七生養護学校「ここから」裁判 原告訴訟代理人 意見陳述

平成17年(ワ)第9325号 損害賠償請求事件
原 告  ● ● ● ●   外
被 告  東 京 都     外

意 見 陳 述
2008年 (平成20年) 5月15日

東京地方裁判所 民事第24部合議B係 御中

                       原告訴訟代理人
弁護士   中  川  重  徳

1  本件のきわだった特徴
  本件は戦後の教育史上、教育裁判史上、前例の無い事件です。

1) 七生養護学校の 「こころとからだの学習」 は、教員たちが、目の前の子どもたちのきびしい現実を前に、それをなんとかしたいと悩み、 そこから生まれた集団的な教育実践です。教員たちの想いは、子どもたちがつらい体験や障がいを乗り越えて豊かに生きてゆく、その一点にありましたが、 決して狭い視野の実践ではありません。保護者や福祉園にていねいに情報を開示して意見交換し、専門家を招き、広く教育関係者に実践を問うて積み重ねてきたのです。

  子どもたちの心の声に耳をすまし、お互いの実践をふりかえる中から、すばらしい教材と授業が生まれました。からだうた、子宮体験袋、結婚式ごっこや変身ごっこなど、 また、性交の授業など、被告らが口をきわめて非難する教材や授業はいずれも、子どもたちに自分のからだを正確に理解し、そこから命の大切さ、 自分の可能性を、感じ取ってほしい、障がいはあっても自分も相手も傷つけることのない存在であってほしいという願いから出た授業でした。 教育委員会と校長会の行う研修会等で高い評価を受けたのは当然です。

  これらの教材と実践は、文字どおり、憲法26条が、ひとりひとりの国民の成長発達する権利に応えるための権利として教育を受ける権利を宣言し、 そこから旭川学テ判決をはじめとする教育裁判例が導き出した教師と親の教育の自由、その結晶というべきものでした。(最終準備書面及び第5準備書面10頁)

2) この 「こころとからだの学習」 が乱暴にそして徹底的に破壊された。これが本件です。政治家である都議会議員が、特定の学校の特定の教育実践を問題視し、 議会で口をきわめて非難し、教育委員会の強力な介入を促す。 そして、直接学校現場に乗り込んで校長をはじめ現場の養護教諭に対して強い口調で侮蔑的言動を行って圧力をかけ、教材の現場からの没収を求める。 こんなことが許されるのだとしたら、教育が教育の専門性に基づき教育本来の目的に沿ってなされることを求めた憲法26条の趣旨は完全に没却されます。 都議らの行為は、議会での質問それ自体、教育基本法10条1項に違反し憲法26条の教育の自由を侵害する違憲・違法なものです。

  産経新聞は、「過激な性教育」 を問題としてとりあげるという方針のもとに、こころとからだの学習について、その現実の姿・経緯についてまともな取材は一切行わず、 もっぱら都議らの主張に沿った事実と映像のみを切り取って、繰り返し記事を掲載しました。 「教育についての民主的な是正の過程」 であるなどというのはそらぞらしい限りであり、違憲・違法な教育破壊行為に加担し原告らの名誉を毀損したことは明かです。

  本来、教育委員会は、このような行為を阻止し、教育の独立と教員の教育の自由を守る義務があります。 ところが、あろうことか、このような乱暴な攻撃に同調し、自ら主体となって事実を歪める情報を繰り返し繰り返し流し、処分をする、 という異常な対応をとったのが被告東京都教育委員会です。 この都教委の行動は、旭川学テ最高裁判決、都立深川高校事件判決 (東京高裁昭和50年12月23日) に照らしても、違憲違法性は明白です。

2  このような行為によって、原告らは、自らの努力の結晶を破壊され誹謗中傷され、同様の実践をできなくされました。 間違った情報による周囲からの偏見にもさらされました。同じ教育者としてきちんと説明すればわかってもらえるはずなのに、 何度説明しようとしても耳を傾けてもらえないという苦悩と絶望感は、原告らが陳述書で記載したとおりです。 ある者は身体をこわし、ある者は心に大きな痛手を負いました。教員としての誇りと生き甲斐、名誉を奪われた損害ははかりしれません。

  また、2003年7月に行われていた 「こころとからだの学習」 は、その時点で七生養護に在籍していた教員のみによって形成されたものでありません。 1997年に、子どもたちの自己肯定感をはぐくむ教育実践の必要に思いを致し、試行錯誤の中から一つひとつの教育実践を行う者、 その実践をつうじての子どもたちの変化を後進に伝える者がいたからこそ、2003年7月の実践があり得たのです。 その意味で、「こころとからだの学習」 はひとつの共同体によって歴史的に形成、発展してきた科学的な教育実践の体系であり、 それが破壊された時当時七生に在職しなかった原告も同様の苦痛を味わったのです。

3  本件で論じるべきことは、最終準備書面で論じ尽くしたと信じます。

  学習指導要領や発達段階を無視しているという被告らの主張についても、いずれも事実に反するか七生の実践を歪めて論じる議論であることを詳細に論じました。 たとえば、被告らは、性交を指導することはいずれの学習指導要領にも示されていない、などと主張しますが、 性交を取り上げ科学的知識と責任ある行動について学ぶことは、七生養護学校の生徒の現実が提起した学習課題・発達課題です。 そして、高等学校学習指導要領も 「生殖に関する機能については、必要に応じ関連づけて扱う程度」 との表現ながら性交の学習を取り上げているのです。 被告都教委の主張は虚偽としか言いようがありません。

4  最後に、被告らの 「常識論」 について裁判官にお話ししたいと思います。彼らは、からだうたについて、人前で口にして困るではないか、と言います。 しかし、まず第1に、性器は重要な器官であり、性器の名前をきちんと知り、意味を正確に理解して自分で使えるようになることは、大切な発達課題・学習課題です。 そして、私たちの中で、生まれた時からスプーンを上手に使えたという者がいるでしょうか。最初は誰も、食べたいものをすくえない、すくえても口に行かない、 ほっぺたにぶつかってこぼれてしまう、そういう失敗を何度も何度も繰り返して、今は何の問題もなく使えるようになった、それが私たちではないでしょうか。 失敗によって人は学び成長するのです。それは七生の子どもたちも、ペニスやワギナでも同じではないでしょうか。学習とは失敗の連続なのです。 だから、憲法26条が発達成長するための 「学習」 する権利を保障したとすれば、失敗は人の権利です。 どうして、七生の子どもたちだけにこの失敗する権利が認められないのでしょうか。 このことは、木全教授も、「自律した主体となりゆく過程で試行錯誤を繰り返しながら少しずつ身につけてゆくもの」 との視点の重要性を指摘しています (甲133意見書21頁)。

  また、誰でも、性教育の教材から性器や性交の絵図、ペニス・ワギナという言葉だけを抜き出して提示されれば、とまどいを感じるかもしれません。 しかし、市川教授も指摘するとおり、性教育教材は、教師による配慮ある教育実践と一体となって初めて評価をなしうるものであり、 被告らの取り上げ方では到底正しい議論をなしえません (甲131市川意見書8頁、最終準備書面143頁)。

  私は、裁判官のみなさんに対し、被告らの常識論・俗論にまどわされることなく、七生の教材と授業の価値を憲法と教育基本法に照らし、 判決を下されることを希望します。裁判所が、被告らの俗論を排して、今東京であるいは全国の学校で、 子どもたちと向き合おうとしている先生たちのその肩をちょっとだけ押してもらえる判決、 あたりまえの授業があたりまえにできるようになる判決を出されることを希望するものです。
以上