2008.9.19

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第5回
コンサート衣装と外見:
―女性の身体とエロティシズムを巡って
  前回予告した 「クラシックと見栄え」 ほど、一般的な関心を惹くトピックでわかりやすいものでありながら、その実、 音楽の本質にも触れるほどひどく難しい事柄もなかろう…にもかかわらず、今回、敢えてそれに手出しするのは、 少し前に 「身体と着衣研究/女性の周縁化」 を主題とする大変にアカデミックな研究会で、関連する報告をさせていただいたからである。 つまりはそのときのネタの再利用で、NPJの読者にも問題意識を共有して頂ければ、私にとってはアタマのなかを整理できることにもなり、 これぞ一石二鳥…! と、相変わらずの独りよがりで決めてしまったのだ。

  さて上記の研究会は故・若桑みどりさんが立ち上げた 「イメージとジェンダー研究会」 の流れを汲むから、 もちろん徹底的に 「視覚イメージ=ヴィジュアル」 を問題にしている。 もとより視覚は音楽を描くものではないし、音楽にも 「描写音楽」 の系譜はあるものの、あくまでそれは想像力を喚起するレヴェルでしかない。 なのにその研究会から私にお呼びが掛かったのは、以前、同会の幹事役を勤める優秀な若手研究者に、 「日本のクラシック演奏会に出演する女性のドレスがやたら露出趣味で、とても気持ち悪い…」 と呟いたことがきっかけだった。 あの華やかでゴージャスな女性演奏家の外見が、ポピュラー音楽や民俗音楽との差異化を図るための効果的手段として機能して(させて)いるのではないか、 もっといえば、これら女性演奏家像の大量出現が女性差別と男性支配温存に寄与しているのでは? …ここまで穿って考えずとも、 クラシック・コンサートの女性の舞台衣装を巡っては、男女を問わず一般のファンも違和感を抱いていることは私の経験からも断言できる。

  手はじめに 『楽器と身体―市民社会における女性の音楽活動』(2004年、春秋社) の第一章 「楽器を奏でる女性」 を見てみよう。 著者フライア・ホフマンはドイツ19世紀のブルジョア層における礼儀作法や理想の身体イメージ、そこでのファッションの支配について、 当時の理論書を引きながら、それらがいかに男性の眼差しによって規定されているかを鮮やかに描きだしている。 何より重要なのは、ここでの記述内容がほぼそのまま21世紀の日本にもあてはまるということ…その極め付けが女性のチェロ演奏で、 両足を拡げて支えるような楽器は全くレディにふさわしくない、なにより女性の脚はエロティックな効果を生むものだから、といわれると、 現在活躍中の有名な評論家が女性のチェロだけは許せない、と公言したことや、 巷に氾濫する超ミニ・生脚スタイルはどうなるのか…実はこの本の原書表紙を飾っていたのがマン・レイの 「アングルのヴァイオリン」(1924) という有名な図というか、 写真 (図版1) である。


  ところがこの選択は当然フェミニストである著者の意に反するものだったので、日本語版では翻訳者の提案により、 幼時から熱狂を巻き起こした天才ヴァイオリニスト、テレーザ・ミラノッロの肖像 (1853:図版2) に差し替えられたが、 そこでも不自然なまでに細く締め上げられたウエストがまず目を引こう。



  私はコンサート衣装そのものに関する研究は寡聞にして知らないが、たまたま、ヒントになりそうなマニュアル本を、非常勤で教えている大学の学生が教えてくれた。 日本フォーマルウエア協会編 『Formalwear Standards’ Manual』(2005) がそれで、公式儀礼、晩餐会、結婚式、観劇といった夜のフォーマルな場では、 胸・背・肩などを大きく刳った袖なし、フロア丈、裾を引くドレーンに豪華な宝石のドレスが 「正礼装」 だ、と説明されている…これだ! クラシック・コンサートの女性奏者は自らをフォーマルな場の登場者よろしく、そこで望まれる 「正式礼装」 で身を窶しているのだ… けれどもこの 「マニュアル」 はあくまで西洋近代社会が作り上げたもののはず…それを日本の、もっといえば世界中の女性たちが猿真似しているとは…けれども、 そもそも音楽には演奏者の身体とそれを覆う衣装問題が付いて回るという意味で優れて 「女性的営為」 なのだから、これもあきらめて受け入れるほか無いのだろうか…。

