D その他の収入のことで役所とトラブルがあった。19人(3%)
E 生活保護を申請するとき日本語が話せなくて困った。112人(17%)
F 以前少し貯金があったため不許可になったことがある。22人(3%)
G 収入が得られなくなって生活保護を申請したのに許可がなかなか出なくて困ったことがあった。45人(7%)
H 生活保護を受けると常に生活を監視されているようで息苦しい。440人(66%)
I 生活保護を受けているため養父母の見舞いや墓参り,子供や孫に会うために中国に行けないことが人として悲しい。423人(64%)
J 保護費が少なくて安心して老後が送れない。566人(85%)
K 生活保護を受けたために周りの人から後ろ指をさされる。245人(37%)
L 生活保護で満足している。6人(1%)
M できれば生活保護から脱却したいと a思う219人(63%),b思わない127人(37%)
N 生活保護からどのように脱却するか a仕事を見つけたい48人(11%),b自分の子供に養ってもらいたい29人(7%),
c中国残留孤児のための独自の公的支援制度を創ってほしい375人(84%)
イ 生活保護の運用においては,同法の目的(同法 1条),無差別平等性(同法2条)などに照らすと,当然といえば当然であるが(同法5条),
帰国者に特殊事情があるとしてそれが特別に考慮されている事情は認められない。生活保護は,生活に困窮する者が,その利用し得る資産,
能力その他あらゆるものを,その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われ,民法に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は,
すべてこの法律(生活保護法)による保護に優先して行われるものとする建前であり(保護の補足性。生活保護法4条 1項,2項),したがって,
生活保護を受給する帰国者世帯は,国民年金の特例により年金を受給しても,その分は生活保護費から控除される。中国に一時的に戻った場合には,
中国滞在中の生活保護が停止された上,その渡航費用等相当額が収入認定され,生活保護費から控除される。
中国において養父母に育てられた帰国者らが,仮に生活保護費を削って貯蓄した渡航費用が収入認定された場合に,それが不当であると感じたり,
それによって中国への渡航が制限される結果となるのは不当であると感じたことがあったり,考えることがあったとして,そのことをどのように評価するかは,
立場によって異なるものという以外になく,本件においては,少なくても法的判断の対象又は法的判断にあたって考慮すべき事情とすることはできないというほかない。
(2) 就労状況
ア 原告ら中国残留孤児の帰国後の就労状況は,厚生省による平成11年(1999年)12月 1日時点での中国帰国者生活実態調査(前記認定( 1)ア(ウ)のとおり,
平成元年(1989年) 12月 1日から平成11年(1999年) 11月30日までに帰国し定着促進センターに入所した者のうち2225人から回答があり
(調査対象者は帰国残留婦人を含めて2562人で,回収率は86.8%であった。),孤児990人の平均年齢は58.3歳であった。)では,60歳未満の者については,
29.2%が就労しており,前回の平成7年(1995年)の調査時の51.2%から大きく低下した。60歳以上の就労経験のある者の帰国後経過年数では,
帰国後2年未満で就職を果たせた者はなく,帰国後2年以上3年未満の者で15.9%,5年以上の者で50.0%の者が就労経験を有している。
就労状況を全体について帰国後経過年数別をみると,1年未満の者では3.1%,1年以上2年未満の者では2.8%,2年以上3年未満の者では3.2%,
3年以上4年未満の者では27,4%,4年以上5年未満の者では20.0%,5年以上の者では42%がそれぞれ就労してるが,平成7年(1995年)の調査時においては,
帰国後1年未満の者の14.5%,同5年以上の者の58.7%が就労していたのと比較して就労率は低下していた。
また,前記の厚生省が平成15年(2003年) 11月20日から平成16年(2004年) 3月31日までに実施した実態調査によれば,
平成15年(2003年) 4月 1日時点では60歳未満の帰国者(孤児534人,残留婦人等209人)のうち就労している者の割合は30.0%,以前就労したことのある者が27.7%,
就労したことがない者は35.1%であり,60歳から69歳の帰国者(孤児1299人,残留婦人等926人)では,60歳から64歳までの者については,就労している者が16.3%,
以前就労したことがある者が39.9%,就労したことがない者が36.9%であり,65歳から69歳までの者については,就労している者が8.1%,
以前就労したことがある者が40.5%,就労したことがない者が45.6%であった。
就労している者の職業は,平成11年(1999年) 12月 1日の上記調査によると,技能工,製造・建設・労務作業者が87.4%,
保安職業従事者・サービス職業従事者が6.3%,専門的・技術的職業従事者が3.3%,農林漁業作業者が2.2%であった。原告らの就労状況は,
別表原告ら一覧表の「就業・生活保護の区分」欄記載のとおりであり,現在,アルバイトを含めて就労をしている原告は,6人である。原告らは,中国において,
教師や医師等の資格を取得して就労していた者も多いが,その大半は,日本において生かすことができていない。
イ 平成16年(2004年) 8月本件原告団の実施した調査(東京地方裁判所に本件と同種の国家賠償請求訴訟を提起した者1079人を対象)においては,
帰国後の就職までの期間について(有効回答数683人)について,帰国後1か月で就職した者72人(11%),定着促進センター4か月修了後に就職した者89人(13%),
約 1年後くらいに就職した者148人,現在も就職できていない者が123人(18%)であった。現在も勤めていると答えた者(有効回答数153人)のうち正社員が71人(46%),
アルバイトが82人(54%)である。なお,同調査のうち中国での職業については(有効回答数916人・複数回答),農民176人,工場労働者262人,エンジニア30人,
公務員36人,教師73人,医師24人,看護婦20人,炭鉱夫13人,鉄道員19人,店員38人,会社員47人,自営業者7人,兵士96人,その他103人
(主婦,経理事務,建築作業員,運転手,日雇い,カメラマン,京劇役者等)という結果であった。
(3) 日本語の習得状況
原告ら中国残留孤児の日本語の習得状況は,前記の厚生省が行った平成15年(2003年) 4月 1日における中国帰国者生活実態調査によると,
日常のほとんどの会話に不便を感じないと答えた者が16.2%,買物・交通機関の利用に不自由しないと答えた者が35.3パーセント,
片言のあいさつ程度と答えた者が38.7パーセント,全くできないと答えた者が8.4パーセントであった。
また,上記の「買物・交通機関の利用に不自由しない」程度以上に日本語を習得した者が,どのくらいの期間で同程度の日本語を習得したかについては,
帰国後3か月未満が9.2%,3か月以上6か月未満が10.6%,6か月以上1年未満が18.3%, 1年以上2年未満が20.4%,2年以上3年未満が10.1%,
3年以上が29.7%となっている。
前記の平成16年(2004年) 8月本件原告団の実施した調査(東京地方裁判所に本件と同種の国家賠償請求訴訟を提起した者1079人を対象)においては,
中国残留孤児の日本語の習得状況は,有効回答者883人のうち,日本語で不自由はないと答えた者が30人(3%),
聞いても半分くらいしか分からないと答えた者が163人(18%),少し話せるが会話はできないと答えた者が529人(60%),
聞いて半分分かるが日本語は全く話せないと答えた者が151人(17%)であった。また,家庭で使用している言語については,有効回答873のうち,
ほとんど中国語が681人(78%),日本語と中国語が半々が178(20%),ほとんど日本語が14(2%)であった。なお,同調査によれば,中国での学歴について,
有効回答数913人のうち,学校には行かなかった156人(17%),小学校中退130人(14%),小学校卒業144人(16%),中学校中退79人(8.7%),
高校中退30人(3.3%),高校卒業40人(4.4%),専門学校中退22人(2.4%),専門学校卒業142人(15.5%),大学中退11人( 1.2%),大学卒業43人(4.7%)であり,
中国語の新聞雑誌を充分に読める者が345人(有効回答者756人中の46%),だいたい読める者が268人(同35%),ほとんど読めない者が140人(同19%)であった。
上記調査結果について,前記認定の日本政府の実施した日本語教育についても,その施策が功を奏したか否かは,
30代,40代以上からの新たな言語習得が一般的に極めて困難であると考えられることからは(もちろん原告らの多大な努力があったことを忘れてはならないが),
十分に効果が上がったと評価し得るものである。
(上記( 1)から(3)までにつき,甲総60の 1,2,71,92,93,142,甲総A9の 1,甲総D3,4,11,12,甲各 1から40までの各枝番 1,乙101,116の1~8,証人菅原幸助)
第3 早期帰国実現義務違反について
1 被侵害利益について
(1) 原告らは,日本政府による早期帰国実現義務違反及び自立支援義務違反によって,「普通の日本人として人間らしく生きる権利」が侵害されたと主張する。
そして,原告らは,「普通の日本人として人間らしく生きる権利」について,自立した人格を持つ日本人として成長・発達するとともに,
自立した人格者として処遇されることを内容とするとした上で,その具体的性質・内容として,@母国語としての日本語を獲得すること,
A親を中心とする家族の庇護の下に成長・発展すること,B中国文化を内面化した人格者として尊重されることを挙げる。上記の@及びAは,主に,
中国の地において幼くして実親と離別したこと,中国人養父母によって中国人の子として養育されたことにより,
中国語を母国語として成長し成人となった(すなわち中国文化を内面化した者となった)が,しかし,
中国においては実親が日本人であること等を理由にいじめ・差別・迫害その他の不利益を受けたこととの関連において,また,上記Bは,
帰国後の日本での生活において,日本文化と日本語に習熟することができないことが原因となって日本の社会に十分適応することができず,
仕事や日常生活において不利益や差別を受けたり,通常の人間関係を形成・維持することが不可能又は困難であることとの関連において,
それぞれ被侵害利益の具体的内容として観念されているものと考えられる。
(2) 原告らは,上記の「普通の日本人として人間らしく生きる権利」が日本政府の行為(作為又は不作為)により侵害されて,
その結果様々な被害・損害が生じているが,その被害・損害にはすべての原告らに共通する性質があり(被害の共通性),
その共通の被害は過去から現在まで累積・継続し,かつ,拡大し続け(被害の累積性・現在性・拡大性),また,
精神面・経済面・生活面全般にわたる全面的かつ包括的なものである(包括性・全面性)という特徴があるとし,この被害・損害は,
いずれの原告についても精神的・社会的・経済的損害の総体を反映する全人格的・包括的なものであり,個別的に財産的損害として構成することになじみ難いものであり,
個別的項目ごとに損害を分割することはむしろ被害の本質にそぐわないから,いずれの原告についても,
その原告の受けた全部の損害(帰国の自由を侵害されたり,家族関係や家族生活が破壊されたり,日本での社会生活への不適合による精神的苦痛,
日本での経済的諸活動への不適合や不能により生じた逸失利益等)に対する包括的な慰謝料請求が認められるべきであり,
各原告が請求している3000万円の慰謝料は,すべての原告らに共通していて原告らの間に全く差異がない上記の損害に対するものであると主張する。
そして,原告らは,原告らが日本政府から受けた被害・損害として,次のように列挙する。
@ 中国に置き去りにされ,帰国する手段が与えられず,帰国の自由が侵害された。
A 中国社会で差別や迫害を受け,長期間にわたり幸福を追求する権利を侵害された。
B 戦時死亡宣告,身元保証制度,身元引受制度などにより,原告らの帰国を困難にした。
C 中国で孤児となり,肉親と暮らすことができず,日本語を身につける機会を奪われ又は既に身につけていた日本語能力を使用する機会を奪われて,
日本語能力を失った。
D 自己の正確な出自を知り,日本人としてのアイデンティティの基礎を早期に築く機会を奪われた。
E より早期の帰国及びより早期の身元判明の機会を奪われた。
F 原告らは,中国で「侵略者の子」としてあらゆる迫害と差別を受け,自らの責めに帰さない罪を背負わされて苦しんだが,その結果,
