2012.11.14 17更新

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)


第三九回 (全面改訂版)
権力の暴走とメディアの加担−小沢問題の意味を問う

  昨日(2012年11月12日)、検察審査会での2度の起訴相当決議に基づく強制起訴による小沢一郎衆議院議員(「国民の生活が第一」 初代党首・元民主党代表)に対する裁判で東京高裁(小川正持裁判長)は、あらためて無罪判決を言い渡しました。 この小沢裁判は、検察審査会での2度の 「起訴相当」 決議に基づく強制起訴によって始まりました。 そして、東京地裁での1審判決で無罪判決が出たにもにもかかわらず、 検察官役を務める指定弁護士による強引な控訴(この控訴自体が法的根拠を欠くとの指摘あり!)によって引き続き行われていたものです。 今年9月26日に開かれた控訴審の初公判で、指定弁護士が務める検察側が申請した 「新証拠」 「証人」 がすべて却下されて1日(わずか1時間程度!)で結審したことから、 控訴審判決でも無罪判決となる可能性が高いとみなされてその結果が注目されていたところです。 そうした流れからすれば、今回の無罪判決自体は予想通りであり、弘中惇一郎氏弁護士が 「思った以上の判決!」 と本判決を高く評価されたのも納得できるところです。
  ただ、私が異常だと思うのは、ほとんど完全無視状態ともいえるテレビ報道の少なさ、新聞各紙の社説での居直り、 いまだに政治責任・説明責任・国会証人喚問に固執する野党議員(自民党や公明党だけでなく、共産党なども含む)の姿、 民主党現執行部・議員の頬被り、沈黙を続ける弁護士・法学者などの法律家や、 平気で無責任な発言を繰り返してきたコメンテーター・専門家の姿勢などです。 なぜならば、いま本当に責任を問われなければならないのは、 (国家権力を悪用した政治家・官僚・検察官・裁判官だけでなく)他ならぬそうした主張・姿勢をしている人々ではないかと考えるからです。 一体そうした人々は、本来ならば日本の総理大臣となるべきであった小沢一郎氏が2度にわたってその機会を奪われ、小沢氏個人だけでなく、 日本の政治と日本社会の方向性に取り返しのつかない大きな損失・打撃を与えたことをどのように考えているのでしょうか。

  そもそも、この小沢問題(小沢一郎氏をめぐる 「政治とカネの問題」:小沢捜査、小沢事件とも呼ばれる)は、 2009年3月の第一ラウンドの西松建設事件から2010年1月の第二ラウンドの陸山会(水谷建設)事件、 そして検察審査会を通じた強制起訴による小沢裁判という形で現在まで3年半以上続いてきました。 この小沢問題をめぐっては、東京地検特捜部という 「史上最強の捜査機関」 による、 田中角栄氏・金丸信氏という 「金権政治家」 の流れを継ぐ小沢一郎氏の不正献金疑惑追及という 「検察の正義」 を前提とする見方が大手マスコミのほとんど一致した論調として毎日のように大量に流され、 その流れに乗った形で国会では野党となった自民党などが、 この民主党の金権スキャンダル(鳩山由紀夫元首相の政治資金問題を含む)を追及してきたという経緯・背景があります。 しかしその一方で、それとはまったく異なる見方、すなわち小沢問題を 「検察の正義」 を前提として 「小沢VS検察」 という問題に矮小化するのではなく、 「政治とカネの問題」 以上に、検察官僚・組織の強権的体質と記者クラブに代表される大手マスコミとの癒着構造が 日本の議会制民主主義にとって大きな脅威となっているという、もう一つの世論の流れがインターネット・メディアを中心に提起されてきました。

  評者自身は、すでに2010年3月〜4月の時点で後者の視点・立場であることを本NPJ論評において明確にしています(下記をご参照下さい)。
  ・第二〇回
   小沢問題をどう考えるか−検察権力・マスコミ報道との関連で (上)

  ・第二一回
   小沢問題をどう考えるか−検察権力・マスコミ報道との関連で (中)

  ・第二二回
   小沢問題をどう考えるか−検察権力・マスコミ報道との関連で (下)


