2011.2.21

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

−ポツダム宣言受諾までの右往左往ドキュメント−

  日本の1945年8月15日正午の天皇のラジオ放送の実現は、関係者が夜を徹して周到細心に準備を重ねたことによるものだった。 天皇がラジオで語った詔勅原稿の文字数は、最後の天皇の意の 「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」 を入れて計815文字、 8月15日の 815 にわざわざ合わせて成文した芸の細かさとは思わないが、これが日本の無条件降伏についての日本国民への告示原本だから、 歴史的に最重要文である。

  天皇がラジオに向けて語った分数は、4分37秒だったが、聴く国民の側にとっては、中味が何を言っているのかむずかしい漢語の羅列と、 天皇独特のへんなイントネーションのしゃべり方なのだし、何としても文が長すぎた。

  放送開始前にまず正午の時報がラジオから流れ、NHKの放送員(アナウンサー)和田信賢がうやうやしくこれからの天皇のことばの予告をした。 「全国聴取者の皆様御起立を願います」 と和田が言ったあと、 下村宏内閣情報局総裁が 「畏くも御自ら大詔(みことのり)を宣(の)らせ給う」 と前置きしていよいよ放送に入った。 それから厳かに 「君が代」 が流され、やっといよいよ天皇のことばとなったのだから、待つ方はとにかく身は堅くし、蝉はうるさく鳴く、陽は照りつけるで、 ただでさえろくな物も食えずの被爆の日々、やせ細った身でラジオ受信機の前での緊張姿勢なのだから、「早くしてほしい」 は人情だった。 それからの 「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み」 なのだから、この4分37秒を短いとは思えない。 それも軍と国で煽ってきた 「本土決戦」 ではなく、 いろいろ理由を並べて言ったのちの 「是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり」 なのだから、その意味することが実にわかりにくい。

  この天皇の4分37秒の実声の放送が終わるや、「君が代」 が演奏され(これはNHKスタジオ内での実際演奏)、 演奏が終わるや前振りしたおなじ放送員和田信賢アナウンサーが 「謹しみて天皇陛下の玉音放送を終わります」 と締めた。 ここまでだけでも聴く国民の側は身体を固くし続けて緊張で疲れたが、敗戦告示のラジオ放送はこれで終わったわけではない。

  まず、その放送内容が漢語だらけで聴く者が漢語などわからない国民であることを考えて少しはわかりやすい文で、などまるで念頭にない。 勝手な一方的に言いたいことを高みからいうだけの演説なのだから、当然国民にはチンプンカンプンで放送する意味さえ失われる。 天皇放送のあと、もっと噛み砕いた解説をして一国民にしっかり理解させようという宮内庁や軍、NHKが知恵をしぼり放送のあと改めて更に、 和田アナウンサーにただ今の 「天皇の詔勅」 について言葉を足して、それでも少しだけくだけた解説をさせた。

  和田アナウンサーはまず 「かしこくも、天皇陛下におかせられましては」 と、前口上を述べ、 お言葉のあとをなぞることで天皇の言う趣旨と更にはその尊厳をわずかでも傷つけることの無いように慎重には慎重を極めて解説を行った。

  「(天皇陛下には米英支ソ4国に対し、ポツダム宣言を受諾する旨)詔書を渙発あらせられ、 (日本)帝国が4カ国の共同宣言を受諾するのやむなきに至ったゆえんを御宣示あらせられ・・・・(国民)一億(みな)ひとしく感泣いたしました。 われわれ臣民はただただ詔書の御旨を必謹、誓って 『国体の護持』 (『』 筆者記)と民族の名誉保持のため、滅私奉公を誓い奉る次第でございます」 と。 軍と国による放送局のNHKが、和田アナの言葉からして国民に代わって天皇のお言葉に 「滅私奉公を誓い奉」 まつってしまっている。 この放送の一事をみても、天皇のもとの日本帝国主義なるものの空恐ろしさがむき出しになっていてよく分かる。

  この時のNHKの受信契約者は572万人余で、まだまだラジオ聴取の普及度は全国民の40%足らずだった。 この和田アナウンサーによる天皇放送に関する解説内容のひとことひとことについても、 軍、宮内庁、NHKトップなど関係者によって実に慎重かつ徹底的につくり上げられたものだった。

  この8月15日の天皇放送までの経由に少し触れる。放送6日前の8月9日、 夜を徹して皇居内で開かれた御前会議で 「ポツダム4カ国宣言」 について諮(はか)られ、最終的に同宣言の受諾が決定され、 その由連合国側に通告された14日まで6日間もかかっている。意見は分かれ、右へ左へ揺れはいつまでもつづき、 その国指導層としての優柔不断ぶりには度し難いものがあった。我の張り合いで、いたずらに時間を空費するだけだった。

  天皇を前にした 「御前会議」 で日本の無条件降伏を求める 「ポツダム4カ国宣言」 を受諾するかどうかで日本の首脳たちの心は逡巡を続け、 収拾がついにつかない。最後はなすすべを失い、天皇に決断をまかせるというとんでもない逃げの一手となった。 日本戦争指導首脳の主体性のなさ、決断力のなさ、見識のなさ、まとまりのなさ。 こういう連中に国の権力を自由にされたからこそ、太平洋戦争は行われたわけだが。

