2008.1.14

プロフィール

桂 敬一 (かつら・けいいち)

日本ジャーナリスト会議会員


  私は1935年生まれです。敗戦の時は国民学校4年生でした。入学の1年前に、太平洋戦争が始まりました。3年の時、集団疎開で静岡に行き、 途中から縁故疎開で山梨に移り、敗戦を迎えました。山梨では5年の時、新しい歴史教科書 『くにのあゆみ』 に出会いました。 天皇家の神話を国の始まりと教えていた歴史の教科書が、考古学的な証拠に基づく、われわれの祖先の物語を教えるものに変わりました。 目からウロコでした。47年、新憲法が施行され、小さいけれど、印象的な教科書、『あたらしい憲法のはなし』 が出現しました。 翌年、新制中学の1年生になって教わりました。タンクや軍艦が溶鉱炉にぶち込まれ、鉄道や工場となって出てくるイラストが載っていました。戦争放棄です。

  戦争が長く続けば、いずれ戦場に連れて行かれ、死ぬのだと思っていた少年にとって、この時代の転換は、終生忘れられません。 戦後にこそ、新しい希望がありました。しかし、戦後の暮らしも楽ではありませんでした。父が失業、6人兄弟の中で、昼間の高校・大学に行ったのは、私ひとりです。 兄は昼夜開講の大学を出、姉は女学校を中退、すぐ下の弟は中学を出て工員として働きながら夜間の高校・大学に行きました。 私も高校のときから家庭教師を毎日やり、夏休みなどは町工場で働きました。大学に行ってからは翻訳もやり、学費は自分で稼ぎ、食費も家へ入れていました。

  こうした状況では、すでに進学競争が激しくなっていた高校時代、まともな受験勉強ができるわけもなく、いい大学への進学など、諦めていました。 その結果、学校に行きながらも、いまでいうフリーターのように働きながら、だらけた学生生活を送り、就職活動もまるでやりませでした。 しかし、大学を出た59年、日本新聞協会という新聞の業界団体事務局に、運よく拾われました。

  新聞協会では、やる気のある若い人は、編集関係の仕事をやりたい、国際関係のことをやりたいと、積極的に希望を述べていましたが、私はそういう気が起こらず、 なんでもいいと思っていました。そのため、いってみれば、ずっと傍流の仕事に回されてきたようです。 一生懸命やったのは労働組合でした。戦争から戦後への時代の転換、戦後の貧しさ、同じ兄弟でも学歴格差が生じざるを得なかった事情などや、 59・60年の警職法・日米安保反対闘争などが、どうやら私を労働運動に導いたようです。

  組合は新聞労連=日本新聞労働組合連合に属していました。その関連で、企業を超えた、たくさんの友人に出会うことができました。 また、日本ジャーナリスト会議の会員となって、出版、放送、広告などの世界にも友人ができました。 88年、私は29年間働いた新聞協会を辞め、東大の新聞研究所に大学教員として勤めることになりました。 その後、立命館大学など、他の大学でも働き、2006年3月、立正大学を70歳定年で辞めましたが、この間、研究者の知人・友人にも恵まれました。

  このような私の人生は、時代とは自分にとって何なのかということを、いやでも考えさせるものでした。 そして、そういうことを考えるよすがは、新聞、本・雑誌、放送などでした。 ところが、最近のメディア、ジャーナリズムは、人にものごとを考えさせる力をうんと失っているように思えてなりません。 なぜそうなのか、それはどんなところに現れてくるのかということを、今後この欄で、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。