2011.1.24

内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」

弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール

ある在日三代の家族史
――李貞順「樹を植えに行った話」を読む――


  李貞順 様
  在日女性文学誌 「地に舟をこげ」 第4回受賞作 「樹を植えに行った話」 感銘深く読ませていただきました。
  仙台弁護士会で映画 「ニュールンベルグ裁判」 (1961年米、スタンリー・クレイマー監督)を上映することになり、 その解説役を頼まれて仙台に行く車中で読み始めました。一気に読了という訳にはゆきませんでした。途中、つかえつかえ中断しながらです。 それは、澤地久枝さんの選評にあった、「樹を植えに行った話」 の構成云々ということが理由であったからではありません。 「樹を植えに行った話」 に書かれている内容が私を踏み留まらせて、様々なこと、つまり日本社会の持つ在日の歴史に対する無関心、 差別ということを考えざるを得なくしたからです。

  「樹を植えに行った話」 は私の認識のリトマス試験紙でもありました。1988年秋から1989年のあの下血騒ぎから、 日本社会が天皇裕仁賛美一色になって行く中で、私は驚き、狼狽し、そして日本が世界に向って毎日恥をさらしているようで耐えられない思いをしていました。
  しかし、昭和の終る直前に亡くなられた貴女の父上が生前、通院していた歯科医にもらされていたという 「あの人がいない日本で息がしたい。」 という一言、 これほどには天皇制によって蹂躙された朝鮮人の苦しみについて理解してはいなかったことを自覚させられました。

  朝鮮半島の分断についても同様です。
    父の死後一年もせずにベルリンの壁が壊された。家族の誰もが真っ先に、「お父さんが生きていたらよかった」 と言いあった。 母は仏壇の父の写真に 「今日はあなたが喜ぶニュースがありますよ」 と言って父に報告したという。
の記述を読んだとき、私が感じたことは父上は、なかなか世界情勢にも関心を持っておられる立派な方なんだなという程度のものでした。 したがって 「樹を植えに行った話」 が前記記述に続けて、
   70年代の中頃ソウルの事務所へ行った父が行方不明になったことがあった。金浦空港に着いてから足取りが消えてしまった父の身を案じて、 従兄弟たちが八方手を尽くして探した結果、南山のさる場所に拘束されていることがわかった。 従兄弟の強力なコネとかなりの金額を積んで、父は四日後に釈放された。
   父の拘束理由は北を援助したことであった。まず父は総連を通してトラック3台を北に送った事実があった。母にも初耳であるという。 第二は夫と私が北から来た科学技術者団の通訳として、日本のある大手製鋼会社へ同行したこと。 第三は総連の路線に反対して組織を離れた幹部を父の会社が雇ったこと。 父は三つの事実をすんなりと認め、「自分の国が良くなるためだったら、南であれ北であれ、何でもしてやりたい。 あの場にあなたたちが現われて南にもトラックを送ってやれと言ったら同じことをしましたよ」 と言ったそうである。

と書いておられるのを読んで、母上が仏壇の父上の写真に 「今日はあなたの喜ぶニュースがありますよ」 と報告されたことの意味がようやく分かった次第です。

  東西ドイツを分断していたベルリンの壁の崩壊を、朝鮮半島の分断の問題とすぐに結びつけて考えることのできない自分に愕然とさせられました。 その理由は朝鮮半島の分断と植民地支配の関係についての理解が欠如していたからだと思います。

  最近も似たような或る経験をしました。それは靖国合祀取消裁判――原告はいずれも韓国人で彼らの夫や父が、遺族の同意もないまま勝手に、 しかも創氏改名のままで護国(日本)の英霊として祀られていることの取消を求める裁判で、日本の首相らが靖国~社に参拝することの是非を問う、 いわゆる政教分離裁判と異なり、真正面から植民地支配を問う裁判――で、徐勝立命館大学教授の証言をしてもらうため、 同教授と打ち合せをした際のことです。
  この裁判では、原告ら韓国人がその夫や父を靖国神社に祀られていることが何故耐えられない苦痛であるかということをどのようにして裁判所に分らせるか、 つまり原告らの夫、父らの死と靖国神社がどのような関係にあるかということを裁判所に分からせるかということが決定的に重要であるわけです。
  当然、植民地支配下、原告らの夫や父を日本の侵略戦争に狩り出し、 そして死なせてしまったことについて靖国神社の果した役割を明らかにすることが必要となります。 徐勝教授との打ち合せ中に韓国の憲法前文に 「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統及び、 不義に抗拒した四・一九民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して……」 とあることを知りました。
  1919年3月1日、ソウルでなされた植民地支配に抗する 「三・一独立運動」 が韓国の建国の礎であり、 相も変わらず植民地支配を肯定する靖国神社の体する歴史観は、これに真っ向から敵対することになるのです。 私は、韓国の憲法前文の前記箇所を全く知りませんでした。同僚弁護士もです。 ですから法廷でこのことを指摘した際に、裁判官も傍聴人も誰もこのことを知らないことにこそ、 私たち日本人が植民地支配という過去を清算せずに済ましてきていることを、雄弁に物語っているということを訴えました。

