2011.5.20

内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」

弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール

真摯な動機によるやむにやまれぬ行動
――日の丸・君が代懲戒処分に東京高裁で逆転勝訴――

2011年3月10日

  正直言ってそれは 「不意打ち」 だった。当事者の一人、臼井教諭は一瞬、うろたえ、事態を理解してから次第に様々な思いがこみ上げて来、 涙が流れてきたと後に述懐した。

  3月10日午後2時50分、東京高裁第822号法廷、東京高裁第2民事部大橋寛明裁判長が 「原判決を次のとおり変更する。 (1) 東京都教育委員会が控訴人らに対し、平成16年4月6日付けでした各戒告処分をいずれも取消す。……」 と判決言渡しをしたときのことだ。

  2004年3月19日の卒業式、当時、東京都福生市立福生第三中学校に勤務の島崎滋教諭は君が代斉唱の際に起立しなかったとして、戒告処分を受けた。 同じく八王子市立川口小学校に勤務の臼井裕子教諭は君が代斉唱に際してピアノ伴奏を拒否(但し、君が代のCDは流す)したとして、 東京都教育委員会より戒告処分を受けた。島崎、臼井教諭らは同じく斉唱指導を拒否して戒告処分の受けたもう1人の教諭とともに、 この戒告処分が憲法第19条が保障する思想信条の自由に反するものであること等を理由として、東京都人事委員会に不服申立をしたが、 これが認められなかったため、裁判所に戒告処分の取消を求めて提訴した(島崎、臼井以外のもう1名は家庭の事情等により提訴は断念)。

  2009年2月19日、東京地裁民事第36部(渡邊弘裁判長)は、君が代斉唱の際の起立を命じた、 あるいはピアノ伴奏を命じた校長の職務命令は適法なものであり、これに従わなかったことを理由とする本件戒告処分も適法であるとして、 島崎、臼井教諭の訴えを認めなかった。 これに対して前記高裁判決は、戒告処分は東京都教委の有する処分権の裁量の範囲を逸脱したものとして取消を命じた。

  冒頭、「不意打ち」 だったと述べたのは、「日の丸・君が代」裁判は人事委員会の審理も含め連戦、連敗が続いていたからだ。 とりわけ、教諭らには国旗に向って起立し、君が代を斉唱する義務、 ピアノ伴奏する義務はないことを確認した2006年9月21日東京地裁民事第36部(難波裁判長)判決が、2011年1月28日東京高裁で破棄され、 教諭らが敗訴させられていたことから、最早この種の裁判には期待を持つことができないでいた。

  もっとも、高裁の審理が一般的に急がれる中で――極端な場合は1回で結審、次回判決――本件裁判は2009年3月3日の控訴以来、判決まで約2年、 校長に対する改めての証人尋問等も含め口頭弁論回数も9回と多く、裁判所が慎重な審理をしていた事実はあった。