日本人として誇りを持って生きることに大きな抑圧を受け,中国社会に対しても日本社会に対しても完全な信頼感を持ち得ず,
日本語獲得の統合的動機付けを持つに至らなかったか又は至らない。
G 原告らの中で戦時死亡宣告を受けた者は,自分が死者として扱われ,自己の存在・人格が全く尊重されていなかったことを知って大きな精神的ショックを受けた。
H 戸籍回復について,その手段を日本政府から周知されず,原告らへの配慮もなかったため,戸籍回復の過程で様々な困難・苦難に遭った。
I 帰国が遅れたため,日本にいる家族との関係が変質し,帰国した原告らを受け入れる家族環境が失われた。
J 身元未判明の原告らは,昭和60年(1985年)ころまで,身元が判明しなければ帰国できないという状況に置かれた。
帰国や肉親捜しを希望して日本政府に手紙を出しても放置され続けた。この間,中国において,日本政府に対する怨恨と祖国に対する思慕との葛藤を抱え,
帰国できない孤独などの精神的苦痛を受けた。
K 身元判明の原告らは,親族の協力がないために帰国できないという状況に置かれた。
親族の協力を切望する原告らと協力しない親族との間で葛藤や軋轢を生じて,精神的苦痛を受けた。
L 家族の一部を中国に残して帰国せざるを得ない状況に置かれた原告らは,その家族と離れて暮らすこと自体が苦痛であり,そのことを躊躇したこと,
帰国後に家族呼寄せのために昼夜を問わず労働を強要されたこと,
生活保護を受けながら家族呼寄せのための資金を調達しなければならなかったこと等から精神的苦痛を受けた。
M 原告らの多くは,帰国後,年齢が高かったことや日本語を習得する機会が不十分であったことから,日本語による十分な自己表現が困難な状態であり,
生活上最低限必要なコミュニケーションにすら困難をきたし,社会の中で孤立化し,新たな「孤児」となっている。
N 原告らは,帰国後,日本語が習得できないために,就職できなかったり,就職できても中国における職歴を生かすことができず,
単純労務作業にしか従事できなかったりした。そして,日本語能力が比較的問題にならない職業に就いた場合においても,
日本語ができないことを理由にいじめに遭ったり,不当な差別待遇を受けた。
O 日本政府によって原告らの住所が身元引受人と同じ都道府県と指定されたため,原告らの中には希望の場所に住めなかった者がいた。
また,日本政府による住居のあっせんや援助がなかった者が極めて多く,生活に支障をきたすほどの狭隘な住居で無理な生活をしていた原告も複数いる。
P 原告の中には日本に行くことに難色を示す家族(特に配偶者)を説得して帰国した者が多いが,高齢化した配偶者等が日本の生活になじめず経済的に困窮し,
原告らとの間に軋轢を生じることが少なくない。
Q 原告らは,現在,高齢化が進み,日本語能力の不足や発病などにより,就労できない状態にある者が多いが,
これから老後の生活資金を蓄える余裕も手段もなく,日本政府による原告とその配偶者に対する老後保障策が何も用意されていないことから,
将来に大きな不安を抱いている。
R 40名の原告らのうち25名(62.75%)が生活保護を受けているが,その生活実態は,欲しいものも買えず,子供の進学にも支障があるひどいものである。
S 原告らは,日本語ができないため,周囲の日本人と意思疎通を図る術がなく,自宅に閉じこもるのみの日々を過ごさざるを得ない状況,
日本社会における自らの存在意義を見い出し得ない状況に置かれ続けてきた。原告の中には,日本に心の通じることのできる友人もできず,
自分の孫ともコミュニケーションをとれず,閉じこもる生活をする者も多い。
(3) 原告らの主張する上記の被害・損害というものが,日本政府の早期帰国実現義務及び自立支援義務に違反する違法な行為(作為・不作為)
によって発生したものか否か,すなわち相当因果関係があるか否かを検討する必要があると一応考えられるのであるが,その前に,被告が原告らに対し,
国家賠償法上の義務として,原告らが主張するところの早期帰国実現義務及び自立支援義務を負うか否かに争いがあり,その存否によって,
原告らが主張する被侵害利益(普通の日本人として人間らしく生きる権利)の存否ひいてはその侵害による被害
・損害の存否さらにはそれに対する国家賠償の要否も決まってくる関係にあると考えられるから,まず,
原告らの主張する早期帰国実現義務と自立支援義務の成否について検討することとする。
2 早期帰国実現義務の存否について
(1) 早期帰国実現義務の根拠について
原告らは,長期未帰還者(中国残留孤児)を早期に帰国させる義務の根拠として,以下のとおり憲法,国際法・条約等,法令,条理,
日本政府による先行行為に基づく作為義務を主張する。以下,これらの根拠により早期帰国実現義務が発生するかどうか検討する。
ア 憲法
原告らは,憲法上の根拠として,憲法13条,22条 1項,2項,25条 1項,26条を主張する。しかし,これらのうち憲法13条,22条 1項及び2項は,その法的性質上,
自由権を保障した規定であって,これらの規定により,
原告らが国に対して一定の積極的な作為(個々の具体的な行為又はその総体としての種々の政策決定や裁量権の行使)を求める権利に対応する国の義務として,
原告らが主張する早期帰国実現義務が発生すると解することはできない。憲法25条1項(生存権)及び26条(教育を受ける権利)は,
これらの規定が保障する権利の内容からみても,早期帰国実現義務の根拠ということは困難であるが,これらの規定によって,
個々の国民が国に対して直接何らかの具体的,現実的な権利を取得することはないと解されるから,この点の原告らの主張を採用することはできない。
原告らは,国家賠償法上の違法行為として,厚生大臣及び外務大臣による取扱いにより,原告らの帰国が妨害されたことを主張するようでもある。
そうすると,原告らは,憲法22条で保障されていると考えられる入国の自由(帰国の自由)を被侵害利益ととらえているものとも解されるが,いずれにせよ,憲法22条が,
外国にいる日本国民が日本国に帰国できるように明文の法に定められている以外の何らかの具体的・現実的な措置(作為)
をとることを国に義務付ける法的根拠となるものとは解されない。
イ 国際法・条約等
原告らは,国の早期帰国実現義務の国際法・条約上の根拠として,@戦時における文民の保護に関する昭和24年(1949年) 8月12日のジュネーブ条約(第4条約。
昭和25年(1950年) 10月21日効力発生,昭和28年(1953年) 7月29日国会承認,同年10月21日効力発生,同日公布(条約26号)) 24条第 1段落,26条,
A日本国との平和条約(昭和26年(1951年)年9月8日署名,昭和27年(1952年) 4月28日効力発生,昭和26年(1951年) 11月18日国会承認,
昭和27年(1952年) 4月28日公布(条約5号))6条(b)項,B世界人権宣言13条2項,25ないし27条,
C市民的及び政治的権利に関する国際規約(昭和41年(1966年) 12月16日採択,昭和51年(1976年) 3月23日効力発生,昭和54年(1979年) 8月4日公布(条約7号),
同年9月21日効力発生) 12条4項,D経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和41年(1966年) 12月16日採択,昭和51年(1976年) 1月3日効力発生,
昭和54年(1979年)8月4日公布(条約6号),同年9月21日効力発生)11条,13条,15条1項(a),E児童の権利に関する条約(平成元年(1989年) 11月20日採択,
平成2年(1990年) 9月2日効力発生,平成8年(1996年) 5月16日公布(条約2号),同年5月22日効力発生。) 7条1項,8ないし11条を主張する。
憲法98条2項は,日本が締結した条約及び確立された国際法規について,誠実に遵守することを定めている。
この規定は,条約及び国際法規の一般的受容を定めた規定とされ,日本が締結した条約(もっとも,批准・公布される必要がある。)及び確立された国際法規は,
それらの内容をあらためて別の国内法の形式によって定めることなく,
すなわち特別の立法手続を経ずにそのまま国内法的効力を持つことを規定したものと解することができる。
しかし,国内法的効力が発生し,国内的な法規範としても存在するに至ったからといって,
当然に国内において具体的な紛争解決規範として訴訟事件への直接の適用が可能であり,かつ,適用されなければならないということはできない。
直接の適用が可能かどうかは,その規範の対象となっている法主体が誰か,
規範の内容が具体的に十分に明確で紛争解決基準として適当なものであるか否かやその条約の目的実現のために現実的に必要な機関や手続の定めが
されているかどうか等の点を検討して判断すべきである。
以上を前提として,原告らの主張する各国際法・条約等を検討すると,上記Aの平和条約の規定は,
ポツダム宣言第9項「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめられるべし」
の規定の実施が未完了である限り実行されるべきであるというものであり,本件の原告らとは関係がない規定であるといわざるを得ず,
上記B〜Eはいずれも権利を確認する規定であって,国がその国民に対して何らかの具体的な行為を行うべき義務を定めるものとは認め難く,また,
上記@の文民条約は,戦時における紛争当事国の文民保護に関する行動基準を示したものであり,
戦争の影響からの住民の一般的保護として戦争によって生ずる苦痛を軽減することを目的として規定された第2編に位置する24条は,
その第1段落で「紛争当事国は,戦争の結果孤児となり,又はその家族から離散した15歳未満の児童が遺棄されないこと並びにその生活,
信仰の実践及び教育がすべての場合に容易にされることを確保するために必要な措置を執らなければならない。」とし,同じく26条は
「各紛争当事国は,戦争のため離散した家族が相互に連絡を回復し,できれば再会しようとする目的で行う捜索を容易にしなければならない。
各紛争当事国は,特に,この事業に従事する団体が自国にとって許容し得るものであり,且つ,その団体が自国の安全措置に従うものである限り,
その団体の活動を助成しなければならない。」としているが,24条については,
中国東北地方において中国人養父母に養育されるに至っていた原告らについてその適用を考えるのは困難であり,26条については,
国家間の関係を規律するものであって,国とその国民との間の関係を規律するものではなく,
長期未帰還者(中国残留孤児)を早期に帰国させるという一定の具体性・現実性を持った,しかし必ずしも内容が一義的に明確とはいえない義務を,
国家賠償法による賠償責任の前提となる国の義務として,これらの規定から直接導き出すことは困難であり,本件においては,
上記の各規定を国家賠償法上の義務の根拠とすることはできないというほかない。
ウ 法令
(ア) 各設置法
原告らは,法令上の根拠として,厚生省(厚生労働省)設置法及び外務省設置法を主張する。しかし,これらいわゆる組織規範は,
行政機関の所掌事務の範囲を規定するものであって,厚生大臣(厚生労働大臣)及び外務大臣の行為を根拠づけたり,義務を発生させたりする性質の規定ではない。
したがって,これらの規定により早期帰国実現義務が発生するとは認められない。
(イ) 留守援法
前記認定のとおり,留守援法29条は,「国は,未帰還者の状況について調査究明をするとともに,その帰還の促進に努めなければならない。」と定めている。
しかし,「努めなければならない」との文言や,
同法において帰郷旅費(15条)の規定のほかに具体的な調査究明及び帰還促進に関する具体的な方法等を定めた規定はないこと,
この法律は未帰還者の収入によって生計を維持していたであろう留守家族を援護するために制定されたものであり,
原告らのような孤児となって中国に留まっている未帰還者を除外したものとはいえないが,
原告らはこの法律の最も重視していた日本に扶養家族を持っていた未帰還者であったとはいえないことからすると,同法29条は,
原告らのような中国残留孤児との関係においては,努力目標を定めた訓示的な規定とみるのが相当であり,
この規定を国家賠償法上の義務発生の根拠規定とみることは困難である。
上記の規定が法律という法形式によって存在していることから,国が未帰還者の早期帰国を実現させる法律上の義務を負うこと自体は明らかであり,
具体的にどのような方法をとるべきか等の義務の具体的内容については立法又は行政の裁量によるという見解もあり得るが,
その裁量権の行使が違法か否かすなわち裁量権の行使が国家賠償法上の違法行為に該当するか否かを判断する基準が全く示されていないから,
この規定を国家賠償法上の義務発生の根拠規定とみることは相当ではない。
(ウ) 未帰還者特別措置法