  ついに最後は責任のがれで一同は決断に手を染めず、天皇まかせという逃げ腰のていたらくになった。 天皇はそういう体制と共に承知で歩んできたのだから、身から出たサビ、致し方ない。 身勝手な首脳一同に急に決断を託された天皇の方も荷が重いが見回せば自分しかいない。彼らと一緒にやってきた以上、致し方ない。 やむなく 「最高戦争指導会議」 と 「閣議」 両方を一緒にした 「連絡会議」 なるものを開き、 バラバラに勝手に強弁する各界首脳をいっそ一堂に集め膝づめ談判とし、分かってはいたことだったが、その上での天皇決断へと引きずっていった。

  この 「連絡会議」 を開いたのが、実に天皇ラジオ放送8月15日の前日、8月14日の午前10時50分という追いつめられ方だった。

  連合国側は 「ポツダム宣言」 告示後、あまりの日本首脳側の反応のなさに(日本側はもたもたもたもた会議をやっていた)腹を立てたのか業をにやしたのか、 この8月14日、15日にかけて米空軍は日本本土へ最大級の猛爆撃を決断を迫るように行った。 この大爆撃により、民間家屋と人がこれも最大級に殺傷、破焼壊された。

  天皇が降伏の 「ポツダム宣言」 受諾を最終決定し、やっと受諾(降伏)の詔書に署名、 各国務大臣が副署を終えたのがその8月14日の深夜にいたる午後11時なのである。 直ちに外務省は、受諾決定の由、中立国のスイスとスウェーデンの駐在日本公使に向けて同公電を打った。 それを日本公使が文書化してスイス外務省に手交したのが、スイス時間で同8月14日午後8時5分。 日本からのその公文書がめぐりめぐって米ホワイトハウスのトルーマン大統領側の手に渡ったのが、米東部時間で8月14日の午後4時5分。 日本は時差に救われたような経由である。

  トルーマン大統領と協議して時のバーンズ国務長官が 「ポツダム宣言」 の他の共同国英・ソ・中(支那)政府首脳にその由電話を入れ、 連合国4カ国が同8月14日の午後7時に同時に世界に向け 「日本がポツダム宣言を受諾、無条件降伏したこと」 を発表することを決めた。 その午後7時は日本の時間で8月15日午前8時。すでに天皇のラジオ放送の予告は、NHKからその一時間前の午前7時に放送されてしまっている。 危ないつなわたりを日本はしていた。4カ国は8月14日午後7時にそれを発表した。

  アメリカではトルーマン大統領がラジオのマイクとニュースカメラに向かって、日本政府の 「ポツダム宣言」 受諾の公式文を読み上げ、簡略にコメントした。 世界中がこの瞬間ほっと安堵したことはもちろんだが、今ここに強調すべきは、 トルーマン大統領が日本政府の回答を 「無条件降伏を明記しているポツダム宣言の日本による全面受諾、とみなす」 と、はっきり条件つきではなく、 「無条件降伏」 であることを日本政府へくぎを刺していることである。「回答の中に条件はない」 と。

  つまり、のちのちまで日本政府が 「日本の全権力者は天皇」 という 「国体護持」 について、 あたかも事前に連合国側に承認されたかのごとく日本国民に向けて誇張して伝え、 天皇の8月15日のラジオ放送に於いても 「朕は茲に国体を護持し得て」 などと言い放ち、国民を欺瞞しようと全力を挙げていたことだ。 今なおわれわれは、そのことに留意し続けなければならない。 日本占領後、連合国最高司令官マッカーサーが戦後日本に象徴の形で天皇制を許容したのであって、日本政府の連合国への降伏は、 戦争指導層がごまかしていう、戦中からのつづきの 「国体護持」 などもってのほかで、 日本国の連合国側への降伏は 「無条件」 であったことを今なおここに強記しておきたい。 もっとも降伏後すばやい天皇のマッカーサー訪問と、恭順の意の表し方が、マッカーサーの天皇への好感を得るに大いに役立ったとしても、だ。

  天皇及び日本首脳による 「ポツダム宣言」 受諾がやっと決せられた8月14日の午後11時を期し、 翌15日の天皇のラジオ放送のための用意されていた詔書の最後のチェックがその25分後から宮内省内で突貫作業で進められた。 その原文案作りは降伏の方向が定まりつつある頃からすでに進められており、軍、天皇側のその文言修正もあっただろう。 文としてそこまでへり下れない。しかし、その一線は譲れないとか、ポツダム宣言受諾など中止だ、 外交上それははっきり言わねば・・・などなど激したやりとりもあった筈である。基本の文は天皇に渡された。

  ついに8月14日深夜、同庁内に慎重に待機したNHK録音技術班のもとで、 各界の合意を得た天皇放送文をまず侍従が天皇に代わって読んでみて録音盤に仮収録された。そこでも更に文言の微修正が行われたかも知れない。 朝日新聞社副社長からNHK会長を歴任した下村宏内閣情報局総裁も厳しい眼でその場に立ち会っている。 すべて是(よ)しの合図で天皇がその場へ誘われ、マイクロフォンの前に立った。声だけなのだが、天皇は陸軍大元帥の第一軍装でその場へのぞんだ。 二度録音し、二枚の録音盤が出来上がった。これを知った陸軍の一部の将兵がポツダム宣言受諾を阻止しようと、 この録音盤のありかを求めて皇居内及び内幸町のNHK放送会館を襲ったが、失敗に終わっている。 8月15日早朝、館野守男放送員によって当日正午からの重大放送の予告があった。 そんなことなど知る由もない、 4月10日夜間の京浜工業地帯爆撃で東京・大森の自宅を焼失した9歳の少年石井一家は、汽車で移動中の埼玉県熊谷駅ホームのスピーカーから、 正午からのこの天皇のラジオ放送を大人たちに混じって聴くことになった。