2009.5.27更新

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)

第十三回 「裁判員制度を根源から問い直す
──後世に禍根を残さないために(下)」

5 強まる国家統制の流れの中で何を選択するべきか
−裁判員制度ではなく陪審制度の復活を!

  これまで裁判員制度導入をめぐる経緯、日本の刑事司法の現状、裁判員制度の問題点などについて考えてきましたが、 最後に、裁判員制度を現在の時点で是が非でも導入しようとしている国家の最大の狙い・目的について検討を加えてみたいと思います。

1) 裁判員制度の本当の狙いとは何か
−法曹三者の思惑のズレが意味するもの
  そもそも裁判員制度がなぜ出てきたのかと言えば、小泉政権による構造改革・規制緩和の一環としての司法改革の流れの中で裁判の迅速化という課題が、 日本の産業金融界の要請やアメリカの圧力などを背景にクローズアップされたこと、 また日弁連 (弁護士代表) や市民団体・労組代表から刑事裁判における公判手続きの形骸化と、 それを克服するためには陪審制度の実現が必要との問題提起がなされたたこと、 さらに、それに対して裁判所 (最高裁)・法務省 (検察庁) が強く反対して限定的な参審制度を唱えて、 最終的には陪審制度でも参審制度でもない裁判員制度という 「甚だ中途半端なもの」 が、 双方の安易かつ早急な妥協の結果生まれることになったという経緯があったわけです (前掲 『えん罪を生む裁判員制度』 の第4章 「えん罪をつくらせられる裁判員」 を参照)。

  ここで重要なことは、日弁連 (弁護士代表)、市民団体・労組代表と裁判所 (最高裁)・法務省 (検察庁) との間に、 裁判員制度の意義・目的について大きな認識のギャップがあったということです。 つまり、日弁連 (弁護士代表) や市民団体・労組代表の側は 「現在の日本の刑事司法は絶望的である (えん罪事件に典型的に見られるように、 人質司法=代用監獄・自白の強制・調書裁判など問題が山積している)」 「こうした深刻な現状を打開するためにも国民の司法参加による協力が必要である」 という考えであったのに対し、裁判所 (最高裁)・法務省 (検察庁) の側は 「現在の刑事司法に何ら特に大きな問題はない」 「基本的な構造を大きく変える必要はないが、 国民が司法参加を通じて治安の維持 (社会の安全) についての責任・当事者意識を持つようにあるならばより素晴らしいものとなる」 という認識だったのではないのでしょうか。

  そのことを、前出の郷原氏は、アメリカ型の陪審制度の導入を求める日弁連とヨーロッパ型の参審制度にとどめたい裁判所・法務省が、 その二つの制度の背景にある考え方の違いを十分認識しないまま、両者を混ぜ合わせて妥協した結果、「世にも稀な国民の司法参加制度」 ができあがった、 と指摘しています (前項 『思考停止社会』 第4章 「司法への市民参加をめぐる思考停止」 を参照)。

  小泉政権に提出された 「司法制度改革審議会意見書」 (2001年6月12日) は、「我が国は、直面する困難な状況の中にあって、政治改革、行政改革、地方分権推進、 規制緩和等の経済構造改革等の諸々の改革に取り組んできた。(省略) 今般の司法制度改革は、 これら諸々の改革を憲法のよって立つ基本理念の一つである “法の支配” の下に有機的に結び合わせようとするものであり、 まさに “この国のかたち” の再構築に関わる一連の諸改革の “最後のかなめ” として位置付けられるべきものである」 と指摘し、 「このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである」 と明確に述べています。
  また、刑事訴訟手続きへの国民の司法参加の意義を 「司法への国民の主体的参加を得て、司法の国民的基盤をより強固なものとして確立するため」 とし、 対象となる刑事事件について、「1.対象事件は、法定刑の重い重大犯罪とすべきである。 2.公訴事実に対する被告人の認否による区別は設けないこととすべきである。 3.被告人が裁判官と裁判員で構成される裁判体による裁判を辞退することは、認めないこととすべきである」 と命令調で断定しています。