未帰還者特別措置法1条は,「この法律は未帰還者のうち,国がその状況について調査究明した結果,なおこれを明らかにすることができない者について,
特別の措置を講ずることを目的とする」と定めている。しかし,この規定は,その文言から明らかなように,戦時死亡宣告制度等の措置を講じる目的を定めた規定にすぎず,
日本政府に未帰還者の調査究明を義務づける根拠となる規定とは認められない。
エ 先行行為に基づく条理上の義務
(ア) 原告らの主張
原告らは,日本政府が自ら何らかの危険状態,違法状態を創出し(先行行為),そこから生じうる損害の発生を阻止すべきであったのにそれをしなかったとして,
厚生大臣及び外務大臣は,先行行為に基づき,条理上,その損害発生を阻止するための法的作為義務を負う旨主張し,主な先行行為として,
@満州国の建国,A国策としての大量移民政策,B関東軍による遺棄すなわち昭和20年(1945年)には関東軍の戦闘能力が極めて低下し,
日ソ開戦の事態となれば大きな被害が出ることが予想されたのに,開拓民その他の邦人を保護又は避難させる措置をとらず,むしろ,
安全であるとして民間人が戦火から逃れる途を積極的に妨害し,開戦後は民間人を置き去りにして率先して敗走したこと,C現地土着政策を挙げる。
すなわち,上記の先行行為が原因となって,原告らが実親と離別して孤児となったと主張し,中国で中国人養父母によって養育されるに至ったことにより,
普通の日本人として人間らしく生きる権利が侵害されて前記のような種々の損害が発生する危険な状態となったから,日本政府には,条理により,
先行行為によって作出されたそのような危険な状態から損害が発生することを防止する作為義務すなわち早期帰国実現義務があると主張し,
作為義務成立の要件とされる損害発生の予見可能性については,必ずしも先行行為の時点で存在している必要はなく,後の時点に存在すれば足り,
日本政府は日中国交回復前後を通じて予見可能であった,また,
作為義務成立のもう一つの要件とされる損害発生の結果回避可能性についても同様に日中国交回復前後を通じて存在したと主張する。
(イ) 原告らの主張する先行行為の検討
まず,原告らが実親と離別して孤児となり,中国人養父母に引き取られて養育されるに至った原因について,
原告らの主張するように前記の先行行為が原因であると判断することができるのか,またそのように判断することが相当であるといえるかを検討する。
a 満州国の建国が先行行為の 1つであるとの主張については,前記認定のとおり,
満州国の建国は昭和7年(1932年) 3月 1日で,原告らが実親と離別して孤児となったのが昭和20年(1945年) 8月9日以降のことであり,
その間に約13年5か月という期間が経過しているが,歴史的な事実として,
満州国が建国されなければ原告らの両親が日本から満州に渡ることはまずあり得なかったと考えられ,
その意味で満州国の建国と原告らが満州の地で孤児となったこととの間に原因と結果の関係があるといえるが,
満州国の建国という一種の意思表示ないし政策決定そのこと自体から,直ちに,
原告らが実親と離別して孤児となり中国人養父母に引き取られる事態が生じたということはできないのであり,満州国の建国と原告らが孤児となったこととの間に,
法的な賠償義務の発生根拠となる事実としての因果関係があると断定することは躊躇される。
満州国が我が国の実質的な植民地であり,日本人が満州国を軍事的,政治的,経済的に支配したことにより,中国人の反感・反発を買ったことや,
満州国がソ連の南下政策の対象地として日ソ間の領土争いの最前線となる地域にあったことから,
満州国は二重の危険をはらむ地域であったとの原告ら主張の事実については,前者については,前記認定の事実からも認められ,
特に否定すべき事情は見当たらないが,後者についてはソ連が満州を自国の領土とすることを考えていたかは,ヤルタ会談の秘密協定の内容,中国の内戦状況,
国際情勢及び終戦後のソ連の満州に関する態度からみてやや疑問もある(前記認定のとおり,ヤルタ会談の秘密協定でソ連が米英と合意していたのは,
南樺太と千島列島の引渡しと満州における鉄道と港湾に関する権益の取得であり,満州国の領土自体に関するものは含まれていない。)。
いずれにしても,満州国が日本本土に比較して危険性の高い地域であったか否かは,時期により,満州国のどの地域かにより,また,
関東軍の戦力や国際情勢その他の様々な要素との関連において定まってくるもので,一概に判断できるものではないと考えられるが,
仮に原告らの主張するように危険性の高い地域であったとしても,前記の因果関係に関する判断を左右するものではないと考えられる。
b 国策としての満州国への移民政策とその実施が先行行為であるとの主張についても,歴史的事実としては,そのような移民政策が決定・実施されて,
一部の原告らの両親がその国策に応じて(協力して)開拓民(農民)として満州国に赴き(法的には,強制されたのではなく,
自由な意志による判断に基づいて渡満したものとみざるを得ないであろう。当時はブラジルへの移民も行われていた。),それが原因の一つとなって,
開拓民の子である一部原告らが孤児となったとみることができるのであるが,やはり,上記政策の決定・実施そのこと自体から,直ちに,
原告らが孤児となる事態が生じたということはできないのであり,満州への移民政策と原告らが孤児となったこととの間に,
法的な賠償義務の発生根拠となる事実としての因果関係があると断定することは躊躇される。
開拓民が入植した開拓地の多くが現地の中国人から取り上げたものであり,これにより現地中国人から強い反感・反発を受けただけでなく,
入植地が国土防衛線の構築,兵站確保の必要からソ連との国境沿い等の緊張度の高い危険地域であったとの主張については,
これらの事実を特に否定する事情も見当たらないが,これによって上記の因果関係についての判断は左右されない。
c 太平洋戦争開始後,関東軍の南方方面への転用等により満州における十分な防衛力がなくなり,
移民団入植地に対してソ戦や反満抗日部隊が攻撃してきた場合の危険性が飛躍的に高まったにもかかわらず,移民に対する何らの保護策をとらず,
危険を隠蔽したまま移民を送り続け,あえて民間人を危険な状態においたこと,昭和19年(1944年)以降,対ソ戦勃発の具体的危険が高まり,
昭和20年(1945年) 5月には関東軍が対ソ持久戦の戦場を満州南東部に限定し,満州の南東部以外のほぼ4分の3を放棄する作戦を採用し,
これにより移民団はソ連軍の侵攻に無防備でさらされることが必定となったが,関東軍がこれらの移民団の保護策を何もとらず,「静謐作戦」の名の下に,
危険な状態にあることを一切知らせず,むしろ,虚偽の事実を宣伝して民間人が戦火から逃れる途を積極的に妨害したこと,さらに
,同年7月にはいわゆる根こそぎ動員をして移民団は老人,女性,子供だけの無防備な状態になったが,これに対しても何らの措置も講じなかったこと,
これらが先行行為であるとの主張についても,前示したところと同様に,歴史的な事実経過として,関東軍の戦闘力が低下していたこと,したがって,
戦闘になった場合には民間人により多くの損害が出る可能性が高くなったこと,しかし,特に民間人の保護策というものはとられずに移民政策が続けられたこと,
昭和20年(1945年) 5月以降,対ソ戦を想定して関東軍の作戦の変更がされたが,
それに伴って国境付近の開拓団等の邦人に対して何らかの保護策が講じられたことはなく,むしろ,防衛力増強を図っていわゆる根こそぎ動員がされ,この結果,
移民団は老人,女性,子供しかいない無防備な状態となったが(日ソ開戦後の逃避行もより困難なものになった。),これについても何らの措置もとられず,さらに,
同年8月2日にはラジオで関東軍は盤石であるから邦人特に国境開拓団員は安んじて生業に励んでほしい旨の放送をし,
このような一連の政策決定とその実行のいわば延長線上に原告らが孤児となる事態が発生していることが認められるが,やはり,
紛争の法的解決を目的とする民事裁判における争点としての因果関係の存否という問題において,先行行為は,端的に,
原告らが孤児となった事態と直接結び付けることのできる,行為者,時期,場所,
態様等を具体的に一定程度特定することのできる価値中立的な事実(必ずしもすべてを厳密に特定しなければならないというものではない。)
として存在することが必要ではないかと考えられ,上記のような政策決定,作戦変更から結果として原告らが孤児となる事態が発生したとして,
その間に法的な因果関係を肯定することは躊躇されるのである。
なお,関東軍のソ連軍に対する戦闘力・防衛力の低下,
日ソ開戦の危険性増大,持久戦の防御線についての作戦変更や根こそぎ動員による開戦した場合の危険性増大等に対して,
軍や国が移民や民間人の保護に関して何らの措置もとらなかったという不作為を先行行為とすることについては疑問がある。
不作為の行為性は,作為義務を前提とするものであり,作為義務は,法律的な思考としては,
期待されるその作為が現実に可能であることを前提として成立するものであるが,当時の状況において,
移民や民間人に対してどのような保護策をとること(作為)が現実的に可能であったのか,この点を判断するのに必要かつ的確な証拠はない。
もし,関東軍の戦闘能力の増強が不可能であったのであれば,開戦前に移民や民間人を国境地域からできるだけ遠い地域へ予め避難させるほかないと考えられるが,
数十万人という人々を,どの時期に,満州のどの地域に,どのように避難させるべきであったのか具体的な主張がない。
原告らが孤児となったのは国境付近においてだけではなく,むしろ,逃避行の末にたどり着いた主要都市において多くの人々が死亡し,
子供が孤児となっていること(北朝鮮や関東州でも同様の事態が発生していたが,旅順・大連などでは凍死した旨の報告がないから,
関東州に避難させることは考えられたのかもしれないが,これを認定するに足りる証拠はない。)を考えると,日ソ開戦前に,
満州に居留していた100万人を超える日本人の全て又は多くの部分を日本に帰国させるべきであったということにもなりそうであるが,仮にそうであるとして,
そのような政策を決定して現実に実行することがあり得たことを認めるに足りる証拠は見当たらない。証拠(甲総112の9)によれば,昭和20年(1945年) 5月以降,
開拓村においては,従前どおり軍隊のための物資の供出に務めてはいたが,根こそぎ動員による警備力・自衛力の不足から万一の場合の不安が大きくなっており,
同年4月下旬に協和会開拓部会主催の全満各開拓団地区代表会議において開拓決戦体制確立の急務が強調されたことを受けて,
5月に入って開拓各地区で協議会が開かれ,ここで開拓総隊組織編成要綱が発表されたこと,
このころ満州国開拓総局として考慮していた開拓団に対する非常措置の要領は,@北満辺境の開拓民を浜綏線以南に移すこと,
A応召留守家族を団本部に集結すること,B8月末までに僻遠の地に在る開拓団を併合集結すること,
C団長をはじめ幹部の応召免除を関東軍に要請すること(この点については関東軍のある程度の了解を得ていた。)などであったが,
この実施を中央から各地に連絡したのは既に7月末であり,日ソ開戦までに実際には何の効果もなく,
戦局の推移について正確な認識を欠いていた開拓団においてもこれに沿った行動をとらなかったことが認められるが,上記の非常措置が仮に実施されたとしても,
それによって孤児の発生が避けられたとはいい難いし,それ以上の開拓民その他の民間人の保護策をとることが現実に可能であったと認めることも困難である。
そうすると,原告らが先行行為として主張する不作為については,結局,作為義務の成立・存在が証拠上明らかであるとはいえないから,
それを前提とする不作為があったと認めることもできないこととなり,その不作為が原因となって孤児が発生したという因果関係も肯定することもできない結果となる。
d 日ソ開戦後,関東軍が国民を守る任務を遂行せず,率先して民間人を戦場に置き去りにして敗走し,
民間人の犠牲を最大限まで増大させたことが先行行為であるとの主張については,にわかにこれを採用することはできない。
前記認定のとおり,関東軍がソ連軍を国境で防ぐことがほとんどできず,反撃と退却を繰り返し,ほとんどの部隊で敗走したことは事実であるが,
軍隊は兵員と指揮命令系統が維持されなければ軍隊としての機能を維持し続けることができないことは当然であって,
停戦に至るまでは戦闘継続のために軍隊組織を維持することが最優先事項になることから,
戦場において民間人の保護を最優先に行動するのを期待することは不可能であると考えられる。軍隊は,原則として,個々の民間人を直接に保護するものではなく,
敵国との外交交渉を有利に行うことを目的として,敵の軍隊と戦闘行為を行っていわば間接的に民間人の生命・身体その他の利益を守るものであるから,
日ソ開戦後の関東軍の行動全体に関して,上記のような評価をすることはできず,また,前記認定のとおり,