  選挙権についてもです。
   夫は1988年に、私は1993年のそれぞれアメリカの市民権を得ている。であるから私たちは州知事を、大統領を選ぶ選挙に参加している。 近代国家の国民にとって当然なこの権利を行使したときの感激は大きかった。 初めての投票に行く息子に夫は 「おじいさんたちは死ぬまで一度も投票したことがなかった。お父さんだって40を過ぎて初めてした。 お前は18歳からだ。いい国に生まれたな。」 と言った。このようなわけでわが家の選挙への関心は強く、しかも極めて個人史的である。
という記述も今だに在日韓国・朝鮮人に国政はもちろんのこと、地方政治にも選挙権を認めていない日本の異常さを映し出すものでした。

  現政権党である民主党も、定住外国人に地方参政権は認めることを主張していたはずなのに、この有様です。 そしてご夫婦が遂に日本に戻るということを断念し、韓国籍も放棄し、米国国籍を取得した経緯として以下のように記述されている箇所です。
   30代の半ばでトランク二個を持ってアメリカにやって来た時、私たちは自分たちがここで何年を過ごすことになるか予測することもできなかった。 日本で研究活動ができる機会は何度かありそうであったが、実現されるに至らなかった。最後の機会は夫も大変乗り気であった。 日本を代表する製鋼所が新素材開発室を新たに設置した折、その責任者として東工大のこの分野で指導的な教授が夫を強く推薦した。 夫にほぼ決まった時、会社の経営陣から横槍が入った。70年代に北からの金属関係の科学者団体がその製鋼所を訪問した際、 夫と私が通訳として同行した過去の事実が問題になったそうである。北よりである人物を責任あるポストに就けることはできかねると、 その教授に説明したそうである。私たちの行動が KCIAに マークされていたことは父から聞いていたが、 日本においても問題になるとは夢にも思っていなかった。私たちはこれを契機に今まで決めかねていたアメリカ国籍への帰化手続を始めた。 日本に帰る機会はもうない。アメリカで生きてゆくしか他に道はないのだと。迷う選択肢はないのだとはっきりと悟ったと言うべきか。 日本への愛憎こもごもの感情を心の底に封印して、アメリカで生きていこうと決意せざるをえなかった。

  「いい国に生まれたな」 と米国生まれの息子さんに語ったときの漢龍さんの気持をもう一度思い起こすことになりました。 情けない、申し訳ない気持で一杯です。
  漢龍さん、貞順さんそれぞれの母上は、日本での生活で大変な御苦労をされました。特に貞順さんの母上は、日本の敗戦後、 父上と共に2歳の貞順さんを連れて一旦韓国に戻られたが、その後父上が再度日本に渡った後、 母・子二人だけで小さな漁船にて日本に 「密航」 して再入国を果したいきさつ――漁船が途中で動かなくなり、当初の目的地である九州には到達できず、 対馬を経て九州に渡って来た――など、日本の官憲の目をくらますために大変な思いをされた話などは、 よくぞ乗り切ってこられたものだと驚嘆するばかりでした。

