2012.1.3

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

「貧者の歴史邦画 「一命」 が示したもの」
−日本はどんな国に…

  海老蔵主演の時代劇邦画 「一命」 が公開された。 江戸時代の貧困浪人一家の食うや食わずの悲惨な暮らしと、形容しがたい貧しさに追い詰められた心の窮極が描かれていた。 今の日本の底流の人々のそれに思いをいたされ、胸が詰まった。日本の世相を、一時 “中流” とほめそやし政も経もあげて身の程知らぬ浮ついた消費。 地に足のつかぬ上げ底のなりふりの “見栄” “虚勢” を煽り立てた人たちも上っ調子に広告宣伝の手くだにのせられた。 その仕掛けは今なお続いている。広告宣伝、消費の強力な煽り手のひとつは、1%で100万人視聴者の民間放送局である。
  自らの判断力で借金まみれの貧相の蟻地獄へのめり込むのだから、はたがとやかくいうことではない。

  しかし、若者、特に十代、ヒトケタ代の貧困の相貌には目を掩うものがある。 ポケットの一円、十円を指でいつもかぞえ、何も思うものが買えない日々を噛みしめている。 親の財布も心も穴の開いたザルなのだから、子まで行くはずもない。 親には社会のメディアを駆使した際限ない消費の煽りに対する抑制力を成人するまでの教養で身につけていないので、 われとわが欲望の昂まりをいかんともしがたい。

  ふと、故石川弘義氏の名著 「欲望の社会学」 を思い出す。
  その親の抑制力のない欲望心を野放しにしたのは、 不動産、建築を大きな要素にした “高度成長経済” にのせられたそのまた親なのだからいかんともいた仕方ない。
  日本の対連合国への無条件降伏後、いやその以前の太平洋戦争下の極貧生活を耐えた日本の人たちは、 痴呆したかのようにわれを忘れんばかりの小銭の虚栄と借金の先送り術で “中流生活” の到来に小躍りした。 その舞台を廻していた仕掛人のひとつは金融業だった。その尖兵となったのが街の庶民相手の金融業者たちだった。 金が不足すれば割とすぐに借りられ、煽られた自らの欲望をさほど抑制せずにそこそこに上げ底の “充足生活” を続けることができた。

  庶民相手を始めた銀行は、それをリテール(小口金融)とか名称し、街の金融のあこぎ派はやるだけやって逃げ切り、 生き残りで逃げ切れない街の業者を、銀行系列に組み込み、街の業者は大看板のもとで大手を振って “正規” を名乗って商売を続けた。
  これらの芋洗い風の戦後の社会の様相に、家族まるごと欲望のもみ洗いに会い続けた “中流” とほめそやされた底流の人たちだった。 そして日本の社会には、今もこの “底流” の人たちこそほんまもんの大多数の庶民なのだった。
  親自身や子どもたちの欲望を多少充たしていると思いこんでいる親たちも、 自動車や自分の家やゴルフや何やかやのローンの先送りのただなかに埋没している。
  十代、二十代、いや中年にとってさえ、漫画喫茶風の小銭レンタルルーム業は精一杯に躰や心を置ける場所になった。
  これらを救いようのない世相という。

  さて時代劇邦画 「一命」 の困窮生活は、今の時代の貧窮庶民とは比べられないので何ともいいがたいが、 たぶん今の人たちのようなごまかしの “先送りのシステム” や、欲望だましめいた世の中のシステムや空気が無かっただけで、 その悲惨さは極まっていたと思う。
  戦闘の多くあった武士時代も、それの無くなった江戸時代も、日本では困窮者が貧農の中心だった。 農民一揆は行き詰まった生活の一時的な息抜きでしかなく、武士制度の変革には殆どつながらなかった。
  江戸も末期になると、その底辺の武士たちも雇い主の主家を放り出され、浪々の身で町の隅で一家を食わせていかなければならなかった。 彼らの逃げ場は自らの死しかなく、一日一日がそこまで追い詰められている。 封建社会は、そこまで富める者だけを武力で護り尽くすがっちりとした社会制度を仕組みあげた。
  日本の貧農たちの間には、下辺労働者としての連帯の発想は策もなかったら育ちようもなかった。外来の文化や技術、自由の風に触れるまでは。

  映画 「一命」 のシーンを思い出す。下辺武士たちは食うに困り、武士社会で命より大事と言い続けられた剣の刀身だけを売り、あるいは質入れし、 食をつないだ。
  江戸市中のそれなりの武家の大玄関を訪れ、「訳あってこの場を借りて切腹して果てたい」 と言い掛かりめいたことをいい、 体面上関わりたくない名門武家屋敷は、なりふりひどい見るからに浪々の浪人に小銭を与え、追い払う。 これが人伝に伝わり、妻の病に三両の薬が必要と知り、思いあまって主人公の浪人は、門構えの立派な武家屋敷の門を入り、その口上を述べる。 意地の悪い当主は、家臣に 「希望どおりその場で腹を切らせてやれ」 と、親切ごかしの命取りへ踏み切る。
  問題は浪人の腰の物、即ち剣の中味である。この手の浪人たちはみな食うに困り、剣の刀身を売り払うか質入れし、 形だけ刀身の形をした竹製のそれ(竹光)に代えている。それを百も承知で、その浪人が訪ねた武家の主は、その場で腹を切ってよい、と許可する。 竹の刀で切れるものなら見ている前で腹かっさばいてみよ、と底意地の悪い屈恥を与える。
  人間、貧しくても心の支えは金や物ではなく誇りである。股の間を犬のようにくぐってみせよ、と高飛車に言われて、 敢えてくぐってみせたという賢者の話も違っている。
  しかし、希望通り腰の刀で腹を切ってみよ、と言われて、竹の刀で腹の皮も切れない。病の妻のための三両のための屈辱だった。
  抜き差しならなくなった浪人は、その竹の刀で切腹に挑むが血みどろにはなれず少しも切れない。 ついに竹の刀も途中で折れ、腹に突き刺さったまま。涙ながらに突き立て突き立てするが、見守る家臣たちの冷笑、早く切れ、と愚弄されるばかり。 たまりかねて武家の主が一刀のもとに首をはねて終わりにしてやる。
  劇には後日談があり、それを知った義父が同様に乗り込み、家臣群をなで切りの後、同様の竹の刀で腹切って果ててみせる。

  浪人のあばら屋は雨露をしのぐのもやっと。妻は病で薄布団の上。浪人は毎日傘張りの手内職で二人の口を糊していた。 その暮らしの悲惨さは、中国大陸の流浪民もかくやと思えるもの。貧農も傘張り浪人も、最後は人間最後の生きる誇りなのだったが。 富者を優する社会のシステムは、それをさえ踏みにじる。   日本の大多数だった下辺の者たちの長い長い歴史は、この困窮生活と貧者の歴史だった。それが今も続いているようにみえる。外側だけ、外目だけは笑い声に包まれているような装いだが、日本の下辺者たちを襲いつづけた困窮の根はひどく深いように思えてならない。