停戦に至るまでの各方面における関東軍の戦闘状況や総司令部の行動から,むしろ,終戦の詔勅が出された後は,
できる限り早期の停戦協定の締結を試みていたことが窺われ,関東軍の行動が直接の原因となって民間人の犠牲を増やしたとすることはできないし,
関東軍の戦闘中の行動によって原告らが孤児となる事態が生じたとも認め難いというべきである。
e 敗戦後,大本営がいわゆる現地土着方針をとって民間人に現地に留まるように指示し,邦人の犠牲を防ぐ方策をとらず,また,
軍が民間人を保護しなかったことが先行行為にあたるとの主張については,前記認定のとおり,
大本営が敗戦から当初約 1か月間はいわゆる現地土着方針をとっていたことが認められるが,満州にいた民間人に対してこれを指示した事実については,
これを認めるに足りる証拠はなく,また,現地土着方針によって原告らが孤児となる事態を招いたとの因果関係もこれを認めるに足りる証拠はない。
さらに,大本営が邦人の犠牲を防ぐ方策をとらなかったこと(前記認定の事実によれば,日本政府は,満州の悲惨な状況に対して,様々な外交努力をしたが,
有効な措置をとることはできず,結局,昭和21年(1946年) 4月にソ連軍が撤退して満州が国民党の支配下に入るまでは,
GHQも満州からの引揚げについて具体的な行動をとることはできなかった又はとらなかったことが明らかである。)及び軍が民間人を保護しなかったということは,
事実としてはそのとおりであるが,前記認定のとおり,連合国に対する日本の無条件降伏により満州はソ連軍の排他的に管理する占領地域となり,
関東軍は武装解除されただけでなく,指揮命令系統もすべて破壊されて軍隊としての機能を全く果たせなくなり,司令部を構成していた将官や佐官をはじめとして,
すべての軍人がソ連軍によって作業大隊に編成されるなどしてソ連領内に移送され,いわば存在しなくなったのであり,また,日系満州官吏,同協和会役員,
朝鮮総督府等の官吏,警察官,重要な職域の幹部らもソ連軍によって逐次逮捕されてしまい,その後,
まったくの無警察状態になった状況において(満州国の警察や軍隊が秩序維持にあたった形跡は窺われず,むしろ,
率先して邦人からの掠奪を行ったものと認められる。),どのような方法でソ連兵や現地住民の犯罪行為から邦人を保護すべきであったのか不明であり,
このような状況において,大本営が犠牲を防ぐ何の方策もとらなかったとか,軍が民間人を保護しなかったことが孤児を発生させる原因となったと主張しても,
にわかにこれを採用することはできないというほかない。すなわち,大本営が何の策もとらなかったことについては,
もともと何らの方策もとり得ない状況であるから作為義務を認める前提が存在しないし,軍についてはそもそも存在しなくなっているから作為義務の主体がなく,
不作為ということも観念し難いのである。
(ウ) 原告らが実親と離別して孤児となるに至った原因について
a 前記認定のとおり,原告らが孤児となった直接的な原因は,ソ連軍との戦闘行為,
逃避行中又は越冬期間中におけるソ連兵や土匪や現地住民による日本人に対する殺人,強盗,強姦,
略取・誘拐等の犯罪行為及びそれらを防止し取り締まるものがないことから生じる危険な状態(そこから生じる親の危機感)であったと認められ,
親が死亡して孤児となった子が中国人に引き取られ,また,凍死や餓死に直面した親が子の生命を守るために子を中国人に預け,また,
衰弱した親が目を離した隙に子が連れ去られて中国人に売られるなどにより,原告らは帰国の可能性を奪われたものと認められる。
前記認定の事実から,ソ連軍が満州から撤退した後,いわゆる前期引揚げ期間中に,日本政府が中国人養父母に引き取られた原告らを一人一人捜し出し,
その養父母を説得して原告らを手放させ,帰国させることが現実に可能であったと認めることも到底困難である。
b 原告らは,満州国の建国,開拓民の移民政策,
日ソ開戦が迫った状況においての国や関東軍のいわゆる静謐作戦等が原告らが孤児となった原因であると主張している。
事実として,これらの政策や作戦が孤児発生の原因となっていることは間違いのないところであり,他方,
原告らが孤児となったという結果発生により近い直接的な原因たる事実としてソ連兵や現地住民等の行為が存在するのであり,
歴史的な認識としてどちらを重視し強調するかについては様々な立場があり得るものと思われる。しかし,裁判所が行う法的な判断に関しては,
国の実質的な植民地政策や戦争政策(個々の作戦や戦闘行為も含まれるであろう。)は高度の政治的判断に基づくものであり,
本来司法審査の対象とはならないものと考えられ,
このことは戦前の国策等についても例外ではないと考えられる(戦前の国策は例外であるとすべき理由が思い浮かばない。)。
国家賠償法上の国の義務の存否を判断するための法律要件の1つとして,そのような司法審査の対象外とされるべき国の政策を,
国の作為義務を発生させる先行行為として取り上げ,
それと原告らが孤児となったこととの間の因果関係の有無について法的判断を加えることが果たして相当であるのか疑問の念を禁じ得ない。
また,仮にそれが許容されるとしても,先行行為の存在を認めることは,一定の作為義務(原告らは早期帰国実現義務と自立支援義務を主張するが,
原告らが中国で孤児となった状態から国にどのような作為義務を発生させるかは,何を損害として構成するかにかかり,一義的に確定するものではない。)
が成立する余地を認めることとなるから,国家賠償を認める法的根拠となり得るのであり,このことは,
原告らの主張する先行行為がいずれも国家賠償法施行前の行為であることを考慮すると,国家賠償法附則6項の趣旨に沿わないこととなる。
以上検討したところと,原告らが孤児となった原因としてより直接的な事実としてソ連兵や現地住民等の行為が存在することを考慮すると,
原告らが主張する国の戦前の政策等を,先行行為として認めることは相当ではないというべきである。
c 原告らは,中国残留孤児が発生した原因としてソ連軍の侵攻とそれによって発生した極度の混乱及びそれに引き続く越冬であると被告が主張することについて,
@そのような事実があったことは否定しないが,被告が指摘する事実は原告らが主張する一連の先行行為全体との関連で把握すべき歴史的事実にすぎないもので,
これをその前提となっている他の歴史的事実から分断し,それのみを恣意的に取り出して評価を加えることは許されない,A被告がこのような主張をするのは,
結局のところ,国策に基づき傀儡国家「満州国」を建国し,その地に国家の総力を挙げて原告らの親・親族を送り込み,
最終的に国が彼らを「遺棄」したという歴史的事実を覆い隠すことを目的とするものである,B被告の主張は,
残留孤児が発生した地域がたまたまソ連軍の占領下におかれたものではなく,もともとソ連軍が進出してくる蓋然性が極めて高い地域で,
関東軍の存在自体が対ソ戦を想定したもので,開拓民の大半がソ満国境に配置されたという事実を無視するものであり,原告らの主張に対する反論とはなり得ない,
C原告らが主張する先行行為は,それぞれが原因・結果の関係を有する一連の歴史的流れを前提とするものであり,相互の行為が密接に関連し合っているものであり,
個々の事件を分断して先行行為と被害の関係を直接結びつけるのは適切ではない,Dあくまで先行行為として主張される一連の事実が,
戦後における作為義務を成立させる原因となると考えることができるかという観点に立脚すべきである,と反論する。
上記の反論@については,法的な因果関係の有無は,それが認められると強制執行を伴う法的責任の発生につながる関係上,
その存否の判断に恣意的要素が入らないように,できる限り価値的な評価を排除した単純な事実として原因・結果の関係があるかどうか,
その関係がどの程度直接的なものであるか,また,
その原因事実と結果事実との間に人の規範的判断や規範的評価の対象となり得る行為(故意や過失)が介在しないか否か等を考慮して決定されるべきものであり,
歴史的事実として一連のものであるという一定の歴史観・価値観に基づいた歴史的な評価を優先することには問題があるから,直ちに採用することはできない。
Aについては,まさにその歴史観・価値観の問題であると考えられるが,
戦前の国策の誤りを強調したい歴史観(原告らは訴状において戦前の国策を違法であると主張していた。)に基づいて,
ソ連兵やソ連軍の行為が原因であるとの見解(これは法的因果関係として主張されたものであると考えられ,
一定の立場からの歴史的見解として主張されているかどうかは判断できない。)を批判するものであり,法的議論として考慮することは躊躇される。
Bについては,先行行為が極めて危険なものであったと強調するものであるが,その趣旨が明らかではない。Cについては,法的な因果関係の有無を議論する場合に,
できるだけ避けるべき思考方法を採用すべきであると主張するもので,これを採用することはできず,Dについては,
原告らの主張する一連の先行行為が孤児の発生原因となるかという問題を指摘・提起するもので,特に反論というものとは解されない。
以上から,原告らの上記の反論は,いずれも採用することができない。
(エ) 結果予見可能性(原告らが普通の日本人として成長していくことができないであろうことの予見可能性)について
前記認定の事実,すなわち,
日本政府においては中国に生存していることが推定される長期未帰還者のうちに数多くの日本人孤児が存在していることを認識していたこと,
これらの孤児が中国に取り残された事情や日本政府が実施した終戦後の引揚援護業務に関する事情に照らすと,日本政府は,
終戦直後から中国東北地方に多くの日本人孤児が取り残され,中国人に養育されている状況にあることを認識しており,これら多くの孤児が日本に帰国できず,
中国人に養育されることにより中国語を習得し中国文化を内面化し,普通の日本人として成長していくことができないであろうことを予見できたものと認められる。
(オ) 結果回避可能性(原告らが普通の日本人として成長・発展するために,被告において原告らを早期に日本に帰国させることができたか)について
先行行為に基づく作為義務としての早期帰国実現義務が成立するための要件として,
先行行為によって発生した危険状態(中国東北地方において原告らが中国人養父母に引き取られた状態)から被害が発生することを日本政府が回避
・防止することができたというためには,具体的には,先ず,厚生大臣及び外務大臣が,原告らの所在等を調査究明し,
原告らの帰国を促進する施策を立案・実施することにより,原告ら中国残留孤児の帰国を実現させることが可能であったことが求められる。
当時の中国の国内状況を考えれば,帰国させること以外には,原告らが主張する損害の発生を回避する現実的な方法はなかったものと判断するのが相当である。
a 日中国交回復前について
日中国交回復前において,日本政府による施策によって原告らの帰国が実現し得たかについては,前記認定事実のとおり,
@日本は,昭和27年(1952年) 4月28日に発効したサン・フランシスコ平和条約により主権を回復したが,中国については,台湾の国民党政府との間で平和条約を締結し,
中国共産党の中華人民共和国政府とは平和条約を締結せず,国家としても承認しなかったこと,Aしたがって,日本政府は,
同年3月18日閣議決定された「海外邦人の引揚に関する件」に基づき,海外在留日本人の引揚げに関する措置をとることとなったが,
中国東北地方を統治する中華人民共和国との正式な外交関係を持たず,
同地方にいる在留日本人の引揚げ問題を正式な外交ルートによって解決することは困難であったこと,B後期集団引揚げは,
中国紅十字会と日本の引揚三団体との間の申し合わせにより,人道上の措置として行われたものであり,日本政府が主体となって行われたものではないこと,
C未帰還者の調査や帰国に関してジュネーブで行われた政府間交渉は,中国側が国家の承認や国交回復を最優先事項とする姿勢を崩さず,
それ自体としてはいずれも不調に終わっていて,衆議院海外同胞引揚特別委員会委員長の中国政府への申入れも中国側から拒絶されていること,
D日中間の民間レベルでの経済交流は行われていて,昭和27年(1952年)には第一次日中民間貿易協定が締結されたが,
日本政府が共産主義思想に対する警戒を解かず台湾の国民党政権を支持する立場を明確にしていたことから,
昭和33年(1958年)に発生したいわゆる長崎国旗事件における日本政府の対応をきっかけとして,
中国政府は民間貿易を始めとする日本との間で行ってきた交流をすべて停止し,これに伴って後期集団引揚げも終了したこと,
Eその後,民間交流は復活したものの,厳しい東西対立を基調とする国際情勢を背景として,
日本が中華人民共和国を国家として承認して国交を回復する機運は高まらず,
原告ら中国残留孤児の帰国について人道上の問題として政府間交渉が行われることもなかったことが指摘されるのであり,
