2008.3.24

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

日本は新しい鎖国時代に入るのか
ネグリの「入国拒否」 に関心ないメディア

  朝日・3月20日朝刊の第3社会面に 「ネグリ氏来日延期」 の見出しをみて驚いたが、記事を読んで、ネグリの側の都合による 「延期」 などではなく、 事実上、日本政府による 「拒否」 であることがわかり、腹が立った。そのやり方は巧妙かつ悪質だ。

  イタリアの哲学者、アントニオ・ネグリが3月に訪日、京大・東大・芸大で講演するほか、日本の研究者や、市民・労働運動の活動家たちとも討論、 交流するという話は、昨年末ぐらいから各方面で、広く知られていた。
  戦後間もないころから、政府の国際交流事業にも協力してきた、財団法人国際文化会館の招待で実現が図られた計画なので、 緊密な関係にある外務省・文化庁など政府機関も、早い段階で彼の訪日の話は知っていたはずだ。 ビザが必要だということなら、もっと早く、間に合うように彼に所要の手続きを取るよう、国際文化会館に促すこともできたはずだ。
  しかし、朝日の報道によれば、同会館が外務省から、7月の洞爺湖サミットがあるため入国管理が厳しくなっており、ネグリにビザ申請をさせたほうがいい、 とする説明を受けたのは、ようやく3月17日だった。ネグリは在住するパリの日本大使館に18日、ビザ申請をしたが、 発給待ちの扱いを被ったうえに、入国を拒否される可能性を示唆され、19日、出発を断念、来日を延期したというのが実情だ。 日本到着が20日、国際文化会館のレセプションが21日。これでは断念せざるを得ない。
  日本と、ネグリの母国・イタリアおよび居住国・フランスとは、商用、会議、観光、親族・知人訪問等を目的とする、 3か月以内の短期滞在旅行者にはビザを免除する相互協定を結んでいる。ビザの必要など思ってもみなかったネグリも、日本側の関係者も、不意打ちを食らったわけだ。

  ネグリはなぜ日本政府から嫌われたか。それは、ネオリベ・グローバリズムに反対する市民たちへの、彼の大きな影響力に対する嫌悪であろう。
  彼は2000年、アメリカ人の文学研究者、マイケル・ハートとの、大部の共著書、『帝国』 を刊行 (ハーバード大学出版会)、世界中に大きな衝撃を与えた。 第1次湾岸戦争・コソボ紛争を経、やがて 「9・11」 にいたる世界史的な変動のなかで、「帝国」 はもはや、覇権主義的な一国の支配力や、 その地理的な支配空間の広がりによって捉えられるものではなくなり、国家の支配を脱し、国境を超えたグローバリズムが 「帝国」 を体現することになった、 とする歴史観と政治的展望を示したことが、世界中の研究者や市民の幅広い支持を受けたからだ。
  その支持は、「帝国」 に対してより、これに対抗できる勢力として提示された 「マルチチュード」 という考え方のほうに、より大きく向けられることになった、 といえるかもしれない。すでに1999年、シアトルのWTO (世界貿易機関) 総会に対する市民の “蜂起” が起こっており、 その勢いは2001年、ブラジル・ポルトアレグレの第1回世界社会フォーラム、2003年のイラク戦争開戦反対へと連なっていく。
  世界中の市民の合流が始まりだしていたのだ。世界いたるところの、多様なかたちで公正な社会参加を求める市民勢力、とでもいうべき 「マルチチュード」 は、 すでにかたちをなしつつあった。日本でも 『帝国』 は、イラク戦争開始の2003年に翻訳が刊行され、注目を集めた。

  好かないネグリが日本にくるからといって、なぜこの時期こさせないよう、政府は企んだのか。 やはり7月の洞爺湖サミットを安穏のうちに終えたい─―マスコミのうえで日本政府のホストぶりがかっこうよく報じられ、絵になる場面も華やかに映され、 めでたしめでたしで終わりたい、ということなのだろう。邪魔者を排除するかっこうの口実もある。
  ネグリは1979年、イタリアの反政府組織 「赤い旅団」 によるモロ首相殺害事件への関与を疑われ、逮捕されたが、裁判ではこの件は無罪となった。 だが、過激な政治運動に影響を及ぼした言論活動の責任が問われ、有罪となった。 裁判中、イタリア議会に立候補し、獄中にいながら当選、議員の不逮捕特権で出獄中の1983年、フランスに亡命した。 その後、97年に自発的に帰国、国家転覆罪で禁固刑を受け、2003年まで刑に服した。
  日本の入管法は、国内外を問わず法律違反で1年以上の懲役・禁固の刑を受けた外国人の入国を禁じている。 ただし、政治犯はこの限りにあらずで、法務大臣の特別許可が受けられる。その場合はビザを申請させ、時間をかけていろいろ審査する。 政府は、ぎりぎりのタイミングでこの手を使ったのだ。こっちが拒否したのではない。相手が延期したのだ、ということにできる。 しかもこの顛末を新聞が報じれば、重要なサミットを迎え、テロリスト対策をしっかりやっているという印象を振りまくこともできる。