  判決は、君が代斉唱に際して起立を命じ、あるいはピアノの伴奏を命じることは憲法第19条が保障する思想及び良心の自由を侵害するものではないが、 島崎、臼井教諭らの不起立、伴奏拒否によって卒業式に混乱などの不利益が発生していない本件において戒告処分とするのは重すぎ、 懲戒権の裁量の範囲を逸脱した違法なものとしてその取消を命じた。 この判決には、本件戒告処分が憲法19条が保障する思想及び良心の自由に反するという島崎、 臼井教諭らの思いを正面から受け止めたものではないという恨みがないわけではない。
  しかし他方では、島崎、臼井教諭らがこの問題をめぐって処分が続出している状況の中で、あえてこのような行動に出たことについて、同判決は、
  「控訴人らの本件不起立又は本件ピアノ伴奏拒否は、自己の個人的利益や快楽の実現を目的としたものでも、 職務怠慢や注意義務違反によるものでもなく、破廉恥行為や犯罪行為でもなく、 生徒に対し正しい教育を行いたいなどという前記のとおりの内容の歴史観ないし世界観又は信条及びこれに由来する社会生活上の信念等に基づく真摯な動機によるものであり、 少なくとも控訴人らにとっては、やむにやまれぬ行動であったということができる。」
と理解を示し、そして「日の丸・君が代」に対する歴史観についても、
  「歴史的な理由から、現在でも 『日の丸』 及び 『君が代』 について、控訴人らと同様の歴史観ないし世界観又は信条を有する者は、 国民の中に少なからず存在しているとみられ、控訴人らの歴史観等が、独善的なものであるとはいえない。 また、それらとのかかわりにおいて、国歌斉唱に際して起立する行動に抵抗を覚える者もいると考えられ、控訴人らも、1個人としてならば、 起立を義務づけられることはないというべきであるから、控訴人らが起立する義務はないと考えたことにも、無理からぬところがある。」
と述べた。さらに、憲法学者や弁護士会の見解にも言及し、
  「憲法学を始めとする学説、日本弁護士会連合会、東京弁護士会、第二東京弁護士会等の法律家団体においては、理由づけは様々であるが、 結論として起立斉唱・ピアノ伴奏の強制は憲法19条等に違反するというのが通説的見解であり、 控訴人らの起立・ピアノ伴奏を強制されることはなく不起立行為等が違法とされることはないという考えは、必ずしも独自の見解ということはできない。」
と述べた。また、島崎、臼井教諭の行為が卒業式に与えた影響についても、
  「控訴人らは、卒業式等を混乱させる意図を有しておらず、結果としても、 控訴人らの本件不起立・本件ピアノ伴奏拒否によって卒業式等が混乱したという事実は主張立証されていないから、なかったものと考えられる。 もっとも、控訴人島崎が起立しなかったことにより卒業式の参加者の中には不快感を感じたものがいると考えられるが、 そのことにより卒業式の円滑な進行が阻害されたとはいえないし、生徒の保護者や来賓の中に起立しない者がいても、それは容認せざるを得ないところ、 その場合に生ずる不快感と大差はない。」
と具体的に検証し、本件戒告処分については、
  「通常の1回的な非違行為に対する懲戒処分と異なり、卒業式、入学式等の儀式的行事における君が代斉唱時の不起立等を理由とするものは、 毎年必ず少なくとも2回は懲戒処分の機会が訪れることになり、控訴人らにとっては、不起立等はやむにやまれぬ行動であったということができるから、 これを繰り返すことも考えられるため、始めは戒告という最も軽い処分であるとしても、短期間のうちに処分が累積し、 より重い懲戒処分がされる結果につながることになることが当然に予想される。 しかし、上記事情にかんがみると、そのような結果を招くほどに重大な非違行為というのは、相当でない。」
と述べた。

  判決は、国旗・国歌法制定当時における政府の答弁にも触れ、
  「国旗・国歌法の制定過程において、政府が国会においてした答弁には、『政府としては、今回の法制化に当たり、 国旗の掲揚等に関し義務づけを行うことは考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならないと考えている』 (平成11年6月29日衆議院本会議における小渕恵三内閣総理大臣の答弁)、『それぞれ、人によって、式典等において、起立する自由もあれば、 また、起立しない自由もあろうと思うし、また、斉唱する自由もあれば、斉唱しない自由もあろうかと思うわけで、 この法制化はそれを画一的にしようというわけではない』 (同年7月21日国会内閣委員会文教委員会連合審査会における野中広務官房長官の答弁)、 『本法案は、国旗、国歌の根拠について、慣習であるものを成文法として明確に位置づけるものであり、 これによって、国旗・国歌の指導にかかわる教員の職務上の責務について変更を加えるものではない』 (同年8月2日参議院国旗及び国歌に関する特別委員会における有馬朗人文部大臣の答弁)などがあった。 これは公立学校の教職員が卒業式等において国歌斉唱時に国旗に向かって起立することを義務づけない趣旨を述べたものではないと解されるが、 その一部を取り出してみると、控訴人らが起立・ピアノ伴奏を義務づけられることはなく、不起立・伴奏拒否が違法とされることはないと考えたことに、 それなりの根拠を与えたことは否定できない。」
と述べた。

  「君が代」 のピアノ伴奏拒否に対する戒告処分を合憲、適法とする最高裁判例の存在という制約の中で、 この問題をめぐって――最高裁判例のケースは伴奏拒否に慌てて校長がCDを流すまでの若干の混乱があったが、 今般の臼井教諭のケースは伴奏拒否をすると同時に事前に準備したCDを自ら流したため混乱が生じなかったと認定した――何とか、 島崎、臼井教諭らに対する戒告処分を取消させてやろうという裁判所の気持ちを垣間見る気がする。 判決理由中にある 「やむにやまれぬ行動」 という語句だが、島崎、臼井教諭らは裁判の中で直接このような表現での主張はしていない。 両教諭の行為に対する裁判所からのエールではないだろうか。