前期認定の個別引揚げに対する支援(帰国旅費の国庫負担,帰還手当の支給など)
を行うこと以上の原告らの早期帰国実現に向けた施策を国として立案・実行することは現実には不可能であったというほかない。
原告らは,日本政府が,平和条約の相手方として中華人民共和国を選択し,あるいは同国と正式な外交関係を早期に確立すべきであった旨主張する。
確かに,同国との正式な外交関係が早期に確立されていれば,長期未帰還者(中国残留孤児)の早期帰国が促進されていた可能性がなかったとは断定できないが,
しかし,正式な外交関係を持つかどうかは,国際情勢等一切の事情を考慮して行われるまさに高度の政治問題であって,
原告らの国家賠償請求権の存否についてその当否が争われているとしても,司法審査の対象として議論すべきものではないと考えられる。
仮に早期に外交関係が確立していたとしても,原告らの帰国が優先性の高い交渉事項として取り上げられるべきか否かは,
その時々の両国の政治的・経済的・社会的事情と思惑とに左右されるものであり,
一概に早期帰国の施策と実行が可能であったはずであると判断することはできないであろう。
以上によれば,厚生大臣及び外務大臣は,日中国交回復前の段階においては,現実に行っていた以上に,
中国側の協力を得て調査究明及び帰国促進の施策を立案・実行し,原告ら中国残留孤児を帰国させることができたものとは認められず,
日中国交回復前において,原告らが主張する被害の発生を回避することが可能であったとすることはできず,この認定・判断を覆すに足りる証拠はない。
b 日中国交回復後について
(a) 日本は,昭和47年(1972年) 9月29日,中国との間で国交を回復し,これにより,日本政府は,中国政府との間で,
正式な外交ルートを通して原告ら中国残留孤児など長期未帰還者の帰国について交渉し,協力を要請することができる状況となった。
実際に,日中国交回復を契機として,特に中国における文化大革命が終息した昭和51年(1976年)以降ころから中国からの引揚者や一時帰国者が急激に増加し,
また,中国に残留している者からの日本国内への通信が活発化し,原告ら中国残留孤児などの長期未帰還者についての多くの情報が寄せられるようになった。
中国国内で毛沢東思想による文化大革命が猛威を振るったように(このときに迫害を受けたり,そのおそれを感じた孤児が多く,
孤児が自分が日本人であることや日本に帰国を希望していることを表明することができなかった事情のあったことは,原告らの陳述書からも明らかである。),
東西のイデオロギー対立が和らいだといえるかはともかく,日中国交回復によって,
厚生大臣及び外務大臣は,原告ら中国残留孤児の帰国について国交回復前よりは格段と中国政府と交渉し,
協力を得やすくなったことは否定できないところといえるであろうし,その限りで,
原告らが主張する被害の発生を回避する可能性が生じてきたと一応いうことができるものとも考えられる。
(b) しかし,日中国交回復がされた時点において,原告らが中国人養父母に引き取られてから既に少なくとも26年以上が経過しており,その間,
原告らは中国語を母国語として習得し(日本語を話すことができた者はほとんど日本語を忘れ),中国文化を内面化しながら成長して成人し,
多くは中国人配偶者と婚姻して子をもうけ,独立した家族を形成し,中国社会の構成員として一定の地位を得ていたのであり,その限りでは,
原告らが主張する普通の日本人として人間らしく成長・発展する権利,特にその核心部分を形成すると考えられる母国語としての日本語を獲得し,
親を中心とする家族の庇護の下に成長・発展するという部分については,
既に侵害されてしまっている状態すなわち損害の発生という結果が発生してしまっている状態となっていたということもできるのである。
(c) 証拠(甲総129)によれば,発達心理学からみると,@母語を習得するための臨界期(やや幅をもたせて「敏感期」ということもある。)は,
2歳から12歳ころまでとする学説があり,その時期を越えると,第二言語を母語とほぼ同じ水準まで習得することは不可能ではないが非常に困難であると考えられ,
さらに,音声知覚というより遺伝的な決定が強いと考えられる能力に依存する発音に関しては更にさかのぼって臨界期が存在するとの学説があること,
A臨界期(敏感期)を過ぎても適切な条件さえあれば,日常生活に不便のない,あるいは仕事に使える程度に第二言語を習得することは決して不可能ではないが,
通常はそこで獲得された言語は発音を中心に母語話者から見れば違和感を感じさせる,いわゆる「外国語」として習得される可能性が高く,
その習得に払うべき労力もまた著しいこと(ここでいう「外国語」はその地で公用語として使われていない言語を学んでいるときにその言語をいい,
母語に次ぐ二番目の言語習得を一般にいう場合を「第二言語」という。),B原告ら孤児にとって,母語は中国語であり,
日本語は第二言語又はこれに準ずるもの(臨界期又は敏感期前に言語環境が日本語から中国語に変わった孤児の場合)となること,
C人が移住先の言語を習得する場合,どの程度その言語が使用されるようになるかは,
「何年そこに生活したか」より移住時の年齢が大きな規定要因になることを示すデータがあること,
D第二言語習得の動機付けとしては統合的動機付け(当該言語集団の文化を学びたいなど言語集団と自己との統合に関わるような動機付け)と道具的動機付け
(就職のためなど道具的に言語を使用することを動機とするようなもの)があり,前者が長期的に成功し,後者は短期的なものに留まる傾向があるとの指摘があること,
E見方を変えると,第二言語習得の成否は,異なる文化集団に対する適応性の問題であり,
学習者が目標言語集団にどれだけ適応できるかが第二言語習得を左右するとの指摘があり,人間関係における信頼(何をすることが相手に対する配慮であるか,
謝罪とはどういうことか)に関する日中間の文化の違いから,信頼関係をつくるための行為が不信を生むということが起こり,
その経験がたび重なることにより適応障害を引き起こす要因となること,
F孤児が中国で学校教育を受けているか否かは帰国後の日本語習得の困難さを規定する非常に大きな要因の一つになること(学校の授業についていく上では,
生活言語が堪能なだけでは不十分であり,書き言葉を含む抽象的思考に関わる「学習言語」の習得がカギであり,これを習得していない場合は,
日本語習得についても学習言語で獲得される力を発揮することができない。)などが指摘されている。
上記の発達心理学からの指摘によれば,日中国交回復後,できるだけ早い時期に帰国することにより,一般的には,日本語の習熟度がより高くなり,
日本社会への適応もより容易になる可能性があり,日本社会における労働能力もより高いレベルに到達し,
また日本での労働期間が長くなることによって経済的にも余裕が生じたであろうことは,それがどの程度のものかということまでは一概には判断できないが,
否定し難いところである。第二言語としての日本語の習得ということに関しては,いかに統合的な動機付けをしてそれを維持し,日本語学習を継続するか,
どのような学習方法がより効率的かが重要なこととなるが,
日本語の学習が年齢のできるだけ低いうちに開始されることがかなり重要であることを無視することはできないであろう。
ただ,既に指摘したように,原告らの主張する被侵害利益なるものの最も核心的な部分が既に侵害されてしまっていて,
基本的にはその原状回復ということは事柄の性質上不可能なものであり,
先行行為から生じた危険な状態から損害が現実に発生することを防止する(結果を回避する)可能性の有無ということに関しては,
既にほとんどの結果が発生してしまっていて,それを回避する可能性の有無を論ずる意味又は実益がかなり低下している状態になっているのではないかと思われる。
(d) 以上から,日中国交回復後において,原告らが主張する結果回避可能性は存在するといえるが,その回避可能性は,損害本体の発生を防ぐというより,
既に発生してしまった損害本体から更に派生的に生じる損害の発生を防ぐ可能性であると考えられる。
現実に原告ら中国残留孤児に対して国から提供された日本語習得の機会も,損害本体の発生を防ぐためのものではなく,
既に発生してしまった損害から派生する損害をできるだけ防ぐためのものとして理解するのが合理的である。
(カ) まとめ
これまで検討してきたところから,国の戦前の政策を先行行為と認めることはできず,
原告らが主張する損害の発生について日中国交回復前にはこれを回避することはできなかったと認められることや,
日中国交回復後においても原告らの主張する損害の発生を回避するということ自体について一部疑問があることを総合的に考慮すると,
原告らの主張する先行行為に基づく条理上の義務としての早期帰国実現義務が成立するということはできない。
オ 条理について
原告らは,憲法,条約及び法令等の目的,行政機関として日本政府に期待される施策の内容,
原告らが置かれた境遇並びに原告らの日本政府に対する期待の正当性等の事情にかんがみた場合,日本政府は,原告らに対して,条理上,
原告らを探索して早期に帰国を実現する方策をとる義務を負担していたと主張する。
前示のとおり,いわゆる国の先行行為に基づく条理上の作為義務としての早期帰国実現義務を認めることはできないけれども,
原告らが満州で孤児となった原因について,戦前の国の政策がその前提となる事実として存在していたこと,すなわち,
歴史的には国の政策によって原告らが孤児となったという見方も成り立ち得ることは明らかであること,原告らは,
旧憲法下における国の戦前の国家政策を現行憲法が表明する国家観・価値観によって否定的に評価すべきであるとして,
それに基づくところの反省の意味をこめて(あるいは,原告らの両親は戦前の国策に対するかなり積極的な協力者であったともいえるから,
国がそれに報いるという意味合いもあるのかもしれないが,この点は不明である。),条理を根拠として,
国家賠償法上の義務として国の早期帰国実現義務を認めるべきであると主張しているものと解されること,国は,人道上の責務として,現在に至るまで,
原告らの帰国や帰国後の生活に対する様々な支援を立案・実施してきており,本件訴訟は実質的には国の更なる支援を求めるものとも解されることを考慮すると,
これを肯定することも全く考えられないことではないのかもしれない。しかし,裁判所が,
旧憲法下における国の戦前の国家政策を現行憲法が表明する国家観・価値観によって評価し,その評価に基づいて法的判断をするということは,
やはり差し控えるべきであるという以外になく,また,
現行憲法が施行された後である昭和22年(1947年) 10月27日に成立・公布・施行された国家賠償法がその附則6項において
「この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による。」と規定し,
旧憲法下においては国家無答責の理論が確立していて国家政策が前提となって発生した事態について,
その国家政策を違法として国家賠償請求権を認める例はあり得なかったことや,原告らの受けた被害はいわゆる戦争損害の範疇に含まれるとみる余地があること
(確かに,原告らの主張するように特殊な形をとった戦争損害であるとはいえるが,
国民のひとしく受忍しなければならない損害の程度を超えていると認めることができるかは,
損害の程度を他の戦争損害といわれているものと比較するための客観的な基準が明らかではなく,
例えば母国語を失ったことをどのように評価するかも立場や評者によってかなりの違いがあるものと考えられ,
それが死にもまさる特別に重大な損害であるともにわかに認め難く,国家賠償との関係では,原告らの損害を特別扱いをすべき合理的理由は見出し難い。)
を考慮すると,明確な法律上の根拠がないのに,条理を理由として被告に国家賠償義務の前提としての早期帰国実現義務を認めるのは,
法的判断の枠を超えるものであり,相当ではないといわざるを得ない。
(2) 早期帰国実現義務の存否についての判断のまとめ
これまで検討してきたところをまとめると,国が原告らの早期帰国を実現させる義務を負うべき根拠として原告らが挙げる憲法,条約・宣言,法律は,
いずれも国がそのような義務を負うべき根拠規定とみることはできず,また,
戦前及び終戦直後の国の政策や軍事政策又は軍の作戦や戦闘時の行動によって原告らが孤児となったとの主張については,
歴史的な事実経過として軍の戦闘時の行動の点を除いてそのような事実認識が誤っているとはいえないが,国家賠償法の適用にあたり,
法的な事実としての因果関係の存否の問題として,原告ら主張の上記の国や軍の政策等が原告らが孤児となった原因であると認めることはできず,
戦後において日中国交回復までの期間は,国が原告らの帰国のために有効な手段を現実にとり得たということもできない。
したがって,先行行為に基づく条理上の作為義務としての早期帰国実現義務というものも認めることはできないこととなる。