  だが以下に引用するのは、上記の通念に敢然と闘う姿勢を貫いたピアニスト、エセル・レギンスカ (1886-1970) の発言で、 その意の通り実用的なジャケットを着けた本人の写真も残されている (図版3。 彼女の素晴らしい演奏振りがCD化されて [Ivory Classics 72002] 聴くことが出来るのもうれしい)。 このレギンスカは女性として例外的に指揮でも活躍、オペラも作曲し教育者としても見事な実績を残したポーランド出身のアメリカ人。 離婚して一男を育て上げたその私生活も興味深い。


  問題の発言は、雑誌『月刊楽譜』(大正6[1916]年5月号)に載ったもの。「…婦人の生涯は極めて些細な事に煩を受ける者で、何より衣装に気を取られるなどはその不利益なる点の重なる者である。男は一定の服装をして居れば良いから何等外貌に心奪われる必要はない。しかるに婦人として聴衆の前に立つ時に何故男子同様この特権を得られないのであろうか。私は公衆に私の體を見てもらうのではない。私の人格そのものを認めてもらいたいのだ。故に私は出来るだけ簡単な余り目立たない様な上着を着ける。即ち身体が自由で着心地が良い物を専一として居る。私の衣装は人の注意を惹こうとか、流行を追おうとかいう考えを持っていない。ただ私の仕事を行なうに便利で寒さをしのげば足りるのである。近頃のイヴニング、ガウンなどいう者は決してこの目的に適う者ではない…」。

  「婦人とピアニスト」 と題する記事の中でこれを取り上げた平戸大という筆者は 「女史の言にして当れりとせば、その欠点を改めたい者である」 と最後を結んだ。 平戸は同誌12月号でも「コンサートに出る婦人の衣装問題」としてアメリカでのアンケートに寄せた5人の演奏家の言葉を紹介している。 大方はレギンスカの説に反対で、モーツァルト歌手として知られたソプラノ、フリーダ・ヘンペル (1865-1955) は、美しい音楽には美しい装いが前提であり、 レギンスカのような男仕立ての上着では肩や胸が締め付けられ、呼吸にも差し支えると答えている。 日本でも知人のピアニストから 「袖があると、動きが不自由になってうまく弾けない」 と聞いた。
  となればしかし、男性の袖付き、襟付き、蝶ネクタイというあのタキシードは、一体どうなのか? 「本当はトレーナーにスニーカーが一番楽でいい」 と本音をもらした人気女性ピアニストもいる。そもそも同じ楽曲を演奏するのに、男女でかくも異なる衣装で登場する実態は奇異では? ちなみに 「クラシックのピアニストのドレスにどうしても違和感がある」 「現代音楽のコンサートで、あのひらひらした衣装で出て来るの、 やめて欲しいですよねえ…」 と苦言を呈したのはどちらも男性の編集者だ…ことほどさように、コンサートで女性がまとう服装ほど、 ジェンダー意識に左右される問題もあるまい。

  実はここにクラシック音楽史・業界における女性身体の扱い方が凝縮されているのではないか。つまりエロティシズムと不可分の結びつきがあるということだ。 女性の身体・性は公のものとする古来東西に渡る伝統が、とりわけ歌手にあてがわれ、ステージ上の女性は外見・真剣さにかかわらず性的商品と看做されてきた。 自ら歌うための素晴らしい歌曲を多数残したバロック時代の作曲家=歌手バルバラ・ストロッツィ [1619-77] の肖像画がその典例といえよう(図版4)。