  その一連の論評では、冤罪(でっち上げを含む)と報道被害(あるいは情報操作とメディアリテラシ−)という観点から、 行政による司法の侵害とメディアの加担、すなわち国家権力(とくに検察権力)による恣意的な権力乱用と、 それと一体化・加担したマスメディアによる情報操作・世論誘導による深刻な人権蹂躪がなされていることを明らかにしています。 それはまた、そもそもの発端からして、「検察ファッショ」 と 「メディア・ファシズム」 が結合した 「静かな政治クーデター」、 すなわち国家権力(とくに検察権力)と大手マスコミが一体化した情報操作・世論誘導によって、 2009年8月の総選挙を通じて成立した鳩山民主党連立政権を打倒する(直接的には2010年夏の参議院選挙で民主党を敗北させる)狙いを秘めた、 事実上のクーデターであるとする見方であり、現在でもこうした見方を基本的に変える必要はないというが評者の認識・立場です。

  ここで小沢裁判に話しを戻しますが、上告の理由は重大な判例違反か憲法違反であり、 11月26日の期限までに指定弁護人が上告を行うことはほとんど困難な状況であるとみられます。 したがって、今回の判決によって小沢一郎氏の無罪がほぼ確定したといえます。 しかし、これによって、2009年3月の西松建設事件以来、3年半ほど続いたいわゆる小沢問題が一応の終結を迎えたわけでは決してありません。 なぜなら、この小沢問題で小沢一郎氏を徹底的に糾弾してきた検察・裁判所・指定弁護人・検察審査会に告発した市民といった当事者ばかりでなく、 政府(官邸・法務大臣)・民主党反小沢派議員・野党・識者、そしてメディア関係者などの責任が一切問われていないからです。 評者がとりわけ酷いと思うのは、今回の小沢裁判(東京高裁二審)での無罪判決に対する大手マスコミの対応です。

  まず最初に指摘しておきたいのは、テレビ報道です。 (9時のニュースのトップに小沢無罪判決ではなく逗子・ストーカー殺人事件を流した)NHKだけでなく、 民放各局もまるで示し合わせたかのようにごく小さな扱いで、 控訴審での無罪判決という結果のみを短く報じただけでほとんどコメントを付けないというやり方が多かったように思います。 唯一の例外がテレビ朝日の 「報道ステーション」 で、古館伊知郎キャスターがこれまでの報道についての 「反省」 の弁を少しだけ口にし、 「非公開」 の検察審査会で浮かび上がった 「民意」 への 「疑問」 を提起していたことが目についたぐらいでした (その古館キャスターはもっと何かコメントを続けようとしたようにも見えたのですが、その途中で急にCMに変えることになったのは何かあったのでしょうか…)。

  また新聞の方ですが、なぜか月1回の新聞休刊日と小沢判決の日が重なっていて、 当日の朝刊で小沢一郎氏にたいする控訴審判決がその日にあることを確認することができなかったのは偶然なのでしょうか。 翌日(13日)の新聞各紙の朝刊は、さすがにテレビのように無視・軽視することはできなかったようで、 どの新聞も社説とその他の記事で小沢無罪判決を一応報じてはいました。小沢無罪判決はかろうじて一面の片隅におかれていましたが、 新聞各紙のその日の紙面のトップは一様に解散・総選挙へという記事一色でした(野田首相が無罪判決当日に “突然” 解散の期日を明らかにし、 翌日の新聞各紙の一面がこのようになった理由にも何か隠された意図があるように感じられるのは評者だけでしょうか。 石原慎太郎前東京都知事が新党 「太陽の党」 の旗揚げを13日に発表し、 総選挙の期日が12月16日の都知事選と期日が重なったというこの間の動きについても同様です…)。

  しかし、問題はその報道内容であり、東京新聞や日刊ゲンダイなど一部を除いて、朝日・読売・毎日・日経・産経などの全国紙・中央紙は、 ほとんど小沢無罪判決の本当の意味や検察審査会をめぐる検察・最高裁の “闇” に言及することはありませんでした。 もちろん、これまでの一連の小沢事件・捜査(西松建設事件、陸山会事件、強制起訴による小沢裁判)をめぐる報道の誤り (国家権力による小沢一郎氏に対する人権蹂躙・人権侵害に加担して報道被害という二次的人権侵害を犯したという “メディアの犯罪”)を、 反省・謝罪する姿勢はほとんどみられませんでした。いや、それだけではありません。 これまでの誤りに対する自覚と反省が欠如しているだけでなく、そうした批判を無視するかのように完全に居直って、 まるで追い打ちをかけるかのように小沢氏に対するさらなる人格攻撃を続けようとする姿勢が顕著にあらわれていたと言えるのではないでしょうか。

