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【NPJ通信・連載記事】エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて/石井 清司

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再開第4回 中国東北(満州)荒野に捨てられた日本貧農民たち

2015年2月12日

日本の貧困者は、太平洋戦争中にも国と軍によってひどい目に遭っている。悲惨だったのは、貧困農民たちが政府と軍の、「豊かな土地が待っている」という大宣伝の口車(くちぐるま)に煽られて、バラ色の「新天国」という言葉の餌で中国東北部、満州、蒙古の荒野(中国農民の土地)へ、身一つで、村や町を捨て、海を渡らせられたことだ。宣伝文句では、そこは穂揺れるコーリャン畑、広大な緑で、家も与えられるという。遙か遠いそこへ行ってみると、その夢の新世界は、荒れた不毛の地か、先住の中国人や蒙古人(モンゴル人)の家族を強制的に追い出して全てを奪い取り、彼らを奴隷同然に牛馬のように酷使せよとの国と軍の命令だった。

国と軍をバックに日本人たちはその荒れた土地を必死で開墾して生きのびた。後悔してももう元には戻らない。宣伝の夢とはまるで逆の生活だった。

国と軍は国内向けに彼らを「満蒙開拓青少年義勇軍」と美化して煽り、次々と現地行きを募集した。満蒙の中国人たちは、日本人たちの力づくでの略奪を心から恨んだ。

日本貧民の満蒙開墾は太平洋戦争中の昭和18年(1943年)からだった。農耕作業を始めた満蒙開拓民の若年者たちを、軍は兵として現地招集し、ソ連との国境守備に送り込んだ。

黒竜江省の中心街はハルピン。黒竜江(アムール河)がとうとうと流れ、ロシア国境へ向け、酷寒の野をロシアのシベリア鉄道が走る。ソ連軍は国境をこえて怒濤のように中国東北(満州)へなだれ込み、日本若年兵たちは、けわしい小興安嶺の峯々の奥へ、身を隠して移動していった。

1945年8月半ば、日本軍は降伏し、現地の若年兵たちは、他の日本兵たちとソ連と満州の国境で次々と捕らえられ、ソ連軍により凍土のシベリアの荒野へ連行抑留された。国と軍のウソの誇大宣伝は、日本の貧民、若年者たちの一生をこのように潰した。

政府は日本を中心とした漢族、満州人、朝鮮人、蒙古(モンゴル)人などアジアの五つの民族を共に栄えさせていくという、子供だましの想像の共栄圏を夢見た。

日本人が4つの民族をひきいて「五族協和」なるものをとなえた。そしてアジアを「王道楽土」にしてみせる、と豪語した。その結果がソ連軍による日本貧民たちの捕虜化だった。

満州国へ開拓団として送り込まれた日本人貧農たちは、中国人たちの土地を奪ったため、現地中国農民たちの抵抗は激しかった。日本の敗国を機に、開拓団は難民となり放浪の旅が始まった。その数は160万人、その3分の1が死んだといわれる。開拓団は100以上あり、相当の自決者が出た。開拓団員は、ソ連により酷寒のシベリアへ連行抑留された。

日本兵を含め、ソ連へ抑留された者は60万人ともいい、うち6万人が死んだという。

逃げまどう開拓団の多くの老人、女、子供たちがソ連軍に殺されたという。現地の日本関東軍の多くは、ソ連参戦の直前にそれを知り、開拓民を置き去りにして、朝鮮半島方面へ逃げた。

日本政府と軍は、この満州植民地へ計300万人を移住させるつもりだったという。この悲惨を引きずって、多くの人たちが人生を終えていった。

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