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【NPJ通信・連載記事】色即是空・徒然草/村野謙吉

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鈴木大拙と西欧知識人との深層関係 (上)

2024年8月1日

「あらゆる時代の日本人のなかで、知的または精神的に、日本国の外の世界にもっとも広く、 もっとも深い影響をあたえたのは、鈴木大拙である。   ( 加藤周一『日本文学史序説下』)

(晩年の鈴木大拙)
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 2015年は第二次世界大戦終結から70周年である。
 しかし、それ以前の過去70年間、世界中が平和であったわけではない。
 東アジア全体が平和であったわけでもない。

 1950年に始まった朝鮮戦争は1953年に休戦となったが、南北朝鮮は現在も戦争の可能性を孕んだ休戦中であることを日本人は忘れてはならない。

 さらに忘れてならないことは、朝鮮戦争に伴い、在日アメリカ軍から日本に発注された、いわゆる朝鮮特需である。

 これが戦後の高度経済成長の基となって、神武景気、岩戸景気、オリンピック景気、列島改造論などの右肩上がりの好景気の始まりとなった。

 独自の技術立国を自慢しがちな日本であるが、この時期に実はアメリカから多くの技術を取り入れていたことも忘れてはならない。

 1962年から1975年はヴェトナム戦争であり、 1976年 からはカンボジアでポル・ポトによる大虐殺があった。

 2015年の日本の新年は、中東に活動する自称 ISIL なる組織によって拉致された2名の日本人の殺害事件に始まり、イスラム教が現代の世界政治の場面に顕在してきて現在にいたる。

 本年2024年、有史以来未曾有のAI世界が地球上の政治・経済活動のみならず、国民生活の隅々まで浸透し、グローバリズムのイデオロギーが各国の歴史と伝統を浸透し、軍産複合体は常時、戦闘を予想しているかのように武器生産に余念がない。
 現在、地球上の各地が内戦状況になりかねないような、予測のつかない歴史の状況が生じている。

 2024年は、絶対的一神教の歴史観 (1) にもとづく直線的デジタルの時間観を反映している西暦年であるが、天皇の生涯を反映する、各時代の雰囲気がアナログ的に感じられる日本の元号では令和六年である。

 筆者は、善悪の評価を措いて、昭和までの伝統的な歴史的価値観に愛着を持つ者であるから、2024年まで生きてきたというより、戦中時の昭和から平成・令和の今日まで3代を生きてきたと納得して、ささやかな自分の人生を歴史的に回顧している。

 そして筆者以前に、明治・大正・昭和の3代を、しかも当時の西欧の著名な知識人と交流し、東洋の「自由」を説いて生き抜いた一人の著名な人物を、今、懐かしく想い出している。

 その人物は鈴木大拙 (1870-1966)である。

* * *

 鈴木大拙は一世紀近い長寿 (96 歳) を享けたから、彼の生きた同時代人には、明治、大正、昭和を彩る多彩な人物像が重なっている。

 彼の二十歳代には、勝海舟、徳川慶喜、福沢諭吉、伊藤博文、内村鑑三、新渡戸稲造、 岡倉天心、 夏目漱石らがいた。彼らはすべて、伝統的日本の価値観に挑戦してくる西欧文明の侵出をひしひしと感じていた。

 初めの4人は基本的に外面的政治的世界に関わった人物たちであるが、後の4名は近代西欧文明に直面して、日本人としての生き方を精神的な面から見つめた人物たちである。

 彼らはそれぞれに渡航して欧米の文明を直接体験し、思想と文化の観点から西欧の侵出によって顕在化されてきた日本と日本人の存在意義の問題に直面した。

 内村鑑三と新渡戸稲造は、ともに札幌農学校に学び、函館に駐在していたメソジスト系宣教師から洗礼を受けてクリスチャンとなった。

 その後内村は1884年に私費で渡米したが、拝金主義と人種差別の流布していたキリスト教国の現実を知って幻滅、4年後に帰国してアメリカのキリスト教と一線を画した日本独自の無教会主義を唱えた。

 彼が愛したのは「二つのJ」すなわちJapan とJesusであった。

 彼は「How I Became a Christian (『余は如何にして基督信徒となりし乎』)」と、
「Representative Men of Japan (『代表的日本人』1894)」を発表した。

 新渡戸は1884年、「太平洋の架け橋」になりたいと渡米、伝統的なキリスト教信仰に懐疑的となり、やがてキリスト友会 (クウェーカー) の正式会員となった。1891年、妻メアリー・エルキントンを伴って帰国。

 その後、国際連盟事務次長になるなど海外での活躍は周知のことである。
 彼は英文の著述「Bushido: The Soul of Japan (武士道;1899)」を書いた。

