ブックレビュー 

辺見 庸 著 『永遠の不服従のために』
[単行本]毎日新聞社 (2002/10) [文庫版]
講談社 (2005/05)の薦め
木村 朗 (鹿児島大学教員、平和学専攻)


  9・11事件で世界は本当に変わったのか。9・11事件以後の世界は戦争モード一色に覆われつつある。 ブッシュ政権は 「反テロ戦争」 を掲げ、アフガニスタンに続いてイラクへの先制攻撃も断固貫く姿勢をとっている。 日本もまた、その米国の 「正義」 に追随し対アフガニスタン戦争に第二次大戦後初めて参戦したばかりでなく、 対イラク戦争への側面支援をイージス艦派遣などの形で準備しつつ、拉致・核問題での北朝鮮への国民感情の悪化を利用する形で、 ミサイル防衛への全面的参加と有事法制化を推し進めようとしている。

  本書は、すでに9・11事件以前からあらわれていた時代状況の悪化に対して 「反時代のパンセ」 というエッセー(『サンデー毎日』 に連載中)を通じてつねに警鐘を鳴らしてきた辺見庸氏による身体を賭けた根源からの問いかけの書である。 それはまた国家権力(とりわけ日米両政府)の欺瞞・専横と、それを覆い隠すマスコミに対する怒りに満ちた告発・非難の書であると同時に、 「仮構の風景」 に騙され続け歴史に学ぼうとしない民衆に自省と覚醒をうながす書でもある。 一読すればすぐに分かるように、この本はかならずしも平易な本ではない。どちらかと言えば難解な本の部類に入るであろう。 だが、一度読みはじめれば最後まで読み通さずにはいられない不思議な力がある。この本によってわたしたちの生き方が問われていることだけは確かである。

  「わたしたちはいまどのような時代に生きているのか。」 辺見氏が指摘しているように、1999年以来の日本は戦後民主主義の堤防がすでに決壊し、 国家主義的潮流という濁流があふれ出してその勢いが一気に加速されている状況にある。 そして、9・11事件という 「劇薬」 によって世界の幻想のヴェールは剥ぎとられ、「国家の途方もない暴力性や人間のかぎりない非人間性、 歴史の不可測性、人知というものの存外な底の浅さという意想外の貌」 が眼前に浮き出てきている。

  辺見氏は問う。世界とは何か。歴史とは何か。国家とはそもそも何なのか。人間的とは何か。人間はどこまで非人間的になれるのか。 「テロ」 という 「犯罪」 に対して 「戦争」 を発動し、 世界最強国であるアメリカが世界最貧国のひとつであるアフガニスタンに対して情け容赦のない攻撃をしかけて 「勝利」 を宣言する。 これは果たして 「戦争」 と呼べるのか。現地に直接足を運んで何が起こったのかを自分の眼で確かめた辺見氏にとって、 それは 「戦争」 というよりも 「一方的殺戮」 ・「集団的リンチ」 であり、「国家によるテロ」 以外のなにものでもなかった。

  世界と日本が危機的様相を呈している現在、わたしたちが考えなければならないことは何か。辺見氏は言う。 20世紀は人間がどこまで非人間的になれるかを示した 「大量殺戮」 の時代であった。 そうであるならば、新しい21世紀は逆に人間がどこまで人間的になれるかを示す時代にしなければならない。 しかし、内外の状況がこれほどまで深刻なものとなっているのに、人々は 「日常性」 の中に埋没し日本の風景は驚くほど 「平和」 である。 それはなぜなのか。辺見氏はそれを、国家権力とマスコミと民衆が三位一体となった 「鵺(ぬえ)のような全体主義」 と呼ぶ。 別の言い方をすれば、「メディア・ファシズム」、すなわち権力のメディア化あるいはメディアの権力化の問題である。 国家権力の監視・批判が最大の使命であるはずのジャーナリズムがアカデミズムとともに権力に擦り寄り、 民衆の好奇心・劣情に訴えるようなトピックを作り出して本質的な問題から眼をそらさせている。 まさに、戦前・戦中の日本で見られた翼賛状況・翼賛体制の再現であり、辺見氏が深い焦燥感と危機意識を抱くにいたった根源の問題がここにある。 「人間はどこまで非人間的になれるのか。無関心こそが非人間的である。」 この辺見氏の主張に心からの深い共感を覚える。

  辺見氏の言葉と訴えが、なぜわたしたちの心にこのような深い共感をあたえることができるのであろうか。 辺見氏はわたしたちにとってまさに根源的かつ普遍的な問題を、個としての自分自身の身体を賭けた生き方の問題として真正面から提起し、 わたしたちの前に外的世界 (状況)と内面世界(主体)の有機的関連を立体的に描き出す。眼前にある 「騙し絵」 の背景にあるもの、 すなわち 「視えない絵(風景)」 と 「聞こえない声 (音)」 を生き生きと浮かび上がらせる。 それはまさにジャーナリストとしての確かな状況判断力・分析力と作家としての緻密な観察力・表現力をあわせもつ辺見氏ならではの視点と方法であり、 国家(権力)と人間の闇の部分をえぐり出し、 タブー視されるような問題にも真っ向から挑戦するその真摯な姿勢・ 生き方とともに圧倒的な説得力を持ってわたしたちの内面に着実に浸透し静かな共鳴を呼び覚ますからに他ならない。

