保育園民営化住民訴訟 (練馬) 意見陳述
2008年9月12日
原告 笠本 丘生
まず、われわれ原告に、最終意見陳述の機会を与えていただき、ありがとうございました。最後に僕が言いたいことは、次の通りです。
つまり、(1) 保育園の運営主体を変えるということは、それ自体がそもそも理不尽な施策であること、(2) 被告はその理不尽に理不尽の上塗りをしたこと、
(3) 保育園に通う子どもたちや親たちが望んでいるもの、そして被告によって奪われたもの、この3点について、陳述させていただきます。
(1) 運営主体を変えることの意味
原告らが折に触れて指摘してきたことですが、保育園というのは、親の就労中に単純に子どもを預かっていれば足りる施設ではありません。
人生最初の6年間を生きる子どもたちの成長をしっかり受け止め、支えてくれるところです。この年頃の子どもたちは、大人から受ける愛情を栄養にして育っていきます。
親たちが就労などの事情で子どもたちに愛情を注げない間、保育園の先生たちが子どもたちにいっぱいの愛情を注いでくれます。
だから子どもたちは保育園の先生を心の底から信頼し、うれしかったことや悲しかったことを何でも話せるようになるし、思う存分先生に甘えたりします。
保育園民営化問題に取り組む親たちの間では、「保育園は第二の家庭」 だとか 「保育園の先生は第二の親」 みたいな言い方をすることがあります。
それは決して大げさな言い方ではありません。親と同じように子どもたちにいっぱいの愛情をくれることで、子どもたちを豊かに健やかに育ててくれるのですから、
実際に第二の家庭であり、第二の親なのです。事実、「クラス」 という言い方はせず 「おうち」 と呼んでいる保育園もあるそうです。
僕たち親だって、保育園にはずいぶんとお世話になります。慣れない子育てに悩み、苦しみ、子どもに振り回され、
もうどうしていいかわからないと自暴自棄になることもしばしばです。そんなとき、親の支えになってくれるのも、実は保育園です。
子どもの夜泣きがひどくてどうしたらいいかわからない、思いが通らないとひたすら泣きじゃくり暴れ狂って手がつけられない。
そんなとき、八方塞がりの親たちに的確なアドバイスをくれるのも、保育園です。
それがどれだけありがたいかは、子育ての苦悩を経験してみないとわからないかもしれません。
「保育園は子育ての重要なパートナー」 という言い方をすることがあります。これも決して大げさな表現ではありません。実際に頼もしいパートナーだからです。
その保育園を運営する主体が、ある時を境に突然変わるとはどういうことなのか、想像できるでしょうか。子どもたちからみれば、第二の親が変わるということです。
親たちから見れば、重要なパートナーが意図せずに変えられるということです。職員の異動や子どもの転園とは訳が違います。
「あっちのママの方が効率的に子育てできるから、○○ちゃんはあっちのママの子になりなさい」 と宣告されたようなものです。
こんな理不尽に納得しろというのが、そもそも無理なのです。
突拍子もない極端な主張に聞こえるかもしれません。保育園はあくまで保育園であって、子どもたちとどんなに深い愛情で結ばれていたとしても、親にはなりえません。
でも子どもたちにとって、その親に近い存在であることは、紛れもない事実です。だとすると、理不尽の程度も上記に近いものがあると考えて間違いありません。
社会情勢として、公立保育園の民営化が大きくクローズアップされています。でも子どもや親から見ると、問題の核心は公か民かではありません。
子どもを中心に愛情たっぷりの関係を築き上げてきた大切な相手が変わるという事実そのものが問題なのです。
それは公から民へ変わる場合も、逆に民から公に変わる場合も、民から民の変化 (事業者の変更) でも、その点は全く同じです。
性急だからダメだとか、条件を整備したりゆっくり時間をかければOKだとか、そんな問題ではありません。そもそも無理なのです。
(2) 被告がしてきたこと
その無理を、被告は理不尽を幾重にも上塗りするように、強引かつ強硬に成し遂げようとしました。
年度途中の委託計画決定から乱暴な公募、迷走の事業者選定、その後の混乱については、前回までの弁論で明らかになったとおりです。