  漢龍さんの母上も10代の半ばに韓国から豊橋の織物工場へ働きに来、同時代の在日の婦人と同様、大変な苦労をされたとのことでした。 しかし、以下のような記述に出会うとき、
   オモニが私たちと一緒に暮らした一年間は息子の初めての一年と重なるので、記憶に残ることが多い。 息子が初めて寝返りができた、初めて立った、初めて歩いたと言って私たちが喜び合った時、 その団欒の中には皺が深く刻まれたオモニの笑い顔がいつもあった。一九三〇年頃、十六歳だったオモニには朝鮮から豊橋の紡績工場に出稼ぎに来て、 それ以来日本に住み続けていた。同郷のアボジと結婚して七人の子供をもうけたが、二人は生後すぐ亡くなった。 解放後総連の末端組織に入り、専従活動家になったアボジは家庭を顧みなかったので、オモニは紡績工場で働きながら、 休みにはリヤカーを引いて古鉄や古新聞買いをして五人の子供を育てた。オモニの手の指は太くて丸く第一関節から先が内側に曲っていて、 小さな熊手のような手であった。オモニはアメリカに来る前に近所の人に 「アメリカで大学の先生をしている長男のところへ行く」 のだと触れまわったそうである。 そのことを笑う夫に、「私にだって一つや二つ自慢話があってもいいではないか」 といたずらっぽく言ったオモニの得意げな表情は少女のように明るかった。
そして貞順さんの母上についても、
   発病した翌年の秋に夫と私は母連れて、母の兄弟が六人も住んでいる馬山へ行った。 (帰途・筆者注)大阪に向う飛行機が大海原の上空に来た頃、母は私の手の上に自分の手を重ねて 「あの海を豆粒みたいな舟で渡ったね、 あの時は私も若くて、あんたも小さかった」。それからしばらく私の手の甲をなでてから 「ありがとう、今度も」 と言って目を閉じた。 何度この海を母と渡ったことだろう。今度が最後だと母も知っていた。私は母の万感の思いを込めた言葉に、ただ溢れる涙で応えていた。
という記述に出会うとき、お二人とも穏やかな晩年を過ごされて本当によかったですねと思いました。

  最後に、
   私たちは運河が見える高台のホテルから閘門のある運河に出かけた。運河に沿って進んで来た大型の黒っぽい船体が閘門に入ってきた。 船が完全に入ると後方の分厚い門が閉じられ、閘門内の両側から放水される水で水位はみるみる上ってきた。 それにつれて底に沈んでいるようだった船体が徐々に浮き上がってきた。船には大極旗がなびいていた。韓国の船だったのだ。 船員たちが甲板にたむろして景色をみていた。長い航海中でも閘門を通過する機会は稀であろう。 彼らは欄干にもたれて、手を振る陸地の人間に嬉しそうに手を振ってくれた。そのうち彼らは両手をあげて 「マンセ」 と叫んでいる私たちを認めた。 彼らは私たちが良く見える方に群がってきて勢いよく手を振って応えてくれた。閘門内の水位が川上へと進みだした。 泣きながら千切れんばかりに両腕を振っている私たちに向って、彼ら全員が姿勢を正して右手を右の目のあたりにあてて、敬礼のポーズをとった。 そして船は私たちの視界から消えて行った。……

  日本国家に思い入れがない(と思っている)私も、読んでいて涙腺が緩んでくる感動的な場面でした。そしてそれに続けて、
   数多くの船舶が往来するこの閘門で、私たちがいる短い時間に隣国の船が通るという奇遇は非常に低い確率である。 私たちはまずこの偶然に感謝した。そしてアメリカに繁栄をもたらした五大湖に韓国の船が進出しているという事実に感無量になった。 朴大統領の暗殺、戒厳令、学生デモ、大学封鎖、金大中の逮捕、それから光州の虐殺と、 韓国からの便りは何一つとして明るいものはなく暗澹たることばかりであった。 あの船は、それでも 「韓国は生きているよ、明日に備えて世界を回っているんだ」 と私たちに告げているようだった。 私たちはあの船に韓国の未来を見たのかも知れない。だから私たちの涙腺は緩み、声を張り上げてマンセを叫んで彼らに声援を送ったのだろう。 そしてアメリカの奥地で出会った同胞の声援と感激に、彼らは最敬礼のポーズで応えてくれたのだった。
と書いておられるのも分かるような気がします。

  この在日三代の家族史、決して漢龍・貞順さんのご一族特有なものでなく、多くの在日の方々に共通する物語であろうと思います。
  徳永弁護士の植民地支配を肯定する妄言に怒って書かれた前回頂いた韓国・朝鮮の歴史に関する御論稿に大いに感銘を受け、 多くの友人知人に読んでいただきましたが、今回の 「樹を植えに行った話」 は、前稿以上に多くの人々、 とりわけ、わが時習舘時代――私の場合は、残念ながら漢龍さんと違ってとても黄金時代と呼ぶことの出来ない暗い高校生活でしたが ――の友人達には読ませたいと思います。

  それで 「地に舟をこげ」 の発売元となっている社会評論社に20冊程注文し、各方面に配布しました。 <読み終わり感銘を受けたら、あなたが最も読ませたいと思う方に転送して下さい>という但し書きをつけて。
  多くの人が読んでくれたら嬉しいですね。それにしても漢龍さんの思い、高校時代に誰か1人くらい理解している同級生がいたのでしょうか。