  辺見氏は、そのような問題として、例えば、国家の存在と死刑制度や天皇制の問題を取り上げ、この世のあらゆる闇の発生源を根源的に問い、 その闇の背後に蠢く 「見えない敵」 を撃つ。「国家の貌は内部の者が決めるのではなく、外部の者によって決定される」 とし、「もっともよい場合でも、 国家はひとつのわざわいである」 というエンゲルスの言葉を引用しながら、自分のなかの 「わざわいとしての国家」 を 「死滅」 させることを志向する。 その国家によってもたらされる闇の具体例を死刑問題に見る。 辺見氏が指摘するように、日本は米国とともに先進国で死刑制度をいまだに存置している珍しい国であり、 確定死刑囚の正確な数や死刑執行日などについての情報を一切開示しない国家による完全な 「秘密主義・密行主義」 が貫かれている。 死刑とは 「国家によって執行される(合法的な)殺人」 であり、国家の 「正義」 の名による大量殺戮(戦争での合法的な殺人)と同様に絶対悪である。 この問題へのアプローチの仕方がその人間の本質的な性格を決定する。 これらは、自ら確定死刑囚との個人的な交流を長年続けている辺見氏の言葉だけに、重く心に突き刺さる。

  また辺見氏は、もう一つのタブーである天皇制問題にも次のように鋭い眼を向ける。「慰安婦」 問題や 「戦争責任」 問題に関連させながら、 「いわゆる不敬者を公権力になりかわり、肉体的、精神的に痛めつける、不可視の組織が、この社会のどこかに常に存在する。」 と言い、 そうした外部の不可視の監視・暴力組織だけでなく、自己の体内にも潜んでいる 「闇の神経細胞」、 すなわち 「(正と 反の)幻想の抑止機制」 の存在を直視し両者の関係性を見極めることが 「象徴天皇制下における途方もない暴力の存在」 を明らかにすることにつながると指摘する。この指摘は、今日の言論状況の急速な悪化の原因の一端を解き明かすうえできわめて重要である。 また、「言論への暴力は、抵抗しない限り、今後さらに増えるに違いない」 という辺見氏の指摘も、 現下の寒々とした言論状況を見ればまさに正鵠を得ていると思う。

  さらに辺見氏の飽くことなき批判的精神は、国家権力と一体化したマスメディアとそれに踊らされる民衆にも向けられる。 9・11事件以降の日本のマスメディアは権力(あるいは政治)と手に手を取って、「現在」 という未曾有の一大政治反動期を形成しつつあり、 マスメディアに働く者たちは、「誠実に勤勉に従順に、戦争構造に加担している」 と辺見氏は言う。 とりわけ、もともと 「主張者ないし表現主体を意図的に消して、言説の責任の所在を曖昧にしてしまう」 新聞社説の最近の傾向がそうである。 すなわち 「人間として理解すべき哲理」 や 「人倫の根源への深いまなざし」 を欠き、「安全地帯から地獄を論じることの葛藤」 を微塵も感じさせないもので、 「ときとして鼻が曲がるほどの悪臭」 をはなっている。マスメディアに見られる戦争への自覚なき 「加担」 となし崩し的 「変質」・「堕落」 という怖さに触れながら、 「日常のなにげない風景の襞に、戦争の諸相が潜んでいる。人々のさりげないものいいに、戦争の文脈が隠れている。 さしあたり、それらを探し、それらを撃つことだ。」 と提起する辺見氏の言説と姿勢には強い力があり全く同感である。 辺見氏の批判の矛先が単にマスメディアばかりでなく、護憲派でありながら勲章・褒章を喜ぶ作家・学者・政治家たち、 そして辺見氏自身を含めたすべての人間のなかに潜む 「偽善」 に対しても向けられていることは言うまでもない。

  いまわたしたちに求められていることは、辺見氏が前作 『眼の探索』 でも指摘したように、 自分たちの眼と頭で状況を的確に判断・評価する能力をもっと鍛え、 戦争国家・警察国家への道をひたすら突き進む 「戦争狂」 ブッシュとその忠実な下僕である 「クリーンなファシスト」 小泉に対して明確な意思表示をすることではないだろうか。このことを辺見氏は、「きたるべき(あるいはすでに到来した)戦争の時代を生きる方法とは、 断じて強者への服従ではありえない。」、「戦争の時代にはおおいに反逆するにしくはない。その行動がときに穏当を欠くのもやむをえないだろう。 必要ならば、物理的にも国家に抵抗すべきである。」 と激越な反逆を説く一方で、「だがしかし、もしもそうした勇気がなければ、次善の策として、 日常的な服従のプロセスから離脱することだ。」、「弱虫は弱虫なりに、小心者は小心者なりに、根源の問いをぶつぶつと発し、 権力の指示にだらだらとどこまでも従わないこと。」 と、もう一つの 「だらしのない抵抗」 の方法を勧めている。

  かつてある教師が国家からの君が代の強制に 「わが代は千代に八千代」 と読み替えて抵抗したような、 ユーモアに富んだしたたかな不服従こそがいま求められているのではないのか。 辺見氏が本書を 「柔らかで永続的な抵抗を勧めるテキスト」 として 『永遠の不服従のために』 と題した理由もそこにある。 わたしたちはその前提として、いま何が起きているのかを 「実時間」 で知り、また何をしなければならないかを考えなければならない。 辺見氏の懊悩の根底にある荒涼とした未来の 「最終風景(地獄絵)」 を現実化させないためにも、まさに時代の証言・記録であり、 わたしたちが進むべき方向を指し示す羅針盤・道標の役割を果たすにちがいない本書をぜひ一読することを薦めたい。
「平和問題ゼミナール」 の平和コラムに2003年3月30日に掲載、
拙著 『危機の時代の平和学』 法律文化社、2006年6月発行に所収)