  ここで、とくに取り上げておきたいのは、朝日新聞11月13日付の社説です。 「小沢氏無罪―政治とカネ、いつまで」 と銘打ったその社説には、 これまでの小沢問題についての朝日新聞の異常とも思われる報道姿勢のそのままのかたちで顕著に表れていると思うからです。 まず最初に、「追加の証拠調べがなく、結論は予想されていた」 として無罪判決それ自体にあまり意味は無いかのように前置きした上で、 その後の 「刑事責任の有無をはなれ、事件は “政治とカネ” をめぐる多くの疑問や不信を招いた」 という小沢事件の "核心“ へと論理を展開しようとしています。 また、「金や資産の流れをそのまま明らかにして、国民の不断の監視の下におく」 という政治資金規正法の精神を強調するとともに、 「問題となった土地の取引が本来報告すべき年に報告されなかったこと、元秘書が公表を先送りする方針を決め、 不動産業者らと調整したこと」 が今回の判決でも認定されとして 「何億円もの動きについて、事実と異なる報告がされていた点に変わりはない」 と結論付けています。

  そして、「捜査や公判を理由に国会での説明から逃げ続け、一審の法廷では “関心は天下国家で、収支報告書は見たこともない” と述べた」 ことをあげて、 「こうした行いは国民と政治との距離を広げた」 と小沢氏を批判しています。 しかし、こうした 「解説」 は、「虚偽記載」 の違法性を知ったうえで秘書と 「共謀」 して 「疑惑」 のある4億円を人目につかないように隠そうとしたのか、 という控訴審の中心的な争点とは直接かかわりのないものです。 また1審・2審と続いてきた小沢裁判の中で明らかとなった捜査報告書の 「捏造」 などの、 検察の暴走と検察審を取り仕切る最高裁(事務局)の "闇“ には一切触れようとしていない点は実に不可解です。 そして、「その自覚と反省を欠いたまま、新しい政党をつくって “第三極” の結集を訴えたとしても、 広範な支持を得るのはむずかしいだろう」 と小沢氏の最近の政治活動にも 「干渉」 しようとする姿勢はあまりにも異常であるといわざるを得ません。 こうした姿勢は、小沢氏個人に対する名誉毀損と人権侵害であるばかりではなく、 公党(「国民の生活が第一」)に対する 「選挙妨害行為」 以外のなにものでもありません。 この社説に見られるような、より本質的な問題から国民(読者)の目をそらさせ、重大な権力犯罪の隠蔽に手を貸すだけでなく、 日本の将来にとって大きな影響力をもつ特定の有力政治家を、根拠の薄い 「疑惑」 で執拗に攻撃し続ける朝日新聞の 「異常性」 は、 次にご紹介する同じ日に出された東京新聞の社説と比較すればいっそう際立つことになります (朝日新聞の 「劣化」 については永田町異聞さんのブログ 「メディアは二審無罪までの小沢報道を自ら検証せよ。」 を参照)。

  それに対して13日付の東京新聞の社説は、「小沢代表無罪 検察の “闇” を調べよ」 と真正面から検察問題をげており、 「小沢氏無罪―政治とカネ、いつまで」 と題した朝日新聞との姿勢の違いが一目瞭然です。具体的にその内容をみていくことにします。
  冒頭から 「問題は検察が市民の強制起訴を意図的に導いた疑いが晴れぬことだ。 生ぬるい内部検証では足りず、国会が徹底調査すべきだ」 と検察問題を中心的課題として位置づけるとともに、 「そもそも、なぜ小沢氏は強制起訴されたのか」 と問題提起をし、「市民による検察審査会の判断」 そのものの是非に迫ろうとしています。 また、検察が検察審査会による1回目の起訴相当議決をうけて着手した 「再捜査の過程で、小沢氏の元秘書石川知裕衆院議員を再聴取したが、 作成された捜査報告書はでたらめだった」 と重要な事実を指摘しています。
  そして、捜査報告書には 「“小沢の共謀を推認する積極証拠となりうる” などとも記されていた」 ことを明らかにした上で、 「本来は不起訴にした説明をする検察が、市民を強制起訴するよう誘導したと、受け止められてもやむを得ない内容だといえる」 と結論づけています。 さらに、「今年6月に最高検がまとめた報告書では、“(検事の)記憶が混同した” “故意ではなかった” などと結論づけ、 市民から告発された検事すべてを不起訴処分にした。 かつ、今も報告書をホームページなどで国民に広く知らせていない」 などの事実を指摘して、 「あまりに身内に甘すぎる調査結果であり、真相はなお “闇” の中にあるといえよう」 と最高検の姿勢を強く非難しています。
  そして最後に、「検察が暴走したら、どう食い止めるのか…。根源的な問いも、この事件は投げかけている」 と、 この社説で評者が最も優れていると思った指摘・問題提起を読者に対して行っているのが注目されます。 このような鋭くかつ核心を突いた指摘は他紙に見られないものであり、 (最高裁事務局の “闇” への言及がないなどの限界があるとはいえ)日本のジャーナリズム魂もまだここにこうして残っているのだとの確信と、 暴走する権力の監視・批判を続ける勇気の重要性を評者にあらためて感じさせてくれるものでした。

