2013.11.20  11.22更新

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)


NPJ特別寄稿
「日本はこのままファシズム国家へと変貌するのか
─暗黒社会の到来を許すな!」

  秘密保全法案(「特定秘密保護法案」 と改称)をめぐる与野党の修正協議は20日も断続的に続き、 与党側が当初目指していた法案の今週中の衆議院通過は、来週26日以降にずれこむ見通しとなった。 しかし、すでに野党陣営からみんなの党や日本維新の会などが与党との修正協議に応じており、 今国会中にこの恐るべき憲法(19条・21条)違反の悪法が成立する可能性は依然として高いと言わざるを得ない (秘密保全法案については、2012年3月4日の拙評論 「(第三七回 緊急特別寄稿) 「なぜいま秘密保全法案なのか─忍び寄るファシズム(監視社会・警察国家)の影」 を参照)。

  自民党が秘密保全法案(特定秘密保護法案)の成立を急ぐ背景には、 長引くほど法案の問題性と危険性が露見して反対の動き・世論が強まることを懸念しているという事情があると思われる。 また、とくに現時点で、政府当局者が最も隠したいと思っているであろう都合の悪い情報({真実})は、 外交・防衛情報というよりも、原発関連のさまざまな情報(事故原因、被曝と汚染の実態など)、 刑事司法関連の情報(小沢事件に代表される権力犯罪・えん罪に関わる情報、検察審査会・裁判員制度の闇、不正選挙についての情報)、 TPPや税金、汚染食品・有害薬品などの経済・生活(企業)関連情報などが考えられよう。

  多くの論者が指摘しているように、この法案の本質は、外務、防衛、スパイ防止、テロ防止の4分野において、 何が 「特別秘密」 であるかの定義が曖昧で、外部からチェック機能をはたすべき独立した第三者機関を設けていないため、 トップ官僚(外務・防衛官僚だけでなく、警察・公安官僚も!)に、独占的な解釈権を事実上容認するところにある。 その結果、日本はこれまで以上に官僚が圧倒的な優位に立つ肥大化した行政国家(「高度国防管理国家」)に変貌することになる。 その処罰の対象となるのは、国家・地方公務員だけでなく、記者(ジャーナリスト)、政治家、裁判官、弁護士、医者、研究者などの専門職、 そして一般市民(特に活動家やブロガー)にまで及ぶであろう。また、罰則は今後さらに強化・厳罰化されて、 最高刑は最終的には死刑にまでエスカレートすることが当然予想される。 そして、秘密保全期間に何らの制限も課していないため、官僚・政治エリートにとって都合の悪い真実は永遠に秘密とされて、 後世の人々による検証も事実上不可能になる可能性がきわめて高いといえよう。

  この法案の立案者たちの最大の狙い・目的は、言論統制・思想弾圧(国家権力による国民の監視・抑圧を強化・拡大すること)、 および米国主導の侵略戦争・予防戦争への加担(自衛隊が米軍の補完部隊として海外での違法な武力行使に参加すること)にある。 この法案が成立すれば、日本が重要な情報を一方的に米国に提供させられて主権を完全に喪失するばかりでなく、 国民の知る権利や言論・表現の自由などの基本的人権は否定されて国民主権を含む民主主義は死滅することになるだろう。 それはまさしく悪夢のような全体主義的なファシズム国家の登場であり、かつて日本が経験した戦前と同じような暗黒時代の到来を意味する。

  その兆候は、マスメディアの自粛・自主規制、市民運動の締め付けと弱体化、 自立した個人への集団同調圧力の強化というかたちとなってすでにあらわれている (一部のブロガーたちは自らのサイトの閉鎖をいまや自主的に行おうとしているのだ!)。 このように、いまの日本は、1930年代の戦争とファシズムの時代状況と類似した深刻な危機に直面していると言っても過言ではない。 それでは、どのようにすれば、日本がこのままファシズム国家に変貌するのを防ぐことができるのであろうか。 言論・表現の自由を圧殺する危険な秘密保全法案を小手先の修正を行うのではなく、何としてでも廃案にしなければならない。 いまこそ私たち市民一人ひとりの覚悟と決意が問われているのである。

    2013年11月20日
    秘密保護法案の衆議院特別委員会での採択を直前に控えて

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※下記にご紹介する本は、もうすぐ耕文社から出版される予定の、前田 朗先生(東京造形大学)と私の共編著 『21世紀のグローバル・ファシズム〜侵略戦争と暗黒社会を許さないために〜』 は、そうした問題意識を共有する執筆者たちによって書かれた作品である。

☆木村 朗・前田 朗共編著
  『21世紀のグローバル・ファシズム
〜侵略戦争と暗黒社会を許さないために〜』
(耕文社、2013年11月末刊行予定)