  ここには、裁判員制度を導入しようとしている国家の最大の狙い・目的がまさに直接的な形で示されていることが分かります。 つまり、国民を刑事裁判における処罰作用・制裁行為という強権的統治に強制的に参加させて、 治安の維持と社会の安全を担う国家の責任ある統治主体に作りかえることを最大の課題にしているということです。 すでに述べたように、日本の裁判員制度は、死刑制度や代用監獄・自白獲得中心主義、別件逮捕勾留、高すぎる有罪率 (低すぎる無罪率)、 中央集権的に管理統制された裁判官制度 (裁判官の官僚統制)、判事検察交流による有罪志向・治安維持的な考え方をもつ裁判官が増加している現実など、 多くの深刻な問題点を残したまま導入されようとしているばかりでなく、 被告人に選択肢を与えず強制的に選ばれて裁判員となる一般国民に処罰付の厳重な守秘義務を課すとともに、 無実と判断した場合にも量刑判断 (死刑か無期かの 「究極の選択」 を含む) に加担することを強いられるという特徴をもっています。
  このような裁判員制度は、有事法制の一環としてすでに導入されている 「国民保護計画」 と同じく、 戦争国家・警察国家への道をひたすらに歩み始めている現代日本の 「新たな国造り」 に向けた、 国民総動員のための重要な道具の一つとして機能する可能性があると言えるのではないでしょうか。

  その意味で、裁判員候補者への呼び出し状 (「裁判員候補者名簿記載通知書」) が 「現代版赤紙」 と言われているのも、 「今回の裁判員制度は、実は、ナチスドイツに占領されていたフランスの “参審制度” にそっくりだ。最高裁が発行しているフランスへの調査報告書でも明らかにされている。 60年以上も前の、いわば “ナチスの参審制度” というべきものを、 “裁判員制度” と名前を変えて導入しようとする国家権力の狡猾さと恐ろしさを知ってほしい」 との真剣な指摘 (「保坂展人のどこどこ日記」 より) も決して大げさではないと思います。いずれにしても、日弁連の 「今回の法改正で、公判前整理手続が導入され、弁護人の活動により、 捜査側の手持ち証拠が広範囲に開示されることになりました。 再審開始決定された “布川事件” のような冤罪事件で問題になった捜査側の証拠隠しの防止のためには大きい改善であり、 裁判の充実にも良い結果をもたらしています」 (前出の緊急声明より) という認識・現状評価は余りにも楽観的すぎると言わざるを得ません。

2) 裁判員制度の非公開性と
国家によるメディア規制・言論統制の「罠」
  これまでに触れられなかったもう一つの重大な問題は、こうした国家統制の強まりの中での裁判員制度の導入が、 すでに浸透しつつあるメディア規制・言論統制のさらなる強化・拡大のきっかけになるのではないかという懸念・危険性です。 日本の犯罪・事件報道の特色として、被疑者の逮捕前後 (あるいは参考人の事情聴取の段階) から取材・報道を集中し (メディア・スクラム=集団的加熱取材・報道)、 その多くが捜査当局 (警察・検察) のリーク情報に依存した裏付け調査を欠いた伝聞・憶測情報 (その多くが誤報・虚報) で、 その結果、被疑者を犯人視・有罪視するという重大な構造的欠陥を持っていることは否めません。 そして、その結果、メディアが垂れ流す根拠の乏しい情報に多くの国民が振り回されるばかりでなく、 裁判官の心証にも悪い影響を与えて大きな弊害 (報道被害やえん罪・誤判など) を生んでいます。