  東京新聞の社説以上に、今回の小沢無罪判決の背景と本質に迫っているのが、 日刊ゲンダイの判決当日の記事 「検察敗北 小沢裁判控訴棄却 5年越し謀略に決着」 です。 その記事では、「この国の権力は極度に腐敗している。… “本件控訴を棄却する” と裁判長が告げると、小沢代表は顔色を変えないまま、 ゆっくり一礼した。晴れて小沢の無罪が “決まった” わけだが、歴史家はこの日のことを特記すべきだ。 これは紛れもない国家犯罪だからだ。“加害者” は司法検察、マスコミ、そして、その裏でいつもチラついていたのが民主党執行部だ。 3つの権力が寄ってたかって、小沢一郎という政治家を葬り去ろうとしたのである」 とこの小沢裁判の本質を “国家犯罪” と断言する内容は小気味酔いといえるほど単純明快でわかりやすく、きわめて大胆で勇気ある指摘であると思います。 評者はすべての新聞に目を通したわけではもちろんありませんが、 日本の新聞やジャーナリズムもまだ捨てたものではないとあらためて感じさせてもらいました。

  ここで、もう一度小沢問題(小沢事件・捜査)の発端と全容に焦点を当ててみようと思います。 すでに述べたように、東京高裁は小沢一郎氏の裁判で、一審東京地裁の無罪判決を支持し、検察官役の指定弁護士の控訴を棄却しました。 このこと自体は常識的で妥当な採決であると思います。また、小沢氏の 「虚偽記載」 の違法性についての認識を否定したばかりでなく、 二人の秘書(石川知裕議員と池田光智元秘書)の虚偽記載の故意についても一部否定さたれたことはまさに画期的でした。 弘中弁護士が、「非常にいい判決でしたね。…思ったとおりというよりも、思った以上の判決だったと思います」 と賞賛したこともうなづけます。 そして、「検察審査会が強引に起訴したということ自体が、極めて問題だった」 と述べたことも重要です。 また、今回の無罪判決で注目すべきことは、「共謀共同正犯としての故意責任を問う上」 で被告人の 「違法性の認識」 が重要であり、 それを検察(指定弁護人)側が十分に立証できていない以上、「被告人に対し、共謀共同正犯として、法的に刑事責任を問うことはできない」 と被告人と秘書との 「共謀」 を否定している点です (小沢裁判(2審高裁)の 判決要旨 を参照)。
  なぜならこの点は、権力(特に法務官僚)側がかなり前から導入することを狙っている 「共謀罪」 の危険性を考える意味で重要な意味を持っていると思うからです(「共謀罪」 と 「共謀共同正犯」 との違いについては、 「共謀罪 Q&A 」 、 海渡雄一、 保坂展人 『共謀罪とは何か』(岩波ブックレット)岩波書店 (2006/10/5)、 田島泰彦、 斎藤貴男 『超監視社会と自由―共謀罪・顔認証システム・住基ネットを問う』 花伝社 (2006/05)、 纐纈 厚 『監視社会の未来―共謀罪・国民保護法と戦時動員体制』 小学館 (2007/09)などを参照)。

  今回の小沢無罪判決とその報道の在り方については、すでに多くの論者がさまざまな貴重でかつ鋭い指摘を行っています。 元検事で弁護士の郷原信郎さんは、判決日の ツイッター で 「指定弁護士は、控訴したことを後悔しているだろう。一審で止めておけば “惜敗” で済んだのに予想以上だったのは、 控訴審判決が、小沢氏の “虚偽性の認識” だけではなく、石川・池田氏の “虚偽性の認識” の一部も否定したこと。 近く始まる秘書公判にも重大な影響を与える。石川氏に殆ど犯意らしき犯意がなかったとすると、秘書事件一審判決の “水谷裏献金隠し” の動機は宙に浮く。 今日の控訴審判決、簡単にまとめると、指定弁護士⇒《大恥》、検察・登石(秘書事件一審裁判長)⇒ 《真っ青》 と言ったところか」 と実に興味深い指摘を行っています。
  そして、「小沢氏控訴審無罪判決に関して、“検審騙し” 疑惑が核心であることを正面から指摘しているのは、 東京社説 【小沢代表無罪 検察の“闇”を調べよ】 だけ。 この問題については、拙著 「検察崩壊 失われた正義」 で是非。 検察の暴走捜査を煽り、検審起訴議決が出ると “『民意』 を重く受け止めよ” とさんざん持ち上げるなど、司法を政治的に利用しようとする目論見は、 裁判所の当然の司法判断で完全敗北したが、制度の問題や政治資金処理の一般論にすり替えて非を認めない。 こういうことが平気で行える神経が私には理解不能」 とさらに踏み込んだ発言をしています。