  まえがき
  敗戦からすでに65年以上が過ぎ、近年では戦後民主主義や平和憲法を否定的にとらえ、 東京裁判史観を自虐史観として一方的に糾弾・排斥する論調や歴史認識が蔓延しています。 そればかりでなく、2001年の9・11事件以降の世界は急速に戦争ムード一色となり、 冷戦に代わってテロとの戦いが立ち上げられるなかで深刻な人権侵害と言論弾圧が生じています。 そして、新自由主義・新保守主義を2本柱とするグローバル化を背景に、世界的な規模で戦争国家、警察国家、監視社会、 格差社会(新しい身分・階級社会)への道が開かれようとしています。 いまや時代は急速に右旋回しており、私たちは戦後最大の岐路に立たされていると言っても過言ではありません。

  とりわけ1999年以降の日本は、戦後民主主義・平和主義が急速に崩壊して権力(国家)と資本(企業)が暴走し始めています。 「改革」 「安全」 をキーワードにして国家主義・軍国主義と市場万能主義・拝金主義という濁流があふれ出し、 その勢いが一気に加速化されようとしている状況にあります。 危機的な混沌状況のなかで、民衆が権力・メディアの煽動と情報操作に乗せられて弱者や体制批判者を徹底的に痛めつけ、 異論を許さないような集団同調主義、「物言えば唇寒し」 という風潮がますます強まり、1930年代と酷似した戦時翼賛体制の出現、 「戦争とファシズムの時代」 の到来が囁かれています。 すなわち 「すでにファシズムがやってきている」(斎藤貴男 『安心のファシズム』 岩波新書 2004年)のであり、 民主主義からファシズムへの移行過程における 「不可逆点」(N・プーランツァス 『ファシズムと独裁』 批評社  1983年)が再び論じられるような危機の時代を迎えているのです。

  最近の政治社会状況に目を転じるならば、昨年(2012年) 12月に再登場した安倍晋三首相は、現行憲法九条(戦争放棄、 戦力不保持の平和主義)を破棄し、国防軍の保持や国家緊急権の導入を意図し、 公の秩序の名の下に基本的人権を否定する前近代主義的かつ超国家主義的な 「自主憲法」 を制定しようとしています。 96条改正や集団的自衛権の政府解釈変更のための内閣法制局人事は、その突破口として位置づけられています。

  尖閣諸島問題での中国との緊張、慰安婦(戦時性奴隷)問題など歴史認識をめぐる韓国との対立など、日本と周辺諸国との関係も急速に悪化しています。 また、日本国内でも新大久保などを中心としたヘイト・スピーチや、選挙時における日の丸の乱舞などに見られるように、 集団同調主義が強まり偏狭なナショナリズムが蔓延しています。 こうした傾向に拍車をかけているのが、権力の番犬に成り下がって民衆を扇動する大手マスコミの存在です。

  そして、こうした状況を日本にもたらしたのは、1990年代以降、とりわけ3・11 (東日本大震災・福島原発事故) 以後の政府・国会の機能不全(あるいは政党・政治家、官僚の無責任・無能力)と司法の劣化(特に検察の暴走)です。 それと同時に、政治・社会問題(特に他者・弱者)にずっと無知・無関心で有り続けてきた私たち多くの国民のあり方も問題であったと言わざるを得ません。

  安倍政権は、防衛費を増額して自衛隊を強化し米軍との一体化をさらに深化・拡大しようとしています。 そればかりでなく、秘密だらけのTPP交渉へ正式に参加し消費税を予定通り増税するとともに、 原発再稼働と海外輸出という日本社会を崩壊させる方向へと大きく舵を切ろうとしています。 このままでは、日本は経済的に破綻するだけでなく、主権を完全に喪失しかねません。 また、集団的自衛権の政府解釈変更によって明文改憲を待たずして、 海外での米国が主導する先制攻撃戦略に基づく違法な侵略戦争に自衛隊が加担する日もそう遠くないはずです。 国民の知る権利や言論の自由を制限する警察国家・監視社会をもたらすような流れも加速しています。

  米海兵隊オスプレイの沖縄への強行配備と日本全土での危険な低空飛行訓練のなし崩し的実施、 あるいはTPP参加以前の日本郵政への外資(米国保険会社アフラック)参画、秘密保全法案制定の動きはそのことを如実に物語っています。

  このような新自由主義・新保守主義(新国家主義)的な動きを容認・放置するならば、 多くの国民が貧困と抑圧に苦しむことになる新しいファシズムの到来を招くばかりでなく、再び戦争の災厄が日本とアジアにもたらされることは明らかです。 私たちは、再び戦前と同じような戦争とファシズムへの道を歩むのか、それとも平和で民主的な開かれた社会をめざすのか、 という歴史の決定的な岐路に立たされているといっても過言ではありません。 まさにいまの日本は未曾有の国家的危機のただ中にあり、真の民主主義国家なのか、独立主権国家なのかという根本問題が問われているのです。