  裁判員制度では殺人、強盗、強姦など重大な刑事事件だけをもっぱら扱うことになっていますので、 これまでのようにセンセーショナルな報道 (過剰報道・偏向報道) が続けられるならば、 多くの裁判員や一部の裁判官の印象・心証の形成にメディアが流す情報が大きな影響を与えて、 その結果、裁判自体がその内容・結果を左右されることにもなりかねません。 そこで、裁判員制度が導入されるにあたって従来の犯罪・事件報道のあり方を全般的に見直す動きが進んでいます。 その結果、報道機関のなかにも自主的にこれまでの取材・報道のあり方を反省して、 被疑者・被告や裁判員に一定の配慮をした報道マニュアル (ガイドライン) を作成して報道被害やえん罪・誤判などの防止策に取り組むなど、 目に見える改善・改革を行ったプラスの効果が一部で生まれていることは事実です。
  しかし、ここには重大な落とし穴とも言える問題が実は含まれていました。 というのは、犯罪・事件報道の見直しという新しい動きを最初に促したのは最高裁・国家の側であったからです。 裁判員法案のたたき台には、裁判員に事件に関する予断や偏見を与えないために、裁判員への接触禁止、 偏見を生じさせない報道への配慮など取材・報道を規制する条項・規定も盛り込まれていました。 しかし、日本新聞協会などが 「裁判員経験者から感想や提言を聞くことは必要であり、またそうした報道規定は恣意的な運用を導いて、 憲法で保障された表現の自由を制限し、国民の知る権利に応えられなくなる恐れが大きい」 として強く反発して最終的には削除されることになったという経緯があります。

  結局、今回の裁判員裁判実施では反対意見が強く出された報道規定は見送られることになりましたが、 国家権力による言論・表現の自由への介入という重大なメデイア規制・言論統制の動きがあった、という事実に最大限の注意を向ける必要があると思います。 これに関連して、【マスコミ倫理懇談会全国協議会】 第51回全国大会 (2007年9月27日) で、最高裁刑事局の平木正洋・総括参事官が、 現在の報道のあり方を問い、裁判員に予断を与える可能性として次の6項目を提示したと伝えられています (『西日本新聞』 2007年10月7日付)。
(1) 容疑者が自白していることや自白の内容を報じる
(2) 容疑者の弁解に 「矛盾がある」 「不合理だ」 と指摘する
(3) DNA鑑定結果などの証拠を報道する
(4) 容疑者の前科・前歴を伝える
(5) 容疑者の生い立ちや対人関係を報じる
(6) 有罪を前提にした有識者や専門家のコメントを掲載する

  この発言には、犯罪報道のあり方を考える上で傾聴すべき点も述べられていると思いますが、 平木参事官自身も 「法律で規制するのは良くないと思う」 と語っているように、もしこうした問題を公権力による法的規制で行うならば大問題になると思います。

  また、この裁判員制度とメディア規制という問題は、現時点ですべて解決済みであるとは決して言えません。 なぜなら、裁判員制度には3年後の制度見直し規定がありますので、今後の裁判員裁判の報道のあり方しだいで再び国家の側から過剰・偏向報道を理由にした、 メディア規制・言論統制の動きが浮上する可能性がきわめて高いと思われるからです。
  この問題を、裁判員を生涯にわたって拘束する厳格な守秘義務や、裁判員が参加できない非公開の公判前整理手続き、最近の続出する死刑判決と 「迅速な」 死刑執行、 公訴時効を撤廃しようとする動きなどに見られる厳罰化の傾向、被害者参加制度の導入と裁判員制度の一体化などと重ね合わせて考えれば、 裁判員制度が実現を目指すと言われる 「開かれた司法」 「公平な裁判」 どころか、 それとは逆行する 「閉鎖的な司法」 「魔女狩り裁判」 となる危険性を大いに秘めていると言わざるを得ません。 特に、公判前整理手続きが非公開とされている点は、 そこに参加できない裁判員には実際に裁判で証拠として提出された自白の任意性と信用性を正確に判断することが非常に困難であり、 捜査側がある意図をもって事件を作り出そうとした場合には結果的に 「えん罪」 に協力・加担させられることにもなりかねない、と言う意味で再考が必要だと思います。