  さらに郷原さんは、2012年11月14日のブログ 「郷原信郎が斬る」 のなかで、「この事件の捜査の段階で、検察は、4億円の借入れと定期預金の担保設定は、 水谷建設からの裏献金を隠ぺいするための偽装工作として行われたとの構図を描き、 マスコミも、その偽装・隠蔽を “水谷建設からの裏献金疑惑” に結び付け、それこそが事件の核心であるかのように報道した。 しかし、今回の判決では、被告人がそれを “違法な処理” と認識していたことを否定しただけでなく、 実行者の石川氏にも虚偽の説明をしているという認識自体がなかった可能性があると認定したのである(一審判決も、 この “4億円簿外処理” の偽装・隠蔽の意図を否定し “その場しのぎ” と認定していたが、マスコミは、それを一切報じなかった)」、 「今回の控訴審判決では、検察と指定弁護士が事件の核心であると考えた、4億円をめぐる偽装・隠蔽そのものを否定したところに重大な意味がある。 …そして、検察にとって更に重大なことは、こうして陸山会事件の構図そのものが否定されたことによって、 それを前提にしてきた検察捜査が暴走であったということと、虚偽の捜査報告書まで作成して検察審査会を起訴議決に誘導していたという、 東京地検特捜部の行なった行為の不当性・重大性が一層明らかになったということである」 と結論付けています。 判決文要旨(現時点では判決文そのものの入手は困難)を十分精査したうえでの結論と思われるだけに、反論を許さないほどの強い説得力があります (「郷原信郎が斬る」 2012年11月14日)。

  また元レバノン大使の天木直人さんはブログで、 「小沢二審無罪判決を報じる記事は検察批判や司法改革についてばかりを書くが問題の本質はそこではない。 小沢裁判とは政治家、官僚、メディアがグルになって意図的に一人の政治家の政治生命を奪おうとしたという最も深刻な権力犯罪ではなかったか。 この事が解明されない限り小沢裁判は終わらない。」 とずばり権力犯罪とメディアの加担について核心を突く鋭い指摘をし、 サンデー毎日編集長というゲスト解説委員が 「衆院解散・総選挙の記事は小沢無罪判決にあわせてぶつけてきた」 という驚くべき発言をしたあとでテレビはすぐにコマーシャルを流したことを明らかにしています (天木直人のブログ 2012年11月13日 を参照)。

  フリージャーナリストの田中龍作さんはブログ (田中龍作ジャーナル 「小沢氏、2審も無罪 検察と記者クラブによる冤罪に終止符を」 2012年11月12日)で、「記者クラブは裁判所から多大な便宜供与を受ける代わりに判決について批判めいたことは書かない。 判決を批判したような記事を見かけたことはほとんどない。裁判所は検察の主張をほぼ認める。 記者クラブは検察リークを受けて書き飛ばす。抑止機能なんてあったものじゃない。この国の司法はほとんどすべて検察の言いなり、と言ってよい。 陸山会事件で東京地検は小沢氏に有利な証言は隠し、不利となる証言を捏造した。 捏造に関与した現職(事件当時)の検事や次席検事が公文書偽造などの罪で逮捕、起訴されている。 検察が捏造調書を検察審査会に送り、検察審査会はそれをもとに小沢氏を強制起訴したのである。デッチあげ裁判そのものだ。 検察による捏造が明らかになってからもマスコミは小沢氏を限りなく黒に近い灰色のように扱ってきた。 小沢氏が検察と記者クラブの両方から目の敵にされていたので、検察審査会を利用したイカサマが罷り通ったのである。 陸山会事件は検察と記者クラブが一体となって作り出した冤罪だった」 と、 検察と記者クラブメディアが一体となって作り出した 「えん罪」 を見事に描き出しています。

