2010.5.7更新

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)


 第二三回
 日米安保体制の再考
―今こそ、米軍基地撤去と対米自立のチャンス!

はじめに
  今日は戦後63回目の憲法記念日である。鳩山政権が普天間基地問題の解決策を示すと公言した5月末が迫り、 辺野古沖合の現行案に固執する米国や自民党に一方的に肩入れするかのようなマスコミ報道の影響もあり、 日米両政府間ばかりでなく鳩山政権と国民(特に沖縄県民や徳之島など基地の移転候補地として浮上した地域の住民) との間に微妙な緊張関係が生まれようとしている。そこで、この普天間基地問題の根本的解決を考えるためにも、 新安保条約締結50周年を迎えた今日の時点で、戦後日本の歩みを日米安保体制との関わりで振り返ってみたい。

1.戦後日本の歩みと失われた 「もう一つの選択」
  日本が米国の占領から 「独立」 を回復して国際社会に復帰したのは、今から58年前の1952年4月28日のことである。 そのときに日本は、その前年の9月8日に対日講和条約と同時に結んだ日米安保条約によって、米国の軍事力に基本的に自国の安全保障をゆだねて、 その代わりに戦後復興と経済発展に専念する道を選択した。 その後の日本は、この吉田路線の選択によって、短期間に敗戦の痛手から立ち直ったばかりでなく、 「東洋の奇跡」 ともいわれた高度経済成長を達成して世界有数の 「経済大国」 になるに至った。 東西ドイツや南北朝鮮のような分断国家の悲哀を受けることもなかった。 この意味で、戦後日本の歩みを 「幸運」 に感じ、「寛大な占領(講和)」 を行った米国に、 多くの国民(特に保守的指導層)が素朴に感謝の意を表してきたことも理解できないことではない。

  しかし、これとは異なる別の見方がもう一方にある。それは、対日講和条約で失われた 「もう一つの選択」 を重視し、 サンフランシスコ体制の影の部分にも目を向ける見方である。 当時の日本は、冷戦開始を背景にした米国による占領政策の転換を受けて、 戦犯追放の解除や財閥解体の中止など 「逆コ−ス」 へと旋回・軌道修正されつつあった。 講和条約締結の問題が浮上した背景には、 日本の再軍備(すでに、朝鮮戦争勃発直後の米軍指令により50年7月には警察予備隊が創設されていた)を促進するとともに、 日本の早期独立と引き替えに、新たな同盟条約を締結して米軍駐留と基地の自由使用の権利を認めさせようとする米国の強い意思があった。 つまり米国は、冷戦という世界的規模での東西両陣営の対立が激化するなかで、 日本を西側に取り込んで 「東アジアにおける反共の砦」 にするという明確な戦略的利益に基づいて、 安保条約とワンセットにした形で講和条約の締結を押しつけたわけである。

  これに対して当時の吉田政権は、全面講和を求める多くの国民の声を無視して、米国を盟主とする西側の一員となるという選択を、 片面講和と日米安保条約の同時調印という形で受け入れたのであった。 このときの選択によって、日本は、日本国憲法の平和主義の精神に基づく 「軍隊のない国家」 「軍事同盟を結ばない国家」 として、 戦後国際社会において自主的な平和外交を積極的に展開して世界の非武装化の先駆的な役割をはたすという 「もう一つの選択」 を失ったのである。 今日における日本の根本問題である 「対米従属」 「アメリカ化」 の原点がここにあると言えよう。

2.平和憲法と日米安保体制の矛盾
―対米従属、沖縄の犠牲とアジアの忘却
  吉田路線の負の遺産は、1.対米従属という自主性の喪失、2.アジアの忘却と沖縄への差別、3.法治主義の腐食という三つの点に集約される。 まず第一番目の負の遺産は、片面講和と日米安保条約の同時調印によって、日本が米国の世界戦略のなかに深く組み込まれることになったことである。 それは、冷戦状況下で米国を盟主とする(西側)自由主義陣営の一員となり、ソ連を盟主とする(東側)社会主義陣営に対決していくことを意味した。
  すなわち、「東洋のスイス」 から 「東アジアにおける反共の砦」 としての日本への転換であり、「独立(主権回復)」 と引き替えの 「対米従属」、 すなわち 「自立性の喪失」 であった。それを象徴するのが、占領軍からそのまま駐留軍となった特権的な米軍の存在であり、 また朝鮮戦争の最中に米国の強い圧力によって生まれた経緯を持ち、 「憲法違反の存在」 でありながら米軍の一貫した監視下で戦力増強を義務づけられた自衛隊である。
  それは、日本外交の不在、あるいは戦略的思考の停止と経済面での過大な対米依存、 米軍の補完勢力としてアジア有数の軍事力・戦力を持つにいたった自衛隊といった形で現在でも続いている。

