2009.12.8

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

「『終戦』 の主語が隠された」

  ぼくら少年や少女たちは、敵米29爆撃機の猛爆で家も街も根こそぎ焼かれ、これからの自分たちのながい人生、いや、その日その日の食も無い、 ただただ立ちすくむしかない境遇に突き落とした日本のおとなたちは、いったい何をやらかしたのだろう。きっとろくなことはやらなかったのだろう。
  この米欧を主軍とした連合国軍との戦争が 「アジア・太平洋戦争」 と呼ばれることはあとで知るが、 少年らが幼いながら戦争中に耳にしつづけた言葉はそれとはまるで違い、「大東亜戦争」 という言葉だった。 いつも “強い” 神に守られた日本が 「大東亜」(大アジア) を進軍して勝ちつづけてどんどん大きくなりアジアを支配する 「大日本帝国」 なのだと、 町中がみんなそう思いこまされていた。
  だから、「敗国」 したといわれる昭和20年(1945年)8月15日直後は戦争中の軍人に管理された緊張した町とはあまりにちがい、 これまで朝から晩まで縛りつけていたものがもう何も見えない。まずその日の食べるものを探すのでいっぱいだった。
  この日の 「敗国」 がラジオからわけのわからない 「朕(チン)」 「朕」 ということばで伝えられ、ただそれだけのことだった。

  のちに不思議だったのは、それが 「終戦」 という言葉で広がり、たぶんそれを広めた旧国上層の人たちがいたのだろう。 今もなおあの日本の戦争の完全敗北 「無条件降伏」 がこののっぺりした表現の 「終戦」 「終戦」 という言葉で世の中に浸透している。
  「終戦」 ということばは、ただ “「戦争」 が終わった” ということを意味するだけで、 「国民を無惨な形に陥し入れた」 あの者たちが戦後とっさに責任逃れに作為的にいいふらし、工作したものだろう。

  「終戦」 ということばは、戦って無条件降伏した当事者の日本が言いふらすべきことばではない。 その 「言葉」 は、どこの “誰” “を” “誰” が戦争をしたのかという事実と縁のない無機質なことばでヒロシマやナガサキだけでなく、 アジアと日本国内を無惨に破壊した、あのせい惨な痕跡などまったく感じさせない実に巧妙な言い逃れ表現だった。
  「敗国」 した日本の当事者は、心の中では自分たちのやった 「戦争を少しでも正当性を帯させ逃げ切りたい。そこで巧妙に 「この終戦」 を流布させたが、 こんな好都合の言葉はない。少なくとも無条件降伏した全敗側の言う “せりふ” ではけっしてない。

  「終戦」−それは勝敗も 「戦争推進者の責任」 も隠してしまう。その 「皮(言葉)」 をむいても “種” の気配も見えない。 このように 「敗国」 直後の主戦者たちの知恵のしぼり方、流布のさせ方は実に天才的だった。 戦争であれほどひどい目にあった日本の社会そのものが、その “甘言” にのせられて、 戦争責任追及の心と作業の激しい火を国民自らで水をかけて鎮火させ静まらせてしまった。

  何処のどいつのやった “戦争” かは存じませんが、「戦争」 とやらは 「終わりました」 と。誰(連合国軍)かに 「終わらせられた」 のでもなく、 自分(日本軍部)の力で 「終えた」 のでもなく、試合の第三者的立場で適当な審判員が、試合を見ていて観客におごそかに告げる。 「これにて試合(戦争)は “終了” しました」 …と。あの戦争は 「終わりました」 と、戦争に手も染めていない風に、 その観客者風にとぼけてみせるのが敗者の方であって良いはずはない。 たしかに 「あの太平洋戦争」 なるものは、外からも内からもいろいろな意味からも 「終わった」 ことは客観的事実だ。 しかし、あの許されざる戦争とその中身の戦闘や占領下の残虐行為はまず 「敗国」 の側から問われ分析されていかなければならない。 それを戦争推進者は 「被告席」 に立たないで済むように 「終戦」 という。

  この 「言葉」 は、マスコミが、単に現実認識として作語したものではなく、 その発意者、研究者は 「敗国」 直前に “鳩首談合” してこの 「語」 をひねり出した。とみる。 戦争執行者の、無条件降伏直前の、戦後の社会慰撫や責任軽減を賭けた用意周到な巧妙な作為宣伝手法だった。 口当たりが良く、戦争(敗国者)の主体を思わせないその口当たりの良い言葉に、日々の忙しさに追われ、 国政になど気もすわらない 「敗国」 直後の “気のいい” 日本の社会はまんまとのせられた。 とりあえず日本の対連合国軍への 「無条件降伏」 や時代の境目を一言で言い表す手軽な 「言葉」 を旧主戦者たちは積極的に流布した。

  「敗戦」 という言葉も一時使われたが、旧戦争遂行者たちがその語を極度に忌避したことも背景にあり、その語は次第に消えていった。 「敗戦」 とは戦いに負けることだから、全軍の敗北や国そのものの敗北を示す言葉としては物足りない。 それには極地的な戦闘の勝敗を示す意味もあり、持つ全体意がだいぶ曖昧だった。 少なくとも日本と言う国が、戦争の末に 「無条件降伏をした」 ことの意味にまで深めて使うには不足する語だった。
  日本は 「アジア・太平洋戦争」 で連合国側に無条件降伏し、「敗国」 したことは、時が経っても言葉としても明確に示され続けなければならない。 それを言うのなら、仲良く握手して和解したかのように思わせるトリック的な 「終戦」 の語ではなく、 ズバリ 「無条件降伏後」 または 「敗国後」 と記述していかなければいけない。

  昭和20年(1945年)8月15日の昼間、埼玉県熊谷駅ホーム停車の列車の中で聴き耳を立てた、あの 「朕(チン)は」 「朕は」 と、 日本の連合国への無条件降伏を説明する奇妙な抑揚のラジオ放送の天皇の言葉を小耳にした時からが9歳のわが少年の 「戦後」 になった。
  他の子供たち、勿論大人達は、ある日、どこでなにをしていたのだろうか…。 何よりその大人達は催眠術をかけられた自分のことさえ気づかず死に突入し、その他悲惨に突き落とされた。 眼、耳、口を閉ざされた日本の貧困大衆の歴史は、歴史のはるか以前から構築されており、為政権力者が搾取のため背中から羽交い締めにした、 大衆操作した連綿とした歴史そのものの継続であったと思う。