 内村も新渡戸もクリスチャンとなったが、こころの底には、それぞれが理解する独自の日本人観を維持していた。

* * *

 岡倉天心は、米人フェノロサの影響のもとに東洋の美的文化価値と日本文化における道教の意義に目覚め、「The Awakening of the East (東洋の目覚め; 1902)」 、「The Ideals of the East (アジアの理想; 1903)」、「The Awakening of Japan (日本の目覚め; 1904)」、「The Book of
Tea (茶の本; 1906)」などの英文著作を発表して、 国内外で注目されたことは周知のとおりである。

 天心はアジア人としての日本人であることにわが身をおいて精神的に自足していたようだ。
 ちなみに、フェノロサは日本文化に安住して仏教徒となり、彼の墓は大津市の法明院にある。

 以上の三人と比較して、夏目漱石はどうか。
 漱石は、1900年、文部省より英語教育研究のため英国留学を命じられ渡英。
 「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ・・・」など、おそらく当時の先進文明としての西欧と比較された日本の現状に様々な思いを抱きつつ「猛烈の神経衰弱」に陥り、漱石は急遽帰国を命じられ、1903年1月横浜港に到着した。

 漱石はキリスト教への関心を深めることはなかった。
 しかし近代西欧の生活をロンドンで体験して西欧世界のハードとソフトの巨大な資産に大きな衝撃を受けたことは確かである。

 彼の小説『心』は明治天皇の御大喪と乃木将軍の殉死を中心として、西欧文明が東アジアに怒涛のように侵出してきた時代の奔流の中で、明治がだんだんと遠くなっていく時代に直面した悩める知識人の心象風景のようだ。

 漱石は鎌倉の円覚寺に参禅したり、『心』には、仏教書を読む一方、時にかたわらの聖書を読んでいた悩める浄土真宗の青年が登場したりしているが、漱石自身は仏教にも深く立ち入らなかった。

 西欧文明に衝撃をうけた漱石であったが、晩年の心境は「則天去私」であったといわれる。
 伝統的な漢学的教養の価値と仏教の無我とを折衷したようなところに、自身の安心をえたようである。

* * *

 では鈴木大拙の場合は、どうか?  先の4名の人物と大分に趣が違う。

 鈴木大拙、本名、鈴木貞太郎は明治3年(1870)年、金沢市に四男一女の末子として生をうけた。
 6歳の時、医者であった父と死別し、20歳で母と死別したから、彼の耐乏生活は幼少期からはじまった。

 明治初期の石川県の乏しい教育機会のなかで漢文を熱心に習得し、しかも限られた教育環境のなかで英語学習にも努力した。

 しかし彼は岡倉天心、内村鑑三、新渡戸稲造らと違って、生来的に「自己の究明」に関心があったから、20歳から禅に関心をもちはじめて富山県の禅寺で参禅をはじめる。

 東西文明の異質性ーー宗教的に限定すれはユダヤ・キリスト教と縁起・空の仏教ーーについて余人をもっては不可能な洞察を行なった鈴木大拙の思考の深層を理解するために、以下多少詳しく彼の生涯を記述してみたい。(2)

・21歳 : 明治24年 (1891) 、上京して東京専門学校(今の早稲田大学)に学ぶが、
 正式に卒業したわけではない。彼自身の説明では、石川県での初等、中等教育以外、
 正式に終了した学校はないという。
 この年7月から、鎌倉円覚寺の今北洪川老師について参禅を初める。
・23歳 : 明治26年 (1893) 、3月遷化した洪川老師の跡を継いだ釈宗演老師が
 シカゴの万国博覧会における世界宗教会議に出席するにあたって、その原稿を英訳、
 それを夏目漱石に添削してもらう。
・24歳 : 明治27年 (1894)、8月、日清戦争開戦。
・25歳 : 明治28年 (1895) 、参禅して見性を得、宗演老師から大拙の居士号を与えられる。
 この年4月、下関で講和条約締結。
・27歳 : 明治30年 (1897) 3月、釈宗演の推薦により、中国文献などを出版している
 ポール・ケーラス(イリノイ州) のもとで働くために、イギリス船エス・エス・
 ゲーリック号で渡米。以後11年滞米。
 その間、極東においては、明治37年 (1904)2月から明治38年(1905)にかけて日露戦争が
 あり、日露両国は米大統領ルーズベルトの勧告をいれて9月ポーツマスで講和条約を締結。
・38歳 : 明治41年 (1908) 、米国を離れてイギリス、フランス、ドイツを訪ねる。
・39歳 : 明治42年 (1909) 4月、スエズ運河を経て12年ぶりに帰国。この年の10月26日、
 ロシアの特別列車でハルビンに到着した伊藤博文が朝鮮の独立運動家・安重根によって
 射殺される。
・40歳 : 明治43年 (1910) 4月、学習院教授となる。
・41歳 : 明治44年 (1911) 12月、来日した米国外交官の長女・ビアトリス・レーンと
 横浜の米国領事館にて結婚。

(ビアトリス・レーン・スズキと鈴木大拙; Collection of D.T.Suzuki Museum)

 