  このあたりの事情について、詳しくは、私も参加している女性と音楽研究フォーラムの翻訳になるスーザン・マクレアリ 『フェミニン・エンディング』 [1997年,新水社] を参照していただきたい。何しろ、日本でもなお、役割分担相談の電話で開口一番 「脱げますか?」 と聞かれたという中堅歌手の打ち明け話や、 性的裏取引がいまだにオペラの役獲得等に根を張るという噂がたえないのだ。 つい最近も、さる日刊誌で 『目の保養になるクラシック・ビューティに注目』 と題した記事のなかで 「セクシーな美女がきわどいコスチュームを着て」 云々という一節を見つけて仰天したが、ともかく洋の東西を問わず新聞、雑誌、CDジャケット、チラシ、 キャッチ・コピーには女性のヌードまがいの姿や過剰な露出が溢れかえっている。 フランスの代表的音楽雑誌 『ディアパソン』 2003年3月号の特集などは、ずばり 「音楽とエロティスム」。 例のマン・レイの写真を使った表紙を始め、オペラの演出やピアノのレッスン風景など、あちこちに挿入されたセクシーなイメージはまるでポルノ雑誌かと思わせるほど…

  ただ、以上は 「高尚なクラシック音楽」 の頂点に位置するシンフォニーの世界とは無縁の話である。 19世紀半ば以降に一般化した交響曲をメインに響かせるコンサート・ホールでは、ブルジョア社会の性規範からの逸脱を許さぬ潔癖さが求められるからだ。 何しろ、オーケストラはその事始から男性だけで固められてきた組織だから、舞台上に見える色といえばあのタキシードの白黒だけ。 しかも20世紀末に至るまで、伝統的で格式高いとされているオーケストラ (ベルリン・フィル、ヴィーン・フィル etc) ほど、 日本の古典芸能 (歌舞伎や文楽、能など) 同様、女性排除にこだわっているのだ。 かくて黒一色のオケに君臨する指揮者、それに無言・不動で聴き入る聴衆…これこそが最も格式高いクラシックの原風景とされる。
  前出のマクレアリにいわせれば、音源としての身体は西洋文化にとって困惑の種であり、その身体の存在感を極限まで抑えるために、 オケマンはあのような黒服を制服にしているのだ。いわば精神性を過度に強調したコンサート=シンフォニーを至高のジャンルとするクラシック界のエリート意識が、 肉体的パフォーマンス─―当然色鮮やかな衣装が不可欠だ─―そのものを売りにするポピュラー界を、 大衆芸能として見下している…そんな図式も描けるのではないか。 シンフォニー・ホールで取り上げられる不滅の大作曲家が男性であるに反し、使い捨てと代替の効く演奏家は女性が多数という問題もそこに絡んでこよう。

  最後に付け加えておきたいのは、録音資料というメディア、特にCDの出現後は、ジャケット類に曲の内容とは無関係な、 エロティックで男の性的欲望を煽るようなイメージが使われている例が結構目立つことだ。 図版5をご覧あれ。『危険な音楽 La musique dangereuse』 というアルバム・タイトルと、 この超過激なジャケット [CD EL 972306] にそそられて我がパートナーが購入してきたおかげで、私もこれを拝めるのだが、 肝心の収録曲はクープランやラモーなどのクラヴサン作品集で、「危険な」 ところはどこにも無い。 むしろ普通は典雅で上品なフランス宮廷音楽と評されている類のものである。
  こうした例に出会うと、日ごろ私が抱いている西洋音楽の美学観への疑問が改めて抑えきれなくなる。 つまり、音楽の内容はあくまで鳴り響く音自体だけで、外的な事物は関係ないという、 ハンスリックなどに代表される自律音楽美学をあり難く受け入れた上でそれを逆手に取り、だからこそ性的なそれに代表される個人の自由な幻想も、 具象的には描き得ない音に拠れば思うまま膨らませられよう…音楽の条件・状態にあこがれたウォルター・ペーターのような耽美主義美学が成立したのも、 実はそれが基だったのでは…ということだ。ともかくLPに比べ小型のためか、 その露骨さが殺がれるCDのジャケットがセクシュアルな幻想の担い手になる…衝動的 「ジャケ買い」 を促す、これはその一因といえるのではないだろうか。


2008.9.19 改訂