  評者が注目する気骨あるジャーナリストの1人である鳥越俊太郎さんは、鈴木哲夫・日本BS放送報道局長、 小町谷育子弁護士との 「特集ワイド:座談会・小沢裁判とは何だったのか 摘まれた首相の芽」 (「毎日新聞」 2012年11月14日 東京夕刊)のなかで、 「私は、この裁判は一部検察官たちの謀略戦だったと思っている。民主党が政権を取ると見られていた09年の総選挙直前に西松事件があった。 東京地検特捜部は、金に絡む問題があるとみて捜査したがうまくいかず、陸山会事件で続けた。 検察審査会を使って裁判に持ち込み、有罪にしようと考えたのではないか。しかし謀略は裁判所で木っ端みじんに砕かれた」、 「推定有罪は、日本のメディアの持っている大きなマイナスポイントだ。一連の報道は読者らに “小沢氏の無罪はおかしい” というイメージを植え付けた。 メディアはその責任をどう取るのか。無罪判決が確定したら報道の検証が必要で、場合によっては謝罪すべきだ」、 「検察審査会の制度は危ういと感じた。審議は密室だ。地検が起訴できない事件でも、 素人に起訴に相当するような材料を見せて起訴を促すように恣意(しい)的に審査会を導いたら、 政治生命を奪うことなどは簡単だ」 と堰を切ったように自分の意見を赤裸々に臆することなく堂々と述べている様子に強い共感を覚える。

  鈴木宗男・新党大地代表は、「当然の結果であり、私も国策捜査にあった者として、他人事(ひとごと)でない思いです。 鬼の特捜と言われる東京地検特捜部が立件出来なかった事件を検察審査会にゆだねるだけでも問題だと考えていました。 3年前、検察のリークによる小沢潰し、特に許されないのは、西松建設から渡ったとされる5千万円の件が今回の裁判でも指定弁護士は取り上げなかった。 この事からしても、事実ではなかった。しかし、小沢先生にとっては、悪いイメージになってしまった。国策捜査は、私の時で止めて欲しい。 終わって欲しいと願っていたが、度々繰り返される検察の暴走とも言うべきやり方に、憤りを禁じ得ない。」 とのコメントを判決当日に直ちに発表し、 ブログでは 「判決文の中を読むと、石川知裕代議士の裁判にも大きな影響を与えるものだと私は受け止めた。 今日の判決は石川代議士にとっても新たな展開、又、新しい闘いの道が切り開かれるものと前向きに私は受け止めた次第である」 とも述べています。 「国策捜査」 の被害者として 「えん罪」 と 「報道被害」 の恐ろしさを身をもって知っておられる方(在職25年の表彰の元衆議院議員)の発言だけに、 その言葉の重みが痛いほど伝わってきます(「ムネオの日記」 2012年11月12日 を参照)。

  また、もう1人の国策捜査の被害者である植草一秀さん(元早稲田大学教授)は、 ブログ(植草一秀の 『知られざる真実』 2012年11月13日 「小沢一郎氏は不死鳥の如く蘇り政権奪還を実現す」) のなかで、「“被告” の呼称は、もしこの人物が無実の人間であれば重大な人権侵害となる呼称である」 とマスメディアの人権感覚の欠如をまず指摘し、 「無実潔白の小沢一郎氏を、日本のマスメディアは極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた事実を忘れたのか」 と検察の権力犯罪に加担したマスメディアの責任を真正面から問うています。 そして、「日本のマスメディアが腐り果てていることを知る国民が激増しているが、ここまで来ると、もはや病的である。 いま日本の主権者国民に必要なことは、日本のメディアがすでに死亡しているということを正しく認識することだ。 メディアは3年半の間、小沢一郎氏を極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた。 その事実の肯定、事実の検証、事実の評価、自己批判が不可欠だが、この期に及んで、自己の誤りさえ認めようとしない姿勢である」 とその無責任な体質を痛烈に批判しています。
  さらに、「つまり、この国はいま、完全に腐っているということだ。腐っているのは権力だけでない。権力に群がるマスメディアにも腐敗臭が立ち込めている。 一連の巨大謀略の裏側に恐らく米国がいる。その米国に魂を売り渡している日本人が多数存在する。 米国の指令に基づき、本当の愛国者を破壊する腐敗した官僚機構がある。カネのためなら何でも協力する守銭奴大資本が存在する。 これと結託する利権政治屋と腐敗しきったマスゴミ。米・官・業・政・電の既得権益が日本を暗黒社会にしてしまっている」 と日本社会の根源的な病理を提起し、 「この現実を変えることのできるのは、主権者国民しかいない。 主権者国民が次の選挙で世直しに動かなければ、この国は本当に滅びてしまう」 と主権者である国民にいまこそ声を上げて行動することを求めています。 評者もまったく同感です。こうした植草さんの一貫した姿勢と身体を賭けた呼びかけにある種の感動を覚えるのは私だけはないと思います。