 「二人の出会いは大拙のヴェーダンダ協会での講演会だった。当時大拙はアメリカの心理哲学者ウィリアム・ジェームズの思想に深い関心を抱いていたが、女子大卒のベアトリスはジェームズの講義を受けていたこともあり、共通の話題を通して知り合った。」(3)

・51歳 : 大正10年 (1921) 、西田幾多郎のすすめにより、真宗大谷大学教授となる。
・64歳 : 昭和9年 (1934) 4月、朝鮮・満州・中国を旅行。
・66歳 : 昭和11年 (1936) 6月、ロンドン開催の世界信仰大会に姉崎正治、賀川豊彦と
 参加のため日枝丸でアメリカ経由で訪英。ロンドン大学で講演。
 9月、大拙はイギリスからドイツに行き、リューデスハイムでビアトリス夫人の
 従姉妹等に会い、当地の「素朴な人々の口からきいたドイツ人の宗教感情や、
 ナチス運動に引かれている様子を詳しくしるした手紙」を円覚寺管長・朝比奈宗源に送る。
 フランクフルトやベルリン等を訪問後、再びイギリスへ。
 10月、11月、ケンブリッジ大学、エジンバラ大学、オックスフォード大学等で日本の
 仏教文化について講演。
 オックスフォード大学では座禅会を開く。その後、サザンプトンよりブレーメン号にて
 アメリカへゆき、コロンビア大学、ハーヴァード大学、シカゴ大学、カリフォルニア大学、
 シカゴ美術館、ボストン日米協会、ロスアンゼルス西本願寺等で講演。サンフランシスコ
 から日本へ帰国。
・69歳 : 昭和14年 (1936) 7月16日、ビアトリス夫人、東京築地の聖路加病院にて逝去、61歳。
・75歳 : 昭和20年 (1945) 6月7日、大拙の心友とも言うべき西田幾多郎、逝去、75歳。
・78歳 : 昭和23年 (1948) 12月23日、東條英機ら7名の処刑。12月24日、岸信介、児玉誉士夫、
 笹川良平ら釈放。
・79歳 : 昭和24年(1949) ~ 94歳 (昭和39年 ;1964) まで、毎年のように欧米諸国に
 長期滞在し、またメキシコ、インド等をも訪問し、講義と講演活動を行う。
・94歳 : 昭和39年 (1964) 7月、ハワイ大学における第4回東西哲学者会議に出席。
・96歳 : 昭和41年 (1966) 7月11日、東京・聖路加病院にて逝去。戒名「也風流庵大拙居士」。
 遺骨は、鎌倉東慶寺墓地、金沢市の鈴木家墓地、高野山奥の院墓地に三分されて埋葬。

* * *

 上記の概略年譜で紹介したとうり、大拙は明治30年 (1897) 、27歳で渡米し単身11年余滞在し、その後さらに1年間を欧州で過ごした後も、精力的に欧米その他の諸外国を訪問した。

 そこで欧米人の人情の機微に通じ、当時の著名な西欧の知識人らと交流したから、西欧のユダヤ・キリスト教的宗教と技術文明について相対化した観察と思索を十二分になすことができた。

 彼は禅の仏道をとうして文明的価値観を超えた「自己の究明」という普遍的智慧の獲得に努めていたから、単身欧米の文明に囲まれていても日本に生まれた自己に対する静かな自信を失うことはなかった。

 彼は西欧思想の観念的思想体系やその論理的言語表現に魅了されたが、精神的現象さえも物象化するさまざまな西欧的イデオロギー的思考に泥むこともなかった。

 さらに、現在の世界を支配している、エリート主義にもとづく西欧知識人の世界支配的思考、そして「西欧知識人たちの思想傾向と彼ら知識人たちの個人的生活」の乖離に気がついていたようだ。

 “知識人たちの個人的生活” とは、現在まで受け継がれている欧米エリート層(大学教授を中心とした知識層と政財界のエリートたちの複合体)の特異な性的行動に関わることである。(4)

 確かに、大拙は明治維新以来今日まで、欧米の知識人たちと交際した、いかなる日本人とも比較にならないほどの多様で著名な知識人たちと交際していた。

 文芸評論家・加藤周一(1919 – 2008;専門は内科学・血液学の医学博士)が評価したように、「あらゆる時代の日本人のなかで、知的または精神的に、日本国の外の世界にもっとも広く、もっとも深い影響をあたえた」のは鈴木大拙であった。

(2024/07/18)
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参考文献:
(1)「神(ゴッド)が歴史を支配する思想(God is in control of history」; J.B. Phillips: The Revelation of John; The New Testament in Modern English)
(2)『鈴木大拙ー人と思想』(久松眞一・山口益・古田紹欽編、岩波書店、1971)等を参考。
(3)「松岡正剛の千夜千冊」1808・2022年8月26日:『近代仏教スタディーズ』(大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編・法蔵館 2016)。
(4) DISSIDENT VOICE: Jeffrey Epstein and the Spectacle of Secrecy; by Edward Curtin /
August 15th, 2019.

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