2010.9.11

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第21回
クラシック音楽の問題点(4)
音楽評論はどうあるべきか
谷戸基岩

  今回は私のクラシック音楽ソフトの蒐集家、音楽評論家としての活動から、クラシック音楽界の問題点について書いてみたい。
  考えてみれば私は小学生の頃からロックのレコードの蒐集を始め、ローリング・ストーンズ、キンクス、ヤードバーズ、フー、ピンク・フロイド、ドアーズ、 アイアン・バタフライなどの音楽に親しんでいた。けれどもサイケデリック・ミュージックのムーヴメントが下火になった1969年頃にロックを聴くのを辞め、 どういう訳かクラシック音楽を聴くようになった。それ以来、かれこれ40年以上もクラシック音楽ソフトの蒐集家である。 趣味が嵩じて1976年から18年半の間レコード会社で海外盤ソフトに基いた国内仕様LP・CDの制作・宣伝・編集作業に取り組んだ。 そして1994年にレコード会社を辞めてから16年間、当初は 「レコード評論家」、現在は 「音楽評論家」 という肩書きで執筆活動をしている。

  なぜ最初に 「レコード評論家」 という肩書きにしたかといえば、当時の私はレコード収集家、 レコード会社の編成・編集・宣伝業務担当としての経験は十分にあって、 レコードの良し悪しについてはそれを自分なりに判断するだけのノウハウを持っていたからだ。 これに対してコンサートの現場についての知識には欠けているので、 最低でも 1,000以上のコンサートに通うまで 「レコード評論家」 のままでいようと心に決めていた。 コンサート通いは年間 250回以上のペースで続け、もうすぐ 4,000の大台に乗る。 また、自分でもいくつものコンサートを主催するなどして、こちらの業界の仕組みに関してもある程度のことが自分なりに理解できた。 それゆえ最近では 「音楽評論家」 を自称するのに違和感を覚えなくなって来ている。

  けれどもこの 「音楽評論家」 という職業に対するファンの方々の、 特にコンサート会場でしばしば顔を合わせるようなヘヴィー・コンサート・ゴーアーの方々の目は厳しい。それは何故なのだろうか?  簡単に言うならばそれは音楽に対する愛情の温度差が原因ではないか。 一般教養のビジネスとしての音楽評論家の在り方と、個人の趣味としてのファンの在り方の違いがそうした温度差を引き起こすのだ。 そして、クラシック音楽業界の価値観が多様化しない原因のひとつは 「音楽評論家」 が 「個人の趣味」 ではなく、「一般教養のビジネス」 に基いて為されるようになってしまったことに起因するのではないか。 それと同時に、業界全体に見られる編集業務の劣化もこうした傾向を助長している要因だろう。 では音楽評論家には一体何が必要なのか? 今回はそうした問題点を自分の経験を踏まえて記してみたい。

(1) 自分の書いたものに責任を持つ
  音楽評論家に限らないが、音楽ライターであれ、ジャーナリストであれ、 チラシやプログラムなどに推薦文を書いたような人物がそのコンサートに来ていないというケースにしばしば遭遇する。 私は基本的にこうしたことだけは無いようにしている。日程的に自分で行けないようなコンサートを他人に薦めることはしないし、推薦文は引き受けない。 数箇所で開催の場合には首都圏で聴けなくても日程を調整し必ず他のどこかで聴くようにしている。 「己の欲せざるもの他人に施すなかれ」、これはあらゆる音楽評論家の基本ポリシーであって欲しいと私は願っている。 また、それをしっかり守っているような評論家、ジャーナリストの書くことは信用するようにしている。 他人に薦めたコンサートに自ら出かけることによってその責任を果たす。別にコンサートが酷かった場合に聴衆に対して土下座しろというのではない。 酷かった場合には反省を、良かった場合には自分の活動に自信を持って帰ればいいのだ。 こうした確認作業の積み重ねが聴衆の信頼を得るための唯一無二の方法なのではないだろうか?