  なお、本件と密接な関係があると思われるので、小沢裁判報告会で出された緊急声明の全文を下記にご紹介します (「国民の生活が第一」 の 森ゆうこ参議院議員のブログ から)
  《本日2012年11月12日、東京第五検察審査会の 「起訴議決」 による 「小沢裁判」 控訴審において、一審に続き 「無罪」 の判決が言い渡された。 至極当然の判決であり、裁判長の公正な判断に敬意を表するものである。
  具体的な理由もなく控訴することによっていたずらに裁判を長引かせ、 この国の最も重要な政治リーダーである小沢一郎衆議院議員の政治活動を妨害した指定弁護士の責任は極めて重い。 そもそも、検察が2年間に渡る執拗な捜査にもかかわらず、証拠が無く起訴できなかった事件であり、 この裁判の元となった東京第五検察審査会の起訴議決自体が、検察当局の 「捜査報告書の捏造」 という重大な犯罪によって提起されたものであることは、 一審の判決理由の中でも厳しく指弾されている。検察が何故このような組織的犯罪を行ったのかを検証することもせず、 また具体的な理由もなく控訴したことについて、指定弁護士は国民に説明する責任がある。
  「捜査報告書のねつ造」 に関する市民団体の告発に対して、検察は田代政弘検事を始めとする関係者を不起訴にした。 更にはこの問題の調査を最高検察庁が行ったが、「記憶違い」 という田代検事の説明に問題はなかったという 「調査報告書」 を提出し、 結局、減給処分となった田代検事は自主的に退職した。しかし、最高検察庁によるその 「調査報告書」 によって、 皮肉にも捜査報告書の提出日が虚偽記載(期ずれ)であったことが既に証明されている。 改めて確認するが、陸山会事件で問われているのは、あっせん利得でもなければ贈収賄でもない。 会計処理上むしろ正しいと公判で専門家が証言した、登記日による収支報告書の期ずれである。
  証拠もなく強制捜査に着手し、執拗な捜査にもかかわらず証拠が無く自ら起訴出来なかった小沢一郎衆議院議員を、 「捜査報告書のねつ造」 という犯罪を行ってまで検察審査会を悪用し、刑事被告人に仕立て上げた検察の暴走によって、日本の政治は大きく混乱した。
  証拠や捜査報告書をねつ造すれば、誰でも容易に犯罪者にされてしまう。小沢一郎衆議院議員をターゲットにした検察の暴走は、 選挙によって正当に選ばれた主権者たる国民の代表を不当に弾圧し、議会制民主主義の根幹を揺るがしただけではない。 一人一人の国民の人権を守るというこの国の民主主義そのものを脅威に晒しているのである。
  我々は本日の無罪判決を契機として、日本に真の民主主義を確立するために更に団結していこう。
2012年11月12日  真の民主主義を確立する議員と市民の会 一同》

  カレル・ヴァン・ウォルフレン氏(オランダのジャーナリスト・日本研究者)は、それを 「日本の "人格破壊" システム」 とし、 改革派として一気に政治の表舞台に立った小沢一郎氏に、"官" は徹底的な圧力をかけ、マスコミはネガティブキャンペーンを展開したと指摘しています。 また、こうした非公式権力による小沢氏の人格破壊は、「アメリカからの独立」 を掲げ表舞台に登場した小沢氏を嫌ったアメリカによる外圧と合わせて、 過去にないほど大掛かりな 「人格破壊」 につながったと解説されていますが、 この指摘は非常に説得力があると思います(カレル・ヴァン・ウォルフレン氏へのインタビュー記事 「誰が小沢一郎を殺すのか?」 日本の "人格破壊" システムとは、 およびカレル・ヴァン・ウォルフレン著 『人物破壊 誰が小沢一郎を殺すのか?』(角川文庫、2012/3/24を参照)。