日中国交回復以後については,できる限り早期に帰国することにより,帰国自体から得られる精神的満足を早期に得られ,
一般的には,帰国後の原告らが日本語の習得を含めてより日本社会に適応しやすくなり,経済的にも余裕が生まれる可能性が高くなることは否定できないところであり,
そのために早期帰国実現義務というものを考える意味はあるが,上記のとおり,法律問題としては,国家賠償法の適用上,
国の先行行為というものを認めることができないので,結局,それに基づく早期帰国実現義務も認められないといわざるを得ない。
また,条理上の義務として国に早期帰国実現義務が成立するとの主張も,採用することはできない。
3 早期帰国実現義務懈怠の主張について
(1) 原告らの主張の要旨
原告らは,国に早期帰国実現義務があることを前提として,その日中国交回復後の懈怠として要旨次のとおり主張する。
ア 日本政府は,開拓民と軍人を区別し,開拓民の調査究明・帰国促進に対して極めて消極的な姿勢に終始し,孤児の早期帰国実現という基本方針の確立を怠った。
イ 日本政府は,昭和55年(1980年) 10月に中国政府に中国残留孤児問題について協力を申し入れるまで,孤児の早期帰国実現に向けての外交交渉を怠った。
ウ 日本政府が中国旅券で入国してくる孤児を外国人扱いし,身元が判明している者については本人の除籍の謄本又は抄本と親族の身元保証を要求し,
親族の協力がなければ事実上帰国できないようにしたことは,孤児の帰国を作為によって妨害したとすらいえるし,
身元が判明していない者について身元引受人制度を創設して入国条件
(入国査証の発給に援護局長が発する帰国旅費国庫負担承認書及び定着促進センターへの入所通知を必要とした。)を定め,身元引受人に重い負担を定めたことは,
帰国を制限するものであったといえる。
エ 帰国旅費が中国人の平均年収の数倍にもあたり,孤児らには到底負担できなかったから,国庫負担制度を利用できないことは,事実上,
帰国できないことを意味したが,帰国旅費の国庫負担について多くの制限があり(定着促進センターの収容能力による帰国世帯数の制限,自己負担の原則,
家族分の支給制限等),手続も煩雑で孤児には理解することが困難であり,日本にいる親族の協力がなければ申請することもできず,また,
この制度を孤児らに周知させる方法がとられなかった。
オ 公開調査の開始が昭和50年(1975年) 3月であり,訪日調査の開始が昭和56年(1981年)であり,訪中調査も訪日調査開始の10年後であり,
いずれも開始時期が遅きに失し,また,訪日調査は1回あたりの訪日人数が少なく,調査方法も十分ではなく(鑑定を採用しなかった。),
身元調査がますます困難になった。保有資料による調査も十分に行わなかった。
カ 中国各地に居住する中国残留孤児に対し,帰国に関する情報を周知徹底して帰国を呼びかける措置をまったくとらなかった。
(2) 国が中国残留孤児の帰国に関してとった主な措置と経過の要約
国が中国残留孤児の帰国に関してとった主な措置及びその経過については,前記認定のとおりであり,時系列にそって要約すると,
@中国側が昭和48年(1973年) 5月から6月にかけて,長期未帰還者の一時帰国が実現するよう支援すると表明したことを受けて
(永住帰国については言及していないとみるのが妥当と思われる。),日本政府が同年8月,中国政府に対し,厚生省において作成した未帰還者名簿を送付した上,
a中国側で保有する資料の提供,b帰国を希望する長期未帰還者に対し,速やかに出入国許可証を発給する措置を執ること,
c長期未帰還者と日本国大使館が必要なときにいつでも接触できるよう配慮すること,
d日本国大使館員が長期未帰還者に帰国手続等を教示するなどの目的で行う現地調査旅行を許可することや
公安部門の責任者と面会して事務的な話合いをすることなどを要請したが,これに対する具体的な回答はなく,
この日本政府の要請は事実上拒否されたものと受け取らざるを得ず,A保有資料による身元調査は従前どおり継続されていたが,
B世論に押されて昭和50年(1975年) 3月から公開調査を開始し,Cさらに世論に押されて,
昭和55年(1980年) 10月に中国政府に訪日調査(一時帰国)について協力を申し入れ,
昭和56年(1981年) 3月に訪日調査を開始し(中国政府の意向を踏まえて一時帰国者の人数が定められた。なお,昭和57年(1982年) 3月,
その前年に自費で一時帰国し,当時身元が判明していなかった原告X01(原告番号1)が就籍許可の審判を得た。),
D昭和57年(1982年) 8月に中国残留日本人孤児問題懇談会による身元未判明孤児に関する身元引受人制度創設や
中国人養父母への扶養費の支払に関し国が孤児にそのための資金を低利で融資する等の提案があり,
E昭和58年(1983年) 1月に中国政府との間で中国残留日本人孤児問題の解決のための協議が行われ
(中国人養父母に対する扶養費を国が援助する旨の合意がされた。),F昭和59年(1984年) 2月に埼玉県所沢市に定着促進センター
(30世帯収容可能)が開設され,G昭和59年(1984年) 3月の日中政府間の口上書により「日本への帰国を望む孤児は,
肉親の有無にかかわらずその同伴する中国の家族とともに永住させること」及び中国人養父母への扶養費の2分の 1を国庫で負担することが確認され,
H昭和60年(1985年)度以降身元未判明の孤児について身元保証人に代わる身元引受人制度が定められ,
I昭和61年(1986年)から中国人養父母への扶養費の送金が開始され,J昭和62年(1987年)に所沢以外の5か所に定着促進センターを開設し(前記認定のとおり,
その後,帰国者の増減にしたがって平成3年(1991年)に3か所が閉鎖され,平成6年(1994年)に分室2か所が開設され,平成7年(1995年)に3か所に開設され,
その後順次閉所されて現在は2か所が開設されている。キャラバン調査もこの年の8月から3年間の予定で開始された。),
K昭和63年(1988年)に全国15か所に自立研修センターが開設され(その後平成7年(1995年)に5か所に増設され,平成11年(1999年)以降順次8か所が閉所されて,
現在は12か所が運営されている。),L平成元年(1989年) 6月に自立支援通訳制度が設けられ,
M同年7月以降特別身元引受人制度を定めて身元が判明した者が身元保証人なく帰国し得る途が開かれ,
N平成3年(1991年)度から日本の担当官による訪日困難な長期未帰還者についての訪中調査が開始され,
O平成6年(1994年)度から日本又は中国のいずれかが長期未帰還者と確認できない者についての日本の担当官による中国現地での調査が開始され,
P平成12年(2000年)以降は,訪日調査に代えて日中共同調査により長期未帰還者か否かの調査とそれに続く情報公開調査
及び訪日対面調査が行われるようになった等の事実が指摘される。
また,前記認定のとおり,身元判明孤児の入国条件として,当初は,@日本にいる親族が身元保証人となり,かつ,
帰国後の就職先の採用証明書の提出が必要であったが,A昭和61年(1986年)から日本戸籍(就籍許可によるものも可)の謄・抄本と在日関係者
(通常は親族)からの招へい理由書の提出でもよいこととされ,B平成元年(1989年)には特別身元引受人制度が設けられて,親族による受入れが不可能な場合に,
特別身元引受人が決定され,かつ,親族の帰国に異存がない旨の確認書を提出すれば入国し得ることとなり,
C平成3年(1991年)には上記の親族の確認書は不要とされ,
D平成6年(1994年)には特別身元引受人のあっせん開始までの期間(親族の説得期間)を6か月から2か月に短縮し,
帰国旅費の申請を帰国者本人が行うことを原則とし,帰国希望の時期から10か月を経過したときは一旦帰国受入れする取扱いとされたことが指摘され,
また,身元未判明の孤児の帰国については,昭和60年(1985年)度以降,身元引受人制度が導入されて帰国が可能となったことは,前記のとおりである。
(3) 上記の措置と経過に対する評価
上記の要約摘記した事実経過をみると,国は,世論や国内の親族,中国政府の意向を考慮しながら,孤児とその家族の帰国希望にできる限り沿い,
帰国後の日本社会への円滑な適応のために順次制度を整備し,定着促進センターの定員等を考慮しながら,
現実に自立支援が可能な限度を考慮しながら必要な措置を講じているものと評価することができるのであり,
国以外には帰国者に対する基本的かつ有効な自立支援措置を継続的かつ安定的に提供するものがない状況においては,
仮に一定の入国条件の設定も行わないで(入国を認めるか否かは入国管理法の定めるところに従って厳格に審査すべきものであるが,
どのような入国条件を設定するかは入国管理法の趣旨に基づいて定められるのであり,
特定の者に関して入国条件を緩和すべきであるかは行政裁量に属する事柄であるから,直ちに入国条件を緩和しなかったからといって,
それを理由に違法であると評価することはできない。),現実に国によって何の支援措置もとることのできない状況において,日本語もまったくできず,
日本の文化や生活習慣にも慣れない帰国者及びその家族が一挙に大量に入国することになれば,
かえって帰国者とその家族が日本社会に円滑に定着することが困難になり,国内で混乱と厳しい批判の生じるおそれもあり,他方,
そのような急激かつ大量の帰国者の受入れとそれに必要な財政的措置をとる政策を他の多くの政策に優先してとることが当時の世論の支持を得られたか
疑問の余地がないではなく(中国側がそのような一時に大量の帰国=出国を認めたと断言できるかも極めて疑問である。),結局,
現実に行われた入国審査や帰国支援策が行政の裁量の範囲を著しく逸脱した違法な政策であると断定することは困難である。
なお,二国間の外交交渉の内容については,様々な政治的考慮が働くものであると考えられるから,それが司法審査の対象となるとするのは,
よほど特殊な事情がないかぎり疑問であり,中国残留孤児の帰国について,原告らが日本政府の中国政府との外交交渉に違法,不当な点があったとするのであれば,
これを採用することは困難であるというほかない。
(4) 日本政府による帰国妨害があったとの主張について
原告らは,未帰還者特別措置法の制定及び運用によって原告ら中国残留孤児の調査究明が事実上打ち切られ,
昭和56年(1981年)の第 1回訪日調査が行われるまで原告らについての身元調査が進まなかったことや,
原告らのうち身元判明者の帰国について日本にいる親族の協力を必要としたことは,国によって,原告らの帰国が妨害されたのも同然であると主張する。
ア 未帰還者特別措置法の制定と運用及び留守援法の運用について
前記認定のとおり,未帰還者特別措置法は,主に厚生大臣が戦時死亡宣告の請求を行い得ることを目的として制定され,
これにより生存の可能性の低い未帰還者については死亡処理に向けた調査が実施されるようになり,
原告らの中にも戦時死亡宣告をされた者や日本にいる留守家族が戦時死亡宣告の請求に同意するよう説得された事例が存在する。
しかし,この法律は,前記認定の制定経過からみても,多くの留守家族からの要望に沿って制定された面が強いのであり,
戦後14年を経過する間に前記に認定したような国としては現実的に可能な手段を尽くしたと評価し得る調査により生存可能性が低いと判断された未帰還者について,
死亡宣告をする必要性と合理性が存在することが明らかであったことを考慮すると,この法律の制定や運用が原告らの帰国を妨害したと認めることはできない。
また,原告らは,日本政府が,長期未帰還者(中国残留孤児)について,中国にいる本人に対し,直接,孤児が理解できる中国語により,
日本政府が帰国を歓迎しており,帰国旅費や帰国後の生活も援助することを伝えた上で,
帰国の意思確認をしないで留守援法2条 1項2号の「自己の意思により帰還しないと認められる者」に該当すると認定した例があり,
これは原告らの帰国を著しく困難にする施策を徹底して実行したことになると主張する。しかし,同法の運用上,国が中国で生活している原告らに対し,
原告らが主張する上記のような方法で本人に直接意思確認しなければならないということはできないから,上記の主張を採用することはできない。
イ 身元判明者の帰国手続について
前記認定のとおり,日本政府は,身元の判明している長期未帰還者(中国残留孤児)について,
帰国旅費の国庫負担手続の申請者を当該長期未帰還者の親族に限定する取扱いをとっており,長期未帰還者本人は,申請することはできなかった。
また,日本政府は,特別身元引受人制度を創設するまで,身元の判明している長期未帰還者(中国残留孤児)の入国について,一般の外国人の場合よりも要件を加重し,
親族による身元保証を求め,当初,特別身元引受人制度を適用する要件として,親族による確認書の提出を求めた。
そのため,親族の協力を得られない長期未帰還者(中国残留孤児)は,事実上帰国することが困難であった。長期未帰還者(中国残留孤児)の多くが,