  そこまで他人に押し付けようとは思わないが、個人的には曲目解説だけを書いたものであってもそのコンサートには行くようにしている。 それは自分が原稿を書いた時に頭に描いたものと、実際にコンサート会場で響いた音楽にはちゃんと整合性があったかを確認するためだ。 それと私は自分が本当に好きでもないような曲目の解説は書かないことにしているので、 結果として曲目に関しても自分にとって 「買い」 のコンサートになるからだ。

  いずれにせよ読者に対する最低限の責任として推薦文を書いたようなコンサートには必ず出かけて、 聴衆として一緒に時間を過ごすというルールは守りたいものだ。

(2) 消費者・聴衆として、自分の好奇心・欲求に忠実に行動する
  音楽愛好家・消費者としての自分に立ち返る時、 自分がとても好きなアーティストや作品についてそれに相応しい愛情を感じられない文章に接することほど腹立たしいことはない。 演奏会評でも、CDの紹介文・批評でもそうだ。いつも思うのだが自分にとって興味の無いアーティスト、 興味の湧かない作品について書くとそのような結果になることが多い。そして自分の18年半のレコード会社における編集者としての経験から言えば、 こうしたケースの責任の半分は執筆者、半分は編集者にある。

  私は基本的に自分が良いと思ったコンサートやCDに関してしか原稿を書かないように心がけている。 行ってつまらなかったコンサート、聴いて面白くなかったCDについて書いてもそれは紙面の無駄のように思えてならないからだ。 それにこの連載の中でもすでに記したが人間の嗜好は十人十色。自分はそうでなくてもそのアーティストや曲目について好きな人は必ずいるはずで、 そうした人が書けばいいのだ。 私は原稿を依頼された時に、かつて編集者の端くれであった自分の良心として 「むしろこのアーティスト、 曲目なら○○さんの方が私よりも良い原稿が書けるのではないですか?」 と答えてしまうことが多い。 そうした対応を 「傲慢だ」、「生意気だ」 などと編集者の方々から批判されることがあるのには驚いてしまう。 しかし、まずはそのコンサートやCDに関する原稿に接する読者のことを第一に考えるのが筋ではないだろうか?

  怖ろしいのは、自分が価値を認めたものについてしか書かないという態度で音楽評論活動を行っていくと、 一般的な読者は 「あの人は何でもほめる人だ」 という風に誤解してしまうことだ。 裏返せば、それくらいコンサートやCDについて醒めた気持ちで書いている原稿、愛情に欠けた文章が溢れているということなのだろう。

(3) 業界の広告塔である前に 「ユーザーとして音楽評論家」 であること
  これはクラシック音楽だけに限った話ではないかもしれないが…大きな宣伝予算が付くようなアーティストやプロジェクトに関心を持ったり、 関わり合いになった方がより多くの収入につながるし、露出の大きなメディアに登場するので音楽評論家としてステータスが上がる。 そのため音楽評論家は自分の本来の趣味・嗜好は措いて、どうしてもマスコミで現に話題になっているような演奏家、作曲家、 作品を中心に聴いたり調べたりするという傾向が強くなる。 業界に関連したメディアからも、どんな問いかけをしてもそれなりに無難な答えが返ってくるような万能評論家が望まれているようだ。 何よりも編集する側からするとこうした人の方が使い勝手が良いに決まっている。

  先日、突然、ある媒体の方から 「今年のサイトウ・キネン・フェスティバルで、小澤征爾の代役で 《サロメ》 を指揮したヴェルバーについてどう思われますか?」 という趣旨の質問の電話がかかってきた。私は 「申し訳ございませんが私はサイトウ・キネン・オーケストラには興味がありません」 と答えた。 そもそもどうして私にこんな電話が架かってくるのか? 私の日頃の言動(例えば 「コンサートなび」 に毎月連載している 「このコンサートが買いだ!」) を少しでも知っているなら、私が器楽・室内楽を中心に聴き、オーケストラはもっぱら協奏曲を聴くために行くような人間であることが容易に判りそうなものだが… 自分が関心の無いことに時間を費やしている暇は私にはない。 なぜなら私が自分のクラシック音楽における趣味を探求するために一生は余りにも短く、 聴かねばならないコンサートやソフトは余りにも多すぎると思っているからだ。 それに私は一般教養としてのクラシック音楽業界の常識や価値観を究めたいとは全く思っていない。