  私たちは本件審理の中で、関係当事者の証言はもちろんのこと学者による鑑定意見書を提出した。 しかし、どんなに立派な鑑定意見書を提出してみても、裁判所がそれに真摯に向き合う姿勢がなければそれらは全く無意味なものとなる。 裁判所に島崎、臼井教諭らの 「やむにやまれぬ」 気持ちを受止める感性があるかどうかである。 その意味では、一審の渡邊裁判長は審理の時間ばかりを気にしており、 私の尋問時間が当初の予定より若干延びた際に机の上で鉛筆を転がすなどイラ立ちを隠さないこともあったが、 高裁の大橋裁判長は 「大事な問題ですからあまり急がずにやりましょう。」 と述べるなど、慎重な審理をした。 私は判決理由の中の島崎、臼井教諭らの本件行為について 「真摯な動機による」 「やむにやまれぬ行動」 と記した部分を読みながら、 20年以上前、三里塚空港開港阻止闘争で逮捕・起訴、地裁で実刑判決を受けた10数名の若者たちを高裁で全員を執行猶予刑にした、 どちらかというと保守派とされていた裁判長の判決を聞いた(刑事では当然のことだが判決理由も読み上げる)ときのことを思い出した。 被告人たちはまじめな学生・勤労青年たちであって、私利私欲に基づいて反対運動をしたのではない。 政府の三里塚(成田)空港計画にも問題点があった等々の理由で、実刑判決を破棄して執行猶予刑としたのである。

  本件高裁での審理の第8回、私たちは最終準備書面を提出した上で、私は島崎、臼井両教諭及び相代理人遠藤憲一弁護士に続いて、 さらに以下のような意見を述べた。
  「本件審理を終えるにあたり、私が 「人権論」 を講義している大学での或る女子学生の日の丸・君が代」についてのレポートの一部を紹介したい。
  『小学校時代ピアノを習っていた私は、小学5年生のときに卒業式で君が代の伴奏をした。 当時の私は 「君が代」 とは日本の国歌であり入学式や卒業式などで歌う歌というイメージしか持っていなかったが、 「君が代」とは天皇が千年も万年も栄えますようにという意味が込められており、現在の国民主権下において、 「君が代」 を強制することは許されることではないということが大学生になった今、理解できた。
  小学生の頃、「君が代」 の伴奏の練習のため、ピアノの先生に教わっていた時、先生の自宅でレッスンを受けていたのだが、 先生に1時間も 「君が代」 を練習していると、近所の人に変に思われちゃうから30分くらいにしておこうと言われた。 当時はその言葉の意味もよく分らなかったが、やはり 「君が代」 という歌は慎重に扱わなければならないものであると感じる。 そして、学校という様々な人がいる中で君が代の強制、さらに国旗の強制はやはり内心の自由に反しているのではないかと感じる。 国民主権である現在、天皇主権のもとでの君が代を強制するのはやはり疑問に思う。なぜ強制する必要があるのだろうかと感じ、 一人一人の考えを認める社会を作り上げることはできないのだろうかと考える。この話を教師をしている母にしたところ、 やはり教師はほとんど強制されていると話していた。生徒は強制という以前に、 「君が代」 も含めて、卒業式や入学式では歌うことが当り前であると思っているのではないだろうか。 「君が代」 は音楽の時間に練習することもなく、また歌詞の意味もよく分らないまま歌うという印象であった。
  生徒は 「君が代」 斉唱に関して何も疑問を持たず当り前に歌い、 教師に対しては 「君が代」 を強制するということは内心の自由は一体何の意味を持つのだろうか。 様々な考えを持つ人たちが集まり、社会が作られている。一人一人の考えが異なるということは当然のことではないだろうか。 自分の考えをきちんと表現することのできる社会を作っていかなければならない。
  ワールドカップも、メディアを通して選手たちへの応援の発言の中に、日の丸を背負って是非頑張ってほしいという発言をとても多く耳にした。 しかし、選手たちは日の丸を背負っているから頑張るのだろうか、私たちは選手たちが日の丸を背負っているから応援しているのだろうか。 選手たちは、自分たちの努力の成果を日本代表として披露し、頑張っているのではないだろうか。 決して日の丸のために頑張っているわけではないと思う。応援する私たちも選手たちが日の丸を背負っているからではなく、 選手一人一人の努力やパフォーマンスに対して拍手し、応援しているのである。
  私たちは多種多様な社会で生きているということを自覚し、様々な意見を持った一人一人が尊重しあい、互いに認め合っていくことが重要ではないだろうか。 「君が代」 の斉唱も国旗の掲揚も強制するものではなく、お互いの態度を尊重し合うことが必要である。 学校現場において皆がひとつにまとまるという枠にとらわれた考えのもと、君が代、日の丸の強制をして、外見的にはまとまりがあるように見えても、 内面的には決してまとまりがあるようには見えないだろう。
  金子みすずの詩にあるように、<皆なちがってみんないい>という社会は一体いつになったら作られるのだろうか。 皆と違うということは決して間違いではない。
  今を生きる国民一人一人が、現在の社会環境や問題を見直し、一人一人の意見が尊重され、 そして自分の考えをきちんと発表できる本来の強制されない社会を、作り上げていくことが、明るい未来の第一歩なのではないかと私は思う。』
  心理学科に学ぶ20歳、大学3年生のレポートの一部である。思想及び良心の自由とは何かを本質的に把えている発言だと思う。
  <教えることは学ぶこと>というが、こういう若者のレポートに出会うとそのことを実感する。
  裁判所もこの審理の中で学ばれたはずである。前記女子学生にも分かるような判決がなされることを期待する。」

