2012.4.5

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

「日本は〜」(語り始めた少年)
「少年はなぜ “個” からの出発だったか」
−“沈黙世代” の哲学を探る試みとして−

  太平洋戦争中の天皇夫妻の専用列車車輌、いわゆる皇室用お召し御料車の運行は厳かなものだった。 一般車が線路上をすれ違うことまで止められなかったので、一般車輌のお召し列車がすれ違う側の窓を予想し、 木製のブラインドをあらかじめ下ろし直接見ることができないようにした。停車駅構内の二階から見下ろすことも禁じ警備した。 他の列車が併走して追い抜くことも禁じられた。
  同車輌は専用の牽引用機関車が製造され、運転する運転手は運行時刻、停車位置を誤またぬため命がけだった。
  乗降駅ではあらかじめ予定の扉の前に絨毯が敷かれ、位置がズレると畏れ多いことになる。運行時刻が遅れ責任をとって自決した運転手もいたという。
  戦後少年のころ、国鉄原宿駅の端、明治神宮側にいつも人のいないホームのあるのを窓から見て奇妙に思い続けた。 そこが天皇だけが使う天皇列車のホームだと教えられた。原宿駅宮廷ホームだった。
  車輌には菊の紋が付けられ、第一車輌正面は日の丸の旗がたすき掛けされた。今も通過予定場所を一般人が日の丸の旗を振って送迎する。 その厳さぶり、送迎光景は宮内庁、官が演出している。過剰化しているかは判断による。

  太平洋戦争中。
  いつも七才、八才の少年の故郷、東京・大森の町の道路風景には牛と馬が出てくる。大森区大森三丁目の町は、東京湾の大森海岸、 のちに 「平和島」 と呼ばれる海水浴場近くの遠浅海岸から少し離れたところにあるやや下町風の庶民の町なのだった。
  太平洋戦争はたけなわ、小学校へ入るか入らないかの歳だった。
  なぜ牛と馬か。背が低かったから、うっかり牛の糞を踏むと背が低くなる、わざわざ馬の糞を踏めば背が高くなる、と誰からともなく聞かされていたので、 家の横の道を牛や馬が通り、糞をしながら通っていくのを見ると、馬だとわざわざそこまでとんでいき、まだぬくもっていそうなこんもりした糞にこわごわ、 しかし願いをこめて足を出して少し踏んだ。
  通ってから時間が経っていると、馬の糞はどんどん乾き、車の輪などで平たくなったり変形していたりするが、 それでも背が高くなりたいの気持ちからそっと近づき足をのせ、縁起をかついだ。馬のは乾くと食べた草が黄色くパラパラと繊維風になっていた。 牛のは表面がワラジの裏側のように横に幾重もの溝が走り、馬の明るい黄色よりよっぽどくすんで土色に近かった。 馬は薄っぺらのアスファルト道を、キリッとした軍服の兵にまたがられて、ポカポカと歩いていき、なぜか目の前で糞をした。
  尻尾をぐいと上げ、ポトンポトンと自分の歩幅に合わせて落としていく。馬上の水兵が左腰に短剣などを下げ、背を張って前を向いて颯爽としていた。 馬上は高いので、少年には少し眩しい存在にみえる。はーっと少年はため息をしたように思う。少年にとっての太平洋戦争の思い出だった。
  牛はうしろに細長い牛車を引いて、ゆっくりガラリガラリと通っていった。これも少年の見ている前で糞をしていく。
  それが戦争の思い出だった。

  昭和19年(1944年)から20年にかけて在籍していた東京大森区の大森第三国民小学校では、「学童疎開」 を準備していた。 米29爆撃機隊による昼夜を分かたぬ東京空爆撃襲が日常のものと化し、学童は危険の最中に置かれていた。東京市内の全国民小学校がそうだった。
  学校は学童家庭に全学揃ってのそれでもやや安全と思われる遠隔農山地への疎開の可否を問うた。殆どの家庭が諾と応え、 市と遠い農山地に親戚知り合い等のいる家庭は、各々学校とは別に独自に児童のみ又は家族共々 「縁故疎開」 をすると応えた。
  九歳、小学一年の少年の父は、子どもを自分の手元から手放したくないという思いと、 少年が折々就寝中に寝小便をすることから学校側に迷惑をかけるのでは、と心配した。
  そこで、寝小便少年を手元に置く決心をし、つまり敵機空襲で家族共々死傷するかも知れないことを覚悟したことになる。 家族をやや安全な遠い農山地へ独自に逃がすなどの余力などない。父は、歩いて十分余のところにある軍需工場の 「中央工業」 で働き、 その給料が一家の糧なのだ。十五歳の長兄は、父の工場に働きに出ている。
  小年の小学校へ父が学童疎開不参加の届けを出したその届けの理由は「夜尿症」だった。他の学童にもそういう子はいただろう。
  父は少年に持たせた不参加理由書を見せ、そこにある 「夜尿症」 を寝小便だと教えた。
  夜間のたまのふとんの中でのお漏らしはなかなか治らない。数少ない敷き布団のびしょ濡れは、両親にとっては乾かすだけでもたまったものではない。 たまには布団の布皮をほごし、中の綿を替えなければならない。とても遠い農山地へ学童集団で疎開させ、共同生活させられる状態ではなかった。
  しかし、少年にとってはその言葉 「夜尿症」 が新鮮に思え、 自分の勲章ででもあるように他の児童に不参加の理由を胸を張って 「夜尿症」 だからと言って回った。
  「夜尿症」・・・、初めて知るいい専門用語なのだった。
  この 「集団疎開」 へ不参加だったことで、八歳の大事な少年期の共通体験を持つ友人たちを失うことになった。 後に互いに語る思い出がこの部分空白になった。
  他の学童たちの思い出や記憶、体験記などから知ることになるのだが、「学童疎開」 は粗食や、のみ、しらみ、夜間の寂しい夜泣きなどの辛さとは別に、 お寺の講堂での寝起き、共同生活、学習、そして “兎追いし” あの山川の懐かしい思い出も皆で共有できた。
  少年は贅沢な希いかも知れないが、それを持つ機会を失った。これも、太平洋戦争中の少年期の一つの現実だった。