  様々な評論家によって多様な見解・趣味が示され、そうした中からコンセンサスが形成されていく必要がある。 10人が10人業界(音楽学者の業界も含め)の価値観を代弁して発言するのであれば評論家は誰がやっても同じことになるし、 聴衆の多様な価値観にクラシック音楽業界として柔軟に対応できなくなる。 業界の価値観を代弁するのではなく、常に独立した個人の価値観・美意識を持って音楽を語ることが必要なのだ。

(4) 常にコストの意識を持つ
  世間常識として、ものの値段というのはそのコンサートあるいはCDの価値とリンクしているべきではないか?  6万円のチケットを買ったコンサートの感動は、5千円のコンサートの感動よりも遥かに大きなものでなければ辻褄が合わないと考えるのが自然だ。 けれどもこのように価格という問題を話題にするのは品のないこと、あたかもクラシック音楽の価値を冒涜する行為であるかのように言う業界人が少なくない。 また音楽評論家が招待でばかりコンサートに行っていると、チケットの額面価格がいくらであるかを忘れてしまい、大甘な批評をしてしまうことがしばしばある。 招待者はタダで貰えるプログラムも聴衆はお金を払って買っていることを認識して読むべきだろう。 消費者であること、ファンの立場に立って価値評価する気持ちは一生忘れたくないものだ。 幸か不幸か私の場合には行きたいコンサートでも招待が来るのは3割程度なので、消費者としての自分を忘れることが出来ない状態にある。

  その一方で、入場料が安いことによって発生する様々な問題点についても、こうした廉価なコンサートに出かけ考えてみるべきだろう。 廉価なコンサートでは、安いという理由だけで別段興味も無いのに来た聴衆が盛んに不必要な物音を立てるトラブルが少なくない。 またプログラムがあまりにお粗末であったり、本来あるべき珍しい曲目に関する解説などのインフォメーションが無かったりする。 一方、CDが超廉価になった場合には編集業務が杜撰だったりすることが多々ある。 こうした事実を踏まえて、安いことは良いことだと単純に考えるのではなく、 それが本来コストをかけて整備されている場合に較べて劣る点がないかを考察する必要がある。

(5) 日本のクラシック音楽界の現状について認識を深め、分析する
  外来の音楽家、とりわけ額面価格の高いオペラやオーケストラのコンサートに通うことが一種のステータスだ、と考えているクラシック音楽ファンが少なくない。 そして業界関係者や音楽評論家の中にもそうしたものに数多く顔を出すことが、自分のステータスと勘違いしているような人をしばしば見かける。 私は思う、日本のクラシック音楽業界関係者、音楽評論家はもっともっと日本人のアーティストにこだわって聴く必要性があるのではないかと。 私は特に思想的に右翼ではない。むしろ経済的な観点からそれを考えている。 すなわち同じクオリティの音楽家であれば日本に在住している者の方が私たちに優れた音楽を廉価で提供してくれる可能性が高いからだ。 言うなれば音楽における 「地産地消」 の考え方である。それに外国のアーティストたちに関してはそれぞれの国の音楽評論家が責任を持って評価すればいい。 我々日本人はまず日本人の演奏家に注目すべきではないか?  「地球規模で考え、地域的に行動する」 というエコロジーのスローガンは音楽評論活動に関しても至言である。

  間違いなく言えることは少なくともメカニックの部分に関して日本人アーティストは20年前とは比較にならないほどに高くなって来ている。 海外の人々に伍してやっていけるだけの実力は持っている音楽家が少なくない。 そうした現状であるにもかかわらず海外に較べて日本のアーティストが劣るというのであれば、 それは音楽家個々の問題というよりも我が国のクラシック音楽業界のシステム、あるいは音楽教育の在り方などに問題があると考えるべきだろう。