親族の協力を得難い状況にあったことは前記認定のとおりである。
日本政府によるこれらの取扱いにより,帰国を希望し,かつ,親族の協力を得られない身元判明者の帰国が遅延した事実は,否定し難い。
しかし,これらの取扱いによって,多くの帰国者とその家族が,
帰国後にそれぞれ困難ではあるものの親族との間にひどい軋轢を生じたり特別に大きな問題を起こすこともなく,
身元引受人の世話を受けることによって円滑に日本での社会生活に適応し,生活保護を受けながらも精神的に自立した生活を営んでいること,
そして,結果として,多くの様々な状況にある長期未帰還者の帰国希望が全部かなえられていること,
入国条件の設定や入国審査に関しては法律の定める範囲でかなり広範な行政裁量が認められていることを考慮すると,
これらの取扱いだけを取り上げて政策として違法であったとか著しく不当であったと断定し,帰国を妨害したと評価することはできないというべきである。
第4 自立支援義務違反について
1 被侵害利益について
( 1) 原告らの主張する被侵害利益
原告らは,自立支援義務違反による被侵害利益についても,普通の日本人として人間らしく生きる権利を主張する。
そして,早期帰国実現義務違反による被侵害利益と同様に,原告らは,普通の日本人として人間らしく生きる権利について,
自立した人格を持つ日本人として成長・発達するとともに,自立した人格者として処遇されることを意味するとした上で,その具体的内容として,
@母国語としての日本語を獲得すること,A親を中心とする家族の庇護の下に成長・発展すること,B中国文化を内面化した人格者として尊重されることを挙げる。
(2) 原告らの主張する損害及びその性質
原告らは,上記の「普通の日本人として人間らしく生きる権利」が,原告らの帰国後においても日本政府の行為(作為又は不作為)により侵害されて,
その結果様々な被害・損害が生じているとし,特に帰国後に発生した被害として,次の@〜Fを列挙する。原告らが主張する被害の共通性,
その共通の被害の累積性・現在性・拡大性,包括性・全面性などの性質や,損害賠償の包括一律請求の正当性に関する主張は,
早期帰国実現義務違反について摘示したところと同様であるから,それをここに引用する。
@ 定着促進センターの設置が遅れて日本語教育を全く受ける機会のなかった者や,同センターに入所できずにすぐに地方に送られた者がいたり,
同センターでの日本語教育が4か月間で全く不十分であったことから,
原告らのほとんどが日本語による十分な自己表現や生活に必要な最低限度のコミュニケーションが困難な状態であり,生活の様々な場面で支障をきたし,
近隣の地域社会にもとけ込めず,孤立化して新たな「孤児」となっている。
A 原告らは,帰国後,高齢であったことに加え,日本語が習得できないために,就職できなかったり,就職できても中国における職歴を生かすことができず,
単純労務作業にしか従事できなかったりした。そして,日本語能力が比較的問題にならない職業に就いた場合においても,
日本語ができないことを理由にいじめに遭ったり,不当な差別待遇を受けた。
B 日本政府によって原告らの住所が身元引受人と同じ都道府県と指定されたため,原告らの中には希望の場所に住めなかった者がいた。
また,日本政府による住居のあっせんや援助がなかった者が極めて多く,生活に支障をきたすほどの狭隘な住居で無理な生活をしていた原告も複数いる。
C 家族とともに帰国できなかった原告らは,家族の分断という被害を受けた。
原告らの人格を尊重するためには少なくとも同じ文化を内面化している親族との日常的な接触の保障が必要であるが,この保障が与えられなかった。
家族とともに帰国できた者や家族を呼び寄せることができた者も,日本政府の自立支援策が不十分であるため,
原告ら及びその家族(特に高齢化した配偶者)は日本になじめず,経済的に困窮している。
原告の中には日本に行くことに難色を示す家族(特に配偶者)を説得して帰国した者が多いが,高齢化した配偶者等が日本の生活になじめず経済的に困窮し,
原告らとの間に軋轢を生じることが少なくない。
D 原告らは,現在,高齢化が進み,日本語能力の不足や発病などにより,
就労できない状態にある者が多いが(帰国遅延により高齢となってから帰国したことも原因である。),これから老後の生活資金を蓄える余裕も手段もなく,
日本政府による原告とその配偶者に対する老後保障策が何も用意されていないことから,将来に大きな不安を抱いている。
E 40名の原告らのうち25名(62.75%)が生活保護を受けているが,その生活実態は,欲しいものも買えず,子供の進学にも支障があるひどいものである。
中国に行った場合にはその間の生活保護費が差し引かれるため,その後の生活はさらに厳しくなる。
F 原告らは,日本語ができず,必要最低限の中国語通訳・翻訳の確保もされず,日本社会に溢れる情報から全く遮断され,周囲の日本人と意思疎通を図る術もなく,
自宅に閉じこもるのみの日々を過ごさざるを得ない状況,日本社会における自らの存在意義を見い出し得ない状況におかれ続けてきた。
原告の中には,日本に心の通じることのできる友人もできず,自分の孫ともコミュニケーションをとれず,閉じこもる生活をする者も多い。
(3) 原告らの主張する上記の被害・損害というものが,日本政府の自立支援義務に違反する違法な行為(作為・不作為)によって発生したものか否か,
すなわち国の違法と評価することのできる行為と相当因果関係があるか否かを検討する必要があると一応考えられる。原告らは,自立支援義務違反について,
早期帰国実現義務違反が存在したことを前提としているが,前示のとおり,早期帰国実現義務違反ということは認められないので,早期帰国実現ということと切り離して,
すなわち,現実に原告らが帰国した時期における原告らの状況や帰国後の原告らが主張する生活状況を前提として,帰国後における自立支援義務が,
国家賠償法上の義務として成立するか否かを検討することとなる。
2 自立支援義務の存否について
(1) 自立支援義務の根拠について
原告らは,帰国者の自立を支援する義務の根拠として,以下のとおり憲法,国際法・条約等,法令,条理,日本政府による先行行為に基づく作為義務を主張する。
以下,これらの根拠により自立支援義務が発生するかどうか検討する。
ア 憲法
原告らは,憲法上の根拠として,憲法13条,25条1項,26条を主張する。しかし,これらのうち,憲法13条は,その法的性質上,自由権を保障した規定であって,
この規定により,積極的な請求権である上記自立支援措置を求める権利が発生すると考えるのは困難である。
憲法25条1項は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(いわゆる生存権)を保障する。しかし,「健康で文化的な最低限度の生活」の具体的内容は,
時々における文化の発達の程度,経済的・社会的条件,一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断されるべきものであり,
これを日本政府の施策において具体化する場合は,複雑多様な政策判断を必要とし,どのような施策を立案・実行するかは,立法の裁量に委ねられている。
したがって,これらの規定によって,個々の国民が国に対して直接何らかの具体的,現実的な権利を取得することはないと解されるから,
この点の原告らの主張を採用することはできない。
原告らは,国によって原告らが幼くして中国に遺棄されたという歴史的事実を無視して憲法の一般的解釈をすることは無意味であると主張する。
この主張は,原告らに関しては生活保護法が規定する生活水準を超える水準の生活を国が保障すべきであるとの内容を含むものと解されるが,法的に,
そのような歴史的事実があるとなぜ憲法や法律の解釈を変えなければならないのかが不明であり,この主張を採用することはできない。
憲法26条(教育を受ける権利)も,憲法25条1項と同様であり,この規定から個々の国民が教育に関して何らかの具体的・現実的な権利を取得すると解することはできず,
国家賠償法上の国の義務を発生させる根拠とすることはできない。
イ 国際法・条約等
原告らは,国際法・条約等の根拠として,世界人権宣言25ないし27条,社会権規約11条,13条,15条 1項(b)項,児童の権利に関する条約7条 1項,
8条ないし11条を主張するが,早期帰国実現義務の成立根拠について判断したとおり,上記の各国際法・条約等は,いずれも,その権利の内容が抽象的で,
個々の国民に対し具体的な権利を付与しているものとは考え難く,これらの規定を国家賠償法上の義務の根拠として認めることはできないというべきである。
ウ 法令
原告らは,法令上の根拠として,厚生省設置法,留守援法及び自立支援法を主張する。しかし,厚生省設置法が自立支援義務の根拠となりえないのは,
早期帰国実現義務の成立根拠について述べたとおりである。留守援法は,その規定の内容からいって,自立支援義務の根拠となるものとは言い難い。
自立支援法は,国等の責務として,各種自立支援策の立案・実施を定めているが,その具体的内容は定められておらず,その具体的立案・実施方法は,
日本政府の裁量に委ねられていると解されるから,これを根拠として,
個々の国民に対して国が直接に一定の措置ないし政策をとるべき義務を負担すると解することはできず,
国家賠償法上の義務としての自立支援義務が発生すると解することはできない。
エ 先行行為に基づく条理上の義務
(ア) 原告らは,条理上の義務としての自立支援義務の成立根拠として,日本政府による先行行為,すなわち,日本政府が,満州国の建国を宣言させ,
開拓民等を移民させるという長期未帰還者(中国残留孤児)を発生させる原因となる政策を国策として実行し,終戦近くにおいては,ソ連侵攻情報等の秘匿,
いわゆる根こそぎ動員,軍による民間人の置去り等被害の拡大につながることをあえて実行し,終戦直後には,現地土着・日本国籍離脱方針を打ち出すなどして,
原告らが孤児として中国に残留せざるを得ない事態を作り出し,それにもかかわらず日本政府の早期帰国実現義務の懈怠により早期に帰国することができず,
それが原因となって,日本語を母国語として獲得することができないなど,帰国後において,
種々の自立支援措置がなければ普通の日本人として人間らしく生きる権利を侵害される状態となったから,
国としては上記の原告らの権利が侵害されないように自立支援措置をとるべきであったのに,国がその措置をとらなかったことにより種々の被害を受けたと主張する。
(イ) 確かに,原告らが終戦後中国に取り残され,長期間日本に帰国できなかったことにより日本語能力等を獲得することができなかったことは事実であり,
一つの歴史的な認識としては,日本政府の戦前・戦後の政策によってこの事態が発生したものであるということができる。
しかし,前示のとおり,法律論としては,原告らの主張する戦前及び終戦前後の国の政策と原告らが孤児となったこととの間に,
法的な事実としての因果関係を認めることは相当ではなく,日中国交回復までは原告らを帰国させる現実的な可能性はなかったものと判断されること等から,
国の原告らに対する早期帰国実現義務というものを肯定することはできず,したがって,その義務違反が存在するとは認められないのである。
また,国が日中国交回復後に原告らの帰国実現に向けてとった種々の措置やその経過について,
全体としての政策が違法あるいは著しく不当であると評価することができないことも,前示のとおりである。
(ウ) 国に早期帰国実現義務違反が認められないとすると,国は,
早期に帰国できなかったことより原告らが日本語能力を失ったこと及び日本文化や日本の生活習慣になじみにくくなっていること(中国語を母国語とし,
中国文化を内面化していること)について,人道上の責任はともかく,法的な責任は負わないこととなり,したがって,
そのことによって日本社会で生活していく上で生じるであろう種々の不都合・不便
・不利益等原告らが被害あるいは損害と主張するものの発生を防止する措置を講じる義務(作為義務)も負わないこととなり,
そうすると,原告らが日本語能力を回復するための日本語教育を行う義務も,法的義務としては成立しないこととなる。また,早期の帰国が実現せず,
帰国が遅れたことにより帰国時に原告らが高齢になっていたことについても,国に早期帰国実現義務がない以上,人道上の責任はともかく,
高齢になっていたことについて被告に法的責任は認められないから,高齢であるがゆえに原告らに生じるであろう被害の発生を防止すべき義務が国にあったともいい難い。
なお,原告らの永住帰国時の年齢は,別表原告ら一覧表記載のとおりであるが,年代別に分けると,37歳2人,38歳 1人,40〜44歳8人,45〜49歳17人,50〜54歳10人
,55〜59歳 1人,60〜64歳 1人である。