  判決後、日弁連憲法委員会のメンバーに以下のようなメールを打った。
  「本3月10日、公立学校の卒業式における君が代斉唱の際に、不起立およびピアノ伴奏拒否(但し、CDは流す)を理由とする戒告処分取消裁判で、 東京高裁第2民事部(大橋寛明裁判長)は、
  『被控訴人東京都に広い裁量権があることを前提としても、……不起立行為等を理由として控訴人らに懲戒処分を科すことは、社会観念上著しく妥当を欠き、 重きに失するというべきであり、懲戒権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用するものというのが相当である。 そうすると、本件各処分はいずれも不適法なものであるから、これを取り消すべきである。』
  として、処分を適法としていた原判決を変更し、都教育委員会による戒告処分は、処分権者としての裁量権の範囲を逸脱しているとして、 処分を取消す判決をしました。
  日の丸・君が代処分をめぐる厳しい状況の中で、このような判決を書く裁判官もいます。まだまだ<望みなきにあらず>です。」
  多くのメンバーから同感の旨の返信があった。二つほど紹介して本稿の締めとしたい。

  奈良の佐藤です。最高裁判決をはねのけてのすばらしい判決。予防訴訟の東京地裁難波判決以来ですね。 弁護団のご奮闘に心からの敬意を表明します。最高裁の闘いがさらに大変でしょうが、運動を大きく、 日弁連としても思想信条の自由・教育の自由の侵害の問題をもっともっと重視する必要があると思います。

  広島の井上です。東京高裁第2民事部裁判長が大橋寛明とのことですが、彼は私と京大の同級生で26期です。 同じサークルで受験勉強もしたことがあり、大変リベラルな思想の持ち主でした。最高裁の調査官もしていました。 懐かしい名前を見て、彼の顔を思い浮かべて返信しました。

  裁判もまた人の営みである。この日、午後3時に同部で同種事案(控訴人167人)について同趣旨の判決がなされた。同慶の至りである。

  井上君からの返信メールを見て、「ヒマラヤ杉に降る雪」 という映画を思い出した。戦時中の日系人強制収容問題を背景にし、 殺人事件で日系人が起訴され、最終的に無罪判決がなされるという話だ。原作 『殺人容疑』 (早川文庫)に、評議のため陪審員室に入る陪審員らに対し、 裁判長が以下のような説示をする場面が描かれている。

  舞台はアメリカの北部で冬、外は吹雪。裁判長が吹雪に触れて、「これは刑事裁判なので、おわかりですね。あなた方の評決は、有罪であれ無罪であれ、 全員一致でなければなりません。急ぐ必要もありませんし、審議をしている間、われわれを待たせていると感じる必要もありません。 当法廷は、この裁判であなた方が尽力されたことに対し、前もって感謝します。停電したため、あなた方はアミティー港ホテルで辛い夜を過ごされた。 自宅の様子や家族と愛するものの安否を気遣いながらこの裁判に注意を集中するのは、あなた方にとって容易なことではなかったでしょう。 吹雪は、われわれの力の及ばぬものですが、この裁判の結果は、そうではありません。この裁判の結果は、いまや、あなた方次第なのです。 あなた方は陪審員室に席を移し、審議を始めて結構です」。