  「学童疎開」 へ参加しなかった結果、東京の下町大森に居残り、1945年4月10日、夜間のB29群の猛爆撃に遭い、 家のすべてを焼失し失っただけでなく、思いがけない 「ゼロ地点」 からの人生ともいえる自我人生を構築していかなくなる。 1945年日本敗戦年の、少年少女たちの受け取ったそれぞれの人生の出発点なのだった。
  これらから自然、少年は日本と日本人一般について、いつも何かそぐわないものを感じつづけ、時に嫌う気持ちさえつきまとい、 いつか “反日本及び日本人” といった気分がいつも心の底によどむようになった。 それは、少年ながら自我の出発点が足もとから洗いざらい奪われ失った1945年4月10日の故郷大森町のB29爆撃による全焼失、全破壊だったことによる。
  少年にとって日本の “土と人の伝統” といったつながりは、そのときすべて一気に断ち切られ、少年自我に必要な文化、教養、 先達もその日から何の取り柄もない一人の少年は自らの手でまさぐっていかなければならなかった。 そのまずの手掛かりも瓦礫と見知らぬ異土地と行きずりの人から模索しなければならなかった。 その手法も知恵も方向も何もない、呆然として立ちすくんだ心が見るものは、足の下の土と無縁感の濃い周辺の風景だった。
  頑張れと励ます声も知らない。
  手を伸ばす先、それは空腹をわずか満たすための何でもいい口に入るものだった。B29で突然すべては焼失した親には、子に与えるその力はない。 少年は野に置き去りされた野生動物の子と同様、あてどなく彷徨いつつ、口にするものの臭いを求めた。そこには日本も日本人もない。 今と自分だけ。つまり、まさに “個” を出発点に与えられた突然の人生のスタートだった。
  ギリシャ・アテネのアゴラ(広場)で人間と自由と名誉、権威を語る哲人たちをのちのちきわめて身近に感じたのもそれが故だった。 個の出発−。“コギト・エル・ゴスム”、デカルトの 「我思う故に我有り」 が自分のことだと身近に思えたのもそれが故だ。 デカルトやアテネを自然に自分と感じた少年。その哲理は、拾ってでも食うものを探し当てなければならない少年のごく親近な声だった。
  少年には日本も日本人もなく、次第に敗国日本へ進駐してきた米軍によって与えられた民主主義や自由や人権や文化が、 乾ききった砂へ滋水が注がれるように無理なく染みこんでいった。少年がたどたどしく身近にした社会、人、文化がそれだった。
  旧態日本へ入ってきた民主主義や自由、人権の理念は、空気や水のように感じられ、どこにも違和感はなかった。 後にアメリカが与えたものとか、日本本来のものではない言々といった言砕に触れるが、そんな違和感はなく、それらはピンとこなかった。 その実感は、人生終期の今も変わらぬ一貫した感性だ。
  つまり、少年はあの時、好まずしてコスモポリタン・国際人の一人として歩みを始めざるを得なかったのだった。 ナショナルな、日本が、日本人が、といった既存感とは無縁だった。
  そして今、その体験を実に人間として稀な幸運と喜んでいる。

  あの時以来、成人し、今日に至るまで、ジャーナリスト自由市民、尊厳を真に尊ぶ人間として、国際視点を帯びた表現者として歩んでいる。 日本及び世界を視るその視力は遜色ないものといつも実感している。なぜなら、そのような少年としての生を突然与えられたことにより、 親も手中にできない力強い人間感覚を手中にできたからだ。
  日本で、1945年春にB29の爆撃によりすべてを失った似たような世代の人たちは、不思議とその人生で無言、寡黙が特徴だったような気がする。 それは、この少年と同様、語り上手ではなく、語るべき自分の空疎さを知っており、しかし、自らの幸福感を実感し、どこか充ちているからだろう。

  “世代” という視点をここに導入したが、その “個” としての成り立ちと存在感をとりとめない感性の生起のエピソードを取り混ぜた形で(又、 そのような語り口しか手中にできていない故に)、カイコが自信なげに自らの糸を紡ぐようにここに記している。 似たような世代の人たちとその感性に日本のいろいろなところで生まれ、1945年春を九歳として、今七十代半ば、この人たちも人生の晩節を迎えつつある。 不器用たらざるを得ない言葉少なの人生の人たちとして。