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明日の自由を守るために
集団的自衛権の実例 ~うわ、結局戦争じゃん~ 3

寄稿:明日の自由を守る若手弁護士の会

2014年5月14日

国立国会図書館が5年前にまとめた、集団的自衛権行使の過去の実例集「集団的自衛権の法的性質とその発達―国際法上の議論―」(http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer2009.html)。集団的自衛権の行使、というものが、結局どういうことなのか実態をみていこう!というシリーズの第3弾(ラスト)です。

こうして見ていくと、集団的自衛権の行使が実に「戦争そのもの」であること、改めて分かりますね。

安倍政権はしきりに限定的な行使だ、とか、必要最小限度だ、とか説明して国民を納得させようとしていますが、その武力行使が限定的かどうか(必要最小限度)なんて、結局分かりっこないのです。一度戦争を始めてしまったら、もう戦うしかないのですから、政権側にしてみれば、終わった後に「必要最小限度でした」と言ってしまえばいい、というだけの話です。

だーれも待ち望んでいない解釈改憲。今年の憲法記念日が、国民全員にとって、集団的自衛権行使というものの実態を知るきっかけになりますように。そして憲法が定められていることの意味、憲法を勝手に政権が読み替えるということ(解釈改憲)の不条理を知るきっかけになりますように。

8 リビア/チャド(1981年)、フランス/チャド(1983年、1986年)
1981年12月、チャドのグクーニ政権の要請に基づき、リビアが軍事介入した。リビアは、自国の介入はチャド政府の要請と1980年6月に締結されたチャド・リビア友好同盟条約に基づくもの(集団的自衛権の行使)であり、リビア軍のチャド駐留はあくまでも一時的なものであることを強調した。そして1981年11月、リビアはチャド政府の要請に従って撤退した。(グクーニはその後失脚、リビアへ亡命。)

1983年6月には、リビアの支援を受けたグクーニが反撃を開始したため、内戦が再び激化した。そこでチャドのハブレ政権は、フランス軍の介入を要請した。フランスは、1976年の軍事協力協定に基づくものとして自国の行動の正当性(集団的自衛権の行使)を主張した。1984年9月、フランスとリビアは、チャドからの同時完全撤退に合意したが、最終的にリビアは撤退しなかった。

1986年2月、チャドでは再び内戦が激化し、政府軍が仏空軍の支援を受けてグクーニ派反政府軍の攻撃に反撃する事件も起きた。この時もハブレ政権は、国連憲章第51条に基づいてフランスに軍事介入を求めていた。フランスは、国連安保理において、軍事介入はチャド政府の要請に基づき、国連憲章第51条に従った行動であると説明した。

9 イラクによるクウェート侵攻(1990年)
米国、西欧諸国、アラブ諸国は、クウェート及びサウジアラビア政府の要請を受け、個別的及び集団的自衛権を行使し、決議第661号に違反する船舶の通航を阻止すると安保理に報告した。

10 ロシア/タジキスタン(1993年)
1993年8月,ロシア・カザフスタン・キルギスタン及びウズベキスタンは、アフガニスタンの支援を受けた反政府勢力の攻撃をロシア国境警備隊とタジキスタンに対する侵略とみなし、CIS集団安全保障条約と国連憲章第51条に基づいて集団的自衛権を行使し、タジキスタンに軍事援助を含む緊急支援を行ったと国連安保理に報告した。

11 米国/アフガニスタン(2001年)
米国は、国連安保理に対し、9月11日に自国に対して武力攻撃が行われたことから、他国と共に個別的又は集団的自衛権を行使したと説明した。

http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer2009.html

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