(エ) そうすると,原告らが自立支援義務違反によって発生したと主張する種々の被害のうち,
原告らの日本語能力と年齢とは関係のないもの(労働能力が失われ又は低い評価しか得られないことによる被害以外のもの),すなわち,
@日本政府によって原告らの住所が身元引受人と同じ都道府県と指定されたため,原告らの中には希望の場所に住めなかった者がいたこと,
A日本政府による住居のあっせんや援助がなかった者が極めて多く,B生活に支障をきたすほどの狭隘な住居で無理な生活をしていた原告も複数いること,
C国が原告らの家族すべての帰国旅費を国庫負担する制度をつくらなかったため,家族とともに帰国できなかった原告らは,家族の分断という状況になったこと,
D家族とともに帰国できた者や家族を呼び寄せることができた者も,原告らの家族(特に高齢化した配偶者)が日本になじめず,経済的に困窮していること,
E原告の中には日本に行くことに難色を示す家族(特に配偶者)を説得して帰国した者が多いが,高齢化した配偶者等が日本の生活になじめず経済的に困窮し,
原告らとの間に軋轢を生じることが少なくないこと,これらについては,国がそのような事態の発生を防止する措置をとるべきか,仮にとるべきであるとして,
その法的根拠として自立支援義務が成立するかを検討する必要があるが,それ以外の日本語能力を失っていること
及び国の提供した日本語教育によっては十分な日本語能力を習得できなかったこと並びに原告らが高齢であったことが主要な原因となって発生している被害
(主に就労と低収入に関するもの)については,その被害発生防止措置の要否と自立支援義務の存否を検討する必要がないこととなる。
そして,上記の@〜BDについては国がそのような事態の発生を避ける措置を,Cについては帰国者の家族全員分の旅費を国庫負担とする措置を,
それぞれとるべき義務を負うかと考えた場合,確かに,これらが原告ら個々人にとって,慣れない日本の生活で生じる事態としては深刻な悩みであることは理解されるが,
@は身元引受人制度に伴うものでありやむを得ないものというべきであり,
Aは制度運用上の手違いあるいは原告らの希望と斡旋・援助との不一致の類に属するもので自立支援義務そのものの成否の問題ではなく,
Bも家族を呼び寄せたために一時的にそのような状況になったものと推測されるが,むしろ個人的な事情によるもので自立支援義務の存否にかかわる問題ではなく,
Cは成人に達して中国又は日本で独立した生活を営む能力がある者について,
日本に入国するための旅費を国が義務として負担しなければならない合理的な理由が見当たらず,DEも個人的な色彩の強い事情であって,
配偶者が高齢で経済的に困窮することについて国に法的責任がないことは前示したところから明らかであり,自立支援義務の存否にかかる問題ではないと考えられ,
これらの事態が発生しないような措置・政策をとるべき義務が国にあるものとは認め難く,その前提となる自立支援義務というものも認められないというべきである。
(オ)a 原告らは,先行行為に基づく条理上の作為義務の成立においては,先行行為が違法であることまでは要件とされていないから,
被告が早期帰国実現義務を負わない場合においても,客観的に日本政府の行為(原告らの早期帰国が結果として遅延し,
その遅延が日本政府の体制の不備にあったこと)が原告らの帰国後の被害発生の原因となっていれば,条理上,
国は帰国した原告らに対して自立支援の政策を立案して実行する義務があるとすることは可能であると主張する。
b 上記の主張において,原告らが自立支援義務成立の根拠となる国の先行行為として,どのようなものを想定しているのか不明確であるが,
戦前の国策や戦後の日中国交回復までの間の対中国の外交政策を先行行為とするのであれば,それは一つの歴史的認識としては否定し難いところであるけれども,
既に述べたところと同様に(戦後の外交政策については高度の政治的判断に関わることであり,司法審査の対象とすることはできないというべきである。),
原告らが帰国した時点で自立支援が必要な危険な状態(日本語をほとんど話すことができず,多くは高齢であり,
日本での労働能力も相当程度低い状態にあること)にあったこととの間に,法的な因果関係を認めることは相当ではないというべきである。
c また,日中国交回復後の対中国の外交政策・外交交渉について,原告らが実際に永住帰国した時点よりも早い時点での永住帰国が可能であったにもかかわらず,
国の早期帰国に向けての外交政策の立案やその実行が遅れたことが原因となって,原告らが国の自立支援を必要とする危険な状態となったという主張については,
前記認定のとおり,孤児の永住帰国については,当初中国側にかなりの抵抗感があり,
中国人養父母の扶養費を国が孤児に代わる形で支払う旨の取決めがされて送金が開始されてから軌道にのってきたことが明らかであり,
この間の国のとった政策や措置に関して特に非難に値するところは見当たらず,
原告らが実際に永住帰国した時点よりも早い時点で永住帰国することができたのではないかという現実的な可能性そのものに疑問があることから(この点について,
具体的な事情に即してどのような方針をとることができたのか,それを前提としてどのような方針や施策を実行することができたのかについて,
被告の反論を否定すべき事情に関する原告らの立証はない。),原告らが主張するような先行行為そのものが存在すると断言できるのか,
一定の裁量が許される政策については,
その政策が間違いなく違法又は著しく不当であるということができなければ
条理上の作為義務を発生させる根拠としての先行行為があるということはできないのではないかとの疑問を否定することができない。
そうすると,原告らの主張する先行行為が存在すると認めることができないこととなり,上記の主張は採用することができない。
以上から,国が原告らに対して,先行行為に基づく条理上の義務としての自立支援義務を負うと認めることはできない。
(2) 自立支援義務の存否に関するまとめ
これまで検討してきたところから,原告らが主張する内容の国の自立支援義務を認めるべき法的根拠は存在しないものというべきである。
なお,条理に基づいて自立支援義務を肯定すべきかについては,条理による早期帰国実現義務の成否について検討したとおり,
原告らが中国で孤児となった原因として,一つの歴史的認識として,戦前及び終戦前後の国の政策等があることを指摘することができるけれども,
条理を理由とする自立支援義務の成立を認めることはできない。
3 自立支援義務違反の主張について
日本政府による原告ら中国残留孤児に対する自立支援策の立案・実行は,これが著しく合理性を欠き,それによって看過できないほどの損害が生じている場合は,
国家賠償法上の違法行為と評価される可能性があるので,この点を検討することとする。
(1) 現実にとられた自立支援策の概要
前記認定の事実によれば,日本政府が現実にとった帰国者及びその同伴家族に対する自立支援策は,おおむね次のとおりである。
ア 住居に関しては,公営住宅の入居者選考・決定において優先的な取扱いを講じ,平成7年(1995年)度以降,
帰国者が帰国後(定着促進センター退所後)最初に居住する際,公営住宅に空きがなく,やむを得ず民間住宅に入居する場合,
礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給し,平成8年(1996年)4月1日からは,敷金も支給対象とした。
イ 就業に関しては,昭和57年(1982年)度から職業転換金給付制度(訓練手当,広域求職活動費,移転費,職場適応訓練費)を,
昭和59年(1984年)度から特定求職者雇用開発助成金を適用・実施し,昭和61年(1986年)から,定着促進センターにおいて就職相談・指導を,
平成元年(1989年)から,自立研修センターにおいて就労相談員による就労相談・指導等を実施した。
ウ 日本語教育については,昭和52年(1977年)4月以降の帰国者に対し,日本語習得のための語学教材として,カセットレコーダー,
カセットテープ及びテキストを帰国直後に個別に支給し,昭和59年(1984年) 2月,
埼玉県所沢市に定着促進センターを開設し(その後各地に増設されたことは前記認定のとおりである。),約4か月間の日本語教育を開始し(同センターへの入所は,
原則として国の帰国援助を受けた帰国者に限られていた。この間の宿泊施設と生活費は国から提供されている。),また,
昭和63年(1988年)から自立研修センターを開設して,約8か月の通所形式の日本語教育を行い,併せて大学入学資格が取得できるように制度を整えた。
エ 通訳については,平成元年(1989年) 6月から,帰国者らが医療機関で受診する場合などに利用できる自立支援通訳派遣制度をもうけ,
漸次利用期間を拡大している。
オ 生活保障・就業後保障・老後保障については,昭和28年(1953年)から制度化されている帰還手当(昭和62年(1987年)以降,自立支度金と改称。)を支給し,
平成8年(1996年),帰国者の国民年金について,国民年金制度が創設された昭和36年(1961年) 4月 1日から永住帰国するまでの期間(20歳以上60歳未満に限る。)
を保険料免除期間とみなすこととし,これにより,この期間については保険料を納付した場合の3分の 1相当額(国庫負担相当額)が年金額に反映されることとなった。
また,平成元年(1989年)から巡回健康相談事業が実施されている。
カ 就籍等の費用については,昭和61年(1986年)から,就籍審判の費用の補助が受けられるようになり,平成7年(1995年) 4月 1日以降の審判申立てに関し,
印紙代,通信費,交通費,中国から持ち帰った資料の翻訳や弁護士への委任のための費用等,就籍手続に要する経費の援助を実施した。
キ その他の支援策としては,昭和52年(1977年)から中国からの帰国者が定着先での生活を支援するために引揚者生活指導員(昭和62年(1987年)
から自立指導員と改称)制度を設けて,帰国者が直面する諸問題の相談に応じることとし(なお,身元引受人も帰国後3年間はこのような役割を負うものとされている。),
平成13年(2001年)11月から,東京と大阪に支援・交流センターを開設し,日本語学習支援,相談事業,帰国者相互及び地域住民との交流事業,
ボランティアの活動情報の収集と提供,帰国者問題の普及啓発事業等を実施している。
(2) 日本政府がとった自立支援策に対する評価について
国が立案・実施した帰国者及びその家族に対する上記の自立支援策については,原告らの多くが,帰国後に厳しいと感じる生活を送らざるを得なかったことから,
多くの不満があることは理解することができるが,前示のとおり,国は原告らに対して法的には自立支援義務を負っていないから,これらの政策は,
人道上必要であって実行可能なものとして行われたと考えられるのであり,これと原告らが生活保護の支給を受けられることを考慮すると,これらの施策の立案・実行が,
著しく合理性を欠き,それによって原告らに看過できないほどの損害が生じているとまでは認められず,国家賠償法上の違法行為と評価することはできない。
第5 原告らの主張する共通損害について
1 原告らは,前記のとおり,原告らの被害・損害にはすべての原告らに共通する性質があるとしつつ,原告らが日本政府から受けた被害・損害として,
第3の 1(2) の@からSまでを列挙する。
しかし,原告らの各陳述書及びアンケート調査の結果によれば,原告らすべてに共通しているのは,上記@に関しての,中国に置き去りにされ,
帰国する手段がなく,帰国の自由がなかった,同Cに関しての,中国で孤児となり,肉親と暮らすことができず,日本語を母語とすることができなかった,
という2点のみであり,他の事情については,それに該当する原告と該当しない原告が存在することが明らかである。
2 そうすると,原告らすべてに共通するのは,@中国で孤児となって中国人養父母に養育されたこと,A日本人の両親と暮らすことができず,
日本語を母語とすることができなかったこと,B37歳前に帰国できなかったこと(永住帰国時の年齢は,
原告X03(原告番号3)が37歳5月,原告X33(原告番号33)が37歳3か月,原告X01(原告番号 1)が38歳7か月であり,前示のとおり,
他の原告はそれ以上の年齢での帰国である。)であるが,既に検討したとおり,これらの原因が国の違法行為であると認めることはできないから,こ
の共通損害については,損害賠償を請求することはできない。
第6 結論
以上によれば,その余の点について判断するまでもなく,原告らの本訴各請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第28部
裁判長裁判官
裁判官
裁判官伊藤大介は転補につき,署名押印することができない。
裁判長裁判官


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