  二番目の負の遺産であるアジア(沖縄を含む)の忘却と犠牲は、戦争責任および戦後責任の放棄という問題と密接な関係がある。 日本は、冷戦開始を契機とする米国の政策転換によって、 戦前の最高指導者であった昭和天皇をはじめ岸信介元首相など一部のA級戦犯容疑者が免責されたばかりでなく、 講和会議に臨んだ米国の強い意思で当然行うべきであった賠償責任さえも負わずにすむという 「幸運」 に恵まれた。 こうした 「幸運」 には、東京裁判で、米軍が行った原爆投下や東京大空襲などとともに、 日本軍が行った細菌戦・人体実験や強制連行・従軍慰安婦(=戦時性奴隷)などの重大な戦争犯罪が断罪されなかったことや、 朝鮮戦争やヴェトナム戦争で日本が 「享受」 した戦争特需のにわか景気等も加えられよう。
  しかし、この結果、戦後の日本は、過去の清算、すなわち侵略戦争や植民地支配への真摯な反省・謝罪と日本人の手による戦犯の追及・処罰、 被害国・被害者に対する国家および個人レベルでの適切な賠償・補償という最も大切なけじめをつけることなく、 今日にいたるまで重大な禍根を残すことになった。

  「戦後六〇年」 の節目を過ぎた今日でもアジアの多くの民衆から不信と警戒の目でみられ、 国内ではそれに反発する形で戦前回帰の動きが急速に強まっている根本原因も、東京裁判での昭和天皇の免責と新憲法における象徴天皇制の導入、 日本および日本人自身による戦犯処罰や戦後処理・過去清算の欠如、 という形で 「戦前との連続」 を色濃くのこすことになった戦後日本の出発点のあり方にあることは明白であろう(「貫戦史」 を唱える中村政則 『戦後史』 岩波新書、 2005年を参照)。

  また沖縄は、講和条約によって日本が独立した後も米軍の過酷な占領下におかれ続けたばかりでなく、 72年の本土復帰後も 「米国と日本(本土)による二重の占領・植民地支配」 が形を変えて継続することになった。 1995年の米兵による沖縄少女暴行事件や2004年の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件等に見られるように、 在日米軍基地の過度の集中という過酷な現実に苦しむ沖縄(琉球)の人々の声に真摯に耳を傾けようとしない日本政府(および米国政府)と、 日本本土の人々の冷淡さ・差別の原点がここにある。
  「沖縄にとって戦争は本当に終わったとはいえない」 (目取真俊 『沖縄 「戦後」 ゼロ年』 日本放送出版協会、2005年) という厳しい現実のなかにいまも置かれ続けている沖縄、そして 「日帝支配がなければ、朝鮮は独立国として分断される何らの理由はありませんでした。 そればかりか、日本は敗戦後も冷戦の一方に加担し、一貫して朝鮮の統一を妨害し、朝鮮の分断から利益を得てきました。」 (徐勝 『第一歩をふみだすときー日本とアジアの戦後五〇年を問う』 日本評論社、1995年)という冷厳な歴史的事実を今こそ直視しなければならない。

  最後に三番目の負の遺産として挙げなければならないのは、法治主義の腐食・揺らぎである。 敗戦後の日本は、米軍による事実上の単独占領下に置かれ、非軍事化と民主化を掲げるGHQニューディール派の官僚主導で戦後復興の道を歩んだ。 その過程で導入されたのが、1946年11月3日に公布され翌年5月3日に施行された日本国憲法であった。 この戦争放棄と交戦権否定の9条を含む日本国憲法が制定された背景には、 昭和天皇の免責と沖縄の分離支配を国益とみなす占領軍・米国側と日本側(昭和天皇を中心とする支配層)の 「暗黙の一致」 があった。

  そして、戦前の天皇中心の軍国主義体制の呪縛下にあった当時の国民のある層(特に保守的支配層)にとって、 この新しい憲法が 「占領軍による押しつけ」 であると感じられたことは事実であろう。 しかし、その一方で多くの国民がそれを積極的に支持・歓迎したのは、軍隊が戦時・戦場で国民にとっていかに危険な存在となるか、 また国家が行う軍国主義教育や大本営発表という形での情報操作による洗脳がいかに恐ろしいものであるかを思い知らされた戦争体験の原点があったからである。 この平和憲法は、占領下で生じた朝鮮戦争の最中にマッカーサー指令によって創設された警察予備隊(保安隊から自衛隊へ)と、 対日講和条約と引き替えに結ばされた日米安保条約によって、その平和主義の中核部分と法治主義の根幹が脅かされることになった。
  本来、武装抵抗の権利という意味での自衛権を自ら放棄した平和憲法と明白な軍事力・戦力を備えた武装組織である自衛隊、 あるいは世界最強の軍隊である米軍の駐留と日米共同軍事行動を可能とする安保条約は両立不可能なはずである。 しかし、歴代の日本政府は、再軍備と軍事同盟締結が実は米国から押しつけられたものであるという事実を隠蔽する一方で、 自衛隊と安保条約の存在を既成事実として国民に受容させることに力を入れてきた。 その結果、国の最高法規である憲法よりも安保条約や自衛隊法などを優先させる 「法の下克上」 (前田哲男氏の言葉)という異常な状態が生み出され、 戦後長らく今日まで続いたことで、民主主義の基本原理である法治主義・遵法精神が根底から蝕まれてきたのである。

