【NPJ通信・連載記事】一水四見/村野謙吉
近代西欧知の巨大な虚無の世界、 そして和国・日本の小さな「まこと」の美意識
ここ数年間、世界中でさまざまな異様な大事件が連鎖反応のように頻発している。
数年前にコロナ禍が全世界で流行し各国の経済生活に深刻な影響を与え、人々の心身にも深い不安を植え 付けたが、現在、地域的にはイスラエルとパレスチナ(ガザ)、ウクライナとロシア、そしてイラクを挟んでイスラエルとイランが戦闘を継続している。
そしてアングロサクソン流自由文明のアメリカ合衆国と中華人民共和国の間では、壮大な文明観の相違に基づく対立が複雑の度を高めている。
さらに深刻なことは、最近のアメリカ映画「CIVIL WAR (内戦)」で描かれているように、世界の政治と経 済を主導している移民国家アメリカ合衆国の統治機構の内部が崩壊しているかのような状況である。
* * *
しかし、複雑怪奇な大事件が世界で展開している最中に、今なぜか、私は以前にラジオ放送で紹介された ささやかな逸話を思い出している。
大体こんな内容の話だ。
妻を亡くした四十歳がらみの男性が、残された二人の子供達をある保育園に通わせた。男性はそこに勤務していた二十五歳の保母さんと面識を得、二人は互いに好意を抱くようになり、ついに結婚を決意する。ところが保母さんの両親は大反対である。
しかし娘は両親に切々と訴えた、
「この男性は、二人の子供のためを思って、もっと多くの時間を子供たちと持つために、 一流会社を辞めて、給料はずっと少ないが比較的時間の持てる現在の仕事に転職したのです。お父さんが、その男性だとしたら、子供のためにその男性のような決断をすることができますか?」
やがて娘は両親とは別居して件の男性と結婚した。ある日、その男性との間に生まれた 一子をつれて娘は 両親と再会する。そこで両親は娘の生き方に理解を示し、いまでは孫の成長を喜んでいる、という話である。
とてつもなく悲惨な事件が現在世界で起こっている最中、こんな話はとるに足らないことかも知れない。
しかし、ささやかな親子間の問題に配慮して小さな家族の幸せを求める人々を真伨に守ることを怠ってきたのが、これまでの世界各国の政治家と官僚だったのではないか。
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では、世界各国の政治家と官僚に影響を与えてきた世界的な支配的勢力とは何か。
非西欧世界を植民地化してきた西欧文明の様々な価値観を装う「観念」である。
ヨーロッパ史の18世紀は理性の時代といわれ、それから派生する様々な観念が現代社会に引き継がれて きているが、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーを生んだ観念論哲学の本家・ドイツはナチズムという国家社会主義の観念を生み、マルクスは唯物史観という観念を構想した。
歴史的現象の一切は「縁起」(「モノとコト」の生成的連動)であるから、ドイツ・ナチズムの悲劇は他 のヨーロパの主要国にも責任があるのだが、ヨーロッパ史は、あたかも“必要な価値観としての悲劇”が組み込まれていて、悲劇の後の逸楽と感動に親和性を感じる体質になっているのではないか。
悲劇の最たるものは戦争であるが、「なぜ、欧州では継続的に戦争が起こるのか」(1)
様々な観念を生み出し、それを社会に適応・普及させる特に近代西欧の知識人といわれる人々は、本当に人々のささやかな家庭生活の幸福と世界の平和を願っているのだろうか?
彼らは真理の探究をしているのであって、生活苦の改善をしているのではない、というかもしれない。 彼らは、様々な観念を弄び、情念の深いところで世界の悲劇を期待しているのでないのか?