  そのことを、表現の自由やメディア規制を専門とする田島泰彦教授 (上智大学) は、「裁判員制度は守秘義務と報道規制でがんじがらめになっており、 本来の目的とされた “市民参加により開かれた司法をつくる” との理念とは完全に逆行している」 「ここまで厳しい守秘義務を課す背景には、 司法当局がこれまで通り の閉鎖的な司法を正当化するために、裁判員制度を利用しているとも考えられる」 「一般市民である裁判員を守らなければならないとの口実で、さまざまな守秘義務を課したり、メディアとの接触を制限したりするのは、 結局司法当局が本当の意味で開かれた司法など実現する気がないことの反映だ」 と指摘しています (「"開かれた司法" と逆行する裁判員制度」 ビデオジャーナリスト神保哲生、を参照)。
  特に、その田島教授とのインタビューの中での 「現行の裁判員制度では、 広範かつ厳格な守秘義務が裁判員自身と報道機関に課されているため (報道機関側は司法当局との話し合いの結果、自主規制という形はとっているが)、 仮に制度に重大な問題があっても、その情報を社会が共有することができない。そのため問題が改善されないまま、永続してしまう仕組みになっているのだ」、 という裁判員制度の非公開性を鋭く突いたビデオジャーナリスト・神保哲生氏の重要な指摘も注目されます。

  また、多くの報道被害を取り扱っておられる梓澤和幸弁護士 (NPJ代表) も、田島教授との共編著 『裁判員制度と知る権利』 現代書館 (2009/02) の中で、 「裁判員が参加する公判廷が開始する前に公判前 (整理) 手続きで、かなり勝負がついてしまう」 「そうであれば、この手続きもまた被告人の運命を左右する公権力作用であるから、公開によって市民の監視にさらされるべきだ」 と述べて、 公判前手続きの非公開性を明確に批判しています。さらに、「公判前手続きが硬直した非公開のままで行われるならば、(省略) その闇をこじ開けようとして、 被告弁護側が重要な証拠を裁判支援の集会で人々に示したり、記者などに内容を話したり、コピーを見せたりすれば、被告弁護団と一般の市民、メディアの前に、 公判前手続きの非公開と開示された証拠の裁判目的外使用を禁止する刑罰と強制捜査の壁が立ちはだかることになるであろう」 と強く警鐘を鳴らしています。

  私がいまもっとも恐れているのは、裁判員制度が開始されて、メディアがこれまで通りの過剰・偏向報道を繰り返し、被害者参加制度も加わって、 裁判員裁判自体が非常に感情的な情緒に支配された 「魔女狩り裁判」 「刑事裁判のワイドショー化」 になるのではないかということ、またそれ以上に、 その結果としてメディアの過剰・偏向報道 (あるいは禁じられている裁判員への過剰な接近・取材などによる裁判の隠された事実の獲得・暴露) がクローズアップされて問題となり、再びメディア規制の条項が国家権力によって3年後の見直しの最重点事項の一つとして提起されて、 市民の圧倒的支持を得る形で実現されるのではないかという懸念です。 いずれにしても、裁判員制度の秘密主義的性格をめぐって生じるかもしれないさまざまな問題を私たちはこれからも注目して監視していく必要があると思います。