  このような観点に立てば、これまでの既成事実の先行と解釈改憲による追認という悪循環から脱却する道を明文改憲に求めようとする現在の日本の動きがいかに本末転倒したものであるかは明白であろう。 また、なぜ今でも独立した主権国家とは呼べないような 「米国の属国」 という地位に留まり続けているのか、 あるいはなぜ国の最高法規である平和憲法が主権者である国民の意志よりも 「米国への配慮」 を優先することで蹂躙され続けているのかが分かるであろう。

3.「自発的従属」 から真の独立国家・法治国家へ
─普天間基地問題を解く鍵とは
  戦後日本の歩みは、憲法体制と安保体制の矛盾とともにあり続けた。その矛盾は、日本における主権国家としての内実の喪失と法治主義の腐食であった。 平和憲法が日本という国家の最高法規であったのは、その制定から安保条約発効(1952年)、 あるいは自衛隊発足(1954年)までのきわめて短い期間のみであった。
  なぜならば、砂川基地・日米安保条約を違憲とした東京地裁の伊達判決(1959年)、 長沼ナイキ訴訟での札幌地裁による自衛隊憲判決(1973年)の両判決に見られるように、 戦争放棄・交戦権否定を明確に謳った平和憲法に日米安保条約も自衛隊も違反していることは誰の目にも明らかである。
  戦後日本はその矛盾を沖縄への過重な基地負担という犠牲と平和憲法の表面的護持の上に隠ぺいする一方で、 日米安保体制の下での属国状態(事実上の 「軍事植民地」)に甘んじてきた。
  そのことは、砂川判決を覆す最高裁判決の影に米国の露骨な司法介入があったという事実が、 米国の機密資料で判明したという記事 『毎日新聞』 2008年4月30日付、東京朝刊)や、 沖縄国際大学への米軍2004年8月13日に起きた米軍ヘリ(普天間基地所属)墜落事故の際の米軍による日米地位協定にも違反した日本への明らかな主権侵害行為を見れば明らかであろう。

  今日の普天間基地問題で問われるべきは、こうした日本の米国への 「自発的従属」 状態からの脱却、 すなわち主権国家としての内実の喪失と法治主義の腐食という 「二重の欺瞞」 から抜け出して、真の独立国家・法治国家として再出発することである。 普天間基地問題を解く最大の鍵はまさにここにある。

  鳩山政権は、現時点で辺野古現行案の修正に傾きつつあるともと伝えられている。 しかし、民主党は、本来 「駐留なき安保」 (有事駐留論)を唱えてきており、 政権交代前から普天間基地問題で 「最低でも県外移設を」 と訴えてきた原点に立ち戻って、 沖縄駐在のすべての米海兵隊のグアム・テニアンなどへの完全撤退実現を真剣に模索するべきである。 米軍普天間基地を抱える沖縄・宜野湾市の伊波洋一市長が、 米軍側の資料を基に海兵隊のグアム移転計画(2006年7月に策定したグアム統合軍事開発計画で、 米軍は海兵隊を司令部だけでなく実戦部隊を含めたすべての海兵隊をグアム移転させることを決定した)を分析したうえで、 「辺野古移設を普天間返還の前提とする考えはおかしい」 と一貫して主張している重い事実に注目する必要がある (吉田健正著 『沖縄の海兵隊はグアムへ行く―米軍のグアム統合計画』 高文研、2010/02、 「小沢と鳩山が密かに動く 普天間 “グアム全面移設”」 『サンデー毎日』 2010年5月2日号、 および 「元外務省局長が明かす普天間問題 “逆転” への秘策」 『週刊朝日』 2010年4月30日号を参照)。 フィリピンやギリシアの米軍基地撤去の事例を見れば分かるように、米軍基地の完全撤去は困難ではあっても不可能ではないはずだ (共同通信編集委員・石山永一郎氏の記事 「イラク、アフガン、そして アジア太平洋から見た沖縄」 『アジア記者クラブ通信』 2010年4月号および同 「フィリピン─米軍基地閉鎖後5倍の雇用創出 基地なき経済のモデルケースに」 『週刊金曜日』 2010年4月23日/796号も参照)。

  この点で、鳩山首相が持ち出している 「腹案」 が米海兵隊のグアム・テニアンなどへの完全撤退を前提とした普天間基地問題の根本的解決を目指したものである可能性は少なからずあると考える。 そうした可能性を現実性に転換していくためにも、あくまでも普天間基地の国内移設はすでに不可能・不必要であることを主張し続けていくことが、 目下の私たち市民の唯一の選択肢であることをあらためて確認しておきたい。
2010年5月3日(第63回目の憲法記念日に)