  世界に対してこれほど恥さらしなことはない。『帝国』 のネグリはこの数年、世界のさまざまな国、とくに影響力のある国をいくつも訪れ、 研究者、ジャーナリスト、労働者・市民と、自由闊達な交流を深めてきている。彼のこうした往来や行動を妨げるなどした国は、どこもない。 それを日本政府も知らないはずはない。初めのうち、日本政府の無知なるが故の妨害かと思ったが、高名な彼をこのような目に遭わせることの効果、 利益を考え、ネグリ入国拒否を仕組んだのが日本政府の真意ではないかと、私はだんだん考えるようになった。
  怪しいものはだれも入れない─―高名な学者、ネグリさえ入れなかったのだから、騒ぎを起こすだけの名の知れないチンピラ市民活動家など、絶対に入れない、 とする首尾一貫した姿勢を示すことに、説得力が生じるからだ。
  現に3月6日、成田では入国審査官が、洞爺湖サミットに批判的なアジア女性委員会の代表で、 サミット前の国際会議に出席するため来日した韓国女性の入国を、拒否している。 また、本欄前号で既報のとおり、3月10日、小樽港に入港のロシアの貨物船で着いたドイツの農学博士、マルティン・クライメルさんが入国を拒否され、 14日、ロシアに送り返された。日独間には滞在90日間の旅行者のビザ免除協定がある。 所持金の少なさが入国拒否の理由の一つになっているが、彼は国際的に有効なクレジット・カードを所有していた。 彼を反グローバリズムの会合に招いた、身元のしっかりしている日本の受け入れ団体があり、知人もいる。 なぜ彼の入国を阻まれなければいけないかの理由は、彼だからではない。 彼の思想が好ましくないからなのだ (この項は、「G8サミットを問う連絡会」 ホームページを参照)。

  ネグリ入国 「拒否」 は、私たちの身の上に直接は関係ないことのようにみえるが、けっしてそうではない。 彼の入国が阻まれ、自由な議論と市民的連帯を求めてさまざまな人が日本に来ようとしても、政府の恣意によってそれらが好き勝手に妨害されるようになったら、 この国のなかで私たち自身が牢獄に隔離され、世界から遮断されることになる。
  反共・国内治安法=マッカラン・スミス法を楯にした、米国政府の一方的な判断で、戦後しばらく、日本人がアメリカへの自由な入国を拒否されていたことを思い出す。 今度は日本が、そういうかつてのアメリカみたいな国になったほうが、統治しやすいというのが、政府の本音なのではないか。
  これほど国民が舐められるのは、一つにはメディアがこうした問題に鋭く反応しないからではないか、と思われてならない。 ネグリ来日を報じたのは朝日 (3月13日朝刊)、毎日 (同夕刊) だけだったようだ。来日 「延期」 は朝日につづき、毎日、共同、読売、産経も伝えたが、 読売の短信には、犯罪容疑者とされた彼の経歴が、意味ありげに記されていた。 また、ドイツ人、マルティン・クライメルさんのケースの各紙の扱いは、本欄前号で伝えたが、 さすが地元紙、北海道新聞は14日夕刊と15日朝刊で報道、問題を投げかけていた。
  しかし新聞は、サミットがあるからこそ、心ある市民が世界中から日本に来ようとすることの意義をもっと重視し、そこに自由な議論の場を確保しようと、 大きな声で求めていくべきではないかと思う。

  1996年3月、東大社会情報研究所 (現在の情報学環) が英国オープン・ユニバーシティのスチュアート・ホール教授と 同シティ・ユニバーシティのアリ・ラタンシー教授を招き、カルチュラル・スタディズの国際学術共同研究会を東京で開いたが、 そのあと私は、勤務校の立命館大学に両教授を招き、同様の学術講演会を開催、両教授と近畿一円の研究者との討議の場をつくったことがある。 両教授の招聘は、英国の政府資金によって設置され、活動する国際文化交流機関、ブリティッシュ・カウンシルの全面的な援助に基づいて実現したものだった。
  マルクス主義の影響を深く受け、体制批判をも大きな特徴とするカルチュラル・スタディズと呼ばれる学派を発展させたホール教授とラタンシー教授に対して、 政府機関というべきブリティッシュ・カウンシルが後ろ盾となり、海外派遣の面倒をみ、京都滞在中にも細かく世話を焼くところをみ、 私はやや意外の感を催し、そのことをホール教授に、宿に向かうタクシーのなかで口にした。 ホール教授がゆったりした頬笑みを浮かべ、政府には思想、表現、学問研究の自由を保障する義務があるのだから、当然じゃないですか、と私にいった。 一本取られたな、と思った。また羨ましかった。私たちの国はそうはなっていない。
  だが、京都で、東京で、ネグリを招いて話し合うことを計画した人たちも、挫けはしない。 朝日・毎日で予告された講演会等を、ネグリなしでも、というより、なぜネグリがいないのかをも問題にし、予定どおり開催することにしている。 市田良彦 (神戸大)、姜尚中 (東大)、木幡良枝 (東京芸大)の各氏が元気に抱負を語っている。以下のサイトで3氏のメッセージをぜひ確かめていただきたい。

   ネグリ来日中止 (イベントは予定通り)