(6) 自分が薦めたアーティストを聴き続ける
  自分の書いたことに責任を持つのは当然だが、 現在活躍中のアーティスト・団体などについて記したものに関しては原稿の賞味期限があるということも忘れてはいけない。 音楽評論家は同じアーティストを聴き続けることによってその現状を把握して行くのだが、 半年、1年ならまだしも、2年、3年と時が経つとそのアーティストの演奏が大きく変化することもあり得る。 良い方向に変化してくれるのは歓迎だが、自分がかつて魅力を感じていた要素が全く失われてしまうということもある。 あるいはかつてその団体の主催コンサートは素晴らしかったが、最近ではすっかりコンサート内容や編集業務の質が落ち、 しばしばトラブルも発生しているというようなケースもある。したがって様々なアーティストや団体の活動は継続的に聴き確認する必要がある。 また読者はアーティストの宣伝文に批評が引用されている場合にはそれがいつの時点で書かれたものなのか、注意深くチェックする必要がある。 と同時に、音楽評論家の音楽に対する姿勢も2年も経てば変わってくることもあるので、 自分が信頼する人物の書いていることを信頼するに足るかどうか折に触れチェックすべきだろう。

  音楽評論家が自分の好きなアーティストにこだわって聴くことの必然性、 それは現代のような 「新人アーティストの使い捨ての時代」 においてますます重要ではないかと私は考える。 とかく日本ではコンクール入賞歴や話題性が重要視され、20代前後の演奏家がやたらともてはやされ騒がれる。 しかしながら4、5年も経つとその後に登場する新たな人々の陰に追いやられ、そのアーティストについての言及が急速に減っていく。 音楽評論家はそうした業界の趨勢とは関係無しに、自分が良いと思ったアーティストを継続的に注目し続けることが重要ではないかと私は考える。 新人たち全員を把握するのは不可能だが、それぞれの評論家がその演奏に自分なりの愛着を持てるような音楽家を選択して追って行くようにすれば、 かなりの人はそれで救われるはずだ。言うなれば演奏家の仕分け作業である。

(7) そのコンサートやソフトがクラシック音楽の演奏史の中でどのような意味を持つのかを折に触れて考察する
  コンサートもCDもアーティストや曲目と聴衆との出会いの場である。音楽評論家はある作品の受容の歴史に関心を持ち、 その中で当該のコンサートやCDにおける演奏がどのような位置付けを持っているのかを考える必要がある。 そのためにはある作品が受容され録音されて来た歴史を折にふれ研究しなくてはいけない。 幸いなことに海外では20世紀末から、19世紀末に録音機器が誕生して以降の貴重な録音の復刻が目覚しい勢いで進んでいる。 とにかく自分が関心のある作品・ジャンルについては最も古い音源からこうした復刻盤を徹底的にリサーチしておくことが大切だ。 ひとつ気をつけたいのは、人から聞いたり、本を読んだりして得た知識は音楽評論家にとっては単なる伝聞に過ぎず、 実際に演奏や音源を聴いて得た知識が本当の知識なのである。 こんなことは当たり前すぎて書く必要もないことなのだが、敢えて書かねばならない現実があるのだ。

  こうして評論家に本来必要と思われる用件を並べて行くと、いくら時間があっても足りない仕事だということが容易に理解されるだろう。 これは何か別に専業の仕事を持ってその片手間にできるような仕事ではない。 けれども専業で音楽評論家という仕事に携わった場合でも、それに見合うだけの収入が得られる可能性はきわめて低い。 「あなたはそんなことを偉そうに書きますが、誰がそれをやるのですか?」 そう言って私を叱責する音楽評論家もいるかもしれない。 けれども私は敢えて答えたい。今それをすることの出来る人がまずそれをしなさい、と。

  私個人の経験から言えば、音楽を聴くに当たって最も難しいことは 「先入観を排して、虚心に聴く」 ということ。 次に難しいのは 「自分の感想を正直に言う」 こと。3番目に難しいのは 「消費者として自分の心に正直にコンサートやCDを選択する」 ということではないか。 当然のことながら評論家の仕事は何に対しても安易にコメントしどんなことでも引き受けることではない。 場合によっては 「興味が無い」、「判らない」、「知らない」 とハッキリ表明することも必要なのである。
〔2010年9月 谷戸基岩〕