もはや繰り返す必要もないでしょう。
僕が一番許せないのは、被告が、本来愛護されるべき光八の子どもたちとその親たちを、無用な混乱の中に陥れたことです。
そして、それと同じくらい許せないことは、こうなることを各方面から再三再四指摘されながら、被告は一切耳を貸さず、そして実際に混乱を招いたことです。
そしてその一連の過程の中で、被告が、子どもたちのことを顧みる姿勢は一片たりとも見せなかったことです。
受託したピジョンも、ある面、被告に翻弄された被害者だと言えるかもしれません。そ
もそも無理のある保育園の委託という事業を、全国的にも類例を見ない無理な形で引き受けざるを得なくなりました。
その困難は、おそらくピジョンの想像をはるかに上回るものだったと思います。
結果としてピジョンは、光八の保育を混乱させ、大量の退職者を出し、子どもたちの心に深い傷を刻みつけました。
見通しの甘さや組織的バックアップなどの面でピジョンの責任は免れるものではありませんが、第一に責められるべきは、被告をおいて他にありません。
住民訴訟の制度趣旨に沿って例えるなら、被告は区民の税金を使って、わざわざ不良品を選んで買ったと評することができるかも知れません。
いやむしろ、そこそこの商品をわざと不良品の地位にまで貶めるような買い方をしたと言った方が正解に近いかも知れません。
光八に在園する125名の子どもたちの健やかな育ちと親たちの安心がかかった契約です。毎年2億数千万円の区民の血税を投入する事業です。
運営主体を変えることの是非は横に置いても、これだけの重要な意味を持つ契約を締結するのに、被告は、直接の利害関係者である子どもや親たちの悲痛な叫びを、
踏みにじってきました。
これは子どもたちの福祉の視点からも、血税の使い方という観点からも、一般的な感覚から言うとどう見ても違法だとしか思えません。
(3) 子どもや親が望むもの、奪われたもの
○○さん (光八を転園した保護者の証人) の証言でも明らかですし、僕も子どもを保育園に預ける身として思うのですが、子どもたちや親たちは、
ただ単に、心安らかに平穏な日々を過ごしたいだけなのです。子どもたちは、大人たちからいっぱい愛情を受け、心を思い切り開放して遊んでいたいのです。
大人たちに思い切り甘えたいだけなのです。自分はこんなに大きくなったよ、こんなことができるようになったよと、胸を張って大好きな大人たちに見てもらいたいのです。
親たちは、そんな子どもたちがかわいいのです。子どもたちの成長を、保育園の先生たちと一緒に喜び合いたいだけなのです。
それなのに被告は、年度途中の委託という無理、本来選ばれるべきでない事業者を周囲の反対を押し切って選んだという無理、
無理に無理を重ねた施策をゴリ押しすることで、光八の子どもたちや親たちから、日々の平穏な生活という本当にささやかな望みを平然と奪い去ったのです。
その惨状を訴える悲痛な声を、被告はあたかも既得権益者のワガママであるかのように決め付け、一顧だにしなかったのです。
この仕打ちは一体何なのか。いくらなんでもひどすぎないか。これら一連の被告の所業が、違法でないはずがありません。
万一こんなことが許されるというなら、被告はもはや独裁者です。
(4) 最後に
この裁判は、全国的・全世代的な関心を集めるようになっています。傍聴席には、新たに指名された園の保護者や、
他の自治体で保育園民営化の嵐に抗する保護者たちもいます。おじいちゃん、おばあちゃんの世代も集まってくれています。
なぜか。みんな子どもがかわいいからです。その子どもたちを苦しめる保育園の民営化が許せないからです。
なかでも被告の仕打ちは、全国的に見てもひどすぎると思っているからです。
次回の判決言い渡しでは、これだけ集まっている傍聴者の前で、被告の行為を厳しく断罪してほしい。違法であると言ってほしい。
僕たちはそのためだけに無謀といわれた訴訟を提起し、今日まで2年間闘ってきました。練馬の子どもたちが、
そして、保育園の民営化に苦しむ日本全国の子どもたちが、司法の英断に最後の望みを託しています。
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