  また、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏が 「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」 という論文 (『中央公論』 2010年4月号)のなかで次のように述べているのが注目されます。
  「いま日本はきわめて重要な時期にある。真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっている。 …国際社会で、真に独立した国家たらんとする民主党の理念を打ち砕こうとするのは、国内勢力ばかりではない。アメリカ政府もまたしかりである。 …民主党政権発足後の日本で起こりつつある変化には、実は大半の日本人が考えている以上に大きな意味がある、と筆者は感じている。 …あらゆる国々は表向きの、理論的なシステムとは別個に、現実の中で機能する実質的な権力システムというべきものを有している。 …日本のシステム内部には、普通は許容されても、過剰となるや、たちまち作用する免疫システムが備わっており、 この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察である。…検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。 彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。 …日本の検察が、法に違反したとして小沢を執拗に追及する一方、アメリカは2006年に自民党に承諾させたことを実行せよと迫り続けている。 …いま我々が日本で目撃しつつあり、今後も続くであろうこととは、まさに権力闘争である。 これは真の改革を望む政治家たちと、旧態依然とした体制こそ神聖なものであると信じるキャリア官僚たちとの戦いである。 …日本の新政権が牽制しようとしている非公式の政治システムには、さまざまな脅しの機能が埋め込まれている。 何か事が起きれば、ほぼ自動的に作動するその機能とは超法規的権力の行使である。 このような歴史的な経緯があったからこそ、有権者によって選ばれた政治家たちは簡単に脅しに屈してきた。」

  いずれにしても、3・11とフクシマ(福島原発事故)を経験したいま現在、日本だけでなく、 世界においても政治・経済・軍事・社会など各分野で地殻変動ともいえる大きな変化が起きようとしているのは確かです。 こうした現実・世界的趨勢を正しく把握した上で、21世の新しい秩序をいかにして構築していくのか、 またそうした国際社会の中で日本はどのような社会を築きいかなる役割をはたしていくのかという問題を真剣に考えていく必要があります。 その意味で、「人間にとって無関心が最も非人間的である」(辺見庸氏)、 「騙される者の責任」(故伊丹万作氏や小出裕章氏)という言葉の意味の重さを、 私たち一人ひとりが自問自答することからをはじめることが大事ではないかと思います。
2012年11月16日(総選挙に向けて衆議院が解散された日に)


【追記】
・今年の10月18日(木)に浅野健一先生のお招きで同志社大学メディア学研究会(院)主催の特別講演会で、 「検察の暴走とメディアの加担−小沢問題とは何か」 という題目でお話しをさせていただく機会がありました。 ご参考までに、その時に使ったのと同じレジュメ資料を公開しますので、参照していただければ幸いです。

  レジュメ 『検察の暴走とメディアの加担─小沢問題とは何か─』

・検察および検察審査会の “闇” には、最高裁の “闇” も密接につながっていると思います。 岐 武彦(赤かぶ)さんは文芸評論家・哲学者山崎行太郎氏さんとの共著 『最高裁の罠』(K&Kプレス 、2012/12)で 「小沢検察審査会の闇」 と 「世紀の最高裁スキャンダル」 として、次の8点を挙げています。 いずれも重大な内容だけに今後のさらなる検証が期待されます(森ゆうこ 『検察の罠』 日本文芸社、郷原信郎 『検察崩壊 失われた正義』 毎日新聞社、 孫崎 享 『戦後史の正体』 創元社および同 『アメリカに潰された政治家たち』 小学館も合わせて読まれることをお勧めします)。
「1.最高裁の中に、強力な権力を持った秘密組織「最高裁事務総局」が存在する。
2.「最高裁事務総局」 が裁判官・裁判所事務官等の人事、予算などを握り、「司法行政」 を支配している。
3.「最高裁事務総局」 が上記の権限を利用し、裁判官を支配し、個別の判決にも影響を与えている。「鈴木宗男裁判」 「陸山会裁判」 「原発訴訟」 などしかりだ。
4.「最高裁事務総局」 は巨額の裏金作りを元裁判官から訴えられ、裁判が行われている。
5.「最高裁事務総局」 が、昔から 「官製談合」 を行っている。
6.「最高裁事務総局」 が、昭和23年検察審査会制度発足以来、「検察審査会事務局」の人事、予算、計画、会計などの全ての権限を持ち、支配してきた。
7.「2度の起訴議決により強制的に起訴がなされる」 よう法改正がなされ、最高裁は 「市民に起訴権を持たせた」 と言っているが、 実質的に 「最高裁事務総局」 が起訴権を持った。
8.小沢検審では、検察審査員を選ばず、審査会議を開かず、起訴議決書を創作したことが確定的だ。」

・検察審査会と表裏一体の関係にある裁判員制度については、下記のNPJ論評をご参照下さい。
  ・第十回 「裁判員制度を根源から問い直す   ・第十二回 「裁判員制度を根源から問い直す   ・第十三回 「裁判員制度を根源から問い直す