3) 陪審制度の復活に向けて何ができるか
−裁判員制度施行を受けて
  新型インフルエンザの異常な過剰報道が毎日のように垂れ流されている中で、本日 (5月21日) から様々な問題を残しながら裁判員制度が施行されることになりました。
  最後に、裁判員制度に対する総合的な評価とこれからの対応策について考えてみたいと思います。
  結論的に言えば、これまでも述べてきたことからも分かるように、あまりにも問題の多い裁判員制度を凍結・廃止し、それに代わるものとして、 陪審制度の復活・実現をめざすべきであるというのが私の基本的立場です。 こうした選択を行うことは主権者である国民の権利であり、裁判員制度の致命的な欠陥が明らかとなったいまの時点で、 その主体的意思によって裁判員制度を廃止することは、それが施行された現在においても決して不可能でも手遅れでもないと思うからです。 また、「裁判官の官僚統制を廃止するためには、どうしても陪審制度が必要である」 (前掲 『えん罪を生む裁判員制度』 、118頁) という指摘もされているように、 現在の日本の刑事司法の絶望的な状況を根本から変革するためには、 国民による司法参加による真の民主化につながる陪審員制度を復活・実現する他にはないと考えるからです (特に、 佐伯千仭氏の 「陪審裁判の復活のために」 前掲 『えん罪を生む裁判員制度』 所収、および 『陪審裁判の復活』 第一法規出版 (1997/01) を参照)。

 ここで、私の現時点での裁判員制度についての基本的立場を整理すれば、下記のようになります。

【根本的対策】

☆裁判員制度の凍結・廃止と陪審制度の復活・実現
☆死刑制度の廃止 (終身刑導入にも基本的に反対)
☆自白獲得中心主義の全面的見直し、人質司法の禁止と代用監獄の廃止
☆捜査・取り調べの全面可視化 (起訴前逮捕段階からの録音録画と弁護士の同席) の実現
☆起訴便宜主義の見直しと検察審査会の再編・強化
☆判検交流 (=裁判所と検察庁の 「癒着の構造」) の見直し・廃止
☆法曹一元制度 (日弁連などは弁護士を一定年数経験した者の中から裁判官を選び出す制度) の実現→裁判官の供給源の多様化・多元化、 裁判官の任命手続きの見直し、裁判官の人事制度の見直し (透明性・客観性の確保) などによる裁判官の独立性の完全な保障と官僚司法制度の弊害の克服 (法務・司法官僚の不当な圧力・支配からの解放)

【応急・代替措置】
☆被告人に裁判員裁判か従来の職業裁判官による裁判かを選ぶ権利を保障する
☆裁判員が「思想・良心の自由」によって辞退する権利を保障する
☆死刑判決は多数決ではなく全員一致にする
☆裁判員の守秘義務の大幅緩和 (罰則規定の撤廃、判決後の発言は基本的に拘束しない)
☆公判前手続きの公開を基本原則にする
☆強姦事件などを裁判員裁判の対象から外す
☆裁判員と裁判官の構成比を、現在の6対3から9対3、あるいは6対2に変更する
☆被害者参加制度と裁判員制度との切り離し
☆検察側の上訴権を禁止する (特に、無罪判決の場合)
☆人質司法の禁止と自白偏重主義(捜査)の見直し
☆(えん罪救援する妨げになる) 検察証拠の使用制限の撤廃
☆検死(死因の究明)体制の整備
☆報道評議会の設置とプレスオンブズマン制度の導入 (起訴前の捜査段階までの匿名報道原則の採用、警察・検察のリーク情報、 特に自白情報の遺漏・報道の制限・禁止)