  作家の辺見庸さんは、最近のインタビュー(『神奈川新聞』 2013年9月8日)の中で 「今が戦時という表現は僕は必要だと思う」 と述べ、 〈ファシズムとはいかなる精髄も単独の本質さえない〉というイタリアの作家、ウンベルト・エーコの言葉を引きながら、 「日本のファシズムは、必ずしも外部権力によって強制されたものじゃなく、内発的に求めていくこに非常に顕著な特徴がある。 職場の日々の仕事がスムーズに進み、どこからもクレームがかからない。みんなで静かに。自分の方からね。 別に政府や行政から圧力がかかるわけじゃないのに。メディア自身がそうなっている」 という注目すべき指摘をしています。

  それでは、民主主義からファシズムへの移行・転換、 すなわち 「グローバル・ファシズム」(世界的規模での戦争国家・警察国家化)の到来を私たちはどのように捉えて向き合えばいいのでしょうか。 もとより今日の危機の性格や本質を正確に捉えることは非常に困難です。 敢えて言うならば、それは何よりも平和と民主主義にとっての深刻な政治的かつ軍事的危機であると同時に、 その背景には現代資本主義の存続を脅かす構造的矛盾の表れである経済的危機があり、 さらにより根源的には人間の精神と存在価値を揺さぶる道徳的退廃(「モラル・ハザード(倫理崩壊)」) という文化的危機とも繋がる複合的危機の様相を呈していることだけは間違いがないと思われます。

  また、同様な問題意識から 「今日における世界と日本の危機は、トータルな意味での人間の破滅の可能性をはらんでいる。 核戦争の危機(緊急の危機)が避けられたとしても、人間がじわじわと崩される危機(長期の危機)が進行している。 今日の危機の最大の問題点は、このような危機を 『危機』(クライシス=岐路)として受け止め、これを克服すべき主体が、 変革主体として自らを形成しえないところにあると考えられる」(石川捷治・安部博純編 『危機の政治学−ファシズム論と政治過程』 昭和堂 1985年、 の石川捷治氏によるあとがき」 より)という重要な問題提起が戦後40年の時点で、すでになされていたことが注目されます。 まさに今日の日本と世界は、1929年の世界大恐慌後の世界、 すなわち戦争とファシズムの時代であった1930年代の世界と同じような危機の時代に直面しつつあると言えます。

  そうした危機を本格化させないために、いまこそ何をすべきで、何をすべきでないのかを本当に真剣に考えなければならない時だと思います。 こうした内外の深刻な時代状況の中で、市民・平和運動の側が大きな正念場を迎えているばかりでなく、 平和学とメディアの存在意義も根本から問われているのではないでしょうか。

  そこで本書では、戦後日本の歩みとはいったい何だったのか、 今日の危機的状況をもたらすにいたった原因はどこにあるのかという問題認識を根底に置いて、 私たちはどのような時代に生きているのかを改めて問い返すとともに、またいま何をなすべきなのかという危機克服に向けた方策・課題を模索したいと思います。

  なお、本書では 「グルーバル・ファシズム」 という言葉を用いますが、社会科学的概念として提唱する趣旨ではありません。 ファシズム研究史に新しい要素を加えようというものでもありません。ナチス・ドイツ、イタリア・ファシズム、日本軍国主義がそれぞれの動因、 形成過程を経て展開し、どのように崩壊していったかについては、すでに豊富な研究の蓄積があります。 その後の歴史的経過を含めて、さまざまな時点で、ファシズムの再来が危惧され、ファシズムとの類比が語られてきました。 その類比が正しかったのか正しくなかったのかの議論もあり得ますが、本書はそうした議論に加わるものでもありません。 本書が用いる 「グルーバル・ファシズム」 は、あくまでも現在の日本と世界の現象を分析するための手掛かりとしての道具概念であり、 この切り口で見た時に世界がどう見えるかという枠組み設定であることを最初にお断りしておきます。

  本書は、二人の編者による序章と終章を両端に入れるかたちで、第1部 ファシズム到来の前兆、第2部 戦争とテロの時代、 第3部 民衆の抵抗と平和・人権論の三部構成を取っています。 日本と米国だけでなく、隣国の韓国や欧州諸国、中東・イスラム諸国などを含む世界的規模の視点で、 それぞれの国内情勢と対外関係の実情と歴史を考察・検証しようするものです。 本書の 「グローバル・ファシズム」 という視点および内容・分析がどれほど有効であるかは読者の手に委ねるほかありません。

  また、執筆者は、現状に対する危機意識をある程度は共有しているとはいえ、危機認識の具体的な内容や、 その理論的位置づけは必ずしも同じではありません。 執筆者の知的背景も政治的立場もさまざまであり、用いるキーカテゴリーも相互に異なり、場合によっては矛盾する場合もあるかもしれません。 私たちは、いまこそ開かれた議論が必要であると考え、本書を世に送り出すことにしました。読者からの忌憚無いご批判をお待ちしています。

2013年9月18日―満州事変(柳条湖事件)勃発から82周年を迎えて
共同編者 木村 朗  
前田 朗