最低の衣食住の満足さえ得られない多数の人々がいる 一方、特に18世紀以来、衣食住に深刻な心配のない 西欧の大学知識人には、「生の退屈」の問題を深刻に扱う哲学者がいた。ハイデッガーであるが、さらに 彼の「退屈 :(独) die Langeweile; (英) the boredom」の考察を研究する哲学者も多くいるからハイデッガーの思考の影響力は多大なものがあるのだろう。(2)
近代の西欧知識人は生活感のない頭脳で、世界解釈をし、世界設計の本を出版し、歴史の終末を唱え、優生 学を考案し、人間観を設計し、「ひと」として為してはならない基本的戒めを蔑ろにして自由と 平等のイデオロギーを観念するが、基本的に現世主義の唯物的観念ではないのか。
カントやヘーゲルの時代以降、世界的に知識人とは大学教員が大多数を占め、特に人文科学系の大学教員 は各国の司法と教育を支配しているから、そのような知の流れを批判し是正するのは大変なことである。
世間に流布する知の偏向と偽善とを事実にもとづいて批判するのがジャーナリズムであるはずだが、 ジャー ナリストたちも大方は大学教育の絶大な影響の下に生み出されているから、彼らによる知識人批 判は不徹底になりがちで、特にマスコミに仕え時事問題を論じるジャーナリストらが彼ら自身を徹底批判することは非常に困難なことだろう。
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生物としての人間の生理的に避けがたい根本的生命欲は、個の生存を維持する食欲と種の存続を維持する 性欲に根差しているが、人間の文化的・社会的な欲望は親鸞が端的に指摘するように、名・利・人師、つまり名声欲・所有欲・支配欲である。
しかし、これらを否定すれば、人間の一切の文明的・文化的営みが停止してしまうから、これは正邪・善悪の問題ではない。
近代以降、様々な悲劇の観念を創り、それを克服することに人間性の進歩を感じ、やがてまたさらなる悲 劇の刺激を求めてゆく要素の強い西欧文明を受け継ぐ知識人とは、実は巨大な虚無の観念世界を彷徨っている現世主義に生きる人々のことではないのか。
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しかし和国・日本には、大きな悲劇を前提にしない、小さきもの、さりげない生活の中の 「もの・こと」 に 「ま・こと(真実)」と「そら・こと(虚偽)」を洞察して生きることに充足する特殊な文化がある。 そこで「まことの外に俳諧なし」を唱えた上嶋鬼貫 (うえじま・おにつら;1661- 1739) の一句を紹介。
つくづくとおもふ
我レむかし踏みつぶしたる蝸牛哉
句の前に「つくづくとおもふ」という俳句では通常置いてはいけない作者の所感のような言葉がある。だからこの句は二句で成り立っている珍しい句作である。
「わたしは、昔あるとき蝸牛を踏みつぶしたことがあったなあ」が表層の意味。
「むかし」とあるから、作者の「おもふ・いま」との対比で、この句には時間の経過がある。 「カタツムリ」ではなく「カギュウ」と読むから(素足か、おそらく草鞋で)踏み潰した時の、音感と肉感があるのかもしれない。
では「我」を「我レ」と表記しているのは、なぜか。
「我レむかし」を 「割れむ・かし」(「む」は推量の助動詞、「かし」は助詞で、みずから強く確認する 気持ちを表す)と読めば、「きっと割れて(死んで)しまうだろう」と確認しつつ蝸牛を踏みつぶしてしまったなあ」が深層の意味だろう。
ここには鬼貫に、無抵抗のなんの罪もない小さな蝸牛といういのちに対する“意味のない”殺意があったのだ。
殺意とは、人間一般が共有している自分以外の生命の殺害意識であるが、そんなことをしてしまう 「わたし」である。しかし同時に、そんなささいなことを “つくづくとおもふ”「わたし」でもある。
仏教の無常「観」は同時に生理的に実感される無常「感」でもあるが、それは、死を内包した「いのち」 を感ずる時に感得されるべきものであり、これが日本的 「まこと」の美意識につながるものである、と私は考えている。
日本の美意識とは、理論的善悪の観念を超えた「もの」の「あはれ」にもとづく体感的道義のことである。
無常の感は、拷間を受けたり戦場などで命がけの体験したから生まれるということではない。
それは知識人らの観念的知の賢(さかし)らを超えた愚の自覚でもあり、しかも具体的なささやかないの ちの観察から生み出されるものだろう。
一椀の茶に人生を感じ、カタツムリを踏み潰す「わたし」の殺意を “つくづくとおもふ”日本文化の「あは れ」の美意識には、ひたすら量的拡大を求める、郷土愛から遊離したグローバリスト的観念的世界観はない。
人生における退屈の感覚も巨大な悲劇を求める意識もない。
無常なる我々のいのちの世界についてのつぶやきを、もう一人の俳人に聞いてみた。
露の世は露の世ながらさりながら 小林一茶 (1763 -1827) (3)
(2025年7月1日・記)
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(1)【NPJ通信・連載記事】2023年2月2日.
(2) Cristian Ciocan, University of Bucharest: Heidegger and the Problem of Boredom;
January 2010.Journal of the British Society for Phenomenology.
(3) 鬼貫の俳句は、あまりに日本語の特殊性が勝ちすぎて国際的に読者をもつ要素はほとんどなく、英訳不能だろう。日本人に生まれて、一人で楽しむことで満足しなければならないが、彼の後の俳人たちのなんらかの文学的影響を与えているはずである。
この一茶の句にはいくつかの英訳があるが、簡潔で余韻を残す以下の句を記憶している。
| The world of dew | |
| Is the world of dew. | |
| and, yet, | |
| and yet. (The Penguin Book of Japanese Verse) |
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