  ここで誤解のないように、次の2点だけは一言触れさせていただきたいと思います。 その一つですが、私は裁判員制度にメリットが一切ないと言っているわけではありません。 確かに、刑事手続き上これまでに実現できなかった改善、例えば、保釈や無罪率の向上、証拠開示の面での一定の前進、 さらに一般市民の刑事司法・裁判への関心の高まりなど、裁判員制度導入にともなってプラスの効果が出てきていることも事実だと思います。 しかし、本質的な問題は、たとえそのような改善があったとしても、実際には失うものの方がはるかに大きく、 裁判員制度が持っている根本的な欠陥を克服することは到底無理ではないかということです。 特に、えん罪や誤判が生じてからでは取り返しのつかないことになるのではないかということでもあります。
  すでに述べた和歌山カレー毒物事件では、最高裁が上告棄却した結果、林真須美被告の死刑が昨日 (5月20日) 確定しましたが、 もしこの事件がえん罪で裁判員裁判の対象であったらと考えるとゾッとするというのは私だけではないと思います。 それは、裁判員になった一般国民が被告人を無実だと確信して無罪判決という決断を下したとしても、多数決で有罪判決となった場合には、 死刑か無期かという極刑を科す量刑判断に否応なく参加させられることになり、 のちにそれが誤りであったことが万が一でも (というのは、えん罪であることが判明する可能性が限りなく少なくなることが予測されるという理由から) 分かった場合には、 無実の人を自分が殺すことに加担したという贖罪感・呵責を一生抱えて過ごさなければならないことを意味しているからです。

  その意味で、私たちは次の林真須美被告の話に、謙虚に、かつ先入観をもたずに耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。
  「最高裁判決があったが、わたしは犯人ではない。カレー事件には全く関係しておらず、真犯人は別にいる。 すべての証拠がこんなにも薄弱で、犯罪の証明がないにもかかわらず、どうして死刑にならなければならないのか。 もうすぐ裁判員制度が始まるが、同制度でも死刑になるのだろうか。無実のわたしが、国家の誤った裁判によって命を奪われることが悔しくてならない。 一男三女の母親として、この冤罪(えんざい)を晴らすため、これからも渾身(こんしん)の努力をしていきたい。」 (『産経新聞』 2009年4月21日付)

  もう一つの点は、私は、素人である一般国民に裁判・司法に参加させることが能力的にも経験的にも無理である、 という観点から裁判員制度人反対しているわけではないということです。裁判員制度に反対する人々の中にはそうした考え方をする人がいることは残念ながら事実です。 最高裁の当初の立場や公権力の介入によるメディア規制を声だかに唱える人々にもそのような認識・評価が散見されます。 例えば、司法制度改革審議会委員でもあった作家の曾野綾子氏の 「裁判制度が発足するというが、まだこんなことができると考えている人がいる。 素人もいっしょに判決が出せるなら、なぜ大学の法科に受かるのも、司法試験に通るのも、あんなにむずかしくなければならないのか。 そんな難関を通った玄人とずぶの素人が、どうして一緒に仕事ができると思うのか。 どの世界でも、玄人と素人の間には師弟関係こそあれ、平等でないのが原則だ」 という発言が典型的ですが、 その発言に前出の裁判員制度に反対している大久保太郎氏が、「国民の多くは、このような良識人の声に、 きっとうなずいていると思います」 と全面的に賛同しているのも驚きです (前掲 『裁判長 ! 話が違うじゃないですか』 108〜109頁を参照)。

  しかし、こうした考え方は明らかに国民蔑視の間違った見方であると思います。私自身は、国民の司法参加によって現在の職業裁判官 (多くの場合、 有罪志向になりがち) による刑事司法を健全な方向に変えることは可能だと思っていますし、 司法の民主化のためには陪審制度がそのもっとも適切な参加形態・システムであると考えています (もちろん、 すでに指摘されているような様々な問題点を改善・克服するような工夫と努力が必要であることは言うまでもありませんが…)。

  裁判員制度についての私の当初からの疑問は、国民の司法参加あるいは裁判へ民意を反映させることを考えるならば、なぜ最初に導入されるのが、刑事裁判で、 しかも死刑か無期かを争うような重大事件のみなのか、というものでした。この疑問に、作家の高村薫氏が次のように明確に答えておられたのを発見しました。 私もまったく同感ですので、ご参考までに紹介させていただきます。
  「裁判員制度なるものが民意を裁判に反映させるために導入されるのであれば、なぜ死刑か無期かを争うような刑事裁判から始まるのだろうか。 (中略) 民意を広く社会常識ととらえるなら、それを活かすところは、加害者も被害者も個人である刑事事件ではなく、むしろ公害訴訟や薬害訴訟、 あるいは近年増加している労働訴訟や行政訴訟のほうだろうと思う。(中略) 結局、ほんとうに私たちの民意が活かされるべき民事裁判が閉ざされたままであるのは、 国と司法と官庁が、ここだけは国民に触れさせないとして死守しているからにほかならない。」 (『東京新聞』 2008年5月14日付)

  裁判員制度は今日から施行されることになりましたが、これで万事休すとなったわけではもちろんありません。 国会では裁判員制度凍結に向けた法案準備がされているところですし (「裁判員制度を問い直す議員連盟」 (代表世話人・亀井久興国民新党幹事長) は4月1日の設立総会の時点で15人だったメンバーが50日間で4倍の60人となっているそうです)、 裁判員制度に反対して多くの市民がいま立ち上がっています (「裁判員法の廃止を求める会」 が裁判員制度施行を控えた昨日、 反対声明 を発表しています)。

  特に、「裁判員制度を問い直す議員連盟」 が提起している、次の 「裁判員制度」 凍結、見直しにむけた 「12の論点」 が注目されます (「保坂展人のどこどこ日記」 2009年4月28日、より)。

[裁判員――国民の権利・義務をめぐって]
1.思想・信条による 「辞退」 や面接時の 「陳述拒否」 が認められない
2.守秘義務・虚偽陳述の罰則が重すぎる
3.「無罪」の判断をしても強制的に 「量刑評議」 に参加を強いられる
4.死刑判決を全員一致ではなく 「多数決」 で行うこと
[被告人の防御権]
5.裁判員裁判を受けるか否かの 「選択権」 が被告人にないこと
6.取調べの可視化が実現していないこと
7.公平な裁判のための条件は整っているか
[裁判員制度の基本構造]
8.放火・殺人等の 「重大事件」 が対象となっていること
9.裁判員への説示を公開の法廷で行うことが義務付けられていない
10.部分判決制度は裁判員裁判の対象外にすべき
11.「拙速審理」 に対する懸念が払拭されていないこと
12.国民への一方的な宣伝ばかりで説明をしていない

  裁判員制度にはこれまでに触れた以外にも多くの問題が山積しています (例えば、 強盗強姦など制度の対象となる性犯罪事件をめぐる問題を伝える 「犯罪被害者名も裁判員候補に開示、情報流出懸念の声」 『読売新聞』 2009年5月6日付、を参照)。 この問題にどう立ち向かうかは、これからの日本の民主主義と人権のあり方を左右する決定的に大きな問題であると言っても過言ではありません。 そのような重大な問題が、こうした深刻な問題提起を排除・封殺するようなやり方で決定・実施されようとしていることは、本当に信じられません。 国民に裁判員制度の本当の姿・真実を知らせようとしないやり方は、 すでに裁判員制度をめぐる 「やらせ」 タウンミーティングの問題でも明らかになっています (『毎日新聞』 2006年12月14日付を参照)。

  特に、最近の検察による「異例」とも言える小沢一郎氏の公設秘書逮捕問題が、政権交代の可能性が高いと言われる総選挙の直前で、 なおかつ裁判員制度開始を控えたいまの時期に浮上した理由・背景について取りざたされていますが、 それがもしも取り調べの全面可視化や裁判員制度の見直しを求める民主党代表を狙った「国策捜査」であったとするならば、それは由々しき問題だと言わねばなりません。

  また、この小沢氏公設秘書逮捕問題と裁判員制度の共通の問題点として、検察官により訴追裁量権が濫用されるおそれがあること、 すなわち検察側に誰をいつ訴追するか否かを決定する裁量権を事実上独占させている現在の 「起訴便宜主義」 のあり方に、 大きな問題があることを指摘しておきたいと思います。

  その問題でも検察側の意図について 「理解に苦しむ」 と疑問を呈しておられる郷原氏は、裁判員制度をめぐる現在の状況について、 「結局のところ、多くの人が “とりあえず裁判員裁判を始めて、ダメならやめればよい” という諦めに近い考え方で、 流れに身を任せています」 (前掲 『思考停止社会』 (講談社現代新書、89頁) という注目すべき指摘を行っています。 また、「彼らは職業裁判官中心の司法の世界を変えたいわけですね。治安維持的な裁判に対してずっと抵抗してきた人たちは、それを崩してしまいたいと思っていて、 そのために裁判官の手から裁判を国民の手に取り戻せということになる。 そうすると、陪審制という話になるわけですね。とにかく全部、国民から選ばれた陪審員が決めればいいんだという話になる。 ところが、そこまでの制度は裁判所は絶対に認めない。でもまあ、参審制ならいいだろうと妥協した。 これがとんでもない方向に発展する」 (「裁判員制度は、 世界に類を見ないモンスターになる」 『日経ビジネスオンライン』、より) と推進派の人々の姿勢に疑問を投げかけています。

  また保坂展人衆議院議員 (社民党) は、「“裁判員制度を延期すると、現状でも絶望的な刑事裁判が固定化されてしまう。 だから、この制度は始めてみるべきなのだ” という声も、身近かな法曹関係者から聞こえてくる。私は、違うと考えている。 90年代の始めに “小選挙区制度” が導入されようとした時、“一度やってみて、ダメなら元に戻せばいい” という意見があったのを思い出す。 アメリカ型の二大保守政党政治に選挙制度が誘導していくに違いないと当時は “少数意見” を出したが、奔流のような “改革の熱気” に押し流された。 小選挙区制度になって、二大政党の議員間の政策の違いは見つけるのが難しいほどに接近し、国会審議は政策本位になるどころか空洞化している。 80年代の法案審議に比べると、審議時間は半減どころか比較にならないぐらいに収縮してしまった」 (「郷原信郎さんと熱く語った裁判員制度の問題」 点、 より) とまさに正鵠を射た指摘をされています。

  「地獄への道は善意で敷きつめられている」 とも言われますが、未来の世代に取り返しのつかない巨大な負の遺産を残すようなことは決してあってはなりません。 私たち市民一人ひとりがこの裁判員制度を自分自身の問題としてとらえ、いまできることを真剣に取り組んでいく必要があるのではないでしょうか。
(終わり)
2009年5月21日 (裁判員制度の強行施行の日に)

<参考文献>
・土屋公献・石松竹雄・伊佐千尋編著 『えん罪を生む裁判員制度 陪審裁判の復活に向けて』 現代人文社、2007年
・梓澤和幸・田島泰彦共編著 『裁判員制度と知る権利』 現代書館、2009年
・郷原信郎著 『思考停止社会−「遵守」 に蝕まれる日本』 講談社現代新書、2009年
・浅野健一著 『裁判員と 「犯罪報道の犯罪」』 昭和堂、2009年
・山口正紀著 『壊憲 翼賛報道』 現代人文社 、2008年
・高山俊吉著 『裁判員制度はいらない』 講談社、2006年
・大久保太郎・池内ひろ美氏共著 『裁判長 ! 話が違うじゃないですか-国民に知らされない裁判員制度の 「不都合な真実」』 小学館101新書、2009年
・西野喜一著 『裁判員制度の正体』 講談社現代新書、2007年
・井上 薫著 『つぶせ ! 裁判員制度』 新潮新書、2008年
・田中克人著 『殺人犯を裁けますか? ―裁判員制度の問題点』 駒草出版、2007年
・井上 薫・門田隆将共著 『激突 ! 裁判員制度―裁判員制度は司法を滅ぼす vs 官僚裁判官が本を滅ぼす』 ワック 、2009年
・小田中 聰樹著 『裁判員制度を批判する』 花伝社、2008年
・『冤罪ファイル』 2009年6月号の特集